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『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!

47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/04(Sun) 20:46
りんどう峠・・島倉千代子 最初の古賀メロディ (メロディ)

2013年11月8日、島倉千代子(75)が亡くなった。

テレビはいっせいに大きく報道。

島倉千代子は、集団就職全盛時代にデビューし、歌われている。

「唄はせていただいたのは」とか、島倉千代子は、誰からも愛されるきわめて謙虚な人柄。

「りんどう峠」によって、《西條八十―古賀政男》・両巨匠の目にかなった一流作品の仲間入りができたということ。

古賀政男が亡くなった時、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」が放送された。

このとき島倉千代子が、たしか古賀邸で「りんどう峠」の想い出を語っている。

ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通ったという島倉千代子は、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と。

なお、その門から玄関にいたる石畳の道が、古賀政男音楽博物館の一階から二階の道に再現されている。

「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」は、毎年、古賀政男音楽博物館でビデオ上映されている。

島倉千代子、昭和30年、はじめての「古賀メロディ」・・「りんどう峠」。

島倉千代子さんが古賀先生から教えられた事として、悲しい歌は、自分で泣いてはいけない 、
聞いてくださるお客様に泣いていただくものと。

藤山一郎が正にそういうことを言っていた。

悲しい歌は淡々と、明るい歌はペーソスをこめて歌う。それが大人の歌と。

「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」といえるもの。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、西條八十、古賀政男コンビによる「りんどう峠」。

古賀政男先生宅は、小田急線代々木上原駅を降りて駅ホームに沿った「音楽村通り」直ぐ、井之頭通に面して建っていたが、今うっそうとした当時の面影はそこにない。

普通、私鉄沿線の分譲地に建つ有名人の「豪邸」は玄関や車庫が道に面していたり、せいぜい数メートル、ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通った時の、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と言わせた、門から玄関まで青葉に囲まれた数十メートルの石畳の路、少し坂になった路、向かって左側には、弁天様の祠が三つ四つあった。

昭和30年代の古賀政男といえば、歌謡界の「大御所」というだけでなく、誰でもが認める『日本の名士』になっていた。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


りんどう峠

   作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 りんりんりんどうの 花咲くころサ
   姉サは馬コで お嫁に行った
   りんりんりんどうは 濃むらさき
   姉サの小袖も 濃むらさき
   濃むらさき
   ハイノハイノハイ

 2 りんりんりんどうの 花咲く峠
   姉サは馬コで あとふりかえる
   姉サに行かれて なんとしょう
   いっしょに柴刈る ひとも無い
   ひとも無い
   ハイノハイノハイ

 3 りんりんりんどうは 小雨にぬれる
   わたしゃ別れの 涙でぬれる
   りんりん鳴るのは 馬の鈴
   姉サは峠に 消えてゆく
   消えてゆく
   ハイノハイノハイ





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