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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

265 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 20:33
☆中山晋平と「ゴンドラの唄」


中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原生活秋 作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

昭和27年12月2日、ある恩人の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。同年、日本音楽著作権協会理事長、1948年(昭和23年)同会長となる。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。


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