掲示板に戻る 前 10 次 10 1 - 10 最新 10

日本における飢饉の歴史

[1:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/14(Fri) 19:28)]
日本の歴史は飢饉の歴史、日本人が食料を満促に食べれるようになったのは、つい40年前。
コメが余るようになったのは、戦後も20年以上過ぎた昭和46年でした。
それは農家と農業関係者のたゆまぬ努力の賜です。

「飽食の時代」と言われて久しくなった今、またTPPなどと言うのが騒がしくなった今、
日本における食料の歴史、飢饉の歴史をふりかえってみましょう。


[2:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/14(Fri) 20:56)]
江戸時代の飢饉もさることながら昭和には言ってからも東北地方は冷害と飢饉に襲われた。(東北大凶作)
稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて食べたという。

宮沢賢治の「雨にも負けず風にも負けず]も、この時の手帳に残されたメモ。
これは亡くなってから発見されたものだが、この東北大凶作に依って多くの娘の身売りなどが大きな社会問題になった。
この「東北大凶作」は太平洋戦争に至る遠因ともいわれる。

その後も、昭和40年代頃まで、コメ不足が続いた。

岩手の農業試験場で何十年もかけて何千種類もの品種改良がなされ「藤坂五号」という
冷害に強い品種ができた。それが昭和40年代後半だった。









[3:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 21:27)]
やませの発生による冷害を主因とする東北地方の凶作は、江戸時代には天明の大飢饉、天保の大飢饉をもたらしたが、明治時代以降でも1872年(明治5年)、1902年(明治35年)、1905年(明治38年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)、1921年(大正10年)、1931年(昭和6年)、1933年(昭和8年)と断続的に発生した。飢饉は昭和時代まで多発したが、とくに1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて発生した飢饉は、日本史上最後の飢饉といわれている。

昭和恐慌(1930年-1931年)期の飢饉は、都市部の大失業と所得減少、都市住民の帰農による人口圧力などによって農村経済は疲弊、農家の家計は窮乏化し、東北地方や長野県などでは女子の身売りが起こり、欠食児童が続出した。これは、世界恐慌からはじまるブロック経済の進展などもあいまって、満州事変につながる背景ともなった。


[4:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 21:32)]
高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
 子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
 凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
 「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
 「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。





[5:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 21:33)]
マンションや商店が立ち並ぶ、仙台の街の一角。遊郭があったと想像するのも難しく、道で途方に暮れていると、駄菓子屋の奥から「お茶っこ飲んでがい」。
 間もなく創業100年という亀谷まさ子さん(81)の店では「昔は郭(くるわ)の女衆に反物や白足袋を売ってた。毎日、お茶飲みをしたもんだ」。
 遊郭は1つの町のように大門があり、夏には各楼が景気良さを競う七夕祭りや盆踊り。だんな衆や大漁祝いの船乗り、兵隊も来た。
 茶飲み友達には、同じ年ごろの姉妹がいた。「同情したけれど、恨みつらみは聞かなかった。見栄でも張るくらい強くならなきゃ、生きていけなかったんだ」
 亀谷さんは、大騒ぎになった事件を覚えている。借金を払いきれず、その立て替えを条件に関西に「くら替え」(再身売り)が決まった女性が遊郭を抜け、鉄道の高い鉄橋から恋人と身を投げた。「道行きの汽車の中で、遊郭の女の印である日本髪をほどいていたんだと。古里と別れ、好きな人とも別れ…。そんな人生がいやだったんだべもな」


[6:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 21:36)]
ttp://www.asyura.com/0601/ishihara10/msg/470.html


[7:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 21:40)]
昭和東北大凶作
娘身売りと欠食児童
山下 文男(やました ふみお)著
ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html
昭和初期の大恐慌と凶作の哀史を、自らの体験と資料を駆使して記録する。あの時代、あの体験を風化しないための一書。


[8:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 21:42)]
昭和東北大凶作

昭和9年頃、岩手県の小学5年生のある女子生徒が書いた作文。


 お弁当のとき先生は私たちのお弁当をまわって見られました。私たちははずかしいのでかくしました。すると先生は稗(ひえ)のごはんでも食べられるうちはいいのです。お米がさっぱりとれないから、と申されました。お米がとれないから稗は私たちのいちばんの食物だと思います。でも今では、弁当を見られてもはずかしくなくなりました。(中略)二三日前、お父さんは、なんぼお米がとれなくても、お前たちには食べさすから、いつものように勉強するんだぞと、ご飯のときに話されました。

これは、東北・北海道を襲った昭和6年から昭和9年頃までの大凶作の真っ只中に書かれたものらしいです。現代の同年代の女子児童からは到底聞けないであろう尊敬語で綴られたこの作文からは、一体どのような光景が見えてくるでしょうか。現代の児童たちの給食風景から、上の作文のような光景の一筋でも垣間見ることはできるでしょうか。

現代では給食費滞納という贅沢な問題すら抱えている学校給食ですが、この「学校給食」というのは戦後の昭和29年に「学校給食法」によって制度化されたものらしいです。更に学校給食について遡ると、その起源は、家が貧しくて学校に弁当を持って来れない「欠食児童」と呼ばれる可哀想な子供たちに与えられていたもので、つまり学校給食を受けているという事実が直接自分の家庭が極貧であるということを意味する屈辱も同然であったといわれています。それを考えると、上で紹介した作文を書いた少女は本当にまだ救われていたほうだったのかもしれませんね。

紹介が遅くなってしまいましたが、上の女子生徒の作文と学校給食については、山下文男さんの著書「昭和東北大凶作 娘身売りと欠食児童」(無明舎出版)から転載・参考にさせていただいたものです。何気なく手にとって購入した書籍だったのですが、予想を遥かに上回る良書だったのでご紹介したいと思い記事を書かせていただきました。東北にはそれ以前にも有名な、天明・天保の二度に渡る大飢饉が襲い、それは地獄絵図であったとか、餓鬼道に堕ちたなどとそれはもう現代では想像し得ないほど見るも無惨な光景であったと言われています。しかし、著者である山下氏は、それらの飢饉よりも自らが直に体験した昭和の大凶作に焦点を合わせ、克明にその生活の姿を書き記しています。また著者は、その大凶作の貧困な生活の中でも、サブタイトルにもある「身売り」と「欠食児童」について特に鮮明に書き記しています。フィクションのようで一切が事実であるこの衝撃が、私たちが飽食大国日本の最中を生きているということをまざまざと証明してくれているように感じられました。

ttp://soukublog.blog113.fc2.com/blog-entry-194.html


[9:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/15(Sat) 22:11)]

胆江地区の飢饉の歴史
ttp://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_19/vol19_2fr.htm

【参考文献】
「胆江地方の歴史」佐嶋輿四右衛門著「江刺の歴史物語」佐藤幸一著・「金ヶ崎町史」金ヶ崎町発行
「前沢町史」前沢町発行・「胆沢町史」胆沢町発行・「江刺市史」江刺市発行・「水沢市史」水沢市発行


[10:名無しさん@お腹いっぱい。 (2012/09/20(Thu) 14:47)]
「学校給食」と言うのは戦後、学校に弁当を持ってこられない欠食児童が社会問題で、このためつくられたもの。


掲示板に戻る 前 10 次 10 1 - 10 最新 10

NAME:
MAIL:

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)