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なつかしのメロディ

42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 23:43
古賀政男と河口湖・・古賀政男記念公園

[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。

古賀が河口村に疎開したのは、東京大空襲の昭和20年(1945)3月から8月まで。

古賀メロディの隠れた名曲、NHK国民合唱「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)♪丘にはためくあの日の丸を仰ぎ眺める我らが祈り・・がある。

合唱版は昭和20年1月である。2月には硫黄島の戦い、3月10日一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲・・。

昭和19年から日本各地に散らばった多くの疎開学童によって歌われたという。

この歌を歌ってるとなぜか涙が出てきて歌えなくなる‥この歌を最後に古賀政男は川口湖畔に疎開となった。


今、河口湖湖畔にある記念公園の記念碑の碑文によると、きっかけは以外にも陸軍省からの一本の電話だった。

古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。

作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、昭和15年(1940年)1月20日、日本コロムビアから発売された。

歌のヒットにより、新興キネマより同名映画が公開された。

西條八十作詞、古賀政男作曲の数えきれないほどたくさんある名曲のうちでも日本のスタンダードと言える名曲。

日常のごくありふれた日本の現光景、やさしい言葉、短い言葉で随所に散りばめられた詩人の殊玉の詩、

それは今の世でも変わらず生き続けられる普遍性を持つ。

そこに嘘偽りがない、だからひとの心をとらえてはなさない。

ふるさとを遠く離れ、友と遊んだ野山や、嫁ぐ姉を見送ったさびしさなどを回想する思いを、流麗なメロディーに乗せて歌う。

西條・古賀・霧島それぞれにとって代表的なヒット曲となり、晩年に至るまで霧島は懐メロ番組などでよく歌っていた。

慰問用レコードとしてすべて戦地に送られたという「誰か故郷を思わざる」。

ところが戦地で望郷の想いやみがたい兵士の間で歌われ、内地に逆輸入された。

慰問に訪れた渡辺はま子がこの歌を歌うと、居合わせた畑俊六大将(支那派遣軍総司令官、後に元帥陸軍大将 第二総軍司令官)から末端の兵士まで等しく泣き渡辺も思わずもらい泣き、満場涙に暮れたというエピソードもある。

古賀は軍からは軟弱だといわれていたはずだが、こうしたこともあったからなのか、陸軍の中枢から非常事態、国難のさ中、戦争の最終段になって、戦禍から国民作曲家古賀政男を守らねばと気ずいたのだろうか。


なお、畑俊六元帥は、もうひとりの元帥陸軍大将第一総軍司令官とともに天皇からの請いで終戦について奏上、御前会議に臨む。

なお、古賀政男は20年8月に復帰、戦後最初は昭和21年5月、霧島昇「麗人の歌」(西條八十作詞、古賀政男作曲)♪夢はやぶれて花嫁人形・・

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。

湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html




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