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日本の豪邸

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/21(Fri) 18:18
日本の豪邸、お屋敷について語りましょう!
どんな豪邸や、お屋敷を知ってますか?
和式、洋式、和洋折衷式。

6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/24(Mon) 08:29

・・古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ

私は明大を卒業すると同時に代々木上原に移った。
この土地は私がコロムビアで売り出した縁起のいい場所でもあり、
かねて永住したいと考えていたのである。
私はこの三千坪の土地に「古賀村」を作りたかったのである。
ここに同志たちの家も建て、一同手を携えて音楽創造の道に邁進するー
それが私の夢であったのだ。(「古賀政男大全集」より)


昭和12年、古賀政男は代々木上原に家を新築した。昭和13年完成。
以後、戦前、戦後の一時期を除き、古賀政男は、ここで新しいメロディーを
次々と生み出した。。「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


代々木上原三丁目 古賀政男邸
長嶋茂雄邸(田園調布)敷地・180坪、ひばり御殿(目黒)173坪、鳩山由紀夫邸(大田区)205坪,孫正義邸(港区)960坪,

古賀政男邸3000坪は、個人宅としては桁違い。

因みに、鳩山会館(文京区)2000坪、麻生太郎邸(渋谷)1500坪。

古賀メロディーを愛したというあの角さん(田中角栄)の、『目白御殿』で知られるお屋敷は、参考までに敷地2,575坪(約8,500m²)。

参考までに、元須坂藩江戸屋敷で、角さんは建設に際して須坂の奥田神社に詣でて、礼をつくしたといいます。
ついでに赤穂浪士が討ち入りしたという本所松坂町(現在の両國3)の吉良邸
の屋敷は2550坪という。




7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/25(Tue) 11:29
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。



8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/26(Wed) 16:18
代々木上原の3000坪の豪邸、旧古賀邸には、玄関を入るなり高価な美術品が飾ってあって、美術館の如く、横山大観など、廊下や部屋の中あちこちに第一級の美術品が飾ってあった。
古賀政男は絵画を好み、自身でも沢山絵を書いていた。
それらの自作の絵や、横山大観の絵、棟方志功よりプレゼントされた絵など第一級の美術品である。

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/27(Thu) 11:16
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀調を帯びたその旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、当時の金で数十億といわれる群を抜いた著作権料。車がまだ一般的でなかったころから、大きな外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった昭和最高最大の印税長者古賀政男。


古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。



10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/27(Thu) 11:22
毎朝、玄関でお金の音がする。

 これは、昭和の大作曲家、古賀政男の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてきたという伝説。

藤山一郎に始まり作品数は5000曲とも言われ、印税が湯水のごとく沸いてくることは想像に難くない。

古賀政男のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。


11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/27(Thu) 13:52

☆有名人の邸宅(参考)

古賀政男邸(代々木上原)   3000坪
田中角栄『目白御殿』(目白) 2575坪
鳩山会館(文京区)       2000坪
麻生太郎邸(渋谷)  1500坪
孫正義邸(港区)    960坪
三木谷御殿(渋谷区)  272坪
鳩山由紀夫邸(大田区  205坪
長嶋茂雄邸(田園調布) 180坪
ひばり御殿(目黒)   173坪


12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/27(Thu) 17:49
古賀政男が亡くなった時、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」が 放送された。このとき島倉千代子が、「りんどう峠」の想い出を語っている。

ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通ったという島倉千代子は、あの門から玄関までの道の長かったこと!、・・と。

なお、その門から玄関にいたる石畳の道が、古賀政男音楽博物館の一階から二階の道に再現されている。

「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」は、毎年、古賀政男音楽博物館でビデオ上映されている。




13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/27(Thu) 20:45
確か古関裕而の話だったが、彼が東京都内の某百貨店で、宝石を買いあさっていた古賀政男と会ったという。
古賀は古関に「宝石はいいものね。裏切らないから」などと語っていたらしい。古賀は宝石を買うことで、淋しさを紛らせていたのだろう。

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/16(Wed) 23:04
>>5

日本の洋館 第6巻 昭和篇2
 ISBN-13: 9784062614863

h ttp://comics.blog.shinobi.jp/japanview/日本の洋館%20第6巻%20昭和篇2

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/24(Thu) 17:01
>>11

参考までに都内でないが、野口雨情の生家(北茨城、磯原)はかつて水戸徳川家藩主の休憩所であり、光圀によって「観海亭」と名付けられ「磯原御殿」ともいわれた名家で、家業は廻船業を営み、父は村長を2期勤めた人望家でもあった。敷地3,136.52平方メートル(約934坪)は水戸光國より「観海亭」と名づけられました。

16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/26(Sat) 20:54
世間に高級住宅地と言われるだけあって、成城には、立派な家がたくさんあります。
成城憲章、という住民の申し合わせがあり、一軒当たりの土地面積を、最低250平米、事情があれば125平米に制限しています。
成城が大正時代の末〜昭和初期に分譲されたときは、原野を開拓したわけですから、一軒当たりの面積は広く、平均300〜400坪(だいたい1000平米)くらいあったらしいです。
ご多聞に漏れず、相続等で土地は細分化され、今は、平均200〜250平米くらいでしょうか。分譲当初の面積を維持しているかと思われる、1000平米を超える家は、数えるほどしかありません。

成城最大の豪邸は、3丁目の、「山縣記念財団」でした。山縣勝己という、海運で財をなして政界に進出した人の屋敷で、土地面積3000坪、国分寺崖線の斜面で、ほとんど原生林を残しておりました。建物も、貴族院議員会館を移築したといわれる、一辺50mを超える巨大なものでした。そして、茶室や従業員宿舎とみられる建物も敷地内に点在しておりました。しかし、近隣の保存運動むなしく、昨年に取り壊され、現在は老人ホームを建設中です。2013年4月現在の状況を加筆します。
山縣記念財団の大豪邸は、取り壊され、老人ホーム(成城謳林邸)が建設されました。喜ばしいことに、3000坪の敷地のすべてが整地されたのではなく、母屋といくつかの建物が壊されただけで、多くの緑は保全されています。環境保全にたいへんに理解があったといわれる山縣さんのご令嬢の遺志かも知れません。このまま緑が残ることを望んでいます。


17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/02(Sat) 11:50

日本の豪邸

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/02(Sat) 22:28
代々木上原駅前の3000坪の土地に構える豪邸、古賀政男邸、現在は「古賀政男音楽博物館」とJASRACビルが入るビルになっていて、井之頭通りも拡幅され当時の面影はない。

当時、その小田急線代々木上原駅前、井之頭通りに面して古賀政男邸のうっそうとした大きな屋敷の正門があり、そこから60メートル位、石畳の道を進んだ先に和洋折衷の洋館の玄関があった。
玄関前は約20台の車を停められる広場がって、そこには二、三台の車が入る大きな車庫が二つ、三つあった。

ベンツ2台に、幅2mもある大きなリンカーン、キャディラックが見える。

殆どの有名人の豪邸というのが、土地がせいぜい100坪位、道路に面してすぐ車庫や玄関があり、そこに外車があったりするが、そんなものではなかった。


リンカーン、リンカーンといえば、まだ外車がめずらしかったころ、作曲家の古賀政男が地方に行くにも愛用していた車。

よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。

私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。
作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。
五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
h ttp://www.9393.co.jp/timetable/kako_timetable/2009/09_0322_02_timetable.html


師匠・アントニオ古賀のご自宅のある堀の内からバス・電車を乗り継ぎ30〜40分。京王線の代々木上原駅を降りて線路沿いに歩いて15分。 「師匠・アントニオ古賀への弟子入り」でも紹介しましたが、早朝から深夜まで内弟子としての厳しい毎日でしたが、代々木上原の古賀政男先生のレッスン室をお訪ねする日は、うれしくて心弾む時でした。

 古賀政男先生の邸宅の門の右手前には「古賀ギター歌謡学院」がありました。
 そこを通り過ぎて大きな石の門を入り、古賀政男先生の邸宅の玄関までは歩いて数分もかかります。坂を登っていくと手入れの行きとどいた庭が広がっていて、その広さには驚きびっくりです。麦わら帽子をかぶった古賀政男先生が庭の手入をなさっていることもあり、「おはようございます。」と大きな声で挨拶をすると、手を休めて応えてくださいました。
 坂を登った左側には車庫があってリンカーン、ベンツ、など高級車が何台も並んでいます。右側に邸宅があり大きな玄関を入ると左側にレッスン室があってピアノが置かれていました。






19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/02(Sat) 22:55
小田急線代々木上原駅前、敷地3000坪の旧古賀政男邸の庭や美術館のような第一級美術品がたくさん飾られていた内部の写真が、古賀政男追悼本である以下に
載っています。

「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)・・昭和53年、古賀政男追悼本

20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/02(Sat) 23:05
古賀政男音楽博物館

h ttp://www.koga.or.jp/


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/13(Wed) 12:39
代々木上原駅前の3000坪の土地に構える豪邸、古賀政男邸、現在は「古賀政男音楽博物館」とJASRACビルが入るビルになっているが、

当時、その門から60メートルお石畳の先に和洋折衷の洋館の玄関があた。
玄関前は約20台の車を停められる広場がって、そこには二三台の車が入る大きな車庫が二つ、三つあった。

ベンツ2台に、大きなリンカーン、キャディラックが見える。

殆どの有名人の豪邸というのが、土地がせいぜい100坪位、道路に面してすぐ車庫や玄関があり、そこに外車があったりするが、そんなものではなかった。

大きな豪邸であり閑静なお屋敷だった。

22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/27(Wed) 10:39
古賀の音楽博物館
 代々木上原には二つのランドマークがある。東京ジャーミーと、もう1つのランドマーク・古賀政男音楽博物館(TEL:03-3460-9051)は、3000坪あった古賀の大邸宅跡地に建つ。同じ敷地内には古賀も創設にかかわった日本音楽著作権協会(JASRAC/ジャスラック)がテナントとして入る。

23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/27(Wed) 10:47
古賀政男音楽博物館(コガ・ミュージアム)見学

○平成20年2月21日、以前から一度行ってみたいと思っていた古賀政男音楽博物館(コガ・ミュージアム)に初めて訪れました。地下鉄千代田線代々木上原駅南口で降りて、音楽村通りを通って徒歩3分のところにあり、JASRAC(社団法人日本音楽著作権協会)本部の建物と隣接していました。到着したの午後0時一寸過ぎでしたので、中で食事が出来ますかと確認するとないとのことでした。1階に広いレストランがあるのですが、JASRACの社員食堂なのか一般の入場お断りの表示がありました。

○古賀政男音楽博物館HPでの古賀政男氏プロフィールは以下の通りです。
「明治37年福岡県田口村(現在の大川市)に生まれる。明治大学在学中にマンドリン倶楽部創設の一翼を担う。在学中に音楽家を目指し『影を慕いて』を発表、卒業後レコード会社の専属の作曲家として数々の作品を発表しヒット曲を生み出す。これらは『古賀メロディー』と呼ばれ今もなお愛唱されつづけている。作曲活動のかたわら、音楽親善大使として世界各地をまわる。昭和53年に永眠。没後国民栄誉賞を受賞、生前も多大なる音楽文化活動の功績に対し数々の賞を受賞している。」

○私は昭和26年生まれですが、「私の音楽経験−演歌が始まり」記載の通り、三橋美智也、春日八郎、村田英雄のSPレコードを幼少時代から子守歌のように繰り返し聞かされて育ち、子供の頃から演歌好きとなっていましたが、中学2年の秋にギターを始めてからは、「影を慕いて」に始まる古賀メロディーと呼ばれる古賀政男氏の曲が大好きになり、ここ数ヶ月前から再開したギター練習も先ず最初に古賀メロディーから始まります。

○その古賀政男音楽博物館ですが、1階は220席の小規模なけやきホールがあり、2階は大衆音楽の殿堂として作詞家西條八十を筆頭に大衆音楽の発展に貢献した方々が顕彰されており、古賀政男氏が住んだ家の正門と玄関を結ぶ石畳のみちをイメージしたスロープ(2階から3階への渡り廊下)を通って3階が旧古賀邸2階の書斎、ピアノや書斎机、十畳間と六畳間の和室、刀のつばが埋め込まれたマントルピースや飾り棚など、古賀邸のレッスン室の一部などが、古賀政男氏の愛用していたものが当時のままに配置してあります。

○旧古賀邸は古賀政男氏が昭和12年33歳の時、代々木上原に音楽村創設を夢見て3000坪の土地を購入し、翌昭和13年に完成させた建物とのことで、古賀政男音楽博物館公式パンフレットに古賀邸アルバムとして写真が掲載されていますが、緑溢れる広大な敷地に和洋巧みに取り入れた瀟洒な建物であり、マッチ箱の様な狭いマンションに居住している私には羨ましい限りの大豪邸でした。

○この建物を古賀政男氏死去後の昭和54年3月に整備して当初の「古賀政男記念博物館」として一般公開し、老朽化が進んだ平成3年に改築休館し、平成9年に現在の古賀政男音楽博物館として再生されたとのことです。昭和57年には古賀政男氏の郷里福岡県大川市に分館として古賀政男記念館も設立されており、いつかこちらにも行ってみたいと思った次第です。



24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/27(Wed) 11:00
古賀政男のこのテイチク時代は飛ぶ鳥を落とす勢いで年齢的にも、もっとも脂ののった時期と言われる。

昭和12年には、代々木上原駅前の松林三千坪を手に入れ、清水組(清水建設)に頼んで邸宅を建てる。
この邸宅が完成したのが昭和13年4月のことだった。

この後古賀政男はまことに忙しい。

昭和13年6月「人生劇場」を最後にテイチクをやめ、昭和13年11月8日にはコロムビアに移籍復帰するのだが、その前に「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカや南米に立つ。

11月14日には、藤原義江らの見送りを受けて横浜港からハワイ経由で龍田丸でアメリカに向けて出港。

同じく13年11月には、上記「古賀政男藝術大観」がでる。

1年後の昭和14年10月10日帰国。三浦環の歓迎会を受ける。


25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/27(Wed) 11:04
代々木上原駅と交差する井之頭通りも拡幅され当時のお面影はそこにない。

古賀政男の屋敷のあたりはうっそうとした森で、井之頭通りから屋敷は見えなかった。
かって萩原朔太郎や佐藤惣之助が、詩や歌の談義にはずんだり、西條八十、李香蘭と三人が「夜霧の馬車」の曲を作った古賀邸の応接間。

戦後は、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、
あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、石畳のなだらかな坂道。

これらは「古賀政男音楽博物館」の中に移設再現されている。

ここはかって、萩原朔太郎、佐藤惣之助、サトウハチローなど詩人や作曲家や、多くの歌手などが通い、あの多くの名曲の生まれたところ。

また半世紀にわたる古賀政男は著作権でも他の分野を含めて圧倒的であった。

また日本音楽著作権協会の設立に関わったり、自ら「日本音楽著作権協会会長」や、「日本作曲家協会」初代会長を務めるなど、誰もが認める「大御所」だった。

西新橋にあった「日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、「古賀政男音楽博物館」新設に合わせて、古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のこの一体のビルにテナントとしてそびえたつ威容はそれをものがったっている。


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