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新撰組について

1 名前:歴史大好き 投稿日:2010/07/29(Thu) 22:00
新撰組について話しましょう

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/20(Sun) 15:25

戊辰戦争:宇都宮城の戦い
近藤勇が新政府軍に投降した後、土方歳三は助命嘆願の傍ら、新撰組を三番隊組長の斉藤一に任せて、会津藩へ向かわせた。
数名の隊士たちと共に旧幕府軍に合流して、新政府軍の陣置がある宇都宮城へ向かったんだ。
この戦いで宇都宮城は陥落し、旧幕軍は勝利したけど、壬生での戦いで土方歳三は足を負傷して、療養と斉藤一との合流のために会津へ向かったんだ。


戊辰戦争:会津戦争
 会津での新撰組の活躍は斉藤一が大いに活躍した。
まず、会津の防衛の最前線白河口の戦い。
会津藩家老西郷頼母が総督の下、斉藤一が活躍して白河城を取り戻すが、新政府軍の奇襲攻撃にあって敗れてしまった。
8月、3ヶ月の療養を得た土方歳三は母成峠の戦いで最前線に出たが、またしても敗れてしまったんだ。
3ヶ月の療養生活の間に土方歳三は近藤勇の死を知るが、若松城攻防戦の前に会津の少年兵・白虎隊との交流を交わしたみたいなんだ。
土方歳三は白虎隊の少年たちにとっては憧れの存在だったからだ。
新政府軍が若松城下に迫る間近、土方歳三は援軍を求めに仙台へ向かったんだ。
一方斉藤一は一部の隊士と共に如来堂で戦い、会津藩が降伏した後に捕虜となって、会津藩士の移住先の斗南藩で会津藩大目付の娘と結婚したんだ。


榎本武揚との合流
土方歳三は仙台へ向かったが、援軍が送れないこととなってしまった。
旧幕府海軍の副総裁の榎本武揚と合流して、奥羽越列藩同盟の軍儀に参加したが、9月に奥羽越列藩同盟が崩壊すると10月、残りの隊士と抵抗を続ける旧幕府軍と共に大江丸に乗船して蝦夷地へと渡ったんだ。


戊辰戦争:五稜郭の戦い
 蝦夷地へ上陸して幕府が北方の防衛拠点として作られた五稜郭を占領したんだ。
土方歳三は残った数名の新撰組隊士や額兵隊を率いて、松前城を陥落させた。
榎本武揚は開陽丸で土方歳三の援護に向かったが、座礁して開陽丸は沈没したんだ。
12月榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国が成立して、土方歳三は陸軍奉行並という幹部になったんだ。
翌年の1869年の1月と2月には函館と五稜郭の見回りをするなど、戦いのない日々が続いたけど、新政府は蝦夷共和国を認めなかった。
3月に新政府軍が進軍して、土方歳三は新政府軍の甲鉄艦の奪取を目的とする宮古湾海戦で戦ったが、作戦は失敗して新撰組隊士の野村利三郎が戦死した。
4月、新政府軍が蝦夷地への上陸を受け、土方歳三は300の兵を率いて、二股口の戦いで徹底抗戦した。
この戦いで土方軍は連戦連勝したが、松前口が破られて退路が絶たれる危険があったため、五稜郭へ撤退せざるを得なかった。
5月、新政府軍による五稜郭の総攻撃を受け、新撰組が守る弁天台場が包囲されて孤立し、土方歳三はわずかな軍を率いて一本木関門を守備したが、その最中に腹部を銃弾に撃たれて戦死した。
その数日後、榎本武揚は降伏して戊辰戦争での新撰組の戦いは終わったんだ。
 
戊辰戦争の後、生き残った新撰組隊士の多くが武士とは違う後半生を送ったが、戊辰戦争での恨みを晴らすかのように、西南戦争に従軍した元隊士もいたんだ。
また、京都や戊辰戦争での活躍ぶりなど、新撰組の記録を書きとめる人もいたんだ。
 

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/20(Sun) 15:30
鳥羽伏見の戦い

 鳥羽伏見の戦いとは、大政奉還によって政権を天皇に返上した徳川慶喜が領地や官位まで返還を求められた為、旧幕府側が怒り鳥羽伏見にて兵を上げた出来事です。

 では、この鳥羽伏見の戦いについて少し詳しく見ていきましょう。

 大政奉還によって、政権は天皇に返上されたものの、いまだ幕府の力は絶大でありました。だって、この時点では、幕府は戦ってボロボロになったわけではなく、そうなる前に政権を返してしまったわけですからね。徳川家は日本一の地主で財産もまだまだあります。

 これじゃ、せっかく倒幕したのに意味がない・・・。

 そこで薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らは徳川慶喜の辞官納地(内大臣の辞職と領地の返納)を決定し、新政府から旧幕府の勢力を徹底的に排除する方針をとります。

 これらの決定に慶喜は従い、京都から大阪城に引き上げるのですが、腹の虫が治まらないのが旧幕臣や会津藩、桑名藩の人々。

 さらに、西郷隆盛は薩摩藩の藩士ら命じては、1867年10月ごろから江戸で放火や強盗を行うなどして旧幕府勢を挑発します。その挑発にのってしまった江戸警備にあたっていた庄内藩士らが12月25日に薩摩藩邸を焼き討ちにする事件を起すのですが、これをきっかけとして、ついに大阪城にいた旧幕府勢も京都に向かって兵を上げるのでした。1868年1月3日の出来事です。



 さて、この戦い。実は、薩摩藩と旧幕府側の勝手な私闘。つまり、本来、朝廷には関係がないんですね。しかし、岩倉具視が官軍の証である「錦の御旗」を制作するよう薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎に指示。

 幕府軍15000に対して、薩摩藩、長州藩ら新政府の軍は5000ほどで、当初は一進一退の攻防が繰り広げられていましたが、1月5日に錦の御旗が新政府軍に翻ると戦況は一気に新政府軍優勢に転じます。

 旧幕府軍としては、天皇の象徴に向かって弓を引くなんてできませんからね。指揮は下がるばかり・・・。また、どちらにつくか態度を曖昧にしていた諸藩も天皇の敵になることを恐れて新政府支持を次々に表明。天皇への忠誠を示すために新政府側に寝返る藩も続出となります。

 「こりゃダメだ」

 ってことで、慶喜は突如、大阪から江戸に戻ってしまい幕府軍は自滅するように大敗してしまうのでした。 

 

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/20(Sun) 15:41
鳥羽伏見の戦い


大政奉還後まもない1868年1月、山城国の鳥羽、伏見において、薩摩・長州の官軍軍勢と会津藩など東北諸藩や新選組など旧幕府の軍勢が交戦した出来事。鳥羽伏見の戦いを端緒として戊辰戦争が始まった。江戸幕府の終わりから明治新政府の樹立にいたる過渡期の事件といえる。
会津藩などや、新政府軍の薩摩・長州いずれにも「少年兵」がいた。

20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/20(Sun) 15:44
薩摩の少年兵、悲壮な思い遺書に 京博「鳥羽伏見の戦い」展

鳥羽伏見の戦いで実際に使われた陣がさや砲弾などが並ぶ展示会場(京都市東山区・京都国立博物館)
 大政奉還150年を記念して、特集展示「鳥羽伏見の戦い」が、京都市東山区の京都国立博物館で開かれている。薩摩藩の少年兵の遺書と遺品などがあり、歴史の転換点となった大きな戦いにおける個人の命の重さを伝えている。
 大政奉還後の1868年、朝廷から薩摩勢を排除しようと大阪から京都に向かう旧幕府軍(東軍)と、進行を阻止する薩摩藩(西軍)が鳥羽街道で衝突し、戊辰戦争の緒戦ともなった。戦闘の様子を描いた錦絵や、各藩の家紋を使った風刺画のほか、実際に使われた隊旗や砲弾など約30点を展示している。
 17歳で亡くなった薩摩兵の阿多孫二郎の遺書には、宛先として家族一人一人の名を連ねてある。淀城に攻め込む前夜に書いたとみられ、「今日、打手をおおせつかり、まことに有り難きしあわせ」「攻撃をしかける上は討ち死にと定まっております」「皆々様ひとえにご機嫌よろしき事」などと記している。阿多が使ったとされる陣がさも並ぶ。
 宮川禎一上席学芸員は「さんどの川(さんずの川)など書き間違いもあり、悲壮な思いが生々しく伝わってくる。多くの犠牲によって近代日本がつくられたことを忘れてはならない」と話している。
 9月3日まで。月曜休館。入館料が必要。
【 2017年08月20日 13時54分 】

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