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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/09(Sat) 22:25
古賀メロディーの時代
《誰か故郷を想わざる》
 古賀政男という作曲家は、その生み出されて作品によって人生を描けることができる。その古賀メロディーが日本人の心に大きな感銘をあたえてきたことは周知の事実である。自ら作曲した作品がそのまま人生の章立てになるのはおそらく古賀政男くらいのものであろう。そう考えるならば荒れ狂う昭和の悲しみを旋律にのせた古賀政男の半生を辿ることはその音楽の特質を理解するうえで重要であるといえる。古賀政男は、明治三十七年、十一月十八日、九州は、福岡県三瀦郡田口村(現在は大川市)に生まれた。父は古賀喜太郎、母はセツといい、古賀は男六人、女一人の七人兄弟の六番目の子供だった。九州は古賀という姓は多い。それは地名にもあるくらいである。古賀の故郷は北原白秋の生地、水郷豊かな柳川の近くである。よく人に出身地を聞かれると白秋の柳川の近くと思わず答えた。古賀は北原白秋を敬愛していた。それを知ってか、森繁久弥が“柳川や、白秋ありて、古賀ありて”と詠んで古賀政男に送ったのは有名な話である。
 「詩人との交遊の多かった私にとって、かえすがえすもなく残念なことは、とうとう白秋さん と一度もまみえることがなかったことである。白秋の故郷と私の故郷は、距離にしてほんのわ ずかなのである。それだけに白秋の切々とつづるノスタルジアは、じつに私の望郷の詩でもあっ た。」(古賀政男『自傳わが心の歌』)
柳川と大川とは、わずか、一里たらずの距離にすぎない。しかし、詩情豊かな柳川の水郷と、大川は随分風景が違っていた。田口村から見える風景らしきものといえば雲仙岳の雄姿が遠望できるだけで、果てしなく広がる水田と縦横に掘割、その周辺に点在する草深い農家、つまり純粋な農村地帯風景そのものだった。<花摘む野辺に日は落ちて>と霧島昇が歌う《誰か故郷を想わざる》は、そんな古賀の故郷を回想する心情が託されている。

 <花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を 組ながら 唄をうたった 帰りみち
 幼馴染みの あの友 この友ああ 誰か故郷を想わざる >
 《誰か故郷を想わざる》には、母親への思慕に劣らないない姉への古賀の強烈な追憶を感じさせる。嫁ぐ姉を見送る時駅のプラットホームで泣いた体験をもつ西條八十の詩は古賀に強烈なインスピレーションをあたえた。それは、古賀が自伝に「この姉にたいする私の敬慕の情が、八十さんの歌詞に、あまりにも的確に唱いこまれていたので、一瞬、私の日記を盗み見されたのではないかと疑ったほどであった。」と記したことからも十分に窺える。姉の古賀少年への眼差しはやさしかった。土間で畳表を織りながら、優しい瞳の姉は手伝う古賀少年に自分の創作童話を聞かせてくれた。女兄弟がいなかったせいか、姉は古賀を妹のように可愛がった。古賀に女性的なところがみられたのもそのせいかもしれない。その姉は、大正二年、草刈商店の番頭、永島米蔵と結婚した。 縁談が決まって、いよいよ嫁入りの日が来た。古賀の郷里には花嫁が綿帽子をかぶるしきたりがあった。嫁入りのときと死んだときの二度しかかぶらないのだそうだ。嫁ぐという強い決意をしめしているのであろう。古賀は姉の嫁入りが無性に寂しかった。そして、その寂しい感情を殺すかのように「もう帰って来ないなら、嫁なんかにいくな」という言葉がつい出てしまった。後年、西條八十が古賀に見せた〈ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙の なつかしさ〉は、偽らざる少年時代の古賀の姉への思慕なのである。


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