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日本の歌こころの歌

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/17(Tue) 23:54
NHK[日本の歌こころの歌」をよく聞きます。
藤山一郎、オカハチロウはなど戦中、戦後直後はやめてほしいです。私は70歳ですが、
ビートルズ、プレスリー世代なんですよ。もちろんそれを聞きたいと言う人もいるでしょうが、平均的聴取者層として、今やかなり特異な層ではないでしょうか。ネタが尽きると言う事もありましょうが、他に方法はあると思います。童謡や、唱歌に幅を広げるとか、外国人が歌う日本の歌曲や唱歌、歌謡曲、また民踊とか。また国内、国外の楽団が演奏するインストゥルメンタルでも良いと思います。
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20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/15(Thu) 21:39
春の訪れを感じさせる3月のお昼時、町のすみずみまでゆったりとした音色が流れます。あわただしい雰囲気の職場も、ちょっと手を休めて、ひとときの落ち着きをみせるという感じ… おだやかな旋律が心を癒してくれます。
町に流れるミュージックチャイム、その中で唯一期間限定の曲といえば、3月の正午を告げる「うれしいひなまつり」です。桃の節句が近づくとテレビやラジオ、商店街などで流れてくるメロディ、誰もが知っている河村光陽の名曲です。
この歌詞には、作詞者・サトウハチローの家族に対する思いが秘められていました。
サトウハチローが大好きだった姉・喜美は、結婚式を目前に結核のため、19歳という若さでこの世を去りました。一年に一度訪れる桃の節句、サトウの胸に姉の思い出がよみがえったのではないでしょうか…
この歌が生まれた昭和10年、サトウは夫人と別居中で、3人の子どもを引き取った直後のことでした。上の2人が小学校6年生と4年生の女の子、サトウは近くのデパート松坂屋(東京上野)で200円の雛飾りを買いました。当時大卒の初任給が50円くらい。初めて売り出された、電気でぼんぼりに灯りがつく豪華なものでした。「実母と別れて暮らす子どもたちに、父親としてせめてもの心づくしだったのでしょう」と後の妻・房江は当時を語っています。
飾りつけられた雛壇の前で、2人の娘がぼんぼりの灯をつけたり消したりして喜びました。その姿を見て「あかりをつけましょ、ぼんぼりに…」の歌詞が浮かんだといいます。そして、若くしてこの世を去った姉の嫁入り姿を想定し「お嫁にいらした姉様に…」と続いています。
光陽によって美しい日本旋律となったこの曲は、翌11年にポリドールレコードから長女・河村順子の吹き込みで発売され、大ヒットとなりました。
「父の曲とは知らない人も多く、江戸時代からのわらべうたでは?と思っている人も少なくありません。作者の手を離れ、歌が独り歩きしている一例でしょう。父・光陽の曲は、主として日本旋律が流れていますが、とりわけ『うれしいひなまつり』は、前奏がつづみで始まり、お琴にあわせて演奏できるように、分かりやすい日本音階で作られています。また、多くの人々から『これから先いつまでも残る歌だ』と言われるようになりました」。
そしてこの曲は、メキシコでトリオ・ロス・パンチョスのLPにより「哀れなみなしご」という題名で発売。国民に愛唱されるうちメキシコの童謡かと思われているそうですが、平成7年、メキシコ著作権協会に日本の歌として登録されました。
昭和48年春のこと、順子はサトウとテレビで共演。「ハチロー先生からお話があった時、学校教師になったのでと辞退したところ叱られました。本番で先生が『この歌がこんなに世間で歌われるとは思わなかった。1日の印税高は私の作品中で1位だ。放送、デパート、お菓子屋、幼稚園、それにキャバレーにまで流れているからね』と、にこやかにおっしゃいました。優しかったハチロー先生はその秋に亡くなられたので遺言のように思い出されます」。
「あかりをつけましょぼんぼりに〜」鼻歌交じりで雛壇を飾る父親の姿、そして、その背中をうれしそうに見つめる母娘の光景…桃の節句時期には、このようなほのぼのとした姿が全国各地で、いつまでもみられることでしょう。
(敬称略、協力・サトウハチロー記念館)

21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/15(Thu) 22:28
昭和30年代の童謡歌手はみな、頭に大きなリボンをつけていた。

この頃は童謡黄金時代ですぐれた童謡歌手が多い。

今のクラッシックを標榜する若手歌手よりずっとずっと素晴らしい歌唱を聞かせてくれた。

「うれしいひな祭り」は昭和30年代の童謡歌手桑名貞子(1952生まれ)が絶品!。

22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/15(Thu) 22:46
「甦える 童謡歌手大全集」(CD10枚組)全200曲
 ビクター WT-0305(CD10枚組)2005
東京カルチャーセンター(JDMA会員) 
 SPオリジナル盤 
   
「お山の大将」「青い目の人形」から「ひょっこりひょうたん島」まで
 本居みどり、平井英子、本田信子、平山美代子、中山梶子、河村順子、川田正子、孝子、
 古賀さと子、秋田貴美子、岩田佐智子、伴久美子、久保木幸子、田端典子、桑名貞子、井上裕子、波崎共子、近藤圭子、安田章子、安田祥子、中根庸子、松島とも子、岡田孝、小鳩くるみなど
 図書館等で、、カセットもあり

23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/15(Thu) 22:55
加賀美一郎(1933東京生まれ)は、なにしろ終戦前後の混乱期のため、あまり記録が残っていなく、「幻のボーイソプラノ」みたいになっているのが、大変残念なことではないだろうか。私が加賀美一郎の名を知ったのは、20年以上前のことです。終戦ごろすばらしいボーイソプラノがいたというふうに何かで読んだことがあります。その名は加賀美一郎。[お山の杉の子」という、歌はずっと以前から知ってはいたのですが、それを歌っているのが加賀美一郎というのはその後に知りました。たしかにあれはすばらしいです。

 終戦間際の@[お山の杉の子」、戦後のA「あかちゃんのお耳」のほか、私が調べた限りでは、いずれもサトーハチロー詞で次の作品をうたっています。
1933東京生まれといいますから、「お山の杉の子」(20年1月)をうたったときは,多分11〜12歳、6年生くらいだろうか。同じ頃B「お国のために」(弘田龍太郎曲。日蓄)C「戦闘旗が揚がってる」(不明)というのをうたっているはずです。D「嬉しい日曜日」(服部良一曲、コロンビア)は昭和15年というから7歳か。
このほか、「日本のソリスト」にもあるが、戦後1946年7月、古川録波とともに東宝映画「僕の父さん」というのに出演して、不明ですがボーイソプラノを披露しています。美輪明宏は11歳のときこの映画を見て、このなかの加賀美一郎のすばらしいボーイソプラノに衝撃を受けてそれから、歌の路に進むことになったと自伝に書いています。焼け野原で、ドラムカンの風呂に入るシーンがあるとか・・。幻の映画で、多分あれば唯一の貴重な映像でしょう。フイルムセンター(国立近代美術館)とかどこかに保存されていないでしょうか、ぜひぜひ見たいものです。あるいは、「キネマ旬報」とか当事の映画雑誌(フイルムセンター図書館にある)に写真とかのってないでしょか。

 1,2年前、NHKラジオ「川田正子特集」で、川田正子(1934、東京生まれ)が出演しました。その中で加賀美一郎と一緒に歌った「あかちゃんのお耳」(CDになっている。)が。アナウンサーが加賀美一郎はどこでうたっているんですかと質問。川田正子もボーイシュといわれ、川田正子も加賀美一郎も注意しないと分からなく、素人には区別するのが大変難しいんです。「ああ、これがボーイソプラノというもんだな」と思いました。そして、川田正子が、加賀美一郎はスマートで、たいへんな美少年であり、紅白歌合戦にも一緒にでましたといっていました。川田正子自伝がでたので、のってないか?。
 紅白歌合戦(昭和26年から)よりずっと以前、終戦直後昭和20年12月31日の第一回紅白歌試合。あの紅白歌合戦のずっと前に、古川録波、水之江滝子司会、霧島昇(旅の夜風)、松原操(悲しき子守唄)夫妻、藤原義江(出船の港)、下八川圭祐(ボルガの舟歌)などそうそうたる面々、この中で、川田正子は汽車ポッポ(草川信作曲の)、加賀美一郎はEペチカを歌っているという。NHKアーカイブスでみられないでしょうか。これら@〜Eを集めてぜひCD化してもらえたらいいですね。(@AはCD化されている。多分現在、加賀美一郎のボーイソプラノを聞けるのは、これしかないのが残念です。)
 戦後「お山の杉の子」はサトーハチローによって一部補作され歌われていますが、「お山の杉の子」が歌われた丁度その頃、時期を同じくしてもうひとつ世相を現した曲にサトーハチロー作詞「勝利の日まで」があります。同名の映画主題歌として作られた曲(古賀政男作曲)で、学童疎開の経験を持つものには忘れられない曲とか。勝利の日までというよりは、敗色濃くなった頃のことで、これを歌うと父母を思い涙がでたとか。

 

24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/15(Thu) 22:58
加賀美一郎の「お山の杉の子」を聞くと、「あれ歌ってるの誰?」と思うだろう。それはなぜだろうか。それは非常に真剣に歌っており、この頃の時代背景を反映して緊張感が良く出ていて、伝わってくるからでしょう。それともうひとつ、それに関連して付け加えておきたいことがあります。それは、当時の歌手は総じて大変まじめに取り組んでおり、「一生懸命」歌っており、それが「伝わってきて、聞く人の心を捉えるのではないでしょうか。それは、いろいろな分野の歌に言えると思います。加賀美一郎は大変な名ボーイソプラノといってよいでしょう。それ以外にこの頃の歌い手は、みんあそうです。川田正子の「鐘の鳴る丘」を聞いてもそうですし、遡って、栄えあるレコード歌手第一号といわれ、かってNHK「一番星」の佐藤千夜子もその代表です。東京行進曲でしられる彼女は、主に野口雨情、中山晋平とともに、日本各地を回って、童謡、新民謡などの普及を行ってきて、日本最初の商業レコード第一号といわれる「波浮の港」(昭和3年ビクター)の裏面は童謡だったんですね。ラジオ放送が大正14年にスタートしたときは、まだレコードもなく、中山晋平のピアノで佐藤千夜子が5曲歌ったのが今日の歌番組のはしりだそうです。 
 
 テレビが65年を超え、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌によりスタートしたわけですね。佐藤千夜子は現在あまりしられていないが、流行歌手第一号とされCDもでています。実に多方面の歌をうたっていて主に野口雨情の歌が多いですが、「旅人の唄」(中山晋平曲)「信田の藪」(藤井清水曲)「雨降りお月さん」「船頭小唄」(中山晋平曲)・・なども歌っています。平井英子などのレコード童謡歌手もまだの頃、童謡も彼女が歌っていたそうです。今、野口雨情作品CD「七つの子」が出ています。佐藤千夜子の「信田の藪」(お背戸のお背戸の赤とんぼ・・、)すばらしいの一語です。一語一語、言葉を大切に、一生懸命歌っています。現在のクラッシック歌手は残念ながら言葉がはっきりしないものが大半。言葉を大切にすることなしにどうして人の心を捉えるのでしょう。

以前、NHKアーカイブスペシャル「幾山川は越えたれど」で作曲家古賀政男の生涯をつずったドラマ再放送を2回にわたり行っていました。古賀政男は、そのころ(昭和3年)学生時代に「影を慕いて」を作曲し、その佐藤千夜子に歌ってもらったことで作曲家としてデビュウーすることになるわけだが、それを歌った多くの大歌手が口を揃えて言うことが・・「一生懸命うたった・・」ということ。後の大歌手が悩みつつ一生懸命・・。キーワードは「一生懸命」にあると思います。なんでもおなじで、それなしに人の心をとらえることはできないのではないでしょうか。加賀美一郎のうたが心を捉えるのもそこにあるのでは。

 

25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/16(Fri) 23:06
七つの子 野口雨情作品集

CD (2002/8/21)
ディスク枚数: 2
レーベル: ビクターエンタテインメント
収録時間: 126 分
ASIN: B00006BH1L
JAN: 4988002434589
おすすめ度:5つ星のうち 5.0

曲目リスト

ディスク:1
1. 南京言葉
2. 鶯の夢
3. ペタコ(白頭鳥)
4. あの町 この町
5. こがね虫
6. 證城寺の狸囃子
7. 蛙の夜回り
8. 雨降りお月~雲の蔭
9. うさぎのダンス
10. 手の鳴る方へ
11. キューピーピーちゃん
12. チンドンヤ
13. 七つの子
14. 赤い靴
15. 十五夜お月さん
16. 青い目の人形
17. 俵はごろごろ
18. 木の葉のお舟
19. シャボン玉
20. 信田の藪
21. 春の唄

ディスク:2
1. 奥多摩よささ節
2. 波浮の港
3. 須坂小唄(一)
4. 須坂小唄(二)
5. 甲州音頭(一)
6. 甲州音頭(二)
7. 旅人の唄
8. 中野小唄(一)
9. 中野小唄(二)
10. 犬山音頭(一)
11. 犬山音頭(二)
12. 小倉節
13. 三朝小唄(一)
14. 三朝小唄(二)
15. 上州小唄(一)
16. 上州小唄(二)
17. 紅屋の娘
18. 後生楽踊
19. 河原柳
20. 鎮西小唄
21. 南蛮音頭
22. 旅は青空
23. 船頭小唄
24. 磯原節



詩人、野口雨情の生誕120周年(2002年当時)を記念した2枚組作品集。長田暁二、矢沢寛企画/監修による昭和初期の音源を集めたアルバム。 (C)RS

図書館等


26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/16(Fri) 23:17
歌手

DISC1
平井英子、本多信子、平山美代子、佐藤千夜子,田端典子

DISC2
藤原義江、佐藤千夜子、葭町二三吉、四家文子、渡辺光子、


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/16(Fri) 23:30
〜SP音源の復刻で、雨情の歌詞は勿論、中山晋平や本居長世ら童謡の作り手の意図が見えてくる貴重な作品集。平井英子らも素晴らしい歌唱を聴かせてくれます。年代順ではないですが曲順はよく考えられていて、解説書の文章も適切。
ここに収められている作品は、変なシンセサイザーでアレンジされて、どっかの合唱グループが歌っているものとは全く違う童謡であり〜〜、ある歌詞の世界に基づいて音の背景が構築されているといえばいいのでしょうか。それは「赤い靴」、「シャボン玉」が割と明るい調子で編曲されている事や、「雨降りお月」のヴァイオリンの引きつり、「兎のダンス」、「蛙の夜廻り」の絶妙にズレる打楽器、などなどでお気付きになるでしょう。これが表現というものだと思います。 (Disc2についてはスペースの〜〜都合上割愛します。)〜

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/21(Wed) 19:56
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング




29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/21(Wed) 20:07
※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html


30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/23(Fri) 00:03
信田の藪(しのだのやぶ)

野口雨情作詞、藤井清水(きよみ)作曲




お背戸(せど)のお背戸の 赤とんぼ
狐(きつね)のおはなし 聞かせましょう
聞かせましょう

糸機(いとはた)七年(しちねん) 織りました
信田(しのだ)の狐は 親ぎつね
親ぎつね

信田のお背戸の ふるさとで
こどもにこがれた 親ぎつね
親ぎつね

お背戸のお背戸の 赤とんぼ
明日(あした)もお藪(やぶ)に 来てとまれ
来てとまれ


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/23(Fri) 00:17
波浮の港
【作詞】野口 雨情
【作曲】中山 晋平
【MIDI作成協力】マルちゃん
磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は
ヤレホンニサ 凪るやら

船もせかれりゃ 出船の仕度
島の娘たちゃ 御神火ぐらし
なじょな心で
ヤレホンニサ いるのやら

島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ
伊豆の伊東とは 郵便だより
下田港とは
ヤレホンニサ 風だより

風は潮風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船の時にゃ
船のとも綱
ヤレホンニサ 泣いて解く


昭和3年、日本ビクター蓄音器株式会社が創立され、昭和3年に発売された第1回レコードの曲です。昭和3年5月に佐藤千夜子が、その7か月後に藤原義江が吹き込んだ。
この歌を歌った佐藤千夜子は日本最初のレコード歌手と言われる。

依頼をうけた、野口雨情は、現地に行ったことはなく、1枚の写真をネタにこの曲を作ったといわれてます。
波浮の港からは夕焼けは見えない。


32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 18:42
旅人の唄 (野口雨情作詞 中山晋平作曲 佐藤千夜子歌)

 山は高いし 野はただ広し
 一人とぼとぼ 旅路の長さ

 乾く暇なく 涙は落ちて
 恋しきものは 故郷の空よ

 今日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国やら 果てさえ知れず

 水の流れよ 浮き寝の鳥よ
 遠い故郷の 恋しき空よ

 明日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国かよ 果てさえ知れず
 
 


33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 18:44
野口雨情(1882〜1945)は、楠正成の弟・正季(まさすえ)の直系の子孫といわれる名家の生まれで光圀の「観海亭」を譲り受けた地元の人が「磯原御殿」と呼ぶ家に住んだ。
詩人では島崎藤村より一回り下の生まれ、北原白秋、三木露風、石川啄木、西條八十より一回り上だった。 

野口雨情は、放浪の詩人、土の詩人などとも言われる。野口雨情(英吉)の青春時代・明治時代は、まだ開拓と移民の歴史でもあった。
日本でも北海道開拓のために、多くの人が北海道の原野に入殖した。あの「赤い靴」の話も、厳しい寒冷地だった北海道入殖に伴う悲話といえる。雨情は北海道での生活の中で、そのことと出会う。

雨情という人は処世術とは程遠い不器用な人だった。親からの莫大な借財を背負い込んだ雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしだった。
明治35年(1902)3月、文芸雑誌「小柴舟」によって詩壇に登場するが著名の域までにはいたらなかった。 同37年父の死により帰郷、家督相続、そして高塩ひろと結婚。
同38年3月、処女詩集「枯草」を自費出版した。 
父の残した借財整理の煩わしさから逃げたかったのか、同39年(1906)当時日本領であった樺太に渡ったものの事業は失敗、
帰郷後、月刊詩集「朝花夜花」の刊行も詩壇の一部で注目されただけだったが・・「七つの子」の原型が「山がらす」♪烏なぜなく 烏は山に 可愛い七つの子があれば・・としてここに載っている。


広大な山林田地を有し、回船問屋を営んでいたが、雨情9歳のとき、没落し、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。
雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。
明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになったが、父の残した膨大な借財整理が肩にのしかかってきた。
そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村(1872−1943)などが詩集を続々と刊行している。

雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。

しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。
雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。

昭和18年(1943年)、それまで全国を駆け歩いていた雨情は突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。
そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年1月6日・・(丁度ラジオからは「お山の杉の子」などが流れてたであろうころ)・・家族に見守られながら静かにこの世を去った。

雨情没後7年目の昭和27年(1952年)に、中山晋平、時雨音羽などが中心となって東京に「雨情会」が創設された。初代会長は中山晋平だったが、晋平も昭和27年に亡くなっている。


34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 18:50
簡単な分かりやすい詩の中に
深い人生の悲苦等隠されていて、
素晴らしいと思う。


35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 18:57

十五夜お月さん
野口雨情作詞、本居長世作曲

十五夜お月さん
御機嫌さん
婆やは お暇(いとま)とりました

十五夜お月さん
妹は
田舎へ貰(も)られてゆきました

十五夜お月さん 母(かか)さんに
も一度
わたしは逢ひたいな。


雨情は他に「雨降りお月さん」という曲も作詞しています。
月のような優しい陰徳の光を好んだのかもしれませんね。
表に立つのでなく裏で下で悲しむ人、苦しむ人を支えていた
月の柔らかい光の人だったと信じます。


36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 19:04
雨情は一見暗そうだけど、人の痛みを理解し生きる人。
雨情は有情にもつながる。
生きとし生けるものへの人一倍の優しさを感じる。


37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/24(Sat) 19:23
SPオリジナル盤 
CD「甦える 童謡歌手大全集」(CD10枚組)全200曲
 ビクター WT-0305(CD10枚組)2005
 東京カルチャーセンター(JDMA会員) 

 「お山の大将」「青い目の人形」から「ひょっこりひょうたん島」まで
 本居みどり、平井英子、本多信子、平山美代子、中山梶子、河村順子、川田正子、孝子、
 古賀さと子、秋田貴美子、岩田佐智子、伴久美子、久保木幸子、田端典子、桑名貞子、井上裕子、波崎共子、近藤圭子、安田章子、安田祥子、中根庸子、松島とも子、岡田孝、小鳩くるみなど
 
図書館等で、、カセットもあり

古いので現在入手は困難と想われる、図書館等で探してください。
参考までに、詳細は読売新聞広告2005,7.28参照。


38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/02(Fri) 17:07
「信田の藪」(しのだのやぶ) 、「里の秋」など、日本がまだ貧しく、の、今では考えることもできない貧しかった時代、そして草深かった時代、大正から昭和にかけて作られた、そして多くの童謡などに出てくる[お背戸」の背戸とは、

家の裏木戸のこと。

昔の家はほとんどが、かやぶき屋根で、周りを垣根で囲ってあって、裏山があったりする。

そして、たいてい表の木戸と裏木戸があった。

日本がまだ貧しかった時代、貧しくも心豊かだった時代、明治、大正、昭和の、日本の民家の原風景といえるもの。


39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/02(Fri) 17:23
雨情は、63年の生涯の中で、2,000余編にのぼる詩を残しています。童謡のほか、日本全国をはじめ当時の樺太、朝鮮、満州、台湾にいたるまで多くの地方民謡(ご当地ソング)を作っています。

40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/02(Fri) 19:50
>>31
訂正
昭和3年、日本ビクター蓄音器株式会社が創立され、昭和3年に発売された第1回レコードの曲です。昭和3年5月に佐藤千夜子が、その2か月後に藤原義江が吹き込んだ。
この歌を歌った佐藤千夜子は日本最初のレコード歌手と言われる。
かって、NHK朝の連続ドラマ「いちばん星」で 、創草期の日本の大衆歌謡の歴史そのものとしての佐藤の、波乱に満ちた生涯がつずられている。
された。

佐藤千夜子は、まだレコードの普及もラジオ放送もなかった、もちろん新幹線もなかった大正時代から、野口雨情、中山晋平とともに新民謡運動である「全国歌の旅」で全国行脚、晋平の歌を世に広めた歌手でもある。
『波浮の港』はその中で生まれた。

なお、佐藤千夜子はまだ学生時代の古賀政男の才能を見出し、「影を慕いて」などをビクタ―に吹き込んだことで知られる。
「いちばん星」にはこの古賀政男(正雄)も登場する。


41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/02(Fri) 23:56
「シャボン玉」野口雨情作詞・中山晋平作曲

童謡としては1923年(大正12年)に中山晋平の譜面集「童謡小曲」に発表されたが、 詩自体が最初に発表されたのは1922年(大正11年)のことである。 仏教児童雑誌『金の塔』にて発表。
昭和11年には野口雨情によって「シャボン玉」の3・4番の詩が追加された。
詩は、7音節×4行が2連、それに7音節2行が付属している短いものである。

歌詞にはシャボン玉で子どもが遊んでいる様子が描かれているが、これに夭逝した子供への鎮魂の意を見出す説もある。
1908年、雨情は後に協議離婚に至った妻のひろとの間に、長女「みどり」をもうけた。人形のように愛らしい赤ん坊であったが、産まれて7日目に死んでしまった。当時は、乳幼児が死ぬのはさほど珍しいことではなく、2〜3割の子供が学齢前に死亡していた。そのため、夫婦は子供を何人も産み、一所懸命育てた。雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。 雨情は後に生まれた娘・恒子も亡くしている。当時、2歳。1924年(大正13年)9月のことである。
そしてある日、村(茨城県多賀郡磯原村)の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た雨情が、娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩が、この「シャボン玉」だというのが最もよく知られる説である。しかし、これを裏付けるような決定的事実は無く、説の段階を越えていないとも言われている。
著作権法の規定により、1995年末に著作権が失効している。

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ


42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/03(Sat) 20:22
「お山の大将」

西條八十作詞・本居長世作曲




お山の大将 俺ひとり
あとから来るもの つき落とせ

ころげて 落ちて またのぼる
あかい夕日の 丘の上

子供四人が 青草に
遊びつかれて 散りゆけば

お山の大将 月ひとつ
あとから来るもの 夜ばかり



43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/03(Sat) 20:36
この「お山の大将」は、鈴木三重吉による<赤い鳥運動>(大正8年)に呼応して西条八十が雑誌『赤い鳥』に大正9年に発表し、大正10年4月に曲がつけられたものです。この詞には、本居長世のほか成田為三、山田耕筰なども曲をつけています。
西條八十(本名)は、明治25年(1892年)1月15日に東京で生まれ、早稲田大学で日夏耿之介らと同人誌活動を行い、大正8年に自費出版した『砂金』で詩人として文壇に躍り出ました。以来、象徴詩、童謡、流行歌など多彩な分野で詩歌を提供し、昭和42年(1967年)に舟木一夫の「夕月」を最後のヒット曲として、昭和45年(1970年)8月12日に没しました。その間約60年間変わらず活躍し、平成32年(2020年)まで著作権の残る稀有な作家です。
本居みどりみどりが歌ったが、ボーソプラノの岡田孝のが哀愁を帯びてよい。

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/03(Sat) 21:17
「叱られて」

作詞 清水かつら
作曲 弘田龍太郎

(一)
 叱られて 叱られて
 あの子は町まで お使いに
 この子は坊やを 寝んねしな
 夕べさみしい 村はずれ
 コンと狐が 鳴きゃあせぬか

(二)
 叱られて 叱られて
 口にはださねど 目に涙
 二人のお里は あの山を
 超えて彼方の 花の村
 ほんに花見は 何時のこと

童謡「叱られて」あそこに出てくるもの、たいていの今の飽食の時代を謳歌しているものには理解できないことだが、
口にはださねど目に涙・・あれは幼くして親元を離され奉公に出されたこどもの哀しみ、心の痛みと、叱られてもいいから親に会いたい、帰りたいということを、
ひと事も出さずに、短い詩で歌ったもの。
昔は貧しさゆえに、可愛いこどもを奉公に出す、そういうことがあたりまえだったのだ。
江戸時代から見習い奉公というのがありました。
5〜6歳の頃から、食事とスズメの涙ほどの僅かな給金のみでお店奉公に上がり、一心に働いて、その中で行儀・世渡り・世間常識を獲得して、一人前となって世間に通用するようにする、という制度です。
それが職人の徒弟制度のように、戦前の社会には残っていました。貧困な家から口減らしのために裕福な家に奉公に上がるのです。<食べられればよい>身分制度から貧富の差が拡大した時代でした。
大正時代に作られた多くの童謡、その一つ「叱られて」はそうした、<山を越えた彼方の花の村>の貧しい家から町の裕福な家に子守り・使い走りとして奉公に来ている、10歳前後の少年少女のことを歌った歌です。
昔、子供たちは10歳前後、尋常小学校や高等小学校の卒業を契機に奉公に出るのが通常で、奉公にあがれば、まず丁稚の修行からで、はじめは主人のお供や子守、掃除などの雑用を受け持ち、少し長じると商用の使い走りなどをしました。
商家では、こうした丁稚奉公を4〜5年勤めた後、17〜8歳頃になれば手代に昇格します。
こうした「奉公」が無くなるのは戦後のことで、田舎では昭和も30年代くらいまでありました。




45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/04(Sun) 23:11
清水かつらと童謡「あした」、「叱られて」
              
清水かつらの背景
 清水かつらには、「靴がなる」(大正8年)、「緑のそよ風」(昭和21年)、「雀の学校」(大正10年)と、とびきり明るい詞のものがある一方で、「叱られて」(大正9年)や、「あした」(大正9年)のように、何とも判断しようもない暗い歌があります。古い童謡には残酷で不可解なものが沢山あります。特に戦前は、差別を差別とは思わなかったり、残酷の概念も違っていましたので、<お母さんが帰って来ないので金魚を一匹突き殺す>などといったものすらあります。今の考え方を以ってそれらを責めるわけにもいきません。清水かつらの歌は、それらとは、ちょっとちがうようです。野口雨情のように、自身の生活、経験を童謡に反映させている作家は多いですが、それがそのまま童謡に対する子供の想念を左右するものではありません。例えば童謡「しゃぼん玉」の背景には、雨情の生まれてすぐに亡くなった娘の悲しい経験があり、それは二番の<しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに 壊れて消えた 風かぜ吹くな・・・>に反映しているといわれていますが、中山晋平の曲はあくまで明るく、歌っている子供には何の関係もありません。子供が歌から受ける夢でいいわけです。

「あした」 作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎

  (一)
  お母さま
  泣かずに ねんねいたしましょ
  赤いお船で 父さまの
  帰るあしたを たのしみに
  (二)
  お母さま
  泣かずに ねんねいたしましょ
  あしたの朝は 浜に出て
  帰るお船を 待ちましょう
  (三)
  お母さま
  泣かずに ねんねいたしましょ
  赤いお船の おみやげは
  あの父さまの 笑い顔

 これはどうも、4歳の時に母と別れた清水かつらの生い立ちと深い関係があるようです。清水かつらが2歳の時、かつらの弟を亡くした母は精神に変調をきたし、一家を去らなければならなくなりました。その後新しい母が来て、継母との確執の中で、「叱られて」に繋がって行きますが、この「あした」は実の母が家を去らなければならなくなって絶望的な状態にあった時期の、幼児<清水桂>の記憶の中にあったものとおもわれます。
 「あした」は一般に<赤い船に乗って帰ってくる父を楽しみにして待つ母子の会話>ということになっているようですが、そう単純なものとは思われません。状況は「里の秋」と同じようですが、「里の秋」の母子が父の復員を確信し、落ち着いた希望に満ちた雰囲気であるのに対し、この「あした」はとても不安定な状況です。なぜ母はずっと泣いているのか?なぜ幼児が母を諭さなければいけないのか?朝、浜に出れば赤い船が本当に見える可能性があるのか?物でなく笑顔がなぜ一番のお土産なのか?普通はあり得ない<赤い船>の象徴するものは何か?・・・謎だらけです。こうした状況から、この歌はシベリアに抑留された”父さま”を待ちわびる歌だ、という人もいますが、いかんせん、書かれた年代が違います。大正9年という年は、鈴木三重吉の<赤い鳥運動>の始まった翌年です。母が精神の変調をきたし、頼るものは父親しかなくなった幼児の心の変遷の日々が見えるようです。
 この歌の題の「あした」とは、望んでも果たされるはずもない願いを、現実で駄目と決め付けないで、<あしたに希望を繋ぐ>の「あした」なのです。問題先送りの「あした」ではなく、絶望的な状況から心を救おうとうとする「あした」なのでしょう。その辺のところを聞いて理解していた弘田龍太郎によって、このようなメロディーが付されたのでしょう

46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/04(Sun) 23:15
「あした」も「叱られて」も、清水かつらが4歳の時に実母と悲しい別れをし、継母の里に引き取られて(現在の和光市)経験した、実体験に基づく暗い時代のもののようです。両曲とも弘田龍太郎の作曲ですが、弘田龍太郎はこういう曲を作らせたら天下一品です。

47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/04(Sun) 23:33
現在にいう童謡は、1918(大正7)年に創刊された、童話と童謡の雑誌『赤い鳥』に端を発するとされている。この雑誌の編集代表は鈴木三重吉。鈴木は「現在の子供が歌っている唱歌なぞも、芸術家の目から見ると、実に低級な愚かなものばかりです」と批判し、当時の日本を代表する作家に呼びかけて新しい子どもの童話と童謡を作ろうと訴えた。 
 ここに集まったのが、北原白秋、泉鏡花、芥川龍之介、島崎藤村、小山内薫、徳田秋声、高浜虚子、有島武郎、有島生馬、小川未明、谷崎潤一郎、久米正雄、西條八十、久保田万太郎、佐藤春夫、菊地寛、三木露風といった人たちであった。
 これがいわゆる「赤い鳥運動」と呼ばれるもので、当時はじまったばかりのラジオ放送(大正14年〜)、あるいはこれに先立つ大正8年からの「赤い鳥音楽会」(本居長世、娘のみどりらが出演)などで全国に広まっていった。
『赤い鳥』発刊の翌年である1919(大正8)年には、同誌と双璧をなす『金の船』が斉藤左次郎によって発刊され、さらに翌1920年には千葉省三編集の『童話』も続いた。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/04(Sun) 23:49
清水かつら〈1898(明治31)〜1951(昭和26)〉は東京深川の生まれだが、関東大震災によって本郷の家を失い、継母の実家があった現・和光市に移り、ここで生涯を閉じた。そのために、和光市が清水の顕彰に力を入れている。墓は文京区本駒込の吉祥寺にある。
1916年(大正5)に神田の中西屋書店出版部に入社した。同年に「小学新報社」(初め渋谷にあったが、大正9年11月に神田駿河台へ移転)が創設され、編集長の鹿島鳴秋と共に、少女雑誌『少女号』(大正5年創刊)や『幼女号』(大正7年創刊)『小学画報』(大正9年創刊)の編集に携わった。(編集部にはもうひとり、後の小説家山手樹一郎がいた)
これがすごいことになる。
「赤い鳥」(大正7年創刊)に先立つこと2年、この「少女号」から多くの名作が世に出ることに。

清水かつらは編集の仕事をする傍ら、童謡の作詩を始めたのである。『少女号』の大正8年11月号に「靴が鳴る」(弘田龍太郎作曲)を、大正9年4月号に「叱られて」(弘田龍太郎作曲)を、同年6月号に「あした」(弘田龍太郎作曲)を、大正11年2月号に「雀の学校」(弘田龍太郎作曲)を発表した。(鹿島鳴秋にも、弘田龍太郎の作曲で、「金魚の昼寝」「お山のお猿」「浜千鳥」「お家わすれて」など)
東武東上線和光市駅南口に、「みどりのそよ風、靴が鳴る、叱られて」の童謡碑がある。

49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/05(Mon) 09:44


「叱られて」 名盤 (清水かつら作詞,弘田竜太郎作曲)

叱られて 藤原義江 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25176 黒盤 17
叱られて 佐藤美子 清水かつら 弘田竜太郎 0311 COL 25205 黒盤 31
叱られて 鈴孫竜男 清水かつら 弘田竜太郎 0408 VIC 50848 黒盤 484
叱られて 宮川美子 清水かつら 弘田竜太郎 0611 COL 35216 @ 青盤 1638 328
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 0709 NIT 5743 黒盤 3482
叱られて 奥田良三 清水かつら 弘田竜太郎 0806 POL 5076 赤盤 5005
叱られて 内本 実 清水かつら 弘田竜太郎 0906 COL 35433 青盤 5944
叱られて 阿部幸次 清水かつら 弘田竜太郎 1009 TAI 56315 赤貝星 8021
叱られて 三浦 環 清水かつら 弘田竜太郎 1104 COL 35483 青盤 9105
叱られて 川路美子 清水かつら 弘田竜太郎 1100 NIT S1413 大衆S盤 9445
叱られて 井崎加代子 清水かつら 弘田龍太郎 1112 TAI 21077 赤WS 9820
叱られて 斎田愛子 清水かつら 弘田竜太郎 1209 VIC 13523 赤盤 12791
叱られて 永田絃次郎 清水かつら 弘田竜太郎 1304 KIN 20077 群青盤 13433


平成の初め、NHKTVで「日本の名曲10」として、
「荒城の月」「波浮の港」「影を慕いて」などとともにが、日本の名曲「叱られて」が、1年間、夜8時の大河ドラマの後の空き時間に
1曲ずつ替わりばんこに流され続けた。


50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/05(Mon) 09:46
「あした」 作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎

あした 川田孝子(童謡)

「日本童謡名曲集 第4集」(コロムビア C213 1214439)

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/05(Mon) 09:55
清水かつらは、1951年(昭和26年)7月4日に、「酒が飲めなくなったら終りだ」とつぶやいて、享年53で永眠。同年7月11日に、文京区本駒込の吉祥寺で音楽葬が行われ、弘田龍太郎や中山晋平の弔辞の後、ビクター児童合唱団と音羽ゆりかご会が「靴が鳴る」を斉唱、最後に四家文子が「叱られて」を歌った。
墓所は、文京区本駒込の吉祥寺。

主な作品

戦前
靴が鳴る(1919年(大正8年)9月11日作曲、「少女号」同年11月号に発表、弘田龍太郎作曲)
叱られて(「少女号」1920年(大正9年)4月号に発表、弘田龍太郎作曲)
あした(「少女号」1920年(大正9年)6月号に発表、弘田龍太郎作曲)
雀の学校(1921年(大正10年)12月7日作曲、「少女号」1922年(大正11年)2月号に発表、弘田龍太郎作曲)

戦後
みどりのそよ風(1948年(昭和23年)、草川信作曲) - 新時代を象徴するような明るい曲で、現在も人気が高い。

作品集
『清水かつら童謡集』 上笙一郎、別府明雄 編、海沼実 (ネット武蔵野、2008年3月) ISBN 4944237464


歌碑など
東武東上線和光市駅前に、「みどりのそよ風」、「靴が鳴る」、「叱られて」の歌詞が刻まれた歌碑がある。
東武東上線成増駅の南口に「うたの時計塔」(主な作品に掲げている5作品に、「浜千鳥」を加えた楽曲が流れる。1976年(昭和51年)8月8日設置。)、北口に「みどりのそよ風」碑、アクトホール外壁に「雀の学校」の楽譜と歌詞を刻んだプレートがある。
白子宿と新田宿の境の白子橋に「靴が鳴る」の歌碑がある。清水かつらはこの橋のすぐ脇に生家があった。

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 13:51
>>49

>平成の初め、NHKTVで「日本の名曲10」として、
「荒城の月」「波浮の港」「影を慕いて」などとともにが、日本の名曲「叱られて」が、1年間、夜8時の大河ドラマの後の空き時間に
1曲ずつ替わりばんこに流され続けた。


「荒城の月」
「波浮の港」
「叱られて」
「この道」
「浜千鳥」
「影を慕いて」
「出船」
「宵待ち草」
 ・





53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 16:19
「荒城の月」
「波浮の港」
「叱られて」
「この道」
「浜千鳥」
「影を慕いて」
「出船」
「宵待ち草」
「花」
「からたちの花」


54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 17:45
まず何と言っても日本の名歌「荒城の月」から。

「荒城の月」実際に歌われているのは瀧廉太郎作曲(荒城月)そのものでなく、編曲曲。

 戦前期に作られた主なものは以下の4つ。・・・


☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)



55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 19:10
日本の名曲 「波浮の港」

  野口雨情作詞、中山晋平作曲 鈴木静一編曲

 佐藤千夜子 日本ビクタ― 昭和3年5月発売

藤原義江  米国ビクタ―  NK−3001(A7632)

 1928(昭和3年)7月発売

 

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 19:17
日本の名曲「浜千鳥」

浜千鳥 煤孫竜男 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0408 VIC 50846 黒盤 482
浜千鳥 ベルトラメリ能子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0610 COL 35206 青盤 1632
浜千鳥 三浦 環 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0710 COL 35316 青盤 2945
浜千鳥 立石喬子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0707 KIN K158 キンポリ 3401
浜千鳥 川路美子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0709 NIT 5743 黒盤 3483
浜千鳥 萩野綾子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 0803 VIC 13260 赤盤 5481
浜千鳥 川路美子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 1100 NIT S1001@ 大衆S盤 9358 113
浜千鳥 斎田愛子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 1207 VIC 13523 赤盤 12790
濱千鳥 松島詩子 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 1305 KIN 20086 群青盤 13450
浜千鳥 武岡鶴代 鹿島鳴秋 弘田竜太郎 1703 TEI X5016 X盤 18892




57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 19:22
日本の名曲「影を慕いて」 名盤

影を慕いて 佐藤千夜子 古賀正男 古賀正男 0601 VIC 51519@ 黒盤 2267
影を慕いて 藤山一郎 古賀政男 古賀政男 0703 COL 26748@ 黒盤 2629
影を慕いて 楠木繁夫、ギター古賀政男、尺八川本晴朗 古賀政男 古賀政男 1001 TEI 15070@ 緑盤 8083 44
影を慕いて(支那語幻想的称) 李 香蘭 島田磬也 古賀政男 1505 TEI A147 A盤 16895
影を慕いて(満語) 李 香蘭 孫翅王黙然 古賀政男 1509 TEI T3050@ T盤 16969 378



58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 19:26
日本の名曲「宵待草」 名盤 」

宵待草 柴田秀子 竹久夢二 多 忠亮 1703 TEI X5015 X盤 18890
宵待草 藤原義江 竹久夢二 多 忠亮 0307 VIC 4045 赤盤 149
宵待草 柴田秀子 竹久夢二 多 忠亮 0606 COL 26271 黒盤 1392
宵待草 和田春子 竹久夢二 多 忠亮 0711 PAR E1941 3287
宵待草 井上協子 竹久夢二 多 忠亮 0704 VIC 52216 黒盤 3984
宵待草 内本 実 竹久夢二 多 忠亮 0807 COL 35365@ 青盤 4534 296
宵待ち草 奥田良三 竹久夢二 多 忠亮 0905 POL 2051 黒盤 6263
宵待草 関屋敏子 竹久夢二 多 忠亮 1006 VIC 13430@ 赤盤 8583 506
宵待草 三浦 環 竹久夢二 多 忠亮 1106 COL 35485 青盤 9110
宵待草 内本 実 竹久夢二 多 忠亮 1110 NIT 61002 青盤 9351
宵待草 川路美子 竹久夢二 多 忠亮 1100 NIT S1413 大衆S盤 9446
宵待草 高峰三枝子 竹久夢二、西条八十補詩 多 忠亮 1310 COL 29902@ 黒盤 13169
宵待草 長門美保 竹久夢二 多 忠亮 1306 KIN 20096 群青盤 13465
宵待草 柴田秀子 竹久夢二 多 忠亮 1310 VIC J54395 黒盤 14338
宵待草 長門美保 竹久夢二 多 忠亮 1411 KIN 30123 群青盤 15185
宵待草 東海林太郎 竹久夢二 多 忠亮 1410 POL 2833@ 黒(写真)盤 15412 109
宵待草 李 香蘭 竹久夢二 多 忠亮 1709 COL 100542@ 赤盤(スダレ) 18487
宵待草 長門美保 竹久夢二 多 忠亮 1704 KIN 67025 群青盤 18588


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 19:34
>>54
「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような高い声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。






60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 21:09
>>59
荒城の月 山口淑子


映画「暁の脱走」より
(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる場面である。

「荒城の月」土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 

 春高楼の花の宴
 巡る盃かげさして
 千代の松が枝わけ出でし
 昔の光いまいずこ

 天上影は替らねど
 栄枯は移る世の姿
 写さんとてか今もなお
 嗚呼荒城の夜半の月


荒城の月 李香蘭


荒城の月 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 
彼女の本格クラシック的歌唱力はロシアのオペラ歌手及び三浦環に師事した証と言えるモノで、とてもアイドルスターとしての美貌だけではなくしっかりとした素質と教育の賜物だと感心させられた一曲です。
h ttp://blogs.yahoo.co.jp/fnmdn239/691...

荒城の月 李香蘭(何故こんなに感情が)

女性歌手でこれほどまでにこの歌を歌える方はいない、などと当たり前のことを言ってしまうがポルタメントでも高音の細くなるところの声の出し方は誰にもできない天から与えられたものなんでしょうな。
このお方が日本人で良かったよ、オペラ歌手で日本の歌を歌う方は聴きたくないだろうな、自信無くなるからね。今の若い歌手
で出ないものかね、出るわけがありません、聴き手がいませんのと一人で勝負できないので大勢で出ますから、何人かがかりでもかないませんな、美貌も声も段違いよくそんなに味もそっけもなく歌えるもんだと感心しますよ。
だけどこの歌キーが高いな男でもやっとだよ。

荒城の月 山口淑子

映画「暁の脱走」1950年作
 慰問地で李香蘭(山口淑子)が歌った曲が「荒城の月」でした。
 李香蘭(山口淑子)2014年9月7日、死去(満94歳)
 戦後の古い映画で見たことはありませんが、山口淑子は映画俳優でありながら素晴らしい歌手だったことを知りました。歌唱力が凄い。お上手なのでびっくりです。
 この「荒城の月」を聴くと、心の底に残り悲しくなってきます。「暁の脱走」に出てくる映画のように、
 本当の慰問先でもきっとこんな光景だったんでしよう。
 若い兵士たち、彼女の「荒城の月」を聴いて家族や故郷の思いに耽ったことでしょう。
 皆な戦争で死んでしまったのかと思うと可哀そうで涙が出てきます。shunon。



●山口淑子さんの歌唱力に聞き入ってしまいました。音程が発音の最後の最後までぶれないでいますね。アコーデオンのみの伴奏がそれを引き立てている様に思います。今、スポーツ大会のセレモニー等で独唱をされる歌手がいますが、声量の無さと音程のオンチさにうんざりする事が多くありましたが、この歌を聴いてすっきり致しました。実際に聴いている兵隊さん達の胸中を想うと私も胸が熱くなります。戦争が一握りのリーダーによって引き起こされた時代がありましたが、これからは 一人ひとりが主体的な判断をして二度と戦争をしない様にしますと画面の兵隊さんに誓いたいと思います。少しセンチメンタルになってしまいました
●李香蘭、美貌とその歌声で中国で絶大な人気を博し、絶対に中国人だといっていたが 日本人山口淑子と分かり、日本に帰国された時は全中国人が相当落胆したそうな。それほどの美しい人だったですね。
●戦前、戦中、戦後の日中間で悩み抜かれた94年間・・・。このフィルムに描かれた情景は戦後撮影ながら当時のありようを彷彿とさせます。これを見るたびに号泣します。昭和が日に日に遠くになっていきます。彼女は日中の行く末を案じて御亡くなりになられた事でしょう。さらば李香蘭。永久に!
________________________________________



127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/13(Mon) 07:39
宵待草 李香蘭


2010/02/19 にアップロード
宵待草 李香蘭 古賀政男編曲、明大マンドリンクラブ伴奏 試作の扁形サウンドボックスの音がほぼ完成したので前出の荒城の月と思ったのですが、片面のこの曲にしました。レコードに割れがありますが彼女の初々しい中にもしっかりとした歌唱力が窺える作品。自作のサウンドボックスで録音しました。また、ブログ h ttp://blogs.yahoo.co.jp/fnmdn239/910...
との連動企画です。


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 21:31
(参考)古賀政男編曲 李香蘭 「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
  ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
  ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 21:36
日本の名曲「出船」名盤

出船 藤原義江 勝田香月 杉山長谷夫 0302 VIC 1230@ 赤盤 136
出船 曽我直子 勝田香月 杉山長谷夫 0610 HIK 70644 1785
出船 柴田秀子 勝田香月 杉山長谷夫 0712 COL 35328 青盤 2961
出船 内本 実 勝田香月 杉山長谷夫 0811 COL 35386@ 青盤 4554 296
出船 永田絃次郎 勝田香月 杉山長谷夫 1209 KIN 10163 群青盤 11250
出船 奥田良三 勝田香月 杉山長谷夫 1203 POL 2410 黒盤 11465
出船 藤原義江 勝田香月 杉山長谷夫 1210 VIC J54098 黒盤 12647
出船 柴田秀子 勝田香月 杉山長谷夫 1703 TEI X5015 X盤 18891


0302・・発売日 昭和03年02月

63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/07(Wed) 21:48
信田の藪(しのだのやぶ)

信田の藪 藤原義江 野口雨情 藤井清水 0306 VIC 4041 赤盤 141
信田の藪 佐藤千夜子 野口雨情 藤井清水 1201 VIC 53876 @ 黒盤 12407

64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/08(Thu) 08:46
城ヶ島の雨 和田春子 北原白秋 梁田 貞 0709 PAR E1892 3255
城ケ島の雨 奥田良三 北原白秋 梁田 貞 0809 POL 5077 赤盤 5007
城ケ島の雨 斎田愛子 北原白秋 橋本国彦 1011 VIC 13456 赤盤 8597
城ケ島の雨 内本 実 北原白秋 梁田 貞 1112 TAI 21098 @ 赤WS 9846 1
城ヶ島の雨 奥田良三 北原白秋 梁田 貞 1401 POL 2705 黒(写真)盤 15198



65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/08(Thu) 08:52
花嫁人形 柴田秀子 蕗谷虹児 杉山長谷夫 0311 COL 25137 黒盤 11
花嫁人形 阿部秀子 蕗谷虹児 杉山長谷夫 0602 COL 26086@ 黒盤 1307 291
花嫁人形 柴田秀子 蕗谷虹児 杉山長谷夫 0607 COL 26326 黒盤 1431
花嫁人形 井崎加代子 蕗谷虹児 杉山長谷夫 1112 TAI 21099 赤WS 9848
花嫁人形 関 種子 蕗谷虹児 杉山長谷夫 1203 POL 2410 黒盤 11466
花嫁人形 松島詩子 蕗谷虹児 杉山長谷夫1304 KIN 20074 群青盤 13434
花嫁人形 三条淑子 蕗谷虹児 杉山長谷夫 1401 REG 69340 14990


66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:02
日本の名曲、それは80年の長きを経て、多くの当代随一の大歌手・声楽家が
歌い継いできたもの。

67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:11
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50


68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/10(Sat) 09:34
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 

「荒城の月」   土井晩翠作詞、 滝廉太郎作曲
「波浮の港」   野口雨情作詞、 中山晋平作曲
「叱られて」   清水かつら作詞、弘田竜太郎作曲
「この道」    北原白秋作詞、 山田耕作作曲
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、 弘田竜太郎作曲
「影を慕いて」  古賀政男作詞、 古賀政男作曲
「出船」     勝田香月作詞,  杉山長谷夫作曲 
「宵待草」    竹久夢二作詞、 多 忠亮作曲
「花」      武島羽衣作詞、 滝廉太郎作曲   
「からたちの花」 北原白秋作詞、 山田耕作作曲



69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/10(Sat) 23:33
藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る日本の大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。


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