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日本における飢饉の歴史

50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:48
天保の飢饉(てんぽうのだいききん1832〜39)は、連年の凶作の結果、全国にその影響が及ぶほど凄まじいものであった。しかも、飢饉は7年間の長きに渡って延々と続いたのであった。鶏犬猫鼠の類まで、すべて食べ尽くし後には人を食っているという噂が広がっていった。人々の心は荒廃を極め、盗人は見つけられ次第、かます(むしろの袋)に入れられて川に沈めて殺された。



 この飢饉では、疫病も猛威をふるいおびただしい死者を出した。青腫(あおばれ)と言われる栄養失調の状態では、疫病が襲うとひとたまりもなく、例えば、秋田藩では、傷寒(発熱性の腸チフス)が流行り達者な者までかかり、多くの人々が病死した。




 しかもピークが田植え時と重なったことから、田畑は耕作されないままに荒れ放題になっていった。



 この頃、津軽では、食べるものがなく松の皮ばかりを食べ、一家心中や集団自殺といった悲劇が相次いだ。さらに、留まって餓死するよりはと、数万人の農民が乞食、非人化して山越えして逃げ出したとある。


人々の行き倒れを描いた絵



「奥の細道」の作者松尾芭蕉は、東北地方のある村で飢饉による恐ろしい光景を目の当たりにしている。


 ・・・事態は悪化の一途を辿り、冬になり朝晩の気温が低下すると、着の身着のまま路上で次々と死に始めた。そのほとんどが、栄養失調と疲労による凍死だった。夜が明けてみると、路上で生活している何人かが死んでいるのである。行き倒れとなった死体には、たちまち、鳥が舞い降りてきてついばみ始めた。


 ひっそりと静まり返った空き家をのぞいて見ると、そこには、とうに飢え死にしてミイラ状になった家族が抱きあったまま、あるいは壁にもたれたままの姿勢で横たわっているのであった。空腹に堪えきれず、路上でみさかいなく物乞いしていたお年寄りは、一夜明けると、物乞いする姿勢のまま息を引き取っていた。



 腹を減らしてどう猛になった野犬は、腐りかけた死体の手足を食いちぎり、市中を食わえたまま走り回った。通りは死体と食いちぎられた手足が散乱し背筋も凍るような光景が広がっていた。親を失って泣き叫びながら町中をさまよう幼児は、たちまち野犬に襲われて食い殺された。



 死体は、 最初、空き地に穴を掘って埋めたり、川に流したりしていたが、一日に何百人も死ぬようになってから、とても追いつかず、大きな穴を掘ってどんどん投げ込まれるようになった。川に流された死体は、水底で渦高く層をなして川をせき止めた。そのために、大雨が降るとたちまち土手が浸水して、そこら中、汚水で溢れかえることになった。村は、半分水没し、半分屍螻化した死体が、民家の軒下にまで流れ込んでくることもあった。





 荒れ放題の田畑や朽ち果てた空き家などに、累々と散らばる白骨死体の山を見るとき、そこには、現実世界の無常観しか見えてこない。

 この時、深刻な事態であるはずの秋田藩や八戸藩(はちのへはん)などが、どれほど窮民救済に本気で取り組んでいたのかは極めて疑わしい。


 八戸藩などは、1万8千両もの金をもって越後に米を買い付けに行ったが、その帰りに米の相場が高いと知ると、その一部を売却して藩の財政を肥やすことのみ熱心であったのである。

 「人の命は地球より重い」という言葉があるが、「人の命はチリよりも軽い」というのが悲しい真実のようである。




荒野に散らばる餓死した遺体の群れ

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