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なつかしのメロディ

36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 09:23
「思い出の記」 ‥ 古賀政男 二つの秀作


昭和53年7月25日に古賀政男が亡くなって今年、2020で42年になる。

42年前の7月25日,午後1時15分、代々木上原の自宅で急性心不全により死去、享年・73歳。

訃報を伝えるNHKラジオ放送は、その夜すべての番組を中止し、一斉に古賀メロディ―を流し続けた。異例のことだった。

10日後の同年8月4日、前1977年(昭和52年)の王貞治(プロ野球選手)に次ぎ、史上二人目となる国民栄誉賞を贈られた。

生前に贈ることを目的としたもので異論もあったようだが、福田内閣は古賀氏に贈らない理由はないとして贈ることが決まった…

昭和歌謡の黎明期、一苦学生で、プレクトラム音楽家だった昭和4,5年から、昭和6年コロムビア専属そして、テイチク、コロムビアとレコード会社を移りながら、日本がまだ貧しかった時代から高度成長の真っ盛り戦後の昭和40年代末ごろまで,古賀政男ほど長きに亘って広範に思う中心でありえたものもいない。

「人生の並木路」そのままに、貧しい故郷を捨てて兄を頼りに「韓国」に亘った古賀メロディに大きな影響を及ぼしたとされる韓国で過ごした少年時代。

また、明治大学学生として日本に帰って来て、一苦学生に過ぎなかった「古賀正男」が「古賀政男」として歌謡界の頂点に昇りつめる半生、それは日本の昭和の歴史を象徴するかのよう。

それはまさに半世紀に亘る昭和歌謡の歴史そのものだった。

古賀政男には「思い出の記」という自身の人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。



「思い出の記」は二つあって、いずれも古賀政男作曲の秀作、昭和16年の作品(大木惇夫作詩)と、晩年自らの「思い出」を辿る自伝的作品として作った昭和43年(1978)の古賀政男作詩があります。

古賀政男にしか書けない曲です。古賀政男ならではの「思出の記」の実績の上に作られた自信に溢れた曲といえる。

大木惇夫作詩は、国民新聞に連載された徳富蘆花の立志的自伝的文学作品『思出の記』(「思い出の記」だったが「思出の記」と変更)の歌謡化作品であるのに対し、歌謡界の大御所で、「日本の名士」になっていた古賀政男晩年の自らを顧み語る自伝的作品と言えます。

思出の記 (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)霧島昇1941.12 (陸海軍礼式歌)
思い出の記(古賀政男作詞、古賀政男作曲)    1968

大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲で陸海軍の礼式歌ともなった。

・大木惇夫作詩「思出の記」は、徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化で、霧島昇歌(コロムビア100374@)

作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

ああ馬の背に涙して
故郷出でて幾年ぞ
高倉山の白雲に
誓いし言葉仇ならず
飾る錦は誰ゆえに

ああ山河は変わらねど
人の心は今いかに
思い出の谷夢の丘
幼馴染の面影も
今は空しき菜の花よ



・古賀政男作詞「思い出の記」
作詞 古賀政男
作曲 古賀政男

ああ思い出は 懐かしく
ふるさと恋て 訪ぬれば
親同朋(はらから)は すでに逝き
誓いし友の 面影も
今は虚しき 菜の花よ

ああ人生は 夢の夢
幾年変わらぬ 山川も
流れる雲か 風に散る
人の心は 山吹の
花はほろほろ 散るばかり


なお、他に大木惇夫作詞に、
崑崙越えて     1941(大木惇夫作詞、藤山一郎歌)
苺の雲の燃える時 1941(大木惇夫作詞、霧島昇、松原操歌)  
雲のふるさと   1944(大木惇夫作詞、伊藤久男歌)陸海軍礼式歌、戦後NHKラジオ歌謡
月のしづく    1944 ( 大木敦夫作詞、李香蘭歌)

*雲のふるさと、月のしづくの李香蘭(山口淑子)盤が古賀財団で最近発見された。

なお古賀政男最晩年の作品は…
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)



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