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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:49
ビクター専属藤山一郎への対抗 投稿者:SPレコード歌謡倶楽部 投稿日:2013年 4月23日(火)08時12分53秒
 春、桜の枯れ枝に生気が膨らんだかと思うと、ほんのりと紅の色を含んだ白い花がいっせいにほころぶ。フランス山の桜が妖艶な色を発しながら、春満開と言わんばかりに咲き誇っているのである。松平晃は、その妖しいほどに精を放つ桜の花びらを受けながら横浜山手の小高い丘から港を見下ろしていた。波止場には、外国船が停泊している。抜錨の合図をする汽笛が鳴る。彼は、青い海を眺めることのできるこの小高い丘の風景を満喫していた。
 この横浜の地に、F・W・ホーンが『ホーン商会』を設立したのは、明治二十九年である。明治四十年十月三十一日、十万円の資本金をもって神奈川県橘樹郡川崎町久根崎に日米蓄音機製造株式会社が誕生(松本武一郎は設立の日を見ずに急死)。明治四十三年十月一日、株式会社日本蓄音器商会が新設(日米蓄音器商会は廃止)、明治四十五年一月八日、日蓄は日米蓄音機製造株式会社を合併。吉田奈良丸の浪花節レコードで驚異的な躍進をしめした日蓄は、大正八年、J・R・ゲアリーが社長に就任するとさらなる飛躍を遂げた。日蓄は、複写による海賊盤レコードの問題に操業以来悩まされていた(リチャード・ワダマンの敗訴がその跋扈に拍車をかけていた)。だが、大正九年七月、「著作権法改正法律案」によってその駆除に成功した。それが業界制覇を狙う日蓄に大きな起爆をあたえたのである。だが、

昭和三年一月十八日、日蓄は英米資本によって新たな製造会社を設立。昭和SP歌謡の序盤戦、コロムビアはビクター独走を許す。晋平節とジャズソングに沈黙したのだ。だが、コロムビアは藤山一郎の古賀メロディーで劣勢を挽回する。そして、藤山がビクター専属になると松平晃がコロムビアの専属歌手になる。『コロムビア五十年史』は「昭和八年四月一日、松平晃入社」と記している。 藤山一郎は東京芸大の前身「上野」(東京音楽学校)を首席で卒業し、晴れて誰憚ることなく、ビクター四月新譜の《僕の青春》(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)で見事カムバックした。卒業を祝福するかのように踊りだしたくなるような青春賛歌だった。レコード売上げは10万枚。また、晋平節の情緒豊かな《浅草の唄》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)でもレガートな歌唱表現で人々に感銘をあたえた。流行歌手テナー藤山一郎は健在だった。
 松平は、今日もアクセルを目一杯踏んで横浜へと車を走らせる。彼の愛車はフォードのオープンカーである。自動車は昭和モダンの象徴であり、そのエンジンの音はネオンが輝く帝都のアスファルトに軽い軋みをあたえた。松平の車はボディーの色も派手でモータリゼーションの展示場のようなダンスホールに横付けしても周囲の目をひいた。当時、珍しいスポーツカーを転がしていたのも藤山一郎を意識してのことだった。松平が横浜の繁華街を車でゆっくりと通り抜けようとしていると、カフェーから《僕の青春》が流れてくる。彼は、葉隠れ武士の情念をますます滾らせ、握るハンドルにも力が入った。三月十日にコロムビアで吹込んだ《サーカスの唄》が待ち遠しい。音楽技術では絶対に適わぬ相手とはいえ、敢えてライバル心を滾らせるところに彼のモダンぶりとは対照的な「佐賀っぽ」の気質がみられたのである。
 昭和八年四月二十七日、日比谷公会堂では、楽壇待望の花開く『オール日本新人演奏会』(読売新聞主催)が開催された。松平の母校「上野」は声楽において異例の二人が出演した。ソプラノの長門美保とバリトンの増永丈夫(藤山一郎)である(尚、武蔵野音楽学校も異例の二人、渡辺はま子と井崎加代子が出演)。増永丈夫は、レーベ作曲《詩人トム》を独唱し、「上野最大の傑作」をアピールした。これを聴いた「上野」の新入生たちは、確実な歌唱と美しいバリトンに感銘する。
 

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