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(取り戻そう日本の歌)日本の歌謡の歴史(日本の文化遺産)

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/19(Tue) 18:28
今、テレビには、その歌番組は、我流自己流本位のグループサウンズや、シンガーソングライターや、ロックなど、ほとんど楽譜さえ満足に読めない、
楽譜もない、すべて自分流、我流でしか存在できない若者文化に占領されてしまっています。
いつのまにこんなになってしまったのか!?。

日本には、もっと素晴らしい日本の歌、心の歌、日本の文化遺産がたくさんあります。
テレビに。お茶の間に取り戻そうではありませんか!。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/20(Wed) 09:24
■歌で巡る長崎

□長崎の歌(16) 蝶々夫人を唄う

文・宮川密義
長崎観光は“蝶々夫人ゆかりの地”グラバー園が柱になっていますが、その“蝶々夫人ブーム”ともいえる現象が見られたのは昭和8年(1933)でした。
アメリカ映画「マダム・バタフライ」が公開され、映画にあやかって演劇、音楽分野にも続々と“蝶々夫人もの”が登場します。
歌では同年の「お蝶夫人の唄」を皮切りに次々にレコードが出て、ブームに拍車をかけました。
以下、ヒット曲の中から5曲を紹介します。

1.「「お蝶夫人」の唄」

(昭和8年=1933、西条八十・作詞、古賀政男・作曲、ミス・コロムビア・歌)

20ある「お蝶夫人」の歌の最初



昭和8年1月早々、コロムビアはライバル(ビクター)の看板作詞家・西条八十(さいじょうやそ)さんと、自社の看板作曲家・古賀政男(こがまさお)さんにコンビを組ませるというショッキングな企画を発表、世間をアッと言わせます。
その“百万ドルコンビ”第1作で、5月に発売されました。
歌ったミス・コロムビアは同年3月「浮草の唄」でデビューしたばかりの覆面歌手。
本名は松原操(まつばらみさお=のちの霧島昇夫人)さん。
アイマスクを掛けた覆面写真に「これは誰でしょう」のというキャッチコピーで宣伝、話題を集め、歌もヒットしました。
戦後、長崎復興に観光が第一と考えた文化関係者が“グラバー邸はお蝶夫人ゆかりの地”のお墨付きを与えた際、この歌も有力な材料になりました。

昭和25年春、グラバー邸で
「お蝶夫人の唄」の舞踊
(藤間勘美智さん)を見る



17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/20(Wed) 09:26
>>16

「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十作詞、古賀政男作曲、ミス・コロムビア・歌)

一、、
おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

二、
わたしゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露に濡れたか 恥ずかしや

三、
ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねのひと
ねんねおころり 謳(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

四、、
来るか来るかの 便りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


戦後にいたるまで20曲以上ある「お蝶夫人」の歌のはじめとなる名曲。
同時に、東京音楽学校(研究科)をでたばかりのミス・コロムビア最初の古賀メロディでもある。
ミス・コロムビアの初々しい歌である。


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