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日本の歌こころの歌

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/17(Tue) 23:54
NHK[日本の歌こころの歌」をよく聞きます。
藤山一郎、オカハチロウはなど戦中、戦後直後はやめてほしいです。私は70歳ですが、
ビートルズ、プレスリー世代なんですよ。もちろんそれを聞きたいと言う人もいるでしょうが、平均的聴取者層として、今やかなり特異な層ではないでしょうか。ネタが尽きると言う事もありましょうが、他に方法はあると思います。童謡や、唱歌に幅を広げるとか、外国人が歌う日本の歌曲や唱歌、歌謡曲、また民踊とか。また国内、国外の楽団が演奏するインストゥルメンタルでも良いと思います。
返信

84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/12(Tue) 13:52
>>83

☆サトウハチローと「童謡」
童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。
サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。
その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・

   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。
寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。


>>童謡排斥運動「新しいこどものうた]と、「童謡運動」の終焉!!


「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。
サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。
サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
  ttp://www.0108.tv/history2.htm
中田喜直ら若手は、後にその批判した「童謡」の名をそっくりそのまま戴いて、「童謡協会」を作って、会長(初代、サトウハチロー、二代目中田喜直))に収まり童謡を推進する!というのだがいかにも動機不純なのは否めずすっきりしない。

ここに大正時代に始まった『童謡運動』はここに終焉を迎えることとなった。

昭和30年代後半から40年代にかけて、「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」、「ぞうさん」などが盛んに歌われることもあった。しかし、いま殆ど聞かれない。





85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/28(Fri) 20:48
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 16:21
☆サトウハチローと「童謡」 童謡排斥運動とサトウハチロー

童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/09(Tue) 00:30
大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌というものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した者、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。

劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は野口雨情、佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や普及運動を行っていた。


なお、このころ、本居長世も童謡運動で三人の娘さんと全国行脚をしていたのだった。
それは過酷な蒸気機関車の旅だった。

「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)、この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」で、この『波浮の港」がビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われた。

このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのが古賀政男だった。

昭和6年(1931)1月佐藤千夜子の歌で「影を慕いて」「日本橋から」が世に出た。(後に昭和7年3月藤山一郎)


88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 23:40
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/10(Fri) 19:32
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50





90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/19(Sun) 17:10
■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 1990 NHK TV (
1年間放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。



91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 12:50
h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌 好評 発売中


92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/02/14(Fri) 13:49
【昭和歌謡】『東京大衆歌謡楽団』で、「日本の文化遺産」昭和SP歌謡を聞こう!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=581636883&ls=50


93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/30(Mon) 14:32
めんこい仔馬

昭和16年にサトウ・ハチロー作詞、仁木他喜雄作曲でつくられた「めんこい仔馬」は、東宝映画『馬』(監督:山本嘉次郎、助監督:黒澤明、主演:高峰秀子)の主題歌として作られたものである。

サトウハチロー詩 仁木他喜雄作編曲
二葉あき子 高橋祐子 コロムビア児童合唱団 コロムビアオーケストラ
コロムビアレコード S-301  
  



(一) ぬれた仔馬のたてがみを 撫でりゃ両手に朝の露      
呼べば答えてめんこいぞ オーラ 掛けて行こうよ丘の道      
ハイド ハイドウ 丘の道  

(二) 藁の上から育ててよ いまじゃ毛並みも光ってる     
お腹こわすな風邪ひくな オーラ 元気に高くないてみろ     
ハイド ハイドウ ないてみろ  

(三) 紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか     
遠い戦地でお仲間が オーラ 手柄を立てたお話を     
ハイド ハイドウ お話を  

(四) 西のお空は夕焼けだ 仔馬かえろかおうちには     
お前のかあさん待っている オーラ 唱ってやろかよ山の唄     
ハイド ハイドウ 山の唄  

(五) 明日は市場かお別れか 泣いちゃいけない泣かないぞ     
軍馬になって行く日には オーラ みんなでバンザイしてやるぞ     
ハイド ハイドウ してやるぞ


東北地方の馬たち、多くは貧しい農家から徴用された。
愛する馬が、軍馬として徴用される相場の思いがよく出ている。
東宝映画「馬」の挿入歌として作られたが、映画には使われていない。
主題歌「馬」、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲。

いろいろレコードはあるが、この二葉あき子 高橋祐子 コロムビア児童合唱団盤が一番いい。






94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/03/30(Mon) 14:37
愛する馬が、軍馬として徴用される別れの思いがよく出ている。

他に、軍馬に徴用される馬への思いを歌ったものに「愛馬花嫁」(西条八十作詞、万城目正作曲)もある。

95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/11(Sat) 21:40
「日本の名曲」影を慕いて

「影を慕いて」は「日本の名曲」で、現在でもクラッシックコンサートで演奏されています。


h ttp://www.geocities.jp/jose_yacopi1977/2007_12_07malgorzata.htm

PROGRAM

1 「春の海」  作曲:宮城道雄(尺八:森川友博、ピアノ:吉野りん子)
Spring Sea music by MIYAGI Michio
syakuhachi:MORIKAWA Tomohiro,piano:YOSHINO Rinko

2 「アランブラ宮殿の思い出」  作曲:F.タレガ(ギター:中子祐二)
Recuerdos de la Alhambra music by Francisco Tárrega (guitar:NAKAKO Yuji)

3 「バルカローレ」  作曲:A.タンスマン(ギター:中子祐二)
Barcarole music by Alexandre Tansman(guitar:NAKAKO Yuji)

4  「影を慕いて」  作曲:古賀 政男(ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAI TE music by KOGA Masao(guitar:NAKAKO Yuji)

5  「ダニー・ボーイ」  作曲:アイルランド民謡
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ギター:中子祐二)
Danny Boy Irish traditional (soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko,guitar:NAKAKO Yuji)

6  「エーデルワイス」  作曲:R.ロジャース 作詞:O. ハマースタイン2世
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ウクレレ:中子祐二)
Edelweiss music by Richard Rodgers & words by Oscar Hammerstein II
(soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko, ukulele :NAKAKO Yuji)

【曲目解説】
4 影を慕いて (ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAITE(guitar:NAKAKO Yuji)
『影を慕いて』 (かげをしたいて) は歌謡曲の一つ。古賀政男作。藤山一郎の歌でヒットした。歌謡曲としては1931年発表。藤山一郎のヒット曲。作曲者古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌の最高傑作である。
この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められており、古賀政男の人生の歌ともいえよう。


96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/12(Sun) 21:13
「甦える 童謡歌手大全集」(CD10枚組)全200曲
 ビクター WT-0305(CD10枚組)2005
 SPオリジナル盤 
 
「お山の大将」「青い目の人形」から「ひょっこりひょうたん島」まで
 本居みどり、平井英子、本田信子、平山美代子、中山梶子、河村順子、川田正子、孝子、
 古賀さと子、秋田貴美子、岩田佐智子、伴久美子、久保木幸子、田端典子、桑名貞子、井上裕子、波崎共子、近藤圭子、安田章子、安田祥子、中根庸子、松島とも子、岡田孝、小鳩くるみなど
 図書館等で、、カセットもあり

97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 06:48
1920年(大正9年)、野口雨情と組んで『金の船』から多くの童謡を発表。『証城寺の狸囃子』『背くらべ』『アメフリ』『肩たたき』『雨降りお月さん』『あの町この町』『砂山』『鞠と殿さま』『てるてる坊主』など多くの傑作を発表した。1921年(大正10年)には野口雨情作詞の『船頭小唄』が大ヒット。同曲は日本の歌謡曲の基本的な型となり、日本固有のヨナ抜き音階やリズムの特徴を生かした独特な様式の中山作品は「晋平節」といわれた。
一方、日本的な歌謡の創作をめざした「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、『須坂小唄』『十日町小唄』『天竜下れば』など新民謡運動でも大きな役割を果たした。
1922年(大正11年)、千束小学校を退職。1928年(昭和3年)、日本ビクターの専属となり、世界的なオペラ歌手藤原義江、佐藤千夜子の歌で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒットを生んだ。
1929年(昭和4年)、西條八十とコンビで作った『東京行進曲』が佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録。この頃、ラジオ文化の発展に伴い、作曲した流行歌の楽譜集が「中山晋平作曲全集」として銀座・山野楽器店から順次発刊され、竹久夢二の表紙画の人気も手伝い大いに売れる。
その後、佐藤千夜子の代わりに、アルト歌手の四家文子、バリトン歌手の徳山l、バリトン歌手だった藤山一郎(昭和8−10年)ら東京音楽学校の出身の声楽家らがビクターに入社し、中山晋平の作品を歌い、いずれもヒットを記録。洋楽の手法で日本人の情緒感と原始的郷愁を踏まえた作品を残した。

なお、昭和6年。満州事変と東北大凶作の中、「酒は涙かため息か」以降、「古賀メロディ」の隆盛により、主流が「『晋平節』の時代から『古賀メロディ』の時代へ」と、大きな流れができた。昭和8年「東京音頭」(西条八十作詞、中山晋平作曲)以降、晋平は虚ろな日々を送ることとなり、熱海の別荘ができると、ピアノは別荘に送ってしまう。以後、大御所としての役割に移ってゆく。

1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。1944年(昭和19年)、日本音楽著作権協会の理事長に就任。1948年(昭和23年)には民間人として最初の会長となった。
酒は涙か溜息か(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発。」


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う怒涛の如き「古賀メロディ」の青春の息吹。



「酒は涙か溜息か」(1931.9)に続く、藤山一郎の「丘を越えて」(1931.12),「影を慕いて」〈1932.3)、

 人は敬意を表して「古賀メロディ」と呼んだ。

そして、「酒は涙か溜息か」以降、「晋平節」にかわり「古賀メロディ」が主流になって定着していく。「古賀メロディ」は来年(2021)、90年を迎える。

(参 考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真。



98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 06:57
1952年(昭和27年)12月2日、自らが作った『ゴンドラの唄』が使われた『生きる』を映画館で鑑賞。その翌日に膵臓炎で倒れ、30日3時30分、入院先の熱海国立病院で死去。享年65。告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家・佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、音羽ゆりかご会、ビクター児童合唱団による『てるてる坊主』、最後には『カチューシャの唄』が歌われた。

日本に流行歌を創始した作曲家・中山晋平。昭和初期の大衆音楽普及時代に、日本のヨナ抜き音階やリズムの特徴を生かした「晋平節」といわれる独特の様式をつくりあげ、庶民的なメロディースタイルを確立した。童謡・民謡・校歌・流行歌など約3000曲を世に送り出し、「日本のフォスター」と呼ばれた中山晋平の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「中山家霊塔」とあり、右側に墓誌が建つ。

中山晋平の多岐にわたるジャンルからよく知られた曲、日本人が古くから親しんできた五音音階(いわゆるヨナ抜き音階)と西洋和声をミックスした情感豊かな「晋平節」の特徴を生かし、さらにイメージを拡げ、中山の作曲も、誰もが思わず口ずさんでしまうような日本的風土にぴったりと合って、まさに晋平節の真髄です。





99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 07:14
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。

昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。

ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06



尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。

さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。

まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 
昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。

最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのである。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを中山晋平の【晋平・節】に対し、【古賀・メロディ】と呼んだ。

“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ。

【古賀メロディ】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平節】に対するもの(称号)であり、「メロディ」をつけるのはただ一つ【古賀メロディ】だけ。




100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 07:36
作曲家古賀政男のレコードデビューは実は作曲家になる前、ギター演奏家(プレクトラム音楽家)としての古賀政男(正雄)のレコード吹込みが先だった。

昭和四年七月新譜でコロムビアから発売された《恋慕流し》。

ギター・尺八連奏:恋慕流し 野村景久[尺八], 鈴木光久, 古賀正男[ギター] (コロムビア(戦前), : コロムビア COL 25565, 1929-06



尺八とギタ―の共演で、尺八の野村景久と共演した。本居長世、弘田竜太郎,宮城道夫、吉田晴風などの「新日本音楽」である。

さらに同年十一月新譜で同じコロムビアから、《花曇り》が発売された。これにもギター奏者として古賀政男は名前を連らねている。

まだ、「古賀政男」ではなく「古賀正男」である。
 
昭和四年十二月二十三日、佐藤千夜子歌唱、ビクターレコードで《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲)《娘心も》(浜田広介・作詞/古賀正男・作曲)《青い小鳥》(作詞者・不祥/古賀正男・作曲)らが吹込まれた。自分の作品が当代随一の人気歌手、レコード歌手第一号佐藤千夜子の歌でレコードになる。

最大大手のビクターからマンドリン作曲家としてデビューするのである。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを中山晋平の【晋平・節】に対し、【古賀・メロディ】と呼んだ。

“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ。

【古賀メロディ】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平節】に対する,「主流」としての「称号」でもあり、「メロディ」をつけるのはただ一つ、【古賀メロディ】だけ。




101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 08:48
戦前は、貧しい時代ではあったが、軍国主義を除けば情緒があったようです。日本の天才的な数学者の岡潔さんもそう言っています。「戦前は軍国主義を除けば、良い時代であった」と。

ミス・コロンビア・松原 操の歌謡曲のSP録音を復刻したセット、彼女は昭和6年に東京音楽学校を卒業し、クラシックの声楽家として活動していたが、コロンビアにスカウトされ歌謡曲も歌うようになった。
彼女の歌を聴いていると、かつて存在したが今はもう失われた日本女性の美徳、純情、可憐、清楚、貞淑といった要素をその歌唱の中に昇華し結晶化しているように思われる。大げさな言い方になるかもしれないが、西洋音楽の歌唱において日本らしさ、日本的スタイルがここに確立しているとみることができる。そして彼女以後、これ程、日本的な良さを感じさせる歌手は出なかった。その意味でまことに貴重な記録がここにあるといえよう。
映画の内容は知らないけど、この歌は大好き。

西條八十・古賀政男、この二人の巨匠になるたくさんの美しい名曲最高。
霧島昇さんの甘くソフトな歌声がより引き立てています

戦後大きく変わったのは恋愛の自由、恋愛は昔も今も小説、映画のテーマであることように変わりないのだが、それまでの恋愛表現は奥ゆかしさがあったのが、戦後自由奔放になってくる。
その先駆けみたいなものが石坂洋二郎作品・・「青い山脈」だろう。
「青い山脈」というのは石坂洋二郎作品で、その新聞連載の昭和24年(1949)映画化作品とその主題歌(西條八十作詞、服部良一作曲)。ちょうどブギウギがはやっていたころ。
でもなにか「平和」を願うみたいになっているが気になるが、東北地方の港町を舞台に、封建的な田舎町における奔放な男女交際をめぐる騒動、それと戦う若い女教師の姿を描いたもの。未だに戦前の「封建的な社会制度」を引きずっており、女性は男性より低い立場にあるのが当たり前という封建制度と戦う姿。戦う陰にあるのは戦後の「奔放な男女関係」であって「平和」そのものではない。

前年、まだ恋愛にも奥ゆかしさがあったころ、昭和23年(1948)の「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)とは、同じ恋愛小説の映画化作品であるが、まったく異なるもの。
西條八十は数えきれないほどの名作品を世に送り出したことで知られるが、特にその心情、苦悩を謳ったそれは他の追随を許さないものが有る。
しかし、この「青い山脈」に限っては、奔放な男女交際に踏み込んでいるとは思われない。心情が見えない。苦悩もない、何のことかわからない、平和を願った歌とであるように勘違いしてしまうような、西條八十にしては、さらっとした、景色など一般的な表現で、中身に踏み込んでいないのは物足りない気がする。
石坂洋二郎原作映画「青い山脈」とは、東北地方の港町を舞台に、若き男女の交際をめぐる学園内の騒動を描いたもの。

だから、藤山一郎の歌唱によって、一般的人気を集めている一方で、「バラ色雲」とか、、「若く明るい」だけでは軽いとの辛口の批評も常に付きまとう。 その背景とは・・。



102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 09:04
同じ西條八十の戦後早々の作品である「三百六十五夜」「麗人の歌」などの重厚な作品と聞き比べればよくわかる。 ‥

「三百六十五夜」(昭和23年、西条八十作詞、古賀政男作曲)霧島昇・町原操・・

こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ・・!といつも思います。
何と素晴らしい名曲!。
日本人に生まれて良かったと実感させてくれます。 日本語の美しさが際立つ名曲ですね。
ほのぼのと、そして切なく感じるのは何故だろうか?
日本の女性や男性に、まだ慎みと奥ゆかしさがあって、恋の道でも節度があったころの歌ですね。聞いていて風格がありますよ、抱いてとかいった露骨なんじゃなくて。
古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもかと 討ちこんでくる・・・・・・・・・
正に この歌はその代表だと思っています。 ・・・

DVD「市川崑初期作品集・三百六十五夜総集編」THD−19931  B20209(株)フュチャークラッカー、レンタルあり

そういう意味でも、霧島昇・ミスコロムビア(松原操)の歌った「三百六十五夜」(1949)は、日本の女性や男性に、まだ慎みと奥ゆかしさがあって、恋の道でも節度があったころ、まだ恋愛にも奥ゆかしさがあったころの最後の作品。
日本の、「昭和」の歌謡の世界は、世の中も次第に豊かさを増す中で、昭和23年の「三百六十五夜」を境に大きく変わってゆく。

ちょうど、服部良一作曲のブギウギ゙とか外国リズムがはやりだす中で生まれ、そして昭和30年代後半から今日につながる「飽食の時代」を迎える。

歌う昭和史・藤山一郎も、5年後の昭和29年には。コロムビアとの専属契約を終了、レコード界から身を引くようになったのだ。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 09:35
古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。

曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。

『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》と《影を慕いて》・・、

いずれも、今でも根強く愛され歌われ、演奏されている《日本の名曲》。

そして両方とも、平成元年、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された押しも押されもしない「日本の名曲」である。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。

それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)





104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 09:59
2019-04-12

どこかのテレビ局で古賀政男の特集をやっていた時のことであったと思う 古賀政男は 私は歌というものは 詩がお姉さんで曲は妹だと思います。 それは 昔の新妻鏡という映画の主題歌を例に出して  ♪僕が心の良人なら 君は心の花の妻―――― ♪なんという美しい出だしでしょう 佐藤惣之助先生はこの美しい歌を作詞してくださったので僕はそれになるべく合うように作曲させてもらいましたと言っていた


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/16(Thu) 10:07
佐藤惣之助は天才詩人といわれた萩原朔太郎の義弟に当たります。他に、男の純情、人生の並木路、人生劇場どり、緑の地平線、湖畔の宿、赤城の子守歌などなどの有名な歌の作詞者です。



106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/20(Mon) 18:25
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング。
古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、この1週間後にイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。
ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年(1930にオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は同自伝に「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など東京音楽学校の優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。
90年前、 まだ、現在ある歌のほとんどすべてがまだ生まれていなかった時代である。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そして最大の功績として、古賀政男の才能を見出し素早くメジャーデビュさせ、今日の大衆音楽の隆盛に繋げた陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました。」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」の他、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。



107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/23(Thu) 09:49
【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
h ttps://life7.5ch.net/test/read.cgi/healing/1113312511/76,84-87



108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/04(Mon) 16:05
>>106

(参考)古賀政男音楽博物館(一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団)

小田急線・地下鉄千代田線 代々木上原駅前すぐです。新宿、渋谷から10分で行けます。

駅前昔の面影はありませんが、3000坪野の旧古賀政男邸跡に作られた音楽博物館です。古賀政男邸や古賀の遺品,第一級の美術品等の博物館のような展示があります。

隣のビルも古賀財団のビルで、西新橋から移転してきたJASRAC(日本音楽著作権協会)本部がテナントとして入っています。

古賀政男も日本音楽著作権協会会長を歴任。昭和14年には、日本音楽著作権協会の前進、大日本音楽著作権協会の設立にも加わりました。

古賀政男は昭和の圧倒的著作権王で、著作権には切っても切れない音楽家です。


「佐藤千夜子」の「影を慕いて」のレコードも展示されています。その他企画展がじいじ行われていますが、現在コロナでたぶん休館中かもしれません。

滝廉太郎とか明治以降大衆音楽に尽くした音楽家、詩人・作詞家、作曲家、歌手・声楽家、演出・演奏家など多数の歌を地下の音楽情報室で選んで、7000曲聴くことができます。
古賀メロディについて2000曲、自由に選んで聞くことができます。


109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/04(Mon) 16:08
☆古賀政男音楽博物館  参照
h ttps://blog.goo.ne.jp/mr_asuka/e/fc680eb40403d8544cc667836dceca8a

古賀政男音楽博物館(コガ・ミュージアム)
(一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団)
h ttp://www.koga.or.jp/

代々木上原は、古賀政男が昭和13年に移り住んだ街です。
古賀政男は、この代々木上原の地に、音楽創造に邁進する同志を集めて音楽村をつくろうという構想を持っていました。
古賀政男音楽博物館は、古賀政男の遺志を引き継ぎ誕生した、大衆音楽の博物館です。
古賀政男の展示はもちろん、日本の歌謡史に関する資料も多数展示しております。
「見て・聴いて・歌える」博物館です。ごゆっくりお楽しみください。

〒151-0064 東京都渋谷区上原三丁目6−12
Tel:03-3460-9051 / Fax:03-3460-9052
入館料 一般550円 学生440円 小中学生220円

交通
・新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
・京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
・ハチ公バス 丘を越えてルート 古賀音楽博物館下車 徒歩1分

110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/15(Fri) 15:37
童話・童謡運動の真っ盛り、同時に新民謡運動が目覚め、童謡・新民謡運動へと変質して行く、大正から昭和にかけての時代。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学した佐藤千夜子、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、
演奏家の古賀正男(古賀政男)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、大衆音楽の黎明期、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

そして、「レコード歌謡」が形作られ、さらに童謡・新民謡風の時代から、古賀政男の登場によって、より「メロディー」が強調されたものになる。
より繊細で温かみのある、人を引き込む「古賀メロディ」の、まさに「3分間の芸術」の極致たる世界に入ってゆく。

古賀のいわゆる「古賀メロディ」は、中山晋平の「晋平節」と並んで、昭和初期レコード歌謡の代表的旋律でした。

「晋平“節”」の時代から、主流としての新しい「古賀“メロディ”」の時代へ、昭和一桁時代に、人はそう呼ぶようになってゆく。

111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/15(Fri) 21:15
>>101
「青い山脈」は、歌詞の内容は映画の内容とは何ら関係していない。映画のドラマや主人公の名前も出てくるわけでもない。出てくるのは「青い山脈」という言葉だけである。
戦後民主主義というのは自由奔放に過ぎなかった。詞にするには引けてしまうもの。
ほとんどすべてが、あまり関係ない情景と美辞麗句で構成されただけ。
それほど元気の出る歌でもないという評価。
西条八十にしては、あるいは西条八十の作詞だが、ただ、若く明るい・・だけでは軽い感じは否めない。

石坂洋二郎の作品は、戦後民主主義の象徴みたいに読まれていたが、「青い山脈」を含め、当時は読まれていたが今絶版。見向きもされない。





112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/15(Fri) 21:19
石坂洋二郎の作品は、戦後民主主義の象徴みたいに読まれていたが、「青い山脈」を含め、当時は読まれていたが、現在振り向きもされず、絶版。

113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/19(Tue) 22:03
「青い山脈」は「若く明るい」とか、一般的、素人的には、それなりの人気はあるのはわかるものの、青春の苦悩とか情感を聞きたい。
情景・景色だけでは一般の請けは良いとしても、それだけでは軽さは否めないもの。

また、それほど明るい曲でもない。


114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/19(Tue) 22:11
(取り戻そう日本の歌)日本の歌謡の歴史(日本の文化遺産)

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=589880538&ls=50


115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/24(Sun) 18:20
《大日本音楽著作権協会設立》 昭和14年11月

昭和14年11月18日午後1時、現在の一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC))の前進、社団法人大日本音楽著作権協会 の創立総会が内務省で開催された。
対象は邦楽と洋楽の作詞家、作曲家である。
洋楽と邦楽で、作詞家、作曲家併せて出席者は、発起人68人中48人だった。

協会設立時における主な会員出席者は洋楽では

作曲家(25人):

本居長世、弘田龍太郎、中山晋平、梁田貞、橋本国彦、堀内敬三、山根銀二、松平頼則、 藤井清水、古賀政男、小松耕輔、佐々木すぐる、諸井三郎、杉山長谷夫、井上武士、飯田信夫、服部正、他


なお、作詞家(15人)は、
林柳波、大木惇夫、與田準一、 高野辰之、長田幹彦、久保田宵二、葛原しげる、西条八十、佐藤惣之助、時雨音羽、清水桂ほか。






116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/25(Mon) 22:54
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/07/26(Sun) 17:56
昭和53年−日本の歌謡曲の父・古賀政男逝去
 
 昭和五三(一九七八)年、歌謡界の父、巨星古賀政男が逝去した。享年七三歳だった。古賀政男の人生は昭和の歴史そのものである。そして波瀾に満ちていた。五度にわたる黄金時代がそれを物語っている。古賀政男は明治三七(一九〇四)年一一月一八日、福岡県三潴郡田口村に生まれた。その故郷は詩人北原白秋の詩情豊かな柳川の近くで、その原風景は《誰か故郷を想わざる》という名曲を生み出した。古賀政男は村の鎮守にかかったサーカス小屋から聞こえてくるクラリネットの音や旅芸人が奏でる月琴の音などによって早くから音楽体験を育んだ。
 古賀政男は七歳のとき父を失い、思い出深き田口村を後にし朝鮮半島に渡った。このときの故郷喪失の悲しみが《人生の並木路》(佐藤惣之助・作詞/古賀政男/一九三七・一)となった。故郷を捨て渡った朝鮮半島の生活は古賀政男にとっては苦闘の時代であった。だが、善隣商業三年のとき、マンドリンとの出会いが後年の古賀政男の人生を決定づけた。長兄の命令で四兄の大阪の支店に勤務させられたが、音楽への情熱が止み難く上京を決意し出奔した。
 大正一二(一九二三)年の春、古賀政男は明治大学に入学しマンドリン倶楽部の創設に参画した。マンドリン・ギター、いわゆるプレクトラム音楽を独学で勉強した。明大マンドリン倶楽部のリーダーとなり当時の人気歌手佐藤千夜子に見いだされた。昭和五年から六年にかけて、佐藤千夜子の歌唱にマンドリン演奏・ギター演奏を加えた自作品をビクターから発売した。昭和六(一九三一)年、コロムビア入社。古賀は最初流行歌の作曲に自信がなく、社員を希望した。だが、藤山一郎との出会いで人生は大きく好転した。藤山一郎の歌唱で《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》《影を慕いて》が次々とヒットしそのメロディーは一世風靡した。これが古賀メロディー第一期黄金時代である。その後、古賀政男はテイチクへ作曲家兼重役待遇で迎えられた。 
 テイチク時代の古賀政男は、「創作芸術」と「事業経営」に手腕を発揮した。作品の創作においては《二人は若い》《緑の地平線》《東京ラプソディー》《男の純情》《ああそれなのに》《青い背広で》《人生の並木路》などつぎつぎとヒットし、テイチク時代に古賀メロディー第二期黄金時代を形成した。歌手陣には、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴らを揃え、他社を圧倒した。また、テイチクの重役として経営陣の一翼を担い会社の発展に大きな功績を果たした。殊に文芸部において制作を一切任され手腕を発揮した。その後、外務省の音楽親善使節として、ハワイ、アメリカ、南米を外遊。NBC放送で《緑の月》《ああそれなのに》《男の純情》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》が流れた。
 





118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/07/26(Sun) 18:09
古賀政男は、コロムビア復帰後もつぎつぎと《誰か故郷を想わざる》《目ン無い千鳥》《新妻鏡》などのヒットを放ち、流行歌王としての地位を確立した。歌手もコロムビアに復帰した藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、二葉あき子、松原操らがいて充実し、第三期黄金時代を現出したのである。日中戦争以後、軍国歌謡が盛んになるが、古賀政男もテイチクからコロムビア時代にかけて多数の作品を生み出している。だが、戦意昂揚となるような作品が少ない。軍国主義を強力に推進する軍部からは軟弱な歌として徹底的に嫌われたようである。
 戦後の古賀政男は旺盛な創作活動を展開した。近江俊郎が熱唱した《湯の町エレジー》を始め、戦後の復興を背景に《トンコ節》《芸者ワルツ》などのヒットによって第四期黄金時代を形成したのである。昭和三〇年代、吉田正、船村徹、遠藤実、中村八大など戦後派の作曲家が歌謡界を席巻すると、古賀政男も新たなスタンスを構築しなければならなくなった。そこに美空ひばりへの接近が見られた。古賀政男は美空ひばりを得て《柔》《悲しい酒》をヒットさせるなど五度目の黄金時代を形成し歌謡界の巨匠として君臨した。  古賀政男の作品は、古賀メロディーと言われ、初期作品においてはマンドリン・ギターのクラシック作品の影響が強かった。この分野はプレクトラム音楽と言われているが、古賀政男のこの分野における造詣はかなり深いものがある。歌手には藤山一郎、関種子ら声楽家や、淡谷のり子、二葉あき子、松平晃、楠木繁夫らの音楽学校出身者が古賀メロディーを彩った。昭和恐慌、満州事変などの暗い世相を背景にしたセンチメンタルなメロディーに加え、昭和モダンを高らかに歌う作品などその音楽は豊饒なものであった。そして、テイチク時代の後半から日本情緒を基調にした邦楽的技巧表現に重点を置き、戦後の円熟期にかけては演歌の源流となるような作品を生み出した。
 古賀政男は日本人の哀しみによって流す涙や怨恨の根源を仏教に求めていた。つまり、演歌・艶歌の心情を声明にその源流を遡及したのである。仏教の典令音楽である声明から、平曲や謡曲、浄瑠璃、説教節、浪花節への流れと、和讚(国産声明)や御詠歌、子守唄、民謡、江戸小唄へという二つの系脈となり日本人の内面世界に浸透していった。その音楽は旋律型をつなぐことによって構成された。古賀は最後の黄金時代を迎えた後、敢えて自らの音楽遺産を矮小化することを覚悟して演歌の源流というスタンスを明確にし演歌系歌手である美空ひばり、島倉千代子、村田英雄、北島三郎、森進一、五木ひろし、都はるみらにそれぞれの個性をもって自由自在に古賀メロディーを崩させながらを歌わせたのである。多くの日本人を感動させた音楽人生だった。 




119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/01(Sat) 21:48
CD[七つの子~野口雨情作品集]

「七つの子」「赤い靴」など、数多くの童謡で知られる、詩人・野口雨情。生誕120周年を記念して、
昭和初期の音源を集大成した作品集。童謡だけでなく、民謡や流行歌も収録。歌手は平井英子ほか。
不滅の詩人、野口雨情の生誕120周年記念として、SP時代(=昭和初期)の音源をはじめて集大成した
2枚組アルバムをリリース!! 没後50周年を迎えた中山晋平(作曲)との名コンビによる民謡や流行歌等、
童謡以外の代表曲も網羅。歌唱は平井英子、佐藤千夜子、本多信子、藤原義江、渡辺光子他。
企画/監修は長田暁二、矢沢寛。詳細な解説書付。小沢昭一によるエッセイも掲載。
 h ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006BH1L/249-1303985-9970766
 h ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536

曲目リスト
ディスク: 1
1.南京言葉
2.鶯の夢
3.白頭鳥(ペタコ)
4.あの町この町
5.こがねむし
6.證城寺の狸囃子
7.蛙の夜回り
8.雨降りお月
9.兎のダンス
10.手の鳴る方へ
11.キューピーピーちゃん
12.チンドンヤ
13.七つの子
14.赤い靴
15.十五夜お月さん
16.青い目の人形
17.俵はごろごろ
18.木の葉のお舟
19.シャボン玉
20.信田の薮

ディスク: 2
2.波浮の港
3.須坂小唄
7.旅人の歌
8.中野小唄
13.三朝小唄
17.紅屋の娘
19.河原柳
23.船頭小唄





120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/08/01(Sat) 21:56
>>119

佐藤千夜子の「信田の薮」(しのだのやぶ)絶品です!!。これを聞くと日本の歌の魅力すばらしいと思います!。


昔のレコードをきくと、大人の歌手はもちろん、童謡歌手までみな言葉をたいせつにして、心をこめて丁寧に歌ってるのが、伝わってきます。
ここにまず癒されます。



信田の藪  (野口雨情作詞 藤井清水作曲)佐藤千夜子歌
 
 お背戸のお背戸の 赤とんぼ
 狐のお話聞かせましょう
 聞かましょう

 糸機(はた)七年 織りました
 信田の狐は 親きつね
 親きつね

 信田のお背戸の ふるさとで
 子供に こがれた 親きつね
 親きつね

 お背戸のお背戸の 赤とんぼ
 明日のお藪に 来てとまれ
 来てとまれ


旅人の唄 (野口雨情作詞 中山晋平作曲 佐藤千夜子歌)

 山は高いし 野はただ広し
 一人とぼとぼ 旅路の長さ

 乾く暇なく 涙は落ちて
 恋しきものは 故郷の空よ

 今日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国やら 果てさえ知れず

 水の流れよ 浮き寝の鳥よ
 遠い故郷の 恋しき空よ

 明日も夕陽の 落ちゆく先は
 何処の国かよ 果てさえ知れず
 
 



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