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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 22:17
☆古賀メロディとその時代

「古賀メロディ」と呼ばれ多くの人に親しまれた曲の原点は『影を慕いて』にある。彼が昭和初期から手がけた作品は5000曲余り。「酒は涙か溜息か」「影をしたいて」「丘を越えて」「東京ラプソディ」「人生劇場」「誰か故郷を想わざる」「湯の町エレジー」「無法松の一生」「柔」など、未だ唄い継がれる普遍の名曲は数知れない。

「古賀メロディ」という言葉には、「古賀政男作曲」のものという意味と、もうひとつ、古賀政男作曲のうち、誌のテーマが人生の苦悩・青春の苦悩をテーマとしたものであるものの二つの意味があるといわれる。

あの人をそっと包み込む優しいメロディ、メロディのあたたかさと、その付けたしではない哀調を帯びたメロディ、それは誰もまねができないものです。それは聞く人が年を重ねれば重ねるほどますます味わいが深くなるものです。

「古賀メロディ"」と呼ばれ多くの人に親しまれた曲の多くは、「昭和」戦前、戦中から戦後にかけてというまだ日本が豊かになる前の貧しい時代だった。

その時代は丁度あの映画「二十四の瞳」の時代です。「飽食の時代」と言われる今の時代と比べ、貧しい時代だが、貧しくとも心豊かな時代だったろう。

底辺に哀調を帯びた、寂寥感や哀愁といった心の奥をそのまま音符に託したかのような--胸を突く美しさを感じさせるもので、それが同時代の多くの日本人の琴線に触れて長く愛されてきた。そこに嘘が無い、だから人々に共感をあたえることができたといえるでしょう。

その生れた時代はどんな時代だったのか。

古賀政男音楽博物館には日本の大衆音楽に貢献したたくさんの作曲家や詩人、歌手が顕彰されていて、別室のパソコンで作品を聴くことができる。

本居長世は、文学者から始まった童話・童謡運動を、自ら作曲し、かつ広めることによって、「童謡」という分野を確立し根付かせた人だが、同時に中山晋平の師でもあるという点では、単なる「童謡の祖」というだけでなく、「日本の大衆音楽」に大きな影響を与えた人です。

長世は、本居宣長の子孫で、明治41年、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を主席で卒業した長世は卒業後すぐに母校に招かれ(文部省)邦楽調査掛として、箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。当時洋楽が日本に取り入れられたが、日本の音楽との調和は大きな課題だったようだ。

長世はこうして、日本的なるものを外国にではなく、日本の伝統音楽の中に求めていくということ、それがフレームワークになっていく。彼は童謡だけでなく、合唱曲や民謡曲、オペラなど800曲余りを作曲して、昭和20年10月に亡くなっている。

そして、「春の海」で知られる邦楽家・宮城道雄らと「新日本音楽運動」という活動を展開する。これは、日本の伝統を洋楽の中に生かすことを目指したもので、その後の日本の声楽曲における作曲のパイオニアとして活動することになる小松耕輔、弘田龍太郎、梁田貞らの作曲研究会などに大きな影響を及ぼしたといわれます。「新日本音楽運動」には歌手の佐藤千夜子も歌手として参加し、宮城道雄の「紅薔薇」という作品など吹きこんでいる。

本居長世は、中山晋平、弘田龍太郎の師でもある。晋平の学友と撮った有名な写真で、晋平だけが和服姿がある。当時音楽学校に進むのは、良家の子女がほとんどだった。信州の貧しい子弟だった晋平はみんな制服のところ、一人だけ和服で草履姿。

そのタビには穴があいて爪が覗いていて、晋平はそれを墨で塗って隠していたという。長世はそんな晋平を常に心にかけていたという。

その晋平は、「誰でも歌える歌」を目指していた。そして浅草千束小学校の音楽教師を勤めたあと、島村抱月の書生となって劇中歌や童謡の作曲をするとともに、野口雨情らと民謡の採譜などを行う。
こうした新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)がある。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。



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