掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧

なつかしのメロディ

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/09/10(Thu) 14:41
りんどう峠・・島倉千代子 最初の古賀メロディ (メロディ)

2013年11月8日、島倉千代子(75)が亡くなった。

テレビはいっせいに大きく報道。

島倉千代子は、集団就職全盛時代にデビューし、歌われている。

「唄はせていただいたのは」とか、島倉千代子は、誰からも愛されるきわめて謙虚な人柄。

「りんどう峠」によって、《西條八十―古賀政男》・両巨匠の目にかなった一流作品の仲間入りができたということ。

古賀政男が亡くなった時、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」が放送された。

このとき島倉千代子が、たしか古賀邸で「りんどう峠」の想い出を語っている。

ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通ったという島倉千代子は、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と。

なお、その門から玄関にいたる石畳の道が、古賀政男音楽博物館の一階から二階の道に再現されている。

「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編」は、毎年、古賀政男音楽博物館でビデオ上映されている。

島倉千代子、昭和30年、はじめての「古賀メロディ」・・「りんどう峠」。

島倉千代子さんが古賀先生から教えられた事として、悲しい歌は、自分で泣いてはいけない 、
聞いてくださるお客様に泣いていただくものと。

藤山一郎が正にそういうことを言っていた。

悲しい歌は淡々と、明るい歌はペーソスをこめて歌う。それが大人の歌と。

「古賀メロディ」というのは、単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられた「称号」といえるもの。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、西條八十、古賀政男コンビによる「りんどう峠」。

古賀政男先生宅は、小田急線代々木上原駅を降りて駅ホームに沿った「音楽村通り」直ぐ、井之頭通に面して建っていたが、今うっそうとした当時の面影はそこにない。

普通、私鉄沿線の分譲地に建つ有名人の「豪邸」は玄関や車庫が道に面していたり、せいぜい数メートル、ハーイノハ〜イノハイができなくて、何度も何度も古賀邸に通った時の、あの門から玄関までの道の長かったこと!・・と言わせた、門から玄関まで青葉に囲まれた数十メートルの石畳の路、少し坂になった路、向かって左側には、弁天様の祠が三つ四つあった。

昭和30年代の古賀政男といえば、歌謡界の「大御所」というだけでなく、誰でもが認める『日本の名士』になっていた。

当時テレビが普及しだした頃の歌番組に審査員で「よかったね、よかったね」と優しく励ますその姿、指には大きなダイヤをつけ、まだ自動車が一般的でなかった頃、その門から出てゆく幅2mもある大きなリンカーンやベンツ。

昭和33年には、自ら「日本作曲家協会」を作り会長としてレコード大賞や古賀記念音楽賞を作り、また作曲家の立場の向上に尽くした。

「日本作曲家協会会長」は亡くなるまで続いた。

かって多くの歌手や詩人、音楽関係者が通ったという、西條八十、李香蘭、古賀政男が集まって「夜霧の馬車」の曲を練った応接間、萩原朔太郎、佐藤惣之助、古賀政男がたびたび詩の談義をはずませた応接間...

古賀邸は美術館のようにあちこちに第一級の美術品が飾られ、玄関を入ると正面に、音楽・弁論の神、弁財天のふくよかな像を彫りこんだ額が、かかっている。

世界的な彫刻芸術家であり版画家、棟方志功から贈られたものである。

そんな美術館のような古賀邸で古賀先生の薫陶をうけた島倉千代子歌う古賀メロディ「りんどう峠」。


☆日本の豪邸
h ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695



掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧
名前: E-mail(省略可)

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)