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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




692 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/17(Sun) 21:11
日本・アラブ通信



【第4夜】

古賀政男邸にアラブ諸国の大使ら50名が集まる
●アラブ人は日本の演歌が大好き

 1983年の夏、バグダ−ドの超一流のラシ−ド・ホテルのホ−ルに、『奥飛弾慕情』 など日本の演歌が流されているのにはびっくりした。
 早速、フロントで尋ね、担当のムスッタファ氏(以前、日本でテレビの操作技術の 研修のため来日した)に会ったところ、『日本の流行歌のように静かでメロデイアス な音楽こそ、このラシ−ド・ホテルのような超一流の雰囲気にぴったりだ』という返 事であった。

 もう20年も昔のことだが、かって日本に来ていたエジプトの外交官は、江利ちえみ の『さのさ』の大フアンであった。
 クルディ現サウジアラビア駐日大使は10年程前、参事官として日本に滞在していた 頃は、畠山みどりの大ファンであったそうな。

 アラブの大使の中には、美空ひばりの好きな方によくお会いする。帰国の時にひば りのビデオとカセットを持ち帰られた大使もいたほどである。  これほどに、アラブ・中東の人々は、日本の歌謡、演歌が好きである。

●古賀政男邸にアラブ諸国の大使ら50名が集まる

 日本とアラブの音楽交流の中で、私が関与したなかで最も思い出深い出来事の一つ は、代々木上原の古賀政男先生のお宅で開かれたアラブ諸国大使夫妻、文化担当官50 名程を招待した大交歓パ−ティがある。

 このパ−ティ開催の契機となったのは、1964年の暮、私が在日エジプト大使館文化 部に勤務していたときのことであった。

 古賀先生がヨ−ロッパ旅行の帰路、憧がれていたアラブの国、カイロを訪れるの で、アラブの代表的作曲家に紹介状を大使館から書いて貰えないかという申出があっ た。古賀先生は、1965年1月、カイロでエジプト作曲界の第一人者、モハメド・アブ デル・ワッハ−ブ氏に会い、おおいに交歓の実をあげてこられたのであった。

 その後、1974年5月17日、代々木の古賀御殿で、9組のアラブ諸国の大使夫妻と文 化参事官夫妻ら約40名と、日本側からも森繁久弥、服部良一、吉田正、松山善三、高 峰秀子、ペギ−葉山、猪俣公章氏ら約50名が出席した。

 当日はあいにくの土砂降りだったが、古賀先生の家を全部開放して、庭のテントで 明治大学マンドリン・クラブの演奏や、銀座のマキシムから料理人を呼んで、模擬店 まででる豪華さであった。  私人の家に、これだけの大使が参加したことはかつてなかったであろう。古賀先生 の上気されていた顔が未だに目に浮かぶ(写真あり)。

 しかし、その後、アラブとの音楽交流を夢見ておられた古賀先生が病に倒れ 、3年ほどして逝くなられたのは痛恨の至りであった。古賀先生は、明大マンドリン・ク ラブのメンバ−を連れて、カイロに演奏旅行されるのを楽しみにしていらっしゃった のだが…。

 古賀先生がその時、『自分は、若い頃から、韓国メロデーに次いで、アラブのメロ デーが大好きだった』とよくおっしゃり、『アラブの音楽が日本人に愛される日が きっときますよ』と断言されたのは忘れ難い。古賀氏は、亡くなる前にアラブ風組曲 『夕日の砂漠』を作曲発表されている。


693 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/17(Sun) 21:30
●日本の歌手はアラブふうの歌唱法をもっている

 日本の歌謡の源流に仏教の声明(しょうみょう)があるといわれている。経文を 「ナームーアーミ ダーブーツゥー」と唱えるように、「マーボーロシーノー カー ゲヲ シターイテー」と歌うのは、“ゆり”、つまり“小節”をいかした歌謡の歌い 方に引き継がれているという。それによって、歌詞にこもる深い意味を情感を込めて 伝える事ができるのだ。  アラブの音楽が、余韻嫋嫋たるコーランの朗誦の伝統を受け継いでいるのと似てい る。

 アラブの代表的歌手、オム・カルス−ムは、幼少のころから農村でコ−ランの朗誦 と宗教歌を学び、歌ってきた。彼女の声には、永く余韻を引くコ−ランにこもるイス ラム音楽の響きがあり、その珠玉をちりばめたような美しいアラビア語によってエジ プトだけでなく、全アラブの聴衆の心を陶酔させてきたという。

 また、彼女の歌がアラブの民衆に愛されている理由の一つに、作曲家のリヤド・ズ ンバティの美しい曲に恵まれたせいもあるが、アハマッド・ラーミーらの著明な詩人 が書いた歌詞のせいでもあるという。

 日本にやってくるアラブの音楽家も、「日本ではテレビも見ましたが、日本の歌手 が、東洋的なアラブふうの歌唱法をもっているのに驚きました」と語っている。  アラブとの音楽の交流を、真剣に考えておれた古賀政男先生が亡くなられたことも 残念であるが、世界の民族音楽の紹介に精力的な活動をされた故小泉文夫教授も、ア ラブと日本の艶歌の比較を提唱されていたのをよく思い出す。

 筆者は、一昨年のバビロン音楽祭で、日本の歌謡「波浮の港」、「三日月娘」、 「影を慕いて」、「月の砂漠」、「荒城の月」など5曲程歌ったが、小生の歌をウー ドで伴奏して下さったバグダード音楽大学のサーミー教授は、「影を慕いて」は最高 傑作だと絶賛された。筆者はその時、古賀先生がアラブと日本のメロデーの共通性を 強調されていた意味に開眼した思いがした。

 私は、バグダ−ドに滞在していた頃、真夜中に宿舎のベッドの中でラジオを聴いた ものだ。バグダ−ドはじめ、カイロ、アンマン、クウェ−ト、リアドなどの放送局か らアラブの伝統音楽、民族音楽、流行歌が絶えまなく流れてくる。それらのメロディ −は、スペイン音楽の旋律、ロシアの大地から涌き起ってくる民謡をおもわせるもの など、驚ろくほどバラエティに富んでいた。

 なかには、日本の民謡にそっくりなものもあった。かつて、駐日ス−ダン大使は2 代続けて、「夜、ラジオやテレビで日本の民謡を聞いていると、メロディ−がスーダ ンの歌にあまりに似ているために、急にス−ダンに帰ったような気持ちに襲われた」 と語っていたことを思い出す。スーダンなどの音楽は、日本の伝統的音階の「ヨナ抜 き」5音階であることと深く関連するようだ。

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本稿は、マイクロソフトの『MSNジャーナル』 h ttp://journal.jp.msn.com/default.asp に、
1999年4月27日付で掲載された内容とほぼ同文のもの h ttp://journal.jp.msn.com/worldreport.asp?id=990427abe&vf=1
をご参照下さい。
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