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『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 10:24
- 『東京大衆歌謡楽団』知ってますか?。
『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
今テレビでも、ラジオでも、CDでも聞けなくなってしまった『日本の文化遺産・昭和SP歌謡』を広く歌っています。
「古賀メロディ」など、ここにでてくる本当の「名曲」を余すところなく、たくさん聴くことができ、今おすすめです。
小人数楽団で全国で公演しています。日程は上記HP参照。
楽器も限定されるので、完全とはならないが、勉強もしているし期待される。
この日本がまだ貧しかった時代、まだテレビもなかった時代、日本映画黄金時代の昭和SP歌謡・この優れた貴重な日本の音楽文化遺産を守り、まだ知らない若者に広く知っ知ってうため、頑張ってくれるよう応援しよう!!。
- 48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/04(Sun) 21:05
-
サーカスの唄
作詞:西條八十、作曲:古賀政男
唄:松平晃 (昭和8年)
1 旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た
2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情
3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ
4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町で
- 49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/04(Sun) 21:20
- サーカスの唄
この歌は、西條・古賀、戦前、戦後に至る二人の巨匠の最初の記念すべき作品。
美しいうら悲しい古賀メロディと西條八十の歌詞とが相まって、軽快ななかにも哀愁を感じさせ、とても心に響きます。
当初、【晋平節】のビクタ‐の一人勝ちで始まったヒット競争は、「古賀メロディ」の登場によって、コロムビアに移る。この佐藤千夜子の力添えで、メジャーデビュ‐を果たした古賀政男(古賀正男)。
西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。
昭和8年(1933年)末にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。
つまり、昭和8年の1年間、コロムビアのドル箱、コロムビア専属、「古賀メロディー」の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。
コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」(西條八十作詞、古賀政男作曲)・・♪涙ははてなしひとり弾くギターンの調べ・・です。
この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、その黄金コンビは戦後にいたるまで続いた。
最後は、昭和43年の美空ひばり「銀座音頭」(西條八十作詞、古賀政男作曲)。
詩人・西條八十と古賀政男の最初の出会いとなる。
作曲家や歌手に比べ、詩人のギャラの少ないことに、ビクタ―と交渉する中で、コロンビアの顔・「古賀メロディ」の古賀政男と一緒に仕事したいとビクターに掛け合い、昭和8年の1年間について認めさせたもの。
関種子「去り行く影」(1933.1)をはじめ,松平晃「はてなき旅」(1933.10)まで11曲。
「サーカスの唄」、この詩を八十から受け取ると感動で涙が止まらなかったと云う、少年時代の思い出と重なる。
「こんな素晴らしい詩に私が曲を付けることはできません」、と詩を返そうとした古賀に、八十は「あなたに曲を付けてもらうことができなければ、この詩は棄てる。」とまで言われ、あの歌ができた(自伝「わが心の唄」)という。
「詩はお姉さんで、曲は妹」という思い。詩を大切にした古賀は、作曲の際、詩人が託した望郷への思い、母を慕う心が曲になって溶け出すまで、何度も詩を読み返しながら曲を作った。
古賀政男の作品は、豊かさの中で日本人が忘れかけている大切な“心”を、いつも呼び覚ましてくれる。
なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように寄稿している。・・
「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」
- 50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 07:51
- 人生の並木路
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ 昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。 映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。 『人生の並木道』は、田舎から東京に出て来た人なら、涙なしでは聞けない唄です。私がさる高校の教師をしておりました頃、修学旅行で担任していた子が浜松駅でホームに会いに来ていた兄と、夜汽車のたった5分間、語り合うのですね。事前にそうしたいと許しを乞いに来たその子たちは幼くしてお父さんを亡くし、兄が浜松の工場に働きにいき、お母さんも病没。極貧のなかで、妹はけなげに高校生活をまっとう。私はお母さんの葬式に行きましたから、その辛さを見て泣きました。夜汽車が汽笛を鳴らして発車する直前まで語り合う兄と妹。その光景は今でも私の心に焼き付いています。
人生の並木路
作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
唄 ディック・ミネ (昭和12年)
1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けば 幼い二人して
故郷を捨てた甲斐がない
2 遠い淋しい日暮れの路で
泣いて叱った兄さんの
涙の声を忘れたか
3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
やがて輝くあけぼのに
我が世の春は きっと来る
4 生きて行こうよ 希望に燃えて
愛の口笛高らかに
この人生の並木路
- 51 名前:下垣晶輝 投稿日:2020/10/05(Mon) 19:57
- 俺はイケメン
- 52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:03
- 昭和6年12月 窓に凭れて 歌:関 種子 コロンビア/26624B(発売当時のレコード番号)作詞:島田 芳文 作曲:古賀政男
歌いだしは「行きて帰らぬ若き日を窓に凭れて思い...」
終戦直後、進駐軍のリクエストNO.1だった。
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