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昭和歌謡が好きな人集まれ!
- 454 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 21:34
- >>450
☆惣之助「青い背広で」と朔太郎『純情小曲集』とは☆
「青い背広で」作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男。テイチク1280-A「青い背広で」 -B「青春日記」藤山一郎
昭和12年3月、青春の哀歓を歌って若い人たちに愛唱され後、日活によって同名の映画が作られた。
『青い背広で』 : 清瀬英次郎監督、日活多摩川、1937年4月8日公開
ビクターからテイチク専属となった昭和11年、5月新譜「東京ラプソディー」が大ヒットする。
翌年には「青い背広で」「青春日記」などがヒットし古賀政男と共にテイチクを大手に押し上げた。
しかし昭和14年後期には先にテイチクを退社した古賀政男の後を追ってコロムビアへ移籍してしまう。
藤山一郎の「青い背広で」という歌。♪青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか・・
その歌で歌われているのは、それはまさしく当時からの銀座の一流企業、数寄屋橋にビルを建てているT社に勤務するサラリーマンそのものだというのがその社内の一応の都市伝説になっているそうだ。
藤山一郎が歌ってヒットした「青い背広で」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。
「青い背広で 心も軽く まちへあの娘と 行こうじゃないか」という歌詞、青い背広に心も軽くと流行歌のモデルになった可能性がような会社。
当時から憧れの一流企業の青春を謳歌する若きサラリーマン、憧れの銀座の街を心も軽く、まだ自由を謳歌し、
さっそうと歩く姿可能性は簡潔な言葉の中に見事にイメージされるような素晴らしさ。
藤山一郎が歌唱する「東京ラプソディー」「青い背広で」、昭和モダンを高らかに歌いあげます。
戦前の都市文化の象徴する流行歌としてヒット。
「東京ラプソディー」は原曲が「スペインの花」。
ビクターから藤山一郎を迎えるために古賀政男が作曲し門田ゆたかが作詞。「青い背広」は佐藤惣之助がダーググリーンの背広を見て「青い背広」を思いつく。・・
失業者が巷に溢れた昭和初期の時代から、ようやく景気も回復しサラリーマンの時代になった「ああそれなのに」(星野貞志=サトウハチロー 作詞、 古賀政男作曲 1937年1月発売)うちの女房にゃひげがある・・空にゃ今日も アドバルーンさぞかし会社で 今頃はおいそがしいと 思うたに)
大正期は、モダニズム・リベラリズムの勃興期であり、都市労働者の増大とともに、
この「青い背広で」が出来た。
その直後,盧溝橋事件(昭和12年7月7日)で中国との全面戦争(支那事変)、そして太平洋戦争へと日本は暗い時代へ坂道を転げおちていく。
なぜ背広なのか、それには朔太郎の若き日の詩を読むと浮かんでくる。
朔太郎の「旅上」(『純情小曲集』)が出来た大正14年から、惣之助の「青い背広で」が歌われた昭和12年頃は
丁度、大正期勃興したモダニズム、リベラリズムが線香花火のごとく最後の輝きを放つよう
な時期でもある。
ようやくサラリーマンの時代が始まったばかりの昭和12年、背広を着るサラリーマン姿は、まだ珍しく憧れがあったでしょう。
地方では、勤め人自体がまだ多くなかったと思います。
背広を着る職業、新しい背広を着て外に出たい憧れ(旅情)があったとしてもおかしくない。
そんなあこがれで見られる新しき「背広」を着て・・・は文人ならずとも,あこがれの背広がまだ一般的でなかった時代、特別な思いもあったとしてもおかしくないようなのだ。
石川啄木 → 萩原朔太郎 → 佐藤惣之助
詩人であり、作詞家である佐藤惣之助は長年住み慣れた川崎から雪ヶ谷〈馬込文士村〉
に越してきた。
これは昭和十二年五月のことだ。場所は呑川左岸崖線の背尾根筋であった。
この年、彼が作詞してヒットした曲が「青い背広で」作曲は古賀政男。「青い背広で 心も軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか」で始まる。
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