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日本における貧困と人身売買の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 11:24
日本は未だ、世界の「人身売買」の規制対象国となっています。

「山椒大夫」の話、「安寿と逗子王」の話は説話ですが人身売買の話です。

日本にも古くから人身売買がありました。少女や少年などが売られ、庄園の労働力や売春、男色〈男の子)や外国への人身売買などです。

こうした背景には、貧困が有ります。

今では想像すらできない貧困国だった日本、現在のような豊かな?国になるのは、人々のたゆまぬ努力の賜だったことでしょう。
その歴史を振り返ってみましょう。

2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 11:27
山椒大夫(安寿と厨子王)

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昔々のお話です。旅装束(たびしょうぞく)の親子連れが、田舎道を疲れきった足どりで歩いていました。
親子が目ざしているのは筑紫の国(今の福岡県)で、夫であり、子どもの父親である平正氏(たいらのまさうじ)がそこに左遷されていました。かつては、岩代(いわしろ)の国(東北地方)の判官(ほうがん)の位にありましたが、十二年前、誣告(ぶこく)により、筑紫に左遷されたのです。妻は、消息の絶った夫の安否を気遣い(きづかい)、十四歳になる娘安寿と十二歳の息子厨子王を連れて筑紫に旅立つ決心をしたのです。筑紫は、はるか彼方にあり、旅の前途にある苦難を懸念しておりました。
あたりは暗く、冷たい秋風が吹いていました。母はその夜一夜が過ごせる場所を探していました。しかし、土地の掟により一夜の宿を与えてくれる者はいませんでした。その夜は橋の下で寝よう、と子どもたちに言いました。
橋の下で休んでいると、老人が近づいて来ました。老人は、やさしく言いました。
「こんな所で寝ていると、お子達が風邪を引きますよ。どうですか、今夜は私の家に来ませんか。」
老人は三人を家に連れて行くと、子どもたちがぐっすり寝ている傍ら、母の身の上話に耳を傾けました。
「九州に行くのなら、舟の方が、陸路より安全で早いですよ。都合のいいことに明朝そこにいく舟がありますから、手配してあげましょう。」と老人が勧めました。
翌朝、海辺に行くと、二艘の舟が杭(くい)に繋(つな)がれていました。その脇に船頭がそれぞれ待っていました。
「奥方はこの舟にお乗り下さい。お子達はあちらの舟に。」と一人が言いました。
二艘の舟は、最初は並んで進んでいましたが、徐々に違う方向に進み始めました。
「どういうわけで二艘の舟は離れていくのですか。」母は、気が動転するばかりに驚き、船頭にきつく尋ねました。
「あの年寄りからお前さんを買ったのさ。」とにやにやしながら船頭が言いました。
「安寿やー!厨子王やー!」
母親は半狂乱になって、声を限りに子どもの名前を叫びました。
「母上ー!母上ー!」二人も声を張り上げ、必死に手を振りましたが、母親の乗った船は、はるか彼方に離れ、やがて見えなくなってしまいました。


3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 11:28
二人の子どもは丹後の国の山椒大夫という男に売り渡されました。大夫のところには大勢の奴婢(ぬひ)が働いていました。
太夫は、姉と弟の顔をじっと見て、言いました。
「ふーむ...お前ら二人は、大人と同じ仕事量をこなすには、まだ幼くて、体が華奢(きゃしゃ)だな。よーし...女は海で潮汲み、男は山で柴刈りだ。しっかり働けよ!」
以来、二人は命ぜられた通り、朝早く起き、一日中休むことなく働かなければなりませんでした。
「厨子王、怪我をせぬよう注意するのですよ。」
「姉上もお体をおいといください。」
二人は、毎朝、それぞれの仕事場に向かう時、お互いのことをいたわりました。そして、夜は両親のことを話して辛い一日を終えるのでした。
ある晩のこと、二人は小声で話していました。
「母上は佐渡島のどこかに売られたようで、そこで暮らしているそうです。そのうちにここから逃(の)がれ、母上を探しに行きましょう。」姉が言いました。
「ぜひともそうしましょう!」弟が答えました。
生憎(あいにく)なことに山椒大夫の三男、三郎(さぶろう)が小屋の近くを通りかかり、二人の会話を聞いてしまいました。荒々しく戸を開けると、
「お前たちは逃げる算段をしていたな!痛い目に逢わせてくれる。」と言うと、手に持った棒で、二人の体と言わず、顔と言わず、所かまわず打ち据(す)えました。二人は崩れるようにどっと倒れると、激しい痛みに意識を失ってしまいました。
無情な男が立ち去り、しばらくすると二人は意識を取り戻しました。
安寿は懐(ふところ)から小さな地蔵尊を取り出し、両手をお守りの地蔵尊の上に置きました。厨子王も同じようにしました。
驚いたことに、二人のひどい傷と痛みはあっという間に消えていました。


4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 11:43
その昔、悪者の陰謀で離ればなれになった父を訪ねて、遠く越後にたどり着いた母と
安寿姫と厨子王丸がありました。
 母子三人は人買いにだまされ母のみが佐渡へと売られてしまい、母は朝から晩まで働かされ、
とうとう目が見えなくなってしまいました。
 人買いから逃れ、母を助けようと安寿姫と厨子王丸は二手に分かれ母を探しました。
安寿姫は年老いた母を見つけかけよりましたが、いたずらと勘違いした母は鳥を追う棒で安寿姫を
殴りつけてしまいました。まもなく安寿姫はその傷がもとで息を引き取り、後に実の娘と知った母は
その場に泣き崩れてしまいました。
 せめて厨子王丸に逢いたいと願い、母は相川へと向かい、ようやく厨子王丸に逢うことが
できました。二人は「逢えて良かった」「達者で良かった」と喜び合い、近くに湧き出る清水で
母の目を洗ってあげたところ目が見えるようになったと伝えられています。
 厨子王丸と母が出会った場所が今も「達者」と呼ばれ、現在も地名として残っているのです。

5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 12:49
ある春の日、姉は弟と一緒に山で働けるように必死に哀願しました。やっと許可が出たその日、姉は初めて弟と山に出かけました。でも柴刈りをするつもりはありません。代わりに、弟をひそかに山の頂上に連れて行き、道を指さし、こう言いました。
「あの道を真っ直ぐ行けば都です。そこにいけば両親の手がかりが見つかるかも知れません。」
姉は、弟の首のまわりに地蔵尊を掛けてやりました。
厨子王はありったけの力で走りました。そして日が暮れる前に大きなお寺にたどり着きました。
「山椒大夫の所から逃げてきました。どうかかくまって下さい。」厨子王は手を合わせて住職にそう頼みました。住職は力強く頷(うなづ)きました。
その晩、三郎とその手の者がお寺に押しかけて来ました。
「ここに逃げ込んだ子どもを直(ただ)ちにつれて来い!さもないと寺に火を付けるぞ!」と追っ手は声を荒げました。
「一体何を怒鳴っているのかな。そのような子どもは見たこともないわい。」住職は穏やかに答えました。
「確か、夕方、南の方に走って行く子どもを見ましたよ。その子が探している子どもに相違ありません。そんなに遠くには行っていないと思います。」と別の僧侶が言いました。
追っ手はそろって南の方に駆けていきました。
住職は、厨子王に剃髪式(ていはつしき)を行い、黒い袈裟を着せ、僧侶に仕立てあげました。おかげで若い修行僧として都に入ることが出来ました。まず清水寺へ行き、両親の消息がえられるように祈り、その晩はこの寺で一夜を過ごしました。
翌朝、誰かの呼ぶ声で目が覚めました。高貴な身なりをした人が目の前に立っていました。
「私は、天皇に仕える関白師実(もろざね)と言う者です。病気の娘の平癒(へいゆ)を祈ってここに籠(こ)もっています。昨夜仏さまが夢枕に立ってこう言われたのです。『若い僧が小さい地蔵尊を持っている。その地蔵に拝めば、その方(ほう)の娘の病気が治るであろう。』と。あなたがその僧に違いありません。お願いです、どうか地蔵尊をお貸し下さい。」
若い僧はこころよく師実に地蔵尊を手渡しました。なるほど、娘が地蔵尊に祈ると、みるみる内に回復していきました。師実は喜び、若い僧に心より礼を言いました。
「お望みのものをあなたにあげたいと思います。何がお望みか是非お話し下さい。」
「私は、父のことを案じております。私の望みはただひとつ、どこに父がいるか知りたいのです。」
師実はさっそく調べにかかり、厨子王の父、正氏は無実の罪で筑紫の国に送られたことが判明しました。しかし残念ながら、既に他界しており、厨子王はその知らせに深く悲しみました。
「これからは、私を父と思いなさい。あなたの身の立つようにして差し上げましょう。」師実は言いました。


6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 12:50
数年後、厨子王は正道(まさみち)と改名し、丹後の領主となりました。その任に着くやいなや、山椒大夫とその郎党を捕らえ、奴婢となっていたものたちの身を自由にしてやりました。残念ながら、その中に姉の姿はありませんでした。あの晩追っ手の連中が山の麓の沼の近くに一足の草履を見つけた、という話を聞きました。
正道は、母を捜しに佐渡島に渡りました。家臣に母を捜させましたが、吉報は得られませんでした。それとなく一人で探してみようと畑の細道を歩いていた時、聞き覚えのある歌声が聞こえてきました。襤褸(ぼろ)をまとった盲目の老婆が、むしろの前にすわり、竹棒を持って、粟(あわ)を啄(ついば)みにくる雀を追い払っていました。その声はかすかで、最初は何を言っているのかわかりませんでしたが、少しずつ聞き取れるようになりました。


♪安寿こいしや ほーやれほー  厨子王こいしや ほーやれほー♪


正道は老婆をじっと見つめると、駆け寄りました。
「母上!」そう叫ぶと、老婆の胸に飛び込みました。
正道は、お守りの地蔵尊で老婆の額をなでました。老婆はゆっくりと目を開け、そして大きく目を見開きました。何十年ぶりに自分の目で我が子を見たのです。
「厨子王!」涙にむせびながら、母親は叫びました。(Kudos)


7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 19:08
日本社会における人身売買的な慣行については,地方色を持つものが多い。労働省婦人少年局
(1953:38−53)は,漁村,農村,その他における特殊雇用慣行としてそのいくつかを紹介している。
例えば漁村については,山形県の飛島で行われてきた「南京小僧」と呼ばれる男の子の養子制度で,
小学校5,6年生くらいまでの貧児,私生児,孤児を北海道沖の鱈漁業に乗りくませる労力とするた
めのものが記されている。南京小僧たちは学校に通わせてもらえず,外出や帰省を拒まれ,労働時
間も相当なものであった。1950年当時,これに該当する者は55名おり,18歳未満の者には里親制度
が適用されていたが,数え年21歳で解放された後にはその地に留まらず,北海道か樺太に移住して
いったという(労働省婦人少年局1953:40)。また,山口県の情島では,沖で魚を一本釣りすると
きに漁船が潮流に流されて網代をはなれるので,これをはずさないように舵をあやつって漁船の位
置を適当にたもつ役目をさせるために,愛媛や広島などの貧困家庭の子供たちを雇う慣行があり,
これを「梶子制度」と呼んでいた(4)。1948年の調査の際には,広島や長崎の戦災孤児を含め,50名
の梶子が各地の養護施設から雇われていたという。

8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 19:13
日本でも人身売買の歴史は古いです。中世の「安寿と厨子王丸」が有名ですが、これは奴隷として売られた16歳の少女が水責め、火責めの拷問を受けた挙句に悶死するという酷い童話です。江戸期なんて年貢の納められない農民には娘を女郎屋へ売らせて現金化させるのが徴税手段であり、その際、斡旋業務を行っていたのが寺社の坊主どもでした。明治の廃仏毀釈で襲撃され、寺も仏像も焼きつくされた、というのはそれほどまでに民衆から凄まじい恨みを買っていたわけです。(うちの檀家坊主も盆法要のたびBMW750で乗り付けてきやがりますから、生臭さ全開ですw)また、当時のキリシタン大名は愛だ慈悲だ平等だとか奇麗事並べながら、火薬1樽と引き換えに領民の婦女子50人を海外へ性奴隷として輸出し、ぼろ儲けしていました。記録によると当時の奴隷相場7分の1程度のバーゲン価格ゆえ、買い付けにきたオランダの奴隷商人らがあまりの安さに狂喜したそうです。この間、実に50万人もの娘が世界中に売り飛ばされました。後に「天保の使節団」が欧州を訪れた際、半裸状態で恥部をさらし牛馬以下の扱いを受ける日本人婦女子の姿を見て驚愕したという文献も残ってますな。つくづく悪人や偽政者ってのは、時代は変われど、人を喰いものにするのが生業、という点で全く同じです。

「安寿と厨子王丸」は極悪非道の人買・山椒大夫を頭だけ出して地中に埋め、その首を竹製のノコギリで、太夫の息子・三郎にジワリ、ジワリ切らせるという非常に爽快な結末でしたが、 現代ならさしづめ、純一郎の首を進次郎に切らせる、「凌遅刑」みたいな按配でしょうか。ま、本当の悪党ってのは、こいつらを裏から操ってる連中なんですけどね.........



9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 19:31
飛鳥時代には奴婢が売買されていたので、合法的に人身売買が行われていたといえますが、平安時代には廃れたようです。

鎌倉時代には、人身売買を禁止する法律が作られていますし(建久8年=1197年)、その後も同様です。
※戦国時代をはじめ、誘拐した人間や戦争の捕虜を売買する行為は行われてきましたが、厳密にいうと非合法行為ということになります。
戦国大名が主体的に捕虜の売買に関わる場合も多かったのですが、その領地を独立国と解釈すると「合法」になります。

ただし、鎌倉幕府も、飢饉の際には人身売買を「時限立法」として認めていました。
餓死するよりは誰かの奴隷になってでも生き延びたほうがまし〜という考えです。
これにより飢饉の際には自分の子供を金持ちの家に売る親が続出しますが、売った人間を買い戻して一般人に復帰させる方法も細かく規定されていました。

この例外的措置は江戸時代にも生きていて、天保の大飢饉の際にも、余裕のある家に「貧民を積極的に買い取ること」を推奨した藩もあります。
この際大量の貧民が九州に売られていったといいます。
人身売買を完全に禁止したのは明治憲法でしょう。



10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/30(Sat) 21:23
当時のキリシタン大名は愛だ慈悲だ平等だとか奇麗事並べながら、火薬1樽と引き
換えに領民の婦女子50人を海外へ性奴隷として輸出し、ぼろ儲けしていました。
記録によると当時の奴隷相場7分の1程度のバーゲン価格ゆえ、買い付けにきたオラ
ンダの奴隷商人らがあまりの安さに狂喜したそうです。この間、実に50万人もの
娘が世界中に売り飛ばされました。後に「天保の使節団」が欧州を訪れた際、半裸
状態で恥部をさらし牛馬以下の扱いを受ける日本人婦女子の姿を見て驚愕したと
いう文献も残ってますな。
そう。だから、秀吉はキリスト禁教を行い、キリシタン大名を一人残らず日本から
叩き出した。私たちは、歴史を正しく学ぶ必要がある。歴史を正しく学ばないから、
正しく考えることができないのだ。


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12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/05/13(Mon) 18:47

[「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代
読売新聞 5月13日(月)14時44分配信



読売新聞
 安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。

 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂(へんさん)所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。

 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。

 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。

 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。

最終更新:5月13日(月)14時44分



13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/06(Thu) 23:00
コロンブスの新大陸発見に続いて、スペインは直ちに征服事業を開始、1521年メキシコを占領すると、そこから西廻りでアジアに進出する政策に着手した。こうして、日本とラテンアメリカとの最初の接触が生ずる。 すなわち、アジアの香料を求めて次々とメキシコから遠征艦隊を派遣、この中には1542年のビリャロボス艦隊のように日本に関する情報の収集を特命されたものもある。1564年遂にレガスピー艦隊がルソン(フィリピン)に植民地を建設、太平洋の逆横断にも初めて成功し、以降ガレオン船によるマニラ・アカプルコ間の貿易航路が開かれることになる。1578年にイギリスの海賊がメキシコ沿岸で拿捕したガレオン船にも、クリストファー、コスモスという2人の日本人が乗っていて、その後この海賊船がブラジルを襲った時も同行していたとの記録がある。ほぼ同時期の1596年の日付でアルゼンチンのコルドバ市に残っている公正証書には、フランシスコ・ハポンという日本人奴隷が、ポルトガル人によってこの地で売り渡されたと記されている。




14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:50
昭和になっても、日本では東北地方は冷害凶作に見舞われ飢饉が続いた。そして、娘の身売りが行われた。
・山下文男著「昭和東北大凶作」
 h ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
 h ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
h ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html




15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:52
(参考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/30(Sat) 23:19
>>14
直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
 特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/16(Fri) 11:15
日本における貧困と人身売買の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=364610266&ls=50

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/20(Tue) 23:50
昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生(満13〜14歳)がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。



因みに、今では考えられぬことだが、昔は人の人生はわずか12歳で決まってしまった。

「教育の機会均等」が保証が曲がりなりにも保証されるのは新憲法下の、昭和24年の「学制改革」を待たねばならなかった。

昔はどんなに優秀でも、勉強したくても貧しさゆえに「奉公」に出されたりした。

大学につながる中学校に行かせてもらえるものはごくごく一部の恵まれた家庭の子弟に過ぎなかったのだ。

昔、日本は農業国だった。

そして「小作制度」というのがあって、「農地改革」まで農地をかりる小作は地主の農地を耕すのだが、
多くは貧しく、農家なのに学校に弁当も持っていけない貧農の子はたくさんいたことだろう。

坪井栄の【二十四の瞳】には、小学校卒業を待たずに「奉公」に出される子供たちが描かれている。

高等小学校(二年制)に進むのがせいぜいだったことだろう。


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/12/22(Thu) 17:45
日本における児童労働・児童虐待の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=351999297&ls=50


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