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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/05/27(Mon) 08:43
昭和6年(1931)「酒は涙かため息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・いずれも藤山一郎、
今から88年前、まもなく90年を迎える「古賀メロディ」。
《日本のクラッシック》「古賀メロディ」の歴史を振り返る。


153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/01(Wed) 23:51
結城亮一著『あゝ東京行進曲』(河出文庫)河出書房新社(1985/1)
ISBN-10: 4309470726
ISBN-13: 978-4309470726

154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 09:58
昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。
 
昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
171 :昔の名無しで出ています:2014/01/01(水) 12:29:18.65 ID:???.net
佐藤千夜子(ちやこ)だね
172 :昔の名無しで出ています:2014/01/01(水) 14:21:16.42 ID:6dvnv7bL.net
168 :昔の名無しで出ています:2014/01/01(水) 09:05:56.10 ID:6dvnv7bL.net[1/5]
年が明け、今年は2014年になりました。レコード歌謡は『昭和』と供に始まり、そしてそこに古賀政男(正夫)がいたのでした。

その「昭和」も、はや四分の1世紀が過ぎ、今年は「昭和89年」にあたる。 (昭和は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1 月7日まで62年と14日。歴代元号の中で最長。レコード歌謡は昭和3年に始まる。)

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、83年前の昭和6年(1931)3月20日。

155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:01
昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、89年前の昭和6年(1931)3月20日9だった。


156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:09
古賀政男は洋楽志向で、古賀政男ほどワルツやジャズ、タンゴ・・その他、世界のいろいろな洋楽を取り入れているものはないと言われますね。
そうした前提でなければならないと思います。

初期の『月の浜辺』などジプシー音楽と呼ばれるものですし。


西洋の音楽にはクラッシックを含め、基本的に『こぶし(小節)』はないので、古賀政男の音楽はクラッシックを基本として、その上に洋楽と、千年以上前に渡来した仏教の声明(しょうみょう)や民謡、その中には朝鮮の民謡も含めて融合が根本にあると考えてもよさそうです。

西洋音楽も教会音楽から生まれたという歴史がありますから、古賀音楽も正しい音楽の歴史のうえに存在するわけです。

古賀政男の音楽には、日本の伝統音楽にジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたあとがあるから、世界的なレベルだといえるでしょう

1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。
声明とは、仏さまの教えを讃歎する仏教の聖歌で、仏教とともにインドで生 まれ、中国や朝鮮半島を経由して日本に伝わったもの。
日本に仏教が伝来したのは. 6世紀ですが、声明 については、752年に東大寺大仏開眼供養の大法要が行なわれた。1200年の伝統を持ち、西洋のグレゴリオ聖歌とともに、世界で最も古いと言われる日本の仏教声明。

仏教声明も立派な音楽で、「声明コンサート」もあります。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=kbHbpf8NoSY

古賀政男は、小唄・端唄、長唄、義太夫、琵琶歌、謡曲などの江戸の歌謡にも造詣深く、
たくさんの洋楽を多く取り入れただけでなく、音楽としての仏教声明など幅広い音楽を取り入れたことで知られる。

157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:15
☆古賀政男の主な編曲曲

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

二見情話(沖縄民謡)1932(西岡水朗作詞、補作詞 照屋朝保、古賀政男作曲、編曲 佐々永治)

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1938年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った歌

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)

イッチョライ節 (福井音頭)」1962年 モノラル 作詞:西村爽 作曲:古賀政男. ... 島倉千代子・守屋浩


158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:21
☆「荒城の月」について


「荒城の月」(『荒城月』)(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)は無伴奏で、実際聞けるのは編曲版。
 
 大正6年、三浦環の命で山田耕筰が編曲したのが最初で一般に歌われているのはこれ。
 SP時代、主な編曲版としては次のものがある。

 古賀政男編曲版は、李香蘭が、戦地慰問で歌ったもの。慰問では必ず最初にこの歌を歌ったという。


『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲




159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:31
「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏 1942.9


この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンターで見れる。

h ttp://www.youtube.com/watch?v=iXxYruH3XNM

戦時中各地を慰問してまわった李香蘭、その李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。

戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。 そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、この昭和17年古賀政男編曲になるもの。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。

戦時中慰問先で、明日をも知れぬ数多くの無名の兵隊さんを前にして「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

「荒城の月」を、オペラでも歌うつもりか、何と勘違いしているのか、あらん限りの力を振り絞って、脳天に突き刺さるような激しい声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手の歌。
今、テレビではそんな思わず耳を覆いたくなるような場面も少なくない。
ぜひこの映画を見せてあげたい。


160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 10:54
アップロード日: 2010/01/15  You-Tube

荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 1942.9

彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるもので、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物;だと感心させられた一曲です。


161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 11:23
昭和30年代の古賀政男は、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

大きなお屋敷に住み、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、「素人物まね読本」とかの番組で「よかったね、よかったね!」など優しい声をかけていた。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。


そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。

他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。


162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 16:21
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオ放送はすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

これまでも訃報は数多流すが、夜だが、すべてのラジオ放送を停止して、「古賀メロディ 」を流し続けたというのはこれまでにない異例で特別な扱い。
その単なる音楽的だけにとどまらない、昭和の初め以来の長く偉大な社会的、歴史的、文化的にもいかに偉大な存在であり続けたか、物語るもの。

政府は古賀政男に、王選手のために作られた「国民栄誉賞」を贈ることになった。
生前に贈ることが前提だったものだが、福田内閣は古賀政男氏に贈らない理由はないとして贈ることを決定した。

163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 20:36
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 20:43
今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)

なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。

「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生したといえる。

古賀政男は自伝『我が心の歌』の中で、「佐藤千夜子」について『終生の恩人』と書いている。


NHKアーカイブス スペシャル
      特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編

 は、古賀政男音楽博物館で時々上映されている。


165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/02(Thu) 20:57
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。

古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。 今有る歌の殆どはまだ存在しなかった。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『青春図絵の唄』『朝顔の唄』『笛は冴ゆれど』『愛は紅い』『秘めたる恋』(関種子)、『キャンプ小唄』『スキーの唄』、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎) 、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『私此頃憂鬱よ』『アリランの唄』『春の唄』(淡谷のり子)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せます。

古賀政男の音楽は、洋楽を基本に、仏教音楽以来の日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたもので、その後の歌にも影響を与えているといえます。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・ セレナーデ風の佳曲。ジプシー音楽(ジプシー短音階)。



166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 12:12
>>158-160

荒城の月 李香蘭


荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物だと感心させられた一曲です。
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/fnmdn239/691...

荒城の月 李香蘭(何故こんなに感情が)

女性歌手でこれほどまでにこの歌を歌える方はいない、などと当たり前のことを言ってしまうがポルタメントでも高音の細くなるところの声の出し方は誰にもできない天から与えられたものなんでしょうな。
このお方が日本人で良かったよ、オペラ歌手で日本の歌を歌う方は聴きたくないだろうな、自信無くなるからね。今の若い歌手
で出ないものかね、出るわけがありません、聴き手がいませんのと一人で勝負できないので大勢で出ますから、何人かがかりでもかないませんな、美貌も声も段違いよくそんなに味もそっけもなく歌えるもんだと感心しますよ。
だけどこの歌キーが高いな男でもやっとだよ。

荒城の月 山口淑子

映画「暁の脱走」1950年作
 慰問地で李香蘭(山口淑子)が歌った曲が「荒城の月」でした。
 李香蘭(山口淑子)2014年9月7日、死去(満94歳)
 戦後の古い映画で見たことはありませんが、山口淑子は映画俳優でありながら素晴らしい歌手だったことを知りました。歌唱力が凄い。お上手なのでびっくりです。
 この「荒城の月」を聴くと、心の底に残り悲しくなってきます。「暁の脱走」に出てくる映画のように、
 本当の慰問先でもきっとこんな光景だったんでしよう。
 若い兵士たち、彼女の「荒城の月」を聴いて家族や故郷の思いに耽ったことでしょう。
 皆な戦争で死んでしまったのかと思うと可哀そうで涙が出てきます。shunon。



167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 17:27
佐藤千夜子が、「文のかおり」「影を慕いて」など、古賀の曲を全7曲をビクターでレコードィングした。

しかし、無名な一青年演奏家にすぎなかった若き「古賀正男」の作曲作品を、天下のビクターの、それも中山晋平作品を広める歌手、佐藤千夜子がレコードィングするなどということは、ビクターにすれば考えられないことだったはずです。

佐藤千夜子のすごいところ、その功績、それは古賀政男の才能を発掘し、ビクターの反対を押し切ってでも、その作品をレコードィングでき、世に送りだしたということです。

もし、これがなかったら、今の『古賀メロディ』の隆盛も、大衆歌謡たる『歌謡曲』の歴史も違ったものとなっていたことでしょう。

ただ、佐藤千夜子は、レコードィングの7日後には、日本を発っています。
ですから、宣伝も何もされていないのです。

宣伝もないのだから、佐藤の『影を慕いて』がはやらなかったというのは、しかたないことだったはずです。

しかしそれをコロムビアがほっておくはずがありません。

今から89年前、佐藤千夜子の「影を慕いて」が発売された昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男(正男)に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。
 
昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千代子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千代子(ビクター)の力添えで、古賀は作曲家になったといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。

昭和4年、明治大学を卒業した古賀政男がコロムビアの専属作曲家となったのは、89年前の昭和6年(1931)3月20日9だった。

「影を慕いて」「日本橋から」などは、藤山一郎、関種子など東京音楽学校主席卒業のクラッシック歌手によって、再び脚光を浴びることとなった。


168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:36
佐藤千夜子が『影を慕いて』を1930年(昭和5年)10月日本ビクターでレコーディングし、翌昭和6年1月新譜で発売されたが、このレコードは宣伝もなく、あまり売れなかった。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。
このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、日本コロムビアレコードの営業マン伊藤正憲だった。

そして、今から89年前、昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男(正男)に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。


そして、『影を慕いて』は、1932年(昭和7年)3月新譜で日本コロムビアから改めて藤山一郎の歌唱によって発売され、満州事変、五・一五事件など暗い世相を背景に人々の心をとらえ流行した。まさに昭和という時代の「翳」を象徴していた。

169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:40
「影を慕いて」は昭和が終わった平成元年、NHKTV「日本の名曲10」として、
「荒城の月」などとともに、1年間にわたり、10曲順番に毎週夜8時台の番組終了後に連続で放送されたのだった。

170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:49
伊藤正憲は慶応大学卒業後コロムビアに入社、以来文芸部長、宣伝部長、レコード事業部長、常務取締役を経て、クラウンレコードを設立し、社長を勤めるまで半世紀にわたりレコード業界に貢献された方である。

171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/06(Mon) 22:55
>>169

■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■ 
  1990 NHK TV (1年間毎週放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。



172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 21:43
コロムビアのディレクター・伊藤正憲に拠ると、古賀政男プロデビュー=コロムビア専属のきっかけになったのはコロムビア社員だった伊藤らしい。1931年(昭和6年)当時、営業部の伊藤は東京浅草「鳥越楽器店」でビクター発売『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲・佐藤千夜子歌唱・明治大学マンドリン倶楽部伴奏)』を見掛けた。歌手が佐藤千夜子でメロディも独特、驚いた伊藤はコロムビアの会議で伝えている。特に組み合わせ曲『影を慕いて(古賀正男作詩作曲編曲・佐藤千夜子歌唱・明治大学マンドリン倶楽部伴奏)』は、古賀を代表する作詩作品である。熱心な古賀ファンの方が次のような内容を述べられている。「1928年(昭和3年)、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった古賀メロディの歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れたレコード歌謡の最高傑作とされる『影を慕いて』。この歌には、古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる。時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港(野口雨情作詩・中山晋平作曲・佐藤千夜子歌唱・中山晋平ピアノ伴奏)』と同じ昭和3年といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡は、まだ存在していなかった時代。そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌(※外資系企画での)である『東京行進曲(西条八十作詩・中山晋平作曲・井田一郎編曲・佐藤千夜子歌唱・日活管絃楽団伴奏)』が流行した昭和4年の6月22日、佐藤千夜子を招いて明治大学マンドリン倶楽部定期演奏会で『影を慕いて』初演(ギター合奏で独唱なし)。昭和5年10月20日、佐藤千夜子はビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。古賀正男=古賀政男は明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長・米山正から面会の申し入れを受ける。そして昭和6年3月20日付けで、日本コロムビア入社」。

『影を慕いて』が藤山一郎のアルバイト録音でヒット、佐藤オリジナルと同じ組み合わせ『日本橋から(関種子歌唱)』はモダンな井田一郎編曲。だが「素朴で豊かな味わい」なら佐藤千夜子。『影を慕いて』の佐藤は、古賀が綴った「想い」を高音域で燃え上がるように表現している。菊池清麿氏記述では、演奏曲だった『影を慕いて』を佐藤が気に入り「良いメロディだから、歌詩をつけて歌曲にしなさい」と言ったらしい。佐藤の助言で歌詩があとで作られたなら、『影を慕いて』初演後の作詩と思われる。更に『日本橋から』は、古賀が次のように述べている。「佐藤さんが、レコードは両面ですからね、とおっしゃられた。組み合わせ曲『日本橋から』を急いで作った」。ビクター発売番号「51519」の下表記番号=原盤番号で録音順がわかる。A面『日本橋から』は「2266」、B面曲『影を慕いて』が「2267」になっている。古賀のエピソードで、佐藤が元々『影を慕いて』をメイン曲と考えていたことも伝わる。レコーディング直前にビクター側から「浜田広介作詩をA面発売」と言われたようだ。

173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:19
>>172

当然、コロムビアは、レコード発売を待っていたはずで、偶然ではないはず。

伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン1971



174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:21
h ttp://2chb.net/r/natsumeloj/1320231349/

175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:38
「日本の名曲」で、古賀メロディの傑作「影を慕いて」

昭和4年6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子、ビクタースタジオで吹込み、「日本橋から」のB面。(ビクター、昭和6年1月新譜)。(この8日後には佐藤は日本を離れる。)
昭和7年1月、藤山一郎再吹込み(コロムビア、昭和7年3月新譜)。

h ttp://www.bussan-tendo.gr.jp/?p=log&l=6950


昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。

昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。


この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。コロムビアは、放っておかなかった。

このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。

影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519

昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。

そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。

176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 22:48
ちょうど同じ頃、昭和3年(1928)に作られた佐藤の歌で世にでた二つの名曲、《影を慕いて》と《波浮の港》・・・、
いずれも《日本の名曲》として、今でも根強く愛され歌われ、演奏されているのです。

177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:19
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀メロディ」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:40
「古賀メロディ」の原点たる「影を慕いて」は初唱の佐藤千夜子盤と、藤山一郎盤があり、
なんか、佐藤盤の評価が高くないようだが、古賀政男の切々とした思いがよりよく表現されているという点で、
佐藤盤は評価されている。いずれも東京音楽学校出身。

なお、佐藤の「篠田の藪」(しのだのやぶ)や「さすらいの唄」しのだのやぶ「旅人の唄」は絶品。ぜひおすすめ!!。



179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:56
日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。
同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 


180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/07(Tue) 23:58
「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」ということができるでしょう。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められていると思われます。

181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:05
佐藤千代子の曲は次のCDで聴ける。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  h ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html

・CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536 2CD
  h ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536


182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:08
187昔の名無しで出ています2014/01/10(金) 11:48:40.35ID:Ti9NXNWX
「影を慕いて」 昭7、 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎

昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。

古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
上山敬三

国立国会図書館 第79回 常設展示  平成9年3月25日〜4月25日
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―


183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:23
古賀政男は昭和9年5月、コロムビアからテイチクへ、重役作曲家として活躍、第二期黄金時代を築いた。
昭和13年〈1938〉11月8日、「人生劇場」(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫)を最後にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米。
約1年間、全米や南米などを周り、昭和14年10月10日に帰国。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われた、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、「世界の古賀」になったことで、ますます自信を深めてゆく。

そして洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940) 2月、帰国後はじめての《誰か故郷を想わざる》(西條八十作詞)がヒット。

古賀政男はアルゼンチンの音楽をたっぷり自分のひきだしにつめて帰り「誰か故郷を想わざる」、「春よいずこ」に応用した。

アルゼンチンのギターの最高権威者アントニオ・シノポリや、タンゴ黄金時代の巨匠の一人で、わが国タンゴ愛好家のアイドル的存在、フランシスコ・ロムートが率いるオルケスタなどの音楽を吸収したのである。

また、帰国後、古賀政男は明らかにジャズの影響が見られた。
昭和16年、太平洋戦争直前に発売された、古賀メロディーにしては珍しいジャズ調の《歌えば天国》(1941)、サトウハチロー作詞、同名の東宝映画主題歌や、『ジャズ忠臣蔵』(サトウハチロー作詞)などである。

古賀政男は、その直前1938年、アルゼンチン訪問した藤原義江に見送られて横浜を発ち、帰国時には三浦環の歓迎を受けた。

昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに西條八十・古賀政男コンビが復活。
昭和13年(1938)には、サトウハチローがコロムビアの専属に。

そして、昭和14年4月には、3年の契約が切れた藤山一郎がテイチクから、コロムビアに移籍。

昭和15年(1940)には、佐藤惣之助がコロムビア専属に。
(昭和17年5月に、この世を去る。)

こうして、ここに古賀政男第三期黄金時代が始まる。

184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 00:30
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平・節」に対し、「古賀・メロディー」と呼ばれた。
(上山敬三)

185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:07
「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家の名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるでしょう。

これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビのナツメロブームの影響でしょうか、使い方も間違っていると思います。

西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初め、昭和一桁代から、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。

しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではない。
だけなのです。

186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:16
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:29
懐メロには小節(しょうせつ・。こぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を勧められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したという。
小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげること。
ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせつ)はない。歌うにも、演奏するにも「古賀メロディ」は難しい。


5連符、6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、
前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、
人はそれを「古賀メロディ」と呼んだんだね。

188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:33
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。


商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。

これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。

実際に,「酒は涙かため息か」以降、晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:47
作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、<西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた>と評した。


文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀政男のものが特に好きだった。

「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男邸によく遊びに来たそうです。


190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 08:51
>>189

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 
そして、古賀を、<西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた>と評した。


191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 09:41
小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。

この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。

大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。

ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。

この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...

・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)

192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/08(Wed) 09:59
教科書にも出てくる『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。
そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

大正2年4月このころ自筆の歌集『ソライロノハナ』製作。北原白秋主宰の雑誌「朱欒」掲載の室生星の詩に感動、手紙を書く。5月号「朱欒」に「みちゆき」ほか詩6篇が掲載された。
太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942年。78年前の5月15日)、 佐藤惣之助(51歳)が、自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝しました。

佐藤の義兄にあたる萩原朔太郎が(佐藤の妻は朔太郎の妹愛子)、4日前の11日に亡くなり、その告別式では、胃潰瘍で体調を崩していた室生犀星(52歳)の代わりに佐藤が葬儀委員長を務めました。その佐藤までが逝ってしまった。二人と関係が深かった人たちは、一挙に二人失い、大きな喪失感に直面します。


「ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
きままなる旅にいでてみん。」
(萩原朔太郎 「旅上」(詩集『純情小曲集』(1925年)より)

萩原朔太郎の、この若き時代の有名な詩「旅上」、若き石川啄木の有名な「あたらしき背広など着て/旅をせむ/しかく今年も思い過ぎたる」(『一握の砂』)から衝撃を受け、その熱き思いを共有したものと考えられます、

こうした詩人たちの熱き想いが凝縮した名曲、81年前のですが「青い背広で」?。
詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。




193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 11:04
■「酒は涙か溜息か」で作曲家として名を成した古賀政男(1904-1978)は流行歌以前、クラシックのマンドリン、ギターの演奏家(プレクトラム音楽家)で、マンドリンギターのオーケストラを率いていました。ですから佐藤千夜子が最初に歌った古賀作曲の「文のかおり」(昭和4年12月ビクター吹込み)は、マンドリンのオーケストラ伴奏で吹込んだものです。
同じく佐藤が歌った「影を慕いて」(昭和5年10月ビクター吹込み)も、ギター歌曲です。「影を慕いて」は昭和4年6月にギター合奏で初演されています。その後、同じ昭昭和4年(’1929)10月26日帝国劇場、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビア(1893-1987)の演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かいました。

「影を慕いて」は未完だったが、昭和4年(1929年)10月26日、アンドレス・セゴビア(1893−1997)のギター演奏会(帝国劇場)を聴き、大きな啓示を受けて完成させたという。
佐藤千夜子歌唱「影を慕いて」の発売は昭和6年(1931年)1月のことだった。




194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 22:33
■「影を慕いて」(古賀政男作詞、古賀政男作曲)■

人生の苦悩から出発した「古賀メロディ」、その原点「影を慕いて」は、92年前の昭和3年(1928)秋に作曲された。
「日本の名曲」であり、昭和歌謡の傑作とされる。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められている。

この名曲が世に出るには、日本におけるレコード歌手第一号であり、中山晋平の作品(晋平節)を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えがあった。古賀政男は自伝で佐藤について『終生の恩人』と書いている。


・古賀政男 明治大学卒業 昭和4年(1929)3月10日 25歳

・明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会(昭和4年6月)で初演、ギター合奏。

・昭和4年(1929)10月26日帝国劇場、ギターの巨匠・アンドレス・セゴビア(1893-1987)の演奏にインスピレーションを受け、「影を慕いて」の完成に向かう。

・「文のかおり」(昭和4年12月)佐藤千夜子ビクター吹込み。

・佐藤千夜子「影を慕いて」(昭和5年10月20日)ビクター吹込み。

・佐藤千夜子「影を慕いて」の発売は昭和6年(1931年)1月。

・古賀政男 コロムビアレコード専属 昭和6年3月20日 26歳

・「影を慕いて」藤山一郎 発売(コロムビア) 昭和7年3月




195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 09:28
「作曲家・古賀政男」は、今から89年前、昭和6年(1931)、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。古賀政男のコロムビア専属第一作は昭和6年(1931年)5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。

このころ、現在歌われている歌のほとんどは、まだ存在していない。

『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『あけみの唄』 『美わしの宵』『嘆きの夜曲』(関種子)、『キャンプ小唄』(藤山一郎)、『月の浜辺』(河原喜久恵)、、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、佐藤千夜子に代わって、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校.現在の東京藝術大学音楽学部)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は東京音楽学校主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せる。

『日本橋から』・・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。

『月の浜邊』・・・・ジプシー音楽(ジプシー短音階)、セレナーデ風の佳曲。

196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 15:21
名曲『影を慕いて(古賀正男=古賀政男作詩作曲編曲)』
『日本橋から(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』を

古賀正男指揮・明治大学マンドリン倶楽部伴奏で佐藤さんが初録音されて一週間後の

昭和5年(1930年)10月28日、佐藤さんは海外音楽留学のため日本を離れる。

当時の佐藤さんは大ヒット連発で専属での印税が莫大だったと言われている。

佐藤さんはビクターの反対を吹き飛ばして古賀政男作品を録音、
無名な一青年作曲作品レコーディングを中山晋平作品代表歌手の佐藤さんが歌うことは
ビクター側にすれば考えられないことだったのです。

それをきっかけに古賀政男氏はコロムビアから専属の話が出て、
古賀氏御自身「佐藤さんのおかげで作曲家になることができた」と述べています。
佐藤さんは音楽に対する意識の向けかたがものすごかったようです。



197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/10(Fri) 23:33
『影を慕いて』が藤山一郎のアルバイト録音でヒット、佐藤オリジナルと同じ組み合わせ『日本橋から(関種子歌唱)』はモダンな井田一郎編曲。
だが「素朴で豊かな味わい」なら佐藤千夜子。『影を慕いて』の佐藤は、古賀が綴った「想い」を高音域で燃え上がるように表現している。
菊池清麿氏記述では、演奏曲だった『影を慕いて』を佐藤が気に入り「良いメロディだから、歌詩をつけて歌曲にしなさい」と言ったらしい。
佐藤の助言で歌詩があとで作られたなら、『影を慕いて』初演後の作詩と思われる。更に『日本橋から』は、古賀が次のように述べている。
「佐藤さんが、レコードは両面ですからね、とおっしゃられた。組み合わせ曲『日本橋から』を急いで作った」。ビクター発売番号「51519」の下表記番号=原盤番号で録音順がわかる。A面『日本橋から』は「2266」、B面曲『影を慕いて』が「2267」になっている。古賀のエピソードで、佐藤が元々『影を慕いて』をメイン曲と考えていたことも伝わる。レコーディング直前にビクター側から「浜田広介作詩をA面発売」と言われたようだ。


198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:23
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50


199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:30
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング。
古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、この1週間後にイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年(1930にオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は同自伝に「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など東京音楽学校の優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
90年前、 まだ、現在ある歌のほとんどすべてがまだ生まれていなかった時代である。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そして最大の功績として、古賀政男の才能を見出し素早くメジャーデビュさせ、今日の大衆音楽の隆盛に繋げた陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました。」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」の他、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。



200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:41
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。



藤山一郎『デッサンの確かな作品群』(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))


201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:53
前橋出身の詩人・萩原朔太郎は、大正15年〜昭和4年まで、馬込の「文士村」に住んだ。
文士村には佐藤惣之助もいて、萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。昭和5年には、妹アイとともに上京、牛込区市ヶ谷台町(現・新宿区内)に居住。
昭和6年には、妹アイとともに世田谷区下北沢に。

一方、昭和6年、代々木上原に住んでいて、一時期世田谷松原に住んだ後、昭和13年、緑豊かな小田急線代々木上原駅前3000坪に、邸宅を構え移り住んだた古賀政男。
昭和8年1月には、朔太郎は世田谷区代田一丁目に自宅を新築。
8月には妹アイは、佐藤惣之助と結婚。

マンドリン演奏家としても知られる朔太郎は、マンドリン、ギターの名手でもある古賀政男邸に足しげく通い、
マンドリンやギターを習い、詩の談義に話をはずませたという。

なお、下北沢、世田谷代田は小田急線で、代々木上原から二つ目、三つ目。

朔太郎56歳は、太平洋戦争に突入して半年後の、昭和17年5月11日、風邪をこじらせ世田谷代田の自宅で急性肺炎で病没。
義兄・萩原朔太郎の葬儀を済ませた佐藤惣之助51歳も、4日後、疲れから外出先で脳溢血で倒れ帰らぬ人となり、二人の詩人は相次いであっけなくこの世を去った。

朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑がある。
この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものとして「世田谷区地域風景資産」となっている。
前橋、広瀬川のほとりに立つ前橋文学館(萩原朔太郎記念館)には、朔太郎直筆の原稿やノートなどのほか、愛娘葉子と「古賀メロディー」を奏でた朔太郎愛用のギターなどが展示されている。

(参 考)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中央公論社 中公文庫 A 109-2、1979) 1959筑摩書房
萩原朔太郎 流行歌曲について  
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977

参考

☆戦前の流行歌
 h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 09:59
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和十三年十一月/復刻昭和五十三年十月)

第一篇 半生物語『丘を越えて』
第二篇(上)古賀政男作品研究
第二篇(下)古賀政男を巡る人々
第三篇 古賀政男作品集

 B5判ハードカバーという豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、
 佐藤惣之助、小松耕輔、サトウ・ハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿しています。

 古賀政男が没した直後に、多くの人の希望で復刻されました。


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