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【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/11(Mon) 11:18
『酒は涙か溜め息か』
作詞:高橋掬太郎 作曲:古賀政男

1.酒は涙か 溜め息か
心の憂さの 捨て所
遠い縁の 彼の人に
夜毎の夢の 切なさよ

2.酒は涙か 溜め息か
悲しい恋の 捨て所
忘れた筈の 彼の人に
残る心を 何としょう

作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、歌手・藤山一郎の出世作となった大ヒット曲。
89年前、東北大凶作、満州事変の勃発のさ中、折からの世界恐慌による不況にも拘らず、発売直後から大ヒットし、当時の蓄音機の国内普及台数の4倍のセールスを記録したという。売上は80万枚[1]。歌のヒットにより、のちに松竹映画『想い出多き女』、新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映画も製作された

また、日本で最初にクルーナー唱法(英語版)を取り入れた作品としても知られる。当時、古賀は新進作曲家として注目されはじめたばかりで27歳、高橋は北海道で地方新聞の記者、藤山一郎は。東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に在籍し将来を嘱望されたクラシック音楽生、25歳だった。

戦後の藤山の歌う「酒は涙かため息か」などは大分崩れた歌い方になっていて、やはり溌溂としたオリジナルがいい。
藤山一郎の歌唱は戦後より、古賀政男とのものが良い。

なお、『酒は涙か溜息か』のB面は、同じく作曲:古賀政男、作詞:高橋掬太郎による『私此頃憂鬱よ』であり、歌ったのは当時本格的に流行歌手として活動をはじめたばかりの淡谷のり子だった。淡谷は昭和4年東洋音楽学校主席卒業。藤山は昭和8年、東京音楽学校主席卒業。

大正14年にはラジオ放送が始まり、昭和2,3年にかけ相次いでレコード会社ができた。
昭和3年には、古賀政男の「影を慕いて」が作られ、そして3年後、今から89年前、東北大凶作、昭和大恐慌の中、昭和6年(1931)には古賀政男がコロムビアに入社。藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など『古賀メロディ』が大衆の中に圧倒的に浸透してゆくのです。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、今までにない「メロディ」を重んじた、新鮮で哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場・・それは人々をとらえ、主流だった【晋平“節”】が【古賀“メロディ”】にとって変わられることになった。

最近、なんでも作曲家の後ろにメロディをつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する戦後に至る唯一のトップブランド・敬称。それ以外で「古賀メロディ」のごとく、実際に「メロディ」をつけて使われ通用されたものではない。

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)

なお、昭和8年に亡くなった宮沢賢治の「雨にも負けず」は、この昭和6年の冷害を叙述したもので、死後、手帳の中から見つかったもの。よくCMに使われたが、先のほうの夏の暑さなど一般論の部分しか出ないが、後ろのほうまで読むと、寒さの夏はおろおろ歩きという部分がでてくる。
この昭和東北大凶作とそれによる娘の身売りなど社会不安は、その後の太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。

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