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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




623 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:12
昭和3年、人生の苦悩から始まった「古賀メロディ」、「古賀メロディ」には人生・青春を歌ったものが多い。特に、「影を慕いて」「人生の並木路」など人生の、青春の苦悩をテーマとしたものが多い。

人生を真面目に生き、作曲にも真面目に取り組んだ、それが「人生の並木路」などにもみられる。

それが同時代の、聞く人の日本人の「心の琴線」に触れ共感を与えた。

何と言っても昭和の歌謡史に今も残る三人の詩人をはじめとした多くの詩人・作詞家との交流。

東京音楽学校首席卒業の藤山一郎、関種子(昭和6年〜)をはじめとして、淡谷のり子、霧島昇、楠木繁夫、松平晃、ミス・コロムビア、ディックミネなど沢山の歌手とその育成・・

人生の苦悩から始まった古賀メロディ、一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指した古関・・。

そして何と言っても、残念なのは断片的で、一貫したテーマというのがまたらないことだ



古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。


本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。

今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。





624 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:16
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。確かに古賀政男との対比でみるとそれはよくわかるのだ。

古関がヒット曲が出ないで悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。

コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。

苦しい立場に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。

古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。

古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。
それは、クラシック音楽を基調にした古賀自身のことでもあったのだが、コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。

もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。

古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。

作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなことだろう。

コロムビアの中でずっとヒット曲がでず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が居場所を得て活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。


昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。

留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。



ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803



625 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:29
古関は流行歌には関心がなかったのか。彼にとっての音楽はクラシックだったようだ。しかしそれは専属作曲家として許されないことだったろう。

かれは、ヒット作が出ないことに専属作曲家として悩み、そして専属契約解除の危機を迎えることになる。

昭和五年の秋9月、古関裕而は山田耕筰の推薦により日本コロムビア専属作曲家となり、妻金子と共に上京する。でも出社通知と辞令はまだ手にしていなく、コロムビアからは一行に音沙汰がない。

山田は中山晋平のように面倒みはよくない。古関は優鬱な日々を送る。

古関裕而が正式に日本コロムビア専属作曲家になったのは、1年後の昭和6年10月という。

だから、コロムビア専属作曲家になったのは、古賀政男(昭和6年3月)と殆ど同じなのだ。

古関は長い空白のため、専属契約を解除されそうになるのだが、それを救って作曲活動を続けさせたのが古賀政男。

古賀の自伝でも触れているが、このあたりの事について以下のサイトに詳しい。

・近代日本洋楽史/近代日本音楽史の一断面
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html

古賀政男は。昭和5年吹きこみで、中山晋平の弟子で中山の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の歌で「影を慕ひて」「日本橋から」「文のかをり」など7曲をビクターレコードから出している。

昭和6年にコロムビア専属作曲家となった古関裕而と古賀政男は対照的なデビューを果たすことになる。

古関が悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、古賀メロディーが大衆の間に浸透していった。(毎日新聞社『写真昭和30年史』参照)

古賀メロディーが一世を風靡する中で、作曲家江口夜詩の入社をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
「それは突然、コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。コロムビアは江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。古関にとってこれは寝耳に水であった。専属契約打ち切り理由が分からなかった。このとき、古関はようやく自分の立場が理解できたのである。専属になって、二年目、ヒットが出ないようではもはや存在する意味がないのである。古関は自分に求められているのは、クラシックの作曲家ではなく、あくまでの流行歌の作曲家であることがようやく理解できたのである。古関は愕然とした。」

「苦しい立場に立たされた古関を救ったのは古賀政男だった。古賀は文芸部長の和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは古賀自身のことでもあった。もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに入れなかったであろう。コロムビアは、同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。」

古関は、専属契約打ち切りという最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになるのだが、結果的にはよかったといえるでしょう。



626 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 10:04
訂正

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したという古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、英国留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。



留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。

つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。



ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803


627 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 10:09
古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。


本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。

今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。





628 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 19:36
一般に歌謡曲・流行歌というとクラッシックと比べて一段低い音楽という捉え方をしがちです。
「歌謡曲」とは歌詞をもつ歌(歌曲)の意味です。「国民歌謡」の歌謡などと繋がります。
萩原朔太郎は所謂流行歌について「流行歌曲」という言葉を使っています。
昭和の作曲家は古賀政男、江口夜詩など、クラッシックから出発しています。

■流行歌・歌謡曲の意味について
大正から昭和にかけて、「新作小唄」「流行小唄」「新作歌謡」「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、言葉としては演歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。
「歌謡曲」という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。
たとえば、藤山一郎(1911-1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で「歌謡曲」という言葉が使われています。
歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。
NHKラジオ放送では、昭和10年代に入ると「国民歌謡」が始まり、「歌謡曲」という名称は一般的になっていきました。

流行歌曲について 萩原朔太郎
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html



なお、以下参考になります。

・流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html




629 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 07:51
人生の苦悩から始まった古賀メロディ。一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指したものの、なぜ英国なのか知らないが、山田耕筰にダメ出しされ挫折。

挫折に始まった古関・・最初から燃え尽きてしまった古関。

何と言っても、古関作品の残念なのは、断片的中途半端で一貫した「テーマ」というのがみあたらないということだろう。

古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実のに基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。


(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。)



やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。





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