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『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/02/14(Fri) 10:24)]
『東京大衆歌謡楽団』知ってますか?。
『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!


今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。

「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。

小人数楽団で全国で公演しています。日程は上記HP参照。

楽器も限定されるので、完全とはならないが、勉強もしているし期待される。

この日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、日本映画黄金時代の昭和SP歌謡・この優れた貴重な日本の音楽文化遺産を守り、まだ知らない若者に広く知っ知ってうため、頑張ってくれるよう応援しよう!!。


[43:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/07/18(Sat) 15:02)]
・流浪の民Zigeunerleben (Schumann)  日本発売:昭和11年1936)1月
石倉小三郎作詩、奥山貞吉編曲 独唱:関種子、松原操、内本実、青山薫 コロムビア合唱団、コロムビア・オーケストラ COL28642

・国民歌謡 我が家の唄 松原 操  西條八十作詞 山田耕筰作曲 12年3月 col29241 @黒盤

・赤とんぼ 松原 操 三木露風作詞 山田耕筰作曲 13年12月 COL29981 @ 黒盤13241

・この道  松原 操  北原白秋作詞 山田耕筰作曲 14年07月 COL30253 @ 黒盤14715

霧島昇・松原操の世界
h ttp://matubaramisao.com/kirisimanoboru&matubaramisao-cd-index.html
h ttps://www.youtube.com/watch?v=MUrkuBt0NoI


[44:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/07/20(Mon) 06:56)]
最近の歌事情は、歌というより「音楽」、それが「ライブ」になってしまっているということだ。
殆ど、歌としては素人、だから「シンガーソングライターといって、ヘタクソな歌唱を自分流勝手に叫ぶだけ。

昔は、淡谷のり子などが「歌屋」といって批判していた。
昔は古賀政男とか尊敬される「大御所」が居て、黙っていても、いるだけで、それだけで重石(おもし)になっていて、歌とはこういうものだという、生きた規範・規準になっていたのだ。

今、古賀政男以後、そういう生きた規範・ルールになる「大御所」がいない。


[45:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/07/20(Mon) 07:40)]
■朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?
 2020/05/14

h ttps://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2020/05/04/147322/3


[46:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/09(Wed) 09:58)]
<コガミュージアムコンサート(案内)> 

古賀政男生誕記念明治大学マンドリン倶楽部演奏会
1904年11月18日、古賀政男先生は誕生いたしました。それを記念して、本年も古賀先生に大変かかわりの深い明治大学マンドリン倶楽部の演奏会を開催します。

明治大学マンドリン倶楽部の皆さんの若々しい演奏で、古賀メロディーの世界をたっぷりとお楽しみください。

2020年10月24日(土)

開演 14:00  (13:30開場)
終了予定  16:00

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
h ttp://www.koga.or.jp/

入場料 指定席制 税込2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051

主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線・東京メトロ代々木上原駅
南口@出口 右折 駅に沿った「音楽村通り」徒歩3分突き当り井之頭通り駅前交番前(代々木上原駅南口交差点駅前交番前)
なお、渋谷駅から〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス)・丘を越えてルート(上原・富ヶ谷ルート)・ I古賀音楽博物館前下車、一律100円、いずれも10数分で可能。
渋谷駅から〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス)

〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス) 一律100円
【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、東大や美術館などの区施設を経由します。
渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。小田急線も、コミュニティバスも、新宿駅、渋谷駅から10分以内です。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/
【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
@渋谷駅西口 バスターミナル発
A東急百貨店本店前 ・・・渋谷209ビル入る
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

参考
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 ht tp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
 h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
 h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
☆名前を名にした歌
h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50



[47:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/04(Sun) 20:46)]
りんどう峠・・島倉千代子 最初の古賀メロディ (メロディ)

2013年11月8日、島倉千代子(75)が亡くなった。

テレビはいっせいに大きく報道。

島倉千代子は、集団就職全盛時代にデビューし、歌われている。

「唄はせていただいたのは」とか、島倉千代子は、誰からも愛されるきわめて謙虚な人柄。

「りんどう峠」によって、《西條八十―古賀政男》・両巨匠の目にかなった一流作品の仲間入りができたということ。

古賀政男が亡くなった時、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」が放送された。

このとき島倉千代子が、たしか古賀邸で「りんどう峠」の想い出を語っている。

ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通ったという島倉千代子は、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と。

なお、その門から玄関にいたる石畳の道が、古賀政男音楽博物館の一階から二階の道に再現されている。

「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」は、毎年、古賀政男音楽博物館でビデオ上映されている。

島倉千代子、昭和30年、はじめての「古賀メロディ」・・「りんどう峠」。

島倉千代子さんが古賀先生から教えられた事として、悲しい歌は、自分で泣いてはいけない 、
聞いてくださるお客様に泣いていただくものと。

藤山一郎が正にそういうことを言っていた。

悲しい歌は淡々と、明るい歌はペーソスをこめて歌う。それが大人の歌と。

「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」といえるもの。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、西條八十、古賀政男コンビによる「りんどう峠」。

古賀政男先生宅は、小田急線代々木上原駅を降りて駅ホームに沿った「音楽村通り」直ぐ、井之頭通に面して建っていたが、今うっそうとした当時の面影はそこにない。

普通、私鉄沿線の分譲地に建つ有名人の「豪邸」は玄関や車庫が道に面していたり、せいぜい数メートル、ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通った時の、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と言わせた、門から玄関まで青葉に囲まれた数十メートルの石畳の路、少し坂になった路、向かって左側には、弁天様の祠が三つ四つあった。

昭和30年代の古賀政男といえば、歌謡界の「大御所」というだけでなく、誰でもが認める『日本の名士』になっていた。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


りんどう峠

   作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 りんりんりんどうの 花咲くころサ
   姉サは馬コで お嫁に行った
   りんりんりんどうは 濃むらさき
   姉サの小袖も 濃むらさき
   濃むらさき
   ハイノハイノハイ

 2 りんりんりんどうの 花咲く峠
   姉サは馬コで あとふりかえる
   姉サに行かれて なんとしょう
   いっしょに柴刈る ひとも無い
   ひとも無い
   ハイノハイノハイ

 3 りんりんりんどうは 小雨にぬれる
   わたしゃ別れの 涙でぬれる
   りんりん鳴るのは 馬の鈴
   姉サは峠に 消えてゆく
   消えてゆく
   ハイノハイノハイ




[48:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/04(Sun) 21:05)]

  サーカスの唄

  作詞:西條八十、作曲:古賀政男
  唄:松平晃  (昭和8年)

  1 旅のつばくろ 淋しかないか
    おれもさみしい サーカス暮らし
    とんぼがえりで 今年もくれて
    知らぬ他国の 花を見た

  2 昨日市場で ちょいと見た娘
    色は色白 すんなり腰よ
    鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
    可愛いあの娘(こ)は うす情

  3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
    遠くはなれて テントで暮らしゃ
    月も冴えます 心も冴える
    馬の寝息で ねむられぬ

  4 朝は朝霧 夕べは夜霧
    泣いちゃいけない クラリオネット
    流れながれる 浮藻(うきも)の花は
    明日も咲きましょ あの町で



[49:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/04(Sun) 21:20)]
サーカスの唄

この歌は、西條・古賀、戦前、戦後に至る二人の巨匠の最初の記念すべき作品。

美しいうら悲しい古賀メロディと西條八十の歌詞とが相まって、軽快ななかにも哀愁を感じさせ、とても心に響きます。

当初、【晋平節】のビクタ‐の一人勝ちで始まったヒット競争は、「古賀メロディ」の登場によって、コロムビアに移る。この佐藤千夜子の力添えで、メジャーデビュ‐を果たした古賀政男(古賀正男)。

西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。

昭和8年(1933年)末にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

つまり、昭和8年の1年間、コロムビアのドル箱、コロムビア専属、「古賀メロディー」の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」(西條八十作詞、古賀政男作曲)・・♪涙ははてなしひとり弾くギターンの調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、その黄金コンビは戦後にいたるまで続いた。

最後は、昭和43年の美空ひばり「銀座音頭」(西條八十作詞、古賀政男作曲)。


詩人・西條八十と古賀政男の最初の出会いとなる。

作曲家や歌手に比べ、詩人のギャラの少ないことに、ビクタ―と交渉する中で、コロンビアの顔・「古賀メロディ」の古賀政男と一緒に仕事したいとビクターに掛け合い、昭和8年の1年間について認めさせたもの。

関種子「去り行く影」(1933.1)をはじめ,松平晃「はてなき旅」(1933.10)まで11曲。

「サーカスの唄」、この詩を八十から受け取ると感動で涙が止まらなかったと云う、少年時代の思い出と重なる。

「こんな素晴らしい詩に私が曲を付けることはできません」、と詩を返そうとした古賀に、八十は「あなたに曲を付けてもらうことができなければ、この詩は棄てる。」とまで言われ、あの歌ができた(自伝「わが心の唄」)という。

「詩はお姉さんで、曲は妹」という思い。詩を大切にした古賀は、作曲の際、詩人が託した望郷への思い、母を慕う心が曲になって溶け出すまで、何度も詩を読み返しながら曲を作った。

古賀政男の作品は、豊かさの中で日本人が忘れかけている大切な“心”を、いつも呼び覚ましてくれる。

なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように寄稿している。・・

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」


[50:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/05(Mon) 07:51)]
人生の並木路
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ 昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。  映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。 『人生の並木道』は、田舎から東京に出て来た人なら、涙なしでは聞けない唄です。私がさる高校の教師をしておりました頃、修学旅行で担任していた子が浜松駅でホームに会いに来ていた兄と、夜汽車のたった5分間、語り合うのですね。事前にそうしたいと許しを乞いに来たその子たちは幼くしてお父さんを亡くし、兄が浜松の工場に働きにいき、お母さんも病没。極貧のなかで、妹はけなげに高校生活をまっとう。私はお母さんの葬式に行きましたから、その辛さを見て泣きました。夜汽車が汽笛を鳴らして発車する直前まで語り合う兄と妹。その光景は今でも私の心に焼き付いています。
 人生の並木路

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  唄 ディック・ミネ (昭和12年)

  1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば 幼い二人して
    故郷を捨てた甲斐がない

  2 遠い淋しい日暮れの路で
    泣いて叱った兄さんの
    涙の声を忘れたか

  3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
    やがて輝くあけぼのに
    我が世の春は きっと来る

  4 生きて行こうよ 希望に燃えて
    愛の口笛高らかに
    この人生の並木路


[51:下垣晶輝 (2020/10/05(Mon) 19:57)]
俺はイケメン


[52:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/05(Mon) 23:03)]
昭和6年12月 窓に凭れて 歌:関 種子 コロンビア/26624B(発売当時のレコード番号)作詞:島田 芳文 作曲:古賀政男
歌いだしは「行きて帰らぬ若き日を窓に凭れて思い...」
終戦直後、進駐軍のリクエストNO.1だった。



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