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童謡の歴史の中の、戦後、「ロバの会」と童謡排斥運動

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 16:43
大正8年の起こった童話童謡運動、多くの文学者、詩人、作曲家によって
多くの名作童謡を生んだ童話童謡運動。

しかし、それは戦後新しい若手勢力「ロバの会」による自らの利益を図る「童謡排斥運動」によって
終焉を迎えた。

その歴史に残る汚点は決して忘られるべきでない。

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 17:57
雨情は一見暗そうだけど、人の痛みを理解し生きる人。
雨情は有情にもつながる。
生きとし生けるものへの人一倍の優しさを感じる。

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 18:02
昭和30年代後半から40年代にかけて、大中恩らの「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか、
[あたらしいこどもの歌」がテレビの子供歌番組などでよく歌われた。

しかし、今から考えればそれは、あくまでちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。
現在保育園とか幼稚園位で歌われる位。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、この
さっちゃんなどは所詮幼児の歌、大きくなれば顧みられることは無い。
ここが違う。


10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 18:47
戦中戦後における童謡について

ここで歌謡曲だけでなく昭和、戦中戦後の
ラジオで放送された児童のための童謡について触れる。

戦中から戦後にかけて、レコード童謡だけでなくラジオ放送に於いて、もっとも活躍した童謡作曲家は、「音羽ゆりかご会」主宰の海沼實だった。

<音羽ゆりかご会>は戦中戦後の一時期、昭和18年から昭和25年くらいまで、「東京放送児童合唱団」の名称でNHKラジオ放送で活躍した。現在も<音羽ゆりかご会>として存続する日本屈指の合唱団(大人の合唱団も含め)である。ゆりかご会という名称は、故郷の先達である草川信の名曲「ゆりかごの唄」に対する思い入れが感じられる。こうして海沼実の作曲家人生は、自身が創設した、<音羽ゆりかご会>とともに彩られることとなるが、海沼の名前があまり人口に膾炙していないのは川田三姉妹や<音羽ゆりかご会>があまりにも有名だったため、座付作者のような扱いを受けていたためかもしれない。


11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 18:59
海沼実は<音羽ゆりかご会>のために多くのオリジナル曲を作曲したが、またそのため多くの童謡詩人を発掘した。まず最初は同郷の童謡詩人山上武夫【1917年(大正6年)〜1987年(昭和62年)】である。山上は、海沼実が草川信に憧れたように、故郷の先達を頼って信州から上京してきた。そのころ海沼はすでに童謡を試作作曲しており<音羽ゆりかご会>に供給していたものの、詩を提供してくれる高名作詞家もなく、詞も曲も自分で作って色々と試作していて、あまり見るべきものは無かった。しかしその中で後に「からすの赤ちゃん」としてヒットした歌が生まれる。この作品を見ると、作曲は言うまでもなく、作詞に対する感性、いや童謡に対する感性が並々ならぬものであることが伺われる。
昭和13年の真夏、山上は暑さに辟易しながら新しい童謡制作に呻吟していた。海沼から二人で童謡を作ろうともちかけられていたのだ。詩は山上が作るので、海沼はアドバイスしながらも、待っているより仕方がない。二人で作るのはなかなか大変だ。詩と曲を息をあわせて作らないとうまくいかない。まるで駕籠屋みたいだ。海沼との話し合いにあれこれ想いに耽っていた山上は、嫁ぎ先の姉の家の裏庭を出て故郷の方の空を見ながら、あの山の猿は今頃どうしているかな、と考えていた。途端、「そうだ!お猿が駕籠を担ぐようにしてみよう!」書き上げたのをすぐに海沼に渡し、海沼が曲を付けて出来上がったのが「お猿のかごや」。これは日中戦争の始った年であったが、全国的にヒットした。海沼実としても童謡作家としてやっていける自信を感じた最初の一作だった。その後も山上武夫とのコンビで多数の童謡を作ったが、ヒットは昭和20年の「見てござる」まで待たねばならなかった。
次に発掘したのが滋賀県日野町出身の細川雄太郎【1914年(大正3年)〜1999年(平成11年)】である。細川が「泣く子はだあれ」「ちんから峠」を作詞して童謡雑誌『童謡と唱歌』に発表したのが昭和14年。「お猿のかごや」から一年たって、海沼は、曲をつけられる童謡作家の詩を探していた。そこで見つけたのが細川の、<泣く子はだあれ>という詩だった。時節柄ということもあるし、曲も明るいものの方が良いだろうというディレクターの提言や、海沼の、<だあれ>は音が汚いし、音楽に乗りにくい部分を修正したほうがいいとしたアドバイスでできたのが「あの子はたあれ」という歌だった。同年、「ちんから峠」とともにヒットし世に歌い継がれる童謡となっている。海沼実は終戦前後の童謡・流行歌不毛の時期に、日本人に癒しと希望の歌を送った作曲家であった。


12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:04
海沼實は、 昭和戦後期の童謡作曲家としては最も多く愛唱された作品を持つことから「最後の童謡作曲家」と呼ばれ、川田三姉妹の発掘や、結成した音羽ゆりかご会を通して、戦後童謡黄金期を形成した作曲家としての功績は日本童謡界において屈指のものと評価されている。
現在でもYou Tubey等で聞くことができる。

『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實
『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實


13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:09
1943年(昭和18年)、当時の日本放送協会(NHK)が放送合唱団を公募し、スタジオでの厳正なる審査の結果、「音羽ゆりかご会」を「東京放送児童合唱団」として任命。
同合唱団は戦中戦後のラジオ放送に大きく貢献した。

1951年(昭和26年)には、NHK独自の児童合唱団として再編成された、昭和27年3月に「NHK東京放送児童合唱団](現在の東京児童合唱団)を編成した。

NHK東京放送児童合唱団は、『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』など、同局の音楽番組、教育番組に出演、現在に至る。


14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:13
「東京放送児童合唱団」が戦中・戦後にかけて多くのNHKラジオ番組に貢献した。「前線へ送夕べ」「農村へ送る夕べ」・・
. まだテレビもない時代、戦中戦後はひたすらラジオ放送がすべてでした。

「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...

農村へ送る夕べ

♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
 

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:17
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。

敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:22
戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:26
■■敗戦後の童謡の盛衰■■

敗戦直後には、海沼實を中心としたレコードとラジオ放送とが連携したいわゆる「レコード童謡」が復興し、第二の童謡黄金時代、戦後童謡黄金時代と言われた。
「レコード童謡」という言葉には、すでに軽蔑の響きがあるが、1955(昭和30)年、それまで童謡界をリードしてきた海沼實、中山晋平、河村光陽、山口保治らの作品に対し、童謡等の実績を持たなくNHKラジオ子供の歌番組に拠る若手音楽家グループたちが、「童謡」に対し「幼稚な歌詞」を持つ「子どもの歌謡曲」「営利目的の「レコード童謡」」として厳しく批判し排斥運動(童謡排斥運動)を起こしたのだ、その中心になったのが中田喜直ら「ロバの会」だった。彼らは、「童謡」という用語そのものも過去の遺物として、これを否定して幼児を対象とした「新しい子どもの歌」をつくろうとした。まあ、実績の無い自分たちのためのめだったのだ。


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:35
「ろばの会」に結集した若手の二世作曲家たちであった。ろばの会では、「童謡」という言葉を嫌って、もっぱら「(新しい)こどものうた」としたが、それは従来の「(レコード)童謡」に対決する姿勢を強く打ち出そうとしたからである。また、「ろばの会」の会員ではなかったが、「うたのおばさん」を通して童謡の作曲に深く関わった團伊玖麿、次のように述べている。「戦後、私たちがNHK「うたのおばさん」を舞台に新しい子どもの歌を作り始めたとき、あえて童謡という言葉を使わなかったのは、戦前のレコード童謡への反発があったからでした」。しかし、このレコード童謡への反発と否定は、正当な部分はあったがにいても、このあとその排斥した「童謡」の名をかたって「童謡協会」を作って会長に収まったという、辿った歴史を見ると、行き過ぎのところ、自分たちのためという動機不純なところがあったと言わざるを得ない。


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:40
昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。


20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:44

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。
このことを、これはものがたっている。


21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/29(Sat) 19:57
「童謡」は人の心を豊かにします。しかし、『童謡』と彼らが自分たちの領分を勝ち取ろうとした「あたらしいこどもの歌」とは似て非なる別物だった。

寺山修司は、その編著「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初で、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。


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