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日本における飢饉の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/14(Fri) 19:28
日本の歴史は飢饉の歴史、日本人が食料を満促に食べれるようになったのは、つい40年前。
コメが余るようになったのは、戦後も20年以上過ぎた昭和46年でした。
それは農家と農業関係者のたゆまぬ努力の賜です。

「飽食の時代」と言われて久しくなった今、またTPPなどと言うのが騒がしくなった今、
日本における食料の歴史、飢饉の歴史をふりかえってみましょう。


51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:52

* 悲惨な過去を知ること *


 このような凄惨な飢餓地獄は、ほぼ50年ほどの周期で繰り返し起きて来たのである。農業技術が進歩した江戸後期になって、飢饉による犠牲者がこれほど増加した理由として、中世は、下層農民は、すべて大農経営に組み込まれていたために、何とか飢えを凌いでいたのに対して、小農が個別に自立した江戸時代では、飢饉ともなると、抵抗力の弱さをさらけ出してしまい被害がここまで苛烈になってしまったと考えられている。

 江戸時代が終わって、明治、昭和の時代になっても東北地方を中心に凶作が繰り返され、そのたびに飢饉は起き、人々に計り知れない不幸をもたらすのである。

 昭和9年の大冷害を発端とする凶作では、東北地方を中心に6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった。この年、3月に起きた函館の大火は、昭和に入って記録した大火災であり、5千人以上が死傷し、焼失した世帯2万2千という大惨事だった。この時、遊女として身を売って東京に来ていた25才のあさ子という女性は、この大火災で弟、妹の4人が焼け死んだと知るや、生きる望みを失って自殺したという。これも飢饉ゆえの隠された痛ましい悲劇の一こまに違いない。


 今日、我々は物が豊富にある中で生活をしている。しかし、いくら技術的物理的に進歩しようが、過去の人々の体験した苦労や悲惨な経験を踏まえなければ、今後の生きていく指標など見えてこない。飢饉のために、間引かれ、あるいは、野山に捨てられたり親に殺されたりした多くの幼児の霊は、今も常闇の空間をさまよっているに違いないのである。


 現実世界に生きる我々は、過去の人間の痛みや切実なる心を知ろうとする努力が必要である。その時こそ、自ずから謙虚さや物を大切にする気持ち、さらには、いたわりの精神の真の意味が理解されて来るのではないだろうか?

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/30(Fri) 00:29
昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生(満13〜14歳)がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。



因みに、今では考えられぬことだが、昔は人の人生はわずか12歳で決まってしまった。

「教育の機会均等」が保証が曲がりなりにも保証されるのは新憲法下の、昭和24年の「学制改革」を待たねばならなかった。

昔はどんなに優秀でも、勉強したくても貧しさゆえに「奉公」に出されたりした。

大学につながる中学校に行かせてもらえるものはごくごく一部の恵まれた家庭の子弟に過ぎなかったのだ。

昔、日本は農業国だった。

そして「小作制度」というのがあって、「農地改革」まで農地をかりる小作は地主の農地を耕すのだが、
多くは貧しく、農家なのに学校に弁当も持っていけない貧農の子はたくさんいたことだろう。

坪井栄の【二十四の瞳】には、小学校卒業を待たずに「奉公」に出される子供たちが描かれている。

高等小学校(二年制)に進むのがせいぜいだったことだろう。



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/30(Fri) 00:51
「日本災異志」によると、567年から1869年まで大小合わせて225回も飢饉が発生し、内江戸時代だけで35回に達したといます。

この中でよく知られている飢饉は

・養和の大飢饉 1181年に京を含めて西日本一帯を天災(日照り、大風、洪水など)が襲う。数万人の死者を出したという。


・寛正の大飢饉 1461年に発生した中世最大の飢饉

前年(1460年)の長雨、異常低温、台風により、近畿、山陰、北陸地方が大飢饉となる。餓死者は8万人を超えたという。


・寛永の大飢饉 1642〜43年にかけて起った飢饉

1636年に九州で発生した牛疫病から始まる。西日本での日照り、北陸、東北、関東の長雨や冷害などの異常気象による全国規模の凶作、虫害や洪水の被害も多かった。餓死者は全国で5〜10万人といわれる。


・享保の大飢饉 1732年に西日本一帯を襲った飢饉。天候不順とセジロウウンカ、トビイロウンカが大量発生したことによる蝗害(こうがい)が原因

「日本災異志」では餓死者は12172人(過少報告の疑い大)、「徳川実記」では96万9900人とある。


・天明の大飢饉 1782〜87年 全国規模に起った飢饉。特に東北地方の被害甚大。原因は1783年7月の浅間山大噴火、1782年に各地で大雨による洪水、関東地方の大地震、1787年まで続いた天候不順。

死者数は100万人余(浅間山の大噴火、洪水被害、病死者数を含む)


・天保の大飢饉 1832〜39年に起った飢饉。連年の日照りや大雨などの天候不順、冷害(各地で冷夏が繰り返される)が原因。

推定死者数20〜30万人で、東北地方だけで10万人余。1日に7〜8人が餓えのため倒れたという記録がある。ただ餓死より疫病死の方が多かったという。


飽くまで日本の記録に残っている飢饉のデータです。

養和の飢饉 1181年 関西地方 正確な数値は不明。京都市中での死者は42,300人(方丈記)
寛喜の飢饉 1230年〜1231年 国内全体 正確な数値不明
長禄・寛正の飢饉 1459年〜1461年 国内全体 1461年の京都の死者は82,000人 正確な数値不明。

江戸時代
寛永の大飢饉 1640年〜1643年 国内全体 死者不明
享保の大飢饉 1732年 西日本一帯 餓死者12,000人(徳川実紀によれば969,900人)
天明の大飢饉 1782年〜1788年 後見草曰く20000人ほどだが、実態は200,000人ほど
天保の大飢饉 1833年〜1839年 日本全国 死者不明

昭和
昭和東北大飢饉 1930年〜1934年 東北地方 死者不明。 満洲事変などの原因とされる。



54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/04(Sat) 22:02
日本の歴史は飢饉の歴史ともいえる。昭和に入っても飢饉はあった。
東北の大凶作による飢饉と社会不安、それは太平洋戦争に到る遠因ともいわれる。
日本は農業国家でまだ草深い、まだ貧しい時代だった。

226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。

実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/16(Mon) 17:06
昭和大飢饉(大凶作)について
おしんみました。東北で飢饉が起こり、身売りでおしんの元に養女となる初子がやってくる場面など窮乏さががよくわかり、満州事変からはじまる太平洋戦争開戦、敗戦の流れがだいたいわかりました。石原莞爾は山形県出身と、誰がどう考えても飢える故郷のために軍人が立ち上がったと言ってはいけないのかもしれないけど立ち上がったのを見ると、現在では考えられない、上の方のほうが今以上に「責任」があった時代だったんだなと感じました。


戦争に関するテレビや映像、本はたくさん出回っていますが満州事変〜太平洋戦争のはじまりとも言える自然災害の東北での不作の飢饉は戦争を語る上で現代あまり有名ではないように感じます。いかがでしょうか?

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 22:55
日本における飢饉の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517&ls=50

57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 08:20
〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治



雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治の有名な詩、宮沢賢治は昭和8年に亡くなったが、これは死後、手帳の中から発見された。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ・・



は通名だが、この詩は昭和6年の冷害を叙述したもの。
最後の方に、サムサノナツハオロオロアルキとある。



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