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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 21:07
☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」


昔、メロディを付けて呼ぶのは「古賀メロディ」しかなかった。

当たり前(三要素の一つ)のものにとりわけメロデーを付けて呼ぶことはしない。

(いつのまにか、リズム系などを含め、作曲家の名前の後ろに、何でも一律に「メロディ」を付けて、「メロディ」で呼ぶようになったようだ。だが、リズム(系)とメロデーはそれぞれ別物。)


“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)


誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ、それを「古賀メロディ」と呼んで称えた。


彗星のように現れ、たちまち頂点に立った古賀作品、「丘を越えて」にしても、「酒は涙か溜息か」にしても、「影を慕いて」についても・・・

その前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、とりわけ日本人なら心の襞に浸透する強烈な印象を与える、聴く人を歌の世界に惹きこむ新鮮なメロディ・・それを特別に「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀メロディというのは、古賀政男作品全体をさす場合と古賀作品の内、詩のテーマとするところが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたもの、「影を慕いて」、「人生の並木路」「丘を越えて」などを指す場合が有る。

その古賀作品を称えるため、新聞などが与えたものだろう、その「古賀メロディ」と言う言葉はいつごろ確立されたものだろうか。

昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成25年(2013)から82年前の昭和6年(1931)3月だから、その7年後だ。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。


したがって『古賀メロディ』とは、昭和一桁代の初期コロムビア時代、少なくとも昭和10年代初めには分野を越えてすでに確立したものとなっていたのだろう。

・・「其の二 ― 古賀政男作品研究  ★古賀政男の作品全般に亘り微に入り細を穿っての解剖と研究は、“古賀メロディ”の本質を知らんとする人、流行作曲家たらんとする人、大衆音楽の神髄を極めんとする人々にとりては、感激の虎の巻であり羅針盤です。」(「古賀政男藝術大観」新聞広告より)

(参考)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)




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