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昭和歌謡が好きな人集まれ!

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:04
歌謡曲は好きだけど「演歌」は好きでない、昭和歌謡特に昭和戦前から昭和30年代頃までの日本の歌謡(レコード歌謡)が好きな人集まれ!。
あなたの好きな歌は何ですか!

477 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 14:30
02/09: 1974年6月 沖縄の雑誌『青い海』34号「詩碑を訪ねてー佐藤惣之助」
h ttp://ryubun21.net/index.php?itemid=12069
佐藤惣之助詩碑。1959年五月、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたものである。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当地へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いられている。碑の文言は「宵夏」。

佐藤惣之助 さとう-そうのすけ
1890−1942 大正-昭和時代前期の詩人。
明治23年12月3日生まれ。佐藤紅緑(こうろく)に俳句をまなぶ。千家元麿(せんげ-もとまろ)らとまじわり,詩作に転じ,第1詩集「正義の兜(かぶと)」などを刊行。大正14年詩誌「詩之家」を創刊。また随筆,釣りの本をかき,歌謡曲「赤城(あかぎ)の子守唄(うた)」「人生劇場」などを作詞した。昭和17年5月15日死去。53歳。神奈川県出身。(→コトバンク)

佐藤惣之助年譜
1922年
3月ー詩誌『嵐』を千家元麿、陶山篤太郎、後藤大治らと創刊。
5月31日ー横浜より大洋丸で出帆、沖縄、台湾への旅にたつ。
6月1日ー神戸上陸、芦屋の富田砕花(不在)宅で百田宗治と会う。
6月3日ー長崎に下船、崇福寺、木蓮寺、丸山見物。
6月5日ー三角、熊本、鹿児島泊。
6月7日ー正吉丸、天候不良で出航延期。
6月8日ー鹿児島出帆。
6月9日ー奄美大島名瀬に上陸、夜、暴風をついて那覇へ向かう。那覇で3週間。その間、慶良間、石垣島へ渡る。帰路は基隆へ渡る。□1959年5月1日ー『琉球新報』山里永吉「沖縄の佐藤さんー古い風物につながる思い出ー佐藤惣之助さんが沖縄入りしたのは大正11年、たしか若夏の候だったと憶えている。当時佐藤さんは詩誌『嵐』を主宰し、詩集も矢つぎばや・・・と云っていいくらい出版されて、名声トミにあがっていたが、沖縄にはこれといった知人がなく、『嵐』の愛読者で、私の親しい友だった伊波普哲君(伊波普猷先生の甥)に連絡をとっての、未知の島訪問だった。




478 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 16:33
大衆音楽の殿堂

大衆音楽の殿堂は、古賀政男音楽文化振興財団が認定する日本の大衆音楽の発展に貢献した人物を顕彰するために設立された殿堂
東京都渋谷区の古賀政男音楽博物館内に設けられた殿堂ホールに展示されている。

古賀政男音楽博物館 h ttp://www.koga.or.jp/

殿堂入り受賞者の一覧 :
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大衆音楽の殿堂


479 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 19:18
流行歌(レコード歌謡)において、作曲家がメロディーを付け始めたのは、昭和3年、レコード産業が成立してからである。
日本では、昭和の時代と歩みをともにするが、まず作曲家の一番星になったのが中山晋平だった。

外資系のビクターから、西條八十作詞、佐藤千夜子が歌った「東京行進曲」の作曲で世に知られるが、ついで、昭和6年、古賀政男がコロムビアから高橋掬太郎作詞の「酒は涙か溜息か」の作曲と、 詞も自ら書いた「影を慕いて」を、東京音楽学校(現東京藝大)最大の傑作≠フ折紙つきの ベルカント歌手・藤山一郎(本名・増永丈夫)に歌わせ、蓄音機が、植民地だった台湾・朝鮮 を含めて、日本全国にわずか二十万台といわれた時代に、それぞれ百万枚の大ヒットをさせた のだった。
中山晋平の曲が、民謡的な匂いのただよう素朴感のあるメロディーだったのに対し、古賀メロディーは、都会的な哀愁感が嫋々と流れ、そのやるせないひびきが大不況下の暗い世相に共鳴して、満州事変の勃発と、東北大凶作の中、狂乱に近い大ヒットになったのである。

古賀政男は、マンドリンの演奏からギターに転じ、独学で作曲を志していた。「影を慕いて」 と同時期に、「酒は涙か溜息か」を作曲しているが、短い二行詞にどう曲を付ければいいか苦しみ抜いた末に、「古賀メロディー」の原点となる、やるせない哀愁に彩られた曲調を生み出したのである。

古賀政男についで、昭和8年以降、10年代にかけて、江口夜詩 、佐々木俊一、万城目正、阿部武雄、服部良一、古関裕而・・らが続くのである。




480 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 19:26
そうだその意気(国民総意の歌)

作詞 西條八十、作曲 古賀政男
歌  霧島昇、松原操、李香蘭

(一)
何にも言えず靖国の
宮の階ひれ伏せば
熱い涙がこみ上げる
そうだ感謝のその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(ニ)
雁鳴き渡る月の空
今夜今頃戦地では
弾丸を浴びてる友がある
そうだ済まないその気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(三)
戦に勝つにゃお互いが
持場職場に命懸け
こんな苦労じゃまだ足りぬ
そうだその意気その気持ち
揃う揃う気持ちが国護る

(四)
輝く勲皇軍に
負けず遅れずがっちりと
共に戦う銃後軍
そうだ進めば盛り上がる
凱歌凱歌明るい大アジア

「そうだその意氣」は、1941年(昭和16年)5月25日にコロムビアレコードから発売された。作詞は西條八十、作曲は古賀政男で、歌は霧島昇、松原操、李香蘭。「国民総意の歌」の副題がある。


481 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/13(Sat) 20:49
国民歌謡:いざおを胸に

サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲
楠木 繁夫、松原 操、歌
日蓄合唱団1944-10


いろはのいの字は
命のいの字
誰も忘れぬこの文字よ
一番勇まし
勲を胸に
いの字で行こうか
その日 その日,

2.
鳶のとの字は
とんぼのとの字
仰ぎ眺めるその翼
飛んだぞ飛べ飛べ
轟く凱歌
との字で作ろうか
いつもいつも

3.
今年のこの字は
工場のこの字
この道通うて早や三年
小鳥の小唄は
小藪の陰に
この字で唄おうか
君も僕も


瑞穂のみの字は
皆のみの字
交わす言葉も朗らかに
見つめる見事な
実りの秋だ
みの字でやろうか
日毎 夜毎.



482 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/17(Wed) 21:55
夜霧の馬車 (陸・海軍礼式歌)

作詞 西條八十
作曲 古賀政男
歌  李香蘭
昭和16年7月

(一)
行け嘆きの馬車
赤い花散る港の夕
旅を行く我を送る
鐘の音さらばよ
愛しこの町君ゆえに
幾度振り返る

(二)
鳴け鴎の鳥
哀れ切なく夕陽は燃える
波の上浮かぶジャンク
寂しやはろばろ
誰が歌うか愛の歌
夜霧に流れ来る

(三)
行け嘆きの馬車
月に胡弓の流れる町を
いつか見ん母の待てる
故郷懐かし
窓の灯影を夢見つつ
果て無く旅を行く

夜霧の馬車(3番?後奏) 昭和歌謡に惹きつけられる要素のひとつに、前奏や間奏か?美しい曲か?多いことか?挙け?られます。この曲も当に美しい…?
かって多くの歌手や詩人、音楽関係者が通ったという代々木上原駅前3000坪の古賀政男邸。
古賀邸は美術館のようにあちこちに第一級の美術品が飾られ、玄関を入ると正面に、音楽・弁論の神、弁財天のふくよかな像を彫りこんだ額が、かかっている。萩原朔太郎、佐藤惣之助、古賀政男がたびたび詩の談義をはずませた応接間..そこに、西條八十、李香蘭、古賀政男が集まって「夜霧の馬車」の曲を練った。


483 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/17(Wed) 21:56
?は点(・)の文字化けです。

484 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 00:29
さらば上海

作詞:時雨音羽 作曲:古賀政男
関種子 1932、李香蘭 1838

胡弓ならせば ランタンゆれる
ゆれるランタン 小さく赤く
すえは夜霧で すえは夜霧で
絶えだえに

胸の白菊花の しおれる頃は
消える黄包車 二度とは 逢えぬ
今日も四馬路に 今日も四馬路に
けむる雨

糸がふるえる 胡弓の糸が
すすり泣く音の 悲しく細く
遠い夜霧の 遠い夜霧の
あの中で

わかれゆく身は 儚く淡し
霧の上海 さよならならば
明日ははるかの 明日ははるかの
空の涯



1938年に李香蘭の名で女優デビューした山口淑子,デビュー曲「さらば上海」。

関種子  昭和07年(1932)
李香蘭 昭和13年(1938)





485 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 10:31
歌謡曲の父・・・古賀政男物語 You Tube
2019/11/26
h ttps://www.youtube.com/watch?v=zagPzuXKPVE


486 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 11:40
『酒は泪か溜め息か』
作詞:高橋掬太郎 作曲:古賀政男 歌 藤山一郎
 オリジナル Columbia-26486-A

1.
酒は泪か 溜め息か
心の憂さの 捨て所
遠い縁の 彼の人に
夜毎の夢の 切なさよ

2.
酒は泪か 溜め息か
悲しい恋の 捨て所
忘れた筈の 彼の人に
残る心を 何としょう


89年前、昭和6年(1931)9月、満州事変の勃発と、日本最後の飢饉と言われた東北大凶作の中、作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、歌手・藤山一郎の出世作となった大ヒット曲。また、日本で最初にクルーナー唱法を取り入れた作品としても知られる。当時、古賀は新進作曲家として注目されはじめたばかりで、高橋は北海道で地方新聞の記者、藤山一郎は東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に在籍し将来を嘱望されたクラシック音楽生だった。 折からの世界恐慌による不況にも拘らず、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍のセールスを記録したという。歌のヒットにより、のちに松竹映画『想い出多き女』、新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映画も製作された。

B面は、淡谷のり子「私此頃憂鬱よ」(作詞:高橋掬太カ 作曲:古賀政男)淡谷は東洋音楽学校主席。、

レコード袋(古賀春江) h ttps://ameblo.jp/kimokenblog/entry-11901366766.html



487 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 15:25
「影を慕いて」

古賀政男作詞・作曲
佐藤千夜子(ビクター) 昭和6年1月
藤山一郎(コロムビア) 昭和7年3月


まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

わびしさよ
せめて痛みの なぐさめに
ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
どこまで時雨(しぐれ) 行(ゆ)く秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し

君故(ゆえ)に
永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
儚(はかな)き影よ 我が恋よ






不世出の国民的名歌手藤山一郎が独唱するギター歌曲・「影を慕いて」・美しき日本の歌です。
昭和モダンの陰影を象徴する古賀メロディーの傑作といえるでしょう。藤山一郎の声楽技術を解釈したクルーン唱法によって古賀政男のギター曲の魅力が伝わりました。
昭和4年6月 明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会初演(ギター合奏)昭和5年10月佐藤千夜子ビクターで吹込み(昭和6年1月新譜)。昭和7年1月藤山一郎再吹込み(昭和7年3月新譜発売)。
クラシック系歌謡曲の藤山一郎は現在の東京芸術大学を、昭和8年首席卒業であり、美空ひばり、森進一ら感情を濃く小節を回す演歌系歌謡曲の艶歌唱法とは対極にあるリートのベルカントによる歌唱芸術です。

昭和が終わった平成元年(1989)、NHKTVは「日本の名曲10曲」として、1年間にわたって1週間ずつ繰り返し放送。


488 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 15:35
■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
 2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


489 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 16:35
◇戦後の主な古賀メロディ
「りんどう峠」を含めた戦後の主な古賀メロディの一端を
古賀作品には圧倒的に西條八十が多いのがわかる!。


麗人の歌     1946(西條八十作詞 霧島 昇歌)
悲しき竹笛    1946(西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌)
こころ月の如く  1947(西條八十作詞 二葉あき子歌)
旅の舞姫     1947(西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌)
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948 (西條八十作詞 霧島 昇、二葉あき子歌)
三百六十五夜   1948 (西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948 (西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詞 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう    1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節       1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詞 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詞 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)


490 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 16:47
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸作詞、 藤山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詞、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詞、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968 (古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)


491 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 18:40
いちうた ― 君の住む街・市原は
h ttp://music1930.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-469a.html
2012年7月20日 (金)

影を慕いて



492 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 19:06
昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。
大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。
昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。
このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

493 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/18(Thu) 19:19
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。
1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。
菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。

NHKの連続ドラマ「いちばん星」で紹介されたの覚えておられる方も多いかと思います。日本で最初のレコード・スター歌手・佐藤千夜子は1897年(明治30年)3月13日、山形県天童市で生まれました。
13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)に入学。東京音楽学校の社交場でもにもなっていた本郷中央教会で聖歌を歌った、ここで同じクリスチャンの山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。
中山が野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)に、歌手として参加、この企画の中で生まれた新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)(ビクターからレコードとして発売。これが日本の商業レコード第一号とされている。
このレコード歌手第一号、晋平の唄(晋平節)そ世に広めた歌手「佐藤千夜子」の力添えで誕生することになるのが、「古賀政男」(正男)でした。
「いちばん星」にはこのあたりのことが描かれています。


494 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 20:21
age

495 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:03
古賀政男、コロムビア専属作曲家へ。
藤山一郎、学生のまま覆面でデビュー(1931年)



東京・代々木上原駅にほど近い高台。日本音楽著作権協会のビルに隣接して、3階建て半円形の古賀政男音楽博物館がある。3階にはこの地にあった古賀邸の一部が移築され、机、椅子、楽器、楽譜などが保存・展示されている。使用していたピアノ、ギター、マンドリンはガラス・ケースに陳列されていた。
本田美奈子「アマリア」のマンドリン

「決定盤?古賀政男?心のギター」(CD2枚組、日本コロムビア、2009)自作40曲を自身のギター・ソロとアンサンブルで収録している。正確なフレージングがよくわかる。歌唱による「自作自演集」はLPで1979年に日本コロムビアから発売されているが、現在は廃盤
?ギターとマンドリンはイタリアのヴィナッチャ製で、製作年代は不明だが、長年弾いていた跡が残る。ところどころニスは剥落し、指板は変色している。1920年代に入手したそうだから、100年は経過しているであろう。ギターは他に2台あったが、ヴィナッチャをとくに愛用していたという。
?明治大学マンドリン倶楽部の運営、指揮、演奏とともに、当時、専門学校でギターとマンドリンを教えて月収60円を得ていたというので、高価な輸入楽器を購入できたのである。
?年1月にビクターから佐藤千夜子の歌唱によるレコードが発売され、明大卒業後もマンドリン・オーケストラで活動していた古賀政男は作曲家としてデビューすることになった。31年には「影を慕いて」(佐藤千夜子版)もようやく発売されるが(後述)、あまり売れた形跡はない。
?−31年に発売されたビクターの古賀政男作品の伴奏は、明治大学マンドリン倶楽部が主体だった。マンドリンとギターが歌謡曲に初めて登場したわけだ。
?本田美奈子さんの1994年のアルバム「Junction」の中に「アマリア」という曲がある。越路吹雪のカバー曲で、岩谷時子作詞、内藤法美作曲によるファド風の歌である。60年代の作品だ。
?萩田光雄による編曲は、マンドリン・ソロとヴァイオリン、チェロによる序奏で始まる。鮮やかなマンドリンのトレモロが印象的だ。ファドはポルトガルの民俗的な歌曲でギターの伴奏による。原曲の越路吹雪版ではクラシック・ギターの2重奏で始めているので、ファドの色彩が強い。
?本田美奈子版はマンドリンで始まる。マンドリンはイタリア、歌詞の舞台はポルトガルだが、岩谷時子さんは「長崎の石畳」を対比させており、国籍不明の不思議なファンタジーとなっている。萩田光雄は慶応義塾大学クラシカルギタークラブ出身のベテラン編曲家だ。奇しくもギター合奏の経験者であり、マンドリンの使用は撥弦楽器経験者の発想だろう。
?本田美奈子さんの歌唱による作品で、マンドリンを前面にだした歌は「アマリア」だけである。郷愁を呼ぶのだが、私たち日本人にとっては古賀政男の初期作品に対する郷愁だろう。筆者は昭和29(1954)年生まれなのでまったく同時代の経験はない。それでも郷愁を覚えるのは唱歌に対する郷愁と同じである。身に覚えのない郷愁だ。



496 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:04
?は点・の文字化けです。


497 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:13

「トレモロ寂し?身は悲し」
?古賀政男作詞作曲「影を慕いて」2番の歌詞に、
?ギターをとりて?爪弾けば
?どこまで時雨?ゆく秋ぞ
?振音(トレモロ)寂し?身は悲し
?という一節がある。

?トレモロ(tremolo)はイタリア語の音楽用語で、同じ音程の音を刻むことを意味する。語源は「振動」だそうだ。「振音」という訳語はないので、古賀が当てた造語であろう。ギターにもトレモロ奏法はある。有名な「アルハンブラの思い出」(タルレガ、1896)は全編トレモロ奏法によるギター独奏曲だ。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弓を細かく往復させてトレモロを奏する。
?マンドリンは、速度によるが8分音符以上の細かい音形以外、ほぼすべての音をトレモロで奏するので、「振音(トレモロ)寂し」とはマンドリンのことではないか。つまり、この歌の小道具はギターとマンドリンなのだと思う。
?「佐藤千夜子歌唱『影を慕いて』の発売は1931年1月のことだった」と書いたが、日付を確定できる資料はなく、30年12月だという記述もある。収録が30年10月20日だったので、どちらもありえる。
?どうして特定できないかというと、日本ビクターの資料に記述がないからである。『日本ビクター50年史』(1977)には、1930年12月の新譜のうち、代表的な作品を「ドン・アスビアス楽団『南京豆売り』」、31年1月は「宮城道雄『春の海』」「小唄勝太郎『佐渡おけさ』」などとして、「佐藤千夜子『影を慕いて』」の記載はない。もちろん、当時のカタログがあれば判明するが、今のところ探し出せていない。
?この直後に古賀政男はコロムビアと専属契約したため、ビクターは社史に特記しなかったのかもしれない。そのために、発売日が特定できないのである。古賀政男音楽博物館の図録年表には「1930年12月、ビクター『日本橋から/影を慕いて』発売」とあるので、今後はこの日付に従うことにする。
毎月2曲を条件に月給120円
「それから間もなくのことであった。コロムビアの文芸部長の米山正氏(作曲家米山正夫氏の尊父)が私に会いたがっておられるという話がつたわってきた」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
「それから間もなく」とは、ビクターで佐藤千夜子の歌を発売したころのことだから、おそらく1931年1月のことだろう。




498 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:26
作曲のノルマは月2曲だった。この「乙女心」(鹿山鶯村作詞)と「キャンプ小唄」(島田芳文作詞)である。「キャンプ小唄」の歌手をだれにするか、社内で議論になる。
「まだ上野の音楽学校在学中だが、最近、慶応幼稚舎の歌を吹き込んだ増永丈夫という男がいる。いい声だ、という情報が入って来た。会ってみると、きびきびした態度の青年だった。それが藤山一郎君である。まだ在学中なので本名を出してはまずいというので芸名を名乗ることにしたのだ。その藤山君に『キャンプ小唄』を、そして『乙女心』は結婚して旧姓秋山を改めたばかりの関種子さんに歌ってもらった。/昭和六年六月発売の「乙女心」、同七月発売の「キャンプ小唄」はともに好評で、宣伝もほとんどしないのによく売れた。これは会社のほうも少なからず驚いたようだ」(古賀政男、前掲書、1984)
?この「私の履歴書」に記載された発売年は誤りで、「キャンプ小唄」が1931(昭和6)年7月、「乙女心」は6月の発売だった(『コロムビア五十年史』『古賀政男音楽博物館・図録』による)。
?コロムビア3作目と4作目が有名な「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」である。藤山一郎の歌唱で前者は1931年10月、後者は12月に発売された。「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるメガヒット、「丘を越えて」も数十万枚の大ヒットである。つまり、31年4月から12月までの9ヵ月間で連続4曲のメガヒットを飛ばしたわけだから、空前の事態だった。

西洋7音階と東洋5音階の差を埋めるために
?古賀政男の初期作品は「演歌ではない」、と気づかせてくれたのは、ソプラノ歌手で音楽学者の藍川由美さんの著書『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)である。
?藍川さんは楽譜と「古賀政男自作自演集」の演奏がピタリと合い、コブシなどの日本的な節回しがすべて楽譜に書きこまれ、古賀自身が楽譜どおりに歌っていることに気づく。藍川さんの分析は次回に紹介するが、1931年に発売された作品は、まずは今日の演歌とは違うことだけ留意しておこう。初期作品について藍川さんはこう述べている。
「(略)初期の作品に『コブシ」を多用した歌が少ないことに気付かされる。初期のヒット曲≪影を慕いて≫≪酒は涙か溜息か≫≪丘を越えて≫は、いずれもヨナ抜き音階で作曲されているものの、決して日本的な節回しとはいえない」(藍川由美、前掲書、2002)
「酒は涙か溜息か」は、現在にいたるまで多くの演歌歌手がカバーしている。筆者は、アドリブのコブシをきかせ、音程を適当にポルタメントして変化させる演歌の唱法が耳についていて敬遠していた。しかし、原曲の藤山一郎による歌唱はたしかに楽譜の音程とリズムどおりであり、フレージングも小節線に正確である。古賀政男の意図どおりなのだろう。



499 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:35
「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)

?古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。
?コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。
?けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。
?月給の金額について、こう書いている。
「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやとおうと言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書――文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)
「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している。




500 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 21:45
古賀の入社は昭和6年(1931年)3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。関種子(1907−90)も東京音楽学校を卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。
「酒は涙か溜息か」の作曲について、自伝ではこう書いている。1931年夏のことである。満州事変(9月)前夜、昭和恐慌の真っただ中だった。
「私は高橋(掬太郎)さんの歌詞に大都市と地方の格差をはっきりと感じた。大都市の繁華街をモボとモガが腕を組んで闊歩し、ジャズ音楽に身も心も奪われているとするならば、地方の青年たちは、場末の暗い酒場で酒をあおって、沈吟していたに違いなかった。どちらも同じムードの表現ではあっても、これだけ大きい差がある。ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。
?詞の調子は七五調の「都々逸」風で、即興のような三味線でならすぐに書ける。しかし、それではジャズ(ポップス)に浸る大都会のモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)は共感しないだろう、というわけだ(「都々逸」は江戸時代後期の俗曲、座敷芸)。


501 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/19(Wed) 22:00
「そんなある日、ギターの性能を活かすことによって、解決の端緒が得られるのではないか、というアイデアが私にひらめいた。それから、毎日ギターで三味線の曲を弾いてみたり、古い民謡や義太夫というようなものまで弾いたりしてみた。そして、突然あのメロディーが浮かんできたのだった」(古賀政男、前掲書、2001)。
「酒は涙か溜息か」はニ短調(Dm)で、基本的にヨナ抜き短音階で書かれているが、サビの冒頭は第4音のG(ソ)で始まり、日本の民謡の音階を感じさせる。日本音楽を西洋のギターで繋いだ意図がわかる。
?ちなみに「影を慕いて」はニ短調の完全なヨナ抜き短音階で、中山晋平のように和洋折衷の感覚を出している。唱歌や童謡に近い。
「酒は涙か溜息か」は第4音を入れて民謡音階の感覚を混ぜ、義太夫や都々逸のような伝統的な邦楽のようでいて、しかし楽譜には西洋音階以外の音程は使わない。譜割りも厳密に書かれ、小節線を無視するようなアドリブは許さない、という意思が見える。こうすることによって大都会で洋楽を聴く若者にも共感されたい、ということだろう。
?藍川由美さんによると、中後期の演歌の原型的作品になっても、コブシや日本的な節回しでさえすべて楽譜に書いているというから、楽譜を見れば作曲者の意図はすべて理解できるわけだ。発想はクラシックの作曲家と同じである。
?古賀がコロムビアに入社した1931年、この年4作目の「丘を越えて」ではまったく曲想が変わる。これは次回に。この年に発売した4曲は、合計200万枚を超える売上だったという。コロムビアは月給以外に、1枚1銭の印税を支払うことにした。
あっという間にヒット・メイカーとして流行歌を牽引する作曲家となった。




502 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 07:26
古賀政男、コロムビア専属作曲家へ。
藤山一郎、学生のまま覆面でデビュー(1931年)


東京・小田急線代々木上原駅にほど近い高台。日本音楽著作権協会のビルに隣接して、3階建て半円形の古賀政男音楽博物館がある。3階にはこの地にあった古賀邸の一部が移築され、机、椅子、楽器、楽譜などが保存・展示されている。使用していたピアノ、ギター、マンドリンはガラス・ケースに陳列されていた。

本田美奈子「アマリア」のマンドリン

「決定盤古賀政男心のギター」(CD2枚組、日本コロムビア、2009)自作40曲を自身のギター・ソロとアンサンブルで収録している。正確なフレージングがよくわかる。歌唱による「自作自演集」はLPで1979年に日本コロムビアから発売されているが、現在は廃盤。
ギターとマンドリンはイタリアのヴィナッチャ製で、製作年代は不明だが、長年弾いていた跡が残る。ところどころニスは剥落し、指板は変色している。1920年代に入手したそうだから、100年は経過しているであろう。ギターは他に2台あったが、ヴィナッチャをとくに愛用していたという。

明治大学マンドリン倶楽部の運営、指揮、演奏とともに、当時、専門学校でギターとマンドリンを教えて月収60円を得ていたというので、高価な輸入楽器を購入できたのである。

昭和6年(1931)1月にビクターから佐藤千夜子の歌唱によるレコードが発売され、明大卒業後もマンドリン・オーケストラで活動していた古賀政男は作曲家としてデビューすることになった。
31年には「影を慕いて」(佐藤千夜子版)もようやく発売されるが、あまり売れた形跡はない。
30−31年に発売されたビクターの古賀政男作品の伴奏は、明治大学マンドリン倶楽部が主体だった。マンドリンとギターが歌謡曲に初めて登場したわけだ。

本田美奈子さんの1994年のアルバム「Junction」の中に「アマリア」という曲がある。越路吹雪のカバー曲で、岩谷時子作詞、内藤法美作曲によるファド風の歌である。60年代の作品だ。
萩田光雄による編曲は、マンドリン・ソロとヴァイオリン、チェロによる序奏で始まる。鮮やかなマンドリンのトレモロが印象的だ。ファドはポルトガルの民俗的な歌曲でギターの伴奏による。原曲の越路吹雪版ではクラシック・ギターの2重奏で始めているので、ファドの色彩が強い。

本田美奈子版はマンドリンで始まる。マンドリンはイタリア、歌詞の舞台はポルトガルだが、岩谷時子さんは「長崎の石畳」を対比させており、国籍不明の不思議なファンタジーとなっている。萩田光雄は慶応義塾大学クラシカルギタークラブ出身のベテラン編曲家だ。奇しくもギター合奏の経験者であり、マンドリンの使用は撥弦楽器経験者の発想だろう。
本田美奈子さんの歌唱による作品で、マンドリンを前面にだした歌は「アマリア」だけである。郷愁を呼ぶのだが、私たち日本人にとっては古賀政男の初期作品に対する郷愁だろう。
筆者は昭和29(1954)年生まれなのでまったく同時代の経験はない。それでも郷愁を覚えるのは唱歌に対する郷愁と同じである。身に覚えのない郷愁だ。




503 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 07:40
「トレモロ寂し 身は悲し」

古賀政男作詞作曲「影を慕いて」2番の歌詞に、
ギターをとりて爪弾けば
どこまで時雨 ゆく秋ぞ
振音(トレモロ)寂し 身は悲し
という一節がある。

トレモロ(tremolo)はイタリア語の音楽用語で、同じ音程の音を刻むことを意味する。語源は「振動」だそうだ。「振音」という訳語はないので、古賀が当てた造語であろう。
ギターにもトレモロ奏法はある。有名な「アルハンブラの思い出」(タルレガ、1896)は全編トレモロ奏法によるギター独奏曲だ。ヴァイオリンなどの擦弦楽器は弓を細かく往復させてトレモロを奏する。

マンドリンは、速度によるが8分音符以上の細かい音形以外、ほぼすべての音をトレモロで奏するので、「振音(トレモロ)寂し」とはマンドリンのことではないか。つまり、この歌の小道具はギターとマンドリンなのだと思う。

「佐藤千夜子歌唱『影を慕いて』の発売は1931年1月のことだった」と書いたが、日付を確定できる資料はなく、30年12月だという記述もある。収録が30年10月20日だったので、どちらもありえる。

どうして特定できないかというと、日本ビクターの資料に記述がないからである。『日本ビクター50年史』(1977)には、1930年12月の新譜のうち、代表的な作品を「ドン・アスビアス楽団『南京豆売り』」、31年1月は「宮城道雄『春の海』」「小唄勝太郎『佐渡おけさ』」などとして、「佐藤千夜子『影を慕いて』」の記載はない。もちろん、当時のカタログがあれば判明するが、今のところ探し出せていない。

この直後に古賀政男はコロムビアと専属契約したため、ビクターは社史に特記しなかったのかもしれない。そのために、発売日が特定できないのである。古賀政男音楽博物館の図録年表には「1930年12月、ビクター『日本橋から/影を慕いて』発売」とあるので、今後はこの日付に従うことにする。

毎月2曲を条件に月給120円
「それから間もなくのことであった。コロムビアの文芸部長の米山正氏(作曲家米山正夫氏の尊父)が私に会いたがっておられるという話がつたわってきた」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。

「それから間もなく」とは、ビクターで佐藤千夜子の歌を発売したころのことだから、おそらく1931年1月のことだろう。



504 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 08:02
作曲のノルマは月2曲だった。この「乙女心」(鹿山鶯村作詞)と「キャンプ小唄」(島田芳文作詞)である。
「キャンプ小唄」の歌手をだれにするか、社内で議論になる。
「まだ上野の音楽学校在学中だが、最近、慶応幼稚舎の歌を吹き込んだ増永丈夫という男がいる。いい声だ、という情報が入って来た。会ってみると、きびきびした態度の青年だった。それが藤山一郎君である。まだ在学中なので本名を出してはまずいというので芸名を名乗ることにしたのだ。
その藤山君に『キャンプ小唄』を、そして『乙女心』は結婚して旧姓秋山を改めたばかりの関種子さんに歌ってもらった。 昭和六年六月発売の「乙女心」、同七月発売の「キャンプ小唄」はともに好評で、宣伝もほとんどしないのによく売れた。これは会社のほうも少なからず驚いたようだ」(古賀政男、前掲書、1984)

この「私の履歴書」に記載された発売年は誤りで、「キャンプ小唄」が1931(昭和6)年7月、「乙女心」は6月の発売だった(『コロムビア五十年史』『古賀政男音楽博物館・図録』による)。
コロムビア3作目と4作目が有名な「酒は涙か溜息か」と「丘を越えて」である。

藤山一郎の歌唱で前者は1931年10月、後者は12月に発売された。「酒は涙か溜息か」は100万枚を超えるメガヒット、「丘を越えて」も数十万枚の大ヒットである。
つまり、31年4月から12月までの9ヵ月間で連続4曲のメガヒットを飛ばしたわけだから、空前の事態だった。

西洋7音階と東洋5音階の差を埋めるために

古賀政男の初期作品は「演歌ではない」、と気づかせてくれたのは、ソプラノ歌手で音楽学者の藍川由美さんの著書『「演歌」のススメ』(文春新書、2002)である。

藍川さんは楽譜と「古賀政男自作自演集」の演奏がピタリと合い、コブシなどの日本的な節回しがすべて楽譜に書きこまれ、古賀自身が楽譜どおりに歌っていることに気づく。藍川さんの分析は次回に紹介するが、1931年に発売された作品は、まずは今日の演歌とは違うことだけ留意しておこう。初期作品について藍川さんはこう述べている。

「(略)初期の作品に『コブシ」を多用した歌が少ないことに気付かされる。初期のヒット曲《影を慕いて》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》は、いずれもヨナ抜き音階で作曲されているものの、決して日本的な節回しとはいえない」(藍川由美、前掲書、2002)

「酒は涙か溜息か」は、現在にいたるまで多くの演歌歌手がカバーしている。筆者は、アドリブのコブシをきかせ、音程を適当にポルタメントして変化させる演歌の唱法が耳についていて敬遠していた。しかし、原曲の藤山一郎による歌唱はたしかに楽譜の音程とリズムどおりであり、フレージングも小節線に正確である。古賀政男の意図どおりなのだろう。




505 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 08:27
「米山さんのお話は、うちの専属作曲家になって『影を慕いて』のような珍しい作品を入れて欲しいというものであった。しかし、私は学生時代には、主として『メヌエット』などのクラシックの練習曲を作っていたので、歌謡曲の作曲家として生きることには、やはり自信が持てなかった。そこで、『コロムビアに勤めることは有難いことですが、作曲家ではなく、普通の社員ということでお願いしたい、学校の成績も一応十番以内には入っているのですから……』とお答えしておいた」(古賀政男、前掲書)

古賀政男は最初から演歌を作曲していたと思われがちだが、発想はクラシックである。
慶応義塾大学、同志社大学、早稲田大学のマンドリン・オーケストラはすでに1910年代から活動しているが、いずれもクラシックのアレンジやオリジナル作品を中心にしていた。23年に誕生した明大マンドリン倶楽部もクラシックとオリジナルを中心としており、古賀政男のアレンジもクラシックをベースにしている。定期演奏会では本科3年から指揮者だった。

コロムビアからの誘いに、「歌謡曲の作曲家として生きる自信がない」と言っているのはそのためである。歌手も大半は東京音楽学校の声楽専攻出身者ばかりで、当時の古賀作品は演歌の曲想とはかなり違う。

けっきょく、月給120円で作曲家としてコロムビアに入社することになった。
ビクターからみると、佐藤千夜子の「影を慕いて」などがとくに売れたわけでもなく、専属作曲家には中山晋平といった大御所を抱えていたので、とくに古賀を独占しようとは思わなかったのだろう。
月給120円は、たぶん現在の価値で100万円はあったと思われる。古賀は27歳だった。

月給の金額について、こう書いている。
「(略)英人社長と米山さんが相談したらしい。今度は、月二曲ずつ作曲するという条件付きで社員としてやると言う。月給の希望を聞かれたので、これまで六十円で生活してきたから八十円ももらえればと答えた。
すると向こうが言うには、外資系の会社だから昇給はない、そのかわり百二十円出そう。月給百二十円と聞いたときには腰を抜かさんばかりに驚いた。
おそらく当時の一流会社の課長以上であったろう」(古賀政男「「私の履歴書」『私の履歴書 文化人12』所収、日本経済新聞社、1984)

「英人社長」とは、1929年に日本蓄音器商会(コロムビア)副社長に就任し、その後は35年に日産へ買収されるまで社長だったL.H.ホワイトのことである。ホワイトは「英人」ではなく、米国人である。
日本コロムビアへ英米の両コロムビアが出資したが、英国コロムビアのほうが出資比率も高く、英国系という印象が強かったのだろう。人材は米国コロムビアが派遣している。



506 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 08:49
古賀の入社は昭和6年(1931年)3月で、早くも5月には「乙女心」(関種子)を発売している。
関種子(1907−90)も東京音楽学校を首席で卒業したソプラノ歌手で、その後も古賀作品を10曲以上歌っている。

「酒は涙か溜息か」の作曲について、自伝ではこう書いている。
1931年夏のことである。満州事変(9月)前夜、昭和恐慌の真っただ中だった。
「私は高橋(掬太郎)さんの歌詞に大都市と地方の格差をはっきりと感じた。大都市の繁華街をモボとモガが腕を組んで闊歩し、ジャズ音楽に身も心も奪われているとするならば、地方の青年たちは、場末の暗い酒場で酒をあおって、沈吟していたに違いなかった。
どちらも同じムードの表現ではあっても、これだけ大きい差がある。ジャズと都々逸。それは音楽的に図式的に表現すれば一オクターブ七音と、五音の東洋的短音階との差であった。
この落差を埋めなければ、この時代の世相を反映し、すべての人々に共感を得る曲はできないと私は思った」(古賀政男『自伝わが心の歌』新装増補、展望社、2001)。

詞の調子は七五調の「都々逸」風で、即興のような三味線でならすぐに書ける。しかし、それではジャズ(ポップス)に浸る大都会のモボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)は共感しないだろう、というわけだ(「都々逸」は江戸時代後期の俗曲、座敷芸)。




507 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 09:16
「そんなある日、ギターの性能を活かすことによって、解決の端緒が得られるのではないか、というアイデアが私にひらめいた。それから、毎日ギターで三味線の曲を弾いてみたり、古い民謡や義太夫というようなものまで弾いたりしてみた。
そして、突然あのメロディーが浮かんできたのだった」(古賀政男、前掲書、2001)。

「酒は涙か溜息か」はニ短調(Dm)で、基本的にヨナ抜き短音階で書かれているが、サビの冒頭は第4音のG(ソ)で始まり、日本の民謡の音階を感じさせる。日本音楽を西洋のギターで繋いだ意図がわかる。
ちなみに「影を慕いて」はニ短調の完全なヨナ抜き短音階で、中山晋平のように和洋折衷の感覚を出している。唱歌や童謡に近い。

「酒は涙か溜息か」は第4音を入れて民謡音階の感覚を混ぜ、義太夫や都々逸のような伝統的な邦楽のようでいて、しかし楽譜には西洋音階以外の音程は使わない。譜割りも厳密に書かれ、小節線を無視するようなアドリブは許さない、という意思が見える。こうすることによって大都会で洋楽を聴く若者にも共感されたい、ということだろう。

藍川由美さんによると、中後期の演歌の原型的作品になっても、コブシや日本的な節回しでさえすべて楽譜に書いているというから、楽譜を見れば作曲者の意図はすべて理解できるわけだ。発想はクラシックの作曲家と同じである。

古賀がコロムビアに入社した1931年、この年4作目の「丘を越えて」ではまったく曲想が変わる。
この年に発売した4曲は、合計200万枚を超える売上だったという。
コロムビアは月給以外に、1枚1銭の印税を支払うことにした。あっという間にヒット・メイカーとして流行歌を牽引する作曲家となった。


508 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 11:06
■作曲家古賀政男 昭和6年から7年にかけての主な作品

影を慕いて     佐藤千夜子    ビクター  昭和6年1月
日本橋から     同                     日本初のタンゴ
乙女心       関種子      コロムビア 昭和6年6月
キャンプ小唄    藤山一郎               7月
月の浜邊      河原喜久恵              同  ジプシ―短音階
酒は涙か溜息か    藤山一郎               9月
丘を越えて     藤山一郎               12月
窓に凭れて     関種子                 同
影を慕いて     藤山一郎           昭和7年3月
日本橋から     関種子            同
(いずれも、東京音楽学校卒)。「影を慕いて」は1989年、「日本の名曲10曲」としてNHKテレビ放送で1年間繰り返し放送。



509 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 11:54
「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・「古賀メロディ」と呼ばれる曲が
生まれ世に出て圧倒的に謳われたころ、90年前の日本に現在ある歌のほとんどは、童謡、民謡,唱歌などを除いてまだ存在しなかった。
映画「二十四の瞳」は、昭和3年から戦後草創までの瀬戸内の寒村の小学校を描いたものだが、日本は、昭和30年代まで貧しい時代だった。
小学校の卒業を待たずに奉公にだされる子、食いっぷちを稼ぐため可愛い子を奉公に出ささねばらなかった、飽食の時代には考えられない貧しい時代だったのだ。貧しくも心豊かな時代。
この「古賀メロディ」の出現は、こういう社会の中で新鮮なものであったろう。それは単なる歌謡曲の歴史としてではなく、日本の歴史的、文化的、社会的に、特筆されるべき、とても大きな出来事として記憶される。
大正14年にはラジオ放送が始まり、昭和2,3年にかけ相次いでレコード会社ができた。

昭和3年には、古賀政男の「影を慕いて」が作られ、そして3年後、今からもうすぐ90年前。東北大凶作、昭和大恐慌、の中、昭和6年(1931)には古賀政男がコロムビアに入社。
藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る『古賀メロディ』が大衆の中に圧倒的に浸透してゆくのです。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、今までにない「メロディ」を重んじた、新鮮で哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場・・それは人々の心をとらえ、主流だった【晋平“節”】が【古賀“メロディ”】にとって変わられることになった。
最近、なんでも作曲家の後ろにメロディをつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する戦後に至る唯一のトップブランド・敬称。それ以外で「古賀メロディ」のごとく、実際に「メロディ」をつけて使われ通用されたものではない。

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロディー」登場を、娘の身売り相談所の写真とともに大きく伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)












510 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 22:04
 “昭和歌謡の大御所”として、死してなおその名を轟かせる「古賀政男」が、「私は容易ならぬ強敵の出現に思わず身がまえた」「よき宿敵(ライバル)を得て、私の作曲意欲はますます激しく燃えた」とまで自伝に書いた作曲家がいる。
「東京音頭」の中山晋平でも、「リンゴの唄」の万城目正でも、今、朝ドラ「エール」で話題の古関裕而でもない。江口夜詩がその人である。
 その名を聞いて、ピンと来る人は今では少ないだろう。「月月火水木金金」や「憧れのハワイ航路」の作曲者と聞いて、そうかと思う人はかなり詳しいほうだ。とはいえ、かつての江口は、飛ぶ鳥を落とすヒットメーカーであり、コロムビアへの移籍に際して、売れっ子になる前の古関をその余波でクビにしかけたほどの勢いを誇っていた。

なお、コロムビアの顔・古賀政男の文芸部長を通した上層部への抗議によって、古関解雇は撤回となった。
 古賀もこう回想している。「コロムビアには、若き日の古関裕而君がいたが、私が活躍し始めた頃からスランプに陥ってしまった。会社は、江口君の入社後、古関君と再契約しないと言い出したのである」。

<朝ドラ「エール」と史実>「半額」どころか「クビ」になりかけた古関裕而。ピンチを救った金子の行動とは
 h ttps://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20200806-00190902/
 そんな江口の記念館が岐阜県大垣市に存在することは、あまり知られていない。
 大垣駅より南西へ、牧田川の流れに逆らうように車で走ること約40分。草木が生い茂る養老山脈の西腹を見ながら、こんな山間にそんなものがあるのかと疑わしくなってきたころ、その建物は突如としてダム湖畔に姿をあらわす。



511 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 22:19
江口夜詩記念館。水嶺湖は隣接するタ?ム湖の名称(2020年7月、筆者撮影)
 日本昭和音楽村。ここには、そんなやや形容過剰な名称がついている。1989年度に、旧上石津町のふるさと創生事業の一環として整備がはじまり、現在では、カフェレストラン、コテージ、音楽スタジオなどを擁する、ちょっとした複合施設となっている。江口夜詩記念館と呼ばれるのは、中核となる円形ドームのホールだ。
 江口の名を冠する理由は簡単で、ここが出身地だからである。
 江口夜詩(本名、源吾)は、1903年、上石津町の前身のひとつ、時村に生まれた。13年間、海軍軍楽隊に在籍してチェロや作曲を学んだのち、1931年、ポリドールの専属作曲家に転身。そこでヒット曲を連発して、1933年、コロムビアに迎えられた。先述のエピソードはこのときのものだ。なお、ペンネームは、早世した最初の妻・喜枝(よしえ)にちなむ。
 代表曲のひとつで、海軍の休み知らずの猛訓練を歌った「月月火水木金金」(正式には「艦隊勤務『月月火水木金金』」)は、ポリドールに復帰していた1940年に発表された。当初あまり受けなかったものの、翌年、アジア太平洋戦争が勃発すると大ヒット。「轟沈」と並んで、江口の代表的な軍歌となった。
 戦後は、もうひとつの代表曲「憧れのハワイ航路」などを発表したものの、1963年ギランバレー症候群と診断され、作曲活動が困難に。それでも、1978年の逝去まで、数多くの弟子を育て、4000曲ともいわれる作品を残した。晩年、医者から「何かアレルギーは」と聞かれて、古賀の「丘を越えて」を上げ、「俺はあれを聞くと蕁麻疹が出る」と答えたエピソードはあまりに有名。江口にとっても、古賀は永遠のライバルだった。
 こういうと、さぞや記念館の展示も立派なのだろうと思うかもしれないが、さにあらず。展示エリアは、ホールの一角にこぢんまりとあるにすぎなかった。資料点数は、100あるかどうか。受け付けに訊ねても、それ以上のものは保管していないという。昭和の音楽資料を広く集める構想もあったと聞いていたので、これには拍子抜けしてしまった。
 ただ、小粒ながら、よく見ると味わい深い。主要なレコードが小気味よく集められているだけではなく、その間を、必要十分な自筆譜や色紙などが埋めている。海軍の報道班員として、マレー半島北西岸沖のペナン島を訪れたときの身分証明書や腕章はいかにも珍しい。
 なかでも「校歌・社歌・町民歌・音頭」のプレートには唸らされた。その名のとおり、江口が作曲した団体歌の作品リストなのだが、これが1時間眺めていられるくらい、興味深いものなのである。
 たとえば、社歌。講談社、西濃運輸、山際電気、主婦と生活社、樺太新聞社、千葉製粉、ホンダモーター、中島飛行機製作所、九州飛行機などの名前が所狭しと並んでいる。普段関係なさそうな会社が、江口の名のもとでつながっていくところに、知的な愉悦を覚えないではおれない。
 官公署の関係では、「長浜警察の歌」「国鉄大船工場歌」「海上保安の歌」、さらには「玉川税務署の歌」も。税務署単位の歌とは、どんなものだったのだろう。これに加えて、「全逓歌」のように、労働組合の歌もあるのも興味をそそられる。h ttps://bungeishunju.com/n/ne451ad97863f

江口夜詩
岐阜県養老郡時村(現・岐阜県大垣市上石津町)出身。16歳の時、海軍軍楽隊に応募し、第一期軍楽補習生として横須賀海兵団に入団。海軍軍楽隊専属の作曲家としての将来を嘱望され、海軍省委託生として、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に6年間通学してチェロ等の音楽を学び、1925年(大正14年)、処女作『千代田城を仰ぎて』を完成させる。また1928年(昭和3年)には昭和天皇即位大典演奏会で吹奏楽大序曲『挙国の歓喜』を発表した。



512 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/20(Thu) 22:34
>>510

h ttps://news.yahoo.co.jp/byline/tsujitamasanori/20200806-00190902/
<朝ドラ「エール」と史実>「半額」どころか「クビ」になりかけた古関裕而。ピンチを救った金子の行動とは
辻田真佐憲 | 近現代史研究者
2020 8/6(木) 8:30

(写真:アフロ)

契約から半年すぎても、いい作品ができない裕一。ついに契約金を半額にするとディレクターに言い渡されてしまいます。ドラマでは、音の機転でピンチを乗り越えましたが、実際の古関裕而は“クビ”になりかけた上、契約金を半額にされてしまいました。

事実関係を再確認しておきましょう。古関は、1930年10月、月額200円でコロムビアと契約しました。その後、ノルマの作曲を果たさなかったためか、契約途中の1931年5月に月額が90円に。そして1931年10月の契約更改では、月額が100円になってしまいます。

「こどもと一緒にヒットもかならず古関は産むから」
1931年の契約更改では、解約の危機もありました。なんとか契約を続けてもらおうと、古関は金子をともなって、文芸部長だった米山正(おそらく廿日市のモデル)の自宅に頼みに行ったそうです。

古関は、そのときのことをテレビで回想しています。一緒にいる作曲家の米山正夫は、米山正の息子です。

米山正夫 いきなり100円にね、値下げされた。それでね、生活がたいへんに苦しくなられて。それでご夫婦でね、ある晩、うちへ来られましてね。

司会 そのときも、奥様がお腹に赤ちゃんがいらっしゃったんですね。それで、「こどもと一緒にヒットもかならず古関は産むから」とおっしゃったという。

古関 ええ、「かならずコロムビアに恩返しします」と家内が……。まあ、恩返ししなかったら大変なことですよ。

司会 それはまさに内助の功もいいところで。それで延命したわけですね。契約解除にはなりそうだった?

古関 ええ、はじめ契約解除になりそうだったんですが、それで契約を続けてくださった。

司会 ただし半額になった?

古関 はい、そうです。

出典:「人に歴史あり」東京12チャンネル、1976年6月27日放送
この会話だけでは、時期がわからないのですが、1931年で間違いないと思われます。

というのも、第一子の雅子氏が1931年12月生まれで、ちょうど「お腹に赤ちゃん」という回想と辻褄が合うからです(公式には1932年1月生まれとなっていますが、長男の正裕氏によると、前月にずらしたとのこと)。

これにたいして、次女の紀子(みちこ)氏は1934年7月生まれなので、10月の契約更改時期に合いません。なお、正裕氏は戦後生まれです。

「会社は、江口君の入社後、古関君と再契約しないと言い出した」
古関はもういちど、契約解除の危機を迎えています。こちらは、古賀政男の自伝に出てきます。

コロムビアには、若き日の古関裕而君がいたが、私が活躍し始めた頃からスランプに陥ってしまった。会社は、江口君の入社後、古関君と再契約しないと言い出したのである。

私は憤慨した。芸術家にスランプはつきものだ。それを理由に契約を左右されたら、安心して作曲などできない。いくら私が順調にいっているとはいえ、私だっていつスランプになるかわからない。

私は断固抗議し、古関君は再契約にこぎつけた。

出典:『歌はわが友わが心』
「江口君」とは、前回取り上げた、江口夜詩のことです。江口がコロムビア入りしたのは1933年ですから、この年の10月、ふたたび古関は危機を迎えていたわけです。

以上から、古関は少なくとも2回“クビ”になりかけたことがわかります。1回としている文献もありますが、それは間違いだと思います。もちろん、今後新しい資料が発見されて見直される可能性はあります。

そんなわけで、同じ条件で契約を継続できたドラマの裕一は、かなり恵まれていたといえるでしょう。それにしても、現実の金子はかなり大胆ですね。その活躍がなければ、古関のヒットも世に出ていなかったかもしれません。



辻田真佐憲
近現代史研究者
1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『古関裕而の昭和史』『文部省の研究』(文春新書)、『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)などがある。

513 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 11:13
■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
 2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


514 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 11:31
金子(古関裕而の妻)の通っていた学校は、かつて世田谷区代田にあった「帝国音楽学校」でした。「東京音楽学校(後の東京藝大)」とは別の学校でした。三浦環は東京音楽学校出身。ともあれ音大の授業の描き方や古関の提出した曲の楽譜が単旋律だったり、もう少し専門家も関わってほしいなぁ # エール

515 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 14:53
昭和3年(1928)にはレコード歌手第一号とされる佐藤千夜子の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の他、二村定一の「アラビヤの唄」、「青空」など外国曲の訳詩曲や、藤原義江の「出船」(杉山長谷夫作曲〉、「出船の港)(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など。昭和4,5年には、映画主題歌第一号「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)、「紅屋の娘」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など佐藤千夜子の中山晋平の曲、二村定一の「君恋し」(時雨音羽作詞、佐々江華作曲)など。

昭和6年に、ここに彗星のように現れるのがコロムビアの若き古賀政男。

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。

影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
昭和7年から8年にかけて主な作品

鳩笛を吹く女の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
影を慕いて   〈古賀政男作詞作曲〉      藤山一郎
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
あけみの唄   (原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲) 関種子
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子
二見情話    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵   (島田芳文作詞、古賀政男作曲) 関種子
去りゆく影   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 関種子
サーカスの唄 (西條八十作詞、古賀政男作曲) 松平晃

「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

他に昭和6年には、ビクター「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。



516 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 15:01
訂正

鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎

517 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/21(Fri) 15:12
昔は、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。
(新制東京芸術大学は、戦後学制改革によって、東京美術学校と東京音楽学校が合併してできた。)

関種子(1907〜1990)
昭和期のソプラノ歌手。府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90


藤山 一郎(1911〜1993)
日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家。バリトン歌手として活躍。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットした。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。作曲家・指揮者としても活躍した。


藤山一郎、関種子のコロムビアでの歌謡デビューは、コロムビアの「古賀メロディー」のデビューの歌手としてであり、
その後も多くの「古賀メロディー」を支えることになった歌手である。






518 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:03
乙女心 (鹿山鴬村作詞、古賀政男作曲 関種子)
月の浜辺(島田芳文作詞、古賀政男作曲、河原喜久恵)


82年前、昭和六年(1931)7月発売。「月の浜辺」(島田芳文/作詞 古賀政男/作曲、河原喜久恵)とともに、
昭和6年3月、コロムビア専属作曲家となった若き古賀政男栄えの第一作「乙女心」。
ドイツリートの若きクラッシックソプラノ歌手、関種子の歌謡録音第一作でもある。関種子は藤山一郎とともに、
この後、「窓に凭れて」「朝顔の唄」「嘆きの夜曲」「美わしの宵」「去りゆく影」「あけみの唄」など多くの古賀メロディを支えた。


乙女心

朧月夜の その頃に
トンと踏まれた道の芝
燃ゆる想いに泣きぬれて
露の情の玉襷(たすき)
泣き泣き結ぶ玉襷
乙女心を知ろかいな


関種子出演オペラ
「カルメン」ミカエラ
「ファウスト」マルグリート
「ラ・ボエーム」ミミ
「椿姫」ヴィオレッタ
「ドン・ジョヴァンニ」ツェルリーナ
「トゥーランドット」トゥーランドット
「フィガロの結婚」スザンナ



519 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:21
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックソプラノ歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄 (貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3

乳姉妹の唄   (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女    (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋   (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938  松原操盤もあり。







520 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 21:40
☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。






521 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:02
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952


522 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:30
>>510

古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。古関の場合、言われていることと実際には大きな乖離があるようだ。作曲家になる当たりの昭和の4、5年頃のことも楽譜など何一つ残っておらず不明な点が多く見られるのだ。
歌詞をもった歌謡作品というものはクラシック作品とは違って、テクニックではないのだ。
どんなに優れていたとしても、詩と一体となって、真に心のつぶやきや、心の叫びから出たものでなければ、けっして多くの人に共感・共鳴を与えることはできないのだ。

古関の作品は決して少ないというわけでもないのだが、いいのものもあるにしてもが残念ながら全体的に、メジャ−な作品(ヒット作品)が見あたらないのだ。
言われていることと違って、古関はヒット曲が出ないで悶々とした日々を送っていた。その頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。


苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。それは、コロムビアの顔・古賀政男が昭和9年、テイチクに移っていなくなった後だった。だから、古関の実際のデビューは、この昭和10年と言える。だがそれ以降も苦しい立場は変わらなかった。





523 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/24(Mon) 22:51
エールをみても、東京行進曲ならぬ「福島行進曲」それに「福島三羽烏」、どうでもよい、マイナーな者ばかしでメジャ―なものがでてこない。応援歌だとか本筋からはずれたことのみでは、おもしろくもない・・、
こうしたものをNHKに強く推したのが福島と豊橋。決しておもしろい などとはいえるものではないもの。

524 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 07:53
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。





525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 08:16
あけみの唄 昭和7年(1932年)

作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関 種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ

526 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/25(Tue) 09:42
ジャズ、クラッシック、J−POP、歌謡曲・・
これまで色々な分野の作曲家が沢山出た、しかし古賀政男ほど日本を含め幅広く世界の多くの音楽をとりいれた
作曲家を知らない。

古賀氏の音楽は基本的に「洋楽」だと思いますよ。
あくまで洋楽がベースにあって、そこに彼のオリジナル部分が加わってるのだと思います。


古賀政男の音楽は、洋楽に、日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたものだと思います。

作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・
古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。

81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表したのです。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

また、昭和14年から、二人はコロムビア専属となるのだが、「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。

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