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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:17
(参考)

テイチク50年史・・

テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)
142ページ

昭和9年(1934)2月設立したテイチクレコード50年史

コロムビア社を退社し、同社に重役待遇で招聘された古賀政男は同9年5月テイチク東京文芸部(古賀文芸部)発足させ、
いわゆる「テイチク黄金時代」を築いた、

252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:29
南口重太郎が奈良で蓄音機、レコード事業に進出したのは昭和六年である。三年間、浪花節で事業基盤を作ってきた。古賀政男を迎えて東京に進出し、正式に帝国蓄音器株式会社を創立したのは昭和9年2月11日である。
帝蓄は創立間もないころ日活と映画主題歌獲得のためのタイアップをまとめていた。音楽制作費を帝蓄が負担する条件で提携したのである。

古賀政男は帝蓄に入ってから藤山一郎のビクターの契約切れを待っていた。古賀は茂木了次を説得にあたらせた。古賀は一作家ではなく、帝蓄専務の立場だったから、条件交渉もその場で決着をつけられたから話は早かった。
古賀、藤山の第一作「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞)は、コロムビア文芸部首脳が青ざめるほどの大ヒットになった。創業まもない小さなレコード会社だった帝蓄は、古賀のお陰でレコードメーカーとしての基盤を築き、驚くほど短期間に黄金時代を築いてしまった。


253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/18(Mon) 21:52
・1931年2月、吉川島次と、南口重太郎が合資会社帝国蓄音器商会を設立した。
・1934年5月、日本コロムビアから作曲家の古賀政男を引き抜き重役(専務取締役)とし、録音技師と社員も呼び寄せた。
・東京進出に際して文芸部を銀座に、録音スタジオを杉並堀之内に置く。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、年末にはディック・ミネも専属とした。
・1934年(昭和9年)7月、古賀政男テイチク専属第1回発売新譜4曲のひとつ佐藤惣之助作詞、楠木繁夫『国境を越えて』。
・1936年、藤山一郎、美ち奴が入社。本店を奈良市肘塚町へ移転し、工場も設備拡大を行う。
・1938年、古賀政男退職。
・ 1944年5月25日 帝蓄工業株式会社と改称。
・1953年4月1日 社名をテイチク株式会社に変更


254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/20(Wed) 23:50
コロムビア専属だった古賀政男がテイチクレコードへ重役として迎えられたのは病気療養後の昭和9年のことだった。翌十年からの作曲活動はまことに目覚ましく、最初の仕事の「白い椿の唄」(楠木繁夫)につづき、「ふたりは若い」(ディックミネ・星玲子)「緑の地平線」(楠木繁夫)「東京ラプソディー」(藤山一郎)「ああそれなのに」(美ち奴)「うちの女房にゃ髭がある」(美ち奴・杉狂児)「男の純情」(藤山一郎)「人生の並木路」(ディックミネ)「人生劇場」(楠繁夫)…と、退社する13年までテイチクの黄金時代を築いた。
昭和12年に作曲した「青い背広で」も藤山一郎の歌で、若いファンを魅了したが、 この歌を作詞した佐藤惣之助は神奈川県川崎生まれ。大正末期、新感覚派運動の最先端を行って注目された詩人。昭和に入ってからフリーの流行歌作詞家として活躍した。

255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/22(Fri) 15:15
古賀メロディー乗せて JR桜井線 京終駅

朝日新聞デジタル
2009年1月10日


JR京終駅の構内には、かつて貨物列車を引き込んだレールが残る。隣の本線を電車が通り過ぎていった。

京終駅の乗降客は少ない。鉄道好きの親子が訪れ、ホームで電車を眺めていた=いずれも奈良市南京終町

夕日を浴びながら京終駅近くを走る電車=奈良市北永井町

奈良町には昔ながらの路地が残る。観光客が着物姿で散策していた=奈良市餅飯殿町

京終駅にある路線案内板。読みにくい駅名が並ぶ

   
フォトギャラリー
 平城京の中心部から南東へ約4キロ。京終(きょうばて)という地名がついたのは、奈良の都の果てに位置したからだ。
 
 昭和の初め、ここから多くの歌声が全国に発信され始めた。

 レコード化されるのはジャズやシャンソンが中心だった当時、奈良で蚊帳を製造していた南口重太郎(なんこう・じゅうたろう)は歌謡曲を広めたいと考え、1934(昭和9)年に帝国蓄音器(現テイチクエンタテインメント)を創立。2年後に本社を京終駅の近くに置いた。

 南口は会社創立のころ、偶然を装い、大手レコード会社の人気作曲家だった古賀政男に伊東温泉の湯で声を掛けた。「奈良でオモチャみたいなレコード会社をやっております。先生に来ていただいたら『掃きだめに鶴』や思いまんねんけどいかがでしやろか」。この引き抜き話に応じた古賀は後年、「裸の時は素直に心が和む」と南口の作戦を回想したという。

 藤山一郎が歌った「東京ラプソディ」、美(み)ち奴(やっこ)の「ああそれなのに」、ディック・ミネの「人生の並木路(なみきみち)」……。古賀作品を得たテイチクはヒット曲を連発した。

 録音スタジオは東京の他に京終の本社にもあった。「線路が近いため蒸気機関車の音が入り、やり直しがよくあったらしい」と工場長などを務めた岡田守隆さん(71)。資料は残っていないが、できあがったレコードは京終駅から貨物列車に積み込まれ、各地に発送されたのだろう。



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