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なつかしのメロディ

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/05/05(Tue) 19:21)]
懐メロが死語になってしまったようです。日本の文化遺産、日本の古き良き時代の
思い出のメロディを語りましょう。
あなたのなつかしのメロディはなんですか!?。


[26:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/06/23(Tue) 12:33)]
誰も知らない ミス・コロムビア
昭和14年(1939年) コロムビア新譜 叙情歌
作詞:サトウ・ハチロー 作曲:古賀政男 編曲:奥山貞吉 歌唱:ミス・コロムビア
伴奏:コロムビア・オーケストラ 30123(1205107)P-154

(一)
この丘も この草も
ここでまどろむ 昼の夢
誰も知らない 知らない 知らない
(二)
この鳥も この空も
遠い昔と 同じ色
誰も知らない 知らない 知らない
(三)
この花も この風も
胸に涙を  さそうもの
誰も知らない 知らない 知らない
(四)
この思い この嘆き
あわれ  小指の 細き影
誰も知らない 知らない 知らない

叙情歌(じょじょうか)とは抒情歌とも書き、日本の歌曲のジャンルの一つ。 「抒情詩」の派生語で、作詞者の主観的な感情を表現した日本語の歌詞に、それにふさわしい曲を付け、歌う人や聴く人の琴線に触れ、哀感や郷愁、懐かしさなどをそそるものを指し、これらの童謡や唱歌をはじめ、歌謡曲のスタンダードなバラードといったものを一つのジャンルにまとめたものである。


[27:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/07/14(Tue) 15:19)]
(参考)
h ttps://item.rakuten.co.jp/cfc-co/d6160/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_102_1_10001643

<古賀政男名曲大全集>
2010年、コロムビアミュージックエンタテインメントは創立100周年を迎えます。その記念企画の一つとして今回ご案内いたしますのが、コロムビアの“顔”であり、昭和歌謡史上最大の巨人、古賀政男の作品全集です。5000曲ともいわれる“古賀メロディー”の膨大な作品の中から、コロムビア音源を中心に選びに選び抜かれた究極の名曲・全200曲。出演者も、藤山一郎を初め、淡谷のり子、霧島 昇、二葉あき子、李 香蘭、近江俊郎、神楽坂はん子、村田英雄、美空ひばりなど、まさに綺羅星のごとき大スターたちによる夢の饗宴盤となっています。
過ぎ去りし昭和を振り返りながら、もう二度と現れないであろう大作曲家の音楽の真髄に触れていただく、まさにコロムビア創立記念に相応しいBOXセットです。
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古賀政男 名曲大全集
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古賀政男 名曲大全集 商品番号D6160


[28:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/10(Thu) 14:41)]
りんどう峠・・島倉千代子 最初の古賀メロディ (メロディ)

2013年11月8日、島倉千代子(75)が亡くなった。

テレビはいっせいに大きく報道。

島倉千代子は、集団就職全盛時代にデビューし、歌われている。

「唄はせていただいたのは」とか、島倉千代子は、誰からも愛されるきわめて謙虚な人柄。

「りんどう峠」によって、《西條八十―古賀政男》・両巨匠の目にかなった一流作品の仲間入りができたということ。

古賀政男が亡くなった時、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」が放送された。

このとき島倉千代子が、たしか古賀邸で「りんどう峠」の想い出を語っている。

ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通ったという島倉千代子は、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と。

なお、その門から玄関にいたる石畳の道が、古賀政男音楽博物館の一階から二階の道に再現されている。

「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」は、毎年、古賀政男音楽博物館でビデオ上映されている。

島倉千代子、昭和30年、はじめての「古賀メロディ」・・「りんどう峠」。

島倉千代子さんが古賀先生から教えられた事として、悲しい歌は、自分で泣いてはいけない 、
聞いてくださるお客様に泣いていただくものと。

藤山一郎が正にそういうことを言っていた。

悲しい歌は淡々と、明るい歌はペーソスをこめて歌う。それが大人の歌と。

「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」といえるもの。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、西條八十、古賀政男コンビによる「りんどう峠」。

古賀政男先生宅は、小田急線代々木上原駅を降りて駅ホームに沿った「音楽村通り」直ぐ、井之頭通に面して建っていたが、今うっそうとした当時の面影はそこにない。

普通、私鉄沿線の分譲地に建つ有名人の「豪邸」は玄関や車庫が道に面していたり、せいぜい数メートル、ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通った時の、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と言わせた、門から玄関まで青葉に囲まれた数十メートルの石畳の路、少し坂になった路、向かって左側には、弁天様の祠が三つ四つあった。

昭和30年代の古賀政男といえば、歌謡界の「大御所」というだけでなく、誰でもが認める『日本の名士』になっていた。

当時テレビが普及しだした頃の歌番組に審査員で「よかったね、よかったね」と優しく励ますその姿、指には大きなダイヤをつけ、まだ自動車が一般的でなかった頃、その門から出てゆく幅2mもある大きなリンカーンやベンツ。

昭和33年には、自ら「日本作曲家協会」を作り会長としてレコード大賞や古賀記念音楽賞を作り、また作曲家の立場の向上に尽くした。

「日本作曲家協会会長」は亡くなるまで続いた。

かって多くの歌手や詩人、音楽関係者が通ったという、西條八十、李香蘭、古賀政男が集まって「夜霧の馬車」の曲を練った応接間、萩原朔太郎、佐藤惣之助、古賀政男がたびたび詩の談義をはずませた応接間...

古賀邸は美術館のようにあちこちに第一級の美術品が飾られ、玄関を入ると正面に、音楽・弁論の神、弁財天のふくよかな像を彫りこんだ額が、かかっている。

世界的な彫刻芸術家であり版画家、棟方志功から贈られたものである。

そんな美術館のような古賀邸で古賀先生の薫陶をうけた島倉千代子歌う古賀メロディ「りんどう峠」。


☆日本の豪邸
h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695


[29:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/09/30(Wed) 20:35)]
りんどう峠

   作詩 西条八十 作曲 古賀政男

 1 りんりんりんどうの 花咲くころサ
   姉サは馬コで お嫁に行った
   りんりんりんどうは 濃むらさき
   姉サの小袖も 濃むらさき
   濃むらさき
   ハイノハイノハイ

 2 りんりんりんどうの 花咲く峠
   姉サは馬コで あとふりかえる
   姉サに行かれて なんとしょう
   いっしょに柴刈る ひとも無い
   ひとも無い
   ハイノハイノハイ

 3 りんりんりんどうは 小雨にぬれる
   わたしゃ別れの 涙でぬれる
   りんりん鳴るのは 馬の鈴
   姉サは峠に 消えてゆく
   消えてゆく
   ハイノハイノハイ


[30:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/03(Sat) 20:51)]
  サーカスの唄

  作詞:西條八十、作曲:古賀政男
  唄:松平晃  (昭和8年)

  1 旅のつばくろ 淋しかないか
    おれもさみしい サーカス暮らし
    とんぼがえりで 今年もくれて
    知らぬ他国の 花を見た

  2 昨日市場で ちょいと見た娘
    色は色白 すんなり腰よ
    鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
    可愛いあの娘(こ)は うす情

  3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
    遠くはなれて テントで暮らしゃ
    月も冴えます 心も冴える
    馬の寝息で ねむられぬ

  4 朝は朝霧 夕べは夜霧
    泣いちゃいけない クラリオネット
    流れながれる 浮藻(うきも)の花は
    明日も咲きましょ あの町で


[31:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/03(Sat) 20:59)]
サーカスの唄

この歌は、西條・古賀、戦前、戦後に至る二人の巨匠の最初の記念すべき作品。

美しいうら悲しい古賀メロディと西條八十の歌詞とが相まって、軽快ななかにも哀愁を感じさせ、とても心に響きます。

当初、【晋平節】のビクタ‐の一人勝ちで始まったヒット競争は、「古賀メロディ」の登場によって、コロムビアに移る。この佐藤千夜子の力添えで、メジャーデビュ‐を果たした古賀政男(古賀正男)。

西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。

昭和8年(1933年)末にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

つまり、昭和8年の1年間、コロムビアのドル箱、コロムビア専属、「古賀メロディー」の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」(西條八十作詞、古賀政男作曲)・・♪涙ははてなしひとり弾くギターンの調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、その黄金コンビは戦後にいたるまで続いた。

最後は、昭和43年の美空ひばり「銀座音頭」(西條八十作詞、古賀政男作曲)。


詩人・西條八十と古賀政男の最初の出会いとなる。

作曲家や歌手に比べ、詩人のギャラの少ないことに、ビクタ―と交渉する中で、コロンビアの顔・「古賀メロディ」の古賀政男と一緒に仕事したいとビクターに掛け合い、昭和8年の1年間について認めさせたもの。

関種子「去り行く影」(1933.1)をはじめ,松平晃「はてなき旅」(1933.10)まで11曲。

「サーカスの唄」、この詩を八十から受け取ると感動で涙が止まらなかったと云う、少年時代の思い出と重なる。

「こんな素晴らしい詩に私が曲を付けることはできません」、と詩を返そうとした古賀に、八十は「あなたに曲を付けてもらうことができなければ、この詩は棄てる。」とまで言われ、あの歌ができた(自伝「わが心の唄」)という。

「詩はお姉さんで、曲は妹」という思い。詩を大切にした古賀は、作曲の際、詩人が託した望郷への思い、母を慕う心が曲になって溶け出すまで、何度も詩を読み返しながら曲を作った。

古賀政男の作品は、豊かさの中で日本人が忘れかけている大切な“心”を、いつも呼び覚ましてくれる。

なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように寄稿している。・・

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」




[32:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/05(Mon) 08:30)]
人生の並木路
作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、唄:ディック・ミネ 昭和12年(1937)公開の日活映画『検事とその妹』(渡辺邦男監督)の主題歌。  映画は岡譲二・原節子主演で、両親を亡くしたあと、助け合いながら生きてきた兄妹の物語。 『人生の並木道』は、田舎から東京に出て来た人なら、涙なしでは聞けない唄です。私がさる高校の教師をしておりました頃、修学旅行で担任していた子が浜松駅でホームに会いに来ていた兄と、夜汽車のたった5分間、語り合うのですね。事前にそうしたいと許しを乞いに来たその子たちは幼くしてお父さんを亡くし、兄が浜松の工場に働きにいき、お母さんも病没。極貧のなかで、妹はけなげに高校生活をまっとう。私はお母さんの葬式に行きましたから、その辛さを見て泣きました。夜汽車が汽笛を鳴らして発車する直前まで語り合う兄と妹。その光景は今でも私の心に焼き付いています。
 人生の並木路

  作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
  唄 ディック・ミネ (昭和12年)

  1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば 幼い二人して
    故郷を捨てた甲斐がない

  2 遠い淋しい日暮れの路で
    泣いて叱った兄さんの
    涙の声を忘れたか

  3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
    やがて輝くあけぼのに
    我が世の春は きっと来る

  4 生きて行こうよ 希望に燃えて
    愛の口笛高らかに
    この人生の並木路


[33:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/05(Mon) 08:45)]
    人生劇場

  作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男
  歌 楠木繁夫 (昭和13年)

 1 やると思えば どこまでやるさ
   それが男の 魂じゃないか
   義理がすたれば この世は闇だ
   なまじとめるな 夜の雨

 2 あんな女に 未練はないが
   なぜか涙が 流れてならぬ
   男ごころは 男でなけりゃ
   解るものかと 諦めた


 3 時世(とき)よ 時節は変ろとままよ
   吉良の仁吉は 男じゃないか
   おれも生きたや 仁吉のように
   義理と人情の この世界

田中角栄総理の愛唱歌。早稲田の第二校歌。


[34:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/05(Mon) 08:49)]
昭和9年(1934)5月コロムビアを退社してテイチク(帝国蓄音機)に移った。まだできたばかりの小さな会社で、重役待遇でレコード制作に関する全権を任され、専務取締役兼文芸部長兼作曲家で、現在のテイチクを作った作曲家といえる。

「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「緑の地平線」「東京ラプソディ」「人生の並木路」・・と大ヒットが続き世にいうテイチク黄金時代(古賀政男第二期黄金時代)を築く。できたばかりの小さなテイチクをメジャーなレコードにする。

重役として迎えられた古賀政男は映画会社と提携し、日活映画と提携するなど存分に活躍する。そして、「人生の並木路」など今に残る多くの映画主題歌、映画音楽が作られた。古賀政男ほど映画主題歌の多い作曲家はいない。

しかし、昭和13年、古賀政男が著作権に関わるテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)
を最後に退社。古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、戦争の足音が忍びよる中、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、1分間1万ドルと言われたアメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。

そして、昭和14年10月10日に帰国した。コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。三浦環の凱旋祝賀会が上野松坂屋で開催され、握手している写真が、藤原義江の東京駅での送迎の模様とともに自伝「我が心の歌」に載っている。


また、昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。
? ?


[35:名無しさん@お腹いっぱい。 (2020/10/05(Mon) 09:04)]
『人生劇場』は、早稲田大学出身の尾崎士郎の自伝的大河小説。

愛知県吉良町(現・西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。

佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の「人生劇場」は、楠木繁夫の歌として昭和13年(1938)年に発表された。

もともとは尾崎士郎の大河小説「人生劇場」(残侠編)が原作で、戦前戦後合わせて十数本も映画化されていて、この歌も1938年の「人生劇場 残侠篇」の主題歌でもった。

この歌は戦後、村田英雄がリバイバルでヒット。

楠木繁夫がこの歌をスマートに歌っていますが、後に作曲者古賀政男は、自叙伝に、

『「人生劇場」は、戦前、楠木繁夫君が歌ってヒットしたが、やはり”背広を着た吉良常”だった。村田君の「人生劇場」は妙に大衆におもねたりせずに、村田君の個性とオリジナリティを前面に出したことが成功したと思う。・・・”古賀メロディ”の硬派の部分を支えてくれたわけだ。』
と書いています。

「人生劇場」は早稲田大学が舞台になっていて、「早稲田第二校歌「」となっている。

また、角さんこと[今太閤」田中角栄総理大臣がこよなく愛した歌。。。
 
愛知県の三州吉良港の落ちぶれた旧家に生まれた主人公、青成瓢吉は政治家になる夢を抱いて早稲田大学に入学し、学生運動に参加したり恋愛をしたりするが、それらに挫折する。父・瓢太郎の自殺による苦しみを乗り越えた瓢吉は作家を目指し、文壇デビューを果たす。

やがて日本が戦争時代に突入すると従軍作家となる…。

 小説「人生劇場」は尾崎士郎の中学生時代から始まる自伝的小説で、年代でいえば大正から昭和の戦争直後まで、延々と書き続けられた作品です。

その中で「青春篇」と「残侠編」が映画化され、そのなかでも圧倒的な人気となったのが「残侠編」で、この部分は尾崎士郎の創作だということです。

「馬込文士村」の中心人物とされる尾ア士郎、尾崎士郎は明治三十一年(一八九八年)生まれ。荒畑寒村や大杉栄らの影響を受け、早稲田大学政治経済科に学ぶが、学長問題と学制改革に端を発した学内騒動のリーダー格と目されて中退する。

☆「馬込文士村の住人」・・尾崎士郎と佐藤惣之助
 
JR「大森駅」前の高台に位置する山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか『馬込文士村』と呼ばれるようになった。

現在ここに『馬込文士村』が残っている、いる人だけでも43人。
 
・・石坂洋次郎 宇野千代 尾崎士郎 川端康成、川端龍子 北原白秋 小島政二郎 佐藤惣之助、萩原朔太郎 室生犀星 ---まだまだおります 

太平洋戦争開戦5ケ月後の昭和17年5月、ここの住人、二人の詩人萩原朔太郎、佐藤惣之助(佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎)は相次いで病死、あっけくこの世を去った。

ここに尾崎士郎が住んでいて、その住居後が「尾崎士郎記念館」でその庭に「人生劇場」文学碑がある。。

 昭和8年新聞に連載始め、
尾崎士郎の自伝的大河小説といわれている歌、映画にもなり広く知れわたる。

 ☆歌(昭和13年)
    作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
        (佐藤惣之助は文士村の住人)
     この歌は戦後、村田英雄がリバイバルで
     ヒット。 


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