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日本の歴史における「男色」について

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/12(Wed) 14:18)]
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。

これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。

「男色」って知ってましたか?。

男色って?・・


[130:名無しさん@お腹いっぱい。 (2014/07/18(Fri) 07:55)]
【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。


[131:名無しさん@お腹いっぱい。 (2014/07/18(Fri) 07:58)]
【郷中教育】

「胴上げで高く放り上げ、そのまま落とし絶息させる。
倒して数枚の畳を重ね、その上に多人数で乗り苦しめる。
木に釣るし手足を縛り、メッタ打ちにする・・」
(出典:薩摩見聞記)

薩摩の郷中ではこのような、教育という名の壮絶なイジメが日常でした。
理由は上級者や年長者への批判を封じ、絶対服従を強制すること
なんでしょうが・・・「議を言うな」の一言ですべてが正当化されていたみたいですね。


[132:名無しさん@お腹いっぱい。 (2014/07/18(Fri) 08:01)]
戊辰戦争で捕虜になった幕府軍の少年兵は、薩摩兵に
やられまくったとか。


[133:名無しさん@お腹いっぱい。 (2014/07/18(Fri) 08:04)]
「西南戦争」(明治10年)は、明治以降日本で最初で最後の内戦、これ以降日本は自由民権運動に移っていくきっかけとなった。

西南戦争は「征韓論」に敗れ下野した西郷が鹿児島に作った「若者宿」つまり「郷中」である「私学校]生徒の蜂起に端を発したもの。

西南戦争に「少年兵」が多く参戦したというのも、こうした背景による。

男色組織でもある「郷中」はその後、「舎」と呼ぶ「塾」で行われる。

鴎外の「イタセクスアリス」に出てくる、鹿児島の塾なんぞでは元旦には「少年の事を書いた写本」(「賤のおだまき」)を回し読むことが慣行になっているとあるが、
その「塾」である。

森鴎外の小説[イタセクスアリス」は、1909年(明治42年)に発表された。



[134:名無しさん@お腹いっぱい。 (2014/07/18(Fri) 09:35)]
鹿児島の小中学校で必ず先生がドヤ顔で披露する豆知識

・イギリスのボーイスカウト制度は、薩摩の郷中制度を真似して出来た
・醤油の英語ソイソースは、薩摩弁のソイ(しょうゆ)が起源

ちなみにすべてウソです


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[136:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/07/03(Mon) 14:35)]
1877年(明治10年)の西南戦争にも、少年兵も数多く参加していた。
その少年兵が田原坂で戦う様子を歌ったもので、ここに「美少年」というフレーズが登場する。「馬上ゆたかな美少年」という歌詞がある。
熊本では、島原の乱の天草四郎(1621−1638)も紅顔の美少年であった。
歴史・文化的な意味合いが込められているようだ。
西南戦争の後を残す田原坂公園には、資料館もある。そこの田原坂側の奥の入り口には、その馬にまたがる美少年のモニュメント像がある。
また、西南戦争の激戦地田原坂のある植木町には、美少年酒造が、美少年という日本酒を製造し、昭和時代には、よく熊本では呑まれていて、名が通っている。




郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。

(西郷隆盛は、「安政の大獄」で追われる身になった、恋仲の清水寺の月照を鹿児島に匿い、最後は鹿児島湾に2人で身を投げ心中した。西郷だけが助けられたようです。薩摩藩の立場上迷惑状態にも終止符が打たれた結末でした。)

つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといわれている。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたと記している。

「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。

なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる鶏姦が広まっていたという。


[137:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/07/03(Mon) 14:38)]
1872年(明治5年)〜1880年(明治13年)まで、鶏姦条例が施行された。
この8年間(処罰記録40件)は、日本で初めて同性愛行為の刑事罰の対象とされた唯一の時期である。しかし、陰での行為は当然自然に行われ続けていた。西洋フランスでは、鶏姦でも双方の同意があれば罰しないことに習い廃止となる。
西洋文化の受け入れ化と西南戦争などの内乱を防ぐ、結束を弛める政策のようでもあったようだ。
江戸までの同性愛に対し自然で寛容も明治から西洋化傾向となり、西洋は逆に同性愛に寛容化だ進んだようだ。欧米などでは法的同性婚も進んでいる現代がある。





日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた男色。
男色=同性愛と言うのが有ります。弘法大師を起源にする説もあります。
これを無視して武家社会=日本史・国文学などを正しく語ることはできません。

養子縁組は、同性同士の結婚も意味し、宮本武蔵は2度の養子縁組をしている。ヤクザの世界の兄弟の盃も同様なことのようである。
熊本では、酒席で目上の盃を、身分下がおこぼれ頂戴しますという成り立ちで、空けた盃を受け取り酒(ビールなども)をついで頂き、飲み干して盃をお返しし、酒をつぎ返すという習わしがあります。しかし、普通は肉体関係を結ぶ訳でもないはずです。しかし、親密行為にサインを送ってるとも云えると思います。本当に嫌であれば盃を交わさないはずですから・・・。信頼関係が一度で深まる間接口付けです・・・・。



[138:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/07/03(Mon) 14:43)]
福島(21歳)は、三島由紀夫の「仮面の告白」の実在すると思った興味の湧いたゲイバーの場所を聞くため三島邸を訪ねその日から、三島(26歳)に気に入られ2人で外出した。そして書生名目の愛人として、三島邸の出入りや玄関横の4.5畳部屋に宿泊もしていた。三島は、ちょうどゲイバーの若い悠一にフラれた直後の失恋状態であった。

徳川時代で有名なのは 徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。

堀田正盛は 少年時代に3代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り 「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に 毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で 丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。

下って 5代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は 小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし 12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で 直ぐに「お座直し」となる。「お座直し」になった美童の小姓は 夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために 帯も下帯も解かれる。今と同じで 体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも 勿論逆らうことはできない。そして菊門に 将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を 菊門深く受け止めて契り合うのである。

福島は体格がよく、いい男でと評されている。しかし、受けという三島に対し、複数の関係で勃起しない現状であった。三島は正常機能の欲望の処理がメインの関係であった。三島が最初に福島に指摘した通り、福島の性には大きな岩が乗っていたのである。

福島は教員の免許取得後、再度、東洋大学の今度は国文学科に入っていて、卒業論文(井原西鶴)だけ残し、全て単位がとれ、性の悩みや食べるために落ち延びるように、東北の山間部の学校(阿武隈山地の頂上近くにある鮫川村の農業高校の昼間の定時制)の一時的な臨時教師となり、残りの卒業論文にも取り組んでいる。滞在する下宿先は、鉱泉湯の湧く大きな宿屋であった。
そこには、父からも次に駆け落ちする母からも見捨てられた中学生の少年が、ご主人の好意で面倒みられていたのである。そこで福島は、25歳(大学6年生)になり初めて夢精から解放された。自慰の方法をその中学生に初めて教えられたのである。福島のものは小さくインポテンツ気味のようであったが、中学生を胡座(あぐら)の中に受け入れ、机に向かい頬同士をふれあい勉強をみている福島に初めての性的興奮からの股間の勃起が、相手に対しての反応変化があったのである。
その後、深夜、少年の部屋に性行為関係を結びに忍び込んでいる。大変な晩生の性の芽生え、小児愛やわずかな性的対称があることに気づいていった。

三島は、そんな福島との関係は、三島事件の4年前までは、音信・精神的にも接点的な間をおいた肉体的にも良好な関係であった。三島に対して福島は、勃起しないまでも三島を全身キスなどの嵐で性的に口や身体などで満足させるなどし、本人も三島との密会には抵抗はないようであった。三島は初めから受けタイプであろうと福島は暴露している。


[139:名無しさん@お腹いっぱい。 (2017/07/03(Mon) 14:48)]
(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」(河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926) 
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002


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