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日本における飢饉の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/09/14(Fri) 19:28
日本の歴史は飢饉の歴史、日本人が食料を満促に食べれるようになったのは、つい40年前。
コメが余るようになったのは、戦後も20年以上過ぎた昭和46年でした。
それは農家と農業関係者のたゆまぬ努力の賜です。

「飽食の時代」と言われて久しくなった今、またTPPなどと言うのが騒がしくなった今、
日本における食料の歴史、飢饉の歴史をふりかえってみましょう。


44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/16(Fri) 11:17
日本における貧困と人身売買の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50

45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 14:49
>>42-43
(参考)

仙台市に司令部を置いた旧陸軍第2師団所属部隊の「陣中日誌」の解読が、在仙の歴史研究者らによって終了した。「みやぎの近現代史を考える会」が、14年かけて取り組んだ。部隊が参戦した満州事変(1931年9月18日)の戦闘状況や、兵営の生活が記されている。旧陸軍は敗戦時に記録の処分を指示し、公的記録が残っているのは珍しい。軍の実情を知る上で貴重な資料になる。

 解読されたのは、第2師団野砲兵第2連隊第1大隊本部(約360人)の日誌。第2師団は満州事変当時、約5000人が駐屯し、主力として最前線に投入された。事変直後の9月21日から翌32年末までの日誌が残されている。

 作戦命令や関東軍司令官の訓示、兵営での慰霊祭を克明に記録。中国・奉天(現在の遼寧省瀋陽)から遠く離れた満州北部での作戦では「敵の銃声熾烈(しれつ)」「両翼を包囲され死傷者続出」と生々しく記されている。

 厳寒による凍傷患者は、事変全体を通じ約1800人に上ったとされる。日誌は将来への参考意見として「防寒具の整備、給養の良否、兵卒の休眠状況に配慮することが必要。今回の戦闘では、全てがこれらの条件に合致しなかった」と指摘していた。

 このほか、少ない食糧や弾薬補給、靴の破損など粗末な兵站(へいたん)が浮き彫りになった。衛生面も貧弱で、コレラに似た症状で多数の死者が出たり、列車内に救護所を開設したりした。

 考える会の一戸富士雄会長(85)は「戦況を楽観視して防寒服の備えを考えず、(日本がロシア革命に軍事干渉した)シベリア出兵の教訓を学んでいない。装備の近代化の遅れも甚だしい。戦闘史にとどまらず、日本軍の発想と体質がうかがわれる資料だ」と話す。

 日誌は、復員業務に当たった旧陸軍関係者の遺族が1999年に仙台市歴史民俗資料館に寄贈した。資料館と共同で同会が解読に当たった。2011〜16年の資料館の年次調査報告書に分けて掲載された。連絡先は資料館022(295)3956。

[満州事変と第2師団]1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。「中国軍の謀略」と主張して軍事行動を開始し、事変が勃発した。中国東北地方を占領、1932年3月に満州国として独立させた。宮城、福島、新潟3県を徴兵管区とした第2師団は事変当時、満州に駐屯し、奉天やチチハルなどに出兵した。

h ttp://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160731_13024.html


46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 15:12
昭和六年九月十八日の夜、奉天郊外で日本が経営する南満州鉄道会社、満鉄の線路が爆破されたのです。
現場は奉天駅から北へ約七`の柳条湖で、「張作霖の後を継いだ息子の張学良の軍隊の犯行で、日本の鉄道守備隊との間で戦闘になった」。
これが陸軍当局の発表でした。この柳条湖は、戦後も長いこと「柳条溝事件」と溝と云う字が使われてきましたが、これは陸軍省が発表の際に間違えてしまったためで、正しくは湖と書いた柳条湖です。この発表では「暴戻なる支那軍隊」と云う言葉が使われました。乱暴で非道なという意味ですが、それからの新聞には連日、まるで枕言葉のように「暴戻支那」の大見出しが躍り、「暴支膺懲」、「乱暴な支那を懲らしめよ」。こう云った国民の声に押され、関東軍はそれこそ電光石火、三か月半後には全満州を占領してしまったのです。
日本本土の三倍半に当たる面積です。
 
 軍部も国民も、この大成功に酔いました。何しろ昭和大恐慌の真っ只中です。空前の不景気で、町には失業者が溢れ、大学を出ても就職口がありません。農村は米価暴落で欠食児童、学校へお弁当を持っていけない子供や、娘の身売りが激増していました。八方塞がりで全く先が見えず、国中が暗澹とした気分になっているところへ、この満州事変の赫々たる戦果です。満州事変で先陣を切って活躍したのが第二師団でした。郷土師団が凱旋した時、仙台市民は総出で手に手に日の丸の旗を持って出迎えたと云われますが、敗戦後もなお「凱旋道路」として、かつての栄光の象徴である多門師団長の名前が残っていたのです。
 
 

47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 17:17
現代は飽食の時代と言われている。ファミリーレストランやファーストフード店などに行くと、より取り見取りの食べ物がところ狭しと並び、注文しさえすれば、どんなものでもすぐに食べることが出来る便利な時代である。

 しかし、客の中には、半分も食べないで席を立つ者もいるし、中には、注文しながら、ほとんど手もつけずに食べ残して去る者さえいる。彼らの頭の中では、食べ物のありがたさに感謝する気持ちなど微塵もないように思える。


 しかし、ほんの百年かそこら前には、一片の食べ物もなかったばかりに多くの人間が死んでいかねばならない悲しくて長い過去があったのである。江戸時代の日本は、そうした犠牲者を数多く出した経験を何度もしているのである。大飢饉は江戸時代だけでも6回もあり、そのうち亨保、天明、天保と呼ばれるものは江戸の三大飢饉とまで呼ばれ、全国的な規模で各地に甚大な被害を持たらしたとされている。

 とりわけ、東北地方の被害は最も深刻で、冷害が続くと、間違いなく凶作となりたちまち飢饉になった。今でこそ米の品種改良などで一大収穫地となっているが、東北地方は、その頃は決定的に食えない地域であったのだ。
 大飢饉の状況下では、人間の心理というものはいかに変化するのであろうか? ある記録では、飢えゆえに餓鬼に成り果てた身の毛のよだつ地獄の世界がこの地上に現出したと述べているものもある。

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:34
寛永の大飢饉(1642〜50)では、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。その他、身売りもさかんに行われ、当時の人質証文と言われる書類が数多く残されている。しかし、その内容は農民にとってはむごいものであった。

 ある身売りしたケースは、14才の女の子を担保代わりに金子3分を受け取るというものであったが、利息は大変な高利であり、貧しい百姓にとっては不可能な数字であった。つまり、払えない場合は、我が子は永久に買い取られることになっていた。買い取られた女の子は、女中として永久に奉公せねばならず、後には遊女として売られる悲惨な運命が待ち構えていたのだ。もし女の子が逃げたりすると、返済額は2倍になることもあり、死んだ場合は債務者が責任をとって代わりの女の子を進上せねばならなかった。

 ある村では、4年間に60人が、127両で売られたこともあった。中には親子4人が8両足らずで身売りされたケースも残されている。これらの身売りは、凶作によって年貢が納められず、追い詰められた農民が切羽詰まって売買したものであった。このように、この時代は人身売買が飢餓から逃れるための手段として公然とまかり通っていた時代でもあったのだ。
 この頃の京都の様子を伝えた「福斉物語」によると、朝夕の煙は絶え、人々はさまよう餓鬼のようで、路頭には野垂れ死にした屍骸の山がうず高く積み重なり、軒下には、赤子が捨てられ、幼児は路上に放たれてその多くは飢え死にして、犬にむさぼり食われる運命であったと記されている。

49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:42
天明の大飢饉(1781〜89)は、有史以来の大量死を記録した悲惨な飢饉である。長期間にわたって全国で天候の不順や天変地異が続いた天明間は、天変地妖の時代とも言われ、人々の間ではこの世の終わりかと騒ぎ立てるほどだった。特に東北地方では、やませ(冷たい風)による冷害で壊滅的被害を受けおびただしい餓死者を出した。天明3年(1783年)には浅間山が大爆発を起こし、火砕流によって、ふもとにあった村を焼き尽くし多くの人々が犠牲になった。3か月間続いた噴火は大量の火山弾や火山灰を吹き上げ、東北地方の冷害に追い討ちをかけ大凶作に拍車をかけたのである。




 江戸でも大風のため大火災が続発し、特に丙午(ひのえうま)であった天明6年(1786年)には、3月には箱根山が噴火し地震が相次いだ。




 4月になると長雨と冷気によって稲作に悪影響を及ぼした。7月には大洪水が起こり家々を押し流し、あたり一面海のように変わり果てた。水害は、江戸だけでなく関八州に及ぶほどの広範で、あらゆる河川が氾濫したとある。

 この現象は全国的規模で起こり、各地の田作に大被害を与えたのであった。この年だけでの日本国中の米の収穫は、例年の3/1以下と言われ、米価が15倍にまで跳ね上がった。


 この飢饉の様子を記録した「後見草」(のちみぐさ)によると、津軽地方が特にひどく、日々に2千人前後の流民が発生し、他領に逃散していったが、そこでも一飯もない状態ですべて餓死に追い込まれた。ここでは、先に死んだ人間の屍体から肉を切り取って食べる者もあらわれ、人肉を犬の肉と称して売る者もいたという。





 おまけに、疫病がまん延して、田畑は荒れ果て原野のようになり、そこら中、腐乱した白骨死体が道ばたに積み上げられる惨状であった。

 この有り様を中世で限り無く続いた戦での死者と言えども、このたびの飢饉の餓死者に比べたら大海の一滴に過ぎないと評しているほどだ。



 ある説では200万以上の人間が、この飢饉によって餓死したとも述べられており、戦乱や他の自然災害を含めても、有史以来の未曾有の大量死であったと考えられている。


道ばたに散らばる腐乱死体


 「天明卯辰簗」(てんめいうたてやな)という飢饉の様子を記録した書は、飢餓下における人間の身の毛もよだつ恐ろしい話を残している。

・・・この頃になると、人を殺して食うことも珍しくなくなった。村人の一人が墓を掘り起こして人肉を食べたのがきっかけで、ついには人肉を得るための殺人があちこちで起こっているのだ。ある一家が、人を殺して食べたという罪で処刑されたが、この家を捜索してみると恐怖の真実が明らかとなった。大量の骸骨が散らばり、桶には塩づけにした人肉が山盛り保存されていたのである。人肉は焼き肉や干物にもされていた。首だけでも38個も見つかったのだ・・・このような話が実話であると言うこと自体信じられないことだが、現世における餓鬼道の現出以外の何物でもないことは確かだ。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図を見るようで背筋が凍りつく思いである。

50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:48
天保の飢饉(てんぽうのだいききん1832〜39)は、連年の凶作の結果、全国にその影響が及ぶほど凄まじいものであった。しかも、飢饉は7年間の長きに渡って延々と続いたのであった。鶏犬猫鼠の類まで、すべて食べ尽くし後には人を食っているという噂が広がっていった。人々の心は荒廃を極め、盗人は見つけられ次第、かます(むしろの袋)に入れられて川に沈めて殺された。



 この飢饉では、疫病も猛威をふるいおびただしい死者を出した。青腫(あおばれ)と言われる栄養失調の状態では、疫病が襲うとひとたまりもなく、例えば、秋田藩では、傷寒(発熱性の腸チフス)が流行り達者な者までかかり、多くの人々が病死した。




 しかもピークが田植え時と重なったことから、田畑は耕作されないままに荒れ放題になっていった。



 この頃、津軽では、食べるものがなく松の皮ばかりを食べ、一家心中や集団自殺といった悲劇が相次いだ。さらに、留まって餓死するよりはと、数万人の農民が乞食、非人化して山越えして逃げ出したとある。


人々の行き倒れを描いた絵



「奥の細道」の作者松尾芭蕉は、東北地方のある村で飢饉による恐ろしい光景を目の当たりにしている。


 ・・・事態は悪化の一途を辿り、冬になり朝晩の気温が低下すると、着の身着のまま路上で次々と死に始めた。そのほとんどが、栄養失調と疲労による凍死だった。夜が明けてみると、路上で生活している何人かが死んでいるのである。行き倒れとなった死体には、たちまち、鳥が舞い降りてきてついばみ始めた。


 ひっそりと静まり返った空き家をのぞいて見ると、そこには、とうに飢え死にしてミイラ状になった家族が抱きあったまま、あるいは壁にもたれたままの姿勢で横たわっているのであった。空腹に堪えきれず、路上でみさかいなく物乞いしていたお年寄りは、一夜明けると、物乞いする姿勢のまま息を引き取っていた。



 腹を減らしてどう猛になった野犬は、腐りかけた死体の手足を食いちぎり、市中を食わえたまま走り回った。通りは死体と食いちぎられた手足が散乱し背筋も凍るような光景が広がっていた。親を失って泣き叫びながら町中をさまよう幼児は、たちまち野犬に襲われて食い殺された。



 死体は、 最初、空き地に穴を掘って埋めたり、川に流したりしていたが、一日に何百人も死ぬようになってから、とても追いつかず、大きな穴を掘ってどんどん投げ込まれるようになった。川に流された死体は、水底で渦高く層をなして川をせき止めた。そのために、大雨が降るとたちまち土手が浸水して、そこら中、汚水で溢れかえることになった。村は、半分水没し、半分屍螻化した死体が、民家の軒下にまで流れ込んでくることもあった。





 荒れ放題の田畑や朽ち果てた空き家などに、累々と散らばる白骨死体の山を見るとき、そこには、現実世界の無常観しか見えてこない。

 この時、深刻な事態であるはずの秋田藩や八戸藩(はちのへはん)などが、どれほど窮民救済に本気で取り組んでいたのかは極めて疑わしい。


 八戸藩などは、1万8千両もの金をもって越後に米を買い付けに行ったが、その帰りに米の相場が高いと知ると、その一部を売却して藩の財政を肥やすことのみ熱心であったのである。

 「人の命は地球より重い」という言葉があるが、「人の命はチリよりも軽い」というのが悲しい真実のようである。




荒野に散らばる餓死した遺体の群れ

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/18(Sun) 19:52

* 悲惨な過去を知ること *


 このような凄惨な飢餓地獄は、ほぼ50年ほどの周期で繰り返し起きて来たのである。農業技術が進歩した江戸後期になって、飢饉による犠牲者がこれほど増加した理由として、中世は、下層農民は、すべて大農経営に組み込まれていたために、何とか飢えを凌いでいたのに対して、小農が個別に自立した江戸時代では、飢饉ともなると、抵抗力の弱さをさらけ出してしまい被害がここまで苛烈になってしまったと考えられている。

 江戸時代が終わって、明治、昭和の時代になっても東北地方を中心に凶作が繰り返され、そのたびに飢饉は起き、人々に計り知れない不幸をもたらすのである。

 昭和9年の大冷害を発端とする凶作では、東北地方を中心に6万人以上の女性が身売りや出稼ぎに出なければならなかった。この年、3月に起きた函館の大火は、昭和に入って記録した大火災であり、5千人以上が死傷し、焼失した世帯2万2千という大惨事だった。この時、遊女として身を売って東京に来ていた25才のあさ子という女性は、この大火災で弟、妹の4人が焼け死んだと知るや、生きる望みを失って自殺したという。これも飢饉ゆえの隠された痛ましい悲劇の一こまに違いない。


 今日、我々は物が豊富にある中で生活をしている。しかし、いくら技術的物理的に進歩しようが、過去の人々の体験した苦労や悲惨な経験を踏まえなければ、今後の生きていく指標など見えてこない。飢饉のために、間引かれ、あるいは、野山に捨てられたり親に殺されたりした多くの幼児の霊は、今も常闇の空間をさまよっているに違いないのである。


 現実世界に生きる我々は、過去の人間の痛みや切実なる心を知ろうとする努力が必要である。その時こそ、自ずから謙虚さや物を大切にする気持ち、さらには、いたわりの精神の真の意味が理解されて来るのではないだろうか?

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/30(Fri) 00:29
昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生(満13〜14歳)がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。



因みに、今では考えられぬことだが、昔は人の人生はわずか12歳で決まってしまった。

「教育の機会均等」が保証が曲がりなりにも保証されるのは新憲法下の、昭和24年の「学制改革」を待たねばならなかった。

昔はどんなに優秀でも、勉強したくても貧しさゆえに「奉公」に出されたりした。

大学につながる中学校に行かせてもらえるものはごくごく一部の恵まれた家庭の子弟に過ぎなかったのだ。

昔、日本は農業国だった。

そして「小作制度」というのがあって、「農地改革」まで農地をかりる小作は地主の農地を耕すのだが、
多くは貧しく、農家なのに学校に弁当も持っていけない貧農の子はたくさんいたことだろう。

坪井栄の【二十四の瞳】には、小学校卒業を待たずに「奉公」に出される子供たちが描かれている。

高等小学校(二年制)に進むのがせいぜいだったことだろう。



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/30(Fri) 00:51
「日本災異志」によると、567年から1869年まで大小合わせて225回も飢饉が発生し、内江戸時代だけで35回に達したといます。

この中でよく知られている飢饉は

・養和の大飢饉 1181年に京を含めて西日本一帯を天災(日照り、大風、洪水など)が襲う。数万人の死者を出したという。


・寛正の大飢饉 1461年に発生した中世最大の飢饉

前年(1460年)の長雨、異常低温、台風により、近畿、山陰、北陸地方が大飢饉となる。餓死者は8万人を超えたという。


・寛永の大飢饉 1642〜43年にかけて起った飢饉

1636年に九州で発生した牛疫病から始まる。西日本での日照り、北陸、東北、関東の長雨や冷害などの異常気象による全国規模の凶作、虫害や洪水の被害も多かった。餓死者は全国で5〜10万人といわれる。


・享保の大飢饉 1732年に西日本一帯を襲った飢饉。天候不順とセジロウウンカ、トビイロウンカが大量発生したことによる蝗害(こうがい)が原因

「日本災異志」では餓死者は12172人(過少報告の疑い大)、「徳川実記」では96万9900人とある。


・天明の大飢饉 1782〜87年 全国規模に起った飢饉。特に東北地方の被害甚大。原因は1783年7月の浅間山大噴火、1782年に各地で大雨による洪水、関東地方の大地震、1787年まで続いた天候不順。

死者数は100万人余(浅間山の大噴火、洪水被害、病死者数を含む)


・天保の大飢饉 1832〜39年に起った飢饉。連年の日照りや大雨などの天候不順、冷害(各地で冷夏が繰り返される)が原因。

推定死者数20〜30万人で、東北地方だけで10万人余。1日に7〜8人が餓えのため倒れたという記録がある。ただ餓死より疫病死の方が多かったという。


飽くまで日本の記録に残っている飢饉のデータです。

養和の飢饉 1181年 関西地方 正確な数値は不明。京都市中での死者は42,300人(方丈記)
寛喜の飢饉 1230年〜1231年 国内全体 正確な数値不明
長禄・寛正の飢饉 1459年〜1461年 国内全体 1461年の京都の死者は82,000人 正確な数値不明。

江戸時代
寛永の大飢饉 1640年〜1643年 国内全体 死者不明
享保の大飢饉 1732年 西日本一帯 餓死者12,000人(徳川実紀によれば969,900人)
天明の大飢饉 1782年〜1788年 後見草曰く20000人ほどだが、実態は200,000人ほど
天保の大飢饉 1833年〜1839年 日本全国 死者不明

昭和
昭和東北大飢饉 1930年〜1934年 東北地方 死者不明。 満洲事変などの原因とされる。



54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/04(Sat) 22:02
日本の歴史は飢饉の歴史ともいえる。昭和に入っても飢饉はあった。
東北の大凶作による飢饉と社会不安、それは太平洋戦争に到る遠因ともいわれる。
日本は農業国家でまだ草深い、まだ貧しい時代だった。

226事件で決起した青年将校、すなわち士官学校卒の隊付将校が、自らの隊に抱えていた兵卒の部下たちは、その多くが農村出身者である。
昭和初期の不況によって、当時の農村部は壊滅的な貧困に陥っており、小作農家の多くは、子どもの都市部への出稼ぎや身売りによって、辛うじて小作料を埋め合わせている状況だった。
とりわけ、大凶作に見舞われていた東北の農村では、村役場が、公然と身売りの仲介を担い、多くの女性が、都市部の遊郭に売られていった。
小作農家の悲劇的な惨状とは裏腹に、こうした農村部からの労働力搾取、そして人身売買における中間搾取によって、国や財閥は大きな利益を得ていた。

実家の姉妹が売られたことを苦に、初年兵が消灯後に、隠し持っていた実包を銃に込め自殺する。
あるいは、演習中に銃を持って脱走し、身売りされた姉妹のいる遊郭に駆けつけて、心中を図る。
農村出身兵士のこうした痛ましいエピソードは、当時決して珍しいことではなかった。
部下たちの苦悶する姿を、目の当たりにしていた青年将校らは、貧困にあえぐ民衆から容赦なく搾取し、富を占有する財閥支配や、財界に癒着し党利党略に明け暮れる政党政治の腐敗、
そして、農村部の疲弊を傍目に、侵略戦争によって強引に不況を解消しようと画策する軍上層部に対し、不信感と危機感を強めていた。


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/16(Mon) 17:06
昭和大飢饉(大凶作)について
おしんみました。東北で飢饉が起こり、身売りでおしんの元に養女となる初子がやってくる場面など窮乏さががよくわかり、満州事変からはじまる太平洋戦争開戦、敗戦の流れがだいたいわかりました。石原莞爾は山形県出身と、誰がどう考えても飢える故郷のために軍人が立ち上がったと言ってはいけないのかもしれないけど立ち上がったのを見ると、現在では考えられない、上の方のほうが今以上に「責任」があった時代だったんだなと感じました。


戦争に関するテレビや映像、本はたくさん出回っていますが満州事変〜太平洋戦争のはじまりとも言える自然災害の東北での不作の飢饉は戦争を語る上で現代あまり有名ではないように感じます。いかがでしょうか?

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/03(Wed) 22:55
日本における飢饉の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=347618517&ls=50

57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/10/05(Mon) 08:20
〔雨ニモマケズ〕
宮澤賢治



雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治の有名な詩、宮沢賢治は昭和8年に亡くなったが、これは死後、手帳の中から発見された。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ・・



は通名だが、この詩は昭和6年の冷害を叙述したもの。
最後の方に、サムサノナツハオロオロアルキとある。



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