掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




590 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/04(Thu) 21:26
今年、平成30年(2018)は、昭和3年(1928)に日本最初の商業レコード歌謡
『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が発売されて90年に当たります。

それまでは、民謡や演歌手の演歌や、「アラビアの唄」「青空」など外国曲などのほか大衆の歌える歌がありませんでした。

大正から昭和にかけて、「新民謡運動」が起こり、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子が行っていた「全国歌の旅」で全国行脚していました、

その中から生まれた『波浮の港』が日本最初の商業レコードとなった。

同時に、元号が変わった大正15年(昭和元年、1週間)の翌年昭和2年から3年にかけ、ビクター、コロムビアなどレコード会社が勃興します。

大正14年にはラジオ放送が始まり、昭和2,3年にかけ相次いでレコード会社ができた。

昭和3年にはまた、古賀政男の「影を慕いて」が作られます。

そして3年後、東北大凶作、昭和大恐慌の中、昭和6年(1931)には古賀政男がコロムビアに入社、藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など『古賀メロディ』が大衆の中に圧倒的に浸透してゆくのです。


591 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/05(Fri) 10:24
戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。 ・・



「9月18日未明、満州事変勃発。」

「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)



昭和になっても、日本では東北地方は冷害凶作に見舞われ飢饉が続いた。そして、娘の身売りが行われた。
・山下文男著「昭和東北大凶作」
 h ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
 h ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
 h ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html


直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。

 

592 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:39
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また「影を慕いて」はこの昭和3年に作られたものである。

593 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:42
昔は人の人生はわずか12歳で決まってしまった。

「教育の機会均等」が保障が曲がりなりにも保証されるのは新憲法下の、昭和24年の「学制改革」を待たねばならなかった。

昔はどんなに優秀でも、勉強したくても貧しさゆえに「奉公」に出されたりした。

大学につながる中学校に行かせてもらえるものはごくごく一部の恵まれた家庭の子弟に過ぎなかったのだ。

昔、日本は農業国だった。

そして「小作制度」というのがあって、「農地改革」まで農地をかりる小作は地主の農地を耕すのだが、
多くは貧しく、農家なのに学校に弁当も持っていけない貧農の子はたくさんいたことだろう。

坪井栄の【二十四の瞳】には、小学校卒業を待たずに「奉公」に出される子供たちが描かれている。

高等小学校(二年制)に進むのがせいぜいだったことだろう。


掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧
名前: E-mail(省略可)

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)