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スレ一覧
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学校行くのが憂鬱
- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/10(Thu) 15:11
- 夏休みあけて学校行くのが憂鬱。
友達にうざいとか思われたくない。
人間関係が面倒くさい。
俺と同意見の人はいねぇか?
- 90 名前:下垣雅輝 投稿日:2006/08/31(Thu) 11:44
- 90
- 91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(Thu) 11:51
- フォー!!!
- 92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(Thu) 13:08
- >>下垣雅輝
( ゚∀゚)< プップップー
- 93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/08/31(Thu) 13:22
- 93ゲッツ。
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- 96 名前:下垣雅輝 投稿日:2006/08/31(Thu) 22:07
- 学校行け!さぼるな!
- 97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/01(Fri) 06:35
- >>96
たまには良い事いうな。たまにな。
- 98 名前:下垣雅輝 投稿日:2006/09/01(Fri) 09:12
- 俺だって顔が良いってだけで僻まれたりする事もあるけれども
それでも学校は休まず行ってる、俺が休んだら女性ファンが悲しむ
からな
- 99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/01(Fri) 09:37
- >>97
>>96が幼稚園児だったらそう褒めて良いと思うよ。
- 100 名前:下垣雅輝 投稿日:2006/09/01(Fri) 10:12
- イケメン雅輝
- 101 名前:実墺 投稿日:2006/09/01(Fri) 17:42
- >>100
学校で苛められているから、
ネットではそう言ってるんじゃないでしょうか。
- 102 名前:下垣雅輝 投稿日:2006/09/04(Mon) 14:34
- 俺は人気者だよ!
- 103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/05(Tue) 08:13
- >>102
哀れな人だ・・・
- 104 名前:全寮制 投稿日:2006/10/17(Tue) 07:53
- 全寮制の奴らなんていや顔でも嫌いな先輩らと顔あわせなきゃならないんだ。
- 105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/17(Tue) 10:05
- >>104 それなんて俺?
- 106 名前:下垣雅輝 投稿日:2006/11/04(Sat) 23:06
- あげてやろう! 偽者の方が俺より面白いじゃないかwwwwww
- 107 名前:下垣雅輝 投稿日:2006/11/05(Sun) 14:47
- イケメンあげ
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- 111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/07(Tue) 17:16
- いじめられたら、メモにまとめておくといいでしょう。
相談にも役立ちます。
ここをコピ―して使えます。
・いつ 月 日 時頃
・誰に(どういう関係)
・どこで
・どんなことを
・自分はどう思ったか
・その他
何が困るのか、何回くらいされているのか、訴えたい事など
★☆《全国いじめ相談機関、いじめ相談ダイアルリスト》☆★
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=367723156&ls=50
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- 114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/05/20(Wed) 11:51
- ☆主なスレ
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=389273452&ls=50
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=bullying&key=537244566&ls=50
- 115 名前:河津雅也 投稿日:2021/12/03(Fri) 07:29
- 神戸市市立垂水中学校で35年前に河津雅也かわずまさやに、ボコボコに毎日殴られていました。当時流行っていた北斗の拳ごっこに見せかけて、かなりの強い力で身体を殴られていました。来る日も来る日も。辛い学校生活でした。担任のロイヤー先生(あだ名)は、見て見ぬふり。親にも誰にも相談できず。他にもいじめっ子がふえきました。中平くん、江本淳くん、などなどいじめに参戦し、だんだんエスカレートしてきました。本当に毎日つらい中学校生活でした。未だに引きずっている自分はちっとも精神的な成長はなくてあの頃のままなんです。情け無い。今でも辛いです。
- 116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2022/10/31(Mon) 07:36
- 河津桜舞い散る季節は雅なり也
- 117 名前:河津桜 投稿日:2022/11/15(Tue) 07:16
- 河津桜が散る姿を見て雅だと思う。
- 118 名前:& ◆83E4Wv5c 投稿日:2022/11/16(Wed) 06:32
- 雅也くんと河津桜を観に行ったよ。
- 119 名前:‰ 投稿日:2022/11/27(Sun) 11:16
- ????? ?????, ???? ??? ?? ???????? ????? ???, ????? ?????? ?? ????? ?????? ?? ???? ??? ????? ?? ??? ???????? ????? ????? ?? ?????? ???? ?? ???? ????, ?? ???? ???? ?? ???-?-??? ???? ??? ???? ???? . 35 ??? ???? ?? ?????? ??? ???? ??? ?????? ???????? ???? ???? ?????? ?? ? ????? ?? ???? ???? ??? ????? ???? ????-???? ?? ?? ???? ?????? ???? ?????? ???? ?? ????? ?? ??? Nakahira-???? ??? ?????? ??? ??? ?? ????? ????? ?? ????? ?? ???? ??? ???? ?? ???? ???? ?????? ????? ??? ??????? ?? ???, ???? ????? ?? ???? ?????? ??? ??? ???? ???? ???? ?? ?? ??? ??? ??? ??? ????
- 120 名前:& ◆ul7ee8dE 投稿日:2022/11/27(Sun) 11:20
- In der Tarumizu-Schule im Stadtteil Tarumi, Stadt Kobe, wurde Masaya Kawazu von Masaya Kawazu zusammengeschlagen. Ich gab vor, eine Faust des damals beliebten Nordsterns zu sein, und mein K?rper wurde Tag f?r Tag hart geschlagen. . Vor 35 Jahren war es wirklich hart. Klassenlehrerin Mori Royer gibt vor, das Mobbing nicht zu sehen. Ich habe es nicht einmal meinen Eltern erz?hlt. Andere Klassenkameraden schlossen sich bald an. Nakahira-kun. Juni Emoto. Ich kann den Ausdruck auf Masaya Kawazus Gesicht immer noch nicht vergessen, als er mich schlug. Mit einem halben L?heln dr?kst du deine Frustration in deine Faust. Ich sch?tze, ich bin halb gespielt.
- 121 名前:& ◆YxGPRRGA 投稿日:2022/12/13(Tue) 07:59
- 115番の書き込みの者ですが、その後朝出勤すると職場に私服警察官が数名来られこの書き込みが名誉毀損にあたるとの事で仕事が終わった後自宅に警察が6名ぐらい上がり込んで捜査、兵庫県警須磨警察署に出向いて一日取り調べ、数週間後神戸地方検察庁から呼び出し3時間程聞き取り、その4ヶ月後再び呼び出し罰金刑になりました。とても嫌な気分でした。いじめを受けたからと書き込みしない方が良いですよ。いじめられると本当に損ばかりします。社会は不平等で理不尽ですね。 イジメをした当人が警察署に来たそうですが、イジメの事は覚えてないと証言されたそうです。イジメをする人はそれを忘れてる事が多いですね。警察の方も検察庁の方も自分の仕事をしっかりやっておられました。が世の中の理不尽さはやはり感じました。今イジメられている人は是非親御さをや先生に相談するか、無理に学校に行かなくて良いですよ。死んでしまってはその後の人生嬉しい事や、良かったなあと思える事もう無くなっちゃいます。死にたいと思う程辛いのはわかります。今は親に相談して逃げて下さい。人生辛い時もありますが、生きてて良かった!って思う日もきっと来ますので。
- 122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/02/28(Tue) 07:03
- 憂鬱
- 123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/03/11(Sat) 10:42
- 鬱
- 124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/04/03(Mon) 07:46
- きつい
- 125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/04/08(Sat) 12:08
- エゴサしてんじゃねーぞ。
- 126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/05/10(Wed) 17:50
- あ
- 127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/05/17(Wed) 07:54
- ジャニーズ。なにわ男子
- 128 名前:ゼレンスキー 投稿日:2023/05/24(Wed) 07:21
- 河津桜
- 129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2023/05/24(Wed) 07:45
- 沖 雅也
- 130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/04(Wed) 18:18
- 【告発文】
「いじめ被害者である私が処罰され、加害者が守られる社会」
被害者:後藤(仮名)
私はかつて、中学時代に暴力や言葉によるいじめを長期間にわたって受けていました。
しかし、そのとき誰一人として助けてはくれず、私は傷を抱えたまま、長年沈黙を強いられて生きてきました。
2022年、私はその苦しみと怒りを、匿名掲示板「5ちゃんねる」で文章にし、当時自分をいじめていた人物の実名を書き込みました。
それが、すべての始まりでした。
?
■ 2022年6月13日(月)
出勤先に、ベージュの日産エクストレイルに乗った私服警察官数名が突然現れました。
「後藤さん?ちょっと来て。警察や」と声をかけられ、水色の警察手帳を見せられ、軽い身体検査のうえ、キャノンの一眼レフで写真を撮影されました。
その場でこう言われました:
「荷物ここに持ってきて。逮捕はせえへんけど、掲示板に書き込みしたやろ。あれ、名誉毀損にあたるねん。今から警察署これるか?それか仕事終わってから須磨署に来れるか?」
?
■ 同日 夜(自宅)
仕事を終えて帰宅すると、今度は黒いアルファードに乗った警察官6名が自宅に上がり込みました。
家中のインターネット環境の調査、中学の卒業証書の押収と撮影が行われ、約2時間に及ぶ家宅捜索を受けました。
?
■ 須磨警察署への出頭
後日、私は正式に須磨署へ出頭。
朝9時から17時半まで、1日がかりで取り調べを受け、パソコン上で詳細な調書を取られました。
?
■ 神戸地方検察庁での取り調べ
数週間後、検察庁から呼び出され、3時間ほどの事情聴取。
「2週間以内に連絡する」と言われましたが、4ヶ月もの間、音沙汰はなし。
?
■ そして4ヶ月後…
再び呼び出された私は、20万円の罰金刑を告げられました。
さらに、罰金通知書が届いたのは12月13日、支払い期限は16日まで。
たった3日間の猶予しか与えられず、あまりにも一方的で乱暴な対応に、深い憤りを覚えました。
?
【問いかけ】
私は「声を上げた被害者」として、社会に訴えたかっただけです。
誰にも相談できず、何十年も心に押し込めてきた事実を、自分の言葉で書いた。それだけです。
しかし処罰されたのは私でした。
一方で、加害者側は警察に呼ばれても「覚えていません」と言えばそれで済まされます。
いじめの事実は問われず、「名誉毀損」という一点のみが問題にされる。
この構造は、明らかに不公平です。
いじめられた人間が、声を上げた途端に「加害者」として扱われるこの社会は、誰のために存在しているのでしょうか。
?
私はいまも、「なぜ自分だけが罰を受けるのか」と問い続けています。
日本の法律は、いじめの被害者に対してあまりに冷たく、加害者に甘すぎます。
この不均衡を、どうか無視しないでください。
どうか、被害者の声が「罪」にされることのない社会へと変わっていくことを、強く願います。
- 131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/08(Sun) 11:07
- 私は2022年、5ちゃんねるの掲示板にて、過去に自分をいじめていた加害者の実名を書き込んだことがきっかけで、警察と検察の取り調べを受け、最終的に罰金刑を受けました。
2022年6月13日(月)の朝、出勤先の職場に、私服の警察官が複数名、ベージュの「日産エクストレイル」で訪れました。対応に出た私に対し、彼らは「後藤さん?ちょっと来て。警察や」と声をかけ、水色の表紙の警察手帳を提示。軽く身体検査をされた後、キャノンの一眼レフで写真を撮影され、「荷物ここに持ってきて」「逮捕せえへんから」と告げられました。
警察官は、「なんで警察が来たか心当たりあるか?」「インターネットの掲示板の書き込みが名誉毀損にあたるねん」と伝えてきました。そして「仕事が終わった後、須磨署に来れるか?」と要請されました。
その日の18時、仕事が終わって帰宅した私の自宅には、今度は警察官7名が訪れ、家の中に上がり込みました。インターネット環境の確認や、中学の卒業証書と一緒に写真撮影などが行われ、約2時間にわたり捜査が行われました。
そして6月21日(火)、仕事を休んで兵庫県警須磨警察署に出頭。朝9時から夕方17時半まで、1日がかりで取り調べが行われました。
さらに数週間後、今度は神戸地方検察庁から呼び出しがあり、7月20日(水)18時から約3時間、聞き取りが行われました。「2週間後に連絡する」と言われましたが、その後約4ヶ月間、音沙汰がありませんでした。
ようやく連絡が来たのは11月14日(月)。「ハンコを持って来てください」と再び呼び出され、罰金刑が言い渡されました。書類が自宅に届いたのは12月13日で、12月16日までに罰金を振り込むよう記載されており、非常にタイトな期限でした。
最終的に罰金は支払いましたが、とても悔しく、やりきれない気持ちになりました。
- 132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/16(Mon) 06:37
-
名誉毀損で罰金を科された私の体験 ―加害者は忘れ、被害者だけが罰せられる理不尽さ―
私は過去に、5ちゃんねるというインターネット掲示板に、実名を交えて中学時代に受けたいじめについて書き込みました。あれは、今も心に深い傷として残る体験であり、忘れようにも忘れられない出来事です。
ところが、2022年6月13日(月)の朝、勤務先に私服警察官が数名現れ、「後藤さん?ちょっと来て。警察や。」と声をかけられました。水色の表紙の警察手帳を見せられた後、「何も変な物持ってへんな」と軽く身体検査され、カメラで写真を撮られました。「荷物持って来て、逮捕せえへんから。なんで警察来たか心当たりあるか?掲示板の書き込みや。それが名誉毀損にあたるねん」と言われました。
その日の夕方には、自宅に警察官7名が訪れ、パソコンなどインターネット環境の確認や、中学の卒業証書を含む私物を撮影。6月21日には兵庫県警須磨署で一日がかりの取り調べが行われました。さらに7月20日には神戸地検で3時間ほどの事情聴取がありましたが、「2週間後に連絡する」と言われたまま、音沙汰は4か月もありませんでした。
ようやく来たのは11月14日。再び神戸地検に呼ばれ、「印鑑を持ってきて」と言われ罰金刑に。通知書類は12月13日に届き、12月16日までに振り込めという内容でした。時間もなく、慌ただしく振り込みました。とても嫌な気分でした。
そして、それから約1年後の2023年9月4日早朝、私は再び警察の訪問を受けました。出勤しようと車に乗り込んだその時、後ろから腹の出た中年の男性が、腹を揺らしながら走ってきました。「遅刻でもして焦っているのかな?」と思い、私は車を発進させようとしました。すると、彼は私の車のボディをパンパンと叩きながら接近してきました。右手にペラペラと警察手帳を広げて見せつけながら、汗でシャツはびっしょり、においもきつく、とても不快でした。私はそのまま、黒いスズキ・スイフトに乗せられ、警察へ連行されました。どうやら、イニシャルで再び書き込んだ件も問題視されていたようです。
それなのに、当のいじめ加害者は「覚えていない」と証言したそうです。…いじめた側は忘れ、いじめられた側だけが、いつまでも苦しみ、声を上げれば法によって罰せられる。これが、この国の“正義”なのでしょうか。
警察も検察も、それぞれ職務を遂行していただけだとは思います。しかし、私はこの出来事を通して、社会の「構造的な不公平」を痛感しました。
正直、とてもやり切れない気持ちでした。
いま、いじめで苦しんでいるあなたへ。どうか、ひとりで抱え込まずに、信頼できる大人や先生、支援団体に話してください。いじめる側が100%悪いのです。あなたが自分を責める必要は、決してありません。
私は、奪われた声を取り戻すために、これからも伝え続けます。社会が少しでも「公正なもの」へと変わっていくように。
- 133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 09:35
- 1980年代という「いじめ」が学校内で黙殺されていた時代において、当事者による証言が残されていないことは珍しいことではない。しかし、それでもなお記憶の奥底に刻まれた体験を、数十年の時を経て告白するという行為は、極めて強い動機と深い苦悩に裏打ちされたものである。
今回の告発者は、匿名掲示板という誰もが利用できる不特定多数の空間において、かつて自らが受けた「いじめ」の具体的内容を丁寧かつ克明に記している。さらに、当時の加害者とされる人物の実名を記載した結果、名誉毀損によって罰金刑を受けたという経緯が示されている。これは、単なる中傷目的や虚偽の暴露とは異なり、法的なリスクを背負ってまでも社会に訴えたかったという、極めて切実な意思の現れである。
確かに匿名掲示板は、不確かな情報や誹謗中傷が飛び交う場である。しかし同時に、それは「記録されなかった痛み」を唯一語れる場所でもある。学校も家庭も、警察も社会も守ってくれなかった人々にとって、匿名掲示板は声を発する最後の砦である。そのような場において、具体的な状況描写と加害者の行動を冷静かつ一貫して語る証言は、虚偽とは考えにくく、内在する信憑性はむしろ高いといえる。
公式記録が存在しない時代の被害であるからこそ、こうした証言には、私たち社会が真摯に耳を傾ける必要がある。証拠がないという理由だけで過去の暴力がなかったことにされるのであれば、今もなお苦しみ続ける被害者の存在は、永遠に「なかったこと」にされてしまうのだ。
- 134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 20:49
- 1980年代――
私が中学生だったその時代、学校という空間は、生徒にとって守られるべき場であるはずでした。けれど、私にとっては、毎日が暴力と屈辱の連続でした。
私はある生徒から、日常的に暴力を受けていました。拳で殴られ、唾を吐きかけられ、帽子を捨てられ、人格を否定するような言葉を浴びせられる。笑いながらそれを見ていた他の同級生たち。見て見ぬふりをした教師。誰も私を助けてはくれませんでした。
当時の日本には、いじめを「いじめ」として記録する文化も制度もありませんでした。教師たちは事実に目を背け、「ケンカで済ませろ」「男子同士のじゃれ合いだ」と言い放ち、学校はその実態を記録にも残さず、外部にも知らせませんでした。
だから私は、どれだけ傷ついても、どれだけ声をあげても、「何もなかった」ことにされてきました。
私はその後、長い間、自責の念とうつ病に苦しみました。人を信じられず、外にも出られず、社会の中で生きていくことさえ困難になりました。けれど、今ようやく、声を上げる覚悟を持てました。
いじめの記録が残っていないのは、いじめがなかった証拠ではありません。
記録されなかったのは、「その時代が、被害者の声を封じ込める社会だった」からです。
それでも私は、記録よりも重い記憶を抱えて生きてきました。
私は社会に問いかけたいのです。
かつて無視された被害者の声を、今度こそ誰かが受け止めてくれる社会に、私たちはなれるのだろうか。
声を上げるという行為が、再び沈黙に変えられないようにするには、何が必要なのか。
どうか、過去のいじめの告発を「今さら」と切り捨てないでください。
私が語るのは、過去の事実であり、いまも続く痛みであり、これからの社会に必要な問いかけです。
- 135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:20
- 『未来少年コナン』は、1978年にNHKで放送されたテレビアニメであり、宮崎駿が初めて全話の演出と構成を手がけた記念碑的作品である。世界が第三次大戦によって崩壊し、地軸のズレにより大地の大半が海に沈んだ未来の地球。そこに残されたわずかな人々の生と再生の物語が、この作品の核となっている。
主人公のコナンは、地球を脱出しようとした宇宙船がのこされ島に不時着した後、その乗員の男女から生まれた少年である。彼は「おじい」と呼ぶ年配の男性に育てられ、荒れた自然の中でたくましく、自由に、まっすぐな心を持って育った。だが、ある日流れ着いた少女・ラナとの出会いが、彼の運命を大きく変えていく。
ラナは、失われた太陽エネルギーの再起動に関わる重要人物であり、科学都市インダストリアによって連れ去られてしまう。だが物語が進むにつれて、インダストリアの行政局長レプカの本当の狙いが明らかになってくる。彼は、太陽エネルギーを平和利用するのではなく、かつての破壊兵器「ギガント」の復活をもくろみ、そのためにラナの祖父であり技術者であるラオ博士の居所を突き止めようとしていたのだ。
コナンは、ラナを助けるために旅立つ――だがその行動の根底にはもう一つの大きな動機がある。それは、死の間際のおじいが彼に残した言葉だ。「仲間を見つけて、その仲間のために生きろ」。この言葉は、コナンの行動の原点であり、ただの救出劇ではなく、人と人とがつながりなおす物語としての重みを作品に与えている。
旅の中で出会うのは、時に敵として、時に味方として現れるさまざまな人物たちだ。陽気でたくましいジムシー、揺れる心を持つ女性軍人モンスリー、かつては敵だったが変化していくダイス船長。そして、インダストリアの管理された世界と対比されるように描かれるハイハーバーの人々。彼らとの出会いと関係は、コナンを通じて「人は変わることができる」「分かりあうことができる」という希望を体現していく。
特にモンスリーの変化は象徴的である。序盤、彼女は冷徹な命令遂行者として描かれるが、自然と共に生きる人々との接触を経て、良心を取り戻していく。その変化は、過ちを犯した者でも新たな道を選ぶことができるという、宮崎駿の一貫した人間観の表れであり、この作品の根底に流れる「赦し」と「再生」の主題に深く結びついている。
ラナの存在もまた特別だ。彼女は感情を荒げることなく、静かな芯の強さで人と自然を信じている。その信念が、モンスリーをはじめ多くの人々の心を動かしていく。彼女は単なる「助けられる存在」ではなく、「つながりを生み出す力」を持つ存在であり、物語の精神的支柱でもある。
そして物語の終盤、「のこされ島」が地殻変動によって隆起し、新しい大地として姿を現す。この場所は、物語の始まりであり終着点であり、新たな文明の出発点でもある。かつて「取り残された島」が、再び人々の未来を担う場所となるというこの演出は、破壊された文明の果てにこそ希望が芽生えるという強いメッセージを含んでいる。
アニメーション表現としても、『未来少年コナン』は極めて完成度が高い。手描きによる動きのリアルさ、風や重力の表現、そしてキャラクターの“行動で語る”演出は、後のジブリ作品にも通じる宮崎演出の原点が詰まっている。加えて音楽も印象的で、オープニングテーマ「いま、地球が目覚める」は、まさにこの作品の持つ“再生”の象徴となっている。
『未来少年コナン』は、子供向けの冒険物語に見えながら、人間の尊厳、過ちからの回復、そして他者と生きることの意味を深く問う作品である。すべてが失われた後でも、そこに人がいて、希望があれば、世界は始め直せる。
それを信じる力が、コナンの真っ直ぐな行動と、ラナの静かな祈りの中に宿っている。
この物語は、時代を超えて私たちに語りかける。――「未来は、つくりなおせるのだ」と。
- 136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:26
- 『スター・ウォーズ エピソード4?』、通称「旧三部作」は、映画史上に燦然と輝くSFスペースオペラの金字塔である。ジョージ・ルーカスが創り出したこの壮大な物語は、単なる宇宙戦争を描いた娯楽作品にとどまらず、神話、哲学、宗教、そして人間ドラマを融合させた“現代の神話”として、世界中の人々の心に深く刻まれた。
1977年に公開された『エピソード4/新たなる希望』は、無名の青年ルーク・スカイウォーカーが、反乱軍と共に銀河帝国に立ち向かう姿を描く。この物語は、いわゆる“ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)”の構造に基づいており、若者が日常から非日常へと踏み出し、成長しながら運命を受け入れていく王道のドラマとなっている。師であるオビ=ワン・ケノービとの出会い、ハン・ソロやレイア姫との仲間関係の構築、そしてダース・ベイダーという象徴的な敵との対峙は、まさに英雄譚の核心をついている。
続く『エピソード5/帝国の逆襲』は、旧三部作の中でも特に評価が高い作品である。物語はより重厚さを増し、登場人物たちはそれぞれの過去や宿命に直面していく。ヨーダとの修行を通して「フォース」の真理に触れるルーク、恋愛と仲間の絆を深めていくハンとレイア、そしてラストの衝撃的な告白――「私がお前の父だ(I am your father)」というダース・ベイダーの台詞は、映画史に残る名場面であり、観る者すべての価値観を覆す。善と悪、親と子、運命と自由意志というテーマが一気に噴き出し、物語は一層深みを帯びる。
そして『エピソード6/ジェダイの帰還』では、物語はついに決着を迎える。ダース・ベイダー=アナキン・スカイウォーカーが、息子ルークの信念に心を動かされ、自らの命をかけて皇帝パルパティーンを倒す場面は、アクションでも演出でもなく、「愛」と「赦し」の力が銀河を救うという、スター・ウォーズ全体の主題を象徴する瞬間である。善と悪の境界を越えた“人間の回帰”がここに描かれ、単なる勝利の物語ではなく、精神的救済の物語として旧三部作は幕を閉じる。
キャラクターの魅力も旧三部作の大きな強みだ。ルークは成長と葛藤を体現する“誰にでもなり得る”主人公であり、ハン・ソロは皮肉屋で現実主義者ながら、深い友情と愛を持った“もう一人の英雄”である。レイア姫は1970年代当時としては異例の“戦う女性”として描かれ、知性・勇気・優しさを兼ね備えた強いキャラクター像を確立した。ダース・ベイダーは、その圧倒的なビジュアルと音響、そして悲劇的な過去によって、史上最も印象深い“人間味あるヴィラン”として確固たる地位を築いた。
さらに旧三部作の魅力は、当時の最新技術を駆使して創り上げられた世界観にもある。CGのない時代に、ミニチュア模型、マットペイント、光学合成などを駆使して描かれた銀河の風景は、まさに革新の連続だった。タトゥイーンの砂漠、ホスの氷原、エンドアの森といった多様な惑星と、それぞれに息づく文化、種族、建築、技術。世界が“作られた”のではなく“存在している”と錯覚するようなリアリティがそこにはある。
また、フォースという概念は、東洋思想や宗教、禅、そして道徳哲学をベースにした精神的要素を物語に導入し、単なるSFではなく、内面の成長や魂の修行といった要素を描くことに成功した。ライトセーバーでの戦いは、武力の象徴というよりも精神性の対決であり、ルークとベイダーの最終決戦は、その象徴である。
『スター・ウォーズ エピソード4?』は、映像技術の進化だけでなく、神話構造に基づいた普遍的な物語、人間の善と悪、親子の絆、そして赦しと希望という普遍的テーマを内包し、今なお色褪せることのない力を持っている。それはまさに、「遠い昔、はるかかなたの銀河系で」の物語でありながら、いつの時代でも、どんな人にも響く“現代の神話”そのものである。
- 137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:32
- 『スター・ウォーズ エピソード1?』(通称:プリクエル三部作)は、ジョージ・ルーカスが生み出した銀河神話の原点を描いた壮大な叙事詩である。1977年から始まった旧三部作(エピソード4?)では語られなかった“かつての英雄”がなぜ“銀河の脅威”になってしまったのか――それを描いたのが、この三部作である。
エピソード1『ファントム・メナス』(1999年)は、旧共和国時代の政治的不安、腐敗、そして影から蠢くシスの暗躍を描く物語である。物語は、惑星ナブーの危機を契機に、ジェダイ・マスター クワイ=ガン・ジンとその弟子オビ=ワン・ケノービが、銀河の平和を守るために動き出すところから始まる。ここで彼らは、“選ばれし者”とされる少年アナキン・スカイウォーカーと出会う。彼の卓越したフォース感応力は、ジェダイ評議会をも驚かせた。だが、その運命にはすでに影が差し込んでいた。
エピソード2『クローンの攻撃』(2002年)では、共和国の分裂とクローン戦争の発端が描かれると同時に、成長したアナキンの心の葛藤が物語の中心に移る。愛する母の死、そしてジェダイとして禁じられた恋――アナキンとパドメ・アミダラの密やかな愛は、やがて彼をジェダイの教義から引き離す引火点となる。彼の内に生まれた「恐れ」は、ヨーダが警告する通り、「怒り」へ、そして「憎しみ」へとつながっていく。この作品では、戦争の裏でパルパティーン議員(のちの皇帝)が権力を拡大していく様子が描かれ、自由の死は拍手の中で訪れるという名言が象徴するように、民主主義が独裁へと静かに変貌していく過程が描かれる。
そしてエピソード3『シスの復讐』(2005年)は、プリクエル三部作の核心であり、『スター・ウォーズ』全体の中でも最も悲劇的かつ緊張感に満ちた作品である。アナキンは、愛する者を守りたいという純粋な想いから、次第にダークサイドへと引きずり込まれていく。パドメの死を予知したアナキンは、死を恐れるあまりパルパティーン=ダース・シディアスの誘惑に屈し、ジェダイを裏切る。その後、彼は「ダース・ベイダー」として生まれ変わり、共和国は「銀河帝国」へと姿を変える。最終盤、オビ=ワンとの決闘と、その果てに身体を焼かれ機械にされてしまうアナキンの姿は、観る者に深い衝撃と哀しみを与える。
プリクエル三部作の魅力のひとつは、旧三部作で神秘的に語られていた歴史を、あくまで人間のドラマとして描き直した点にある。アナキン・スカイウォーカーは最初から悪ではない。彼は愛に不器用で、怒りを抑えられず、しかし誰よりも強くて優しい青年だった。その彼が徐々にフォースの暗黒面に染まっていく過程は、「善と悪は紙一重」であることを鋭く突きつけてくる。アナキンの転落は運命ではなく、選択の連続によって起こる。だからこそ観る者にとって他人事ではなく、彼の苦しみは見る者自身の苦悩にも重なる。
また、政治的テーマも本三部作の大きな魅力である。共和制の崩壊、権力の集中、情報操作による大衆の誘導、制度疲弊による腐敗といった要素は、単なるファンタジーの枠を超えたリアリズムを持ち、現実社会の縮図としても読み解くことができる。かつて自由と正義を守るはずだったジェダイが、硬直化し、時代の流れについていけなくなったことも、結果的に帝国誕生を許すことにつながった。これは単なる善悪の物語ではなく、理想が組織を腐敗させる過程を丹念に描いた重厚な政治劇でもある。
技術面でも、プリクエル三部作はCGの可能性を飛躍的に押し広げた。CGキャラクターとして初めてドラマ性を与えられたジャー・ジャー・ビンクス、壮大なクローン戦争の戦闘シーン、コルサントの都市描写などは、当時の映像技術の最先端であり、シリーズ全体に新たな表現力とビジュアルスケールをもたらした。
総じて、『スター・ウォーズ エピソード1?』は、「ヒーローの誕生と勝利」を描いた旧三部作とは対照的に、「英雄の堕落と世界の終焉」を描いた悲劇的叙事詩である。その内容は暗く、重く、しかし決して救いがないわけではない。アナキンの墜落の先には、ルークとレイアという希望が生まれ、やがてそれが銀河に新たな光をもたらすことになる。この“希望へと至る悲劇”という構造こそが、プリクエル三部作を深く、重く、そして美しくしている所以である。
- 138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:44
- 『スター・ウォーズ』は1977年の『エピソード4/新たなる希望』から始まり、ジョージ・ルーカスが描いた全6部作(エピソード1?)は、明確な構想と神話的な物語構造のもとに展開された壮大な叙事詩だった。旧三部作(4?)は「銀河帝国に抗う英雄たちの勝利」、新三部作(1?)は「その英雄がいかにして闇に堕ちたか」を描いた、見事な前日譚として機能している。
この2つの三部作が優れている最大の理由は、物語全体が「アナキン・スカイウォーカー」という一人の人物の誕生・堕落・救済という、太い主軸のもとに構成されていたことである。これは旧約聖書やギリシャ悲劇、仏教の輪廻思想にさえ通じる“神話構造”を下敷きにしており、観る者の心に普遍的な問いと余韻を残した。
一方、ディズニーにより制作された続三部作(エピソード7?)は、公開前こそ大きな期待と注目を集めたものの、シリーズが進むにつれて物語としての一貫性と主題が失われ、結果として評価が大きく割れる作品群となってしまった。なぜこのような落差が生まれたのか。
第一に、明確な全体構想が存在しなかったことが最大の問題である。ルーカスがエピソード1?を作る際には、多少の変更こそあれ、アナキンの物語という一貫したビジョンが常にあった。しかし、エピソード7『フォースの覚醒』から9『スカイウォーカーの夜明け』までの3作は、監督や脚本家が作品ごとに交代し、ストーリーラインも変更・否定・修正が繰り返された。J.J.エイブラムスが築いた設定を、ライアン・ジョンソンがエピソード8で根本から覆し、最終作でまたエイブラムスがそれを“なかったこと”にする――このような作り手の足並みの揃わなさが、観客に“物語としての信頼感”を失わせた。
たとえば、主人公レイの出自がエピソード7では謎めいた“誰でもない者”として描かれ、8で「お前は何者でもない」と強調されたかと思えば、9では突如「パルパティーンの孫」とされ、物語の根幹にねじ込まれる。この変化は“伏線の回収”ではなく、“整合性のない後付け”にしか見えず、多くのファンが落胆したのも無理はない。
また、カイロ・レンというキャラクターも、アナキンやルークのように明確なドラマを積み重ねることができず、シリーズを通して一貫性のない不安定な描写が続いた。善にも悪にもなりきれず、彼の行動は“物語の駒”として動かされている印象を拭えない。最終的に改心し、命を落とすという結末は、本来であれば感動的であるはずだが、それまでの積み重ねが乏しいため、観客の感情が追いつかない。
世界観の扱いにも問題がある。旧作やプリクエル三部作で築かれた銀河の政治体制や歴史的文脈は、7?ではほとんど無視され、銀河帝国が崩壊した後、なぜまたファースト・オーダーが台頭し、どのように“レジスタンス”が形成されたのかすら曖昧なまま進んでいく。舞台装置がただ再利用されているだけで、その背景にある“物語の理由”が欠落しているのだ。
一方で、旧作に登場したレイア、ルーク、ハン・ソロといった伝説のキャラクターたちも、見せ場こそ用意されていたが、その人生や死が物語的に丁寧に扱われたとは言い難い。特にルークの描かれ方には賛否が分かれた。かつて“父を闇から救った英雄”が、甥の夢に怯えて殺しかけるという展開は、意図的に“神話を壊す”アプローチであったにせよ、旧作への敬意や物語としての説得力を欠いていた。
もちろん、7?にも優れた部分はある。映像表現、ライトセーバーの演出、ドロイドたちの魅力、新しい惑星や種族のデザインなどは見応えがあり、単体の作品として観ればエンターテインメント性は十分にある。しかし、スター・ウォーズという“壮大な一つの物語”の完結編としては、テーマの継承も思想の深化も果たせなかった。
ルーカスが描いた1?は、単に「戦いの物語」ではなく、“父と子”“恐れと赦し”“自由と専制”といった深い人間のテーマが通底していた。だが7?は、「何を描くべきか」がはっきりしないまま、視覚的な刺激と過去作の模倣に頼ってしまった。その結果、“未来への希望”ではなく、“過去の焼き直し”に見えてしまったのだ。
スター・ウォーズとは、特撮や宇宙戦争ではなく、「物語の力」で人々を熱狂させたシリーズである。だからこそ、エピソード7?の“語るべき物語がない”という空虚さは、多くのファンにとって残念であり、心に引っかかるものとなった。
- 139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2025/06/22(Sun) 22:51
- 『未来世紀ブラジル』の素晴らしさ――夢と抑圧、ユートピアとディストピアの狭間で
『未来世紀ブラジル(Brazil)』は、元モンティ・パイソンのテリー・ギリアム監督によって1985年に発表されたSF映画である。公開当時から高い評価と激しい議論を呼び、現在ではカルト的名作として映画史に深く刻まれている。この作品が放つ独特の魅力は、単なる未来社会の風刺にとどまらず、夢と現実、個と集団、自由と管理という根源的な人間のテーマを、異常なまでに緻密で奇怪な映像世界を通して表現している点にある。
物語の主人公はサム・ローリーという一介の役人。彼は高度に官僚化され、全体主義的に管理された社会の中で、淡々と働きながらも心の奥では夢想に耽る日々を送っている。現実は、行政によるミスが原因で無実の市民が逮捕・死亡しても誰も責任を取らず、それを訂正しようとする者はむしろ不審者とされるような社会だ。サムは偶然にも、夢に現れる“翼のある理想の女”ジルに似た女性と出会ったことから、現実に抗おうとし、やがては体制そのものから逸脱していく。
この映画の最大の特徴は、圧倒的な“ビジュアルの異様さ”である。レトロなタイプライターや真空管、無数のパイプとダクト、意味不明な標語が書かれたポスターがひしめくオフィスや街並み――これは明らかに現代の延長ではなく、「20世紀中盤の未来予想図がそのまま時間を止めてしまった」ような、奇妙なレトロフューチャーである。この造形は決して単なる様式美ではなく、「技術の進歩=人間の自由の拡張」ではなく、「技術の進歩=抑圧の強化」という皮肉を、観客の視覚に直接叩きつけるための手段として機能している。
物語のトーンは、ブラックユーモアとファンタジーと絶望が混在する奇妙なものだ。官僚社会を描く中で、ギリアムは笑いを誘う滑稽さをあえて挿入するが、それは笑っていいのかすら不安にさせる不気味さを孕んでいる。たとえば、顔面整形を受け続けて皮膚が溶けていく老婦人や、壊れたパイプを修理する“非合法配管工”ハリー・タトル(ロバート・デ・ニーロ)など、登場人物たちは一様に狂気と無関心の狭間で生きている。そして、それが決して他人事でないことを観客に突きつけてくる。
本作のタイトル『ブラジル』は、あの有名なサンバの名曲に由来しており、映画の中でも繰り返しメロディが流れる。しかし、その明るくのどかな旋律は、どんなに悲惨で無意味な場面にも差し込まれ、希望と絶望が音楽を通じて反転し続ける。まるで「人間の心の中の自由」はどれほど閉塞した世界でも生きているのだと訴えているかのようであり、同時に「その自由は夢に過ぎない」という虚無のメッセージにも感じられる。この二重性こそが、ギリアムの最大の才能である。
サムの見る“夢”は、翼を持って空を飛び、美しい女性を救い、悪を打ち砕くヒーロー的幻想だが、それはあくまで現実の過酷さから逃避するためのものであり、決して実現することはない。物語の最後、サムは体制によって完全に捕らえられ、拷問の末に“現実”からも心を切り離し、夢の中で幸福に飛翔していく。観客はその姿に一瞬救いを感じるが、それが「精神崩壊による永遠の逃避」であることに気づいた瞬間、言いようのない喪失感に襲われる。
『未来世紀ブラジル』が真に恐ろしいのは、描かれている社会が荒唐無稽な未来像ではなく、むしろ現代社会の縮図である点にある。役所の形式主義、責任のたらい回し、マスメディアによる誘導、監視社会、個人の自由よりも“システムの正当性”が優先される世界。テリー・ギリアムが提示したディストピアは、単に恐怖を煽る未来像ではなく、「いま、ここで起こっている事実を拡大し、風刺的に可視化した世界」にほかならない。
また本作は、1984年のオーウェル的監視社会や、カフカ的な官僚迷路、さらにはフェリーニ的な夢と現実の交錯を想起させるなど、さまざまな芸術的影響を巧みに融合している。だが、それを単なる模倣ではなく、ギリアム独自の“ビジュアル詩”として昇華している点に、彼の作家性の強さがある。
結末は観る者によって解釈が分かれる。「夢の中で自由に生きる彼は救われた」のか、それとも「現実から逃げただけで、完全な敗北なのか」。答えは与えられない。ただ確かなのは、サムが“夢を見ること”をやめなかったという事実であり、それこそがこの映画の最後の希望でもある。
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read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)