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【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/30(Sun) 11:04
「勝利の日まで」がまんした疎開学童 (狭山市 42才 印刷業)

昭和19年8月、太平洋戦争はサイパン・テニアン島の玉砕で、日本の敗色が濃くなってきた。当時5年生の私も親元を離れ、信州の山寺に学童疎開をした。はるかに見降ろす千曲の清流。りんごと桑畑に囲まれた山寺。都会育ちの少年にとって、見るもの全てが新しい世界だった。

遠足気分で遊びまわった私たちも.三日もたつと東京の両親のことを思い出した。毎晩消灯後並べられた布団の中から、すすり泣きの声が聞こえた、泣くのは女の子、しかも一人っ子がおおかった。
 
 
楽しみは母からの手紙と食事時間。初めの頃は残すほどの食事も、しだいに質・量ともに落ちていき野草入りの雑炊、すいとん、サツマイモ、主食になった。空腹と望郷・・寂しさを忘れるために、私たちはいつも歌を歌った.40分もかかる村の学校への道、散歩の途中で、遊んだ千曲川の河原で、知ってる限りの歌が出た。

『先生、ぼくたちいつ帰れるの』勇気を出して、先生に聞く生徒もいた。『そのうち、日本軍が逆転して、一気に米軍をやっつける。そうしたら、また東京に帰るぞ』・・私たちは、先生の言葉を疑いも無く信じた。日本が勝つ日まで、勝利の日まで我慢しよう。そんな私たちの気持ちにぴったり合った歌、それが『勝利の日まで』だった。
 
『さあ、みんな、そろそろ帰ろうか、最期にあれを歌おう。』声をそろえて歌ってるうちに、なぜかこの歌だけは涙がでてきた。途中で歌えなくなる生徒もいた。戦局は次第に悪化、沖縄も陥落、新聞を読むことも許されない私たちは、まだ日本の勝利を信じていた。
 出て来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし・・こんな歌を勇ましく歌ったのもこのころだった.出てくるまでもなく、日本のすぐ近くまで来ているのを知らずに。

そして終戦、虚脱状態で声も出ない先生、私たちは勝ったのか負けたのか分からないまま、とにかく戦争は終わった。私たちは一年ぶりに親元に帰れる。ただそのことだけを喜び合った。

・・一億人の証言(『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』毎日新聞社1979)より。・・

勝利の日まで
        サトウハチロー 作詞
        古賀 政男   作曲

1.丘にはためく あの日の丸を
仰ぎ眺める 我らの瞳
何時(いつ)かあふるる 感謝の涙
燃えて来る来る 心の炎
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで

2.山で斧ふる 翁(おきな)の腕も
海の若者 櫓を漕ぐ腕も
町の工場(こうば)の 乙女の指も
今日も来る来る お国のために
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで

3.空を飛び行く 翼に祈り
沖をすぎゆく 煙に誓う
国を挙げての この戦いに
湧いて来る来る 撃ちてし止(や)まん
我等はみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで

歌人・楠本憲吉氏は、古賀政男が逝った昭和53年に平凡出版から出た『昭和の日本のこころ 古賀政男 ?我がこころは永遠』・・楽譜付きです・・に、「日本人と古賀メロデー」で自分の選んだ古賀メロデーの名曲10曲 として「勝利の日まで」を2番目に挙げている。「軍国歌謡の1つだが、この歌には思い出があり、忘れられない曲」だという。
 
(CD紹介)「SP盤復刻による 日本映画主題歌集」5 (COCA-12855)!))1995




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