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ラジオ放送について

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/02/07(Fri) 14:24)]
ラジオ放送について、番組や放送について、
取り上げてほしいことや、やめてほしいこと、その他なんでも
どうぞ!!。


[93:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/02(Fri) 22:32)]
江戸時代の飢饉もさることながら昭和には言ってからも東北地方は冷害と飢饉に襲われた。(東北大凶作)
稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて食べたという。

宮沢賢治の「雨にも負けず風にも負けず]も、この時の手帳に残されたメモ。
これは亡くなってから発見されたものだが、この昭和6年の東北大凶作に依って多くの娘の身売りなどが大きな社会問題になった。
この「東北大凶作」は太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。

その後も、昭和40年代頃まで、コメ不足が続いた。

岩手の農業試験場で何十年もかけて何千種類もの品種改良がなされ「藤坂五号」という
冷害に強い品種ができた。それが昭和40年代後半だった。










3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:27
やませの発生による冷害を主因とする東北地方の凶作は、江戸時代には天明の大飢饉、天保の大飢饉をもたらしたが、明治時代以降でも1872年(明治5年)、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、1931年(昭和6年)、1933年(昭和8年)と断続的に発生した。飢饉は昭和時代まで多発したが、とくに1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて発生した飢饉は、日本史上最後の飢饉といわれている。

昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。



4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/15(Sat) 21:32
高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
 子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
 凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
 「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
 「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。


[94:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/02(Fri) 22:48)]
江戸時代が終わって、明治、昭和の時代になっても東北地方を中心に凶作が繰り返され、そのたびに飢饉は起き、人々に計り知れない不幸をもたらすのである。

 昭和9年の大冷害を発端とする凶作では、東北地方を中心に6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった。この年、3月に起きた函館の大火は、昭和に入って記録した大火災であり、5千人以上が死傷し、焼失した世帯2万2千という大惨事だった。この時、遊女として身を売って東京に来ていた25才のあさ子という女性は、この大火災で弟、妹の4人が焼け死んだと知るや、生きる望みを失って自殺したという。これも飢饉ゆえの隠された痛ましい悲劇の一こまに違いない。


 今日、我々は物が豊富にある中で生活をしている。しかし、いくら技術的物理的に進歩しようが、過去の人々の体験した苦労や悲惨な経験を踏まえなければ、今後の生きていく指標など見えてこない。飢饉のために、間引かれ、あるいは、野山に捨てられたり親に殺されたりした多くの幼児の霊は、今も常闇の空間をさまよっているに違いないのである。


 現実世界に生きる我々は、過去の人間の痛みや切実なる心を知ろうとする努力が必要である。その時こそ、自ずから謙虚さや物を大切にする気持ち、さらには、いたわりの精神の真の意味が理解されて来るのではないだろうか?


[95:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/02(Fri) 23:09)]
戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして

「9月18日未明、満州事変勃発。」


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
  [写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)


[96:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/07(Wed) 21:03)]
(参考)

〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治



雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治の有名な詩、宮沢賢治は昭和8年に亡くなったが、これは死後、手帳の中から発見された。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ・・



この部分は有名だが、この詩は昭和6年(1931)の冷害を叙述したもの。
最後の方に、サムサノナツハオロオロアルキとある。


[97:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/08(Thu) 13:42)]
直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
 特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。


[98:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/08(Thu) 14:40)]
■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■ 

  平成元年1989 NHK TV (1年間毎週放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子、佐藤千夜子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級の大歌手・声楽家が好んで
歌い広めた歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。


[99:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/10(Sat) 11:17)]
童謡「叱られて」あそこに出てくるもの、たいていの今の飽食の時代を謳歌しているものには理解できないことだが、
口にはださねど目に涙・・あれは幼くして親元を離され奉公に出されたこどもの哀しみ、心の痛みと、叱られてもいいから親に会いたい、帰りたいということを、
ひと事も出さずに、短い詩で歌ったもの。
昔は貧しさゆえに、可愛いこどもを奉公に出す、そういうことがあたりまえだったのだ。


壺井 栄原作『二十四の瞳』が有る。昭和3年から戦後早々までの僻地の分校の物語。
ここで小学校卒業を待たず子守奉公に出される子などがでてくる・・・。
昭和戦前はまだ日本全体が貧しい時代で、それは昭和20年代あたりまで同じだった。、


「二十四の瞳」 1954 
ttp://www.youtube.com/watch?v=LU_Y52wNNK8&feature=endscreen&NR=1


[100:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/10(Sat) 11:31)]
童謡を聴いていると、日本でも貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すと言う辛い時代があったのかなあと思う。そして、私たちはいつのまにか豊かになりそんな時代の人たちより幸せになった、はずであるが果たしてそうだろうか。そのような時代にそのように育っていった人たちが子どもを育て、その子どもたちが作り上げたのが今の日本である。技術を大きく発展させはしたが、それに酔いしれて先人たちから引き継いだ何らかの精神を失っていった事に想いをいたさねばならないだろう。

昭和20年代、30年代に田舎で子供時代を送った者、親が大正から昭和のはじめに子供だった人は、相当高い確立で、親から(親が)子供の頃に奉公に出された話を聞いてるはずだ。

映画「二十四の瞳」は昭和3年から始まるが、小学校中途で卒業を待たずに、奉公に出される話がでてくる。昔は義務教育は小学校までで、小学校を出ると男は丁稚奉公、女は子守奉公や女中奉公に出るのがあたりまえだったという。
あの紡績工場ではたらく女子工員の生活を書いた「女工哀史」という本が出たのは、大正14年のことだが、女工とは、12,3〜4の、小学校を出たばかりの女の子。

昭和30年代でさえ、田舎では高校進学率は30%くらいだった。童謡が作られた80年以上前の大正時代ともなれば、今では想像もできない貧しい時代だったに違いない。
「野麦峠」という映画にもなり、過酷な労働条件や虐待のありさまを描いてるが、それでも家よりも良かったのだそうだ。当時は、どんなに成績が良くても、進学(中学)させてもらえない、あるいは、高等小学校に行かせてもらえたら幸せというのは普通だったのだ。


新聞の連載[私の履歴書」に、自らの栄光の学歴と出世が書かれている。
なんとか高校(旧制)をでて、なんとか帝国大学をでて・・・

でも、その陰で、小学校を出たばかりで奉公に出されたもの、中学に進めず涙を飲んで高等小学校〈二年制)に進み世に出たものもたくさんいたでしょう。
昔はどんなに優秀でも、勉強がしたくても進学できなかったり、無理解で進学させてもらえなかったものはたくさんいたはず。

有名高校(旧制)、大学に進学できたものも、頭がよく勉強もしたでしょう。でもことによると、もっと勉強ができて、もっと学びたい者も沢山いたでしょう。
バンカラ衣装に、いい歳をした老人が集まって寮歌祭とかばか騒ぎをしているが、そうした青春を謳歌する陰に沢山の埋もれた有能な才能があったことでしょう。

日本がまだ貧しかった時代、そうして幼くして世に出た沢山の有能な才能の人たちがいて、そうした名もなき底辺の人々の支えの中に今日の日本の繁栄の基礎がある、そうした事に想いを致す事も意義が有るでしょう。

こうした飽食の時代を謳歌しているものにはわからない、日本の歴史を凝縮したような日本の名曲は良い。


[101:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/10(Sat) 11:48)]
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる日本の名曲「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また同じく日本の名曲「影を慕いて」はこの昭和3年(1928)に作られたものである。(昭和6年1月発売、ビクター盤。佐藤千夜子歌)


[102:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/13(Tue) 20:47)]
最近、「昭和歌謡」「昭和」というと、昭和末期、昭和50年代頃をさすようだ。

「昭和」とは大正15年(1926)12月25日から昭和64(1989)年1月7日まで、

61年と2週間余り。

昭和とは、明治、大正を合わせた60年より長く、日本の歴史はもちろん、中国を含めた世界のどの年号より長い。

だから、「昭和」とは60年を俯瞰したものでなければならない。

このうち前半の昭和30年代までは、日本は貧しい時代だった、そして飢饉と飢え、戦争に明け暮れた時代。

昭和6年、東北大凶作による飢饉によって、農業試験所は冷害に強いコメの研究を行い、2000種のコメを掛け合わせ藤阪五号という冷害に強いコメが出來たのは戦後も20年以上たった昭和46年だった。日本にコメが余るなどと言われるようになったのは昭和46年、50年前、つい最近だった。
農業関係者の弛まぬ努力の賜物とされる。

この昭和、・・「昭和」の初めから、昭和30,40年代・・を一貫して支えているのは50年の歴史を持つ「古賀メロディ」ただ一つ。

古賀政男の亡き後、重石をなくして、どんどんタガが外れて素人化、詩がなくなり散文化、訳の分からない、聴きとれない歌、それに、素人歌手化、ヘタクソ、グループサウンズ化、ライブ化が進む。歌というより、素人がなんか調子をつけて、訳の分からぬことを喚いているとしか言えないものに。


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