掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:35
☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫

昭和6年(1931)3月にコロンビア専属作曲家となった古賀政男は、その後専属レコード会社を

@ コロムビア(昭和6 〜9年) 第一期黄金時代
A テイチク (昭和9〜13年)  第二期黄金時代(テイチク黄金時代)
B コロムビア(昭和13年〜戦後) 第三期黄金時代、戦後第四期黄金時代

と変わった。そして変わった先でそれぞれ時代を築き、「黄金時代」を築いた。

古賀政男には、戦後の黄金時代を含めて、4つの「黄金時代」が有る。

古賀政男は多くの歌手を呼寄せ発掘し、育てたことで知られる。その一人テイチク、コロムビアにおける楠木繁夫は、早生したためあまり知られていないようだが、藤山一郎、ディックミネと並ぶ「古賀メロディ」テイチク黄金時代を築いた立役者の一人。

大正13年(1924)、東京音楽学校師範科に入学、本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家梁田貞に師事。しかし学生運動で校則などに抗議したことから、同級の高木東六とともに除籍処分となった。

昭和9年(1934)5月に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属に迎えられ、昭和10年(1935)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。

古賀政男が抜けた後の江口夜詩―松平晃のコロムビア、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う「古賀メロディー」のテイチク、佐々木俊一が台頭するビクターと三つの構図で激しいヒット競争が展開し、世にいう「テイチク黄金時代」が出現。

古賀政男は重役として迎えられ、日活映画と提携するなど存分に活躍する。そして、「人生の並木路」など多くの映画主題歌が作られた。

昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)
を最後に退社すると、楠木もビクターに移籍。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

また、昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。

現在の古賀政男音楽博物館のある代々木上原は、古賀政男が昭和13年に移り住んだ街。古賀政男は、この代々木上原の地に、音楽創造に邁進する同志を集めて「音楽村」をつくろうという構想を持っていた。

古賀政男を初期には自信がなく、洋楽傾向を持っていて世界の音楽を取り入れていた。

その後、特に昭和14年8月、一分間1万ドルと言われたアメリカNBC放送の「世界の電波」に乗って以降、古賀政男はますます自信を深め、自身に満ち溢れたものであったという。

そして、作曲の傾向も洋楽傾向から邦楽の傾向を強めて行く。

古賀政男はコロムビアで第三期黄金時代を迎えるのだが、「古賀政男藝術大観」が出版されたこの昭和13、14年ごろと言うのは、このように自信に満ち溢れ、脂の乗りきった、絶頂期にでもあったのだ。

その後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山一郎も、昭和14年古賀不在中のコロムビアに移籍。そして、10月10日に古賀が帰国する。

昭和10年(1935)9月、ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属となっていた西條八十、昭和13年(1938)にテイチクをはなれて、コロムビア専属となっていたサトウハチロー。

昭和15年(1940)にコロムビア専属とていた佐藤惣之助、そして古賀政男がコロムビアに揃うこととなったのである

そして、楠木繁夫も、昭和17年(1942)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍、大映映画「歌う狸御殿」にも出演。第3期黄金時代を迎えた。

「花白蘭の唄」(1942.8)以降はコロムビアでの作品である。




掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧
名前: E-mail(省略可)

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)