いじめの後遺症
[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/01/09(Sun) 16:51)]
いじめに遭って、後遺症が残ってしまった人のスレッドです
身体的な後遺症ではなく、精神的な後遺症です
・自分に自信が持てなくなった
・人が怖い(対人恐怖症等)
・周りの視線が気になって外に出れない
・当時と同じようなシチュエーションになると動機が激しくなって恐怖を感じる
等、精神的な後遺症は残ります
カウンセリングで症状が軽くなる場合はありますが完治は難しいです
そして私にも後遺症はあります
自分に自信が持てません
周りと比較すると、やはり異常です
此処は傷をなめ合う場ではなく、少しずつ治していく手助けをする場です
[25:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/06/15(Sun) 13:41)]
【告発文】
声をあげた者が罰せられる国で、誰が真実を語れるのか
1986年、神戸市立垂水中学校。私は同級生から「北斗の拳ごっこ」と称した暴力を、日常的に受けていました。殴られ、笑われ、他の同級生からは唾を吐かれ、パンツを脱がされ、帽子を溝に捨てられる――担任教師も見て見ぬふり。子どもだった私は、耐えるしかありませんでした。
その痛みは、40年近く経った今も消えません。心の中の教室に、私はまだ閉じ込められています。
苦しみ続けた末、ようやく私は気づきました。「悪いのは自分ではなかった」。そしてその想いを言葉にし、加害者の名前とともにネット掲示板に投稿しました。誰かに届けばと願って。
しかし、返ってきたのは社会からの「罰」でした。
警察が家に来て、「掲示板に名前を書いたから名誉毀損だ」と告げられました。神戸地検に呼び出され、罰金70万円。いじめの事実を語っただけなのに、私は犯罪者にされたのです。
どうして、こんなことが許されるのでしょうか?
いじめを訴える声が処罰され、加害者は何の責任も問われず、のうのうと暮らしている。
それが、この国の「正義」なのでしょうか?
この国では、いじめはなかったことにされます。学校も、社会も、見て見ぬふりをします。
そして、やっと声をあげた被害者を「名誉毀損」で追い詰める。これは「法」という名を借りた、国家ぐるみの二次加害ではないでしょうか。
私が語ったことはすべて事実です。虚偽はありません。
私には、「真実を語る権利」があります。
過去の傷を、嘘のない言葉で伝えることの、どこが罪なのでしょうか?
私は、国に問い続けます。
傷つけられた者が、さらに罰せられるこの国で、誰が真実を語れるのか――と。
この声が、今なお苦しむ誰かの力になることを信じて。私はこれからも語り続けます。
もう、黙ってはいけないのです。
[26:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/06/22(Sun) 22:53)]
『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で
『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。
物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。
この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。
物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。
本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。
サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。
『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。
また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。
結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。
[27:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/06/22(Sun) 23:55)]
朱に交わればハゲになる
[28:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/06/23(Mon) 05:15)]
宮崎駿監督による2001年のアニメーション映画『千と千尋の神隠し』は、日本のみならず世界中で高い評価を受け、アカデミー賞長編アニメ賞を受賞するなど、日本アニメの枠を超えて世界的な文化遺産としての地位を確立した作品である。本作の素晴らしさは、その豊かな物語性、象徴性に富んだ世界観、そして細部にまでこだわり抜いた作画と音楽、さらには成長物語としての普遍的な力強さにある。
まず、この作品は単なる「不思議な世界で少女が冒険する」物語にとどまらない。10歳の少女・千尋が、両親とともに引っ越し先へ向かう途中、不思議な世界に迷い込み、両親が豚にされてしまう。彼女はそこで湯屋で働くことを強いられ、「千」と名前を奪われる。ここから始まる彼女の物語は、「アイデンティティの喪失と回復」、「労働と自己肯定」、「善悪の相対化」など、多くの現代的かつ深遠なテーマを内包している。
特に「名前を奪われる」描写は、日本古来の信仰に通じる部分がある。名前は魂の一部とされ、それを奪うことはその人自身の本質を支配することに等しい。湯婆婆によって「千尋」から「千」へと名前を変えられる千尋は、まさに現代社会における自己喪失の象徴だ。しかし彼女は物語を通じて他者との関係性の中で自分を取り戻していく。このプロセスは、自己確立を目指す成長譚であり、子供だけでなく大人にとっても深い共感を呼ぶ。
もう一つの特筆すべき点は、作品全体に流れる「曖昧さ」と「グレーゾーン」の存在である。典型的な善人や悪人は登場せず、どのキャラクターも一面的ではない。たとえば湯婆婆は権力的で厳格な存在だが、赤ん坊のボウを溺愛するという母性を見せる。一方で、姉の銭婆は見た目こそ同じだが、穏やかで優しく、千尋を導く存在として描かれる。また、「カオナシ」という存在も、当初は無垢で純粋な存在として登場するが、千尋への執着や湯屋での混乱を引き起こすなど、非常に複雑なキャラクターである。人の心の裏表、欲望と孤独の表現としてカオナシは象徴的な存在となっており、観る者に「本当の自分とは何か?」を問いかける。
こうしたキャラクターたちの多面性は、現代社会に生きる私たちが直面する多様な価値観や、人間関係の複雑さを映し出している。勧善懲悪ではなく、「何が正しいか」を自分で見極め、判断していく必要があることを物語は示している。
さらに本作の美術的な完成度の高さも語らずにはいられない。湯屋の設計や、食べ物の描写、異界の風景に至るまで、すべてが緻密で説得力がある。特に、八百万の神々が湯屋に集う場面では、日本の神道文化を背景に持ちながらも、どこか異国的な不思議さも漂わせており、見る者の想像力をかき立てる。そこには「失われつつある日本」のノスタルジーがあり、それを体感的に感じることができる。
音楽面でも、久石譲による楽曲は物語の感情の流れを完璧に補完している。特にピアノで奏でられる「あの夏へ」や、千尋とハクの別れのシーンで流れる「ふたたび」などは、映像と一体化し、観る者の心を震わせる。音楽は決して出しゃばらず、それでいて深く心に残る。まさにアニメーション作品における音楽の理想的なあり方がここにある。
また、『千と千尋の神隠し』は「環境問題」や「消費社会への警鐘」というメッセージも内包している。冒頭で両親が見知らぬ店の料理を食べて豚になる場面は、まさに「無自覚な貪欲さ」が引き起こす代償を象徴している。過剰な欲望は人間を動物にしてしまうという警句は、現代の私たちにも強く響く。
物語の終盤、千尋はハクの本当の名前を思い出し、彼を縛る契約を解き放つ。この瞬間、名前と記憶の力、そして他者への深い共感がいかに世界を変えるかが示される。人と人との関係性の中でこそ、自分という存在は明確になっていくという思想が、この映画の根底にある。
そして最後に、千尋がトンネルを抜けて元の世界に戻るシーン。そこでの彼女の表情には、もはや最初の不満げな少女の面影はなく、凛とした静かな強さが漂っている。これは千尋が「旅」を通じて確かに成長した証であり、観客もまた彼女とともに一つの通過儀礼を経験したような気持ちになる。
総じて、『千と千尋の神隠し』は、子どもの成長物語としても、大人への寓話としても読むことができる多層的な作品である。視覚・聴覚・感情のすべてに訴えかける芸術性を持ちながら、それでいて物語は普遍的で、どの時代にも通じる。だからこそ、この映画は何度観ても新しい発見があり、観る者の人生のフェーズによって響くポイントが変わる。「本当の自分」を探し、「大切なもの」を守るために成長していく千尋の姿に、私たちは勇気と希望をもらえるのだ。
[29:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/06/28(Sat) 17:41)]
株式会社オキムスの公社住宅事業部
星川薫はいじめ、パワハラ、不倫、人権侵害大好きな
チビで歯が汚いメガネ
いじめ、パワハラ、不倫をするために生を受けた明らかな欠陥品、害虫
[30:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/07/08(Tue) 00:49)]
オキムス確定
鶴川ハゲを
つるっぱげ
ハゲムス
[31:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/07/29(Tue) 08:14)]
株式会社オキムスの星川薫はクソ人間
いじめ大好き
パワハラ大好き
不倫大好き
チビで歯が 汚いメガネ
[32:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/08/05(Tue) 01:26)]
オキムス
き
む
す
オキムス
オキムス
[33:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/12/22(Mon) 19:37)]
株式会社オキムスの星川薫はクソ人間
いじめ大好き
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不倫大好き
チビで歯が 汚いメガネ
[34:名無しさん@お腹いっぱい。 (2025/12/24(Wed) 17:35)]
オキムス
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