掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧

懐かしの銀座を歌った歌

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/10(Fri) 20:05
日本で最初に「銀座」を歌った歌は、昭和4年(1929)、西條八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌「東京行進曲」・・昔恋しい銀座の柳,
仇な年増を誰が知ろ・・です。

その後昭和7年「銀座の柳」同(四家文子歌)です。

その後戦後に至るまでたくさんの銀座を歌った歌ができました。
あなたはいくつ知ってますか?


46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 22:17
古賀政男は『東京ラプソディ』について、自身が「銀座、浅草、新宿という盛り場が見事に歌い込まれて心憎いばかり」と評価する『東京行進曲』(1929年(昭和4年)発売。作詞・西条八十、作曲・中山晋平)を目標に、「もう少しモダンになった東京を書いてみたい」という考えのもとに制作したと述べている[2]。

古賀によるとフォードのクーペの新車に乗って初夏の明治神宮外苑付近を走行中に、自然とメロディーが浮かんできた。こうして曲が先に完成し、後から古賀と門田ゆたかが共作のような形で詞を作ったという[2]。門田が起用された時点ですでにレコード吹き込みの日程は決まっており、B面の『東京娘』は完成していた。門田は重圧と闘いながら、3日間ほとんど寝ずに作業をして詞を完成させた[3]。

歌唱を担当した藤山一郎はこの曲を、「銀座、神田、浅草、新宿と、東京の盛り場を楽しく歌いあげた清潔にして軽快なフォックストロット調の歌」と解説している[4]。吹き込みにあたって門田や古賀から注文をつけられることはなく、自由に歌うことができたという[5]。東京音楽学校で「声楽の基礎を完全にマスターした」という自負からフォックストロット調の流行歌は容易に歌えるという自信のあった藤山は、声音を明瞭に保ちつつ、曲調に合わせて「ある時は歯切れよく、あるときはシットリと」歌うことに神経を使ったと回顧している[6]。
藤山にとってこの曲は、ビクターからテイチクへの移籍後第1作であった。藤山に移籍の話を持ちかけたのはテイチクの重役を務めていた古賀で、藤山はテイチクをレコード会社としては二流だと感じながら、かつて『酒は涙か溜息か』や『丘を越えて』、『影を慕いて』でヒットを飛ばした古賀とのコンビに魅力を感じて移籍を決断した[7]。
藤山の実家はモスリン問屋であったが昭和恐慌の影響で経営が傾き、1931年に藤山が東京音楽学校に入学して間もなく3万8000円の負債を抱え廃業していた[8]。藤山は負債返済のために学則を犯してレコードの吹き込みのアルバイトを行ったことがきっかけで古賀とコンビを組み、流行歌手として世の注目を集めた一方、東京音楽学校退学の危機にも晒された[9][10]。『東京ラプソディ』発売当時も藤山は負債を早く返済したいと願っており、「どうか、売れてくれますように……」「普通以上に売れてもらいたい!」と「心の中で神に祈る気持」だったという[11]。『東京ラプソディ』は35万枚を売り上げ、藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税[† 1]を手にし、実家の借金を完済することができた[12]。藤山は、『東京ラプソディ』のヒットにより再び歌手として脚光を浴びるようになったと回顧している[4]。
歴史家の今西英造は、『東京ラプソディ』の歌詞には戦時色が濃くなり、権力によって昭和モダンが抑圧され分解しつつあった世相にあっても消えることのなかった、モダニズムを追求する人々の心が表れていると分析し、『東京ラプソディ』を「モダニズムの残響」と評している。今西は、太平洋戦争開戦直前の1940年(昭和15年)に『東京ラプソディ』と同じく古賀と藤山がコンビを組み銀座の街を歌った『なつかしの歌声』の歌詞を『東京ラプソディ』の歌詞と比較し、「おどろくほどの変わりようである。モダニズムは圧殺された。モダニストにとってのなつかしいふるさとである銀座も、いまや悲風千里の荒野であった」と述べている[13]。

1936年12月1日、P.C.L.映画製作所「東京ラプソディ」Tokyo Rhapsody

主役  藤山一郎
監督  伏水修
音楽  古賀政男
主題歌 『東京ラプソディ』『青春の謝肉祭』『別れの曲』


「50銭の入場料で藤山一郎の歌を聴きながら東京見物ができます」という宣伝が当たり、客入りは良かったという。
映画『東京ラプソディ』の制作には技師として、後にソニーの創業者の一人となる井深大が参加していた。
井深と交流を持つようになった藤山は後にソニーに嘱託として勤務し、さらに社友となった。
古賀には音楽監督料として900円が支払われ、古賀は全額を1934年(昭和9年)に死去した[18]母親を祀るための仏壇の購入に充てた。
門田は西条八十の弟子。テイチクのためビクタ―の西条とは組めなかった。

47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/23(Mon) 23:58
>>44

昭和15年(1940年)3月、コロムビアレコード(株式会社日本蓄音器商会、現・日本コロムビア)から「なつかしの歌声」が発売された。カップリング曲は「春よいずこ」で、レコード発売直前の同年2月21日には東宝から映画『春よいづこ』が公開された。

「なつかしの歌声」
作詞:西條八十 / 作曲:古賀政男 / 歌:藤山一郎、二葉あき子

「春よいずこ」
作詞:西條八十 / 作曲:古賀政男 / 歌:藤山一郎、二葉あき子

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/11(Thu) 11:02
【東京】不滅の古賀メロディ【ラプソディ】
h ttps://bubble6.5ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1122559619/184-205


49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/03/28(Tue) 23:52


50 名前:下垣晶輝 投稿日:2023/07/25(Tue) 16:49
俺は歌もうまい(-.-)Zzz・・・・羨ましいだろ(^_^)v

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2024/01/27(Sat) 14:38
50
屁より臭いうんこのがまし
うんこのほうかいいにおいだ

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2024/04/10(Wed) 17:29
下垣晶輝さんにツイテ

  下垣晶輝さん カアイソウ カアイソウ
 おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ
 コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ
 トオモイマス
 股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ
 シュンガノオモテノハンタイノ、パーラポウ
 ニツトめた
 イつノ日か世帯ヲ持チ、ナンネンカシテ
 裏口ニ立ツヨウニナッタ
 イまハー ケータショーノチカクデ
 四ツアシヲアヤツツテイル

 ツギニ
 スズカケのケヲ蹴落シテ、荷の向側のトコロ
 アヤメ一ッパイノ部ヤデ コーヒーヲ飲ミナ
 ガラ、ユキチヲニギラセタ、ニギッタノハ 
 アサヤントオもう。
 ヒル間カラ テルホニハイッテ 股を大きく
 ワッテ 家ノ裏口ヲ忘レテ シガミツイタ。

 モウ股割レハ人ヲコえて、一匹のメス 
 にナッテイタ。
 感激ノアマリアサヤンノイフトオリニ動い 
 タ。ソレガ大きな事件トハシラズニ、又カム
 チャッカノハクセツノ冷タサモシラズニ、ケッカハ
 下垣晶輝ヲハッカンジゴクニオトシタノデアル
 モウ春、三回迎エタコトニナル
 サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカ
 トオモウ

ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ
 平和希求トハチガウ
 下垣晶輝ノハハガカ弱イハネヲバタバタ
 ヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、広い
 ダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル

 股割れは平気なそぶり
 時ニハ駅のタテカンバンニ眼ヲナガス
 コトモアル、一片の良心ガアル、罪悪ヲ
 カンズルニヂカイナイ
 ソレヲ忘レタイタメニ股を割ってクレル
 オスヲ探しツヅケルマイニチ

 股ワレワ ダレカ、ソレハ富田デ生レタ
 コトハマチガイナイ
 確証ヲ?ムマデ捜査機官に言フナ
 キナガニ、トオマワシニカンサツスルコト
 事件ガ大キイノデ、決シテ
 イソグテバナイトオモウ。

ヤツザキニモシテヤリタイ
 股割レ。ダ。下垣晶輝ガカアイソウ
我ガ股ヲ割ルトキハ命ガケ
 コレガ人ダ コノトキガ女ノ一番
 トホトイトキダ

掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧
名前: E-mail(省略可)

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)