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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




308 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 10:47
>>285

佐藤惣之助

かわさき区の宝物シート 31−4 NPO法人かわさき歴史ガイド協会
044-221-9117
■昭和51年(1976)、古江氏の提唱によって「川崎今昔会」が設立された。同会の主催で
毎年2回、5月の命日の「酔花忌」と12月の誕生日の「闇汁会」という惣之助を偲ぶ会合
が現在も開催されている。
■平成22年(2010)に、佐藤惣之助の生誕120周年を記念して、川崎今昔会と川崎区役所の
主催による「佐藤惣之助生誕120年記念展『華やかな散歩』」が開催された。
■郷土川崎をこよなく愛した詩人。大正から昭和初期にかけて活躍した佐藤惣之助は、代々川崎宿砂子の本陣職を務め、明治維新後は雑貨商「藤屋」に転じていた佐藤家の次男として明治23年(1890)12月3日に生まれる。東京麻布の商家に丁稚奉公に出ていた12歳の頃から俳句を始め、劇作を経て、詩作へと活動の中心が移った。大正5年(1916)、25歳で処女詩集『正義の兜』翌年には『狂へる歌』を出版、以後生涯にわたり22冊の詩集を刊行した。さらに随筆、句集、小説、釣書、戯曲など多才で自由闊達な創作活動にも身を投じた。川崎市からの委託による『川崎小唄』『川崎音頭』の作詞(昭和5年(1930))や高津区溝ノ口の国木田独歩の記念碑建立の発案(昭和9年(1934))など、川崎における文化活動へも大きく貢献している。
■昭和8年(1933)に初めて歌謡曲の作詞を手掛けると、翌年に『赤城の子守歌』が大ヒット。歌謡曲作家としても不動の地位を築き、『緑の地平線』『男の純情』『青い背広で』『人生劇場』などが次々とヒットした。      
有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。
■昭和15年(1940)、日本コロムビアの専属作詞家となって『湖畔の宿』『燃ゆる大空』などを手掛けたものの、2年後の昭和17年(1942)5月15日、過労から倒れ帰らぬ人となった。享年51歳。惣之助が作詞した歌謡曲の数は660編をこえるといわれている。
■惣之助は酒と釣りと旅もまたこよなく愛したと伝えられる。大正11年(1922)、31歳での初の沖縄・台湾旅行から、昭和10年(1935)頃までの間に満州・北支、朝鮮、上海・香港、広州、マカオなど旺盛にアジアへの巡遊の旅を楽しんだ。特に初めての沖縄への旅は、惣之助の人生にとって大きな意味をもった。沖縄本島を馬車で巡り、慶良間諸島では巫女の家に滞在し大いに学ぶべきものを得たという。
旅の成果は、詩集『琉球諸島風物詩集』『颶風の眼』や紀行文『蠅と蛍』などに結実し、伊波南哲など沖縄出身詩人が惣之助主宰の「詩の家」に出入りし親交を深めた。そして昭和元年(1926)、富士瓦斯紡績工場で働く女子工員など沖縄出身者が中心となって芸能大会が開かれた際に、惣之助が激励に駆けつけ、主催者一同大いに感激したという。
■この沖縄芸能は第二次大戦後「川崎沖縄芸能研究会」の結成へと発展し、昭和29年(1954)には神奈川県の無形文化財に指定されたのであるが、他県由来の伝統芸能の指定に尽力したのが、当時川崎市教育委員会に在職していた古江亮仁氏(故人)であった。翌昭和30年、惣之助の詩碑の建立の話が進められた時に、古江氏は偶然にも故郷の先人・佐藤惣之助の沖縄への深い関心と愛情をはじめて知ることとなり、驚きとともに深い感銘を受けたという。そしてすぐに、川崎市民の名で惣之助の詩碑を沖縄に贈呈建立することを発案した。現在、惣之助がかつて漁船で巡った島々を遙かに望む那覇市首里城の景勝地には、琉球諸島風物詩集の中の一編『宵夏』の詩碑が建っている。
■現在、区内には佐藤惣之助の詩碑が3箇所に置かれている。川崎市体育館前の碑は、昭和30年(1955)武者小路実篤に『華やかな散歩』の一節を揮毫してもらい建立したもの。佐藤本陣跡の向かい・川崎信用金庫前には昭和54年(1979)に生誕の地記念碑が建てられ円鍔勝三氏による彫像と嗣子・佐藤沙羅夫氏による揮毫の『青い背広で』の詩が刻まれる。また、惣之助が幼い頃、山王祭りの日に横浜から遊びにくる親類の女の児への想いを綴った『祭りの日』の碑は稲毛神社境内に建つ。幼い客こそは後の花枝夫人であり、惣之助夫妻生誕100年を記念して昭和62年(1987)に建立されたものである。
■市立川崎小学校の校門脇に同校の出身である佐藤惣之助、坂本九の功績を記した看板が設置され、平成17年(2005)3月8日に除幕式が行われた。__


309 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 14:13
>>308

有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。


310 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 14:15
■昭和15年(1940)、日本コロムビアの専属作詞家となって『湖畔の宿』『燃ゆる大空』などを手掛けたものの、2年後の昭和17年(1942)5月15日、過労から倒れ帰らぬ人となった。享年51歳。惣之助が作詞した歌謡曲の数は660編をこえるといわれている。

311 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/06(Thu) 10:52
>>309

参考
>有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。


『六甲颪』(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。

1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』朝日放送アナウンサー



312 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/06(Thu) 10:57
>>308
佐藤惣之助

かわさき区の宝物シート 31−4 NPO法人かわさき歴史ガイド協会
ttp://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26355/31-4.pdf#search='%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%83%A3%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%8166%EF%BC%90%E6%9B%B2

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