日本の歴史における「男色」について
[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/12(Wed) 14:18)]
日本の歴史には古く寺院に始まり、武家社会で謳歌され明治に引継がれた
男色=少年愛と言うのが有ります。
これを無視して武家社会=日本史を正しく語ることはできません。
「男色」って知ってましたか?。
男色って?・・
[2:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/12(Wed) 14:44)]
男色と言うのは、「元服」がすんだ一人前の男として認められた年上の男が、元服前のまだ男(成人)になり切らない男の子(美童)
を愛することです。
元服は15歳(数え。今でいえば満13歳何カ月か)ですから、
今でいう、せいぜい中学二年位までの少年が対象です。
昔は今よりずっと小さかったでしょうから、小学校六年生くらいか。
森鴎外の小説『イタセクスアリス』に明治時代の学生間の男色が描かれている。
[3:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/14(Fri) 11:10)]
明治時代は飛び級が認められていて、13歳くらいの生徒もたくさんいたという。
秀才だった鴎外は。13歳で(旧制)高校、大学の予備門に入った。
旧制高校は全寮制で男色(美童愛)が蔓延していた。
その寮で13歳の鴎外はひげもじゃの先輩生徒に追いかけられ、危うく襲われそうになる。
そしてナイフを所持して身を守っていたという。
寮には他にも13歳の子がいて、追いかけられたり強姦されたりしていた。
目上の友達が訪ねて来たりすると、庭で遊んでいるそんな可愛い生徒〈稚児)を、無理無体に捕まえて
きて献上したという。
[4:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 21:42)]
昭和東北大凶作
昭和9年頃、岩手県の小学5年生のある女子生徒が書いた作文。
お弁当のとき先生は私たちのお弁当をまわって見られました。私たちははずかしいのでかくしました。すると先生は稗(ひえ)のごはんでも食べられるうちはいいのです。お米がさっぱりとれないから、と申されました。お米がとれないから稗は私たちのいちばんの食物だと思います。でも今では、弁当を見られてもはずかしくなくなりました。(中略)二三日前、お父さんは、なんぼお米がとれなくても、お前たちには食べさすから、いつものように勉強するんだぞと、ご飯のときに話されました。
これは、東北・北海道を襲った昭和6年から昭和9年頃までの大凶作の真っ只中に書かれたものらしいです。現代の同年代の女子児童からは到底聞けないであろう尊敬語で綴られたこの作文からは、一体どのような光景が見えてくるでしょうか。現代の児童たちの給食風景から、上の作文のような光景の一筋でも垣間見ることはできるでしょうか。
現代では給食費滞納という贅沢な問題すら抱えている学校給食ですが、この「学校給食」というのは戦後の昭和29年に「学校給食法」によって制度化されたものらしいです。更に学校給食について遡ると、その起源は、家が貧しくて学校に弁当を持って来れない「欠食児童」と呼ばれる可哀想な子供たちに与えられていたもので、つまり学校給食を受けているという事実が直接自分の家庭が極貧であるということを意味する屈辱も同然であったといわれています。それを考えると、上で紹介した作文を書いた少女は本当にまだ救われていたほうだったのかもしれませんね。
紹介が遅くなってしまいましたが、上の女子生徒の作文と学校給食については、山下文男さんの著書「昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)から転載・参考にさせていただいたものです。何気なく手にとって購入した書籍だったのですが、予想を遥かに上回る良書だったのでご紹介したいと思い記事を書かせていただきました。東北にはそれ以前にも有名な、天明・天保の二度に渡る大飢饉が襲い、それは地獄絵図であったとか、餓鬼道に堕ちたなどとそれはもう現代では想像し得ないほど見るも無惨な光景であったと言われています。しかし、著者である山下氏は、それらの飢饉よりも自らが直に体験した昭和の大凶作に焦点を合わせ、克明にその生活の姿を書き記しています。また著者は、その大凶作の貧困な生活の中でも、サブタイトルにもある「身売り」と「欠食児童」について特に鮮明に書き記しています。フィクションのようで一切が事実であるこの衝撃が、私たちが飽食大国日本の最中を生きているということをまざまざと証明してくれているように感じられました。
ttp://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-194.html
[5:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/20(Thu) 14:46)]
「学校給食」と言うのは戦後、学校に弁当を持ってこられない欠食児童が社会問題で、このためつくられたもの。
[6:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/10/23(Tue) 22:17)]
広辞苑読んでたら腕引きっていう衆道の契りとして自分の腕を刀で傷つけ
流れ出た互いの血を啜り合うっていう風習が載ってた
なんかすごく生々しいな
[7:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/10/30(Tue) 12:55)]
武家社会は、主従関係にある元服を前後してその前の若衆(わかしゅ)と元服を過ぎた念者との男色(少年愛=美童愛)、つまり衆道の契り、義兄弟の契り(=男色の契り)によって成り立っていた。
殿様の刀を捧げる小姓もまさにそのもので、昔は必ず12,3〜4の声変り前の御容姿端麗な美童であったが、最近のテレビや映画にはでてこない。
NHK大河ドラマでもよく、「義兄弟の契り」と言うのが有るが、むくつけき武士たち髭ずらのがたくさん集まって何か今の結婚式の宴会のようなことをやっている。「義兄弟の契り」とは男色の契り、つまり寝静まった頃二人だけの寝所のなかでの、抱き合い肛交に至る男色の契り、「賤(しず)のおだまき」の世界。
[8:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/11/01(Thu) 09:21)]
武家社会の男色(少年愛)は、明治以降も全寮制の陸軍幼年学校(3年制、1年生は13〜15歳))の寮などで70年の伝統として
受け継がれていた。新入生と上級生との「賤(しず)のおだまき」の世界そのままに、「義兄弟の契り」が行なわれていた。
[9:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/11/07(Wed) 17:17)]
賤のおだまき
近代デジタリライブラリ-
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881185
[10:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/12/04(Tue) 12:51)]
軍隊特に陸軍幼年学校(全寮制)や、志願制で少年志願兵が多かった海軍では男色=少年愛が盛んだったようだ。
海軍は16歳で志願できた、また14歳の特年兵が沢山にた。
陸海軍で終戦までに42万人の少年志願兵がいた。
海兵団などで上官などから、このような男色の餌食されて手籠にされたり、綺麗な無垢な少年の細い体が弄ばれたことだろう。
read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)