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いじめは勇気があればどうにかなる

1 名前:io 投稿日:2010/07/01(Thu) 16:06
いじめは勇気があればどうにかなるという先生の言葉についてどう思いますか?

328 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:16
いじめについて「ああすればどうか」「こうすればどうか」と、いろいろと熱心な助言もあるが、
やはり誰もいじめの本当の原因に触れていない気がする。

本当の原因とは、日本人の体に深く浸透している「みんな一緒主義」である。
協調性主義、出る杭はみんなで打つ主義、
日本人のほとんどがそれに絶大な価値を置いていることこそが「日本型いじめ」の原因なのだ。

「さあ勇気を出して」「自分を変える努力をしよう」などと叫びながら、
「みんな一緒主義」そのものの破壊に徹っすることのない限り、いじめは無くならない。
では、どうすれば「みんな一緒主義」を止めることができるのか、それは非常に難しい問題である。

少なくとも、常識に縋り付く体質では「みんな一緒主義」崩壊への糸口はほど遠い。
哲学的センスのある方ならお分かりだと思うが、
「〇〇は〇〇」「いえいえ、〇〇は〇〇ではなく〇〇でしょう」など、
常識(すなわち多数派の決め事)を後ろ盾としたわが国での議論は幼稚なものであるし、
言葉の裏側に潜むルサンチマン(怨恨)は見え見えである。
自らの知識が絶対的に正しいと思い込み、自分の頭で考えようとしない。


329 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:25
例えば「あのとき、ああすればこんな目に合わなかった。」という後悔。
しかし、「あのとき」に「ああする意志」の発生はどこにも無かったのである。
意志の発生は自分の意志で決めるのではなく、自然に行われるのである。

ある人が、いじめを解決しようと物事Aを実行すべきか、物事Bを実行すべきか、両方実行すべきか、
両方実行しないべきか、さんざん迷ったあげく、
物事Aを実行することにした。

これは一瞬一瞬に全ての事象の影響を受け、「物事Aを実行すべきか、物事Bを実行すべきか、
両方実行すべきか、両方実行しないべきか」という意志が発生し、
最終的に「物事Aを実行する」という意志が発生したのである。  

「ああするべきか、こうするべきか…」と決断を迷っているとき、
気温が0.0000001℃高ければ決断結果は違っていたかもしれない。
明度が僅かに低いだけで決断結果は違っていたかもしれない。
近くに非常に小さな物体Qが存在しているか否かで決断結果は全く違っていたかもしれない。
 
一瞬一瞬における私の意志の発生・行動・構造等も、
恐ろしく複雑な事象が重なり合って決定されているということである。
私が「過去に物事Aを実行し続けたことにより、ある目的Zを実現できた」
ということを実感したとしよう。

では、「物事Aを実行しよう」という意志の発生は、私の意志により成されたのであろうか?
いや、そうではない。「物事Aを実行しよう」という意志の発生は自然に行われたのである。
私が過去に「物事Aを実行し続けた」のはただの自然現象である。

330 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:35
 おわかりだろうか?
一瞬一瞬における意志の発生自体は全て運、
つまり「今から『勇気』を発生させよう」という意志の発生も運だということである。

「(今の一瞬Tの次の)一瞬T+1」における意志の発生を「今の一瞬T以前」において企画可能であろうか?
厳密には不可能である。仮に企画できたとしよう。
では「企画しよう」という意志の発生はどのように行われるのか。
やはりこれも自然に決定されるのである。

意志の発生は「自分で意志を発生させよう」という意志によってではなく、自然に行われるのである。
運なのである。
今の一瞬Tに全ての事象が決定されたとき、既に次の一瞬T+1にある全ての事象は決定されている。

一瞬Tに人Aの意志が決定されたとき、一瞬Tにおける全ての事象(人Aの意志を含む)の影響を受け、
一瞬T+1における人Aの意志が決定される。
人の意志の発生は、全ての事象の影響により、既に決められているようなものである。
ビリヤードの玉を打った時点で既に穴に入るか否かが決められているように。

何をどう自分の意志で決定しようが、意志そのものが「意志以外の全ての事象」により決定されるのであるから、
意志の発生は自由ではない。
 
私自身が目的Zを実現できたとき、
「私自身が物事Aを実行し続けたから目的Zが実現できた」ことを喜ぶのではなく、
「私自身に物事Aを実行しようという意思が発生したという自然現象」を喜ぶだけである。
「たまたま私が私の構造であった運」を喜ぶだけである。 

「ある人Qが勇気を出せたからいじめが解決できた」のではなく、
「たまたまQに勇気が発生し、幸運により目的が達成できた」だけのことである。
そして多くの人々は、この運的な部分(自然現象)をまったく見ようとしない。 

例えば、「物事Aを実行しよう」という意志の発生が無い為に、目的Zが実現できなかった者がいたとしよう。
大多数の人間がその者を批判するとき、「不運な者」を批判しているのである。
〇人事件の犯人の場合も同様である。マスコミに報道され、大多数の人間が犯人に罵声を浴びせるとき、
「不運な者」に罵声を浴びせているのである。

善いことをしようという意志の発生も、悪いことをしようという意志の発生も、
激しい感情の発生も、自制しようという意志の発生も、
(先天的な)いじめっ子であることも、いじめられっ子であることも、全て自然現象(運)なのだ。

331 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 09:47
人の持つポテンシャルやセンス、感受性、価値観などの先天的な部分も生まれたときに決定されてしまう。
何をどうがんばろうが、(想像力の欠如、読解力の無さなど)最初から決められている枠から脱出することは不可能なのだ。

物事を実行することで、目的が実現できた人。そんな人も、
あらかじめ決められていた可能態から現実態へと変化を遂げたに過ぎない。

つまり、物事を実行しようがしまいが、超人は超人、凡人は凡人なのである。
これは、多くの人が直視したくない残酷な事実であるが。

「意志の力で未来を変える」などと言う低IQ評論家は、もっと眉間に皺を寄せて思考すべきである。
意志の発生自体が自然現象(運)なのである。
未来は一通りしかなく、既に決定されているのである。

332 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:00
自分は絶対的に正しいという思い込みから発せられる
「あなたの言うことは〇〇だ」「それは〇〇ではなく〇〇です」などという否定の台詞。 
人が正論を主張するとき、その背後に多数派を控えて物を言っている場合が実に多い。

絶対的に自分が正しいと思い込み、
地上に生息する殆どの人が自分と同意見だろうという無根拠な確信を抱いている。

これは多くの人によくありがちなこと。
自分の意見(行動)が正しいと思えば思うほど、それに多くの人が賛同すればするほど自己批判の精神は薄れ、
影すら見えなくなる。
そもそも「正しさ」とは何なのか。定義付けなど出来るのだろうか。

人が軽率に「正しい」という言葉を吐くとき、その身体には自らの方向性を疑いもしない愚鈍さ、
それに融合された欺瞞性が息を潜めている。
「正しい」と居直るポジティブ性人種に関し、私は次のような3重構造を成す疑問を感じる。

1.自分の正しさが大多数の人の「正しさ」と一致しているという確信に間違いはないのか。 
2.自分の正しさが大多数の人の「正しさ」と一致しさえすれば、自分は絶対的に正しいのか。
3.「正しさ」とは一体どのようなことなのか。 

多くの人は、自分自身の正しさが大多数の人間の正しさと合致すればそれは正しく、
大抵のことは円滑にとクリアできるという短絡的予想を常としている。
そして、その背景にある複雑な事象をこれっぽっちも考察しようとしない。

大勢の人が、ある物事を「正しい」と公認しさえすれば、それは絶対的に正しいことなのだろうか。
当然その答えはノーである。

333 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:09
「正しい」ことに値する第一条件は、
この世に生息する全ての人間(出来れば人間以外の生物・意識も含む)が「正しい」と認めることではなかろうか。
「それは正しくない」などと言う(思う)者が一人も存在しないことではなかろうか(勿論これは私自身の定義)。
だが、そんなことは世界中の何処にも存在しないであろう。

人を助ける事は「正しい」、人を愛する事は「正しい」、人の役に立つ事は「正しい」、
みんなで楽しむことは「正しい」、悪気のない行動は「正しい」などというのは、多数派の人間が思っていることである。

世の中での「正しい」ことは、「多数派の人間に都合の良いこと」に過ぎない。
そして、それは価値観や感受性の異なる少数派の人間を無視した「正しい」ことなのだ。
世の中には、これらが正しくなく、迷惑を被る少数派の人間もいるということを、多数派は露ほども考えようとしない。 

「正しいこと」 = 「多数派にとって都合の良い決め事」

そうなのだ。世の中の「正しい」ことは、恐ろしく想像力の欠如した多数派によって決定されるのである。
人は自分が「正しい」と思うとき、自己正当化のメカニズムが働いている場合、
あるいはその背後に多数派が潜み、無意識に同化している場合が実に多い。
「みんなと一緒」は「正しい」ことなのである。

334 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:20
ここで哲学者オルテガの言葉を引用するとしよう。
「大衆とは、無個性で、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は周りの人と同じであると感じ、
そのことに苦痛を覚えるどころか、むしろ喜びを見出しているすべての人のことである。」

オルテガのアフォリズムは驚くほど的を射抜いており、私の定義する「現代日本の多数派」とほぼ一致する。 
私は多数派に逆らって生きようなどとは思わない。それは少数派の人間にとっては無謀なことであり、
大げさに言えば死を意味することなのだ。

多数派は、理解し難い少数派の人間が現れるやいなや、これを速攻で排除しようとする習性がある。
多数派は少数派の人間を理解しなくとも、(いろんな意味で)小数派を排除することにより、快適に生きてゆける。
しかし、少数派の人間は多数派を理解しなければ生きてはゆけないのだ。

少数派が完全に多数派に馴染むには巧妙なテクニックを要する。
感受性の制御すなわち「お芝居」が必要なのだ。
笑いたくもない時に笑い、悲しくもない時に悲しみ、怒りたくもない時に怒り、
愚見に賛同するフリをしたりと、非常に面倒臭く疲れる作業を実践し続けなければならない。

少しでも油断しようものなら異端児扱いされてしまう恐れがある。
そうなると大変だ。多数派は大群を率い、全力で小数派の人間を多数派形状に矯正しようとする。
そうならない為にも、絶対的少数派の人間は、仮面を被って上手く生きてゆくしかないのだ。

多数派は小数派の複雑繊細な意見にまったく耳を傾けようとしない。
小数派の真実よりは多数派の愚見が正しいと思い込んでいる。
なぜか?それは彼らが途方もなく頭が悪い(IQが低い)からであるが、ある角度から観察すると利口である。

その「お利口さ」とは論理的思考によるものではなく、
自分でも気が付かないほどの深層心理にビッシリとこびり付いた「みんな一緒主義」と、
余計なことを考えない訓練の積み重ねによる「素直で鈍感な頭」である。
「考えない頭」「想像力の欠如した頭」である。

身体のレベルで、常識の上に寝転んでしまった「鈍感な頭」は強い。
例えばインターネットのBBSで、いかなる論理をぶつけても、
ダイナマイトを投じても、水爆を投じても微動だにしないほど強い。

335 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/07/13(Fri) 10:27
多数派は、時代風潮に乗った「正義」を振りかざし、強力な後ろ盾のもとに小数派を血祭りに上げる。
その心理構造は、魔女狩り、ユダヤ人虐殺と何ら変わりは無い。

人類は「正義」の旗の下、残酷な悪行がなされてきたことを直視しなければならない。
「正義」の旗の下に行われた制圧、抹殺、排除が最も残酷であったことを理解しなければならない。 

例えば私がそんな多数派の姿勢を「間違っている」と訴えれば、
そんな私の姿勢こそが「自分が正しい」と居直っているのだから同類である。
そして、私に自己批判があるからと言って、自己批判の無い者を罵る姿勢こそが、自己批判の無い姿勢なのである。

…などと書いた自分自身のことを、私は正しいとは思わない。
「正しいと思わないことが実は正しいのだ」などとも思わない。
そもそも「正しい」とは何なのか、まったく分からない。

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