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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

611 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/23(Mon) 15:48
☆「酒は涙か溜息か」・・「古賀メロディ」の確立

この「酒は涙か溜息か」で、「古賀メロディー」の時代を決定ずけ、SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

なお、晋平は後年「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』(昭和13年11月)」に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆)」と特徴づけ高く評価。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

しかしその後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、古賀政男の登場でビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

大正期には、唱歌調、新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて歌謡曲(歌謡歌曲)として確立されたと言える。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 東京 早川書房  昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

昭和10年には熱海、西山町に別荘を建て、ピアノ も送ってしまいます。晋平の後のビクタ―の顔は佐々木俊一に、以後はほとんど作曲はしていない。

西條八十はビクタ―に談判、昭和8年の1年間、社を越えてコロムビアの古賀政男との提携を勝ち取った、「サーカスの歌」など、その後もたくさんの名曲を送り出すことになる「西條八十・古賀政男」黄金コンビがこの時確立。

昭和14年にはその西條八十もビクターからコロムビアへ。西條八十の代わりは、弟子の佐伯孝夫。
[西條八十・古賀政男] 、コロムビアにおけるこの昭和歌謡史に燦然と輝く偉大なトップブランド、黄金コンビは戦後に至るまで、昭和45年、八十が亡くなるまで続いた。

晋平は大御所としての役割に移り、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会長」等の要職を歴任します。

(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たち

・畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)

・上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)  




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