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童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 16:43
大正8年の起こった童話童謡運動、多くの文学者、詩人、作曲家によって
多くの名作童謡を生んだ童話童謡運動。

しかし、それは戦後新しい若手勢力「ロバの会」による自らの利益を図る「童謡排斥運動」によって
終焉を迎えた。

その歴史に残る汚点は決して忘られるべきでない。

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:04
「甦える 童謡歌手大全集」(CD10枚組)全200曲
 ビクター WT-0305(CD10枚組)2005
東京カルチャーセンター(JDMA会員) 
 SPオリジナル盤 
   
「お山の大将」「青い目の人形」から「ひょっこりひょうたん島」まで
 本居みどり、平井英子、本田信子、平山美代子、中山梶子、河村順子、川田正子、孝子、
 古賀さと子、秋田貴美子、岩田佐智子、伴久美子、久保木幸子、田端典子、桑名貞子、井上裕子、波崎共子、近藤圭子、安田章子、安田祥子、中根庸子、松島とも子、岡田孝、小鳩くるみなど
 
図書館等で、、カセットもあり


52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:18
雨情は小学校を卒業すると上京し伯父の家から中学校に通い、ついで東京専門学校(今の早稲田大学)に入学して坪内逍遥の指導薫陶を受けた。
明治36年(1903年)には父量平が村長在職中に死亡し、雨情は郷里に帰り家督を相続して家業を守ることになったが、父の残した膨大な借財整理が肩にのしかかってきた。
そのころ日本の詩壇は新体詩の新しい時代に入りつつあり、与謝野鉄幹・島崎藤村(1872−1943)などが詩集を続々と刊行している。

雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。

しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発すると、社会は次第に戦時色が強まり、歌謡の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となった。
雨情は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったのでその活躍の場も次第に狭まることになったが、それでも雨情の雅致雄渾の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もした。

昭和18年(1943年)、それまで全国を駆け歩いていた雨情は突然軽い脳出血に冒され、それ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。
そのうち空襲が激しくなったので宇都宮近郊に疎開したが、昭和20年1月6日・・(丁度ラジオからは「お山の杉の子」などが流れてたであろうころ)・・家族に見守られながら静かにこの世を去った。

雨情没後7年目の昭和27年(1952年)に、中山晋平、時雨音羽などが中心となって東京に「雨情会」が創設された。初代会長は中山晋平だったが、晋平も昭和27年に亡くなっている。




53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:23

簡単な分かりやすい詩の中に
深い人生の悲苦等隠されていて、
素晴らしい雨情の詩。


十五夜お月さん
野口雨情作詞、本居長世作曲

十五夜お月さん
御機嫌さん
婆やは お暇(いとま)とりました

十五夜お月さん
妹は
田舎へ貰(も)られてゆきました

十五夜お月さん 母(かか)さんに
も一度
わたしは逢ひたいな。


雨情は他に「雨降りお月さん」という曲も作詞しています。
月のような優しい陰徳の光を好んだのかもしれませんね。
表に立つのでなく裏で下で悲しむ人、苦しむ人を支えていた
月の柔らかい光の人だったと信じます。


雨情は一見暗そうだけど、人の痛みを理解し生きる人。
雨情は有情にもつながる。
生きとし生けるものへの人一倍の優しさを感じる。




54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/31(Wed) 23:44
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50

55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/04(Sun) 23:28
童謡「やさしいお母さま」昭和15年

昭和30年代、童謡黄金時代に、多くの童謡歌手によってよく歌われた歌、母と子の情愛を歌った何かいいようのないとても
優しい旋律である。

昭和15年といえば太平洋戦争突入前年、太平洋戦争突入前年と言いながら、平和最後の時代、それに似つかわしくない優しい歌が集中している。
「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「高原の月」(西條八十)、「新妻鏡」(佐藤惣之助)・・など、


<大道眞弓の「やさしいお母さま」>

「やさしいお母さま」

  作詞:稲穂雅巳
  作曲:海沼 實

わたしが おねむになったとき
やさしくねんねん こもりうた
歌って ねかせてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

夏は ねびえをせぬように
冬はおかぜを ひかぬよう
おふとん なおしてくださった
ほんとにやさしい おかあさま

わたしが 大きくなったなら
ご恩をお返し いたします
それまでたっしゃで まっててね
ほんとにやさしい おかあさま


この歌は海沼實の作曲。海沼實は、音羽ゆりかご会を指導していたが 昭和18年の関東児童唱歌研究会主催のコンクールで音羽ゆりかご会が圧勝。この「やさしいお母さま」を歌った大道眞弓が優勝し、2位は「兵隊さんの汽車(後の汽車ポッポ)」を歌った川田正子で、いずれも音羽ゆりかご会のメンバーだったという。

また、昭和18年には、「音羽ゆりかご会」は、「東京放送児童合唱団」として、NHKに任命され、戦中、戦後のNHKラジオ放送に貢献している。




56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/04(Sun) 23:53
音羽ゆりかご会の歴史


「音羽ゆりかご会」の創設者である海沼實は、明治42年に長野県埴科郡松代町で誕生しました。童謡の作曲家を志して、昭和7年に上京すると、同郷出身の作曲家・草川信に弟子入りして作曲活動を開始。当時の護国寺貫首・佐々木教純の好意で護国寺境内に無償で教室を借り受け、子どもの情操教育を志して合唱団を創設し、自らその会長となりました。

海沼の師匠にあたる草川は、自らの代表作である「ゆりかごの歌」を、この合唱団の会歌として贈り、また大正時代の半ばから「赤い鳥童謡運動」を支えてきた詩人の北原白秋は、同会を「音羽ゆりかご会」と命名し、協力にサポートして下さいました。 やがて「お猿のかごや」「あの子はたあれ」「ちんから峠」「やさしいおかあさま」等の曲で頭角を現し始めた海沼は、これら新作童謡を音羽ゆりかご会に歌わせ、次第に全国民的な支持を受け始めます。海沼が指導した音羽ゆりかご会は着実に実力を高め、創設から10周年目を迎えた昭和18年には、児童唱歌コンクールで優勝と準優勝を独占。この年から、NHKの放送では、東京放送児童合唱団という呼称でも活動を始めることになりました。


57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/06(Tue) 10:24
「あの子はたあれ」

作詞 細川雄太郎
作曲 海沼 實


あの子はたあれ たれでしょね
なんなんなつめの 花の下
お人形さんと 遊んでる
かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか

あの子はたあれ たれでしょね
こんこん小やぶの 細道を
竹馬ごっこで 遊んでる
隣の健ちゃんじゃ ないでしょか

あの子はたあれ たれでしょね
とんとん峠(とうげ)の 坂道を
ひとりでてくてく 歩いてく
お寺の小僧さんじゃ ないでしょか

あの子はたあれ たれでしょね
お窓にうつった 影法師(かげぼうし)
お外はいつか 日がくれて
お空にお月さんの 笑い顔

昭和15年に音羽ゆりかご会の秋田貴美子の歌で発売され、昭和30年代、多くの童謡歌手によって広く歌われた。

運動会にも流された。




58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/10(Sat) 09:50

復刻盤 懐かしの童謡歌手たち @〜B  COCC-12794〜6 日本コロムビア1995
 
復刻 懐かしの童謡歌手たち @  COCC-12794

川田正子 みかんの花咲く丘  他
川田孝子 お花のホテル    他

復刻 懐かしの童謡歌手たち A  COCC-12795

伴久美子  人形       他
久保木幸子 仲良し小道    他

復刻 懐かしの童謡歌手たち B  COCC-12796

安田祥子  七つの子     他
安田章子  愉快な街の風船屋 他
岡田孝   赤とんぼ     他
羽崎共子  浜千鳥      他
松島トモ子 かもめの水兵さん 他
桑名貞子  グッドバイ    他
井上裕子  ロンドン橋落ちる 他
安西愛子  お山の杉の子   他
松田トシ  お山のお猿    他
河村順子  うれしいひなまつり他


図書館棟にあり CD,テープ


59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/17(Sat) 15:11
大村主計作詞、豊田義一作曲。昭和6年(1931年)に発表されました。子供らしくかわいい歌です。

「絵日傘」

桜 ひらひら 絵日傘に
蝶々もひらひら きてとまる
乳母(うば)のお里は 花の路
すみれの花も たんぽぽも

まわす絵日傘 花吹雪
ひばりもぴーちく 来てあそぶ
乳母(うば)のお里は 春がすみ
絵日傘くるくる 通りゃんせ


「花かげ」がお姉さまへの、こちらは乳母への想いが味わい深い内容で浮かんでくるいい曲です。

「花かげ」
 大村主計作詞/豊田義一作曲

   十五夜お月さま ひとりぼち
   桜吹雪の 花かげに 
   花嫁すがたの お姉さま
   車に揺られて 行きました
   
   十五夜お月さま 見てたでしょう
   桜吹雪の 花かげに
   花嫁すがたの 姉さまと
   お別れ惜んで 泣きました
   
   十五夜お月さま ひとりぼち
   桜吹雪の 花かげに
   遠いお里の お姉さま
   わたしは一人に なりました

絵日傘、花影、いずれも大村主計作詞/豊田義一作曲、
昭和6年、童謡歌手永岡志津子の歌で世に出た。よく舞踊に歌われた。



60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/11(Sat) 09:05
日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】


http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/26(Sun) 12:47
h ttps://columbia.jp/shinyabin/
NHK CD ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌 好評 発売中


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 11:42
童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=561794206&ls=50

63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/03(Fri) 18:15
「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは。
、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。

当時は童謡黄金時代であったがこれはレコードであなくラジオである。
磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直ら若手二世五人の作曲家グループは、
昭和三十年「ろばの会」を作って、(レコードでなく)新しいラジオ番組「歌のおばさん」で
「あたらしいこどものうた」をつくろうとした。

そしてこれまでの(レコード)「童謡」の「排斥運動」を展開したのだ。
自らと競合する『童謡』を排斥したのだ。(「童謡排斥運動」という。)

昭和30年代後半から40年代にかけて、大中恩らの「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、
[あたらしいこどもの歌」がテレビの子供歌番組などでよく歌われた。

しかし、今から考えればそれは、あくまでちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。
現在保育園とか幼稚園位で歌われる位。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、この
さっちゃんなどは所詮幼児の歌、大きくなれば顧みられることは無い。


「ぞうさん」「サッちゃん」「おなかのへるうた」。。こうしたたあいないへんな歌は童謡黄金時代、「童謡」に対抗して、昭和30年に作られた「ロバの会」による「新しいこどものうた」というものです。対象就学期前の幼児でした。

そしてなんと、「童謡排斥運動」を起こしたのです。「ロバの会」自体が童謡排斥のためで、5人の若手二世音楽家によって作られたものでした。

「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた”を作って行こう」ということで、“童謡”を“こどものうた”と言いあらためたと言うのだが、結局こどものうたにすぎなかった。そして排斥に依って自分たちの世はこなかった。

名もなきたった4人の若手二世で、大正時代からの『童謡』を変えるなどとても無理な事だった。 宇賀神光利、中田喜直らが相次いで亡くなり、2000年には解散となった。


<「ろばの会」について>
磯部俶(いそべとし)の提案で、“こどものうた”の作曲家グループとして、昭和三十年(1955年)に 中田喜直、磯部俶、中田一次(、宇賀神光利(昭和42年(1967年)に死亡)、大中恩の5人で結成。 まどみちおなど詩に加わる。

童謡をさんざん排斥した中田喜直は、その後、その「童謡」をそのままかすめ取って
『童謡協会』を作り、会長に収まった。

動機不純そのもので、さすがに最初から会長では露骨すぎとかんがえたのだろうか、初代はサトウハチロー、仲田は二代目として入った。
これいったいどういうこと。

日本童謡史における最大の汚点として、中田喜直ら、ロバの会の悪行は記録されるでしょう。

従って『童謡協会』に童謡を語る資格は無い。

また『童謡協会』は、『童謡』には関心がなさそうだ。

童謡を語れる人材も入っていないし、童謡を実際歌っている児童合唱団なども見向きもしていない。

ロバの会と同様、いずれ解散となるでしょう。

昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。
死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。
「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。
このことを、これはものがたっている。

(「童謡の聖人・中田喜直」)

64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 22:43
[世界大百科事典]内の歌のおばさんの言及

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

この中に「童謡排斥運動」の背景がよく表れていて、童謡排斥運動、そのもので、非常に参考になる。


【童謡】より

…しかし,子どもの流行歌としての〈レコード童謡〉の量産がその質の低下をもたらし,戦後再び子どもの歌の運動が起きた。〈赤い鳥〉の流れをくむ詩人サトウハチロー(1903‐73)や新進作曲家団伊玖磨(1924‐ ),芥川也寸志(1925‐89),中田喜直(1923‐ )らによるもので,NHKのラジオ番組〈歌のおばさん〉を媒介とし,ここから《めだかの学校》《ぞうさん》など,簡単な旋律でありながら,芸術味のある歌が誕生した。ついで中田喜直,磯部俶(1917‐ )らによる〈ろばの会〉が結成され,彼らは〈レコード童謡〉のイメージから脱皮すべく童謡の名称を用いず,〈こどものうた〉とよんだ。…
※「歌のおばさん」について言及している用語解説の一部を掲載しています。



65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 22:49
>>53

h ttps://kotobank.jp/word/歌のおばさん-1274062

出典|株式会社平凡社
世界大百科事典 第2版について

66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 22:54
上記訂正
>>64

h ttps://kotobank.jp/word/歌のおばさん-1274062

出典|株式会社平凡社
世界大百科事典 第2版について

67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/04(Sat) 23:09
うたのおばさん
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『うたのおばさん』は、1949年8月1日から1964年4月4日までNHKラジオ第1放送で放送されていた幼児向けの歌番組である。平日の8時45分から9時まで放送されていた。


概要
終戦直後の貧しい時代に、「歌」は最も重要な娯楽の一つだったが、いわゆる流行歌には、子どもの歌唱にふさわしくないものも多く、健全な子どものための音楽文化育成のために、番組が制作された。[要出典]
安西愛子と松田トシがピアノ伴奏で歌唱し、歌遊びや歌唱指導もあった[1]。この番組ができた当時、安西・松田の2人はまだ30代前半で、「おばさん」呼ばわりされるには抵抗があったようだが、「長寿番組にしたいし、そうすればおばさんのほうが親しみやすい」というNHK担当者の説得で納得したという。[要出典]
まど・みちお作詞、團伊玖磨作曲の『ぞうさん』[2]など、この番組のために作られた歌もある。他に、サトウハチロー、小林純一、中田喜直、團伊玖磨、芥川也寸志、佐藤義美らが番組に協力した[3][4]。
当時は、幼稚園や保育園に通う子どもはまだ少なく、団塊の世代とその前後の、多くの人たちが当番組を聞いていた。戦後の童謡の黄金期を作った[5]。月1 - 2回の外出録音を実施し、幼児と密接になるようにつとめていた[6]。
一方、1953年にテレビ(NHK総合)にて本放送が開始される。そのような中で、当番組のテレビ版を作ろうという話があり、1961年に当番組の編成にたいそうを加えた『うたのえほん』が開始された[7]。やはり1960年代になると、テレビが普及してラジオの聴取者が激減したため、[要出典]15年続いた番組も1964年に終了した。
当番組で誕生した歌
おかあさん  作詞:田中ナナ、作曲:中田喜直
お星さま   作詞:都築益世、作曲:團伊玖磨
1948年5月に放送、発表[9]。
こおろぎ   作詞:関根栄一、作曲:芥川也寸志
サッちゃん  作詞:阪田寛夫、作曲:大中恩
1959年に開催されたNHKラジオ「うたのおばさん」放送開始10周年記念の祝賀音楽会にて発表された[10]。
ぞうさん   作詞:まど・みちお、作曲:團伊玖磨
詩は1948年春頃に、曲は1953年に作られた[2]。
みつばちぶんぶん 作詞:小林純一、作曲:細谷一郎
めだかの学校   作詞:茶木滋、作曲:中田喜直
数曲が日本の歌百選に選定された。


68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/09(Thu) 23:27
ほとんどが動物、人間には関心ないようだ、
さっちゃんとかもチンパンジーなんだそうだ!・。

69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/04/11(Sat) 07:48
「こどものうた」といいながら、子供がいない。
結局、自分のため。

何の実績もない自分たちのため、対抗する実績のある「童謡」を排斥したもの。

したがって、今、子供も、誰も見向きもしない。
児童合唱団さえ、今や見向きもしない。

排斥によって何も生まれなかった。

会員は詩人と作曲家となっているが、誰も知る人もない名前ばかり。
典型的、会員の職能擁護団体に成り下がってしまっている。

70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/08(Fri) 22:14
【16 戦後の童謡】
(昭和22年)NHK連続放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」。
海沼実「みかんの花咲く丘」「おさるのかごや」「からすの赤ちゃん」「かえるの笛」「ちんから峠」、山口保治「かわいい魚やさん」「ないしょ話」、山本雅之「もりのこびと」など、放送、レコードによる、童謡作家、童謡歌手によって紹介され好まれた。
サトーハチロー等はこれらの童謡は幼稚で低俗だと批評し、芸術的な新童謡が作られるようになった。
NHKの(歌のおばさん)等に團伊玖磨「ぞうさん」「おつかいありさん」、中田喜直「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「小さい秋見つけた」、大中恩「バスのうた」「サッちゃん」「ぞうさん」など多くがラジオなどで紹介され広く親しまれてきた。
近年はテレビの子供番組などから「山口さんちのツトムくん」「およげたいやきくん」等が出たが、CMソングなど音楽が多様化し、童謡としての曲はヒットしなくなった。

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/19(Tue) 21:32
(取り戻そう日本の歌)日本の歌謡の歴史(日本の文化遺産)

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=589880538&ls=50


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