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昭和SPレコード歌謡番組を待望する。

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/12(Sun) 20:30
昭和は60年を超える世界で一番長い年号。まだ日本が貧しかった、貧しくも心豊かだった時代。まだテレビもなく、どんな小さな街にも小さな映画館があったころ、日本映画黄金時代、昭和戦前の「古賀メロディ」などSP歌謡番組をぜひ期待。


63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/26(Fri) 19:50
2009/10/24 私の好きなレコード
ミス・コロンビア(松原 操)思い出のアルバム

「浮き草の唄」「十九の春」「気まぐれ涙」「秋の銀座」「並木の雨」「河原ススキ」「ヒュッテの一夜」「月のキャンプ」「峠の雨」「真白き富士の根」「乙女鳥」「「そんなのないわ」「旅の夜風」「悲しき子守唄」「母の歌」「一杯のコーヒーから」「港の歌」「愛染夜曲」「朝月夕月」「乙女七人」「日本よい国」「愛染草紙」「荒野の夜風」「新妻模様」「目ン無い千鳥」「楊柳芽をふく頃」「大空に祈る」「三百六十五夜」 コロンビアAL・5070〜1

ミス・コロンビア・松原 操の歌謡曲のSP録音を復刻したセットである。彼女は昭和8年に東京音楽学校を卒業し、クラシックの声楽家として活動していたが、コロンビアにスカウトされ歌謡曲も歌うようになった。

 彼女の歌を聴いていると、かつて存在したが今はもう失われた日本女性の美徳、純情、可憐、清楚、貞淑といった要素をその歌唱の中に昇華し結晶化しているように思われる。大げさな言い方になるかもしれないが、西洋音楽の歌唱において日本らしさ、日本的スタイルがここに確立しているとみることができる。そして彼女以後、これ程、日本的な良さを感じさせる歌手は出なかった。その意味でまことに貴重な記録がここにあるといえよう。
また、彼女のノンヴィヴラートの発声を聴いていると、ヴィヴィラートというのは、あってもいい場合もあるという程度に理解すべきことが痛感される。中世ルネッサンスの宗教曲等でヴィヴラートがあると困る場合はあっても、逆にヴィヴラートがなくてはならないという曲はないのではないかということである。
ところで、1970年代以後にコロンビアから発売されたこの種のSP復刻盤には以下の3種の音源が混在している。すなわち@昭和30年代に復刻したものをテープで保存していたもの。A1970年代以後に新たに金属原盤から復刻したものB市販のSP盤から1970年代以後に新たに復刻したもの(いわゆる板おこし)。この場合Aがすばらしい音質であることが多く、@については、テープの経年劣化のため音質がよくない場合が多い。松原操の復刻盤は他にも出ているが、この3種の音源が混在しており、「旅の夜風」等 有名曲は@によるものが多くて音質がすぐれない。その点このセットはすべてBで統一されているようで、ものによってはノイズが多かったり音が歪んだりしているが、先述の「旅の夜風」等は他の復刻盤におけるものより音が良い。とにかく、曲は同じでも、他の盤とは復刻の方法が異なっているので、その点だけでも存在価値のあるセットといえよう。
h ttps://www.sugatani.co.jp/blog/?p=1050



64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/26(Fri) 20:01
有名人の墓巡り
2016年 12月 17日
松原操(1911〜1984)


松原 操(まつばら みさお)

歌手
1911年(明治44年)〜1984年(昭和59年)

1911年(明治44年)、北海道小樽区(現在の小樽市)に生まれる。幼少期に両親と共に上京するが、12歳の時に父親が病死。音楽に理解のある母親の手で育てられる。その後、青山学院女学部を経て、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に進学。卒業後の1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真に目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。同年、人気スター・伏見信子と人気子役の高峰秀子が共演した松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が大ヒット。その後、『並木の雨』『秋の銀座』などのヒットを連発し、美声の流行歌手として人気を博す。1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため1年間の療養を余儀なくされる。1937年(昭和12年)に復帰を果たし、一連のネエ小唄ブームの流れを組む『ふんなのないわ』が本人の思惑とは相反して、カムバック後の最初のヒットとなった。1938年(昭和13年)、デビュー間もない霧島昇と歌った松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』と『悲しき子守唄』が最大のヒット曲となるほどの売り上げを記録。映画『愛染かつら』自体が爆発的な人気となり、続編、完結編が製作されると、『愛染夜曲』『朝月夕月』『愛染草紙』『荒野の夜風』と一連の主題歌が合わせて発売され、いずれもヒットしている。このヒットで、「愛染コンビ」と呼ばれた霧島昇との共演が多くなり、『一杯のコーヒーから』『愛馬進軍歌』が続けてヒット。ステージや巡業の機会が多くなったことから、3歳年下の霧島昇との関係が親密となっていった。ところが、霧島は当時一躍人気歌手となっていたため、『純情二重奏』で共演した高峰三枝子や、コロムビアの新人歌手・奥山彩子らとの関係がスキャンダルとして取り上げられると、すでに長男を身篭っていた松原操は、正式な結婚を霧島に迫り、1939年(昭和14年)、作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌によって、人気歌手同士の結婚が成立した。その後も、「結婚後は人気が落ちる」という通説を覆し、『目ン無い千鳥』『愛馬花嫁』などのヒットが続くが、内務省より戦局の悪化に伴うカタカナ名前の芸名を禁じる指令の対象となり、ミス・コロムビアから本名の松原操に改名。戦時中も『大空に祈る』『いさおを胸に』などをレコーディングし、家庭と仕事を両立させて活動した。しかし、1948年(昭和23年)に夫・霧島昇とレコーディングした『三百六十五夜』を最後に完全引退。引退の理由は、子供の教育のため、戦時中から流行していたヒロポンのために歌うことができなくなった、など諸説あるが、現在に至るまで明らかにされていない。引退後は、家庭の人として霧島昇を支えながら育児に専念。その後、何度もカムバックの話があったものの、歌うことに関しては一切の仕事を断り続けた。1981年(昭和56年)、霧島昇の歌手生活45周年を記念して発売された『妻よ』に松原操として台詞を入れ、30数年ぶりのレコーディングを行った。晩年は心身ともに不調をきたし、入退院を繰り返していた。1984年(昭和59年)4月には、夫である霧島昇に先立たれてしまい、当時霧島と別の病院に入院中であった操は、病身を押しながら葬儀を執り行い、霧島昇の49日の法要を終えた。それから間もなくして、亡き夫の後を追うかのように、同年6月19日に胆石病のため死去。享年73。


高音が冴え渡る美声の歌手、ミス・コロムビアこと松原操。彼女のお墓は東京都港区の長谷寺にある。正面には「坂本家 祖霊塔」とあり、右横に墓誌が彫られている。戒名は「桂月院雅心淨操大姉」。芸能人における元祖「できちゃった結婚」、また元祖「おしどり夫婦」といっても過言ではない霧島昇・松原操夫妻。戦後の懐メロブームにあっても、いっさいの歌番組出演を断り続けて歌うことがなかったことは、昭和歌謡好きにとっては正直残念でならない。それだけに、1977年(昭和52年)にNHKで放送された「ビッグショー 霧島昇・今こそわが歌を…」で映った、夫の歌う姿を穏やかな微笑みで見つめる彼女の姿を見たとき、大いに感動したものであった。彼女の引退からまもなく70年、早々と引退してしまったこともあり、「旅の夜風」以外の彼女の歌が忘れ去られつつあるのが非常に残念に思う。

65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/26(Fri) 20:13
>>64
h ttps://hakameguri.exblog.jp/27366048/

松原操の写真あり。

66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/27(Sat) 12:21
・流浪の民Zigeunerleben (Schumann)  日本発売:昭和11年1936)1月
石倉小三郎作詩、奥山貞吉編曲 独唱:関種子、松原操、内本実、青山薫 コロムビア合唱団、コロムビア・オーケストラ COL28642

・国民歌謡 我が家の唄 松原 操  西條八十作詞 山田耕筰作曲 12年3月 col29241 @黒盤

・赤とんぼ 松原 操 三木露風作詞 山田耕筰作曲 13年12月 COL29981 @ 黒盤13241

・この道  松原 操  北原白秋作詞 山田耕筰作曲 14年07月 COL30253 @ 黒盤14715

霧島昇・松原操の世界
h ttp://matubaramisao.com/kirisimanoboru&matubaramisao-cd-index.html
h ttps://www.youtube.com/watch?v=MUrkuBt0NoI





67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/27(Sat) 12:30
h ttps://ameblo.jp/attentialgatto/entry-11542899735.html

代々木上原へ二代目松原操を聴きに行く
2013-06-01 23:28:36
テーマ:音楽
二代目松原操こと大滝てる子を聴きに代々木上原の古賀政男音楽博物館へ行って来た。会場はリアル満席。いちばん後ろにパイプ椅子を出すほど。
二代目というからには初代がいる訳で…ミス・コロムビアの名前でも知られた松原操は1948年に引退してしまっているので、その全盛期を知る人というのは80年配だろうなあ。二代目松原操こと大滝てる子は、この松原操、霧島昇夫妻の三女だそう。長男にあたる坂本紀男は東京音大の先生をしていて、過去にテレビ出演もしていたし、そのステージも実見したことがあるので知っていたけれど、三女も声楽家だったというのは、つい最近知ったばかり。
松原と書くと初代だか二代目だか紛らわしいので、以下、大滝と書くと、大滝も東京音大のオペラ科卒で、そもそもが霧島が東洋音楽学校時代の東京音大を出ているので、その影響もあるのだろうか。なお霧島夫人の初代松原操は東京音楽学校時代の東京芸大を出ているので、音楽一家ということになる。
戦前の歌手というのはクラシック畑の人が圧倒的に多数派で、女性歌手だと市丸だとか勝太郎だとか芸者出身の人もいたけれど、そうした例外はともかく、現在の演歌歌手のそれとは歌い方がまるで違っていた。戦前版の「目ン無い千鳥」「人生劇場」などを今様の演歌のイメージで聴くと、曲調は演歌のそれなのに歌い方が朗々とした感じで、慣れていない人は戸惑うんじゃないかと思う。
♪銀座の街、今日も暮れて、の「なつかしの歌声」で幕開け。
以下、演目は記憶があいまい。

「影を慕いて」(平均年齢73歳という合唱団による)
「気まぐれ涙」(初代松原操のレコード音源)
「ああそれなのに」
「二人は若い」
「目ン無い千鳥」
「新妻鏡」
「誰か故郷を想わざる」
「熱砂の誓い」
「リンゴは紅い」(歌なし、エレクトーン)
「青い牧場」
「南の花嫁さん」(古賀政男編曲として)
「そうだその意気」
「勝利の日まで」
「想い出の記」(古賀の台詞、歌唱のレコード音源)
〜幕間〜
「丘を越えて」
「悲しき竹笛」
「三百六十五夜」
「トンコ節」
「赤い靴のタンゴ」
「ゲイシャワルツ」
「柔」(歌なし、尺八、普通の太鼓)
「白虎隊」
「無法松の一生」(歌なし、尺八、巨大な太鼓)
「青春サイクリング」
ラストはグランドフィナーレで「東京ラプソディ」。




68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/27(Sat) 12:57
当たり前だけど客席は年寄りが多いので、長丁場でダレてしまわないように、大滝が歌の合間に共演者いじりをして笑いを取ったり、客席に降りていって、「さあ、みなさんもご一緒に」のノリでマイクを向けたり、はたまた巨大な太鼓をステージに持ち込んでみたり、いろいろ工夫を凝らしたためか、最後まで2時間超、みんな集中力を切らすことなく、「東京ラプソディ」を満場の手拍子で終えた。

大滝は七変化のごとく、次々と衣装を替えていくのだけれど、何と1着を除いて初代の松原操の着ていたものを仕立て直したもののよう。そもそも初代の松原操は60年以上前に引退しているので、そのステージ衣装だとしたら、随分とカラフルな。

ステージは一応、古賀政男の人生をたどるという面持ちで、岡本妙子のナレーションが入り、その合間に大滝が出て来て歌うという内容。なので古賀政男縛りとなり、万城目正作曲の「旅の夜風」とかは歌わない。共演としてエレクトーンの長谷川幹人、尺八の岩田卓也、和太鼓の壱太郎、トランペットの岩尾浩史、マンドリンの宮田蝶子、平均年齢73歳の懐メロ楽唱団。

「影を慕いて」は大滝は出て来ず、平均年齢73歳の懐メロ楽唱団のコーラスだったのだけど、楽唱団の人たちがステージに出て来ず、舞台袖から姿を見せずに声だけという演出だったので、なんだか御詠歌のようだった。

大滝いわく、古賀メロディは歌いづらく、わけても「新妻鏡」は難曲だとのこと。古賀メロディが歌いにくいというのは藤山一郎も言っていたので、クラシック畑の人たちの共通認識なのだろうか。この辺の事情はいたく関心がある。

「誰か故郷を想わざる」は私が大好きな霧島昇の代表曲で、伯父が出征する時の写真に「花摘む野辺に日は落ちて」の歌詞の焼き込みがある。当時、写真に文字を焼き込んでくれるというサービスがあり、他の人は「武運長久」とか勇ましい文言にしたのに、なぜか伯父は流行歌の文句にした由。

「熱砂の誓い」はトランペットから入ったのだけど、岩尾浩史は嵐のツアーなどにも同行している由。トランペットを意識して聴くのって、ニニ・ロッソのレコードを昔に聴いた時以来だ。「リンゴは紅い」は長谷川幹人によるエレクトーン独奏だったのだけど、今日びのエレクトーンって、「二十四の瞳」に出てくるオルガンみたいなイメージでいたら、全然違うシロモノで、エレクトーン1つあればフルバンドはいらないという位だった。

戦時歌謡は「そうだその意気」のような悲壮な曲が好みなので、明るい曲調で歌詞も芸が無い「勝利の日まで」は以前は余り好きではなかったのだけど、津島恵子の「ひめゆりの塔」で歌われていたのを聴いて、世の中にこんな悲しい歌があるのかといっぺんで好きになった。

幕間に入る前に大滝が会場に来ている古賀政男ゆかりの人たちを紹介。古賀の養子の通人の奥さんと息子さん、古賀の兄の久次郎の息子さん、古関裕而、丘灯至夫、江口浩司の家族の人や長田暁二さんとか。

「丘を越えて」はマンドリンの曲なのだけど、宮田蝶子はハーモニカの宮田東峰の兄の孫にあたる。宮田っていうから何となくあやしいと思っていたのだけど、やっぱり一族だった。「悲しき竹笛」の前奏は本来は尺八の音域ではないのだけど、大滝の教え子にあたるらしい岩田卓也が熱演。「赤い靴のタンゴ」は真紅のライトを浴びて歌う大滝の背後に、巨大な和太鼓があって何ともシュールな感じ。大滝の声は奈良光枝の歌と相性がよさそう。「秋草の歌」とか歌ったらいいんじゃないか。

大滝が物心ついた時、霧島が「白虎隊」ばかり練習していたので、大滝の子供のころに慣れ親しんだ最初の曲というのが「白虎隊」だそう。霧島は詩吟の部分も含めて練習していたらしい。自分は霧島昇が好きなので、こうしたエピソードはいたく面白い。霧島はコスモスが好きだったとか。

後半戦でずっとステージに鎮座ましましていた巨大な和太鼓は、想像はついたのだけど「無法松の一生」用で、壱太郎が松五郎ばりの撥さばきを見せた。思うのだけど巨大な和太鼓を連打する音というのは、クラブに共通するものがあるような気がする。音が波動のように身体にズンと来るという部分で、目の前で巨大な和太鼓の音を浴びるのと、道玄坂とかのクラブのハコでエレクトロとかの音を浴びるのと、生理的には同じ快楽であるような気が。

とにもかくにも、命の洗濯という表現が似つかわしい2時間超であった。


69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/06/29(Mon) 13:28
流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽( 菊池清麿 )    
中山晋平・鳥取春陽・古賀政男・藤山一郎 古関裕而
《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html



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