掲示板に戻る 前 10 次 10 1 - 10 最新 10

【魏の三曹】 建安文学について語れ 【建安七子】

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/06(Wed) 15:19)]
三国時代の建安年間(196〜220年)に魏で興った建安文学について語ろう!

三曹    : 曹操・曹丕・曹植
建安七子: 孔融・陳琳・徐幹・王粲・応[王易]・劉驕E阮[王禹]


[2:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/06(Wed) 16:25)]
そもそも建安年間自体が、曹操が数多ある群雄から頭ひとつ飛び出した25年間であり、
本邦において織豊政権の最盛期の大部分を担った、天正年間に比することも出来よう。

建安元(196)年は、曹操が献帝を自らの本拠地に招き、屯田制を敷いた年である。
以後、張繍征伐、官渡の戦い、袁氏征伐、河北統一、赤壁の戦いと、わずか12年で
昇竜の如き躍進を見せたが、赤壁では孫劉二氏の同盟に敗れ、覇業は停滞を見せる。

赤壁での敗戦後は、既に掌握していた河北を安定させるべく、「周の文王たらん」とし、
まずは魏公、然る後に魏王の座に就き、曹氏による支配体制を固めていく。その一方、
漢中に拠る張魯を征伐し、また蜀に拠る劉備とも幾度か矛を交え、戦乱は已まない。

遂には樊城の戦いで、曹氏に抵抗する数少ない群雄である劉備の義兄弟、関羽を
討ち取ることに成功したが、寄る年波と病魔には勝てず、建安25(220)年、曹操は
魏王のまま薨去した。享年66。

このとき曹操の嫡長子であった曹丕は34歳、魏王の座を受け継ぐだけでは飽き足らず、
献帝に禅譲を迫り、自ら皇帝の座に即いた。以後、曹丕は高祖と名乗る。魏王朝の
創まりである。

曹操の薨去から曹丕の皇帝即位まで一連の出来事は、いずれも220年に起きており、
その元号は、建安25年、延康元年、黄初元年、と目まぐるしく変わっている。曹操という
一人の男が作り上げた乱世の中での危うくも絶妙な安定、それが建安年間と言えよう。


[3:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/06(Wed) 16:32)]
陳琳・オブ・ジョイトイ


[4:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/06(Wed) 16:43)]
「維基文庫」(中国語版のウィキソース)で検索してみるといい


[5:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/06(Wed) 20:22)]
官渡の戦いに臨み、袁紹側に立った陳琳が曹操を非難する内容の檄文。
ttp://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/chin_rin/geki.html


[6:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/06(Wed) 20:31)]
ああ言えば孔融


[7:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/07(Thu) 05:55)]
孔融は、唐の魏徴のようにはなれずに処刑されてしまったね。
曹操と李世民の器の違いか?


[8:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/07(Thu) 18:05)]
魏徴の忠誠の対象は唐王朝や太宗(李世民)だったが、
孔融の忠誠の対象は曹操ではなく漢王朝や献帝だった。

器や人格と言うよりも、この差の方が大きいと思うぞ。


[9:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/08(Fri) 12:28)]
孔融の「難曹公禁酒書」って、文学というより評論だよね?
建安文学に入れるには異色の存在だと思うんだけど・・・


[10:名無しさん@お腹いっぱい。 (2011/07/08(Fri) 22:08)]
儒教の世界では、文学と政治は切っても切り離せないから、
政治色や批評色が強くても文学として扱って全く問題ない。

むしろ、政治的なことを簡潔かつ明け透けに言うことが、
孔融の文学の真骨頂ではなかろうか?


掲示板に戻る 前 10 次 10 1 - 10 最新 10

NAME:
MAIL:

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)