掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 21:18
影を慕いて

古賀メロディーの原点と言われる名曲
古賀政男(正男)作詞作曲
昭和5年 ビクタ‐  佐藤千夜子 歌
昭和7年 コロムビア 藤山一郎  歌
(明治大学学生の時、昭和3年秋に作曲したとされる、完成まで2年かかっている)

3 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/02(Sun) 11:01
昭和3年(1928)にはレコード歌手第一号とさあれる佐藤千夜子の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の他、二村定一の「アラビヤの唄」、「青空」など外国曲の訳詩曲や、藤原義江の「出船」(杉山長谷夫作曲〉、「出船の港)(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など。昭和4,5年には、映画主題歌第一号「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)、「紅屋の娘」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)など佐藤千夜子の中山晋平の曲、二村定一の「君恋し」(時雨音羽作詞、佐々江華作曲)など。
昭和6年に、ここに彗星のように現れるのがコロムビアの若き古賀政男。


4 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/04(Tue) 11:38
丘を越えて(藤山一郎)
キャンプ小唄(藤山一郎)
月の浜辺(河原喜久恵)
乙女心 (関種子)
窓に凭れて(関種子)
酒は涙か溜息か(藤山一郎)

昭和6年(1931)に入ると、ビクタ‐1月新譜「影を慕いて」(佐藤千夜子、昭和5年10月吹込)以降、3月にコロムビア専属作曲家となった新星古賀政男は次々にヒット作品を世に送り出し、これまでの晋平節とは一味違う哀調を帯びた「古賀メロディ」と呼ばれることになる新しい歌謡曲(歌謡歌曲)のジャンルを確立してゆく。
影を慕いては、昭和7年藤山一郎に依って再び吹き込まれる。
「古賀メロディー」を支えたのは、河原喜久恵、関種子、藤山一郎など、東京音楽学校(東京芸大音楽学部の前進)出身の若き首席卒業歌手たちなどだった。当初ビクターの一人勝ちで出発したレコード界の主流は古賀政男のコロムビアに移ってゆく。

他に昭和6年には、「侍ニッポン」(西條八十作詞、松平信博作曲、徳山 l(たまき))などがある。


5 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/04(Tue) 22:46
昭和7年から8年にかけて

鳩笛を吹く女の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲) 藤山一郎
影を慕いて〈古賀政男作詞作曲〉 藤山一郎
銀座の柳(西條八十作詞、中山晋平作曲)四家文子
「お蝶夫人」の唄(西條八十作詞、古賀政男作曲)ミス・コロムビア
笛は冴ゆれど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
朝顔の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)関種子
あけみの唄(原 阿佐緒作詞、古賀政男作曲)関種子
嘆きの夜曲(西岡水朗作詞、古賀政男作曲)関種子
二見情話(西岡水朗作詞、古賀政男作曲)
美はしの宵(島田芳文作詞、古賀政男作曲) 関種子
去りゆく影(西條八十作詞、古賀政男作曲)関種子
サーカスの唄(西條八十作詞、古賀政男作曲)松平晃



6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/06(Thu) 10:17
昔は、大方、詩人が詩を作り作曲家が曲を作り、歌手たちが歌った。
歌手達は、たいてい音楽学校出身者で、オペラとかにも出演していた。
古賀メロディを支えた藤山一郎、関種子など東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部の前進)の首席であった。

7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/08(Sat) 18:17
関種子(1907〜1990)
昭和期のソプラノ歌手。府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90


8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/09(Sun) 23:06
藤山一郎、関種子のコロムビアでの歌謡デビューは、コロムビアの「古賀メロディー」のデビューの歌手としてであり、
その後も多くの「古賀メロディー」を支えることになった歌手である。

9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/09(Sun) 23:48
古賀政男(正男)は、明治大学の学生時代、処女作[影を慕いて」他をレコード歌手第一号、ビクターの佐藤千夜子が、
レコードに吹き込んでくれた、このことでコロムビアで作曲家としてメジャーデビューすることになる。
古賀政男は、その自伝『わが心の唄』で、佐藤千夜子について、私を作曲家の道を切り開いてくださった「終生の恩人」と書いている。

10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/09(Sun) 23:58
藤山 一郎(1911〜1993)
日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家。バリトン歌手として活躍。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットした。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。作曲家・指揮者としても活躍した。

11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/11(Tue) 11:55
沖縄で愛されている沖縄民謡に『二見情話』というのが有る。なぜか「古賀メロディ」のメロディライン(DNA)をもち、古賀メロをまねたものと沖縄民謡の大家筋や作詞・作曲者とされる周辺からも言われ続けてきたもの。「情話」という言葉が一般的でなかった時代のたぶん最初の作品のはずです。

南国・沖縄民謡には一般的でないはずのあの東北民謡のような、あるいは古賀メロのような哀調、そして「歌謡調」のような曲調。沖縄戦で収容所で作られたとされるのだが、それは誰が見ても生粋の沖縄人(ウチナーという)で突然できるようなものでもない。

昭和7年の大ヒット曲『嘆きの夜曲』( 1932.2 西岡水朗作詞、関種子歌)や、「影を慕いて」(藤山一郎)コロムビア発売と同じ、80年前、古賀政男初期の作品「二見情話」〈1932コロムビア〉は沖縄・二見を歌った民謡曲で、沖縄民謡の大家が補作詞、編曲している古賀メロとの融合した作品で、これが沖縄民謡『二見情話』として定着したものだろう。



12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/12(Wed) 19:10
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)
「白い椿の唄」 (佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、楠木繁夫)
「男の純情」  (佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、藤山一郎))
「緑の地平線」 (佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、楠木繁夫)
「女の階級」  (村瀬まゆみ作詞 古賀政男作曲、楠木繁夫)

当時はSPレコードといって、今では見かけることは殆ど無いが「蓄音機」で聴くための、昭和30年代に全盛を迎えたLPレコードが出現する以前の78回転レコードです。因みにその後LPレコード(33、3回転)、EPレコード(ドーナツ盤、45回転)があった。

日本における電気吹き込みによるSPレコード産業は「昭和」の歴史とともに勃興したが、マイナーなレコードには前から主に浪花節や一部の童謡、民謡、演歌などがあった。

SP盤レコードの録音時間には現在のCD或いはLPレコードと違い、3分と言う時間制約が有った。3分と言う時間内に、すべてをどうやって収めるかと言う「三分間の芸術」であった。

「歌謡曲」とはまさに「三分間の芸術」そのものだったのです。そして歌詞は簡潔で適切であった。曲のテンポはゆったりして、短い時間の中に、歌詞の行間に秘められた作者の想いを自ら想起しつつ聞けるのです。

「古賀メロディー」の「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩)や、「白い椿の唄」(佐藤惣之助作詩)や、「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞)、3分間という短い時間の中で、前奏・間奏・後奏それぞれが独立した一曲にも値し、人を曲の世界に引きずり込む溢れるような名曲といえましょう。

短い歌詞で思わず涙が溢れる、1時間も聞いたような、そのような曲は今あるだろうか。



13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 12:08
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。



14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 12:52
「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html


15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 21:28
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。
以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 21:35
「人生の並木路」

佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲

ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/jinseinonamikimichi.html

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/15(Sat) 00:09
古賀政男は、映画会社と提携し多くの映画主題歌を世に送り出した。
特にテイチクでは日活と提携し、緑の地平線や人生の並木路など多くの名曲を送り出した。
初期の、「酒は涙か溜息か」「鳩笛を吹く女の唄」などはまだ無声映画だった。

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/15(Sat) 12:48
?愛染かつら メロドラマ
1938年(昭和13)作品、松竹大船三部作。 ...-
『婦人倶楽部』に連載された川口松太郎原作の同名小説の映画化、♪花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道♪、歌う「旅の夜風」が有名な戦前の松竹メロドラマの傑作。子持ちの未亡人看護婦・高石かつ枝と、院長の息子で青年医師の津村が恋に落ち、身分の違いや子供の病気など様々なすれちがいを経てついに結ばれる・・・。同時に霧島昇とミス・コロムビアの二人も、この三部作の最後の「愛染夜曲」の最後で、歌詞そのままに結ばれる。

はろばろと はろばろと
愛の山河 今日旅終えて
結ぶ縁(えにし)の 愛染かつら
花よ降れ降れ より添う肩に

愛染かつら完結篇の主題歌「愛染夜曲」の最後四番目にこうある。
「愛染かつら」と共に結ばれる霧島昇とミス・コロムビアに対するはなむけの言葉であると、西條八十は自伝『唄の自叙伝』にかいている。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-aizenzoshi.html

・愛染かつら 1938年(昭和13年)9月10日       
  主題歌 旅の夜風(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア
  挿入歌 悲しき子守唄(西條八十作詞、竹岡信行作曲)ミス・コロムビア
・続・愛染かつら 1939.5.5
  主題歌 愛染夜曲(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア
  挿入歌 朝月夕月(西條八十作詞、竹岡信行作曲) ミス・コロムビア
・愛染かつら・完結編 1939.11.16
  主題歌 愛染草紙(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア 
  挿入歌 荒野(あれの)の夜風(西條八十作詞、早乙女光作曲)ミス・コロムビア、二葉あき子


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/16(Sun) 20:47
「十九の春」(西條八十作詞、江口夜詩作曲)

「十九の春」という歌があります。沖縄民謡にも同じ名前のがあるが、もっと名曲があります。
それは、映画主題歌「十九の春」(西條八十作詞、江口夜詩作詞)

ながす涙も 輝きみちし
あわれ十九の 春よ春
すみれつみつつ 散る白露に
泣きし十九の 春よ春

この歌にぴったりな、やさしい歌声のミス・コロムビアがすばらしい歌唱をきかせてくれます。

「SP盤復刻による懐かしのメロデイ ミス・コロムビア(松原操)」コロムビアCOCA−10761


20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/17(Mon) 22:37
乙女心 (鹿山鴬村作詞、古賀政男作曲 関種子)
月の浜辺(島田芳文作詞、古賀政男作曲、河原喜久恵)


82年前、昭和六年(1931)7月発売。「月の浜辺」(島田芳文/作詞 古賀政男/作曲、河原喜久恵)とともに、
昭和6年3月、コロムビア専属作曲家となった若き古賀政男栄えの第一作「乙女心」。
ドイツリートの若きクラッシックソプラノ歌手、関種子の歌謡録音第一作でもある。関種子は藤山一郎とともに、
この後、「窓に凭れて」「朝顔の唄」「嘆きの夜曲」「美わしの宵」「去りゆく影」「あけみの唄」など多くの古賀メロディを支えた。


乙女心

朧月夜の その頃に
トンと踏まれた道の芝
燃ゆる想いに泣きぬれて
露の情の玉襷(たすき)
泣き泣き結ぶ玉襷
乙女心を知ろかいな


関種子出演オペラ
「カルメン」ミカエラ
「ファウスト」マルグリート
「ラ・ボエーム」ミミ
「椿姫」ヴィオレッタ
「ドン・ジョヴァンニ」ツェルリーナ
「トゥーランドット」トゥーランドット
「フィガロの結婚」スザンナ



21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/04(Fri) 20:21
「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)

「新妻鏡」・・昭和15年、東宝映画『新妻鏡』(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)は、目の見えない新妻が苦労の果てに結ばれると言う話で、霧島昇、二葉あき子(戦後島倉千代子)歌。
「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞,古賀政男作曲)も挿入歌。

 佐藤惣之助の歌には人生の苦悩を歌った歌が多いですが、人生を歌った詩としては、『人生の並木道』にも匹敵したすばらしい応援歌ではないかと思います。

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

強くなろうよ強くなれ
母となる身は幼児(おさなご)の
愛の揺籠花の籠
なんで嵐にあてらりょう

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの人生を
熱い涙で 謳うおうよ

「遠くさびしく離れても」・・と言うと結婚式には不向きかもしれぬが、一語一語味わいに満ちた詩で、「強くなろうよ 強くなれ母となる身は幼児(おさなご)の」
・・今の歌とは決定的に違います。まだ日本が貧しかった時代が生んだ、すごい、人生・青春の応援歌ではないでしょうか!。
この歌は、すごい重みのある歌といえ、男女・年齢を問わず勇気ずける人生の応援歌として、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。

三番は歌にはない
強くなろうよ強くなれ ・・
こうした重い歌詞が
簡潔な言葉が
さりげなくちりばめられている
名曲である

戦後、島倉千代子によって歌われた。


22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/05(Sat) 22:12
言葉というものは、長くなればなるほど、言ってることは狭くなるもの。
逆に簡潔であればあるほど、自分で思い描ける部分が広く、共通部分が広くなり、味わい深くなるもの。

年末の特集番組でもやっていたが、最近の歌はみな歌詞が長く、テンポが早く、しゃべってしまっている。
ほとんどその中に重ね合わさることはすくない。



「泣くな妹よ妹よ泣くな・・・生きて行こうよ、希望にもえて・・」(人生の並木路)
 ・・まずしくとも、まじめにいきていればきっといいことがある・・

豊かさとともに失ってはいけない大切なものがある。
日本がまだ貧しかった時代、「兄弟の絆・兄弟愛」を適切に歌いあげている。

「人生の並木路」、それは味わえば味わうほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

今の豊かな世ではありえない詩人・佐藤惣之助の傑作だと思います。




人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。
昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。





23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/05(Sat) 22:25
古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)

1930
 佐藤千夜子  「文のかをり」・・・「影を慕いて」など
1931
 関種子    「乙女心」・・・「窓に凭れて」など 
 天野喜久代  「チャッカリしてるわね」
 河原喜久恵  「月の濱邊(月の浜辺)」・・([キャムプ小唄]のB面)・・「町子姉妹の唄」
 藤山一郎   「キャムプ小唄」・・「影を慕いて」など
 淡谷のり子  「私此頃憂鬱よ」(「酒は泪か溜息か」のB面)・・「佳人よ何処へ」など
1932
 中野忠晴   「夜霧の港」・・・「高原の唄」など
1933
 ミス・コロムビア(松原操)・・・「「お蝶夫人」の唄」・・・「目ン無い千鳥」など
 松平晃   「サーカスの唄」・・「母立つ丘」など
1934
 楠木繁夫  「国境を越えて」・・「白い椿の唄」など
1935 
 ディックミネ 「二人は若い」・・「人生の並木路」など
1936
 奥田瑛子  「別れの歌」・・・・「緑の月」など
1937
 由利あけみ 「黒いパイプ」・・・「愛国六人娘」など
1939
 李香蘭   「さらば上海」・・ 「迎春花」など
 霧島昇   「新妻模様」・・・・「誰か故郷を想わざる」など
 伊藤久男  「波を越えて」・・・「熱砂の誓い」など
1940
 二葉あき子 「あの花この花」・・「新妻鏡」など
 奥山彩子  「蛇姫絵巻」-・・・「母立つ丘」など
 渡辺はま子 「りぼんむすめ」・・「サヨンの鐘」など
 菊池章子  「相呼ぶ歌」・・・・「なつかしの蕃社」など
1943
 近江俊郎   「明日もまた」・・・「勝利の日まで」など    



24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/11(Fri) 12:38
昭和14年(1939)、内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十、サトウハチロー、古賀政男など錚々たる詩人や作曲家などが会長となっている。

ただ、明治時代に作られた「著作権法」は戦後現在の姿に改正されるまで一度も見直しされず、パクリはけっこうあったようだ。

参考までに、西新橋から移転した現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。

「古賀政男音楽博物館」とともに、その建物は昭和の歌謡に絶大な寄与を果たし著作権も圧倒的とされる古賀政男の遺志を継ぐ「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理に属するというのは象徴的であろう。


・日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986) 旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 作詞・訳詞家、作曲家、音楽評論家
昭和46〜48   サトウ・ハチロー(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
昭和55〜    服部良一(1907〜1993)  作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜    黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜2010) 作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜 都倉俊一(1948〜)   作曲家


25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:59
訂正

・日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986) 旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 作詞・訳詞家、作曲家、音楽評論家
昭和46〜48   サトウ・ハチロー(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜    黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜2010) 作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜 都倉俊一(1948〜)   作曲家




26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 17:02
[国民栄誉賞]が以下に贈られた。

・古賀正男(古賀政男)(第2回)
昭和53年8月4日(昭和53年7月25日死去)
「古賀メロディー」作曲による業績
・増永丈夫(藤山一郎)(第9回)
平成4年5月28日(平成5年8月21日死去)
「歌謡曲を通じ民に希望と励ましを与えた功
美しい日本語の普及に貢献」
・服部良一(第11回)
平成5年2月26日(平成5年1月30日死去)
「数多くの歌謡曲を作り国民に希望と潤いを与えた功」
・吉田 正(第13回)
平成10年7月7日(平成10年6月10日死去)
「吉田メロディー」の作曲により国民に夢と希望と潤いを与えた功」
・遠藤 実(第16回)
平成21年1月23日
「世代を超えて長く愛唱される、情感に満ちあふれた名曲を数多く世に送り出し、
国民に夢と希望と潤いを与えた」(河村建夫官房長官の会見における説明)




27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/22(Tue) 11:11
目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)

「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩   古賀政男作曲
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/25(Fri) 18:25
目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。





29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/25(Fri) 18:53
古賀政男氏が、生前あるテレビ番組で、この曲について語っていたことが印象に残っています。佐藤惣之助氏から歌詞をはじめて見せられたとき、古賀氏は感動で打ち震えたと言って「僕が心の夫なら 君は心の・・・」とつぶやいたあと、感極まってしばし絶句。そして口をついて出たのが、次の言葉でした。
  「私はね、歌謡曲というものはね、『詩』がお姉さんで、『曲』は妹だと思います。」
後日、この発言に対し、某作曲家が「古賀さんはああ言われたけれども、私は詩と曲とは『双子の姉妹』だと思います。」と異を唱えていました。
歌謡曲にとって詩と曲とは、お互いに、言わば、車の両輪という関係ですから、論理的には某氏の説のほうが正しいように思われます。しかし、古賀氏の言う「姉」と「妹」とは、ひとつのの作品が誕生するまでに至る順序を指しているのであって、「上下」や「優劣」とはまた別の話だと思います。時には愚姉賢妹という例だってありますから。
 「詩はお姉さん」という言葉が「作曲家」、しかも古賀政男という大家から発せられたところに、却って氏の誠実で謙虚な人柄が偲ばれるように思います。



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:44
誰か故郷を想わざる
  (西條八十作詞 古賀政男作曲)

花摘む野辺に 日は落ちて
みんなで肩を 組みながら
唄をうたった 帰りみち
幼馴染(おさななじみ)の あの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を 想わざる


ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tareka.html


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:46
西條八十は明治25年1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で、父十兵衛、母徳子の三男として生まれました。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。
父十兵衛は、旧家で質商をしていた西條家の番頭となりまして、後に後継者として夫婦養子になりました。・・
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
明治13年、日本で初めてといわれる石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りまして、石鹸工場で30人位、店では数人が働く店を開きました。
八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。
喉頭ガンをわずらっていました。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。

「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼申し上げます。 西條八十」

詩人・芸術院会員 西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。
謹んで辱知の皆様に御通知申し上げます。




32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:49
戦後創早期の歌から・・

*麗人の歌 ( 西条八十 作詞 古賀政男 作曲)   霧島昇

夢はやぶれて花嫁人形
 はでなたもとが恥かしい
覚めて浮世の窓見れば
  みんな泣いてる ああ 人ばかり
 
*旅役者の唄 (西条八十 作詞  古賀政男 作曲) 霧島昇

秋の七草色増す頃よ 
 役者なりゃこそ旅から旅へ
  雲が流れる今年も暮れる
   風にさやさや花すすき

*三百六十五夜 (西条八十 作詞 古賀政男 作曲) 霧島昇、松原操
ttp://www.hiroi.isics.u-tokyo.ac.jp/index-ikinuki-mysong-365ya.htm
 緑の風におくれ毛が 
 やさしく揺れた恋の夜
  初めて逢うたあの夜の君が
   今は命を賭ける君









33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:51
詩人・西條八十・・「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「銀座の柳」「お菓子と娘」「愛染かつら」「誰か故郷を想わざる」「春よいずこ」「サヨンの鐘」「青い山脈」「三百六十五夜」「王将」などの歌謡、
「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・・、日本人なら誰でも一度は聞いたことがある、そのやさしい歌は、日本人の心の中に深く根ざすもので、これからも歌い継がれるにちがいありません。
詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっ
かけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:54
日本がまだ貧しかった時代の暖かさ、人の絆を大切にする、佐藤惣之助(1942)、西條八十(1970〕、
(八十の弟子でもある)サトウハチロー(1973)などの亡き後、日本の歌の日本らしさが失われてしまった。



35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:57
西條八十という人は単に詩人にとどまらず、早稲田大学の仏文科の教授であり、ランボー研究の第一人者であった。
さらに童謡や校歌、社歌の作詞者でもあった。特に我々には『青い山脈』『東京行進曲』『王将』などの歌謡曲の作詞者として広く知られているところである。生涯に書いた純粋詩、訳詩および歌謡曲、童謡、民謡、校歌、社歌などの作詞は15,000を数えるという。
この超人的な仕事は如何にして可能だったのだろうか。
 本作は、だが、そのことよりも早稲田大学の教師であり、詩人であった西條八十が当時、一段低いものと見なされていた流行歌の作詞をなぜ長い間行ってきたのか。そして、そのことの持つ意味は何であったか、がテーマというべきであろう。
  ttp://www.maboroshi-ch.com/edu/ext_37.htm

西條八十自伝「唄の自叙伝」
 日本図書センター刊 「人間の記録」 29巻として出ている。
 ttp://www.nihontosho.co.jp/ningen/n_21_30.html
 ttps://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%90%BC%8F%F0%94%AA%8F%5C/list.html

  



36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:01
白 い 椿 の 唄
(作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 )  (昭和10年) 
1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

呼べど返らぬ 面影は・・これは、古賀政男が母を亡くしたその思いと重なる。
この歌は菊池寛原作「貞操問答」主題歌、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にあたるようなうた。



37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:02
詩人・佐藤惣之助は1916年、最初の詩集である『正義の兜』を出版。翌年には、第2詩集である『狂へる歌』を出版している。
「詩魔に憑かれた魔性の人」(朔太郎)と評された。
惣之助は、1911年川田花枝と結婚。 その後、昭和8年(1933)1月に夫人花枝と死別、同年8月萩原朔太郎の妹周子と再婚。

朔太郎は、昭和17年(1942)5月11日肺炎のため東京の自宅で死去、享年55歳。義兄・朔太郎が死亡した4日後、5月15日に
惣之助は後を追うようにして死去。(外出中、腦溢血のため。)

ttp://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/06/0606j0526-00002.htm
ttp://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/poem/satosonosuke.html
ttp://www.townnews.co.jp/020area_page/02_fri/11_kawa/2005_4/12_16/kawa_top1.html





38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:03
佐藤惣之助

明治23年、神奈川県川崎町生れ。詩人。
37年頃より句作を開始。
39年佐藤紅緑の秋聲会の同人となる。
43年小山内薫、吉井勇などと劇作を試みる。
44年川田花枝と結婚。
45年12月福士幸次郎、千家元麿、高村光太郎、木村荘八と雜誌「テラコツタ」を創刊。
大正3年元麿らと雜誌「エゴ」創刊。「白樺」の衞星雜誌として武者小路實篤も寄稿。
4年處女詩集『正義の兜』出版。
8年雜誌「大洋の岸邊」創刊(光太郎、元麿、白鳥省吾、中西悟堂らが寄稿)。
11年5〜7月琉球、臺灣を旅行。
14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
昭和3年5月滿洲、蒙古、朝鮮各地を1箇月に亙り旅行す。
8年1月夫人花枝と死別、同年8月朔太郎の妹周子と再婚。
9年年末上海、香港、廣東、マニラを旅行。
13年9月久米正雄、林房雄、川口松太郎らと武漢作戰に從軍記者として參加。
17年5月15日、外出中、腦溢血のため死去。
大の釣好きで、釣に關する著書が數册ある。日本磯釣倶樂部常務理事を歴任。

歌謠曲の作詞者としても知られる。




39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:05
佐藤惣之助の戦後の作品が是非見たかった。聞けば、同じ詩人で親類の萩原朔太朗の葬儀の際葬儀委員長務め、多忙を極めた挙げ句倒れ、萩原死去からわずか数日後に逝去されたとのこと。萩原に連れて行かれたのだろうか。
死後60年以上経つが、彼を偲べば偲ぶほどに惜しまれてならない。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:15
もともと「純粋詩」というジャンルにいた詩人・佐藤惣之助がいわゆる歌謡曲をてがけたのは、
昭和7年の、映画「金色夜叉」で関種子が歌った「金色夜叉(お宮の唄) 」(古賀政男作曲) と、
同じく藤山一郎が歌った「金色夜叉(貫一の唄) 」(佐々紅華作曲) あたりのようだ。その後も古賀政男とコンビで、「人生の並木路」「男の純情」「緑の地平線」「白い椿の唄」「青い背広で」その他沢山の名曲を
世に送り出した事で知られるが、昭和17年5月に亡くなったのが惜しまれる。     

初期の作品
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助)       1932.1 関種子
鳩笛を吹く女の唄 (佐藤惣之助)       1932.2 井上静雄
金色夜叉(貫一の唄) (佐藤惣之助)佐々紅華作曲 1932.2 藤山一郎
秘めたる恋 (佐藤惣之助)          1932.3 関種子
アリランの唄(朝鮮民謡)  (佐藤惣之助)    1932. 淡谷のり子、長谷川一郎
朝顔の唄 1932.6 (佐藤惣之助) 関種子
笛は冴ゆれど(佐藤惣之助)  1932.7 関種子
不如帰 (佐藤惣之助) 1932.8 淡谷
愛は紅い(佐藤惣之助)  1932.9 関種子
春の唄(佐藤惣之助)  1932.6 淡谷
月夜の恋(佐藤惣之助)  1932.5 丸山和歌子
武雄の唄(佐藤惣之助)  1932.5 中野忠晴

関種子が歌った、これも映画主題化「乳姉妹の唄」もいいです。


41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:17
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・




42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:22
佐藤惣之助は昭和17年5月に急死した。
大正5年「正義の兜」 をはじめ「狂へる歌」「滿月の川 」「深紅の人」「荒野の娘」
「華やかな散歩 」「季節の馬車 」などの詩集、「蠅と螢 」「青神」 などの随筆、「波止場むすめ」
など民謡集 、「凄氣の圖 」(昭和6年)など小説集をあらわしている。

ttp://www.geocities.jp/rojin1937/_satousounosuke.htm
ttp://www.d-score.com/ar/A05020805.html

歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」
「怒れる神 」(昭和14年)、「わたつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわしている。

最後の仕事は、昭和17年9月20日初版發行の釣の入門書だったようです。(創元社・創元選書94 )

歌謡作品としては、昭和16年の「馬」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲〕・・「めんこい仔馬」と同じ映画、
や昭和17年4月の国民歌謡「働く力」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。

詩人・佐藤惣之助はものすごく広い作品を残していて、戦後に活躍できなかったのは大きな損失。

ttp://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/dokuhon/t0109.htm



43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:23
(参考)
佐藤惣之助資料

「大手拓次/佐藤惣之助」新学社2006
「佐藤惣之助全集. 第1巻(詩集 上)〜第3巻」日本図書センター2006
渡辺明 「湖畔の宿 絢爛の詩人佐藤惣之助」上毛新聞社1990
「日本の詩歌13」中央公論社1975(中公文庫)
藤田三郎著「佐藤惣之助 詩とその展開」木菟書館1983
(佐藤惣之助研究・主要参考文献,年譜:p408〜438)
伊藤桂一「集成日本の釣り文学. 第1巻」作品社1995
詩の家編「佐藤惣之助詩華集」詩の家1991

昭和女子大学近代文学研究室著「近代文学研究叢書49」昭和女子大学近代文化研究所1979
「日本詩人全集12」新潮社1979
「近代文学研究叢書89 現代詩集」筑摩書房1967
「日本現代文学全集 54」講談社1980
「現代日本文学大系41 」筑摩書房1979
伊藤信吉等編「現代詩鑑賞講座. 第6巻」角川書店1969
潮田武雄編「佐藤惣之助覚え帖」桜井書店(昭和18年)
吉行淳之介〔ほか〕編集「現代日本のユーモア文学. 3」立風書房1980
佐藤惣之助「華やかな散歩 : 佐藤惣之助詩集 その6」新潮社(大正11)
「春すぎし : 佐藤惣之助詩文集」鶴書房(昭和17年)



44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:26
アリランの唄(朝鮮民謡)  (佐藤惣之助)   (1932.2. 淡谷のり子、長谷川一郎 )

日本でアリランが歌になったのは、1932年に佐藤惣之助作詞・古賀政男編曲による『アリランの唄』が最初だったという。「アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えゆく」と始まる。
長谷川一郎と淡谷のり子がデュエットで唄った。
長谷川一郎は蔡奎耀の日本名である。
が、これが日本版アリランかというと、そうでもない。4年後に西条八十作詞の『アリラン夜曲』、鈴木かほる作詞と高橋掬太郎作詞の別々の『アリラン小唄』、さらには高峰三枝子が唄った
『アリラン・ブルース』まであった。
 ttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0876.html



45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:30
萩原朔太郎は、佐藤惣之助の義弟で、マンドリンをやっていた。萩原朔太郎は、古賀政男のファンであるとともに、古賀メロデーを高く評価していたことで知られている。


46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:33
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)

「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、昭和12年1月、もうすぐ70年ですが、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。
最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。

  
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。
ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm





47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:34
最近、歌番組で「名曲」という言葉が頻繁に飛ぶ。「昭和の名曲」というのは、今や昭和50年代頃のをさすらしい。 テレビ「思い出のメロデー」は、今や昭和30年頃のロカビリーあたりから始る。日本が貧しくとも心豊かだったころ/昭和前半の歌はやはりいい。



48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:39
以前NHK育テレビで『大希林』というのがあって、「樹木希林」(きききりん、字不明)さんが、なんか作詞の講義をしていて、何回作ってもどうしても長くなってしまう。
・・そして何言ってるんだかなんか良くわからない。・・そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、きりんさんが出した最高の『詩』が何と『人生の並木路』でした。
別に歌番組でも、まして古賀メロデー番組でもなかったのですが、「人生の並木路」・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩が披露されました。「佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、昭和12年、デイックミネ』とのナレーションの後、若きディックミネの歌う昭和12年オリジナルレコードがかかります。

あの時代が生んだ、たぶん今後出ることはないでしょうだろう詩人ではないでしょうか。



49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:43
昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。

ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア


50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 20:29
古賀政男は、自伝「古賀政男「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。

佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡がみられる。その中には、「新作おわら」、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア 」ななどがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 ttp://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html

・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料




51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 20:30
八十と惣之助
  大正期の詩人として、西条八十(1892 ? 1968)と佐藤惣之助(1890 ? 1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあ らず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家とし て名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/02(Sat) 09:42
日本の代表的な作詞家・

故人では、日本の代表的な作詞家で、生前、優れた作品を残した作詞家をご紹介してまいります。
 
  ttp://www.sakushi.com/n_sakka/

 野口雨情、北原白秋、長田幹彦、佐藤惣之助、西条八十・・(年齢順)



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/02(Sat) 12:06
西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四家文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいづこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

また、少女雑誌などに多くの著作を寄せるなど文筆活動も多い。映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。



54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:40
1934(昭和9)年、5月15日に古賀文芸部ともいうべきテイチクの東京文芸部が発足した。古賀は、まず歌手の発掘に力を注いだ。古賀がやはり最初に目をつけたのは藤山一郎に似せた芸名の藤村一郎という歌手だった。藤村一郎とは、3年前の1931(昭和6)年、《キャムプ小唄》を誰に歌わせるか、「上野」の期待の逸材・増永丈夫(藤山一郎)と最後まで人選に残った大阪コロムビアの黒田進である。
1935(昭和10)年2月15日、古賀・楠木コンビの最初の大ヒット曲《白い椿の唄》が発売された。楠木繁夫は<雪もかがやけ 青春の 花は涙のおくりもの>と感傷的な哀愁を切実に歌っている。菊池寛の小説『貞操問答』が入江プロ、新興キネマによって映画化され、その主題歌が古賀に依頼されたのだった。 

ミスターテイチク・楠木繁夫の名前を決定的にしたのが、日活映画『緑の地平線』の主題歌《緑の地平線》のヒットである。1935(昭和10)年10月新譜。まるで、テイチクのこの世の春を呼ぶかのように絹のような肌ざわりのある楠木繁夫の美声がこの曲にのった。《緑の地平線》は、楠木繁夫の生涯最大のヒット曲であった。


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:45
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。本名は、1939年の歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)との結婚後に坂本操になっている。

1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽市生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業後、1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。

松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が、ポリドールからコロムビアが引き抜いてきた江口夜詩の作曲により、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒット。その後は、『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』などのヒットを連打し、美貌と美声を兼ね備えた流行歌手として人気を博すが、1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため、1年間の療養を余儀なくされる。
1937年(昭和12年)には復帰を果たし、同年7月、NHKの特別番組として、当時の女性歌手が総出演の音楽放送『鶯の競演』に出演。松原操の出演中に番組を中断し、盧溝橋事件の臨時ニュースが流れたのである。デビュー当時から、『流浪の民』などの声楽曲は、本名の松原操でレコードが発売されていたが、日中戦争勃発後、彼女がレコーディングした戦時歌謡も殆どが松原操の名前で発売されている。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:48
藤山 一郎、1911年4月8日 - 1993年8月21日)は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシックの声楽家。バリトン歌手として活躍。東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。慶應義塾幼稚舎卒業、慶應義塾普通部卒業。東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『青い山脈』『長崎の鐘』など多数のヒット曲を歌った。理論・楽典に忠実に歌うということから正格歌手と評され、日本語の明瞭度の高さは楷書の歌と評された。その一方で作曲家・指揮者としても活躍した。1992年、スポーツ選手以外では初めて存命中に国民栄誉賞を受賞した。



57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:53
二葉 あき子 広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)を経て、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
 レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
 昭和11年(1936年)、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。

58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 11:49
四家 文子(よつや ふみこ)、1906年 - 1981年7月16日)は昭和期の歌手、声楽家。
東京都出身。東京府立第三高女を経て、東京音楽学校を首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名もしていた。しかし、佐藤が周囲の反対を押し切り、渡欧してしまうと、佐藤の吹き込みが予定されていた曲が四家に回ってくることになった。そして、この「銀座の柳」は大ヒットとなった。この曲は関東大震災で焼失した銀座の柳が、佐藤の歌った「東京行進曲」で復活したのを記念する歌だった。歌詞に「昭和」と出てくることから、昭和7年当時はまだ「昭和」の元号が新鮮だったことが伺える。その後も次々とヒット曲を連発、太平洋戦争勃発後は軍歌、戦時歌謡を多く歌ったほか、昭和18年には日本人最初のベートーヴェン「第九」の録音(第4楽章のみ。尾崎喜八訳。橋本國彦指揮・東京交響楽団)にも参加している。
戦後は流行歌手として生きることに区切りをさし、声楽家として活躍した。昭和41年には淡谷のり子、金田一春彦、古関裕而らと「美しい日本語と香り高い歌」をモットーとした「波の会」を結成した。昭和40年代の懐メロブーム当時は、既に歌手というよりも声楽家として知られ、評価も高かった。そのためか、テレビで自身のヒット曲を披露する機会は少なかったが、乞われれば声楽家の活動に差し障りが無い限り歌っており、また舞台ではヒット曲を積極的に歌っていた。昭和50年に乳癌を患うが、闘病の末、克服する。昭和56年7月16日に胃癌のため死去。新聞の訃報欄には「歌手 四家文子」ではなく「声楽家 四家文子」と書かれた。

59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 12:00
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:20
故郷の白百合

作詞 サトウハチロー
作曲 古賀政男



香りも高き 故郷の

丘のこかげの 白百合よ

あの日の姿は そのままに

いまでも心に 咲いている

霧島昇、松原操の歌った爽やかな歌です。・・


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:26
青い牧場
 
  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲


  誰(タレ)の涙か 朝露か
  仔山羊の角が 光ってる
  どこだよそこだよ あの丘だ
  どこだよそこだよ あの蔭(カゲ)だ
  売られた仔山羊は 仔山羊は
  メエ メエ 帰ってくる

この歌は童謡風なさわやかな歌です。
昭和15年、藤山一郎、奈良三枝が歌いました。


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:31
[のぞかれた花嫁]  

作詞:玉川映二(サトウハチロー) 編曲:古賀政男 (原曲:アメリカ民謡)
歌:杉狂児 昭和10年 
日活多摩川1935「のぞかれた花嫁」主題歌 (もう一つが『二人は若い』)




♪〜誰も見てない部屋なら アノ甘い接吻しない
  ネエお前 貴方とふたり ああより添うて交わす
  嬉しいくちづけ 扉の外から
  誰かが覗いてる
  アラまあ 二人を見てる〜♪

♪〜空は青空 窓から アノ夢の浮き雲見つつ
  ネェ交わす 笑顔も二人 ああ若いもの同士
  高鳴るよろこび あふれる胸だよ 
  小鳥も共に歌ってる
  アラまあ 嬉しい僕ら〜♪




63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:40
島昇
霧島 昇(大正3年(1914年)6月27日 - 昭和59年(1984年)4月24日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本栄吾。福島県双葉郡大久村出身。
大正3年(1914年)に福島県双葉郡大久村(現:いわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。
浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長松村重武(俳優・松村達雄の実父)の目にとまり、昭和11年(1936年)にコロムビアに入社。当時のコロムビアは松平晃が看板スターだった。霧島は松平を目標に歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い音色と邦楽的技巧表現を生かした。
翌昭和12年(1937年)に『赤城しぐれ』でデビュー。昭和13年(1938年)に松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)と共に吹き込み大ヒット。昭和14年(1939年)にミス・コロムビアと結婚。前年に吹き込んだ「旅の夜風」が縁結びとなった。その後も『一杯のコーヒーから』、『誰か故郷を想わざる』などの大ヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれる。
太平洋戦争中は海軍に所属し、赤紙が届いた際に『若鷲の歌』の大合唱で送られたというエピソードも残っている。戦後は並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに『三百六十五夜』、『胸の振り子』などのヒットを放った。生涯に吹き込んだ数は3千曲を超える。


64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:44
淡谷のり子
淡谷 のり子(1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身。


1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立第一高等女学校を中退し母と妹と共に上京。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。
柴田稲子の指導を受け首席で卒業した。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い「十年に一人のソプラノ」と絶賛される。

世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置く。母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。キングでも吹込みをはじめる。当時、佐藤千夜子の活躍以来、奥田良三、川崎豊、内田栄一、四家文子ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた。
1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。映画館の専属となりアトラクション等で歌う。当時、東洋音楽学校からは青木晴子、羽衣歌子らが流行歌手として活躍していたが、東京音楽学校出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていた。淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された(後年復籍)が、1963年に起きた母校の内紛(東洋音楽大学事件:創業者一族の鈴木理事と経営側理事が対立し、双方が暴力団を「警備員」として大学に呼び込んだスキャンダル)に際しては、淡谷を中心に卒業生たちが東京声専音楽学校(現・昭和音楽芸術学院)に集まり、理事たちの異常な行為を糾弾した。
1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。A面は「酒は涙か溜息か」。歌唱者の藤山一郎は、当時東京音楽学校の学生で、将来を嘱望されていた。卒業後、ビクター専属藤山一郎(声楽家・増永丈夫)となる。後にテイチク−コロムビアを経て数々のヒットを飛ばし、淡谷のり子とは音楽上の盟友である。
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。


65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/04(Mon) 15:58
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。



66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/04(Mon) 19:09
あけみの唄 昭和7年(1932年)

作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ




67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/05(Tue) 09:40
<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
 八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・  
 肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50) (中公文庫1978)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      


68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 11:00
昔、昭和戦前の流行歌の歌手は、殆ど東京音楽学校〈現在の東京芸術大学(音楽学部)の前進)その他の音楽学校出身者が多かった。

河原喜久恵、四家文子、徳山l(たまき)、関種子、藤山一郎(増永丈夫)、楠木繁夫、松原操(ミス・コロムビア)、二葉あき子などのように官製の東京音楽学校出身で、しかも四家文子、関種子、藤山一郎(増永丈夫)は首席卒業だった。

その歌声を聴けばすぐわかる。


69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 21:47
昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。
そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。
・古賀政男(正男)初期のレコード 
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の作品

古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌)。


70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:21
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子
  

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:54
『文のかおり(古賀正男作詩作曲編曲)』、『娘心も(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『青い小鳥(作詩者不詳・古賀正男編曲)』、『風の鈴蘭(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『片思い(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』ら5曲がビクターレコードで佐藤千夜子によって吹込まれたのは昭和4年(1929)12月23日。
続いて、昭和5年(1930)10月20日、『日本橋から(浜田広介作詩)』、『影を慕いて (古賀正男作詩作曲編曲) 』2曲が、佐藤千夜子の歌唱でビクターレコードで吹込まれた。
佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し たのだ。昭和9年に再び日本に。


72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 23:00
・コロムビア専属作曲家・古賀政男   最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村 関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺   島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄  島田芳文 藤山一郎  1931年6月 コロムビア 26325


73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:08
>>70

日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月

かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月



74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:22
影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月


影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月



75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 10:29
色々な歌手がカバーしている「影を慕いて」、絶望の中から生まれたとされる「影を慕いて」は、今から80年以上前の昭和3年(1928)、まだ学生時代の古賀政男(正男)によって、昭和3年(1928)の秋、秋雨そぼ降る下宿で作曲されたという。

そして「明治大学マンドリン倶楽部」のるギター合奏による《影を慕いて》の初演は、昭和4年6月22日の第14回定期演奏会(赤坂溜池三會堂)だそうです。

これを最初にレコードにしたのは、ビクターのスタ−歌手で、日本における「レコード歌手第一号」とされる佐藤千夜子。昭和5年10月20日だそうです。(発売は昭和6年1月)

佐藤千夜子は、この8日後にイタリアに渡って、昭和9年に帰国するのですが、当然行われるべき宣伝・バックアップもできずこれが広く歌われるまでには至らなかったようですが、このレコードに依って、一苦学生・古賀正男は「コロムビア」の専属作曲家として迎えられることになるのです。
なお、古賀政男は後に自伝『我が心の唄』〈展望社)で、佐藤につい『[私に作曲家としての道を与えてくださった終生の恩人』とかいている。


これを歌ったのは、同じく古賀政男作曲の「キャンプ小唄」を歌った増永丈夫(藤山一郎)でこれが「流行歌手」としての初デビューでした。
これ以後、古賀政男、藤山一郎のコンビはレコード会社が何度か変わるも、今に残る数々のの殊玉の名曲を世に送り出すことになる。

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手によって支えられたのです。(藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビューで、昭和6年。)

今の東京芸術大学音楽学部の前進『東京音楽学校』首席卒業である藤山一郎は、本名・増永丈夫(たけお)の名では、主にクラッシックを歌っていた。




76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/13(Wed) 18:51
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html


77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 13:37
中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。
あほかと。



78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 15:43
戦前の歌手がステレオで再吹込みした録音盤があるけど、
やはり最初の録音がいちばんいい、声も若々しくきちんと歌っている。
再録音は声も衰え、編曲もヘンな風にアレンジしてあり違和感を覚える。


編曲…確かにオリジナルの前奏や間奏が変にアレンジされてて違和感ありますね。




79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:12
(参 考)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」           ウェッジ選書 2005
吉川潮 「流行歌 西條八十物語」           新潮社、ちくま文庫
佐高信 [悲歌 古賀政男の人生とメロディ]      毎日新聞社)
松井義弘「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」 石風社2007)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13 年/復刻 昭和53年10月)
寺山修司 [日本唱歌集]〈カッパブックス30−17〉  光文社1972

菊池清麿「評伝・古賀政男―青春よ永遠に」 アテネ書房 (2004/07)
菊池清麿「藤山一郎 歌唱の精神」 春秋社 (1996/06)
菊池清麿「永遠の歌姫 佐藤千夜子」 東北出版企画 (2008/12)
菊池清麿「中山晋平伝―近代日本流行歌の父」 郷土出版社(松本) (2007/06)
菊池清麿「さすらいのメロディー鳥取春陽伝―日本流行歌史の一断面・演歌とジャズを駆け抜けた
男」                  郁朋社 (1998/12)
菊池清麿「国境の町―東海林太郎とその時代」 北方新社 (2006/12)
菊池清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」論創社 (2008/04)
菊池清麿「私の青空 二村定一  ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代」論創社(2012/01)
菊池清麿「評伝古関裕而 国民音楽樹立の途」 彩流社 (2012/8/23


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:19
松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)
 主な曲・・

『キャンプ小唄』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『月の浜辺』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:河原喜久恵]
『丘を越えて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『窓に凭れて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:関種子]
『スキーの唄』(昭和6年12月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『山は招く』(昭和7年5月)[佐藤吉五郎作曲、歌:中野忠晴]
『恋の大島』(昭和8年7月)[佐々紅華作曲、歌:藤本二三吉]
『急げ幌馬車』(昭和9年1月)[江口夜詩作曲、歌:松平晃]
『ハイキングの唄』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫]
『夕べ仄かに』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:松島詩子]
『歓喜の丘』(昭和13年5月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『青春の丘』(昭和14年5月)[陸奥明作曲、歌:北廉太郎]
『雪の満州里』(昭和16年11月)[陸奥明作曲、歌:ディック・ミネ]

その他



81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:16
HKまたたび日記 〜☆きよ友何人できるかな☆ 『人生の並木路』。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/horse_shoejp/4914483.html


82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:58
氷川きよし節(木曜日・演歌名曲)人生の並木道

ttp://blogs.yahoo.co.jp/hkpure1218/30084096.html



83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:07
日本歌謡曲を支えた名作曲家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/sakkyokuka.html


84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:16
日本歌謡曲を支えた名作詞家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/index.html


85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 11:13
昭和初期〜20年代の歌謡曲の良さは異常。

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:27
改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。

87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:32
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。

88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:50
ステレオ再録音は編曲も悪いし旧録音には到底及ばない

89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:11
NHK様、どうかド演歌歌手に懐メロを歌わさないでください。イメージがまるつぶれになります。


90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:44
やはり、懐メロはSPオリジナル原盤で聴かないとないと絶対ダメ!!


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/22(Fri) 16:40
昭和前半のの歌謡は、第一級の詩人・作詞家が心をこめて作った詩に、当代随一の第一級作曲家が心をこめて曲を付け、第一級の歌手が心をこめて録音したもので、
貴重な文化遺産と言えます。

大切に歌い継ぎ、大切に残して行かねばなりません。

92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/25(Thu) 09:36
昔は作詞にしても、作曲にしても、演奏にしても、歌うにしても、それぞれそれに人生を掛けた、勉強したそれぞれプロのやることだった。
そしてレコード会社がプロデュースするものだった。

その後、素人作詞・作曲の歌を競う番組ができたりして、素人音楽がもてはやされていく。

「シンガーソングライター」と言って、何でも一人の、ド素人が作って演奏して歌うというとんでもない悪夢のようなことが
当たり前になっていく・・・

歌の文句さえ、『ボク・・』だとか、詩にもならないような他愛も無い、わけもわからないものがほとんど。
歌うというかわけもわからない文句を喚き立て、がなりたて、一人で悦にはいってるかのようなものがなんと多い事か!。


[飽食の時代]といわれて久しい、物があり余る時代、半世紀以上前、まだ日本が貧しかった時代・その時代の主流だったSPレコード、レコードやCDさえほとんどみうけられないが、幸い、You Tubeがあり、名歌手が歌うSPオリジナルが聞けるので、これをぜひ聞いてみよう。

その素晴らしい詞、すばらしいメロディ、すばらしい歌声・・これを聴いたことが無い今の若者は不幸です・。

日本のこの文化遺産を聴いてみれば、心が癒され人はいつでも原点に帰ることができるでしょう。



93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:06
今、レコード店では最近の若者ののばかりで、昔のレコードはもちろん、CDは非常に少なくなっているようです。
一方、You tube ではSPオリジナルが聴けることがあり注目です。



94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:08
なお、SPを含むレコードの蒐集・保存・公開については、小田急線代々木上原駅前にある日本唯一の音楽博物館「古賀政男音楽博物館」や、九段下、靖国神社前の「昭和館」、「国会図書館」(国立国会図書館デジタル化資料(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源(1900〜1949))で聴ける他、各図書館にもCDがあります。



95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:40
古賀政男アメリカへ
昭和13年〜14年の訪米記録
古賀政男音楽博物館 2013年4月2日(火)〜2013年7月31日(水)

古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、外務省音楽親善使節としてアメリカを訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。今回の企画展では、この訪米についてその道のりをたどりながらご紹介します。
ttp://www.koga.or.jp/plan/plan_19.html

古賀政男音楽博物館
東京都渋谷区上原三丁目6−12
Tel:03-3460-9051 / Fax:03-3460-9052

?新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
?京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:43
新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

小田急線代々木上原駅ホームすぐ前です。



97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/12(Wed) 00:48
1938年の藤原義江・世界歌の旅

1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。



古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。

南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。

そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/22(Sat) 19:06
日本のタンゴ界でも、1937年に声楽家の藤原義江がアルゼンチンで、タンゴを録音し、1940年に作曲家古賀政男も『東京ラプソデイ―』等をタンゴのレコードとして出しています。そして往年のファンにはとても懐かしい早川真平率いる“オルケスタ・ティピカ東京”や歌手藤沢嵐子等が日本のタンゴ黄金時代の荷い手でした。



99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 22:33
毎日新聞社「写真 昭和30年史」には、昭和6年の扉に世相と「古賀メロデー」のことが有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』の楽譜の絵と共に出ている。満州事変(9月18日)が起こった昭和六年は、歴史に残る「東北大凶作」だった。なお、日本の歴史は「凶作」の歴史でもあり、コメが余るなどと言われるのは戦後も40年代後半のことだったのだ。)

「・・東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」がはんらんしていった。」・・と。

東北大凶作やそれに伴う娘や身売りなど農村の疲弊は、その後の太平洋戦争に至る遠因のひとつとも言われる。「古賀メロデー」の時代、昭和前半の時代は、まだ日本が豊かになる前の苦難の歴史でもあった。その中でも、「古賀メロデー」が彗星のように登場し、多くの大衆に迎え入れられ、やがて「古賀メロデー」として称えられるようになった「古賀メロデー」の歴史的重みがひしと伝わってくる。


100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 23:16
「飽食の時代」と言われ久しくなった今、物が在り余る時代、日本の大衆音楽も様変わりしてしまったのは残念なことです。作曲家の名前の後ろにただ「メロディ」を付けただけのたくさんのナントカメロディが氾濫し、そして、重い言葉であるべき『名曲』というものさえ大量生産され、軽い意味で頻繁に使われるようになったのには違和感を感ずるものも少なくないことでしょう。
最初に「メロディ」を付けて呼ばれるようになったのが「古賀メロディ」だが、まず最初にあげられるべきは何と言っても、昭和歌謡の歴史に燦然と輝く「古賀メロディ」です。以下「古賀メロディ」とその歴史についてです。

昭和の歴史の中で彗星のように出現した作曲家・古賀政男(1904〜1978)は、昭和レコード歌謡の黎明期、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えによって誕生したといえる。
佐藤千夜子は、中山晋平(1887〜1952)の弟子で、まだレコードの普及も、ラジオもない頃から、東京音楽学校を中退して、詩人野口雨情や作曲家中山晋平とともに「全国歌の旅」に参加、晋平の歌を世に広めた歌手である


この運動の中で作られた新民謡『波浮の港』は日本における最初の商業レコードとされる。レコード歌手第一号と言われる「佐藤千夜子」のことについては、昭和53年NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』でも取り上げられた。『いちばん星』では、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子、西条八十、古賀正夫(政男)などまさに昭和レコード歌謡を築き上げた人物が登場する
レコード音楽は昭和と共に始まった。日本ビクター、日本ポリドール、日本コロムビアなど、日本に本格的なレコード会社ができたのは、昭和2年(1927)から3年にかけてである。そして古賀政男が『影を慕いて』を作曲したのがまだ明治大学学生だった昭和3年(1928)秋とされる。

作曲家・古賀政男が誕生したのは、3年後の昭和6年3月だった。レコード作曲家とその歌としては中山晋平の「波浮の港」などの他、「君恋し」の佐々紅華(1907〜1961)、「道頓堀行進曲」、「女給の唄」の塩尻精八、「沓掛小唄」の奥山貞吉(1887〜1956)などまさにレコード歌謡の黎明期といえるだろう。



101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:49
日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)

歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家




102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:53
昭和14年(1939)、著作権に悩まされていた日本は、「仲介業務法」施行に伴い内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十など詩人や作曲家など作家が会長となっている。知る人ぞ知る、錚々たる昭和時代の歴代会長。

参考までに、現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。「古賀政男音楽博物館」とともに、「古賀政男音楽文化振興財団」が所有管理する。

多くの歌手たちが通った広大な旧古賀政男邸の面影は今は無い。島倉千代子が玄関までの路の長かったことといった門からの石畳の坂道が音楽博物館の2F通路に再現されている。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/12(Mon) 11:12
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。






104 名前:¢ 投稿日:2013/08/18(Sun) 23:13
(°д° )
(|y |)

105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/30(Fri) 21:17
SP歌謡・回顧と展望

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:08
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。古関の場合、言われていることと実際には大きな乖離があるようだ。作曲家になる当たりの昭和の4、5年頃のことも楽譜など何一つ残っておらず不明な点が多く見られるのだ。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:40
歌詞をもった歌謡作品というものはクラシック作品とは違って、テクニックではないのだ。
どんなに優れていたとしても、詩と一体となって、真に心のつぶやきや、心の叫びから出たものでなければ、けっして多くの人に共感・共鳴を与えることはできないのだ。

古関の作品は決して少ないというわけでもないのだが、いいのものもあるにしてもが残念ながら全体的に、メジャ−な作品(ヒット作品)が見あたらないのだ。


108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:42
言われていることと違って、古関はヒット曲が出ないで悶々とした日々を送っていた。その頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。



109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:48
苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。


110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:51
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。だから、古関の実際のデビューは、この昭和10年と言える。だがそれ以降も苦しい立場は変わらなかった。


111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 09:22
作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなはずだ。

コロムビアの中でずっとヒット曲に恵まれず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。だが30年代に日本の歌が大きく変わるまでの一時期だった。

1936年(昭和11年)に「蘇州夜曲」の服部良一、昭和13年には、映画「愛染かつら」 三部作などの万城目正がコロムビアレコード専属となった。

また、昭和9年にコロムビアを退職し、テイチク専務として、「テイチク黄金時代」を築き、昭和13年に退職した古賀政男が、テイチクを退社。

昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカを訪問。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流などをこなして、日本に凱旋した古賀政男が、昭和14年にコロムビア専属に復帰している。
そして昭和8年以来の西條八十とのコンビを復活させ、第四期黄金時代を築く。



112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:46
☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文

「酒は涙か溜息か」(1931)、「丘を越えて」(1931)、『影を慕いて』(1931/1932)、・・満州事変が始まった昭和6年(1931)デビューから、翌昭和7年にかけての、このコロムビアに置ける彗星のようなビッグな三曲の登場によって、歴史的な「古賀メロディ」というものが確立してゆくこととなる。

このことは、毎日新聞社[写真 昭和30年史](毎日新聞社1956)の記述にも窺える。


古賀政男が自伝『わが心の歌』に、三人の詩人としてあげている佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉などの名詞との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。


なお「酒は涙か溜息か」(1931)の高橋掬太郎(1901−1970)は北海道根室市出身。1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら文芸同人誌に参加。詩や小説、脚本などを手がけ、昭和6年、酒は涙か溜息か」で作詩家デビュー。これは自身が日本コロムビア文芸部宛に直接投稿したもので、当時新進作曲家として注目されはじめていた古賀政男の作曲、藤山一郎の歌唱でメガヒットした。

作曲家古賀政男が作曲の醍醐味を味わうのは、詩人・佐藤惣之助と出会ってからだと自伝にある。


昭和6,7年頃の、最初期の古賀メロディを支えた詩人に、「乙女心」(1931.6)の鹿山 鶯村をはじめ、「丘を越えて」(1931)の島田芳文(1898〜1973)、「チャッカリしてるわね」(1931.6)、「嘆きの夜曲」(1932)の西岡水朗(にしおかすいろう)がいる。

なかでも島田芳文の「丘を越えて」(1931)は決定的に大きなインパクトを持つ。



島田芳文(1898〜1973)

島田芳文は、福岡県豊前市生まれ。早稲田大学出身、中学時代に若山牧水に短歌を学ぶ。
大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

プロレタリア文学運動に身を投じ、民謡詩を経て、古賀メロディ「丘を越えて」を初め 多くの大衆歌謡を手がけた

昭和6年の「キャンプ小唄」でレコードデビューしてコロムビアの専属となる。古賀政男とのコンビでは数々のヒットを生み、後にポリドール、テイチク等に籍を移して活躍した。


なお、島田芳文には、「霰やこんこ」、 「旅の鳥」、「仲よし小よし」(島田芳文作詞 佐々木英作曲)、「てんてん手毬」(島田芳文作詞 河村光陽作曲 )「よいよい横丁」(島田芳文作詞 佐々木英作曲)、「大寒小寒」(島田芳文作詞.平岡均之作曲)など童謡多数や、「昼の月」(島田芳文作詞 大中寅二作曲)、「みづすまし」(島田芳文作詞 大中寅二作曲)などの作品もある。



前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、音のキャンバスいっぱいを使った、「三分間の芸術」の極致を行く「古賀メロディ」・・『丘を越えて』は、その典型的で顕著な初期の名曲です。


島田芳文は北軽井沢をこよなく愛し、戦後は浅間高原の近くの山荘に住み自然を友として悠々自適の生活に生きた、そこと豊前市の生家に「丘を越えて」の碑がある。

松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)


主な曲(古賀メロディ)・・

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1931.7
月の浜辺   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  河原喜久恵 1931.7
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1931.12
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  関種子 1931.12
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 藤山一郎 1932.1
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  関種子 1932.1
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)   楠木繁夫 1937.3
夕べ仄かに  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) ディックミネ 1935.1
ハイキングの唄(島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 楠木繁夫   1935.5
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)   藤山一郎 1938.3




113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:46
(参考) 島田芳文詩集

大正11年、野口雨情の門下となり、新民謡集「郵便船」(大正12年)を出す。昭和になってから自由詩から定型詩へと移り、昭和2年(1927)、処女詩集「農土思慕」刊行。

島田芳文「郵便船 民謡集」詩人会1923
島田芳文 処女詩集「農土思慕」抒情詩社1927
島田芳文「萱野の雨 民謡集」秀芳閣 1928
島田芳文「現代新民謡選集」 第1輯 1929
島田芳文「日蔭花」秀芳閣1929
島田芳文「紅殻とんぼ(童謡集)」秀芳閣1930
島田芳文「雀の唱歌(童謡集)」 秀芳閣1932
島田芳文「どろどろ坂(童謡集)」秀芳閣1934
島田芳文「曠野に歌ふ(歌謡集)」秀芳閣1935
島田芳文 [どんどろ坂 第四童謡集] (日本レコード協会 1935)
島田芳文「桃栗三年」1937
島田芳文「東方の鷲 : 国民歌謡集」 (国民歌謡作家協会1939)
島田芳文「心のふるさと : 島田芳文詩集」富士出版社
島田芳文「心のともしび : 島田芳文詩集」富士出版社
島田芳文「心のやすらぎ : 島田芳文詩集」富士出版社





114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:49
☆西岡水朗と初期古賀メロディ

西岡水朗(にしおかすいろう)は、長崎の民謡詩人から出発した詩人。昭和5年に「雲仙音頭」と「長崎小唄」が認められ、作曲家の杉山長谷夫と声楽家の四家文子に招かれて上京、多くの作品を生んだ。

「ニャンニャン踊り」 (西岡水朗/佐々木英 )、「狸の茶釜」 (西岡水朗/佐々木英 )、「関取人形」(西岡水朗/佐々木英 )などの童謡作品もある。

古賀メロディ、古賀政男コロムビア専属第一作、昭和6年6月、「乙女心」〈鹿山鶯村作詞、関種子歌)と裏表の「チャッカリしてるわね」(天野喜久代歌 )の作詞者。

『嘆きの夜曲』は、昭和7年(1932)の関種子が歌った大ヒット古賀作品で、『影を慕いて』などと並ぶ古賀政男作品の名曲。初期古賀作品の中でも、とてもセンチメンタルな雰囲気が伝わる作品。



チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 天野喜久代 1931.8
博多小夜曲 (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)  関種子 1931.8
風も吹きよで   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 丸山和歌子 1932.4
嘆きの夜曲    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子 1932.7
二見情話    〈西岡水朗作詞、照屋朝保補作詞、古賀政男作曲、佐々永治編曲〉1932.7
歓喜(よろこび)の歌(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 中野忠晴  1933.1
男ごころ     (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫   1934.8


「チャッカリしてるわね」は、松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声映画)の主題歌で、天野喜久代(1897〜1945?)は. 大正2年に帝劇歌劇部二期生として入部。二村定一と初期のジャズソングの多くを歌って人気歌手となったが、昭和20年の東京大空襲で亡くなったといわれる。


古賀政男初期の隠れた名曲『二見情話』〈1932コロムビア〉は、『嘆きの夜曲』と一体で『嘆きの夜曲』として、JASRACに著作権信託されている。(作品コード 059-0343-2  嘆きの夜曲)

沖縄民謡『二見情話』は、まだ誰も沖縄、二見など注目しなかった時代の作品で、哀調を帯びた、「古賀メロディ」と沖縄民謡が融合したような、東北民謡のような、沖縄民謡であって沖縄民謡らしからぬところがたいへんいい歌です。


この歌は、沖縄民謡の大家の間でも「古賀メロディ」と酷似したメロディライン〈DNA〉を持つとされる。

特に、「嘆きの夜曲」〈西岡水朗作詞、昭和7年、関種子)とのメロディラインの酷似が指摘され、古賀メロディのアレンジ(パクリ)と言われています。


民謡と言うのはそういうものかもしれないが、収容所で突然出てくるものではない。デタラメだった旧著作権法下でのまさしく「嘆きの夜曲」の西岡水朗作品そのものがある。


西岡水朗はもともと長崎民謡からスタートした民謡詩人で、かつ沖縄民謡の大家の補作詞や編曲を受けている本格的なもの。

(沖縄ウチナ‐の有力者で合った照屋朝敏氏が沖縄戦の二見に有った収容所で作詞・作曲とされていて、平成二年に沖縄民謡「二見情話」の「石碑」が建てられ、そう書いてあるようですが、突然古賀メロディのDNAを持つ曲がができるとは考えられない。)


(参  考)
決定盤 古賀政男全集(上) 国民的名曲のすべて 〜丘を越えて〜 (日本コロムビア COCP-37091-3)
DISC1 06 二見情話 / 知名定男、大城美佐子(1975ステレオ録音版)
ttp://store.shopping.yahoo.co.jp/toemifc/88092.html

なお、鹿山 鶯村(かやま おうそん、1897-1961)は、いくつかの民謡詩集を持ち、昭和5年11月、佐藤千夜子の「太平小唄」を作詞している。古賀政男のコロムビア専属第一作であるとともに、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた関種子のコロムビア専属第一作でもある。

太平小唄 (鹿山鴬村作詞、 小松平五郎作曲) 佐藤千夜子1930.11 ビクター
乙女心  (鹿山鴬村作詞、 古賀 政男作曲) 関種子   1931.6  コロムビア
♪朧月夜のその頃に・・





115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:51
(参考)民謡詩集

◇明治38年 野口雨情『枯草』水戸:高木知新堂。
◇大正8年  竹久夢二『たそやあんど 民謡』東京:玄文社。
◇大正10年 野口雨情『別後』東京:尚文堂。
◇大正11年 北原白秋『日本の笛 民謡集』東京:アルス。
◇大正12年 島田芳文『郵便船 民謡集』詩人会。
◇大正13年 時雨音羽『うり家札 民謡集』米本書店。
◇大正15年 佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和3年  鹿山鶯村『野良の娘 民謡』東京:誠志堂書店。
◇昭和3年  野口雨情『野口雨情民謡叢書 第一篇』西巣鴨町:民謡詩人社。
◇昭和3年  島田芳文『萱野の雨 民謡集』秀芳閣。
◇昭和4年  佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。
◇昭和4年  西岡水朗 『片しぶき 民謡集』秀英閣。
◇昭和4年  北原白秋『作曲白秋民謡集』東京:改造社。
◇昭和4年  島田芳文『現代新民謡選集』 第1巻秀芳閣出版部 1929
◇昭和6年 鹿山鶯村『嵐の夜』東京國民書院1931
◇昭和10年 西條八十『西條八十詩謡全集6(民謡篇)』東京:千代田書院。
◇昭和10年 島田芳文 [どんどろ坂 第四童謡集] 日本レコード協会 1935

(その他)
西條八十「民謡の旅」(朝日新聞社1930)
鹿山鶯村 [明け行く満蒙の透視]( 岡村書店 1933)
岐阜戦前詩誌 「夕陽ただる」 3 新年号 1928/1/1 (岐阜女子大学所蔵)
井崎進(大垣市石切町) 秀芳閣印刷部(東京市本郷区追分町) 民謡・詩・研究会(大垣市石切町)
執筆者: 島田芳文 塚本篤夫 吉堂芳明 西岡水朗 坪井憧三 井崎すすむ 野田欣三 北原紫之介






--------------------------------------------------------------------------------


116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 11:54
SP歌謡は、今危機にあると思います。昭和も遠くなりにけりとなって、「SP歌謡」を知る人も少なくなっていると思います。歌もハッピーなものばかり。テレビの歌番組で「昭和」とは、昭和の末、50年代以降のようですし、歌える歌手も居なくなった。

今こそ、このSP歌謡文化遺産を正しく残して行くことが大切です。


さて今、この状況を象徴するかのように、時々[花は・・]という復興支援ソングと言うのが聞こえてきます。地震直後から放影されていたものですが、でもこの歌には何か大切なものが抜けているのではないだろうか。


花が無くという大震災・大津波の被災とは不釣り合いな、ハッピ−な軽い文句ばかり、何の歌なのかもよくわからない。

遭難、避難された多くの人々があって、やはりその事実、悲しみ、嘆きに寄り添うことなしに、軽々しく復興支援ソングなどといってもらいたくないでしょう。


そんな中、震災直後からYou Tubeに、関種子歌唱 古賀メロディ「嘆きの夜曲」で、解説にはこうあります。・・

嘆きの夜曲 関種子 公開日: 2012/03/05    (*)
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。・・


80年前の古いレコード、それが80年後に起こったこの大震災・大津波(の憂い)をも予期したかのように包含していて、その鎮魂歌としてもぴったりするのは驚きです。(検索は*で)

短いフレーズのなかに、的確に、嘆き、苦しみを凝縮しているようで、詞もメロディーも、シンプルなゆえにかえって、時代を超えて、その事象に対する普遍性を保持して歴史の重みを感にさせる、名曲の名曲たるところで、すごいことです。


憂い,哀しみを歌ったら右に出るものは無い古賀メロディ、時代を超えて生き続ける理由もここにあるといえるでしょう。



117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 12:00
古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作。

「古賀メロディ」の始まりは、昭和4年(1929)12月23日から、昭和5年(1930)10月28日にかけての、佐藤千夜子による「文のかをり」や「影を慕いて」「日本橋から」など古賀作品7曲のビクターレコード吹き込みに始まる。

古賀政男がコロンビア専属作曲家となるのは昭和6年(1931)3月である。以後、古賀メロディを支えた名歌手〈戦後を除く〉たちと、その古賀メロディ第一作。


☆古賀メロディを支えた歌手

関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞)   1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)    1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞)   1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア  東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞)   1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞) 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ   立教大学    戀は荷物と同じよ (瀬川与志作詩) 1935.6
杉狂児 東京音楽学校 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞) 1935.10
千早淑子(松島詩子)       純情一座の唄  (玉川映二作詞)    1936
奥田英子          別れの唄 (山川あさを作詞)  1936
有島通男   東洋音楽学校  春まだ浅く   (石川啄木作詞)  1936.4
由利あけみ  東京音楽学校  黒いパイプ   (倉仲佳人作詞〉 1937.9
李 香蘭(山口淑子)*     紅い睡蓮  (西條八十作詞)   1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  誰か故郷を思わざる(西條八十作詞) 1940.2
菊池章子   東洋音楽学校  相呼ぶ歌   (西條八十作詞) 1940.9
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
中野忠晴   武蔵野音楽学校 歓喜の歌   〈西岡水朗作詞〉  1933.1
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7
奈良光枝   東洋音楽学校  青い牧場    (サトウハチロー作詞) 1942.12
波平暁男 東京音楽学校  b月夜船 (藤浦洸作詞) 1944.11
近江俊郎   武蔵野音楽学校  明日もまた  (サトウハチロー作詞) 1944.11
轟由紀子   宝塚音楽歌劇学校 勝利の日まで  (サトウハチロー作詞) 1945.1

*李 香蘭
幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環に師事。

瀬川与志、 倉仲佳人、玉川英二は、サトウハチローの別名。






118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:16
李香蘭と古賀メロディ
李香蘭?山口淑子?は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。1920年に中国の撫順で日本人の両親に間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。

13歳のとき、同い年の白系ロシア人の娘リューバに紹介されたのが、亡命オペラ歌手、マダム・ポドレソフだった。彼女について声楽を学んだ淑子は歌の才能を見事に引き出され、やがて前座としてステージに上がり、ラジオで紹介されるまでに。


『私の半生』によると、李香蘭は元来、体が丈夫でなく、肺浸潤を患って半年休学し、自宅静養する彼女を励ましてくれた、リューバ・モノソファ・グリーネッツという、ユダヤ系の白系ロシア人少女が同級にいた。そのリューバが、病弱の李香蘭に呼吸器をきたえる健康法として、「クラシック歌曲」を習うことをすすめ、知り合いのマダム・ポドレソフを紹介してくれたおかげで、のちの彼女があるといっている。

マダム・ポドレソフは、ミラノ音楽学校教授を父にもつイタリア人で、ロシア貴族のポドレソフと結婚し、オペラ歌手として帝政ロシア時代のオペラ座で活躍しました。ドラマチック・ソプラノの世界的な名手だったので、指導者としては申し分なしだったと思います。

『私の半生』には、李香蘭が、日本の歌曲「荒城の月」を祖国への郷愁そのものととらえ、シューベルトの「セレナーデ」、ベートーベンの「イッヒ・リーベ・ディッヒ」、グリークの「ソルベージュの歌」をうたい、中国の哀歌「漁光曲」や民謡の「鳳陽歌」のメロディを好んだことが出てきます。

また、李香蘭は三浦環に師事した事でも知られる。

こうしたことが、李香蘭の歌をクラシックを基盤にしながらも、より幅広いものにしていたのではないでしょうか。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったのが「荒城の月」というのもわかります。
そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが、昭和17年9月(発売)、古賀政男編曲になる。COL100542 荒城の月/宵待草 李香蘭

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる他、国立近代美術館フィルムセンターでもみれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だったという。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏

李香蘭は、コロムビアで昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲の古賀作品で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。

いろいろ歌っているが、李香蘭は、「紅い睡蓮」のほか、「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」「サヨンの歌」など古賀作品と関係が深い。

(参考資料)
山口淑子『「李香蘭」を生きて』日本経済新聞社(2004)
羽田令子『李香蘭、そして私の満州体験 日本と中国のはざまで』社会評論社(2006)
山口淑子、藤原作弥『李香蘭 私の半生』新潮文庫(1990)






119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:17
☆李香蘭の歌う古賀メロディ

さらば上海 (時雨音羽作詞、古賀政男作曲)李香蘭1939.9(初唱1932関種子)
紅い睡蓮     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1940.11
興亜三人娘 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)奥山彩子、李香蘭,白光1940.12
黒き宝       (西条八十作詞、古賀政男作曲) 李 香蘭 1941.6
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(霧島昇、松原操、李香蘭)1941.7
夜霧の馬車 (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
北京の子守唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1941.11
迎春花(インチュンホワ)(西條八十作詞 古賀政男作曲)李香蘭 1942
夕月乙女   (西條八十作詞、古賀政男作曲)   李香蘭 1942.7
花の生命      (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲) 霧島昇、李香蘭 1942.8
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫、李香蘭 1942.8

荒城の月(土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲)、明大マンドリンクラブ伴奏、李香蘭 1942.9 COL100542

宵待草  (竹久夢二作詞、多忠亮作曲、古賀政男編曲)李香蘭、明大マンドリンクラブ伴奏1942.9 COL100542

若き日の夢    (西條八十作詞、古賀政男作曲)  李香蘭 1943.3
サヨンの歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 李香蘭 1943.5





120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/06(Fri) 13:22
☆古賀メロディと霧島昇


日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから凱旋帰国した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952








121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:36
5000曲とも言われる古賀政男の、昭和3年から53年に亡くなるまでの半世紀にわたる作品群には、実にたくさんの作品が有り驚かされます。

その中に、昭和17年の「荒城の月」編曲があり、李香蘭のSPレコードが、You Tube やCD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]〈CD16枚〉などで聴くことができます。

「荒城の月」といえば、藤原義江や三浦環、山田耕筰。古賀政男自伝『わが心の歌』〈展望社1965初版〉には、藤原義江は古賀政男が昭和13年11月、外務省音楽親善文化使節としてアメリカに派遣されるにあたって見送るなど、三浦環や藤原義江と古賀政男とは信頼と親交が有ったことが、写真とともにあります。

また、山田耕筰は外国人に日本の音楽を紹介するのに、よく古賀政男の「丘を越えて」を紹介していたといいます。

以下一見関係がなさそうで深い関係が有る、古賀政男と「荒城の月」について参考に。


※古賀政男と「荒城の月」

「荒城の月」(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)という歌は、現在の東京芸術大学〈音楽学部〉の前身である「東京音楽学校」主導で中学の音楽教科書のためにつくられた。

明治34年「中学唱歌」の懸賞応募作品として作曲し、入選となった作品だが、メロディーだけで伴奏が無く、後に三浦環に頼まれた山田耕筰がピアノ伴奏を付けたものが今日歌われているものとされる。

明治44年、師である瀧廉太郎が日本最初にドイツに留学するにあたって、門下生である三浦環は、送別演奏会で「荒城の月」(『荒城月』)を歌った。

当時は「歌曲」と言えば外国曲(でなければばらない)とうのが一般的風潮だった中で、昭和3年、藤原義江によってビクターで吹き込まれたのが「荒城の月」レコードの最初。

哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した楽曲。

世界で活躍していた我等のテナー「藤原義江」は、どこの国に行っても自分の生れた国の歌も歌えないようでは相手にされないとして、率先して日本の歌曲を歌い広めた事でしたれる。

三浦環の「歌姫は強き愛国心をもたざれは」に通ずることだ。

他に、藤原義江は山田耕筰の「この道」その他や、弘田龍太郎の「叱られて」「浜千鳥」などをレコードにしている。

『荒城の月』は、特定の史実・史話に基づいたというものではないが、つい30年前「明治維新」 における日本の内戦である戊辰戦争(慶応4年/明治元年〜- 明治2年(1868年 - 1869年))と無関係ではないのだ。

武家の「栄枯盛衰」とそれに伴う「無常感」が滲んだ詩は、お寺の「講話」にも使われている。
「荒城の月」は、1898(明治31)年、土井晩翠は会津の「鶴ヶ城」をイメージして造られたものだと土井晩翠自身が語っている。(※)

※土井晩翠が1927年6月29日滝廉太郎45年祭で語り、放送された。

幼い頃から父と祖父から戊辰戦争における会津の悲劇と仙台から見た会津の英雄伝をたくさん聞かされて育った晩翠。

そして二高の時、明治維新後、落城したまま、ほったらかされていた「鶴ヶ城」に行き、悲惨な戦争の跡地から月を見て、なんとも儚い想いを詩にした晩翠の詩、それに子供のころを過ごした・大分県竹田の「岡城」から曲を着想した滝廉太郎の作曲がおりなす「荒城の月」。

「李香蘭」が戦地慰問でかならず最初に歌ったというのもわかります。そしてこの李香蘭が歌う「荒城の月」こそが昭和17年古賀政男編曲になる。

戦乱の世の栄華と哀愁とがないまぜになった名曲・・しっとりしていい歌いで、風格、品格を保ちつつ、ひとつひとつの言葉が心に深く沁みてきます。

「荒城の月」をオペラでも歌うつもりか、頭の芯に突き刺さるような高い声を張り上げて歌うクラッシックを標榜する若手歌手が今、少なくないが、戦時中慰問先で「李香蘭」の歌う「荒城の月」は何と美しいことか。どれほど多くの兵士を勇気ずけたことか。

この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見れる他、国立近代美術館フィルムセンター、歌は以下に含まれる。

李香蘭が戦地を慰問した際に最初に歌うのが、この「荒城の月」だった。戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる映画である。

「荒城の月」;土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲 古賀政男編曲 明大マンドリンクラブ演奏


なお、滝廉太郎作曲「荒城の月」の原曲は無伴奏で、以下「山田耕筰編曲版」、「本居長世編曲版」、「橋本国彦編曲版」、それに、李香蘭が戦地で歌った「古賀政男編曲版」がある。




122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:37
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  tp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/



123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 15:38
☆「荒城の月」について

『荒城月』 (土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲)  明治34年発表(無伴奏)

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/山田耕筰・編曲) 大正6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/本居長世・編曲) 昭和5年発表

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/橋本国彦・編曲) 昭和6年編曲

『荒城の月』(土井晩翠・詩/瀧 廉太郎・曲/古賀政男・編曲)昭和17年編曲(歌李香蘭)


☆(参考)「荒城の月」 SP時代の主な名盤

 1928.02 藤原義江 VIC1175赤盤

 1931,01 萩野綾子 VIC13109赤盤         (橋本国彦編曲版)

 1931,02 奥田良三 POL631631

 1933.05 四家文子 VIC52673

 1933.07 増永丈夫(藤山一郎)VIC52756      (橋本国彦編曲版)

 1936.01 関屋敏子 VIC13452赤盤

 1937.10 藤原義江 VIC13527赤盤

 1942.09 李香蘭  COL100542 @赤盤(スダレ)   (古賀政男編曲版)


(参考)古賀政男編曲「荒城の月」CD

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
(荒城の月 ;No,16−14)
ttp://joshinweb.jp/dp/4988001187691.html
  tp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA349020/

・CD「夜霧の馬車 山口淑子 (李香蘭) 」1990 COCA-71089
 15.宵待草   李香蘭 古賀政男編曲、 明大マンドリンクラブ演奏
 16. 荒城の月 山口淑子 (李香蘭)(歌); 作詞 土井晩翠; 作曲 滝廉太郎; 編曲 古賀政男 明大マ ンドリンクラブ演奏
ttp://music.yahoo.co.jp/record/dtl/LAA318749/



124 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:33
☆三浦環と古賀政男

日本が生んだ世界的プリマドナ三浦環が、その63歳の生涯を終えたのは66年前、終戦直後の昭和21年5月26日のことで、東京渋谷の病院で死去。

環が亡くなった時、東大病院で解剖した彼女の声帯は、二十歳以下のそれだっ たという。
環は、ただ日本が生んだ世界的プリマドンナというだけでなく、当時の日本の音楽芸術家と言われる人たちがとかく西洋かぶれして日本の文化を見失っていたのと違って、日本をこよなく愛した。

祖国愛に満ちた、日本の島国的な発想の中に収まりきらない、たいへんスケールの大きな人物として知られている。かってNHKでもドラマがあった。また、三浦環と古賀政男には深い関係が有る。

なお、古賀メロディを支えた歌手に、三浦環に師事した李香蘭(山口淑子)、白光や、東京音楽学校を出て、『蝶々夫人』で三浦環と共演した由利あけみなどがいる。


「私は貴方の歌に恋してるのよ」・・古賀政男自伝『我が心の歌』(展望社刊1965) には二人のスナップ写真などが載っている。

古賀政男と三浦環(1884〜1946)この二人の大家の間には信頼と親交があったとしてもおかしくない。

三浦環は昭和13年の『古賀政男藝術大観』に萩原朔太郎などとともに序文を寄せている、古賀政男の芸術を高く評価していたようである。

三浦環は大正11年4月、懐かしい故国に錦を飾って帰朝した。6ケ月の里帰り中、全国を公演して回った。古賀政男の上記自伝によると、大正11年7月14日、学生時代、欧米で活躍していた三浦環が道内ツアーの折函館で演奏会を開いた。

そして「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」などを歌った、そして多勢の観衆を前にして「大日本帝国 万歳」と叫んだ。

古賀はそこにこの歌姫の類いまれな祖国愛と信念を感じ取り感銘を受けたこという。

展望社刊の自伝『わが心の歌』には、「昭和12年ごろの第一線作曲家が集まった写真」が載っていて、中山晋平、小松耕輔、弘田龍太郎、本居長世・・など錚々たる作曲家と共に古賀政男が写った写真である。

そこからは、昭和10年代に於いて、分野は異なるが、古賀政男は日本の第一線作曲家として、すでに日本音楽界の重鎮たちと比肩すべき大きな存在になっていただろうことが窺い知れる。

昭和11年(1936年)(『蝶々夫人』出演2000回達成後の帰朝で、昭和11年6月16日の「日本青年館」で行われた「第二十六回明大マンドリン倶楽部定期演奏会」で、三浦環が古賀メロディ『忘れなの花束』(野村俊夫作詩)と、『乙女心』(鹿山鶯村作詩)を歌ったという。

三浦環(柴田環)は、明治37年(1904年)に東京音楽学校を卒業してから研究科に進み、山田耕筰などを教え、明治40年には助教授になったが、夫とともにドイツに留学し、オペラの才能を認められ、以後オペラ「蝶々夫人」とともに昭和5年までの16年間世界で活躍した。

夏はテニス姿の若者があふれる山中湖村、この地にマダム・バタフライとして一世を風びした世界の歌姫、三浦環がその晩年を過したことを知る人はあまりいない。
戦争中、戦火を避けて山中湖畔に疎開した三浦環と、もうひとり河口湖畔に疎開した古賀政男、二人はサツマイモ一つも分け合う仲だったという。



125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:34
環が山中湖村平野で過ごしたのは、昭和18年2月14日、旅館三国荘別館に疎開。してから病を得て入院のため上京した20年の暮れまでの2年10カ月ほど。
後に87歳の母・登枝も加わったが、燃料、食糧共に乏しく、ひとしお寒さが身にこたえるこの地で、母は病床につき、あまつさえ寝たきり。その看護は環がほとんど一人で行ったという。

夜中に母の湯タンポを換える湯を沸かしながら、楽譜により勉強する芸の鬼、環の話は今に語り伝えられている。 .・

しかし、母は昭和二十年他界、地元の好意でこの地に葬ったが、環自身も昭和20年の暮、病を患って入院のため上京、翌21年5月28日、渋谷の病院で死去。

遂に生きて再び平野の土を踏むことはなかった。同年6月7日、日比谷公会堂で音楽葬、環自身の希望で今、平野の寿徳寺の奥津城(おくつき)に母堂、登枝と共に眠っている。

祖国愛に満ちた信念と自尊の明治の女だった環は、平野疎開中も、困難な交通事情ながら軍の慰問によく出かけたという。


今、平野寿徳寺の墓碑面には、環自筆の

《「うたひめは強き愛国心をもたざれば真の芸術家とはなり得まじ   環」》

との文が刻まれている。

ロンドンのロイヤルアルバ−トホ−ルで「蝶々夫人」に処女出演以来、ニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とし、「蝶々夫人」2000回公演を果たした三浦環。

世紀のテノール、エンリコ・カルーゾーと共演した三浦環、プッチーニをして「マダムバタフライはあなたによって初めて成った」と言わせた三浦環、その言葉である。

昭和20年12月、日比谷公会堂で自らの訳詩による「冬の旅」をうたうが、発病、上京して、渋谷の友人の病院に入院。昭和21年5月26日午前5時20分、渋谷の大東学園病院で死亡しました。

昭和21年入院中に放送と録音を行うも、5月26日死去。6月7日、日比谷公会堂で音楽葬。「富士山の見える湖畔で母とともに眠りたい」という環の遺言により、母堂・登枝の眠る山梨県山中湖村平野、寿徳寺に葬る。

環が愛用したピアノは、環の住んだ部屋共々、今、平野の三国荘別館に保存されているという。(公開されていない。)

   ttp://www.nakash.jp/opera/kikou05/18fuji/4miura.htm
   ttp://yamanakako.info/sisetsu.php?id=157
なお、三浦環の「募石」はもうひとつ、上野の寛永寺第一霊廟の入口近くにもある。「Madam  Butterfly」と刻まれている蝶の形をしていて、傍らの碑には、次の詩が書いてある。

    葛は西に東にまひつれど やはり嬉しき 古郷の梅かな





126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 16:38
一方、[古賀政男]は戦争中、当時の河口村(現河口湖町)に疎開しており、終戦を当地で迎えた。古賀が河口村に疎開したのは、昭和20年3月から8月まで。

今、河口湖湖畔にある記念碑の碑文によると、きっかけは陸軍省からの一本の電話だった。
古賀政男作曲の「誰か故郷を思わざる」が前線の兵士に熱狂的に愛唱され、兵士は遠い祖国を思い、故郷を偲び、心を癒されていることへのお礼の言葉に続き、戦況が大変厳しい今、日本の大衆音楽文化を守るために、一日も早く疎開してほしいと、特別な計らいで差し向けてくれた陸軍省のトラックで、当時内弟子であった山本(古屋)丈晴の故郷河口村に疎開することとなったのだ。古賀が滞在した別荘は富士山を真正面に望む素晴らしい自然の中にあり、村の人々との温かい触れ合いのなかで、心休まるときを過ごしたという。

こうした中で、河口湖畔に疎開した古賀政男と、山中湖畔に疎開した三浦環。

自伝に依ると古賀政男はニッカポッカ姿で畑を耕した。そして二人は、収穫した物は芋のひとつ まで分け合った仲だったという。

平成18年11月、「古賀政男生誕百年」を記念して、古賀の偉大な業績を顕彰し、後世に正しく継承しようと川口湖畔に記念碑と音楽碑が建立された。湖畔公園/円形ホール・ オルゴールの森・河口湖美術館が立ち並ぶ湖畔エリア一帯は「古賀政男記念公園」になっている。
 ttp://www.fujisan-net.jp/GUNNAISPOT/spot-077.html
 ttp://www.geocities.jp/himeichi2006/kogamasaokinenkouen01.htm
 ttp://blogs.yahoo.co.jp/akiyannh/49450133.html

(参考)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人 : 小説三浦環」 講談社 (1969)
・瀬戸内晴美 著.「お蝶夫人」 (講談社文庫 せ 1-9) (1977)
・「人間の記録27 三浦環―お蝶夫人」 (日本図書センター (1997)


・三浦環−古賀メロディーを歌う・・ 菊池清麿・日常随想・昭和博物誌
  ttp://25877386.at.webry.info/
・三浦環と李香蘭   ttp://d.hatena.ne.jp/Cosmopolitan/20080322/1206140835

・流行歌曲について  萩原朔太郎
  ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html





127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:04
☆西條八十と古賀政男

「古賀メロディー」の歴史は、日本に「歌謡曲」という大衆歌謡ができて、それが大衆の間に根ずいた歴史そのものということができる。

以前ラジオで、落語家立川談志師匠が、今の歌手について、「『古賀メロディー』は歌謡曲のルーツのルーツだから、その根っこを知らないで歌ってもその歌は本物にはならない。「『古賀メロディー』を知らずして歌を歌うなかれ!」と言ってました。

「古賀メロディー」の登場、それは毎日新聞社「昭和30年史」にあるように、「昭和史」に燦然と輝く、怒涛のような「古賀メロディー」の歴史・・

優しく哀調を帯びたそのメロディーには誰にも真似できない、人生の青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも新しい。

「古賀メロディー」の歴史は、古賀政男が「終生の恩人」と自伝に書く「佐藤千夜子」との出会いを始めとして、藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。

そして「3S」といって、3人の詩人、佐藤惣之助〈1932〉、西條八十(1933)、サトウハチロー〈1935〉との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

戦前戦後を通じて西條八十と言えば、古賀政男。説明を要しないハイブランドである。

「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「巴里の雪」「お菓子と娘」などの歌曲、「銀座の柳」「旅の夜風」「誰か故郷を想わざる」「春よいづこ」「サヨンの鐘」「三百六十五夜」などの歌謡、」、「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・軍国歌謡で知られる西條八十・・・・、

戦前戦後に亘る生涯に書いた詩、訳詩および童謡、民謡、校歌、社歌などを含め、歌謡曲を合わせると15,000を数え、このうち、歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・


1992年に詩人・西條八十生誕100年記念の全集、CDアルバム16枚よりなる[西條八十全集  生誕百年」(CD16枚)(1992/10/1)が出ている。

CDアルバム16枚の内訳は、西條八十の戦前戦中戦後に亘る作品の集大成といえるもので、童謡編、歌曲編、外国曲編、新民謡編(中山晋平作品集)各1枚、計4枚。それに歌謡曲編11枚。「詩人の声」1枚である。

このうち〔歌謡曲編〕CD11枚で、〔中山晋平作品集1枚、古賀政男作品集3枚、古関裕而作品集1枚、服部良一作品集1枚、その他作品集5枚〕。

「詩人の声」には、・・「関東大震災の一夜」や、「 サーカスの唄(対談:古賀政男) 「誰か故郷を想わざる(同) 」「旅役者の唄(同)」など古賀政男との対談など八十の声が聴ける。




128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:08
関東大震災の翌年、大正13年の早春に早稲田大学の留学生としてパリへ行き、2年間ソルポンヌ大学で勉強した西條八十は、大正15年(1927)3月(昭和2年3月)に帰国して帰国後、早稲田大学で仏文学助教授(昭和6年に教授)になった。

詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。大正15年(1927)3月(=昭和2年3月)に帰国して、翌年昭和3年5月「マノン・レスコオの唄」が最初の作品。

彼が大衆歌謡に入るきっかけは、 大正12年9月、関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっかけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。


自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』(唄の自叙伝)

このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマ「西條八十の愛と歌」で再現していいた。なお、この、こんな安っぽいメロデーで・・は、「枯れすすき」(船頭小唄)。震災後、こんな歌がはやるから大震災が起きた・・とさんざんだったそうだ。


その後、西條八十は、日本帰朝の翌年昭和3年(1928)「マノン・レスコオの唄」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)を皮きりに、昭和4年「東京行進曲」(中山晋平)、「お菓子と娘」〈橋本国彦作曲、藤原義江歌〉「愛して頂戴」(中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)・・昭和6年「巴里の屋根の下」「わたしこのごろ変なのよ」・・など。

・西條八十初期の主な歌(昭和3年〜)
マノン・レスコオの唄 (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1928.5  VIC 50321@
當世銀座節   (佐々江華作曲、佐藤千夜子歌) 1928.7  VIC50371@
東京行進曲    (中山晋平作曲、佐藤千夜子歌) 1929.6  VIC50755A
愛して頂戴      (中山晋平作曲 佐藤千夜子歌) 1929.8  VIC50901A
不壊(ふえ)の白珠(しらたま) (中山晋平作曲 四家文子歌)  1929.12 VIC 50986A
唐人お吉小唄(明烏篇) (佐々紅華作曲、 藤本二三吉歌) 1930.2  VIC 51093B
唐人お吉の唄(黒船篇) (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.2  VIC 51093A
この太陽       (中山晋平作曲、 佐藤千夜子歌) 1930.6  VIC 51240A



129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:09
西條八十は,昭和4年(1929年)にビクターと専属契約を結び,昭和7年(1932年)に,ビクター専属のまま、コロムビアとも一年間専属契約を結ぶ。昭和8年(1933年)にはコロムビアとの契約が切れて,ビクター一本となるのだが,昭和10年(1935年)9月,ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属へと移籍することとなった。

大なり小なり、レコード会社の軋轢は皆抱えていたようで、古賀政男もテイチクに移籍した事で、新たな分野を切り開いた。一方、古賀政男とほぼ同時期にコロムビア専属となった古関祐而が、ずっとヒットを出せないで専属破棄になるところ、コロムビアのドル箱だった古賀政男の会社上層部にたいする抗議によって危うく命を繋いだということもあった。

そんな中で、コロムビアのドル箱、コロムビア専属の古賀政男と、ビクター専属の西條八十とのレコード会社専属を超えた1年間の提携が行なわれたのだ。

コンビの最初の一曲は、昭和8年1月、関種子が歌った「去りゆく影」・・♪涙ははてなしひとり弾くギターン調べ・・です。

この二人は、その後に続く「サーカスの唄(松平晃)」によって、西條・古賀コンビの名を決定的なものとし、レコード会社が変わった時期を除いて、そのコンビは戦後にいたるまで続いた。

また、「「お蝶夫人」の唄」(1933.3)は、「浮草の唄」でデビューしたばかりのミス・コロムビアの古賀メロ第一作。その後の蝶々夫人に関連した歌の魁的な歌。

*ビクター専属・西條八十のコロムビア作品(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、ビクター専属のまま、1年間同時にコロ
ムビア専属とした。)

去りゆく影  (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.1
恋ごころ      (西條八十作詩、古賀政男作曲)長谷川一郎 1933.1
初恋の唄      (西條八十作詩、古賀政男作曲)関種子   1933.2
強くなってね     (西條八十作詩、古賀政男作曲)渡辺光子  1933.2
来る来るサーカス  (西條八十作詩、古賀政男作曲)淡谷のり子 1933.3
「お蝶夫人」の唄  (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.3
椿姫の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) 淡谷のり子1933.3
浮草の唄 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア 1933.3
サーカスの唄    (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   1933.5
マダムバタフライの唄 (西條八十作詩、佐々江華作曲) 淡谷のり子1933.5
須磨行進曲(新民謡) (西條八十作詩、古賀政男作曲)中野忠晴  1933..6
十九の春 (西條八十作詩、江口夜詩作曲) ミスコロムヒア  1933.6
気まぐれ涙     (西條八十作詩、古賀政男作曲)ミスコロムヒア 1933.9
はてなき旅     (西條八十作詩、古賀政男作曲)松平晃   193310



130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:10
「サーカスの唄」の青春の哀愁を取り入れた悲しいメロディは若者の心をとらえ、興行の人気とともに広く愛唱されました。作詞が先にできあがったのですが、古賀はこの詩を受け取った時、感動で涙が止まらなかったと云うことです。

この後、昭和10年(1935)年9月、ビクター専属・西條八十はコロムビアへと移籍した。
この時、古賀政男はテイチクで活躍していた。




なお、俳人・楠本憲吉氏は、昭和53年12月に出版された「昭和の日本のこころ 古賀政男−我が歌は永遠に」〈平凡出版〉に、「日本人と古賀メロディ」と題し次のように書いている・・。

「今年の春ごろだったと記憶しているが、NHKで古賀氏にインタビューをした番組があった。病気の後で言葉は少し不自由だったが、頭はもちろんしっかりしていた。その中で古賀氏は、『今は、曲を付けたくなるような詩がなくてねえ』といって盛んに嘆いていた。
佐藤惣之助、西条八十、藤浦洸、サトウハチローらとつねにコンビを組んでいた古賀氏である。さもありなんと思って聞いていたものである。なかでも、「サーカスの唄」の詩を西条八十から渡されたときは、あまりに詩がすばらしいので、『僕にはこの詩に曲を付けることができません。』といって返したことがあるという話が印象的だった。結局は西条氏に『貴方に曲を付けてもらえないならこの詩は捨てる。』といわれ、あの名曲ができたそうだ。
そのとき若干自分の生い立ちにも触れたが、インタビューアーが母親の話をすると古賀氏はもうそれだけで涙ぐんでしまうのである。 とにかく苦労して古賀氏を育ててくれたそうで、このことを話してさめざめと泣かれた。この辺に作曲家古賀政男の原点があるのではないだろうか。 」

古賀政男は、昭和9年5月15日にテイチク移籍、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。古賀政男は、そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸(浅間丸)でハワイ経由でアメリカに向けて出港。

昭和14年8月31日、古賀メロディーが一分間一万ドルといわれたアメリカのNBC放送の電波にのった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。


コロムビア復帰第一作は、留守中に録音された 「誰も知らない」( サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 ミス・コロムビア歌、1939,3)

西條八十とのコンビ復帰第一作は、昭和15年2月(1940.2 )の「あの花この花」「「誰か故郷を想わざる」。

『なつかしの歌声』『春よいづこ』、1940.11 「熱砂の誓い」 1940.11 「紅い睡蓮」、1941.7 「そうだその意気」 1941.7 「夜霧の馬車」1941.7 「歌えば天国」1941.11「サヨンの鐘」「紅い睡蓮」「相呼ぶ歌」・・

昭和14年にテイチクから移籍した藤山一郎は、昭和29年にコロムビア専属を止めNHK嘱託となるまでコロムビア専属だった。コロムビア→ビクター→コロムビア→テイチク→コロムビアとほぼずっと古賀政男と共にした。

新たに古賀メロディを支えた歌手として、霧島昇、二葉あき子、伊藤久男、李香蘭〈山口淑子)、渡辺はま子などである。

あの花この花 (西條八十作詞、古賀政男作曲、二葉あき子歌)
ttp://taihou.web.fc2.com/newpagexxanohanakonohana.html

1940 .2 誰か故郷を想わざる      霧島昇
1940 .2 あの花この花          二葉あき子
1940.5 春よいづこ            藤山一郎、二葉あき子
1940.5 なつかしの歌声         藤山一郎、二葉あき子
1940,5 蛇姫絵巻        志村道夫、奥山彩子
1940.9 相呼ぶ歌   霧島昇、菊池章子
1940.11 熱砂の誓い          伊藤久男
1940.11 紅い睡蓮           李香蘭
1941.7  そうだその意気         霧島昇、ミスコロムビア、李香蘭
1941.7  夜霧の馬車       李香蘭
1941.7  歌えば天国       藤山一郎、二葉あき子、古川ロッパ
1941.11 サヨンの鐘       渡辺はま子
1942.7  夕月乙女        李香蘭
1943.3  若き日の夢       李香蘭
1943,5  サヨンの歌       李香蘭



131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:11
なお、昭和15年に佐藤惣之助は、コロムビア専属になっている。「新妻鏡」「馬」などはこの時期の作品。

戦後の西條八十は、中山晋平に続き、昭和28年から昭和40年まで JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟初代会長・・などを務めてもいる他、昭和37年(1962)には、芸術院会員となっている。

以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。

なお戦後、新東宝映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948.3)は、西條八十の「歌の自叙傳」を映画化した、西條八十の歌の集大成ともいうべき音楽映画で、岸井明、霧島昇、松原操らの歌手が特別出演する。その主題歌「あの夢この歌」は戦前戦後を通じて西條八十と多くの名曲を世に送り出した西條八十・古賀政男、両巨匠によるもの(霧島昇、二葉あき子歌)。

 ♪おさない日 かなしい日
  聞いた歌 懐かしメロディー
  君うたう 今うたう 花の唇燃えて・・

映画・あの夢この歌・・
大衆に広く愛された西條作品が劇中で数多く歌われる。地方公演を終えた楽団を乗せた列車に、詩人で作詞家の西條八十が偶然乗り合わせる。車内では楽団員たちが賑やかに八十の歌を合唱し始める。「ユーモア列車」と名づけた車両では、みんなが仲良く歌い、乱暴者は他の車両に追い出されてしまう。

次々と歌を披露するうちに、西條八十(斎藤達雄)が、流行歌を作るわけを語り始める・・

なお、この年、昭和23年9月、松原操(ミス・コロムビア)は、「三百六十五夜」(西條八十作詞、古賀政男作曲)を最後に歌手を引退し、以後歌う事は無かった。


(参考)
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」(日本図書センタ− 1997)
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
西條嫩子『父・西條八十』(中央公論社,昭50)
上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)

吉川潮「流行歌 西條八十物語」(新潮社、ちくま文庫)
なかにし礼「私感 西條八十」(中央公論新社1999)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」 (ウェッジ選書) 2005
和田 北斗「歌謡曲と戦争--戦時下の西條八十」2008
筒井 清忠「西條八十 」(中公文庫) )(中央公論新社2008)
菊池 清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」(論創社2008)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」(彌生書房1976)
西條嫩子編「西條八十童謡集」(彌生書房)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)(国書刊行会1991)






132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:15
>>127
>藤山一郎、関種子など東洋音楽学校首席の名歌手との出会い。


訂正

藤山一郎、関種子など゙東京音楽学校首席の名歌手との出会い。




133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:21
☆古賀政男 二つの「思い出の記」

古賀政男には「思い出の記」という人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。

「思い出の記」は、作曲は古賀政男だが、作詩は古賀政男作詩と、大木惇夫作詩の二つがあります。

大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲は陸海軍の礼式歌ともなった。


・古賀政男作詞  今、古賀政男歌と大川栄作歌もある。(昭和42年)

ああ思い出は 懐かしくふるさと恋て 訪ぬれば親同胞は すでに逝き誓いし友の 面影も今は虚しき 菜の花よああ人生は 夢の夢幾年変わらぬ 山川も流れる雲か 風に散る人の心は 山吹の花はほろほろ 散るばかり


・大木惇夫作詩(徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化)霧島昇歌(コロムビア100374@)


ああ馬の背に 涙してふるさと出でて 幾歳ぞ高倉山の 白雲にちかいし言葉 あだならず飾る錦は 誰ゆえにああ山河は 変わらねど人の心は 今いかに思い出の谷 夢の丘幼な馴染みの おもかげも今は虚しき 菜の花よ





134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:39
☆昭和戦前の作曲家


日本に本格的なレコード会社が登場したのは、昭和改元(1926)とともにあり、今から80数年余り前の昭和2年から3年にかけてです。

レコード歌謡の最初は昭和3年の「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)とされる。

SPレコードの時代は、戦前から戦後にかけて、映画「二十四の瞳」の時代と重なる日本がまだ貧しく、くるしい時代です。しかし、その中にも豊かな心をはぐくんでいたでしょう。

昭和、戦前戦中、今に残る数多くの名曲がレコードに乗って世に出ています。昭和の歴史が生んだ豊かな心の表れであるSPレコードとその歌声は文化遺産と言えます。

そして今歌われているそのほとんどは、主にここに上げた作曲家などによるものと言えるでしょう。


作曲家(昭和・戦前)

中山晋平(1887〜1952)(*)青い芒、波浮の港、当世銀座節、東京行進曲
弘田龍太郎(1892〜1952) 野薔薇の歌、無憂華の唄、いさおを胸に(編曲)、今年の燕、お国のために
佐々木すぐる(1892〜1966) 兵隊さんよありがとう、昭和の子供
佐々紅華(1907〜1961)君恋し、祇園小唄、浪花小唄、神田小唄
堀内敬三(1897〜1983)(*)黒い瞳よ今いずこ、麗人の唄、
塩尻精八        道頓堀行進曲、女給の唄
奥山貞吉(1887〜1956)ザッツ・オーケー、沓掛小唄,乳姉妹の唄、お島千太郎旅唄

古賀政男(1904〜1978)(*)影を慕いて、丘を越えて、あけみの唄、いさおを胸に、
松平信博(1893-1949) サムライ・ニッポン、ルンペン節、天国に結ぶ恋
江口夜詩〈1903〜1978〉 十九の春、忘られぬ花、急げ幌馬車
仁木他喜雄〈1901〜1958〉 高原の月、めんこい仔馬
万城目正〈1905〜1968〉旅の夜風、愛染夜曲、純情二重奏
服部良一〈1907〜1993〉(*)蘇州夜曲、別れのブルース、別れのブルース
佐々木俊一〈1907〜1957〉涙の渡り鳥
竹岡信幸(1907〜1985)赤城の子守歌,人妻椿
長津義司〈1904〜1986〉十三夜、
古関裕而〈1909〜1989〉船頭可愛や、愛国の花、露営の歌、暁に祈る
早乙女光〈1904〜1944〉湖畔の乙女、荒野の夜風、愛国の花、古き花園
明本京静〈1905〜1972〉父よあなたは強かった、伊豆の子守唄
大村能章〈1893〜1962〉旅笠道中、野崎小唄、
阿部武雄〈1902〜1968〉 流転、むらさき小唄、国境の町
山田栄一〈1906〜1995〉すみだ川

*日本音楽著作権協会会長歴任 (他に詩人、西条八十、サトウハチロー、勝承夫)



135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:41
☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)

昭和前半の昔の歌には、その3分間の中に「ドラマ」があって、歌詞と曲は一体のものでした。

当代随一と言われた詩人、作詞家、作曲家たちが心をこめて作った歌、そのさりげない短い言葉、そのメロデーの中に行間のドラマ、・喜びと哀しみを共有したのです。

昭和戦前の大衆歌曲(歌謡曲)分野に貢献した主な詩人・作詞家を参考に。


*野口雨情(1882〜1945) 波浮の港、鶯の夢、青い芒、紅谷の娘、
*西條八十(1892〜1970) (※)東京行進曲、誰か故郷を想わざる、旅の夜風
 時雨音羽(1899〜1980 ) 出船の港、鉾をおさめて、君恋し、浪花小唄
 堀内敬三(1897〜1983) 私の青空、アラビアの唄、黒い瞳よ今いずこ
 長田幹彦(1887〜1964) 祇園小唄、天竜下れば、島の娘
*島田芳文(1898〜1973) 丘を越えて、キャンプ小唄、月の浜辺、窓に凭れて
 高橋掬太郎(1901〜1970) 酒は涙か溜息か、雨に咲く花、人妻椿
*佐藤惣之助(1890〜1942)人生の並木路、新妻鏡、男の純情、青い背広で、
*サトウ・ハチロ−(1903〜1973)(※)麗人の唄、目ン無い千鳥、勝利の日まで、
*西岡水朗(1909〜1955) 嘆きの夜曲、忘られぬ花、
*大木惇夫(1895〜1977) 崑崙越えて、思い出の記、雲のふるさと、国境の町
*藤浦 洸(1893〜1979)ビア樽ポルカ、別れのブルース、月夜船
*久保田宵二(1899〜1947)浮草の唄、ほんとにそうなら、山寺の和尚さん、
 佐伯孝夫(1902〜1981) 無情の夢、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、
 門田ゆたか(1907〜1975) 東京ラプソディー
 藤田まさと(1908〜1982) 旅笠道中、明治一代女、妻恋道中、鴛鴦道中、
 倉仲房雄(サトウハチロー)合歓の木蔭で、東京の夢、友情夜曲、
 玉川英二(同上)     二人は若い
 星野貞志(同上)     うちの女房にゃ髭がある、あゝそれなのに
 山野三郎(同上)     若しも月給が上がったら
 島田磬也(1909〜1978)  白虎隊、望郷の唄、啄木の唄
 宮本旅人        旅姿三人男、懐しのヴィオロン
 石松秋二        十三夜、九段の母、満州娘
 矢島寵児1908〜1946) 名月赤城山
 清水みのる(1903〜1979)出船の唄、別れ船
 野村俊夫(1904〜1966)  暁に祈る、ヒュッテは招く、あの日あの時

(*は詩人。※は戦後において日本音楽著作権協会会長歴任(他に勝承夫))


136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:46
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・

 青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!

物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。



137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:47
彼が本格的に歌謡曲の作詞を手掛けたのは、古賀政男がコロムビア専属作曲家(1931.3)になった翌年、藤山一郎の「影を慕いて」(1932.3 コロムビア)が出た昭和7年(1932)からです。

その最初は、「金色夜叉(お宮の唄) 」(1932.2 関種子)、「鳩笛を吹く女の唄」(1932.2 井上静雄(藤山一郎)、いずれも古賀政男作曲です。下に、参考までに最初期の佐藤惣之助とのコンビによる主な作品をあげる。

この後、昭和8年1月には、夫人花枝と死別、同年8月に「日本詩人」や馬込の文士村での仲間の朔太郎の妹周子(かねこ・本名愛子)と再婚するとになった。

酒を愛し、釣りを愛した人として知られる惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

なお、歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も、それ以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」「怒れる神 」(昭和14年)、「わだつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわし生涯に22の詩集を出している。詩人や文人で彼の門下生も多い。

そして古賀政男は、「人生の並木路」や、「新妻鏡」など、感動で打ち震え楽譜を「大粒の涙で濡らしながら」多くの名曲を世に送ることになる。

昭和7年頃からの佐藤惣之助の作詞活動は、17年に亡くなるまでの10年間余りながら、「人生の並木路」「新妻鏡」「青い背広で」「男の純情」など古賀メロディを中心とし日本人に心の琴線に触れる多くの殊玉の名曲、それに新民謡、他の国民歌謡その他を含めて660篇余りにも及ぶ。

今年、平成24年(2012)5月は、この「古賀メロディ」で忘れてはならない詩人であり作詞家である佐藤惣之助(1890 〜 1942)が亡くなって丁度70年になります。


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった昭和17年(1942)の5月15日、佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後70年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。




138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 17:50
☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・

金色夜叉(お宮の唄)             1932.2 関種子
鳩笛を吹く女の唄               1932.2 井上静雄(藤山一郎)
秘めたる恋           1932.3 関種子
武雄の唄      1932.5 中野忠晴
春の唄      1932.6 淡谷のり子
月夜の恋   1932.6 丸山和歌子
朝顔の唄    1932.6 関種子
笛は冴ゆれど       1932.7 関種子
不如帰    1932.8 淡谷のり子
放浪の唄                  1932.9 長谷川一郎
アリランの唄(朝鮮民謡)    1932.9 淡谷のり子、長谷川一郎
愛は紅い       1932.9 関種子

「緑の地平線」や「人生の並木路」など、その後の主な映画主題歌については、「古賀メロディ−と映画主題歌」参照。



・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
   ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html
・阪神タイガースファンなら誰でも知ってる☆詩人・佐藤惣之助          
  テーマ:馬込文士村
   ttp://ameblo.jp/mocchann314/entry-10769706865.html
・六甲颪(ろっこうおろし)の歌詞から
   ttp://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-10736372304.html
・萩原朔太郎と佐藤惣之助
   ttp://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2008/02/post_4273.html
・二木紘三のうた物語
   ttp://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_1ee6.html




139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:13
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932.1,
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲) 1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲) 1933.3

乳姉妹の唄 (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲) 1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲)1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90




140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:23
☆古賀メロディと藤山一郎

最近のテレビやラジオの歌番組には、どういう意味か知らないが、「名曲」と言う言葉が鴻毛の如く軽く飛び交っていて違和感を覚える。

NHKはじめ歌番組では、「昭和歌謡」というのは、今や昭和50年代あたりから始まる。
 
たまに特集があるが、残念ながら最近の歌い手には歌いこなせる人が皆無のようだ。


昭和の日本の歌謡作曲家として、まずトップにあげなければならないのは大御所たる「古賀政男」です。

昭和の初めから、これまで作曲家は数多い中で、古賀政男ほど長きに亘って、数多くのヒット曲を世に送り出した人はいないのです。

昭和の初めから、 [古賀メロディー]という愛称で、数多くの不朽の名曲を作曲した歌謡界の大御所であり、日本歌謡界の巨人です。

そして、それは佐藤惣之助、西條八十などの稀有な優れた詩人とともに、古賀政男の作曲家としてのデビューとしての藤山一郎、関種子などの優れたクラッシックの声楽家によって支えられたのでした。

古賀政男の数々の名曲は、藤山一郎の名唱によって私達の貴重な財産となっています。


藤山一郎(1911〜1993)は、慶應義塾普通部を経て昭和4年に東京音楽学校(現、東京藝術大学音楽部)入学、昭和8年(1933)3月に卒業(主席)。


「キャンプ小唄」「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など今に残る名曲名唱は、昭和6年から7年にかけて、まだ上野の東京音楽学校在学中の、20歳の学生だった時の吹込み、この時古賀政男27歳、いずれも大ヒットとなる。

なお、藤山一郎は、昭和六年、《キャンプ小唄》で歌謡界にデビュー。藤山一郎としてはこれを含めて、アルバイト時代の1931年から1932年にかけておよそ40曲(うちコロンビアで30曲)を吹込んだという。いずれも藤山一郎の初期のコロムビアでの吹き込み(アルバイト)は80年以上前です。

80年前、昭和8年(1933)3月に卒業後、3年契約でビクター専属となった。

その後、昭和9年5月に古賀政男がテイチクに移り、藤山もビクターとの3年間の契約の切れた昭和11年(1936)にテイチクに移リ、「東京ラプソディ」(昭和11年7月)はじめテイチク黄金時代を築いた。

さらに昭和13年に古賀政男がテイチクからコロンビア移った後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山は昭和14年にコロムビアに移った。

なお、藤山一郎のコロムビア復帰第1回吹込は昭和14年9月で、「上海夜曲 」(野村俊夫作詞 仁木他喜雄作編曲)です。

何でも「名曲?」の今、「古賀メロディ」・・その優れた詩人や作曲家の心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが秘められた本当の名曲は、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。

デビュ−以来、ほぼ古賀政男と多くの「古賀メロディ」の不朽の名曲を歌いあげてきた事で知られる、「古賀メロディ」の最大の功労者・藤山一郎の代表的な曲を次にあげる。



141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:25
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1932年2月 井上静雄名
影を慕いて   (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の?(かもめ)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜(今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1(日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊    (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1941.3
歌えば天国  (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)       1941,7
リンゴが紅い (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場 (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝)  1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

(戦後)
嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌  (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952



142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 19:26
藤山一郎は昭和18年2月に、南方慰問に出かけ、一度帰国後すぐ再び南方慰問の要請を受け、ジャワ島で終戦を迎え、約1年間の抑留生活を送ることとなり、昭和21年(1946)7月帰国。

戦中であることを感じさせない、爽やかな童謡調の「青い牧場」(サトウハチロー作詞、1943.2、大映映画「青空交響楽」主題歌)は古賀・藤山コンビの戦前戦中の最後となった。


昭和21年7月25日、日本に帰国した藤山は、8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、日本での歌手活動を再開させ、ラジオとの関係を深める。

帰国後もコロムビア専属歌手として活躍し、NHKの連続ラジオドラマの映画化、菊田一男作、東宝映画「音楽五人男」に出演し、その主題歌である「夢淡き東京」をヒットさせた。五人男とは藤山一郎のほかに古川ロッパ、渡辺篤、高田稔、相原巨介のこと。

昭和29年9月にはレコード会社専属を止め、NHK(芸能局音楽部)の嘱託として、ラジオ番組に出演し、クラシックの香りのするホームソングの普及に努めるなど、ラジオ放送で本格的に活躍することとなった。

古賀政男が真に「古賀政男」たる真価を発揮するピークは、佐藤惣之助とコンビをくんで、作曲の醍醐味を思う存分に味わっていた昭和初年から戦中あたりだろう。もちろん戦後もいい曲はたくさんあるが。
 ttp://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990725

世の中が急速に変貌し豊かになって行くにつれ、昭和20年代半ばごろから歌の世界も大きく変わってゆく。そんななかで、古賀政男は曲を付けたくなる詩が無くてねえと盛んに嘆く。



戦後の古賀政男は、もはや一介の作曲家ではなく、すでに「歌謡界の大御所」という社会的存在になっていたのだ。

特に昭和30年代の「古賀政男」と言えば押しも押されもせぬ『日本の名士』だった。

指には大きなダイヤをつけ、その著作権料も他を圧倒していた。

昭和13年、「古賀音楽村」を作ろうと移り住んだ代々木上原の広大な旧古賀邸、多くの歌手たちが通ったという旧古賀邸は、現在「古賀政男音楽博物館」と、それと一体となったJASRAC本部ビル、いずれも古賀財団所有。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容、それは、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。

(現在、小田急線代々木上原駅と、すぐ駅前の井の頭通りに面した「古賀政男音楽博物館」を繋ぐ代々木上原駅沿いの短い通りは「音楽村通り」となっている。)

島倉千代子が、門から玄関までの路のなんと長く感じられた事かといったように、広大な古賀邸には大きな車庫がいくつもあり、何台もの外車を持ち、あちこちに観音様が祭ってあった。(その路が博物館内に再現されている。)

歌謡界の大御所・古賀政男は昭和33年12月、自ら「日本作曲家協会」を作って初代会長となり、作曲家達の権利擁護などに力を注ぐほか、「日本レコード大賞」を創設している。

藤山一郎は、昭和47年に初代東海林太郎(しょうじたろう)に次いで「日本歌手協会」の会長となった。なお、古賀政男、藤山一郎は、いずれも「国民栄誉賞」の栄誉に浴している。

昭和29年は「演歌歌手」のはしりとされる「春日八郎」の「お富さん」が流行した。「藤山一郎」のNHK嘱託は節目となる象徴的な出来事である。

(「春日八郎」は、浅草で藤山一郎のステージを見て歌手に憧れ、歌手を目指して上京。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を卒業後、1948年キングレコードの準専属歌手となった。)


「夜の湖」など古賀作品以外の戦後の藤山一郎の歌唱になるもの・・、

「夢淡き東京」 (サトウハチロー作詞、古関裕而作曲 1947)
「長崎の鐘 」 〈サトウハチロー作詞 古関裕而作曲 1949〉
「ニコライの鐘」(門田ゆたか作詞、古関裕而作曲  1951)
「青い山脈」 (西條八十作詞、服部良一作曲 1951)
などがある。



143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:31
☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ

歌謡曲(流行歌)は日本の貴重な文化であり、後世に継承してゆくべきものです。

ところが過去の音楽は放送もされず聞く機会も失われ、名曲の数々が埋もれてしまっているので、このままいくと、将来「名曲」を誰も知らないという事態に発展しかねないのは残念なことです。。



昭和9年(1934)5月15日、コロムビアを退社した古賀政男によって、テイチク東京文芸部(古賀文芸部)が発足、ここにテイチク黄金時代がスタートする。

テイチク黄金時代の立役者は、楠木繁夫、ディックミネ、杉狂児(東京音楽学校)など、それに昭和11からビクターから移った藤山一郎が加わる。

日活と提携して沢山の映画主題歌も作られ、昭和12年だけでも40曲以上もの映画主題歌が作られたという。


デックミネ(本名、三根 徳一)、は、立教大学商学部卒。昭和9年(1934年)タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを、淡谷のり子に見出されレコード歌手の道を歩むこととなる。

同年、テイチクの重役だった古賀政男の推薦で「ダイナ」をレコーディング。「ダイナ」では自ら訳詞と編曲、演奏を担当。テイチクの重役だった古賀政男の推薦で,昭和9年「ダイナ」をレコーディングしデビュー、和製ジャズ歌手の草分けとなる。

二村定一を日本のジャズ・ポピュラーの始まりとするなら、ディックミネはその路線の継承者ともいえる存在で、彼は生涯に500曲以上ものジャズ・レコードを吹き込み、その普及に大きく貢献している。

サトウハチロー原作、日活多摩川、渡辺邦男監督1935『うら街の交響楽』(音楽、福田宗吉・古賀 政男)の、[恋は荷物と同じよ] (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)1935.6(川畑文子、ディックミネ)、(東京日々新聞社(現・毎日新聞社)第1回映画コンクール1等入選作。)が古賀作品との最初となる。


昭和12年(1937)1月8日、日活映画 渡辺邦男監督『検事とその妹』(竹田敏彦原作「検事の妹」)が公開されることになった。

昭和11年、その主題歌となる「人生の並木路」の歌詞が、佐藤惣之助からテイチク文芸部宛に郵便で届いた。封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲したという。


楽譜を渡されたデイックミネは、音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕にはとても歌えません。こういうのは歌ったことは無いし、首を横に振っても、縦に振ってもどうしてもうたえません、誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ、歌はなければこの歌はすてる。」とまで言われ譲らなかったとのエピソードが残されている。デイックミネ27歳のときである。

古賀政男は口移しで一生懸命手にとって教え込んだという。そしてあの名曲が世に出たのだ。

藤山一郎や、楠木繁夫など音楽学校出の歌手もいたのにだ。

若き、ディックミネの歌う悲壮感漂う名曲で、3分間が1時間位に思われ、思わず映画の世界に引き込まれ涙が溢れてしまう。オリジナルで聴く事を勧める。


古賀政男は歌にかける思いは尋常でない、この歌を歌えるのは、歌うのは誰かを見極めるのに人一倍長けていて、人一倍熱情を注いだことがわかる。

そのことが、「古賀メロディ」と言われた所以であり、「古賀メロディ」が多くの人に長く愛された理由でもある

因みに、挿入歌「聖処女の唄」は藤山一郎。主題歌「人生の並木路」は藤山一郎でも楠木繁夫でもなく、歌謡曲をまったく歌ったことの無い初めてのこの男だった。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のある歌で,「古賀メロディ」のすばらしさが存分に味わえる名曲です。


戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。




144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:31
おかげで、戦後の「歌謡ショー」などでも、この「人生の並木路」を歌わないと許されなかったというほど、「人生の並木路」は、ディックミネの最大の持ち歌になった。

ただ、戦後、ディックミネがテレビの番組とかで歌っていた「人生の並木路」は、アレンジされ、さらっとしていて、《昭和12年、日活映画「検事とその妹」》オリジナル(テイチク1200)とはだいぶ異なる。(You Tubeでも聞ける・)


かって、女優・樹木希林さんをしてテレビ番組で「簡潔にして適切 これを超えるものは無い!」と言わしめた「佐藤惣之助」の名詞とあいまって、映画を超え、これこそ時代を超え、世代を超えて生き続けるものでしょう。

ディックミネのテイチク時代の代表的な古賀メロディを以下に示す。


☆ディックミネの代表曲(古賀メロディ)

恋は荷物と同じよ (瀬川与志=サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(川畑文子)1935.6
望郷の唄 (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1935.7
二人は若い (玉川英二作詞、 古賀政男作曲) 1935.10(星玲子)
波止場がらす (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
夕べ仄かに   (島田芳文作詩、 古賀政男作曲) 1935.11
ゆかりの唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11(台詞:星玲子)
白衣の佳人の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.3
愛の小窓    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.10
人生の並木路 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937.1(テイチク1200)
ギターに寄せて (星野貞志作詞、 古賀政男作曲) 1937.5
恋のハワイ   (吉本英夫作詞、 古賀政男作曲) 1937.12
黄河の月 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(三根耕一名)1938.7
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、 古賀政男作曲) (楠木繁夫)  1938









145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:35
☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫

昭和6年(1931)3月にコロンビア専属作曲家となった古賀政男は、その後専属レコード会社を

@ コロムビア(昭和6 〜9年) 第一期黄金時代
A テイチク (昭和9〜13年)  第二期黄金時代(テイチク黄金時代)
B コロムビア(昭和13年〜戦後) 第三期黄金時代、戦後第四期黄金時代

と変わった。そして変わった先でそれぞれ時代を築き、「黄金時代」を築いた。

古賀政男には、戦後の黄金時代を含めて、4つの「黄金時代」が有る。

古賀政男は多くの歌手を呼寄せ発掘し、育てたことで知られる。その一人テイチク、コロムビアにおける楠木繁夫は、早生したためあまり知られていないようだが、藤山一郎、ディックミネと並ぶ「古賀メロディ」テイチク黄金時代を築いた立役者の一人。

大正13年(1924)、東京音楽学校師範科に入学、本科の声楽部に進み、「城ヶ島の雨」の作曲家梁田貞に師事。しかし学生運動で校則などに抗議したことから、同級の高木東六とともに除籍処分となった。

昭和9年(1934)5月に、作曲家・古賀政男を重役として迎えて間もないテイチクの専属に迎えられ、昭和10年(1935)には、古賀政男とのコンビで、「白い椿の唄」「ハイキングの唄」「男のまごころ」「緑の地平線」と大ヒットが続き、一躍大ヒット歌手となる。

古賀政男が抜けた後の江口夜詩―松平晃のコロムビア、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う「古賀メロディー」のテイチク、佐々木俊一が台頭するビクターと三つの構図で激しいヒット競争が展開し、世にいう「テイチク黄金時代」が出現。

古賀政男は重役として迎えられ、日活映画と提携するなど存分に活躍する。そして、「人生の並木路」など多くの映画主題歌が作られた。

昭和13年、古賀政男がテイチク上層部との対立から「人生劇場」(1938.6)
を最後に退社すると、楠木もビクターに移籍。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した。

そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。

昭和14年〈1939 〉8月31日、アメリカのNBC放送から、古賀メロディーが全米に流れ、世界の古賀政男という名声を得ての凱旋だった。そして、昭和14年10月10日に帰国した。コロムビア復帰後の古賀政男は第三期黄金時代を迎える。

また、昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。

現在の古賀政男音楽博物館のある代々木上原は、古賀政男が昭和13年に移り住んだ街。古賀政男は、この代々木上原の地に、音楽創造に邁進する同志を集めて「音楽村」をつくろうという構想を持っていた。

古賀政男を初期には自信がなく、洋楽傾向を持っていて世界の音楽を取り入れていた。

その後、特に昭和14年8月、一分間1万ドルと言われたアメリカNBC放送の「世界の電波」に乗って以降、古賀政男はますます自信を深め、自身に満ち溢れたものであったという。

そして、作曲の傾向も洋楽傾向から邦楽の傾向を強めて行く。

古賀政男はコロムビアで第三期黄金時代を迎えるのだが、「古賀政男藝術大観」が出版されたこの昭和13、14年ごろと言うのは、このように自信に満ち溢れ、脂の乗りきった、絶頂期にでもあったのだ。

その後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山一郎も、昭和14年古賀不在中のコロムビアに移籍。そして、10月10日に古賀が帰国する。

昭和10年(1935)9月、ビクターに対する著作権上の不満などから、ビクター専属を離れコロンビア専属となっていた西條八十、昭和13年(1938)にテイチクをはなれて、コロムビア専属となっていたサトウハチロー。

昭和15年(1940)にコロムビア専属とていた佐藤惣之助、そして古賀政男がコロムビアに揃うこととなったのである

そして、楠木繁夫も、昭和17年(1942)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍、大映映画「歌う狸御殿」にも出演。第3期黄金時代を迎えた。

「花白蘭の唄」(1942.8)以降はコロムビアでの作品である。




146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:36
☆楠木繁夫の代表曲

国境を越えて  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1934.8
男ごころ    (西岡水朗作詞、 古賀政男作曲) 1934.8
白い椿の唄   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.3
希望の花束 (不詳、古賀政男作曲)      1935.4
ハイキングの唄 (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1935.5
山は微笑む (小西民治作詞、 古賀政男作曲) 1935,8
男のまごころ (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.10
緑の地平線   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1935.11
啄木の歌    (島田磬也作詞、 古賀政男作曲) 1936.4
慈悲心鳥の唄  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.7
護れ国境    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936.11
女の階段    (村瀬まゆみ=島田欣也作詞、古賀政男作曲) 1936.12
丹下左膳の唄  (佐藤惣之助作詞、 楠木繁夫歌) 1937.1
スキ‐の唄   (島田芳文作詞 、 古賀政男作曲) 1937.3
やすらいの唄 (百田宗治作詞、 古賀政男作曲)1937.3(1947.12 NHKラジオ歌謡)
嬉しい仲    (テイチク文芸部作詞、古賀政男作曲)(美ち奴)    1937.5
のばせばのびる (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)        1937.7
真実一路の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1937.8
時代の霧   (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)        1937.12
弥次喜多道中記 (古賀政男作詞 、古賀政男作曲)(ディックミネ) 1938.1
人生劇場   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1938.6
花白蘭の唄   (白井鉄造作詞、古賀政男作曲)(李香蘭)    1942.8
どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)        1942.12
歌う狸御殿   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(三原純子)1942.12
月の小島 (西條八十作詞、古賀政男作曲)         1942.12
戦いの街に春が来る(西條八十作詞、古賀政男作曲)(菊池章子) 1943.3
明けゆく蒙古  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)        1943.3
夏子の歌    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1943.10
いさおを胸に (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲)(松原操)1944.11
カボチャの歌  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(渡辺はま子) 1944.11











147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:41
☆古賀メロディと霧島昇

日本歌謡史に燦然と輝く古賀メロディー。「古賀メロディ」と言えば霧島昇、霧島昇と言えば《誰か故郷を想わざる》。

霧島昇は、藤山一郎、関種子、ディックミネ、松平晃、楠木繁夫、伊藤久男、李香蘭などとともに、古賀メロディをささえた代表的な名歌手の一人である。

霧島昇がコロムビアレコード専属歌手となったのは昭和11年である。

苦学しながら東洋音楽学校(現、東京音楽大学)を卒業。藤山一郎がビクターから、古賀政男のテイチクへ変わった昭和11年、テイチク黄金時代と言われる中、コロムビアはポリドールの東海林太郎の対抗馬としてデビューさせ、翌年「赤城しぐれ」(竹岡信幸作曲)がヒット。

昭和13年、松竹映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」を、既にスターだった、ミス・コロムビア(本名松原操)とコンビで歌い、あっという間にスターの階段を上り詰めた。


昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米、昭和14年10月10日に帰国。

アメリカから帰国凱旋した古賀政男は、洋楽調から邦楽的技巧表現の傾向を強めていくなかで、昭和15年(1940)2月、はじめての《誰か故郷を想わざる》がヒット。

これを皮切りに、《新妻鏡》《目ン無い千鳥》《相呼ぶ歌》などの古賀メロディのヒットに恵まれ、戦後にかけて《誰か故郷を想わざる》など主に「古賀メロディ」を多く歌い広めている事で知られる。

「古賀メロディ」の名曲である「三百六十五夜」は、「愛染かつら」の「旅の夜風」で結ばれた霧島昇と、もとミス・コロムビアの松原操夫妻で歌った最後の曲で、以後、松原操は家庭に入り育児に専念、音楽シーンに顔を出すことはなかった。



☆霧島昇の代表曲(古賀メロディ)

誰か故郷を想わざる(西條八十作詞、古賀政男作曲)        1940.2
新妻模様      (久保田省二作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1940.3
新妻鏡 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子)1940.6
目ン無い千鳥 (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(ミス・コロムビア)1940.6
相呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲) (菊池章子) 1940.9
そうだその意気(国民総意の歌)(西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操、李香蘭)1941.7
山の凱歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男)   1941.6
思い出の記    (大木惇夫作詞、古賀政男作曲)   1941.12
素晴らしき首途 (西條八十作詞、古賀政男作曲)    1942.5
花の生命     (白井鉄蔵作詞、古賀政男作曲)(李香蘭) 1942.8
故郷の白百合   (サトウハチロー作詞、 古賀政男作曲)(松原操) 1943.2
なつかしの蕃社  (西條八十作詞、 古賀政男曲)(菊池章子) 1943.5
勝利の日まで(NHK版) (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)   1944.6

麗人の歌     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
旅役者の唄    (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1946
裏町セレナーデ  (野村俊夫作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1946
旅の舞姫     (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1947
高原の乙女     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
あの夢この歌   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子〉 1948
三百六十五夜    〈西條八十作詞、古賀政男作曲)(松原操)   1948.9
母を呼ぶ歌 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(高峰三枝子) 1949
希望に燃えて   (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(伊藤久男他)  1949
ギタ‐月夜     (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1952
白虎隊(詩吟 荒国誠)(島田磬也作詞、 古賀政男作曲)    1952







148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:49
☆古賀政男 二つの「思い出の記」 2 

昭和53年8月に古賀政男が亡くなって今年、平成25年で35年になる。


昭和歌謡の黎明期、一苦学生だった昭和4,5年から、昭和6年コロムビア専属そして、テイチク、コロムビアとレコード会社を移りながら、日本がまだ貧しかった時代から高度成長の真っ盛り戦後の昭和40年代末ごろまで,古賀政男ほど長きに亘って広範に思う中心でありえたものもいない。



「人生の並木路」そのままに、貧しい故郷を捨てて兄を頼りに「韓国」に亘った古賀メロディに大きな影響を及ぼしたとされる韓国で過ごした少年時代。

また、明治大学学生として日本に帰って来て、一苦学生に過ぎなかった「古賀正男」が「古賀政男」として歌謡界の頂点に昇りつめる半生、それは日本の昭和の歴史を象徴するかのよう。

それはまさに半世紀に亘る昭和歌謡の歴史そのものだった。


古賀政男には「思い出の記」という自身の人生そのものを歌った自伝的作品ともいえる作品がある。

自らの愛唱歌であり誰にも歌わせなかったもので、葬儀の際もくりかえり流れた。



「思い出の記」は二つあって、いずれも古賀政男作曲の秀作だが、昭和16年の作品(大木惇夫作詩)と、晩年自らの「思い出」を辿る自伝的作品として作った昭和43年(1978)の古賀政男作詩があります。

大木惇夫作詩が徳富蘆花の自伝的文学作品の歌謡化作品であるのに対し、歌謡界の大御所で、「日本の名士」になっていた古賀政男晩年の自らを顧み語る自伝的作品と言えます。

古賀政男作詞作曲「思い出の記」(昭和43年)は、ちょうど、美空ひばりの
「悲しい酒 (1966 石本美由起作詞、美空ひばり歌)
「銀座音頭」(1968 西條八十作詞、美空ひばり歌)
「若い銀座」(1968 西條八十作詞、美空ひばり歌)
などが作られた頃の巨匠・古賀政男集大成ともいえる作品。

思ひ出の記(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)霧島昇1941.12 (陸海軍礼式歌)
思い出の記(古賀政男作詞、古賀政男作曲)    1968

大木惇夫作詞は徳富蘆花の自伝的小説 『思出の記』の歌謡化作品。昭和16年12月新譜、重厚な曲で陸海軍の礼式歌ともなった。

・大木惇夫作詩「思ひ出の記」は、徳富蘆花 『思出の記』の歌謡化で、霧島昇歌(コロムビア100374@)

作詞 大木惇夫
作曲 古賀政男

ああ馬の背に涙して
故郷出でて幾年ぞ
高倉山の白雲に
誓いし言葉仇ならず
飾る錦は誰ゆえに

ああ山河は変わらねど
人の心は今いかに
思い出の谷夢の丘
幼馴染の面影も
今は空しき菜の花よ



・古賀政男作詞「思い出の記」
作詞 古賀政男
作曲 古賀政男

ああ思い出は 懐かしく
ふるさと恋て 訪ぬれば
親同朋は すでに逝き
誓いし友の 面影も
今は虚しき 菜の花よ

ああ人生は 夢の夢
幾年変わらぬ 山川も
流れる雲か 風に散る
人の心は 山吹の
花はほろほろ 散るばかり


他に、大木惇夫作詞に、
崑崙越えて  1941(大木惇夫作詞、藤山一郎歌)
雲のふるさと1944(大木惇夫作詞、伊藤久男歌)陸海軍礼式歌、NHKラジオ歌謡
苺の雲の燃える時(大木惇夫作詞、霧島昇、松原操歌)などがある、

(参 考)
森田哲至…「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開・・―日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察―(「日本橋学研究」日本橋学館大学 第3巻1号 2010年3月)
ttp://www.nihonbashi.ac.jp/nihonbashiology/pdf/nihonbashigaku_3-1.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%81%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7'




149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 20:59
☆関 種子と「古賀メロディ」 2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手



昔、昭和戦前の流行歌の歌手は、殆ど東京音楽学校〈現在の東京芸術大学(音楽学部)の前進)その他の音楽学校出身者だった。

河原喜久恵、四家文子、徳山l(たまき)、関種子、藤山一郎(増永丈夫)、楠木繁夫、松原操(ミス・コロムビア)、二葉あき子などのように官製の東京音楽学校出身。四家文子、関種子、藤山一郎(増永丈夫)などは首席卒業だった。

その歌声を聴けばすぐわかる。

昭和3年,「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになる。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。その歌はさらに若い優れた歌手によって引き継がれていくのだ。

あの誰もマネのできない底辺に一種独特の哀調を帯びたその一連のメロディ、それが「古賀メロディ」と呼ばれるようになるのは昭和の初めである。

その「古賀メロディ」を世に広めた大きな功績は、佐藤千夜子とその後、それを引き継いだ藤山一郎や関種子などをはじめとした若き名歌手たちだった。

そういう意味で、後に「古賀メロディ」と呼ばれることになる「晋平節」とは異なる新しい新鮮な「歌謡曲」の分野で核となる古賀正男という一苦学生を世に送り出す上で決定的役割を果たした佐藤千夜子。

同時に、佐藤は自分が外国に勉強に行くことで結果的に、実際そうであったように古賀を中心に「歌謡曲」という新分野で若い後進声学家たちに、広く活躍の場を与え、結集させることに大きな功績があったと考えられる。

佐藤の昭和歌謡史上に果たした役割と功績は誠に大きいと言わなければならないといえるだろう。

関種子は、黎明期の日本の歌謡の歴史の中で、藤山一郎とともに佐藤千夜子に始まる古賀メロディを支え発展させた歌手として、藤山一郎とともに忘れてはならない名歌手でしょう。



150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 21:00
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、ビクターの佐藤千夜子の後、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手・声学家によって支えられたといえるでしょう。

藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビュー(昭和6年)そのものです。

関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディングしている、藤山一郎と共に『古賀メロディ』を語る上で無くてはならないかけがえのない歌手である。

・昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html

音楽学校出身の方々が「歌謡曲」を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば音楽評論家・伊庭孝は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない。」と猛烈に批判した。

そういう中で、関種子は、東洋音楽学校声楽科教授だった昭和12年(1937年)に、コロムビアから日本ポリドール専属となる。以後もずっとポリドールで活躍、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディングしている。


昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」・影を慕いて、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号であり、晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子といえるだろう。

1. ・古賀政男(正男)初期のレコード  佐藤千夜子歌唱(ビクター)
以下の作曲家となる前の古賀作品7曲がビクターレコードで、昭和4年(1929)12月23日(5曲)から、昭和5年(1930)10月28日(影を慕いて、日本橋から、2曲)までの間に、佐藤千夜子によって吹込まれた。

文のかをり  古賀正男   佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も     浜田広介   同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳     同       1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男   同       1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介   同      1931年1月 ビクター 51519
片想い     浜田広介   同       1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介   同      1931年6月 ビクター 51689

佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し、昭和9年に再び日本に帰朝した。

古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・

『文のかをり』→1933年9月 『来る来るサーカス』(西条八十作詩、古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』   →1932年6月 『月夜の恋』(西岡水朗作詩、古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月 『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲編曲・関種子歌)。



151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 21:00
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、昭和7年、コロムビアで藤山一郎、関種子によって吹き込まれ、歌い継がれた。なお、 「風の鈴蘭」も You Tube で聞ける。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子


影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月
影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月
日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月
かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月


日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月

かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月

影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月
影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月

・コロムビア専属作曲家・古賀政男   最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村 関種子   1931年6月 コロムビア 26275〈関種子専属第一作〉
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺    島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄  島田芳文 藤山一郎  1931年7月 コロムビア 26325 (藤山一郎第一作)




152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 21:07
☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」


昔、メロディを付けて呼ぶのは「古賀メロディ」しかなかった。

当たり前(三要素の一つ)のものにとりわけメロデーを付けて呼ぶことはしない。

(いつのまにか、リズム系などを含め、作曲家の名前の後ろに、何でも一律に「メロディ」を付けて、「メロディ」で呼ぶようになったようだ。だが、リズム(系)とメロデーはそれぞれ別物。)


“メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)


誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ、それを「古賀メロディ」と呼んで称えた。


彗星のように現れ、たちまち頂点に立った古賀作品、「丘を越えて」にしても、「酒は涙か溜息か」にしても、「影を慕いて」についても・・・

その前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、とりわけ日本人なら心の襞に浸透する強烈な印象を与える、聴く人を歌の世界に惹きこむ新鮮なメロディ・・それを特別に「古賀メロディ」と呼んだ。

古賀メロディというのは、古賀政男作品全体をさす場合と古賀作品の内、詩のテーマとするところが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたもの、「影を慕いて」、「人生の並木路」「丘を越えて」などを指す場合が有る。

その古賀作品を称えるため、新聞などが与えたものだろう、その「古賀メロディ」と言う言葉はいつごろ確立されたものだろうか。

昭和13年(1938)11月に、「古賀政男藝術大観」が出た。その新聞広告に、すでに「古賀メロディ」と言う言葉がみられる。(なお、昭和53年10月に復刻本が出版されている。)

古賀政男がコロムビア専属作曲家になったのは、今年平成25年(2013)から82年前の昭和6年(1931)3月だから、その7年後だ。

僅か作曲家になった7年後に、「古賀政男藝術大観」という作品研究を含む豪華な大型本が出版された。この中には180曲余りの作品が載っている。

しかもその序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、小松 耕輔、三浦環、佐藤惣之助、サトウハチローなど、知る人ぞ知る錚々たるメンバーが分野を越えて寄稿しているのだ。


したがって『古賀メロディ』とは、昭和一桁代の初期コロムビア時代、少なくとも昭和10年代初めには分野を越えてすでに確立したものとなっていたのだろう。

・・「其の二 ― 古賀政男作品研究  ★古賀政男の作品全般に亘り微に入り細を穿っての解剖と研究は、“古賀メロディ”の本質を知らんとする人、流行作曲家たらんとする人、大衆音楽の神髄を極めんとする人々にとりては、感激の虎の巻であり羅針盤です。」(「古賀政男藝術大観」新聞広告より)

(参考)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)




153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:35
☆佐藤千夜子と古賀政男

佐藤千夜子(1897〜1968)は、山形県天童市に生まれ、わが国のレコード歌手の草分けといわれる。

佐藤千夜子は、中山晋平の弟子で、大正から昭和の初めにかけて、晋平の歌を世に広めた歌手である。

その生涯は、決してなだらかなものではないが、昭和53年NHKTV朝の連続テレビ小説[いちばん星]で紹介された。その中には、野口雨情、中山晋平、西条八十、学生時代の古賀政男〈正男〉などがでてくる。

ちょうど80年以上前、昭和3年に始まる坪井栄の小説「二十四の瞳」の世界、草深い貧しい時代と重なる。このころ、現在たくさんある様々な歌の殆どは唱歌・童謡、新民謡など以外まだなく、これからつくられていくのだった。


まさにそれは日本における初期の、黎明期・草創期の大衆音楽の歴史そのものである。NHKアーカイブでも、その一部が見れる。

13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラを観たことから音楽を志し、東京音楽学校に入学。ここでクリスチャンでもある山田耕筰と知り合い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。

日本の本格的なレコードの時代は、「昭和」と共に始まったのでした。昭和元年(大正15年)は、1週間しかなかった。前年、大正14年3月にラジオ放送が始まった。

それまでは主に演歌歌手によって歌い広められてきた大衆歌がレコードによって聞くことが出来るようになり、多くの歌が作られるようになった。

明治時代からレコードは無いわけではなかったのだが、高価で普及しておらず、主に浪花節(浪曲)などに使われ、録音も外国で行っていた。それが昭和にはいって外国レコード産業が日本に上陸し勃興した。

昭和2年(1927)
5月  日本ポリドール蓄音器商会設立
      9月 日本ビクター蓄音器株式会社創立
昭和3年(1928)
日本コロンビア蓄音器株式会社設立

まだラジオもレコード普及も無かった大正時代に始まった童話・童謡運動は、その後童謡・新民謡運動となって今日の歌謡曲へと向かっていく。そして童謡や、新民謡運動に参加した西條八十、佐藤惣之助などの詩人や中山晋平など作曲家、佐藤千夜子などがレコード文化によって「歌謡曲」と言われる新しい大衆音楽分野が形作られる。

東京音楽学校でオペラを学んでいた千夜子が、レコード歌手に転身していくきっかけは、作曲家中山晋平との出会いがきっかけである。当時、中山らは大衆向けの新しい音楽運動に情熱を燃やしており、それに千夜子が共鳴、行動をともにするようになったのだ。その後、歌手としての本格的な活動を開始した千夜子は、まもなくラジオ放送にも出演するようになる。

大正10年頃から中山晋平、野口雨情らと「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に参加、ラジオやレコードのない時代に全国津々浦々で歌謡、童謡・新民謡を広めた。千夜子も東京音楽学校を中退して、この運動に参加した。
  ttp://blogs.yahoo.co.jp/gulliverbros/53130700.html

この運動から、1928年日本ビクターから歌謡レコード1号の「波浮の港」が発売され人気爆発、千夜子31歳。



154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:36
昭和4年(1929)12月から、昭和5年(1930 )12月にかけ、ビクターで当時無名の古賀正男の「影を慕いて」など7曲をビクターでレコーディング、古賀正男を世に送り出した。佐藤千夜子は、このあとイタリアに向かった。

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。天童市に「佐藤千夜子の生家」が残されている。

ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年愛宕山の放送所で、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がそのはしりだそうです。

「佐藤千夜子」の歌はヒットの連続で、「西条八十」の作詞料が30円の時に、「佐藤千夜子」の印税は、2000円だったという。

だが、佐藤千夜子は人気絶頂の昭和5年、イタリアにオペラの勉強に出かけたのだ、古賀政男は「飽くなき芸術への憧憬によるもの」だが、当時のまだ学生だった自分には思いとどまっていただくことなどできなかったが、今なら思いとどまってもらうだろうと書いている。

当時は流行歌手と言って一段低く見られていた、これがオペラを学んだ佐藤には耐えられなかっただろう。そして、帰ってきたときには、四家文子など優れた後輩にとって代わられ、居場所はなくなっていた。レコード時代の創世記・黎明期のあくなき憧憬による悲劇と古賀政男は書いている。昔はレコード歌手になるということは大変なことだったのだ。

そういう意味では、あまり知られていないが、単なる「レコード歌手第一号」としてだけではなく、野口雨情、中山晋平らと大衆歌謡という音楽の新しい分野を日本に根ずかせることに歌手として大きな功績を果たしたといえるだろう。

そしてまだ学生だった古賀政男を作曲家としてメジャーデビューさせ今日の大衆音楽の隆盛に繋げた、忘れてはならない陰の功労者といえる。

現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。昭和9年(1934)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与され, 帰国を前に「イタリア・オペラの殿堂」、イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。

イタリア・グラモホン社のミラノ・スカラ座伴奏録音は「世界一流のアーチスト」。『カチューシャの唄』『船頭小唄』『酒場の唄』『春の雨』『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』合計3枚6曲のミラノ録音が日本と米国で発売。

帰国直前だった佐藤さんは古賀政男へのポストカードに「ミラノ・スカラ座でのレコーディングもできました」と喜びを伝えた。当時スカラ座でレコーディングできる歌手は世界中でも少なかった。上記作品に加え、佐藤千夜子の絶品の名唱です。

なお、佐藤千夜子が残した貴重なレコード曲は100曲を超えています。CDや、You Tubeの他、「古賀政男音楽博物館」や、「国立国会図書館デジタル化資料」(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源)等に残っている。〈当ブログ参照〉



155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:38
☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす      (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4(西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5(野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪  1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節   1928.7  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8  (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄   1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、  古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞、 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲)  ビクター51093
この太陽   1930.6  (西條八十作詞、  中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング



156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:40
※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
  歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171


☆イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座録音6曲  昭和9年2月☆
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏・ミラノグラモフォレ管絃楽団)

カチューシャの唄 (島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)
船頭小唄    (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
さすらいの唄 (北原白秋作詞、中山晋平作曲)ビクター52972
ゴンドラの唄 (吉井勇 作詞、中山晋平作曲〉ビクター52972
酒場の唄    (北原白秋作詞、中山晋平作曲) ビクター53100
春の雨     (相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター53100

※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536



157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:45
[参考書]
結城亮一 著 『あゝ東京行進曲』河出書房新社 1977
結城亮一著『あゝ東京行進曲』〈河出文庫〉河出書房新社
菊池清麿著『永遠の歌姫 佐藤千夜子』(東北出版企画)
古賀政男著「我が心の歌」〈展望社〉
塩澤実信 著[昭和の流行歌物語―佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ] 〈展望社2011〉
別冊一億人の昭和史・昭和の流行歌手―佐藤千夜子からピンク・レディーまで (1978年) 毎日新聞社





158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:47
☆詩人・サトウハチローと古賀メロディ


詩人・サトウハチロー(1903〜1973)は、古賀政男が自伝『わが心の歌』に三人の詩人として書いてある佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロ‐の一人l。古賀政男との最初の出会いとなる作品は、他の二人とはちがって、日本のミュージカル映画の魁ともいえる、一連の映画で、昭和10年5月公開の日活映画、渡辺邦男監督「うら街の交響樂」です。

1935年(昭和10年)5月公開、渡辺邦男監督による日本最初のミュージカル映画とも言えるもので、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)主催、同年の第1回「全日本映画コンクール」(毎日映画コンクールの前身)において、最高賞の「東日コンクール賞」を受賞した。
「うら街の交響樂」は、サトウハチローの原作を渡辺邦男が脚色したもの、サトウハチローは瀬川与志名で、監督・渡辺邦男、音楽監督 : 福田宗吉、編曲・音楽指揮 : 古賀政男、日活多摩川撮影所です。

この映画作品の主題歌「戀は荷物と同じよ」を瀬川与志名で作詞していて、川畑文子とディック・ミネが歌っている。ディック・ミネにとっても、古賀政男との出会いの曲となるもの。

渡辺邦男監督 「うら街の交響樂」(サトウハチロー原作)のほかにも、次の原作と主題歌が有る。

・大映映画1943.1千葉泰樹監督 「青空交響楽」(サトウハチロー原作)
・日活映画、伊賀山正徳監督1937、『ジャズ忠臣蔵』(原作サトウ・ハチロー、音楽古賀政
 男)、主演杉狂児、共演美ち奴、日活多摩川 ミュジカル映画
 主題歌 道行シャンソン(杉狂児、作詞)杉狂児、美ち奴。嬉しい仲(美ち奴,楠木繁夫歌)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)

大映映画「青空交響楽」は東京国立近代美術館京橋フィルムセンターで見られる。
ttp://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2012-4/kaisetsu_1.html

昭和18年の「青空交響楽」では、戦時中とは思えない、戦時色を感じさせないさわやかな作品です。
「青い牧場」は、童謡風の作品。
主題歌 「青い牧場」  (藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 「故郷の白百合」(霧島昇、ミス・コロムビア歌)

      「青い牧場」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
        ttp://www.youtube.com/watch?v=McgjoKvYnGY

      「故郷の白百合」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
    ttp://www.geocities.jp/abm168/OMOIDE/furusato_no_sirayuri.html

サトウハチローは、1930年代からは沢山の映画音楽をやっている。サトウハチローの初期の頃には次のものなどが有る。

 麗人の唄 1930.5 ( サトウハチロー作詞、 堀内敬三作曲)
 有憂華の歌 1931  (サトウハチロー作詞、堀内敬三作曲)
 マダムと女房1931.6 (スピードホイ) ( サトウハチロー作詞、 島田晴誉作曲)

「マダムと女房」は、1931年(昭和6年8月)公開の五所平之助監督の松竹映画。日本初の本格的なトーキー映画」(田中絹代主演)。



159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:49
これらに続いて
・二人は若い  (玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子歌)1935.8
・のぞかれた花嫁 (玉川英二作詞 杉狂児歌)1935.8

1938年テイチクをはなれて、日本コロムビアと専属契約。


目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

『新妻鏡』は、小島政次郎原作の東宝映画で、失明した薄倖な美女がたどる数奇な運命と美しい愛の物語、目の見えない新妻が苦労の果てに結ばれると言う話。

主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、霧島昇、二葉あき子歌。)と、挿入歌「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞,古賀政男作曲)がある。「目ン無い千鳥」とは、目隠し鬼ごっこのこと。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

「目ン無い千鳥」は、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻によって歌われた。 いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。

・目ン無い千鳥 (「新妻鏡」より)
 サトウハチロー作詞 古賀政男作曲
 ttp://www.fukuchan.ac/music/j-senzen/mennaichidori.html


「勝利の日まで」・・♪丘にはためく あの日の丸を 仰ぎながめる吾等がいのり いつかあふるる感謝の涙・・は、勝利の日まででというよりは、敗色濃くなって日本が敗戦への坂道をころげ落ちてゆくなかで、この歌は映画とは関係無いが、昭和19年に始まり、あちこち散らばった何百万の疎開学童によって歌われたといいます。

・勝利の日まで(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、仁木他喜雄編曲)
「勝利の日まで」は、太平洋戦争最末期の混乱状態のなかで作られた東宝映画の主題歌であり、 「古賀メロデー」の隠れた名曲だとおもいます。
  ttp://www.geocities.jp/abm168/GUNKA/syori.html

東宝映画『勝利の日まで』は、昭和20年1月25日大戦最末期公開の、サトウハチロー脚本の円谷英二が関与した東宝の特撮SF映画第1号で、前線の海軍将兵の慰問映画として作られたオールスター映画。「勝利の日まで」と書いてあるロケット式慰問爆弾で送られた榎本健一とか、広沢虎造、岸井明、横山エンタツと花菱アチャコなど慰問者が歌ったりするという、どうみても時極とは関係なさそうな荒唐無稽でコミカルなSF映画。

しかし、この映画の主題歌『勝利の日まで』(20年、合唱版という)は、映画の内容とは違って、哀調漂う行進曲調で、前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値するような名曲。サトウハチローの詩の良さとともに、「勝利の日まで」は、日本の歴史上もっとも困難な時局の中で生れた古賀メロディの隠れた名曲とされる。

サトウハチロ−の「勝利の日まで」は、ごく普通の日常の動作のみで、「我等はみんな 力の限り」、「勝利の日まで 勝利の日まで」と結び、しかも説得力が有る。

この歌はラジオでも放送され、あちこちに散らばった何百万人もの疎開学童によって歌われたという。

親と別れ、疎開学童たちは、ひもじさ、寂しさを紛らわすために、みんなで知ってる限り、あらん限りの歌を合唱したと言う。でもこの歌だけは歌っていてなぜか涙がでてきて、途中で歌えなくなってしまうという。

 勝利の日まで (サトウハチロー作詞 古賀政男作曲 仁木他 喜雄編曲 )レコード
・19年 霧島昇版  霧島昇、合唱団歌  (昭和19年3月10日発売、日蓄)
 NHK委嘱、映画に先立ち発表されたもの。COL100843(赤版スダレ)
・20年 合唱版  日蓄歌手8人合唱  (昭和20年1 月25日公開映画)
 COL100912(赤版スダレ)
 ・歌:波平暁男、近江俊郎、志村道夫、高倉敏、菅沼ゆき子、奈良光枝、池真理子、渡辺一恵  (昭和20年1月25日公開。前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような緊張感を持 つ哀調を帯びた名曲。)霧島盤にあった三番は歌われておらず、代わりに1曲に値する間奏が入 っている、

なお、サトウ ハチローは、昭和46年から亡くなる昭和48年まで、日本音楽著作権協会会長を勤めた。





160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:50
※サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)

・日活映画 渡辺邦男監督1935.6「うら街の交響樂」(サトウハチロー原作)
 主題歌 戀は荷物と同じよ/川畑文子、ディック・ミネ歌(瀬川与志作詞 - 古賀政男作曲 )  50033 @
 挿入歌 あなたとならば (瀬川与志作詞 - 古賀政男作曲 )バートン・クレーン・川畑文子 (瀬川与志=サトウハチロー)
・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」(小国英雄原作)
 主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
 挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子歌)
・日活映画1936「純情一座」
 主題歌 純情一座の唄(玉川英二作詩、千早俶子〈松島詩子〉歌)
 挿入歌 風に吹かれて(玉川英二作詩、木村肇歌)
・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」(サトウハチロ‐原作)
 主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
 挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞、美ち奴歌)
・日活映画、伊賀山正徳監督1037、『ジャズ忠臣蔵』(原作サトウ・ハチロー、音楽古賀政
 男)、主演杉狂児、共演美ち奴、日活多摩川
 主題歌 「道行シャンソン」(杉狂児、作詞)杉狂児、美ち奴、「嬉しい仲」(美ち奴,楠木繁 夫歌)
・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
 (主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌))
 挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・誰も知らない(サトウ ハチロー作詞、古賀政男作曲、奥山貞吉編曲、ミス コロムビア(松 原操))1939.9
・松竹映画1940「新妻問答」(野田高梧原作)
 挿入歌 波を越えて(サトウハチロー作詞、伊藤久男歌)
・東宝映画1941「歌えば天国」(古川緑波原作)
 挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
・大映映画1942「歌う狸御殿」(木村恵吾原作)
 主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原純子歌)
 挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)
・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロー原作)
 主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・いさをを胸に1944(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲,楠木繁夫、松原操)(国民合唱・陸・海軍礼式歌)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
 主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
 挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
 挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原純子歌
・大映映画 「今宵妻となりぬ」(田中重雄監督)  1947.3
 主題歌 今宵妻となりぬ(サトウハチロー 作詞、 高峰三枝子歌) 1947
・希望に燃えて (1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング)(サトウハチロー作詞、伊藤 久男、霧島昇、近江俊郎・二葉あき子・奈良光枝)・




161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:52
☆サトウハチローと「童謡」


童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた童謡の道への手がかりを得た。しかし、それはこれまでの「童謡」とはだいぶ違ったものだった。

戦後のサトウハチローの作品に「ちいさい秋みつけた」 「かわいいかくれんぼ」「わらいかわせみに話すなよ」 「とんとんともだち」などある。
しかし、詩としてはいいが、今でも広く歌われ続けているのは、こうしたもの(「あたらしいしいこどものうた」というらしい。)ではなく、この70年以上前に作られた童謡・「うれしいひなまつり」(1936年、山野三郎名義)だった。


サトウハチローが、東京・上野の百貨店で豪華なひな飾りを買ったのは昭和10年のことだった。

サトウハチローが、ちょうど「うら街の交響樂」を書いていたころだった。価格は200円。大卒の初任給が50円くらいの時代だった。

その頃、妻と別居して子供を引き取っていて、小学生の女の子が2人いた。贈り物に喜ぶ娘を見ているうちに歌詞が浮かんだ。

あかりをつけましょ ぼんぼりに はなをあげましょ 桃の花・・
   ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ureshiihinamatsuri.html
   ttp://www.youtube.com/watch?v=_zv8bCakElM&feature=related

2番の歌詞に〈お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔〉とある。ハチローには、大好きな姉がいた。結婚式の前に病気で亡くなっている、19歳だった。面影を歌詞にしのばせ、童謡の世界で嫁がせた。

ハチローが書いた「うれしいひなまつり」に翌年に、作曲家河村光陽が曲を付けた。光陽の長女河村順子が歌ってレコードになりヒットした。 戦後になっても多くの優れた童謡歌手によって歌い継がれた。

寺山修司編著の「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初に、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」、「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」・・と。

「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」とか「ぞうさん」とか、[あたらしいこどもの歌」というのは 、NHKラジオ放送で昭和24年「歌のおばさん」が主体となっている。 当時はレコード主体の童謡黄金時代であったが、これはレコードではなくラジオである。 このラジオ番組で歌うのは童謡歌手でなく、歌の“おばさん”であった。

新しい“ラジオ”番組(「歌のおばさん」)で「あらしいこどものうた」をつくろうとした、大中恩、中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次ら若手音楽家からなる、五人の作曲家グループは、昭和三十年「ろばの会」を作った。

サトウハチローは「ロバの会」には加わらなかったものの、詩は中田喜直に指定して渡した。

大中恩、中田喜直ら、ロバの会は、これまでの童謡歌手の歌う(レコード)「童謡」の排斥運動を展開した。

(「排斥運動」は、主に戦後の童謡黄金時代において中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)ら戦前から多くの「童謡歌手」を育成・輩出した「音羽ゆりかご会」主宰の、最後の童謡作曲家「海沼 實」などに向けられた。)
  ttp://www.0108.tv/nagano_kyouikukai.htm
  ttp://www.0108.tv/history2.htm

中田喜直ら若手は、後にその批判した「童謡」の名をそっくりそのまま戴いて、「童謡協会」を作って、会長(初代、サトウハチロー、二代目中田喜直))に収まり童謡を推進する!というのだがいかにも動機不純なのは否めずすっきりしない。

昭和30年代後半から40年代にかけて、「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」、「ぞうさん」が盛んに歌われることもあった。



162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 22:52
しかし、今から考えればそれは、あくまでもちいさなこどものたわいもない歌でしかなかった。 現在保育園とか幼稚園位で歌われる位でほとんど耳にすることはなくなった。

しかも中田喜直、宇賀神光利など相次いで亡くなると、「ろばの会」は解散してしまう。

子供は大きくなる。童謡と言うのは大きくなって再び蘇る、しかし、所詮就学前のたあいもない幼児の歌が、大きくなって顧みられるとは思えないこと。

毎年、節分を迎える頃、どこからともなく流れてくるのは、・・・あかりをつけましょ ぼんぼりに おはなをあげましょ もものはな・・

時代を超え世代を超えて歌われるのは、あたらしいものではなかった。今でもYou Tubeには多くの童謡が載せられている。

なお、この歌は平成19年(2007年)に「日本の歌百選」に選出されている。

藤田圭雄 編.『サトウハチロー童謡集』(1977・弥生書房)
『サトウハチロー・ユーモア小説選』全20巻(1976〜79・岩崎書店)
サトウ・ハチロー随筆集―昨日も今日も明日も (草原書房 1947年











163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 23:06
歌は心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 23:54
☆佐藤惣之助没後70年

今年、平成24年の5月15日は、大正から昭和戦前に活躍した稀有な詩人であって、古賀政男と多くの名曲を世に送り出した佐藤惣之助が、昭和17年(1942)にこの世を去って70年になる。

古賀メロディーの「名曲」と言われる歌に「佐藤惣之助作詞」というのがなんと多いことか。佐藤惣之助の詞にもいろいろあるが、青春を謳いあげ、あるいは青春の苦悩をテーマとしたものが多い。

古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって特に「詩」を大切にした人として知られる。

古賀メロディーのヒット、特にテイチク黄金時代といわれる昭和10年代のそれには、「佐藤惣之助」の日本人の心の琴線に触れる名詞があったことを否定できないでしょう。

まだ日本が草深い、貧しかった昭和の初めから昭和10年代、日本人の古き良き哀歓を謳いあげたその歌は“簡潔にして適切”。

大正から昭和初期の詩壇にて活躍した詩人にして殊玉の作品を世に送り、「詩の家」を主宰して多くの後進の指導にあたったと言われている。

短い文字数や文節で多くのことを伝えるのに長けている。無駄が無く、詞だけでもその歌の境地を存分に堪能することができる、幸いYou−Tubeが発達し、そのオリジナル音源も聞くことができる。

佐藤惣之助は、萩原朔太郎はじめ、島崎藤村、野口雨情、佐藤紅禄、与謝野晶子など当代随一の詩人や、川端康成、尾崎士郎、小島政二郎、広津和郎、山本有三、吉屋信子、宇野千代などの作家、川端龍子など画家、俳人など様々な分野で活躍し交友のあった文士仲間は多い。

惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた、そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

大正から昭和の初めにかけて活躍した作曲家中山晋平の偉大なところ、それは自らがコンクールで賞をとったり栄誉に浴することではなく、ひたすら《誰にでも歌える歌》を作ることにあったこと。

実際、数多くの童謡や新民謡などを世に送り出し、現在でも歌われており、その中で「レコード歌謡」と言うものが勃興する。

その歴史の上に日本に「歌謡曲」と言う大衆音楽分野が確立されて、それが一般大衆の中に普及していく。「昭和」の半世紀にわたる「古賀メロディ」の歴史とは、まさにその歴史そのものと言われる。

その「古賀メロディ」の歴史の中で、実際に一般庶民の生活を題材とし、無駄のない簡潔で平易な馴染みやすい言葉によって、誰でも歌える身近な音楽とした佐藤惣之助の功績は大きいのではないでしょうか。




165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/07(Sat) 23:55
・佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手

藤山一郎・・・・「鳩笛を吹く女の唄」「男の純情」「青春日記」「青い背広で」
        「東京娘」「青春の謝肉祭」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」
        「青春旅情」聖処女(きよおとめ)の唄」「大洋の寵児」「旅の?」

関種子・・・・・「青春図絵の唄」「お宮の唄」「秘めたる恋」「朝顔の唄」
        「笛は冴ゆれど」「愛は紅い」

淡谷のり子・・・「春の唄」「不如帰」「アリランの唄(朝鮮民謡)」

楠木繁夫・・・・「国境を越えて」「緑の地平線」「白い椿の唄」「慈悲心鳥の唄」
        「真実一路の唄」「男のまごころ」「人生劇場」

ディックミネ・・「愛の小窓」「ゆかりの唄」「「白衣の佳人の唄」「人生の並木路」
        「波止場がらす」「黄河の月」

奥田瑛子・・・・「緑の月」「浜辺の哀唱」

霧島 昇・・・・「新妻鏡」
二葉あき子・・・「新妻鏡」

伊藤久男・・・・「海の豪族」「馬」
(以上「古賀メロディ」)

東海林太郎・・・「赤城の子守唄」「お夏清十郎」「むらさき小唄」「すみだ川」
上原敏・・・・・「上海だより」
高峰三枝子・・・「湖畔の宿」



・「佐藤惣之助」生誕120周年記念展 〜日々の出来事〜 2010/12/02 〜05
  ttp://kanaminami.asablo.jp/blog/2010/12/02/5551383

2010年12月に 「アートガーデンかわさき」で開催された、「「佐藤惣之助」生誕120周年記念展」の模様・・
訃報を伝える当時の新聞報道や新聞に掲載された西條八十の悼文、古賀政男とのパリ旅行でのスナップなど展示。

佐藤惣之助に関する常設展は、川崎市中原区等々力の川崎市市民ミュージアムでやっています。
また、川崎には、佐藤惣之助の記念碑などが多くあります。

・詩人「佐藤惣之助」をご存知ですか?川崎36景
 第28景 佐藤惣之助の碑
 ttp://www.miyamae-portal.net/mp/kyosho/

・琉文21  佐藤惣之助
 ttp://ryubun21.net/?itemid=3298

・荒磯の興味 佐藤惣之助 (「日本の名随筆4 釣」作品社)
 ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000577/files/43743_17418.html




166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 00:12
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
JASRAC本部ビルは、「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がっていて「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルの一部(借りている)である。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった、そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに36年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。









167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 00:21
☆古賀メロディの戦後

戦後の主な古賀メロディ(1947〜1977)
 1949までについては、別に「古賀メロディと映画主題歌」参照。

古賀メロディの「古賀メロディ」らしさは、西條八十との黄金コンビの映画主題歌「三百六十五夜」〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)などや、「湯の町エレジー」(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)など、名曲が謳歌した昭和20年代前半あたりまでだろう。

それ以後、日本が豊かになりアメリカナイズして、世の中がハッピーになっていくにつれ歌も変わっていく。昭和23年には、ミス・コロムビア(松原操)は、「三百六十五夜」を最後に歌手を引退。以後、昭和54年に亡くなるまで、家庭に入り歌うことはなかった。家庭の人として、夫・霧島昇をささえ、育児に専念し、その後、何度もカムバックの話があったものの、歌うことに関しては一切の仕事を断り続けた。

藤山一郎は、昭和29年(1954)に、レコード会社専属(コロムビア)を引退、NHK嘱託となり23年間にわたる歌手生活に終止符を打った。そして、NHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した事で知られる。

一方、昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもしない歌謡界の『大御所』になっていた。指には大きなダイヤを付け、『日本の名士』だった。

「うたマネ読本」とかの審査員となって「よかったね!、よかったね!」と言う言葉で知られるはか、「黄金(きん)の椅子」などのなつかしの歌番組によくでることがあった。

昭和33年(1958)には、日本作曲家協会を設立、自ら会長となり作曲家の待遇改善に尽くしたり、「レコード大賞」などを作るなど、昭和30年代の役割は[大御所]としての役割に移っていく。

また「去りゆく影」(昭和8年(1933)1月)に始まる「西條八十」との黄金コンビは戦後も続き、西條八十最晩年の作品でもある「銀座音頭」「若いい銀座」(1968いずれ美空ひばり歌)まで、35年も続いたことになる。

・西條八十作詞、古賀政男作曲 初期の作品
去りゆく影  1933,1 西條八十作詞、古賀政男作曲 関種子 歌
恋ごころ   1933.1 西條八十作詞、古賀政男作曲 長谷川一郎歌
サーカスの唄 1933.5 西條八十作詞、古賀政男作曲 松平晃 歌

しかし、昭和40年、61歳のとき軽い脳卒中を起し、49年に再発作を起し、以来健康がすぐれず病院通いをすることが多かった。

代々木上原の広大な屋敷の中に7か所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。




168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:12
◇戦後の主な古賀メロディ・・

圧倒的に西條八十が多い!。


麗人の歌     1946(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
悲しき竹笛    1946(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
こころ月の如く  1947〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
旅の舞姫     1947(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌
嘆きの小鳩    1947 (西條八十作詞、藤山一郎歌)
あの夢この歌   1948〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
三百六十五夜   1948〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
恋の曼珠沙華   1948〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
湯の町エレジー  1948(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
雨の夜汽車    1948(西條八十作詞、奈良光枝歌)
待ちましょう   1948(西條八十作詞、松田トシ歌)
トンコ節     1948(西條八十作詞、久保幸江歌)
誰に恋せん    1948(藤浦洸作詞、 高峰三枝子歌)(大映映画「誰に恋せん」主題歌)
友情の歌     1948(藤浦洸作詞、藤山一郎歌)  (大映映画 『誰に恋せん』挿入歌)
なつかしのヴエノスアイレス1948(藤浦洸作詞、二葉あき子歌)
シベリヤエレジー 1948(野村俊夫作詞、伊藤久男歌)
愛の灯かげ    1949(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)
夢よもう一度   1949(西條八十作詩 二葉あき子歌)
希望に燃えて   1949 NHKラジオ「希望音楽会」テーマソング/新東宝映画「影を慕いて」より)(*)
(サトウハチロー作詞、伊藤久男、霧島昇、近江俊郎、二葉あき子、奈良光枝、高倉敏歌)
湯の町夜曲    1949(野村俊夫作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』主題歌)
たそがれの湖   1949(西條八十作詞、近江俊郎歌) (新東宝『湯の町夜曲』挿入歌)
赤い靴のタンゴ  1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)
嘆きの孔雀    1950(西條八十作詞、奈良光枝歌)(新東宝映画「処女宝」主題歌)
愛のカレンダー  1951(西條八十作詞、藤山一郎歌)
青いガス燈    1951(野村俊夫作詞、岡本敦郎歌)
夜の湖      1952(藤浦洸 作詞、藤山一郎歌)
ギター月夜    1952(西條八十作詞、霧島昇歌)
富士エレジー   1952(西條八十作詞、青木光一歌)
ゲイシャワルツ  1952(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
ザビエルの鐘   1953(西條八十作詞、青木光一歌)
見ないで頂戴お月様1953(野村俊夫作詞、神楽坂はん子歌)
長崎ブルース   1954(藤浦洸 作詞、山一郎歌)
湖畔のギター   1954(野村俊夫作詞、霧島昇歌)
おらんだ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよこ歌) (映画「春色お伝の方」挿入歌)
湯の町椿     1954(西條八十作詞、神楽坂はん子歌)
渚の子守歌    1954(西條八十作詞、織井茂子歌)
浪花ばやし    1954(西条八十作詞、青木光一神楽坂歌)
オランダ屋敷の花 1954(西條八十作詞、永田とよ子歌)
ピレネエの山の男 1955(西條八十作詞、岡本敦郎歌)
娘船頭さん    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌)(松竹キネマ「娘船頭」主題歌)
シクラメン咲けど 1955(西條八十作詞、奈良光枝歌) (映画「暁の合唱」主題歌)
りんどう峠    1955(西條八十作詞、島倉千代子歌)
花のゆくえ    1955(門田ゆたか作詩、及川由子歌)(ラジオ東京『花のゆくえ』主題歌)
怒涛の男     1955(野村俊夫作詞、美空ひばり歌)  (映画「力道山物語」主題歌)(原曲「櫛巻きくずし」)
都に花の散る夜は 1955(丘灯至夫作詞、青木光一歌) (原曲は「さらば青春」)
逢わないで      (西條八十作詞、山本富士子歌)
恋の曽根崎    1955(西條八十作詞、美空ひばり歌) (『曽根崎心中』より)
お染久松     1955(西条八十作詞、空ひばり歌)
乙女心の十三夜  1956(西條八十作詩、島倉千代子歌) (映画「乙女心の十三夜」主題歌)


169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:13
青春サイクリング 1956(田中喜久子作詞、小坂一也歌)
馬喰一代     1957(野村俊夫作詞、村田英雄歌)
思い出さん今日は 1958(星野哲郎作詞、島倉千代子歌)
無法松の一生   1958(吉野夫二郎作詞、村田英雄歌)
夜の酒場     1958(西條八十作詞、宝田明歌)
白い小ゆびの歌  1960(関沢新一作詞、島倉千代子歌)
雪之丞変化    1963(西條八十作詞、美空ひばり歌)
遊侠街道     1964(西條八十作詞、美空ひばり歌)
東京五輪音頭   1964(宮田隆作詞、 三波春夫歌)
柔        1964(関沢新一作詞、美空ひばり歌)
悲しい酒     1966(石本美由起作詞、美空ひばり歌)
我が心の歌    1968(古賀政男作詞、アントニオ古賀歌)
銀座音頭     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
若い銀座     1968(西條八十作詞、美空ひばり歌)
(明治百年大銀座祭記念作品、「銀座音頭」とともに西條八十最晩年の作品でもある。)
浜昼顔      1974(寺山修司作詞、五木ひろし歌)(原曲は「さらば青春」)
ひろしまの母   1977(石本美由起作詞、島倉千代子歌)


*「古賀政男作品集 希望音楽会による古賀政男作曲集( ハーモニカ譜付)」新興音楽出版社/全音楽譜出版社, 1949頃





170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 12:51
☆萩原朔太郎と古賀メロディ


『月に吠える』、『青猫』、『純情小曲集』などで知られ、昭和17年5月11日に亡くなった詩人・萩原朔太郎と古賀政男は、ギター、マンドリン愛好で非常に近い関係にあり、朔太郎は古賀政男宅をしばしば訪れる関係だった。そして朔太郎は大衆に根ざした「古賀メロディ」を高く評価し愛していた。

自らも、音楽家を夢見ていたというほどで、マンドリンやギターの演奏もし、マンドリンクラブを持っていました。

ギターで「影を慕いて」や、マンドリンで「丘を越えて」を弾いたそうです。出身地の「前橋文学館」にはこのギターが展示されてるそうです。

朔太郎の故郷、前橋では「萩原朔太郎記念演奏会」が定期的に開催され、朔太郎作曲のマンドリン曲「「機織る乙女」、「野火」、そして「朔太郎と古賀メロディ」と題して、「丘を越えて」や「影を慕いて」など古賀メロディが必ず演奏されるようです。

「群馬マンドリン楽団」のHPによると、『丘を越えて』『影を慕いて』『人生の並木路』『東京ラプソディ』などが演奏されるそうです。

作曲家・古賀政男は昭和6年(1931)3月に、コロムビアと専属契約を結んだのだのだが、彗星のように登場し華々しい活躍をし、僅か5年後の昭和13年11月には、半生物語と、作品104編を収録した、宮本旅人によるB5判393頁と浩瀚な『古賀政男藝術大観』(シンフォニー楽譜社)が刊行された。

序文には、萩原朔太郎、中山晋平、奥田良三、藤陰静枝、小松耕輔、三浦環、サトウ・ハチロー。跋文には佐藤惣之助、など錚々たるメンバーが寄稿しているのだ。

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。

「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。

 そして、古賀を、西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させたと評した。

 文部省唱歌に始まる近代民衆歌謡は、時代状況を色濃く反映し変遷して来たが、古賀は、歌謡曲・流行歌を大衆性をもった新しい潮流として完成させ、昭和という時代を象徴する文化に発展させた。

なお、萩原朔太郎の長女、葉子によるエッセイ集 『父・萩原朔太郎』 には、「流行歌では、「丘を越えて」「影を慕いて」「酒は涙か」など古賀致男のものが特に好きだった。「影を築いて」の前奏曲は、文の得意中の得意で、まるで指をギターに打ちつけるほどの感情をこめて弾いた。」という。また、マンドリンとギターによる〈朔太郎と葉子父娘で〉、古賀メロディの家庭合奏をよくしていたそうだ。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうですが、(演奏家・古賀政男にいわせれば)、朔太郎はマンドリンが下手だったそうです。

平成23年(2011)は、萩原朔太郎生誕125 年の節目の年で、10 月、晩年、下北沢に居を構えたゆかりの東京の「世田谷文学館」にて「生誕125年萩原朔太郎展」が開かれた。

常設展では、作家であり、舞踏家であり、手芸作家でもあった萩原朔太郎の長女「萩原葉子」の証言(朔太郎と葉子父娘の家庭合奏)の再現演奏があった。

「朔太郎と葉子父娘の家庭合奏」の再現では、マンドリンとギターによる古賀政男の『影を慕いて』『酒は泪か溜息か』、それに朔太郎の『 機織る乙女』など、朔太郎にちなむ世田谷区ゆかりの作曲家と作品を演奏した。...



・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

・宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)

・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫

・流行歌曲について  萩原朔太郎
   (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)


詩人・萩原朔太郎も愛してやまなかった「古賀メロディ」・・この名曲の宝庫、「日本の文化」を、これからも歌い継いでいってほしいものです。



--------------------------------------------------------------------------------


171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 13:06
SP歌謡・回顧と展望

が、平成25年9月10日をもって
廃止されましたので、こちらに移転致しました。


日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
@10cH 歴史BBS
ttp://www.10ch.tv/




172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 13:40
☆西岡水朗と初期古賀メロディ

西岡水朗(にしおかすいろう)は、長崎の民謡詩人から出発した詩人。昭和5年に「雲仙音頭」と「長崎小唄」が認められ、作曲家の杉山長谷夫と声楽家の四家文子に招かれて上京、多くの作品を生んだ。

「ニャンニャン踊り」 (西岡水朗/佐々木英 )、「狸の茶釜」 (西岡水朗/佐々木英 )、「関取人形」(西岡水朗/佐々木英 )などの童謡作品もある。

古賀メロディ、古賀政男コロムビア専属第一作、昭和6年6月、「乙女心」〈鹿山鶯村作詞、関種子歌)と裏表の「チャッカリしてるわね」(天野喜久代歌 )の作詞者。

『嘆きの夜曲』は、昭和7年(1932)の関種子が歌った大ヒット古賀作品で、『影を慕いて』などと並ぶ古賀政男作品の名曲。初期古賀作品の中でも、とてもセンチメンタルな雰囲気が伝わる作品。



チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 天野喜久代 1931.8
博多小夜曲 (西岡水朗作詞、古賀政男作曲)  関種子 1931.8
風も吹きよで   (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 丸山和歌子 1932.4
嘆きの夜曲    (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 関種子 1932.7
二見情話    〈西岡水朗作詞、照屋朝保補作詞、古賀政男作曲、佐々永治編曲〉1932.7
歓喜(よろこび)の歌(西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 中野忠晴  1933.1
男ごころ     (西岡水朗作詞、古賀政男作曲) 楠木繁夫   1934.8


「チャッカリしてるわね」は、松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声映画)の主題歌で、天野喜久代(1897〜1945?)は. 大正2年に帝劇歌劇部二期生として入部。二村定一と初期のジャズソングの多くを歌って人気歌手となったが、昭和20年の東京大空襲で亡くなったといわれる。


古賀政男初期の隠れた名曲『二見情話』〈1932コロムビア〉は、『嘆きの夜曲』と一体で『嘆きの夜曲』として、JASRACに著作権信託されている。(作品コード 059-0343-2  嘆きの夜曲)

沖縄民謡『二見情話』は、まだ誰も沖縄、二見など注目しなかった時代の作品で、哀調を帯びた、「古賀メロディ」と沖縄民謡が融合したような、東北民謡のような、沖縄民謡であって沖縄民謡らしからぬところがたいへんいい歌です。


この歌は、沖縄民謡の大家の間でも「古賀メロディ」と酷似したメロディライン〈DNA〉を持つとされる。

特に、「嘆きの夜曲」〈西岡水朗作詞、昭和7年、関種子)とのメロディラインの酷似が指摘され、古賀メロディのアレンジ(パクリ)と言われています。


民謡と言うのはそういうものかもしれないが、収容所で突然出てくるものではない。デタラメだった旧著作権法下でのまさしく「嘆きの夜曲」の西岡水朗作品そのものがある。


西岡水朗はもともと長崎民謡からスタートした民謡詩人で、かつ沖縄民謡の大家の補作詞や編曲を受けている本格的なもの。

(沖縄ウチナ‐の有力者で合った照屋朝敏氏が沖縄戦の二見に有った収容所で作詞・作曲とされていて、平成二年に沖縄民謡「二見情話」の「石碑」が建てられ、そう書いてあるようですが、突然古賀メロディのDNAを持つ曲がができるとは考えられない。)


(参  考)
決定盤 古賀政男全集(上) 国民的名曲のすべて 〜丘を越えて〜 (日本コロムビア COCP-37091-3)
DISC1 06 二見情話 / 知名定男、大城美佐子(1975ステレオ録音版)
ttp://store.shopping.yahoo.co.jp/toemifc/88092.html

なお、鹿山 鶯村(かやま おうそん、1897-1961)は、いくつかの民謡詩集を持ち、昭和5年11月、佐藤千夜子の「太平小唄」を作詞している。古賀政男のコロムビア専属第一作であるとともに、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた関種子のコロムビア専属第一作でもある。

太平小唄 (鹿山鴬村作詞、 小松平五郎作曲) 佐藤千夜子1930.11 ビクター
乙女心  (鹿山鴬村作詞、 古賀 政男作曲) 関種子   1931.6  コロムビア
♪朧月夜のその頃に・・





173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 14:21
名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
2012-10-19 | 人物

ttp://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/043bce83d51c834415dc1008bf695af4


174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:11
☆詩人・佐藤惣之助

平成24年(2012)5月15日で没後70年となる詩人・佐藤惣之助、俳句と劇作を学び、後に詩に転じ、西條八十と同じ世代の大正時代に活躍した詩人です。民衆派・人道派詩人と言われます。後民謡、小唄を書き、歌謡曲のフリーの作詞家として各社で活躍、多くのヒット曲を世に送り出しました。

昭和15年にコロムビア専属となるまで、フリーな活動をしていて、コロムビア、テイチク、ポリドールなどで活躍しています。

いろいろあるが、やはりなんといっても、青春・人生を謳いあげた古賀政男とのコンビ作品(古賀メロ)が余りにも「名曲」すぎて、人々の記憶に生きているということでしょう。

古賀政男は、自伝「古賀政男「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。

佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡がみられる。その中には、「新作おわら」、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア 」ななどがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 ttp://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html

・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料


(参考)
・佐藤惣之助
 ttp://www.urban.ne.jp/home/festa/sonosuke.htm

・佐藤惣之助の碑
 ttp://www.kawasaki-ouen.com/blog/archives/2011/12/post_107/index.html

・『日本詩人』と大正詩 〈口語共同体〉の誕生
 ttp://www.shinwasha.com/66-6.html

・今週の詩   宵夏  佐藤惣之助  ・・・・八十と惣之助
 ttp://www.midnightpress.co.jp/poem/2009/06/post_94.html
 大正期の詩人として、西条八十(1892 ? 1968)と佐藤惣之助(1890 ? 1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあ らず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家とし て名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。これについては別に。





175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:20
☆古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など

日本のレコード歌謡の草創期、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の時代から5000曲とも言われる国民栄誉賞作曲家古賀政男の作品群はまさに「名曲の宝庫」に相応しいといえるが、殆ど知られていない隠れた名曲も多い。

「いっちょら節」や、沖縄民謡になった「二見情話」など、「新民謡」を含む創作民謡曲や、会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲)など、日本民謡の編曲作品、「荒城の月」「宵待草」など日本歌曲の編曲作品。「アリランの唄」〈朝鮮民謡〉、「のぞかれた花嫁」(アメリカ民謡)「南の花嫁さん」(原曲・任光「彩雲追月」)など外国曲の編曲紹介などあるが、あまり知られていない隠れた名曲がある。

特に、昭和7年の大ヒット曲『嘆きの夜曲』( 1932.2 西岡水朗作詞、関種子歌)や、「影を慕いて」(藤山一郎)コロムビア発売と同じ、80年前、古賀政男初期の作品「二見情話」〈1932コロムビア〉は沖縄・二見を歌った民謡曲で、沖縄民謡の大家が補作詞、編曲している古賀メロとの融合した作品だから沖縄民謡『二見情話』になったのだろう。

『二見情話』について、「情話」という言葉が一般的でなかった時代のたぶん最初の作品のはずで、古賀メロディのメロディライン(DNA)をもち、古賀メロをまねたものと沖縄民謡の大家筋や作詞・作曲者とされる周辺からも言われ続けてきたもの。


南国・沖縄民謡には一般的でないはずのあの東北民謡のような、あるいは古賀メロのような哀調、そして「歌謡調」のような曲調。それは誰が見ても生粋の沖縄人(ウチナーという)で突然できるようなものでもない。


「荒城の月」と同じレコード産業もなかった明治32年に作られ、その後レコード産業も黄金時代を迎えるのだが、昭和45年に全面改正されるまでそのままだった。不明な処がタタあるようだが、名曲というものはいずれ作者を離れ日本の歌となるのだろうが、欠陥だらけの旧著作権法の下で、古賀メロディは、まねられパクられされたことだろう。
そして、沖縄民謡『二見情話』として沖縄の風土の中に定着したということだろうか。

(『二見情話』『荒城の月』などは、You Tubeできける。)



◎以下に古賀政男作品と「編曲」作品等について参考に挙げる。

◇古賀政男以外による編曲の古賀作品例
「サヨンの鐘」(西條八十作詞、古賀政男作曲、奥山貞吉編曲、渡辺はま子)
「誰も知らない「(サトウ ハチロー作詞、古賀 政男作曲、奥山 貞吉編曲、ミス コロムビア(松原 操))
[馬」 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、 仁木他喜雄編曲、伊藤久男、菊池章子)
[いさをを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田龍太郎編曲,楠木繁夫、松原操)
[二見情話」〈西岡水朗作詞、照屋朝保補作詞、古賀政男作曲、佐々永治編曲〉1932



176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:20
◇古賀政男編曲作品

アリランの唄〈朝鮮民謡〉1932(佐藤惣之助作詞、古賀政男編曲)
(コロムビア27066/淡谷のり子・長谷川一郎=蔡奎Y)
  ・・ 日本で「アリラン」が歌になった最初の歌とされる。

ヨサホイ節 (鹿山鶯邨=鹿山鶯村作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)1934年9月、永井松子=音丸、テイチク

会津磐梯山(佐藤惣之助作詩・日本民謡曲・古賀政男編曲)昭和13年、音丸、 テイチクTEI907

のぞかれた花嫁(玉川映二作詞、古賀政男編曲、杉 狂児歌)(1935.8テイチク50055)(アメリカ民謡曲)

軍艦行進曲(鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、演奏 明治大学マンドリン倶楽部)1938.2

愛国行進曲(森川幸雄作詞、瀬戸口藤吉作曲、古賀政男編曲、歌 藤山一郎) テイチク1938.2発売、レコード番号 2074

荒城の月 (土肥晩翠作詞、滝廉太郎作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9コロムビアCOL100542)明大マンドリンクラブ演奏・・李香蘭が慰問先の戦地でいつも最初に歌った

宵待草 (竹久夢二作詞、多 忠亮作曲、古賀政男編曲、李 香蘭歌)(1942.9 COL100542)
明大マンドリンクラブ演奏

南の花嫁さん1943.1(藤浦洸作詞・古賀政男編曲、高峰三枝子歌)コロムビアレコード 100596。(原曲 1935任光「彩雲追月」)(藤浦洸作詞・古賀政男作編曲、高峰三枝子歌)


南の花嫁さんは、彩雲追月のメロディーに日本語の歌詞をつけて高峰三枝子さんが歌った。同じ曲にもかかわらず醸し出されるそれぞれが全く違った世界。
戦時という重苦しい時代に逆らって、明るく爽やかで健康的な曲感として知られる曲。戦時の兵隊さんに人気があったらしく、戦後も昭和20年代頃までは復員兵を捜す「尋ね人」というラジオ番組などがあって、盛んにこの曲がかかっていた。
「南の花嫁さん」は、原曲は任光という中国人で、「彩雲追月」という中国民族楽曲で、二胡曲だから当然歌詞はない。この歌をもとに古賀政男が日本語向けに編曲して「南の花嫁さん」が生まれた。「彩云追月」にはない音形もかなりあり、古賀政男が中国の歌を引用して作曲した、と言ってもいいかと思います。

(参考)「二見情話」について
決定盤 古賀政男全集(上) 国民的名曲のすべて 〜丘を越えて〜 (日本コロムビア)COCP-37091-3
DISC1−06・・・「二見情話」知名定男、大城美佐子(ステレオ版)
ttp://columbia.jp/prod-info/COCP-37091-3/

なお、今年2012年1月5日付け「読売新聞」は、上記「古賀政男全集」(CD)の紹介の中で、 《日本のレコード歌謡の草創記に大衆音楽の担い手として活躍した作曲家・古賀政男の名曲を上下計6枚で100曲収録した。「東京ラプソディ」(藤山一郎)、「悲しい酒」(美空ひばり)、「湯の町エレジー」(近江俊郎)など、大ヒット曲はもちろん、「二見情話」(知名定男、大城美佐子)、「乙女鶯」(田端義夫)など隠れた名曲が入っているあたりに、制作側のこだわりも感じられる。》と紹介しています。

《二見情話》
作 詞  西岡水朗
補作詞  照屋朝保
作 曲  古賀政男
編 曲  佐々永治
歌    知名定男、 大城美佐子(ステレオ版)
レコード コロムビア 昭和7年(1932)

その他CD・・・
古賀メロディ誕生70周年記念 古賀政男大全集〜20世紀の遺産〜
1998年07月18日 発売 (日本コロムビア COCA-15216/31  CD16枚)
荒城の月、二見情話・・Disc 16









177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:25
☆二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡

ttp://www.radiopaniekzaaierwebradio.com/video/cnshutami-joowa-lgokinawan-folksong_0:02:19__WRUeFeMfo7U.html

いい歌です。南国・沖縄民謡には一般的でない哀感が漂う。あの東北民謡のような、あるいは古賀メロのような情感、そして「歌謡調」のような曲調。沖縄民謡とは明らかに違う曲調、それは誰が見ても生粋の沖縄人(ウチナーという)で突然出てくるようなものでないだろう。



178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:32
☆古賀メロディを支えた主な名歌手たち

昭和改元とともに、レコードの新しい時代を迎えた大衆音楽は、「影を慕いて」に始まる「古賀メロディ」の出現によって大きく変わることになった。

古賀メロディを一体となって支えた主な名歌手たちとその古賀メロディ第一作。
(因みに、関種子、藤山一郎は東京音楽学校首席卒業)

関 種子   東京音楽学校  乙女心 (鹿山鶯村作詞) 1931.6
藤山一郎   東京音楽学校  キャンプ小唄 (島田芳文作詞)  1931.7
河原喜久恵  東京音楽学校 月の浜辺 (島田芳文作詞)  1931.7
淡谷のり子   東洋音楽学校  私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞) 1931.10
渡辺光子   東京音楽学校  強くなってね (西條八十作詞) 1933.2
ミス・コロムビア  東京音楽学校 お蝶夫人の唄 (西條八十作詞〉 1933.3
松平 晃   東京音楽学校 サーカスの唄 (西條八十作詞〉 1933.5
楠木繁夫   東京音楽学校 国境を越えて (佐藤惣之助作詞) 1934.3
ディック・ミネ           望郷の唄    (島田欣也作詩) 1935.7
李 香蘭           紅い睡蓮  (西條八十作詞)  1939.9
二葉あき子  東京音楽学校 あの花この花 (西條八十作詞) 1940.2
霧島 昇   東洋音楽学校  新妻模様   (久保田宵二作詞) 1940.3
伊藤久男 帝国音楽学校 熱砂の誓い(建設の歌)(西條八十作詞)1940.11
渡辺はま子  武蔵野音楽学校 サヨンの鐘 (西條八十作詞) 1941.7


*西條八十作詩、古賀政男作曲(昭和8年)
(ビクター専属・西條八十が、1年間同時にコロムビア専属とした。)

去りゆく影  関種子      1933.1
恋ごころ      長谷川一郎   1933.1
初恋の唄      関種子     1933.2
強くなってね     渡辺光子    1933.2
来る来るサーカス  淡谷のり子   1933.3
お蝶夫人の唄  ミスコロムビア 1933.3
サーカスの唄    松平晃     1933.5
気まぐれ涙     ミスコロムビア 1933.9
はてなき旅     松平晃     193310



179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:39
<「古賀政男」のドラマ>

昭和の歴史に大きな足跡を残した「古賀政男」、その古賀政男の出てくる主なドラマ

昭和41年 長谷川明男/頭師佳孝『我が心の歌』テレビシリーズ
昭和52年 NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』(佐藤千夜子の生涯)
      若尾哲平  (「いちばん星」(最初と最終回と途中)は見れる。)
昭和54年 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』
      (1979年4月14日、NHK総合TV)
      (平成13年 同NHKアーカイブススペシャル版再放送)
昭和55年 中尾彬『木曜ゴールデンドラマ 花も嵐も踏み越えて』(西條八十)NTV
平成4年  片岡鶴太郎『古賀政男物語』テレビ東京

・NHK HPによると、以下NHKアーカイブスで以下が保存されてるとあります。(閲覧できないが)

西田ひかるの痛快人間伝 古賀政男      1993年2月4日
この人と語ろう               1977年11月21日
あの人あの芸 古賀政男           1997年5月5日
NHKアーカイブス スペシャル
      特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編                    2002年12月29日
      特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 後編                    2002年12月30日
NHK映像ファイル あの人に会いたい 古賀政男 2006年4月29日






180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:53
☆「古賀メロディ」と、その秘密

 「古賀メロディ」の原点は「母(母の愛)」にあると言われます。古賀政男という人は常に『母』に涙する人、母の人を包み込む「愛と優しさ」、それが曲作りのエネルギーであり、キーワードになっているのではないでしょうか。それと古賀政男は佐藤惣之助、西条八十、サトウハチローなど多くの優れた詩人に恵まれた人。

彼はよく『詩はお姉さん、曲は弟』と言って詩を大切にした人として知られる。あの哀調を帯びた人を包み込む詩の優しさ、温かさ、それと一体のメロディの優しさ温かさ、それが前奏・間奏・後奏と一体に溶け込んで人の琴線を捉える。人は誰となくそれを「古賀メロディ」と呼んで称え愛するようになった。あれは誰もまねができない。 「古賀メロディ」とはただ作曲家の名前に「メロディ」を付けただのものにあらずして、その「メロディ」を愛する歴史の中で生れた深い敬愛の意味を持つ言葉なのです。

「古賀メロディ」の中にもいろいろあって、「影を慕いて」や「人生の並木路」のようなもの、「のぞかれた花嫁」「二人は若い」「青春サイクリング」のようなもの、そして戦時中の戦時色を感じさせない「故郷の白百合」(サトウハチロー作詞、霧島昇、松原操歌)「雲のふるさと」(大木惇夫作詩、伊藤久男歌)など。総じて「古賀メロディ」というのは「青春」・青春の苦悩をテーマとした歌とも言える。

「古賀メロディ」の代表的な曲の一つに楠木繁夫の歌う「白い椿の唄」(佐藤惣之助作詩)がある。・・これは菊池寛原作 映画「貞操問答」(昭和10年)の主題歌で、古賀政男がテイチクに移籍した第一作です。前奏・間奏・後奏が独立した一曲に相当するようなすばらしい古賀メロディの代表的な曲です。

前奏・間奏・後奏だけで一つのドラマ、聴いていると、その人をそっと優しく包みドラマの人を中に引き込むメロディ、その哀調を帯びた静かな中にも怒涛のようなメロディの中に、どんどん引き込まれ、そこに秘められたメッセージを感じ取らないわけにはいかない。

・・まじめに頑張ればきっといいことがあるって、そんな青春の息吹と励ましのメッセージを感じないわけにいかない気がします。
そこが「古賀メロディ」のたまらない魅力でもあり、それは時代を越えたテーマなので、世代を越えて生き続けられるのです。

東京へ母を呼んで暮らすのが夢だったという古賀政男の母が亡くなった(昭和9年8月)のは、この映画の企画をしてるときで、この歌ができたときは母がなくなってたとき。佐藤惣之助作詞の「白い椿の唄」三番目に「呼べど帰らぬ面影は、消えて遥かな山の上・・」 と歌われてますが、これは母を失った古賀政男の心境そのもので、彼のその後に創作意欲を大いにかきたてたといわれる。

NHKTV[西田ひかるの痛快人間伝・古賀政男」では、マンドリンを通して「古賀メロディ」の曲のひみつ、古賀メロディのルーツを探っていた。
そのなかで、上記「第二の故郷韓国」を訪ねた時のビデオが最後に流れた。参考に一部を書く。

古賀政男が大正元年、7歳で韓国に渡るあたりから、韓国での暮らし、そして大正11年再び日本に帰り明治大学に入る。
古賀メロディの歴史は、日本に「歌謡曲」というものができ、それが大衆の中に根ずいた歴史でもあること。「影を慕いて」ができるまで日本の流行歌の中に、三拍子はなかった。でも唯一あるのが朝鮮の民謡。

どうして朝鮮の音楽に似てるのかな?という問いかけに、最後のビデオを見ればそれがわかると。
古賀政男は貧乏だったが、その後成功に次ぐ成功だった。でも心の底には消すことのできない、しこりのようなものがあった、それが何であるか自分でもわからない。 そんな時、体も弱って73歳になった古賀政男は、体をおして昭和53年再び朝鮮に渡ることにしたのだった。 (TBSTV[古賀政男、第二の故郷に帰る」で放映。)

そして古賀政男を迎えたのは、朝鮮の女性たちが演奏する子供のころに、聞いた懐かしい朝鮮メロデーとであった。

そしてうつみ宮土理さんの言葉を通してであるが、そこに自らの音楽の原点をみた。 家族の中で居場所の無い中で、やさしい三拍子のメロディとリズムは、古賀少年にやさしく響いた。

朝鮮の楽器「カヤキン」の弦の震えは、古賀メロディのこぶしでもあり、古賀少年のこころの震えであり、それがおなじような同時代の多くの 大衆の人々の心にひびいたのです。 ・・利根川祐「人物昭和史」ちくま文庫720 (1989)






181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:54
☆古賀メロデー」とは

「古賀メロディ」には、たとえば『影を慕いて』『人生の並木路』や『新妻鏡』『あけみの唄』・・など人生の苦悩、青春の苦悩と言う重いテーマをテーマとしたものにより「名曲」が多い。

「写真・昭和30年史」でもわかるように、壷井栄原作の映画[二十四の瞳](昭和3年から戦後早々までの話)を見るまでもなく、「古賀メロディ」が大衆の中に浸透していった「昭和」・戦争に明け暮れたその前半の日本は貧しい中にも心豊かな時代でもあったのだ。

古賀政男は「詩はお姉さん、曲は姉」といって「詩」を大切にした人として知られる。曲は詩を越えることができない。しかし、詩ができる背景は世相と無関係でありえない。世相だけではないが、「古賀メロディ」はそうした[昭和]の世相の中で生れそして歌われたたことは確かである。

映画[二十四の瞳]では卒業を待たず幼くして「奉公」にだされるこどもたち・・男の子は丁稚奉公、女の子は子守や女中奉公、貧しさゆえに自分の子どもを「奉公」に出すというような辛い選択が普通だった貧しい時代、大正時代に作られた童謡「叱られて」の世界、それが昭和である。

日本はいつのまにか物があふれる「飽食の時代」と言われるようになった。しかし、「豊かさ」と引き換えに大切なものを失ったのではないか。この時代の歌には、酔いしれ失う前に持っていた大切なもの、温かと優しさがある。

「人生の並木路」は昭和12年1月の日活映画「検事とその妹」の主題歌だが、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助作詩)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。

戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』 で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌いあげた説得力のあるすばらしい名曲だと思います。

古賀政男は亡くなる直前頃、・・古賀メロデーよいつまで続くんだ、古賀メロデーよ消えされ。これまでたくさんの歌を作ってきたが、僕の古賀メロデーが受け入れられる世の中というのは、不幸な時代なのだ。今はハッピ−な歌が受け入れられる時代なんだ。・・というようなことをいっていたことがある。そして、亡くなる前日かに便せんに書かれたメモが、旧古賀邸跡の「古賀政男音楽博物館」に展示されている。

「もうぼくのメロデーが受け入れられる時代ではない。いまは明るいハッピーな歌が受け入れられているんだ。
そういう歌がいまの歌なんだ。」って。

これについて吉田正は、僕はまったく逆説だと思う。古賀先生が言いたかったのはね、人間というのは、ハッピーな時だけではない。苦しいときも、悲しいときもある。そういう人間の一番暗い面がでたときは、わたしの歌を聴いてくださいよって、・・そういうことだとぼくは思うんだ。
人間が苦境に立ったとき、そのときには自分の歌が歌われるはずだという確信があったんですよ。
先生には。・・と本で書いている 。( 「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版) )

歌人・楠本憲吉氏は、「古賀メロデー」という言葉には、二つの使い方があるのではないかと思っているという。

ひとつは広く「古賀政男作曲」を意味するものと、もうひとつは「古賀政男」の書いた曲のうち、特に詩のテーマが人生の悩みや苦しみを表現しているもの。・・と。

昭和の歴史とともに大きく変わったこと、それはラジオ放送の開始と、昭和3年『波浮の港』(佐藤千夜子)に始まるレコード。それに昭和4年日活『東京行進曲』(佐藤千夜子歌)にはじまる日本映画黄金時代。ラジオ放送は、本格的レコード会社の発足より一足早い大正14年(1925)だった。



182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 15:55
今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)

なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。

「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生したといえる。

古賀政男は自伝『我が心の歌』の中で、「佐藤千夜子」について『終生の恩人』と書いている。


NHKアーカイブス スペシャル
      特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男 前編・後編

 は、古賀政男音楽博物館で時々上映されている。









183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 16:03
藤山一郎と増永丈夫 投稿者:SPレコード歌謡倶楽部 投稿日:2009年 9月16日(水)01時05分58秒

  日本の近代音楽の歴史において、藤山一郎はユニークな存在である。クラシックとの格調と大衆性をもつ音楽家は非常に少ないからだ。藤山一郎のレコード歴は大正時代から始まっている。慶応幼稚舎時代にニッポノホンに童謡を吹込んだのがそうだ。だが、なんといっても藤山一郎のスタートは、《キャンプ小唄》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》など日本の流行歌の名作をヒットさせ、古賀政男という作曲家を世に送り出した昭和六年、と見るのが妥当であろう。世の中にはっきりと大衆音楽家としての存在が認められたという点で。それにしても、それから六十年以上にわたって張りのある美声と豊かな歌唱芸術で歌い続けたきたのだから、極めて、日本の音楽史においては充実した年輪を刻んだことは確かである。
 昭和四年春、我が国唯一官立音楽学校である東京音楽学校(現・芸大)には、逸材が大挙入学した。その中でも慶応普通部から進学してきた増永丈夫という青年の才能は光っていた。この増永青年こそ、後の藤山一郎であるが、そもそも、なぜ、藤山一郎として歌謡界に登場したのか、それには深い事情があった。昭和恐慌で生家のモスリン問屋「近江屋」が莫大な借金を抱えてしまい、借金返済に追われる両親を見かねて少しでも借財返済にと思い、レコード吹込みのアルバイトをコロムビアで仕事をしたのが藤山一郎誕生のきっかけだった。前年のコロムビアで吹込んだ《慶応普通部の歌》《慶応幼稚舎の歌》は私家盤であり、オデオンから発売された《美しきスパニュール》《日本アルプスの唄》は藤村二郎で吹込まれており、まだ、藤山一郎の存在はなかった。
 昭和6年、本来デビュー曲になるはずだった《北大平洋横断飛行行進曲(マーチ)》を吹込むことになった。ところが、当時官立音楽学校の学生は、無断で学校の外で演奏してはいけないという校則があった。そこで、世を忍ぶ仮の名前が必要となった。親友永藤秀雄(上野のパン屋『永藤』の息子)の「藤」をとって、「藤村操」を思いついた。当然、加藤ディレクターがクレームをつけた。「厳頭の感」を残して、日光の華厳の滝に身投げした一高生と名前が同じでゲンが悪いということだった。そこで、「村」を「山」に直し、フジヤマなら日本一でいこうと「一郎」と続けた。藤山一郎の誕生だった。だが、レコードの主題であった北太平洋横断の飛行機が行方不明となり、レコードはお蔵入りとなり、藤山一郎のデビューとはならなかった。
 昭和六年七月新譜で、《キャンプ小唄》で藤山一郎はデビューした。そして、《酒は涙か溜息か》が爆発的にヒットし、全国に藤山一郎の歌声が流れた。続いて《丘を越えて》も大ヒット。新人歌手・藤山一郎の絢爛たるスタートだった。しかし、これがいけなかった。学校当局に、声楽本科に在籍する学生であることが知られてしまった。停学処分の断が下った。「藤山一郎音楽学校停学事件」は大きな話題であった。停学後は校則に忠誠を誓い、学業専一に励んだ。だが、昭和七年に発売された《影を慕いて》がまたしてもヒットし、「藤山一郎」は将来をバリトンの声楽家として嘱望されていた「増永丈夫」を置き去りにし、人気流行歌手になってしまったのである。
 

184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 16:03
昭和八年三月、音楽学校を首席で卒業した。改めて、誰憚ることなく、ビクターと契約を結び、流行歌手テナー藤山一郎として専属歌手のスタートを切った第一回のレコード《僕の青春》は、晴れて卒業を祝福されるかのような青春讃歌であった。世の人々に歓迎されヒットした。《燃える御神火》も《大島おけさ》のB面とはいえ、好評を博し、《チェリオ》もヒットした。また、《流浪の民》《故郷廃家》などの四重唱や「蒼い月」「永遠の誓い」「谷間の小屋」外国民謡、内外の歌曲、ジャズ・ソング、タンゴなど、幅広いジャンルのレコードを吹込んだ。また、本名の増永丈夫では、バリトン声楽家としてクラシックのステージで独唱し、純音楽と軽音楽の分野でその才能をいかんなく発揮した。
 藤山はビクターでの三年間で己の音楽の方向性を掴み、《酒は涙か溜息か》などの一連のヒット曲の作曲者である古賀政男との縁で、テイチク、さらにコロムビアに転ずるわけだが、戦前・戦後を通じて実に多くのヒットを放っている。《東京ラプソディー》《男の純情》《青い背広で》《懐かしのボレロ》《上海夜曲》《なつかしの歌声》《燃ゆる大空》《三日月娘》《夢淡き東京》《花の素顔》《青い山脈》《長崎の鐘》その他。しかも、レコードばかりでははなく、放送、舞台、大平洋戦勝中は、南方戦線まで足をのばし、幾度も死線を突破しながら広く音楽活動を行った。また、テイチクでヒットを飛ばし、生家の借財を完済すると、バリトン増永丈夫としての独唱を充実させた。テノールの美しさをもつバリトンはクラシックファンを魅了している。
 藤山は昭和二十九年、レコード専属に終止符を打ち、NHKの専属となり、クラシックの香りのするホームソングの普及に努めた。また、紅白歌合戦では、東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、クラウス・プリングハイム仕込みの指揮を披露した。作曲家の一面をもっており、《ラジオ体操の歌》をはじめ、校歌、社歌、ホームソングなどを作曲した。昭和四十年代に入り、なつかしの歌声ブームが来ると、テレビのブラウン管に登場し、格調高い歌声を届けた。
 藤山一郎の生命生命は長かった。それは衰えを感じさせぬそれであった。クラシック音楽の増永丈夫が大衆歌謡・演奏家の藤山一郎を支え続けたたいえるのではなかろうか。平成四年、国家は藤山一郎の功績を讃え国民栄誉賞を授与した。授賞式で、宮沢首相をはじめ閣僚の前で感謝の意を込めてベートーヴェンの《歓喜の歌》を歌った。流行歌はだちらかと言えば、怨み、つらみなどの負に世界になりがちであるが、実は人々の励ましとなり希望と勇気を与えるような陽の響きもあるとことを藤山一郎は知らしめた功績がある。その意味でも《歓喜の歌》は己の歌唱芸術の境地を達成したまさにに歓喜ではなかったか。




185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 16:15
☆「古賀政男と「荒城の月」 2 ・李香蘭と[荒城の月]

昨年、2012年 6月12日、本欄に、「古賀政男と「荒城の月」」を載せさせていただきましたが、その後2012年10月に、以下のブログで土井晩翠と「荒城の月」、それにここで書いた李香蘭が戦地慰問で最初に歌った古賀政男編曲になる「荒城の月」についても、これを含めてポスターを使ってわかりやすくまとめてくださっていますので一部ここに紹介させていただくこととします。

名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
2012-10-19 | 人物
ttp://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/043bce83d51c834415dc1008bf695af4

以下引用・・
戦前の中国(中華民國)と満州國、日本で歌手、女優として活躍(悲運の運命を辿ったと言ったほうが良い)した李香蘭(山口 淑子)が戦地慰問でかならず最初に歌ったという歌が、「荒城の月」であったといい、これは1942(昭和17)年、古賀政男の編曲になるものだそうだ(※14)。
※14:SP歌謡・回顧と展望:古賀政男と「荒城の月」
  
この歌は戦後、新東宝映画 谷口千吉監督「暁の脱走」(1950年公開。 主演 山口淑子=李香蘭、池部良)に取り入れられ、You Tubeでも見ることができる。
彼女の本格クラシック的歌唱力は幼少時に奉天(現:瀋陽)に住むイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を習い、日本では三浦環にも師事したといわれるだけあって、単なる美貌のアイドルスターの歌ではなく、とても素晴らしいものだ。

私は、若い頃から彼女の歌の大ファンである。是非この曲をきいてください。映像は、戦時中の慰問の姿を自らが再現したともいえる場面である。

荒城の月 山口淑子 - YouTube





186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 16:25
☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・

 青春日記、青い背広で、男の純情、人生の並木路・・佐藤惣之助没後70年!

物が、食があり余る「飽食の時代」、若者文化を象徴するかのような最近のニューミュ-ジック等のテレビ歌番組には、重い言葉であるべき『名曲』と言う言葉がいとも軽く平気で飛び交っているのには違和感を覚える人も少なくないでしょう。

「名曲」と言うものは、聴くことに依って心が洗われ癒され、心穏やかになれる、心の原点を取り返すことができる。人は、心が洗われ、心穏やかになり、心の原点を取り戻した時、自然に涙がでてくる、そして人は再び生きる力を与えられる。

「人生の苦悩」から始まった「古賀メロディ」・・「影を慕いて」が作られた昭和3年、唱歌・童謡、民謡、新民謡等を除いて、今ある歌のほとんどはまだなかった。

「古賀メロディ」にもいろいろあるが、人生の、青春の苦悩をテーマとしたものに、より名曲が多い。(ただしSPオリジナルを基本とした音源でないと聴けない。)

その短い中に、底辺に流れる誰もマネできない独特の哀調を帯びたメロディの中に、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するようなメロディの中に、明日に向かって生きていく躍動や青春の息吹を感じさせる・・、今までにない詩とメロディ、人々はそれを敬愛の意味を込めて「古賀メロディ」と呼んだ。

 初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」というような意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという意味のことが自伝に載っています。

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるような、「古賀メロディ」の出現によって、より表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。

川崎出身の詩人・佐藤 惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。


惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。

大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。
そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。



187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 16:30
彼が本格的に歌謡曲の作詞を手掛けたのは、古賀政男がコロムビア専属作曲家(1931.3)になった翌年、藤山一郎の「影を慕いて」(1932.3 コロムビア)が出た昭和7年(1932)からです。

その最初は、「金色夜叉(お宮の唄) 」(1932.2 関種子)、「鳩笛を吹く女の唄」(1932.2 井上静雄(藤山一郎)、いずれも古賀政男作曲です。下に、参考までに最初期の佐藤惣之助とのコンビによる主な作品をあげる。

この後、昭和8年1月には、夫人花枝と死別、同年8月に「日本詩人」や馬込の文士村での仲間の朔太郎の妹周子(かねこ・本名愛子)と再婚するとになった。

酒を愛し、釣りを愛した人として知られる惣之助は、「私は詩を大衆の中に捨てた。そして波浪の中から自然の魚を釣った」と書いている。

なお、歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も、それ以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」「怒れる神 」(昭和14年)、「わたつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわし生涯に22の詩集を出している。詩人や文人で彼の門下生も多い。

そして古賀政男は、「人生の並木路」や、「新妻鏡」など、感動で打ち震え楽譜を「大粒の涙で濡らしながら」多くの名曲を世に送ることになる。

昭和7年頃からの佐藤惣之助の作詞活動は、17年に亡くなるまでの10年間余りながら、「人生の並木路」「新妻鏡」「青い背広で」「男の純情」など古賀メロディを中心とし日本人に心の琴線に触れる多くの殊玉の名曲、それに新民謡、他の国民歌謡その他を含めて660篇余りにも及ぶ。

今年、平成24年(2012)5月は、この「古賀メロディ」で忘れてはならない詩人であり作詞家である佐藤惣之助(1890 〜 1942)が亡くなって丁度70年になります。


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった昭和17年(1942)の5月15日、佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後70年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。


☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の 最初期(1932)の歌・・

金色夜叉(お宮の唄)             1932.2 関種子
鳩笛を吹く女の唄               1932.2 井上静雄(藤山一郎)
秘めたる恋           1932.3 関種子
武雄の唄      1932.5 中野忠晴
春の唄      1932.6 淡谷のり子
月夜の恋   1932.6 丸山和歌子
朝顔の唄    1932.6 関種子
笛は冴ゆれど       1932.7 関種子
不如帰    1932.8 淡谷のり子
放浪の唄                  1932.9 長谷川一郎
アリランの唄(朝鮮民謡)    1932.9 淡谷のり子、長谷川一郎
愛は紅い       1932.9 関種子

「緑の地平線」や「人生の並木路」など、その後の主な映画主題歌については、「古賀メロディ−と映画主題歌」(2012年 3月 6日)参照。


・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html
・阪神タイガースファンなら誰でも知ってる☆詩人・佐藤惣之助 テーマ:馬込文士村                                
ttp://ameblo.jp/mocchann314/entry-10769706865.html
・六甲颪(ろっこうおろし)の歌詞から
ttp://ameblo.jp/mori-arch-econo/entry-10736372304.html
・萩原朔太郎と佐藤惣之助
ttp://siokaze1.cocolog-nifty.com/sakanachann/2008/02/post_4273.html
・二木紘三のうた物語
ttp://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_1ee6.html







188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 17:31
☆古賀政男生誕100年記念CD

平成16年12月に古賀政男生誕100年記念以下の当時のオリジナル原盤によるCDが出ましたので、参考のためここに紹介しておきます。

古賀政男生誕100年記念のCDは、最近の歌手ので、いくつもでてますが、やはりSP原盤によるものが聞けるのは、貴重です。

『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』(各20曲)
テイチクTECE 2445925460

<上>
 国境を越えて  (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・古賀政男テイチク第一作(昭和9年7月) 
 影を慕いて   (古賀政男)   楠木繁夫・・・(編集したような作曲)
 スキーの唄   (島田芳文)   楠木繁夫
 白い椿の唄   (佐藤惣之助)  楠木繁夫・・前奏・間奏・後奏が独立した一曲に値する。
                    菊池寛原作「貞操問答」映画化主題歌
 ハイキングの唄 (島田芳文)    楠木繁夫
 望郷の唄    (島田欣也)   デイックミネ
 のぞかれた花嫁 (玉川映二/サトウハチロー)   杉狂児
 二人は若い   (玉川映二/サトウハチロー)  デイックミネ・星玲子
 波止場がらす  (佐藤惣之助)  デイックミネ
 男のまごころ  (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 夕べ仄かに   (島田芳文)   デイックミネ
 緑の地平線   (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 ゆかりの唄   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 白衣の佳人   (佐藤惣之助)  デイックミネ
 啄木の歌    (島田欣也)   楠木繁夫
 春まだ浅く   (石川啄木)   有島通男
 東京ラプソデイー(門田ゆたか)   藤山一郎
 東京娘     (佐藤惣之助)  藤山一郎
 慈悲心鳥    (佐藤惣之助)  楠木繁夫
 さらば青春   (佐藤惣之助)  藤山一郎
              




<下>
男の純情    (佐藤惣之助)  藤山一郎
愛の小窓    (佐藤惣之助)  デイックミネ
女の階級    (村瀬まゆみ)  楠木繁夫
回想譜     (今城靖児)   藤山一郎
青春の謝肉祭(カーニバル )(島田欣也) 藤山一郎
南国の乙女   (水島洋)    奥田英子
あゝそれなのに (星野貞志/サトウハチロー)    美ち奴
うちの女房にゃ髭がある (星野貞志/サトウハチロー) 杉狂児、美ち奴
聖処女の唄      (佐藤惣之助)   藤山一郎
人生の並木路     (佐藤惣之助)  デイックミネ・・・・(オリジナルレコード)
青い背広で      (佐藤惣之助)  藤山一郎
青春日記       (佐藤惣之助)  藤山一郎
緑の月        (佐藤惣之助)  奥田英子 
のばせばのびる    (江川真夫)   楠木繁夫
真実一路の唄     (佐藤惣之助)   楠木繁夫
軍国の母       (島田欣也)   美ち奴
黒いパイプ      (倉仲住人)・・  由利あけみ・・三浦環と「蝶々夫人」にも出演。
白虎隊        (島田欣也)   藤山一郎
人生劇場       (佐藤惣之助)  楠木繁夫
弥次喜多道中記    (古賀政男)    楠木繁夫





189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 20:57
参考

「別冊太陽 近代詩人百人(特別付録・萩原朔太郎 佐藤惣之助宛書面)」(別冊太陽No.24 (AUTUM‘78)(平凡社1978)


190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 09:01
嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&feature=endscreen&NR=1


191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 09:32
☆SPレコード歌謡とSPレコード


・三分間の芸術・・SPレコード歌謡とSPレコード

SPレコードとは、今では見かけることは殆ど無いが「蓄音機」で聴くための、昭和30年代に全盛を迎えたLPレコードが出現する以前の78回転レコードです。因みにその後LPレコード(33、3回転)、EPレコード(ドーナツ盤、45回転)があった。

日本における電気吹き込みによるSPレコード産業は「昭和」の歴史とともに勃興したが、マイナーなレコードには前から主に浪花節や一部の童謡、民謡、演歌などがあった。

SP盤レコードの録音時間には現在のCD或いはLPレコードと違い、3分と言う時間制約が有った。3分と言う時間内に、すべてをどうやって収めるかと言う「三分間の芸術」であった。

「歌謡曲」(歌謡歌曲)とはまさに「三分間の芸術」だったのです。でもその短い時間で歌詞の行間に秘められた想いを自ら想起しつつ聞けるのです。

たとえば、「古賀メロディー」の「白い椿の唄」(佐藤惣之助作詩)や、「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞)の様に、3分間という短い時間の中で、前奏・間奏・後奏それぞれが独立した一曲にも値し、人を曲の世界に引きずり込む溢れるような名曲といえましょう。

短い歌詞で思わず涙が溢れる、そのような曲は今あるだろうか。


・SPレコードと、その他の展示施設(参考)

CD、ビデオ、カセットなど視聴覚資料が図書館で借りられて聞くことができる。

広く大衆音楽については、「古賀政男音楽博物館」(代々木上原)、「国立国会図書館デジタル化資料」や、靖国神社前の「昭和館」で聞くことができる。

「昭和館」は、東京九段の「靖国神社」の下にあり、「昭和」の歴史と暮らしについて保存展示する厚生労働省所管の博物館で、平成11年3月に開館した。SPレコードが鑑賞できる映像・音響室があり、寄贈された音楽評論家、前沢コレクション35,000枚他を中心とするSPレコードを検索して聴ける。たとえば、西條八十で検索すると600件ヒット。古賀政男441件、霧島昇236件、関種子256件など。
今回の東北・東日本大震災大津波に耐えた207枚のSPレコードが、 岩手・大船渡 の土蔵から発見され寄贈されたという。 ttp://www.showakan.go.jp/
 レコード検索 ttp://www.showakan.go.jp/search/records/

多数の文化遺産ともいえる「SPレコード」や各種蓄音機の蒐集の試みが行なわれ、寄贈を受けて展示され聞くことができる、地方におけるレコードを中心とした「文化交流施設」(レコード博物館)を以下HPをもとに参考に紹介する。
これ以外では地方であるが参考に挙げると・・


・新冠町 レ・コード館  北海道新冠郡新冠(にいかっぷ)町
新冠町はレコードと音楽に依る町作りを目指す。収蔵枚数は約80万枚。
サラブレッドが遊ぶ牧場や日高山脈、太平洋が見える展望塔からの眺めは最高だ。(Hpより)
1991年全国のレコード愛好家に「あなたのレコードを、いつまでも大切にお預かりします」と呼びかけ、1997年のオープンまでに約30万枚のレコードが集まったことから始まりました。
その思いは建物全体をレコードとプレーヤーに見立てたデザインにも現れています。施設にはレコードの歴史・文化を学び体験することができるレ・コードミュジアムや我が国最大級のオールホンスピーカーを導入したホールなどがあります。昔懐かしのジュークボックス、レ・コードバンクに保管されているレコードなど多くのレコードを手に取りヘッドホーンで聴くことが出来ます。(Hpより)
ttp://www.niikappu.jp/record/
ttp://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/908.html

・音浴博物館 長崎県西海市大瀬戸町
森の中にあるアナログレコードの世界 緑深い山奥の廃校を改修した建物内には、アナログレコード、蓄音機、往年の名機のオーディオセットがところ狭しと並ぶ。すべて自分の手で針を落として聴くことができる。(Hpより)
日本全国から寄贈され集まったSP10,000枚、LP150.000枚のレコード。
ttp://onyoku.org/
検索  ttp://onyoku.org/index.php?page=alias-5

・金沢蓄音機館 石川県金沢市尾張町
 ttp://www.kanazawa-museum.jp/chikuonki/

 山高コレクション二万枚余り

・懐かしのレコード展示館 沖縄市中央2
 1950年代から70年代のレコード1500余枚と、大正時代の蓄音機やラジオ数点が展示 され、「団塊の世代」が親しんできた懐かしのメロディーが流れている。






192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 10:42
最近は,「思い出のメロディー」というのも、「昭和のメロディー」というのも、次第に下がって来て数年前は昭和30年代だたが、今や「昭和」とは昭和の終わりごろ昭和50年代あたりのことのようだ。

昭和戦前から終戦後あたりまでのあのSP歌謡の名曲を聴くことはできない。

そんな中で、大晦日にNHKラジオ第一で、長田暁二、小沢昭一の「年末特集 思い出の昭和歌謡」がお勧めです。

今年、2011年で4回目を数える大みそか恒例の番組です。82歳の俳優・小沢昭一と81歳の音楽文化研究家・長田暁二が、昭和の歌謡曲をききながら、「昭和」という時代を大いに語る、題して「モノクロ歌合戦」。司会は島田政男アナウンサー。
ttp://cgi.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=11w21420111231

長田暁二氏の解説に依るもので、昨年は、藤山一郎、二葉あき子の二人の東京音楽学校コンビによるあの「なつかしの唄声」「春よいづこ」いずれも西條八十作詩、古賀政男作曲。霧島昇の「誰か故郷を想わざる」(西條八十作詩、古賀政男作曲)、ディックミネの「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲)、昭和12年日活映画「検事とその妹」オリジナル、当時の20代の若きディックミネの歌う悲壮感漂うオリジナル盤(テイチク)によるものなど、その他当時のSPオリジナル盤による本ものの唄声を存分に聞き入った。

12月31日(土)放送 [NHKラジオ第1]後0:15〜1:55
ttp://cgi.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=11w21420111231






193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 21:25
☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)

昭和4年(1929)の菊池寛原作の日活映画『東京行進曲』の主題歌「東京行進曲」(西條八十作詩、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、わが国の「映画主題歌第一号」とされています。トーキ‐の最初は、昭和6年6月、松竹蒲田、田中絹代主演、五所平之助監督「マダムと女房」と言われる。

今映画館はどんどんなくなってきて大都市以外殆ど見かけなくなった。昭和の初め1930年代から1950年代にかけて、まだ日本が貧しかった時代、日本映画黄金時代だった。

茶の間にまだテレビもなかった時代、どんな小さな街にも小さな映画館があって、人々の娯楽の主体はラジオと映画だった。人々はそれを心待ちしたのだ。

一世を風靡した川口松太郎原作[愛染かつら](昭和13〜14年)などたくさんある。溢れるような「古賀メロディー」、それは映画主題歌とともに、映画とともにあって、無声映画時代から戦後に至るまで、しかもとぎれなく人々の心を慰め生きる力を与えてきた。

「古賀メロディ」の特徴は、まずヒット曲が多いことである。作曲家は数多く出たが、「古賀メロディ」ほど多くのヒット曲を持つものは無いのです。

そして実は、「古賀メロディ」には映画主題歌が圧倒的に多のだ。

《東京ラプソディ》も、《緑の地平線》、《女の階級》、《人生の並木路》(日活「検事とその妹」)も《目ン無い千鳥》(日活[新妻鏡])などみんな映画主題歌。


昭和6年、松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」に始まる映画主題歌には、この無声映画に始まり、戦後まで続くのは「古賀メロディ」しかない。(なお、「チャッカリしてるわね」は、関種子の「乙女心」と表裏にある。)

古賀政男は昭和53年に王貞治選手に次いで「国民栄誉賞」を与えられた。存命の人に与えられる「国民栄誉賞」が亡き後に贈られたのだが、古賀の人生が、まさに日本に「歌謡曲」というものができて、それが確立する歴史そのものであるということからも、それに値するといえるだろう。

昭和12年、テイチク時代、映画も40編を超えているのだが「映画主題歌にみる主な古賀メロディ」などを、まとめてみました。



主な古賀メロディーの映画主題歌。・・




194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 21:29
☆主な古賀メロディーの映画主題歌。・・


・松竹映画1931.2 「チャッカリしてるわね」(柳井隆雄原作) (無声  映画)
 主題歌 チャッカリしてるわね(西岡水朗作詞 天野喜久代歌)
  (映画と関係ないが、片面が関種子「乙女心」♪朧月夜のその頃に・・)
・松竹映画1931.10 「想い出多き女」 (無声映画)
 主題歌 酒は涙か溜息か〈高橋掬太郎作詞 藤山一郎歌〉
 挿入歌 私此頃憂鬱よ (高橋掬太郎作詞 淡谷のり子歌)
・松竹 1931.11清水宏監督「青春図絵」(菊池寛 原作)
 主題歌 青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛詩、関種子歌)
・入江プロ 1936「白衣(びゃくえ)の佳人」
 主題歌「白衣の佳人の唄」 (佐藤惣之助作詞 デックミネ歌)
・新興キネマ1931「姉」
 主題歌 丘を越えて(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 窓に凭れて(島田芳文作詞 関 種子歌)
・松竹映画1932.1野村芳亭監督「金色夜叉」(無声映画)
 主題歌 お宮の唄(佐藤惣之助作詩、関 種子歌)
・松竹映画1932.3 島津保次郎監督「勝敗」
 主題歌 町子姉妹の唄(菊地寛詩、河原喜久恵歌)
・日活映画1932.7「鳩笛を吹く女の唄」(無声映画)
 主題歌 鳩笛を吹く女の唄(佐藤惣之助作詞、井上静雄(藤山一郎)歌)
・大衆文芸プロ映画社1932「佳人よ何処へ」
 主題歌 あけみの歌〈原阿佐緒作詞、関種子歌〉
 挿入歌 佳人よ何処へ(原阿佐緒作詞 淡谷のり子歌)
・日活映画1932「上海」
 主題歌 さらば上海(時雨音羽作詞 関種子歌)
・新興キネマ1932「スキーの唄」
 主題歌. スキーの唄(島田芳文作詞 藤山一郎歌)
・新興キネマ1935 「貞操問答」(菊池寛原作)
 主題歌 白い椿の唄(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
・日活映画1935.10大谷俊夫監督「のぞかれた花嫁」
 主題歌 のぞかれた花嫁(玉川英二作詞 杉狂児歌)
 挿入歌 二人は若い(玉川英二作詞 ディック・ミネ, 星 玲子.歌)
・日活映画1935阿部豊監督「緑の地平線」
 主題歌 緑の地平線(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
 挿入歌 ゆかりの唄(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
 挿入歌 夕べ仄かに (島田芳作詩、デックミネ歌)
・日活映画1936島耕二監督「情熱の詩人啄木」
 主題歌 啄木の唄(島田磬也作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 春まだ浅く〈石川啄木作詩 有島通夫歌〉
・テイチク提携東宝映画(PCL映画)1936東京ラプソディ」
 主題歌 東京ラプソディ(門田ゆたか作詩 藤山一郎歌)
 挿入歌 東京娘(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 青春の謝肉祭(カーニバル)(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「慈悲心鳥」
 主題歌 慈悲心鳥の唄(佐藤惣之助作詩 楠木繁夫歌)
 挿入歌 さらば青春(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936渡辺邦男監督「魂」
 主題歌 男の純情(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 愛の小窓(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)
・日活映画1936千葉泰樹監督「女の階級」(吉屋信子原作)
 主題歌 女の階級(村瀬まゆみ作詞 楠木繁夫歌)
 挿入歌 回想譜(今城靖児作詞 藤山一郎歌)
・日活映画1936「うちの女房にゃ髭がある」
 主題歌 うちの女房にゃ髭がある(星野貞志作詞 美ち奴、杉狂児歌)
 挿入歌 ああそれなのに(星野貞志作詞 美ち奴歌)
・日活映画1937.1.14渡辺邦男監督「検事とその妹」〈竹田敏彦原作『検事の妹』〉
 主題歌 人生の並木路(佐藤惣之助作詞、ディックミネ歌)(テイチク1200)
 挿入歌 聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
・日活1937「真実一路」(山本有三原作)
 主題歌「真実一路の唄」(佐藤惣之助作詞 楠木繁夫歌)
・東宝映画1937.7西條八十原作、「白薔薇は咲けど」
 主題歌 白薔薇は咲けど(佐藤惣之助作詞 藤山一郎歌)
 挿入歌 緑の月(佐藤惣之助作詩、奥田瑛子歌)
・日活映画1938「人生劇場―残侠編」(尾崎士郎原作)
 主題歌 人生劇場(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)


195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 21:29
・東宝映画1940.2.21渡辺邦男監督「春よいづこ」(川口松太郎原作)
 主題歌 春よいづこ(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
 挿入歌 なつかしの歌声(西條八十作詞 藤山一郎、二葉あき子歌)
・東宝映画1940渡辺邦男監督「新妻鏡」(小島政二郎原作)
 主題歌 新妻鏡(佐藤惣之助作詞 霧島昇、二葉あき子歌)
 挿入歌 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・松竹映画1940「愛の暴風」
 主題歌 相呼ぶ歌(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)
・東宝映画1940「蛇姫絵巻」
 主題歌 蛇姫絵巻(西條八十作詩、志村道夫、奥山彩子歌)
・新興キネマ1940「誰か故郷を想わざる」
 主題歌 誰か故郷を想わざる(西条八十作詞 霧島 昇歌)
・東宝映画1940.10渡辺邦男監督「熱砂の誓い」
 主題歌 熱砂の誓い〈建設の歌〉〈西條八十作詩 伊藤久男歌〉
 挿入歌 紅い睡蓮(西條八十作詞 李香蘭歌)
・東宝映画1941山本嘉次郎監督「馬」
 主題歌 馬(佐藤惣之助作詞 伊藤久男、菊池章子歌)
(「めんこい仔馬」は、この映画のために作られたのがだが映画には入らなかった。)
・東宝映画1941「歌えば天国」
 主題歌 歌えば天国(西條八十作詩、藤山一郎、古川ロッパ、二葉あき子歌)
   (古賀メロディーらしからぬジャズ調の曲です。)
 挿入歌 リンゴが紅い(サトウハチロー詩、藤山一郎、古川ロッパ、松原 操歌)
挿入歌 働こうぜ友よ (佐藤惣之助作詩、藤山一郎歌)
・日活映画1941「海の豪族」
 主題歌 海の豪族(佐藤惣之助作詩 伊藤久男歌)
・松竹・満映合作映画1942「迎春花」(インチュンホウ)
 主題歌 迎春花(西條八十作詞 李香蘭歌)
・映画「蘭花扇(らんかせん)」(1942 5月)
 主題歌 花白蘭の唄(李香蘭、楠木繁夫歌)
・大映映画1942「歌う狸御殿」
 主題歌 歌う狸御殿(サトウハチロー作詞、楠木繁夫、三原じゅん子歌)
 挿入歌 どうじゃね元気かね(サトウハチロー作詞、楠木繁夫歌)
・松竹映画1943清水宏. 監督:「サヨンの鐘」
 主題歌 サヨンの鐘(西條八十作詞、渡辺はま子歌)(台湾名 月光小夜曲)
 挿入歌 サヨンの歌(西條八十作詞、李香蘭歌)
 挿入歌 なつかしの蕃社(西條八十作詞、霧島昇、菊池章子歌)
・大映映画1943「青空交響楽」(サトウハチロ‐原作)
 主題歌 青い牧場(サトウハチロー作詞 藤山一郎、奈良光枝歌)
 挿入歌 故郷の白百合(サトウハチロー作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
・東宝映画1944「あの旗を撃て」
 挿入歌「雲のふるさと」(大木惇夫作詩、伊藤久男歌)(1946年NHK「ラジオ歌謡」)
・東宝映画1945.1成瀬 巳喜男監督「勝利の日まで」(サトウハチロー脚本)
 主題歌 勝利の日まで(サトウハチロー作詞 波平暁男、近江敏郎他歌)他
 挿入歌 祖国の花(サトウハチロー作詞、轟由紀子、奈良光枝歌)
 挿入歌 硬い約束(サトウハチロー作詞、三原じゅん子歌 )
・東宝映画1946渡辺邦男監督「麗人」(佐藤紅緑原作『麗人』再映画化)
 主題歌 麗人の歌(〈西條八十作詞 霧島 昇歌〉
・大映映画1946「或る夜の接吻」
 主題歌 悲しき竹笛(〈西條八十作詞 近江敏郎、奈良光枝歌〉
・東宝映画1947「こころ月の如く」
 主題歌 こころ月の如く〈西條八十作詞 二葉あき子歌〉
 挿入歌 旅の舞姫(〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・新東宝映画1948渡辺邦男監督「あの夢この歌」(西條八十「唄の自敍傳」より)
 主題歌 あの夢この歌〈西條八十作詞 霧島 昇 二葉あき子歌〉
・東宝映画1948市川崑監督「三百六十五夜」(小島政二郎原作)
 主題歌 三百六十五夜〈西條八十作詞 霧島昇、ミス・コロムビア歌)
 挿入歌 恋の曼珠沙華〈西條八十作詞 二葉あき子歌)
・新東宝映画1948 「湯の町悲歌」
 主題歌 湯の町エレジー(野村俊夫作詩 近江俊郎歌)
・新東宝映画1949野村浩将監督「影を慕いて」(古賀政男原案)
 主題歌 影を慕いて(古賀政男作詞、藤山一郎歌)
・新東宝映画1949 「夢よもう一度」
 主題歌 夢よもう一度(西條八十作詩 二葉あき子歌)
 挿入歌 愛の灯かげ(西條八十作詩 近江俊郎、奈良光枝歌)


玉川英二、星野貞志はサトウハチロ‐の変名。


196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 22:17
☆古賀メロディとその時代

「古賀メロディ」と呼ばれ多くの人に親しまれた曲の原点は『影を慕いて』にある。彼が昭和初期から手がけた作品は5000曲余り。「酒は涙か溜息か」「影をしたいて」「丘を越えて」「東京ラプソディ」「人生劇場」「誰か故郷を想わざる」「湯の町エレジー」「無法松の一生」「柔」など、未だ唄い継がれる普遍の名曲は数知れない。

「古賀メロディ」という言葉には、「古賀政男作曲」のものという意味と、もうひとつ、古賀政男作曲のうち、誌のテーマが人生の苦悩・青春の苦悩をテーマとしたものであるものの二つの意味があるといわれる。

あの人をそっと包み込む優しいメロディ、メロディのあたたかさと、その付けたしではない哀調を帯びたメロディ、それは誰もまねができないものです。それは聞く人が年を重ねれば重ねるほどますます味わいが深くなるものです。

「古賀メロディ"」と呼ばれ多くの人に親しまれた曲の多くは、「昭和」戦前、戦中から戦後にかけてというまだ日本が豊かになる前の貧しい時代だった。

その時代は丁度あの映画「二十四の瞳」の時代です。「飽食の時代」と言われる今の時代と比べ、貧しい時代だが、貧しくとも心豊かな時代だったろう。

底辺に哀調を帯びた、寂寥感や哀愁といった心の奥をそのまま音符に託したかのような--胸を突く美しさを感じさせるもので、それが同時代の多くの日本人の琴線に触れて長く愛されてきた。そこに嘘が無い、だから人々に共感をあたえることができたといえるでしょう。

その生れた時代はどんな時代だったのか。

古賀政男音楽博物館には日本の大衆音楽に貢献したたくさんの作曲家や詩人、歌手が顕彰されていて、別室のパソコンで作品を聴くことができる。

本居長世は、文学者から始まった童話・童謡運動を、自ら作曲し、かつ広めることによって、「童謡」という分野を確立し根付かせた人だが、同時に中山晋平の師でもあるという点では、単なる「童謡の祖」というだけでなく、「日本の大衆音楽」に大きな影響を与えた人です。

長世は、本居宣長の子孫で、明治41年、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を主席で卒業した長世は卒業後すぐに母校に招かれ(文部省)邦楽調査掛として、箏曲や長唄など日本の伝統音楽の研究活動に従事する。当時洋楽が日本に取り入れられたが、日本の音楽との調和は大きな課題だったようだ。

長世はこうして、日本的なるものを外国にではなく、日本の伝統音楽の中に求めていくということ、それがフレームワークになっていく。彼は童謡だけでなく、合唱曲や民謡曲、オペラなど800曲余りを作曲して、昭和20年10月に亡くなっている。

そして、「春の海」で知られる邦楽家・宮城道雄らと「新日本音楽運動」という活動を展開する。これは、日本の伝統を洋楽の中に生かすことを目指したもので、その後の日本の声楽曲における作曲のパイオニアとして活動することになる小松耕輔、弘田龍太郎、梁田貞らの作曲研究会などに大きな影響を及ぼしたといわれます。「新日本音楽運動」には歌手の佐藤千夜子も歌手として参加し、宮城道雄の「紅薔薇」という作品など吹きこんでいる。

本居長世は、中山晋平、弘田龍太郎の師でもある。晋平の学友と撮った有名な写真で、晋平だけが和服姿がある。当時音楽学校に進むのは、良家の子女がほとんどだった。信州の貧しい子弟だった晋平はみんな制服のところ、一人だけ和服で草履姿。

そのタビには穴があいて爪が覗いていて、晋平はそれを墨で塗って隠していたという。長世はそんな晋平を常に心にかけていたという。

その晋平は、「誰でも歌える歌」を目指していた。そして浅草千束小学校の音楽教師を勤めたあと、島村抱月の書生となって劇中歌や童謡の作曲をするとともに、野口雨情らと民謡の採譜などを行う。
こうした新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)がある。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。



197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 22:18
当時はレコードの普及もラジオもなかった頃で、普及には全国行脚するしかなかっただろう。全国行脚といえば、大正から昭和の初めにかけての本居長世と三人の娘さんの全国行脚が有名だが、もう一つ野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子の全国歌の旅(「新民謡・童謡普及運動研究会」)がある。

新民謡運動には野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子をはじめ、作曲家の藤井清水、詩人の佐藤惣之助、西条八十などがいる。こうした大正から昭和にかけて童謡・新民謡運動に結集した詩人、作曲家、歌手らは、その後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。

新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」(野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。

 古賀政男は、昭和3年学生時代作曲した「影を慕いて」を、中山晋平の歌を世に広めた歌手であり、晋平の弟子である佐藤千夜子の力添えで作曲家になった。まさに日本が大衆音楽を作り出して行くさ中である。長世が出なかったら、多分日本の大衆音楽は違ったものになっていたかもしれません。

昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。

そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。




198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 23:29
☆新妻鏡


最近の歌には、めっきり感動できる歌がめっきりすくない。一方むかしの歌も歌われる機会が少なくなりつつある。

 西條八十とともに、古賀メロデーの中で大きな位置を占めるのが、佐藤惣之助ですが、古賀メロデーは、何であっても「人生」・・人生の苦悩・・と言うものが隠れてると思いますが、特に佐藤惣之助の詩を聞くとそうおもわずにいられません。


「新妻鏡」・・昭和15年、太平洋戦争開戦直前、東宝映画『新妻鏡』は、目の見えない薄幸の新妻が苦労の果てに結ばれると言う話で、霧島昇、二葉あき子(戦後島倉千代子)歌。

 人生を歌った詩としては、『人生の並木道』にも匹敵したすばらしい応援歌ではないかと思います。(「遠くさびしく離れても」・・と言うと結婚式に不向きかもしれぬが、こころでは願いたいもの・・)


僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼が 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの 人生を
熱い涙で 謳おうよ

実は2番と3番の間にもうひとつあって、


  強くなろうよ 強くなれ
  母となる身は 幼児(おさなご)の
  愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
  なんで嵐に あてらりょう


この歌は、すごい重みのある歌で、男女年齢を問わず勇気ずける人生の応援歌として、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。

なお、挿入歌に「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲) (霧島昇、ミス・コロムビア歌) がある。


199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/09(Mon) 23:34
訂正

たとえこの眼が 見えずとも ・・ たとえこの眼は見えずとも



200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 00:57
>>194

・新興キネマ1935 「貞操問答」(菊池寛原作)
 主題歌  白い椿の唄(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫歌)
挿入歌  思い出の雪(佐藤惣之助作詞、松島詩子歌)


201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 01:05
>>198>>199

☆新妻鏡
佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲 1940

1)
僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

2)
たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

3)
強くなろうよ 強くなれ
母となる身は 幼児(おさなご)の
愛の揺籠(ゆりかご) 花の籠
なんで嵐に あてらりょう

4)
むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの 人生を
熱い涙で 謳おうよ


  


202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:46

松平晃 サーカスの唄 投稿者:SPレコード歌謡倶楽部 投稿日:2013年 7月 3日(水)07時49分15秒
 昭和八年の陽春四月、東京で開催された大博覧会に、遠くドイツから世界一の大サーカス団(ハーゲンベックサーカス団)が来演することになっていた。このサーカスの宣伝歌が作られた。西條八十は、幼い頃の記憶、九段の靖国神社の祭礼でみた天幕張りのイメージを描きながら作詞した。旋律は、作曲者の古賀政男の少年時代の音楽体験がベースになった。それは、子供心をときめかせた旅まわりのサーカス(当時は曲馬団)の、なつかしいジンタの響きだったのである。
 真っ赤に染まる夕陽が沈み始める頃、旅から旅へと流れるサーカス(曲馬団)の楽隊の奏でる音色が畦道の向こうからしだいに近づいてくる。その光景をあたかも連想させるように前奏がヴァイオリンのピアニッシモから、途中にアコーディオンが入りクレッシェンドさせながら哀愁を込めて奏でられるのだ。昭和初期、松平晃は全国各地の実演ショーはおろか明大マンドリン倶楽部の地方演奏会でも《サーカスの唄》を熱唱したと伝えられている。甘いマスクの松平晃が十六分音符が連なる前奏にのって颯爽と登場する姿が浮かんできそうだ。古いOB諸兄の語るところによれば、松平晃という歌手は、青春の甘さを持ちタキシード姿が舞台で似合う誇り高き歌手だったらしい。
 《サーカスの唄》の原調は、♭ひとつのDマイナーのキーだが、松平は♭三つのCマイナーで吹込んでいる。この歌は、実に音域が広い。原調のキーでは加線の「A」=ラ(固定ド表記)から「F」=ファ(固定ド)までの十三度の音域がある。これをあくまでも滑らかに、その旋律を生かしながら郷愁と哀歓を伝えなければならないのだから、歌手の技量のほどがわかるというものだ。松平は、Cマイナーに落としたキーでも加線のついている「G」=ソ(固定ド)をしっかりと発声している。この歌手も低音の安定度が抜群である。低音に安定がある歌手は、キーを下げることによって楽曲の曲調が変化してもその魅力を伝えることができる。
 

203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:46
《サーカスの唄》は松平の旅から旅へ彷徨う心情を甘く包んだ歌唱で大ヒットした。ところが、コロムビアは、大サーカスの宣伝歌にはふさわしくないという批判が周囲からあがっていたので、この歌は大して売れまいと多寡をくくっていた。作詞・作曲の著作権を一切博覧会側に売り渡していたのである(一千円)。そのため、西條と古賀は地団駄を踏んで悔しがったという裏話が残っている。《サーカスの唄》のカップリングは、同じ古賀作品の《来る来るサーカス》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)である。これは佐藤千夜子・創唱の《文のかおり》(古賀正男・作詞/古賀正男・作曲*作曲者・不祥説有り)の焼き直しで妖艶なソプラノ歌手淡谷のり子の歌唱だった。
 翌六月新譜では松平の歌唱による《恋しき夢》(西條八十・作詞/江口夜詩・作曲)が《十九の春》(西條八十・作詞/江口夜詩・作曲)のB面で発売された。いずれも松竹映画『十九の春』の主題歌。映画は昭和八年五月十八日、帝国館で封切られた。監督は五所平之助、出演、伏見信子、高峰秀子、竹内良一等々。松平は、この抒情詩的な歌謡を〈夢の続きが知りたさに 眠れど淋し夜の風〉としっとりと歌っている。伴奏はコロムビアオーケストラ。これも《サーカスの唄》に続いて売れ行きが快調だった。
 松平がミスターコロムビアの階段を上りつめた頃、藤山一郎は、声楽家増永丈夫として昭和八年六月十八日、日比谷公会堂でベートーヴェンの《第九》のバリトン独唱のソリストとして登場した(指揮・クラウスプリングスハイム)。甘い流行歌のテナーにはつながらない堂々とした独唱ぶりであった。また、バリトン本来の美しさをもつテナー藤山一郎の豊かな歌唱力は、晋平節の名作《燃える御神火》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)をヒットさせる。レコードは六月の新譜発売だった。レコード売上げは、小唄勝太郎の《大島おけさ》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)のB面ということもあったが、18万枚を記録。それに対して、コロムビアの松平は、七月新譜の《島の御神火》(島田芳文・作詞/近藤政二郎・作曲)で対抗した。
 一方、古賀政男は、《サーカスの唄》がヒットしたにもかかわらず、九月新譜の《東京祭》(門田ゆたか・作詞/西條八十・補作/古賀政男・作曲)が幕末のええじゃないかの昭和版と言われた《東京音頭》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)に完敗する。《東京祭》のA面は、藤本二三吉、B面は松平が歌った。昭和八年の夏は、異常ともいえるほどの《東京音頭》で興奮した。狂乱ともいうべき《東京音頭》の熱狂は、不気味な前触れの予兆に敏感に反応するかのような民衆の情念の発散といえる。古賀政男は、その後、疲労困憊から、肺浸潤を患い八月二十日神田杏雲堂病院に入院した。中村千代子との結婚生活の行き詰まりなど、相当な精神的疲労が原因であった。
 松平の歌唱による昭和八年十月新譜の《はてなき旅》(西條八十・作詞/古賀政男・作曲)は、古賀の心中を象徴しているようだ。
 この歌は、《街の灯》(浜田広介・作詞/古賀政男・作曲)の焼き直し(淡谷のり子歌唱)。だが、松平晃の音色は、江口メロディーにマッチする。そのため、残念ながら古賀メロディーの感傷をうまく表現しきれていない。《サーカスの唄》のようにはいかなかった。古賀政男は、病気回復の静養とその精神的傷を癒すため昭和八年の晩秋から翌九年の四月まで伊東の温泉で静養した。この間に江口夜詩がコロムビアの中心になるのである。歌手は当然、ニットー、ポリドール、キングで江口メロディーを存分に歌いまくっていた松平晃である。
 

204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:46
一方、かつての古賀政男芸術の表現者藤山一郎は、昭和八年九月二十日、ベートーヴェン編曲のスコットランド民謡特集がNHKラジオから放送され、バリトン増永丈夫で出演し独唱した。他にソプラノ岩谷廣子、アルト四家文子、テノール薗田誠一、ヴァイオリン大岡運英、チェロ小沢弘ら新進気鋭の音楽家たちが出演した。十月九日には、『藤山一郎と増永丈夫の会』を日比谷公会堂で開催。一部ではドイツリート、オペラのアリアを独唱。ヴェルディーの《椿姫》では、増永丈夫(藤山一郎)がヂ(ジ)ェルモン(父役=バリトン)、ヴィオレッタは美貌のソプラノ歌手中村淑子が演じた。声量豊かな美しいバリトンの響きによるレガートな歌唱が聴衆に感銘をあたえた。第二部は、ビクター管弦楽団の演奏に今度はマイクロフォンに響きをうまくのせたクルーン唱法で藤山一郎のジャズと流行歌のオンパレード。第三部では、ミュージカル『僕の青春』を上演。マイクロフォン無しの独唱とそれを使ったクルーン唱法の二つの方法で響き・共鳴・声量を自由自在にコントロールしての実演だった。
 松平は、この「テナー藤山一郎とバリトン増永丈夫」を同一の音楽空間で表現する音楽技術に驚く。まさに天才なのである。だが、松平の体内に熱く流れる葉隠れ武士の血は、行動のエネルギーとなり怯むことはない。しかも、コロムビアの期待は、《サーカスの唄》でギャラントなダンディーに変化し今や押しも押されぬスター歌手になった松平晃にますます集まった。古賀政男が《サーカスの唄》や《ほんとにそうなら》(久保田宵二・作詞/古賀政男・作曲)のヒットにもかかわらずスランプ状態ならば、コロムビアの目玉商品は脚光を浴びつつある江口メロディーということになるのだ。それは、松平晃の真骨頂が試されることでもある。
 昭和八年十一月、松平晃は、ついに東京音楽学校師範科を退学する。彼は《サーカスの唄》でどうやら決心したようだ。こうなるとコロムビアも松平晃の宣伝に力を入れる。翌年二月のコロムビアの新譜案内でようやく松平晃の端正なマスクが登場する。もうクラシックには未練はない。どうせ、クラシックに固執しても自分は、主役のテノールではない。主役よりも美男で明るいリリコの声質をもつバス・バリトンでは歌劇の配役構成が成立しないのである。そう考えるなら、懐が豊かになる流行歌手の途を選択した方がましである。そう決心すれば話は早い。「佐賀っぽ」は、儚い刹那的人生を目前にしても思い切りが良いのだ。だが、《サーカスの唄》のつぎのような歌詞は、表面上の行動様式はともかくも松平の内奥に潜む心情を表現しているようだ。
 西條八十は、敢えて「クラリネット」とは書かず「クラリオネット」という言葉を使っているが、旅回りのうらぶれた音色をイメージすれば、この歌の歌唱者である松平晃の思い切りのよさに潜む「寂寥」をやはり象徴していると思えるのである。《サーカスの唄》によって、松平の人生航路も波瀾万丈にむかってその航跡が決められたといえよう。
 コロムビアは、昭和八年十二月二十六日、麹町区内幸町の東洋拓殖ビル一階に文芸部と吹込み所を移転した。昭和九年一月二十六日から、そのスタジオで録音使用が開始され音質の良いレコードが製作されることになる。さあ、「江口夜詩メロディー」を歌う松平晃の体内に補給されたガソリンが点火され、いよいよエンジンがかかるのである。





205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:49
ビクター専属藤山一郎への対抗 投稿者:SPレコード歌謡倶楽部 投稿日:2013年 4月23日(火)08時12分53秒
 春、桜の枯れ枝に生気が膨らんだかと思うと、ほんのりと紅の色を含んだ白い花がいっせいにほころぶ。フランス山の桜が妖艶な色を発しながら、春満開と言わんばかりに咲き誇っているのである。松平晃は、その妖しいほどに精を放つ桜の花びらを受けながら横浜山手の小高い丘から港を見下ろしていた。波止場には、外国船が停泊している。抜錨の合図をする汽笛が鳴る。彼は、青い海を眺めることのできるこの小高い丘の風景を満喫していた。
 この横浜の地に、F・W・ホーンが『ホーン商会』を設立したのは、明治二十九年である。明治四十年十月三十一日、十万円の資本金をもって神奈川県橘樹郡川崎町久根崎に日米蓄音機製造株式会社が誕生(松本武一郎は設立の日を見ずに急死)。明治四十三年十月一日、株式会社日本蓄音器商会が新設(日米蓄音器商会は廃止)、明治四十五年一月八日、日蓄は日米蓄音機製造株式会社を合併。吉田奈良丸の浪花節レコードで驚異的な躍進をしめした日蓄は、大正八年、J・R・ゲアリーが社長に就任するとさらなる飛躍を遂げた。日蓄は、複写による海賊盤レコードの問題に操業以来悩まされていた(リチャード・ワダマンの敗訴がその跋扈に拍車をかけていた)。だが、大正九年七月、「著作権法改正法律案」によってその駆除に成功した。それが業界制覇を狙う日蓄に大きな起爆をあたえたのである。だが、

昭和三年一月十八日、日蓄は英米資本によって新たな製造会社を設立。昭和SP歌謡の序盤戦、コロムビアはビクター独走を許す。晋平節とジャズソングに沈黙したのだ。だが、コロムビアは藤山一郎の古賀メロディーで劣勢を挽回する。そして、藤山がビクター専属になると松平晃がコロムビアの専属歌手になる。『コロムビア五十年史』は「昭和八年四月一日、松平晃入社」と記している。 藤山一郎は東京芸大の前身「上野」(東京音楽学校)を首席で卒業し、晴れて誰憚ることなく、ビクター四月新譜の《僕の青春》(佐伯孝夫・作詞/佐々木俊一・作曲)で見事カムバックした。卒業を祝福するかのように踊りだしたくなるような青春賛歌だった。レコード売上げは10万枚。また、晋平節の情緒豊かな《浅草の唄》(西條八十・作詞/中山晋平・作曲)でもレガートな歌唱表現で人々に感銘をあたえた。流行歌手テナー藤山一郎は健在だった。
 松平は、今日もアクセルを目一杯踏んで横浜へと車を走らせる。彼の愛車はフォードのオープンカーである。自動車は昭和モダンの象徴であり、そのエンジンの音はネオンが輝く帝都のアスファルトに軽い軋みをあたえた。松平の車はボディーの色も派手でモータリゼーションの展示場のようなダンスホールに横付けしても周囲の目をひいた。当時、珍しいスポーツカーを転がしていたのも藤山一郎を意識してのことだった。松平が横浜の繁華街を車でゆっくりと通り抜けようとしていると、カフェーから《僕の青春》が流れてくる。彼は、葉隠れ武士の情念をますます滾らせ、握るハンドルにも力が入った。三月十日にコロムビアで吹込んだ《サーカスの唄》が待ち遠しい。音楽技術では絶対に適わぬ相手とはいえ、敢えてライバル心を滾らせるところに彼のモダンぶりとは対照的な「佐賀っぽ」の気質がみられたのである。
 昭和八年四月二十七日、日比谷公会堂では、楽壇待望の花開く『オール日本新人演奏会』(読売新聞主催)が開催された。松平の母校「上野」は声楽において異例の二人が出演した。ソプラノの長門美保とバリトンの増永丈夫(藤山一郎)である(尚、武蔵野音楽学校も異例の二人、渡辺はま子と井崎加代子が出演)。増永丈夫は、レーベ作曲《詩人トム》を独唱し、「上野最大の傑作」をアピールした。これを聴いた「上野」の新入生たちは、確実な歌唱と美しいバリトンに感銘する。
 

206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:50
この情報は当然、コロムビアで一応専属契約を結んでいたとはいえ、まだ、音楽学校に学籍のある松平の耳目にも届いていた。銀杏並木が新緑に包まれようとしていた上野の構内でも新人演奏会は話題になっていた。そこに、増永丈夫がレッスンに来ようものなら、奏楽堂は女子生徒で溢れかえったと云われている。流行歌とクラシックの二刀流の噂を聞くと葉隠れ武士の血が騒ぐ。闘志溢れる「佐賀っぽ」は、冷静に正格歌手藤山一郎の発声法を分析する。松平は、平円盤時代のものから録音機材を集めて愛用し自分の声を分析していたほどだから、発声のメカニズムには深い関心があった。
 藤山一郎(増永丈夫)は、バリトンの低い音域で歌っているのに、まるでテノールの高い音域で歌っているように聴こえてくる。「E」=ミ(固定ド)がまるで「G」=ソ(固定ド)のように聴こえるのだ。しかも、声区の変わるところでも響きが均等で音色の統一性があり、レガートな歌唱を支える低音が抜群の安定度をしめしていた。松平は、その分析・解明を試みたのである。
 藤山一郎は、響きを飛ばす場合、もしくは身体から離すそれにおいて軟口蓋の後ろから鼻腔に抜き頭部共鳴に連動させる方法と硬口蓋から鼻腔に抜くという二つの武器(マスケラに響きをのせる)がある。蓄音器のラッパを想像していただければよい。ファルセットと実声の連動がスムーズで、口腔内の「オ」の口形からの変換、ジラーレが速い。しっかりとした横隔膜の支えと瞬発力があるので声帯の締まりが速く、口腔内の響きを前に移動するスピードが速いのだ。上顎の使いかたが非常にうまい。バリトン(増永丈夫)の音域内でありながら共鳴の変換が瞬時にテノール(藤山一郎)へ神業的に行われるのである。この場合、メッツァヴォーチェにするか、緊張感のあるスピントの効いた張りのある美声にするかは、曲想によって決められる。外国に留学する現代の声楽家たちは、向こうで「響き」は共鳴する骨の振動と教えられるそうだが、藤山はすで昭和の初期にこの原理を理解していた。だから、声量と響きの増幅が自由自在なのである。
 

207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 10:51
松平は、ファナティックな行動様式とはいえ頭脳明晰な歌手である。彼は、喉を開くと太いバスバリトンである。このままで歌うと共鳴が奥になるので母音の響きだけが目立ち日本語が不明瞭になる。ドラマティックな歌劇のアリアならよいがこれでは歌にならない。しかも、軟口蓋の後ろに共鳴を置いた重厚な響き(バスバリトン)を作れても頭部共鳴には連動ができにくいのだ。テナー藤山一郎のように奇麗に頭声に抜くことは不可能である。さらに、バスバリトンでありながらリリコテノールの声質と音色が明るいという特殊性もある。藤山は、松平の特殊な声質・音色を見抜いていたが、それは、彼の本格的な声を聴いた経験があるからなのだろう。松平晃が歌った《そよ風》(藤浦洸・作詞/バルチ・チイボー・作曲)というタンゴを聴けば、彼の声の特徴が分かる。「バスの声域」・「リリコの声質」・「明るい音色」という声は、その生かし方が難しい。松平にしてみれば、この特徴をどう流行歌にいかすかが問題である。声楽的にはりっぱな持ち声だが、それがはたして流行歌に適しているかどうかは別問題である。だが、彼には、コロムビアの看板を背負わなければならない使命があった。そこで、理論家の松平は一計を案じた。
 藤山は流行歌を歌う場合でも喉を縦に完全に開くが、松平は、喉の開きを浅くして硬口蓋に響きを充て、たとえそれが鼻腔から抜けなくてもレコード盤では甘いテナーの音色になればよいと考えた。流行歌において誰も専門的知識をもって聴く人などはいない。音楽は現象の錯覚である。発声のメカニズムの根本が違っても甘いテナーと同じような声に聴こえればよいのだ。藤山一郎の正統な声楽技術の解釈をデフォルメしようが聴く人に心地よく響けばそれでよいのである。松平は歌唱力には自信がある。もうすでに、ポリドールなどで実証済みである。松平自身も計算あってのことだった。
 山本常朝(神右衛門常朝)が祖述した『葉隠聞書』には「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と記されている。己から発し己以上のものに没入する行動のエネルギーは「死」の覚悟をもって行うときに最大になる。死にもの狂いになって利害打算が渦巻く地獄にさえも飛び込む気概が重要である。松平晃は、流行歌に不向きな明るい音色とリリコの声質をもつ特殊なバスバリトンでありながら、「葉隠魂」の精神を己の体内に血肉化して「藤山一郎」という流行歌の寵児にコロムビアの命運をかけて対抗しようとしたのである。 前号では、藤山が松平をニットーに紹介したと書いたが、実は、つぎのような説が伝えられている。それは、藤山の母親が、流行歌の吹込みの一件で息子(藤山一郎)が「上野」(東京音楽学校)を停学処分となり、ニットーで吹込みができなくなってしまいニットーに迷惑をかけることになったので、その代償として藤山の代わりに松平を紹介したということなのである。ニットーのスタジオには藤山の母親が丸坊主の松平を連れて現れたと云う。とにかく、増永青年(藤山一郎)と福田青年(松平晃)の二人は、それ以来の付き合いであり、後に古川ロッパに松平を引き合わせたのも藤山だったらしい。だが、二人の友情はともかくも、松平晃の藤山一郎への対抗意識は並々ならぬものがあった。




208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/10(Tue) 21:10
※お知らせ

       【SP歌謡・回顧と展望】

       が、平成25年9月10日をもって
    廃止されましたので、こちらに移転致しました。
 

     《日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史》
       @10cH 歴史BBS
       ttp://www.10ch.tv/

         ここです。
     よろしくお願いいたします。

209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/11(Wed) 09:36
>>208

《SP歌謡・回顧と展望》 - Teacup   (2013、9、10廃止)


以下を含みます。(検索用)

昭和SP歌謡についての貴重で詳細な資料です、

当スレに移転しましたのでご利用ください。


松平晃 サーカスの唄 | SP歌謡・回顧と展望 -
学生スター歌手 | SP歌謡・回顧と展望 -
李香蘭と古賀メロディ | SP歌謡・回顧と展望
ビクター専属藤山一郎への対抗 | SP歌謡・回顧と展望
西條八十と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望
古賀メロディの戦後 | SP歌謡・回顧と展望 ?
関 種子と「古賀メロディ」 | SP歌謡・回顧と展望 -
映画主題歌にみる古賀メロディ | SP歌謡・回顧と展望
古賀政男と「荒城の月」 | SP歌謡・回顧と展望 -
藤山一郎と増永丈夫 | SP歌謡・回顧と展望
古賀政男 二つの「思い出の記」 | SP歌謡・回顧と展望
三浦環と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望 -
“歌謡界の大御所”古賀政男と、“国民的歌手・歌う昭和史”藤山一郎 | SP歌謡・回顧と展望...
古賀メロディの戦後 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀政男、その音楽遺産と旧古賀邸 | SP歌謡・回顧と展望
古賀メロディ−と映画主題歌 | SP歌謡・回顧と展望
佐藤千夜子と古賀政男 | SP歌謡・回顧と展望 -
詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀政男アメリカへー古賀政男音楽博物館企画展 | SP歌謡・回顧と展望
明治大学の昭和歌謡史群像 | SP歌謡・回顧と展望 -
古賀メロディとその時代 | SP歌謡・回顧と展望 -

(その他)
菊池清麿-SP歌謡の世界・なつかしの歌声
昭和の流行歌掲示板 - EZBBS.NET
島田芳文 - Yahoo!検索(人物)



210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/11(Wed) 10:17
参考

★検索法

検索:Ctrl + F
   
1)検索は《スレッド一覧》のページ。このスレの頭で行ってください。

    カーソルは上記の左上に
  

2)Ctrl + F   (同時に押す)

     左上に検索窓が出ます。
 
3)>>209 他の必要単語の名称をコピーして、上の検索窓に貼りつけます。

4) RETURN を押す。

すると、該当スレ名の色が黄色に変わります。
クリックしてください。



211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/11(Wed) 11:30
索引

>>2 影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>106 ->>111 古関祐而と古賀政男
>>112 ☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 ☆古賀メロディと霧島昇
>>121 ※古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 ☆「荒城の月」について
>>124 ☆三浦環と古賀政男
>>127-130 ☆西條八十と古賀政男
>>133 >>148 ☆古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 ☆昭和戦前の作曲家
>>135 ☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 ☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 ☆関 種子と「古賀メロディ」
>>140 ☆古賀メロディと藤山一郎
>>141 ☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 ☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 ☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 ☆楠木繁夫の代表曲
>>147 ☆古賀メロディと霧島昇
>>149 ☆関 種子と「古賀メロディ」 2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 ☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 ☆佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 ☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 ☆詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 ※サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 ☆サトウハチローと「童謡」
>>164 ☆佐藤惣之助没後70年
>>165 ・佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 ☆古賀メロディの戦後
>>168-169 ◇戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 ☆萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 ☆詩人・佐藤惣之助
>>175 ☆古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 ◇古賀政男編曲作品
>>177 ☆二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 ☆古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 <「古賀政男」のドラマ>
>>180 ☆「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 ☆古賀メロデー」とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 ☆「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 ☆古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 ☆SPレコード歌謡とSPレコード
>>193 -195 ☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 ☆古賀メロディとその時代
>>198 ‐201 ☆新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗



212 名前:かいき ◆J8/Awaoo 投稿日:2013/09/17(Tue) 17:38
vfvf

213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/23(Mon) 09:51
>>211

>>106-111 古関祐而と古賀政男


214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/23(Mon) 09:59
>>211


>>133-148 ☆古賀政男 二つの「思い出の記]

215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/29(Sun) 11:18

>>106-111 古関祐而と古賀政男

人生の苦悩から始まった古賀メロディ。一方、コンクールに入賞?して、留学を目指した古関・・。何と言っても、古関作品の残念なのは、断片的で一貫した「テーマ」というのがみあたらないということだろう。
古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどの評伝をみると、戦前を含めて、どれをみても,元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのようにパターンが決まってしまって、史実の間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。
どれを見ても同じだが、たとえば米山正夫作詞の「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」という一語をつけて格上げされるべきでない。
「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。
やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。




216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 09:17
訂正

×米山正夫作詞の
○丘灯至夫作詞の

217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 10:19
test

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 10:19
test

219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 20:13
☆古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)

古賀政男ほど詩を大切にし、歌と真剣に取り組んだ作曲家もいない。
佐藤惣之助、原阿佐緒、西條八十、萩原朔太郎、サトウハチロー、大木敦夫・・古賀政男ほど多くの詩人や歌人に恵まれ、直接深い付き合いを持っていた作曲家もいないだろう。



昭和7年、大衆文芸映画社 配給=新興キネマ『佳人よ何処へ』・・この原阿佐緒主演で原阿佐緒の人生を描いたといえる映画に主題歌が要るからと、阿佐緒は自分で「あけみの歌」を書きます。阿佐緒は赤ん坊を背中に背負って、コロムビア本社に古賀政男を訪ねて作曲を依頼します。見れば歌詞には「あけみかなしや 何処へ行く/恋にも世にも敗れ果てて/せめて子のため ながらえよ/ああああ あけみ 何処へ行く」などとあります。この姿と、子どもと生きる苦労話に、古賀は打たれ、承諾します。その夜から作曲にとりかかった古賀は、自分を育てるのに苦労した母の姿を重ね、「ギターの胴を涙で濡らしながら曲を書いた」(自伝や関係者の話)のでした。

映画のほうはさっぱり客が入らず、とうとうプロダクションもつぶれてしまいましたが、今聞いてもなかなかいい旋律で、歌は長く歌われ今日でも古さは感じない。
その詩は、80年経った今でも、歴史を超えて今日の社会でも十分普遍性を持って生きているすばらしい歌です。

初期の古賀メロディを支えた美貌の名ソプラノ歌手、関種子の切々と歌う哀愁を帯びた古賀メロディの佳曲「あけみの歌」、U-Tubeでも聞ける。

子供の虐待とかが世間を騒がせている今こそ、ぜひこの名曲を聴かせてあげたい。
聴いてください。(次を参照)



原阿佐緒は、明治40年(1909年)、新詩社に入って与謝野晶子に師事、『スバル』に短歌を発表。『スバル』終刊後は『アララギ』に移り、今井邦子や三ヶ島葭子とともにアララギ女流の新鋭と見なされるようになる。
アララギ派の女流歌人、美貌の持ち主であり若くからさまざまな恋愛問題を引き起こしてきた。
昭和7年( 1932年)、直木三十五の紹介で「大衆文芸映画社」に入社、阿佐緒が原作を書き女優として主演したサイレント映画『佳人よ何処へ』(監督福西譲治)が製作され、同年6月1日に新興キネマが配給して公開された[2]。

同作の公開に先行し、阿佐緒が作詞し古賀政男が作曲・編曲、淡谷のり子が歌った同名の主題歌「佳人よ何処へ」、および美貌のソプラノ歌手関種子が歌った『あけみの唄』を、日本コロムビアが同年5月に発売している。



・原阿佐緒歌集
涙痕 歌集 東雲堂 1913
白木槿 歌集 東雲堂書店 1916
うす雲 歌集 不二書房 1928
原阿佐緒抒情歌集 平凡社 1929
原阿佐緒全歌集 小野勝美編 至芸出版社 1978.6
死をみつめて 歌集 短歌新聞社 1995.9 (短歌新聞社文庫)
原阿佐緒自伝・黒い絵具 西田耕三編・制作 耕風社 1997.8 (みやぎ文学館ライブラリー)



・原阿佐緒作品
『恋人形の唄』: 作曲・編曲堀田公明、歌唱淡谷のり子、ポリドール、1931年3月
『浪花小唄』: 作曲山野芳作、編曲奥山貞吉、歌唱かね本幾松、タイヘイ、1933年12月
『あけみの唄』: 作曲・編曲古賀政男、歌唱関種子、コロムビア、1932年5月
『佳人よ何処へ』作曲・編曲古賀政男、歌唱淡谷のり子、コロムビア、1932年5月
『山の娘』: 作曲・編曲・演奏高倉彰、歌唱三浦環、コロムビア、1940年7月


『原阿佐緒の生涯 その恋と歌』、小野勝美、古川叢書、古川書房、1974年



220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 20:20
>>219

あけみの唄

1932
作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子


(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ




221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/01(Tue) 22:50
>>219

[山の娘」(原阿佐緒作詞 高倉 彰作曲) 三浦 環   昭和15年7月 コロムビア 青盤 37001



222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/03(Thu) 12:50
☆古賀政男に関する文献

宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。

くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1955)
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)
沢憲一郎著「二人の千代子 : 古賀政男の結婚」(文園社1994)
下嶋哲朗著「謎の森に棲む古賀政男」(講談社1998)
「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)・・昭和53年、古賀政男追悼本
高平一記「うさぎ―古賀政男十三回忌年出版作品」 (単行本) 日本ブックマネジメント (1990/08)
菊池清麿「佐藤千夜子 ・永遠の歌姫 」(東北出版企画) 
菊池清麿「評伝 古賀政男」(アテネ書房2004)
「夢人生を奏でて」 : (古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)


『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年11 月刊)103 頁
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社)
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ぐさむ愛唱歌66曲
寺山修司編著『日本唱歌集』』〈光文社カッパブックス30−17, 1972〉
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)・・「演歌」という言葉は必ずしも適当でないと思うのだが

福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編〉」(拓殖書房1994)
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア〈株〉)(昭和36年)
古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年)
「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年)
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)宵待草、ゴンドラの唄、影を慕いて他

長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
 「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他


223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/03(Thu) 23:39
☆古賀政男に関する文献2

 ・古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史
古賀 政男著 東京音楽書院 1978
 
 ・森下 節著 [孤独の宴 : 小説・古賀政男 ]仙石出版1972

 ・田辺 明雄  「古賀政男論」
 掲載誌 季刊芸術 / 季刊芸術出版株式会社 [編] 臨時増刊号(1989年秋) 1989-10 p.p180〜189

 ・高橋 功「"回想の雅兄・古賀政男"」
  掲載誌 心 31(10) 1978-10 p.p129〜140

 ・「日録20世紀 1931 昭和6年」(講談社1997)注記:12/30 第1巻       第43号 通巻43号
  
 
 ・九州の偉人たちを育んだ「おふくろ物語」(2)古賀政男の母「セツ」
  掲載誌 財界九州 46(3) (通号 966) 2005-03 p.159〜162
  
 ・大石 さち子 「趣味と私 古賀政男音楽博物館--昭和と共に生きた古賀メロディ」
  掲載誌 共済新報 / 共済組合連盟 [編] 41(8) 2000-08 p.50〜52

 ・石出 法太 「古賀政男--「古賀メロディー」と民衆 」(20世紀の歴史のなかの人物)
  掲載誌 歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 (通号 576) 1998-03 p.56〜57
 
 ・古賀 政男 「人との出会いにめぐまれて 」(わが人生を天職に生きて<特集> ; わが人生を天職に生きて--この道ひとすじ五十年--味わい深い人生哲学の数々) 掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 214) 1977-03 p.p246〜247

 ・下嶋 哲朗 「太平洋戦争秘話=「歌謡曲の天皇」渡米の裏に外務省の謀略があ  った--古賀政男に下った「日米開戦前夜の密命」」
  掲載誌 「現代」 32(9) 1998-09 p.218〜228

 ・古賀 政男 「昭和を歌う我が涙の幾千曲 」
  掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 120) 1969-12-00 p.350〜354

 ・松山祐士 編著「わが心の日本抒情歌集 」
 ドレミ楽譜出版社 2003 (シニアのためのピアノ曲集)

 ・舘野晰 編著「韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人 : 西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで 」 明石書店 2002
  
 ・里村あきら 著 影を慕いて… : 「古賀メロディー」知ったかぶり
  雄文社出版企画室 1993




224 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/04(Fri) 12:05
☆古賀政男に関する研究文献

森田哲至…「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開・・―日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察―
(「日本橋学研究」日本橋学館大学 第3巻1号 2010年3月)

The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi
([日本橋学研究] 日本橋学館大学 3(1) (20100331))

ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110008895600
ttp://www.nihonbashi.ac.jp/nihonbashiology/pdf/nihonbashigaku_3-1.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%81%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7'

「日本橋」のキーワードのもとで、中山晋平、佐藤千夜子、古賀政男、藤山一郎 の関係する「SP歌謡」たる黎明期の「昭和歌謡」成立の系譜と展開について詳しく述べ られている。


225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/04(Fri) 20:28

参考

・【東京】不滅の古賀メロディー【ラプソディー】
  ttp://unkar.org/r/natsumeloj/1122559619

・【人生の並木路】佐藤惣之助【新妻鏡】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1162563164/

・【童謡】詩人・西條八十と、その歌【歌謡曲】
  ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1154785781/

・【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】
ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎
 ttp://www.logsoku.com/r/natsumeloj/1011539806/

・歌う昭和史、藤山一郎2
 ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1196428914/



(古いBBSで終了移転されていて広告などが入っています。)

226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/04(Fri) 22:48
>>222

利根川祐「人物昭和史」(筑摩書房 ちくま文庫720) (1989)

天  皇
近衛文麿
東条英機
吉田茂
大原孫三郎
小林一三
松永安左エ衛門
正力松太郎
野間清冶
菊田一夫
古賀政男




227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/05(Sat) 11:38
昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。

基本的にはクラッシックによる洋楽を基したもので、当時殆どクラッシック畑から出たものであるが、日本的な風土に由来する詩情(詩)を短い制約で表現するという点では、ごく日本的文化の極地と言え、クラッシックそのものとは同一視にはできない。

古賀の作品には、16分音符や3連符などが多用されているものが多く見られ、歌の詩情が細かい節回しで表現されている。ここが「古賀メロディ」と呼ばれ、多くの人々の心の琴線に触れ長く愛されている理由でもある。

なお、細かい節回し,これを(「小節・しょうせつ」。「こぶし」ということがある。)という。

古賀は、自分で自由に調弦できるギターやマンドリンなどの弦楽器を使うことによって作曲において、ピアノでは出せない音を求めたようです。

一方これに対し、一般的に外国曲には、詩にはあまり重きをおくわけでもない、あっさり、さっぱりした歌が殆どだ。ひたすら、こうしたどちらかというと洋風のさっぱり曲を素敵だとするものもいるだろう。

彼らはそうしたものを、なぜか「クラッシック」と混同することがあるようだ。

時代を超えて人の心を掴むことができなければ長く生き続けることはできない。
やはり歌の生命は「詩」と「メロディ」に尽きるといえるだろう。



228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/07(Mon) 11:20
ゆかりの唄

作詞:佐藤惣之助
作曲:古賀政男
歌 :ディック・ミネ (台詞;星玲子)

都のともしび たのしく燃ゆれど
わが胸は
露にむしばむ かよわき花
涙にかがやく 初恋も
あゝ短きは 乙女の命

あゝ傷つきぬわが胸は、真白きリラの花のごと、
一人さびしく夕月に、すすり泣きつつしのびつつ、
あわれ今宵も散りて行く、ああ美わしの花よ、
なれの名は乙女、はかなくも消え行く雪よ、
なれの名も乙女、紅そめし頬も、
みどりのくろ髪も、束の間の秋の嵐にちりゆく。

高嶺の白雲 ほのかになびけど
わが夢は
さびし浅間の煙の影
嘆けどうつつに 消えゆきて
あゝ短きは 乙女の命



1935日活映画『緑の地平線』の挿入歌。いずれも佐藤惣之助の詩、星玲子の朗読があり、日本最高のジャズシンガーの称号を持つディック・ミネが歌唱しました。戦後、藤山一郎も歌っている。

「緑の地平線」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲,楠木繁夫歌)とは前奏から対照的に、繊細な乙女の心情を描く物静かな名曲。


229 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/08(Tue) 12:07
>>226

古賀メロディについては、1956年3月に出た毎日新聞社「写真 昭和30年史」にも取り上げられているように
昭和の歴史において偉大な存在で、社会的、文化的存在であった。

かつ昭和30年代において、すでに「古賀政男」といえば、押しも押されぬ歌謡界の「大御所」であっただけでなく、
≪日本の名士≫でもあった。

230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/09(Wed) 22:54
緑 の 地 平 線

作詩 佐藤惣之助  
作曲 古賀政男
歌  楠木繁夫

昭和10年

1 なぜか忘れぬ 人故に
  涙かくして 踊る夜は
  ぬれし瞳に すすり泣く
  リラの花さえ 懐かしや


2 わざと気強く ふりすてて
  無理に注がして 飲む酒も
  霧の都の 夜は更けて
  夢もはかなく 散りてゆく


3 山の煙を 慕いつつ
  いとし小鳩の 声聞けば
  遠き前途(ゆくて)に ほのぼのと
  緑うれしや 地平線




231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/13(Sun) 21:32
夕べ仄かに

   作詞:島田芳文
   作曲:古賀政男
   歌唱:ディック・ミネ
   
    (一)
    夕べ仄かに 窓辺に立てば
    山のかなたの 空の色
    遠いあの日の 夢に似て
    かいなき君の 偲ばれる

    (二)
    夕べ彩なす あかねの空よ
    何故に思いを こがすやら
    山の遠さよ 過ぎし日の
    儚なき君の 想い出よ
    

    (三)
    夕べ仄かに またたく光
    星になりたや 一つ星
    黒い瞳に うつる影
    誰故流す わが涙

 
これも昭和10年(1935)、日活映画「緑の地平線」の挿入歌です。松島詩子のもある。


232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/17(Thu) 10:34
「古賀メロディ」というのは、(単に佐曲家の名前の後に「メロディ」という言葉をつけたものでなく)、長い日本の歌謡史の中で生まれ多くの大衆によって育まれ与えられたもので、「メロディ」というのは、古賀作品のみに使われる特別の「称号」ということができるでしょう。

日本人の心の琴線に触れる一種哀調を帯びた優しいメロディ、稀有で卓越した一連のたくさんの古賀作品、それに対する敬意と賞賛の意味が込められているのです。


「古賀メロディ」紛いで、最近なんでもかんでも、いろいろ作曲家、それがリズム系であっても、その名前の後に、「メロディ」をつけて、作曲家の曲を「何とかメロディ」で呼ぶことがあるようで違和感を感じている人もあるのではないでしょうか。
これらは、いつからか戦後昭和40年代前後の頃のテレビ(12チャンネル等)に始まる「ナツメロブーム」の影響でしょうか。
使い方も間違っていると思います。

西條八十、佐藤惣之助、サトウハチローなど、詩人の日本人の琴線に触れるの詩情溢れる「古賀メロディ」・・、昭和の初めから、人は敬意を持って「古賀メロディ」と呼んだのだ。

しかし、最近のはもちろん、「古賀メロディ」以外が、実際SP黄金時代に、そのように「メロディ」をつけて呼ばれてきたわけではないのです。


昭和の長い歌謡の歴史の中で「メロディ」をつけて実際にそう呼ばれてきたのは、たくさんある中で、「古賀メロディ」しかないのです。





233 名前:貴志俊彦 投稿日:2013/10/22(Tue) 10:36
突然の書き込みで失礼します。
下記のような拙著を刊行いたしましたでの、関心をもっていただけそうな方々に、ご案内をさしあげているしだいです。
よろしくご一読のほど、お願い申し上げます。

========
書籍名 『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
著者名 貴志 俊彦 著
発行者名 岩波書店
発行年月 2013年10月18日
ページ数 288頁
価格(税込) 2415円
備考

【目 次】
序章 「帝国圏」と「華語圏」の流行歌
第1章 東西音楽の融合―ダンス音楽とレコード歌謡の幕開け
第2章 ラジオとトーキー映画―抵抗と啓蒙から生まれた流行歌
第3章 一九三〇年代―東アジアにおける流行歌の時代
第4章 戦争と流行歌―「軍歌」「戦時歌謡」Vs. ジャズソング
第5章 戦争の残影―戦後直後の流行歌の光と影
第6章 植民地と革命の継続―香港と中国
終章 「歌」の解放?それとも分断?

コラム
 1.東アジアの流行歌に関する主要目録
 2.日本におけるジャズ創成期の音源
 3.東アジアの流行歌を考える四冊の基本書
 4.流行歌CDコレクション
 5.日本の流行歌に関する主要目録
 6.三つの流行歌データベース
 7.個人記念館と音楽資料館

あとがき
主要参考文献
索引

234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 00:42
日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男

『古賀メロディ』と呼ばれたその作品は、昭和一桁時代から数多くの人に親しまれました。

その曲は底辺に寂寥感や哀愁を漂よわせたものが多く、それが同時代の日本人の心の琴線に触れて長く愛されて、日本歌謡史に多大の足跡を残しました。

その数多くのヒット作品、その多くは「映画主題歌」でもあります。「古賀メロディー」ほど多くのヒット曲を持つ作品群はありません。同時に「古賀メロディー」ほど、数多くの「映画主題歌」を持つものもありません。 

昭和6年、「チャッカリしてるわね」(天野喜久代歌)に始まり、「酒は涙か溜息か」(想い出多き女)「丘を越えて」、「鳩笛を吹く女の歌」(同、いずれも藤山一郎歌)など無声映画の時代から始まり、戦後30年代頃までよどみなく続きます。



235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:41
戦中戦後における童謡について

ここで歌謡曲だけでなく昭和、戦中戦後の
ラジオで放送された児童のための童謡について触れる。

戦中から戦後にかけて、レコード童謡だけでなくラジオ放送に於いて、もっとも活躍した童謡作曲家は、「音羽ゆりかご会」主宰の海沼實だった。

<音羽ゆりかご会>は戦中戦後の一時期、昭和18年から昭和25年くらいまで、「東京放送児童合唱団」の名称でNHKラジオ放送で活躍した。現在も<音羽ゆりかご会>として存続する日本屈指の合唱団(大人の合唱団も含め)である。ゆりかご会という名称は、故郷の先達である草川信の名曲「ゆりかごの唄」に対する思い入れが感じられる。こうして海沼実の作曲家人生は、自身が創設した、<音羽ゆりかご会>とともに彩られることとなるが、海沼の名前があまり人口に膾炙していないのは川田三姉妹や<音羽ゆりかご会>があまりにも有名だったため、座付作者のような扱いを受けていたためかもしれない。

 海沼実は<音羽ゆりかご会>のために多くのオリジナル曲を作曲したが、またそのため多くの童謡詩人を発掘した。まず最初は同郷の童謡詩人山上武夫【1917年(大正6年)〜1987年(昭和62年)】である。山上は、海沼実が草川信に憧れたように、故郷の先達を頼って信州から上京してきた。そのころ海沼はすでに童謡を試作作曲しており<音羽ゆりかご会>に供給していたものの、詩を提供してくれる高名作詞家もなく、詞も曲も自分で作って色々と試作していて、あまり見るべきものは無かった。しかしその中で後に「からすの赤ちゃん」としてヒットした歌が生まれる。この作品を見ると、作曲は言うまでもなく、作詞に対する感性、いや童謡に対する感性が並々ならぬものであることが伺われる。
昭和13年の真夏、山上は暑さに辟易しながら新しい童謡制作に呻吟していた。海沼から二人で童謡を作ろうともちかけられていたのだ。詩は山上が作るので、海沼はアドバイスしながらも、待っているより仕方がない。二人で作るのはなかなか大変だ。詩と曲を息をあわせて作らないとうまくいかない。まるで駕籠屋みたいだ。海沼との話し合いにあれこれ想いに耽っていた山上は、嫁ぎ先の姉の家の裏庭を出て故郷の方の空を見ながら、あの山の猿は今頃どうしているかな、と考えていた。途端、「そうだ!お猿が駕籠を担ぐようにしてみよう!」書き上げたのをすぐに海沼に渡し、海沼が曲を付けて出来上がったのが「お猿のかごや」。これは日中戦争の始った年であったが、全国的にヒットした。海沼実としても童謡作家としてやっていける自信を感じた最初の一作だった。その後も山上武夫とのコンビで多数の童謡を作ったが、ヒットは昭和20年の「見てござる」まで待たねばならなかった。
次に発掘したのが滋賀県日野町出身の細川雄太郎【1914年(大正3年)〜1999年(平成11年)】である。細川が「泣く子はだあれ」「ちんから峠」を作詞して童謡雑誌『童謡と唱歌』に発表したのが昭和14年。「お猿のかごや」から一年たって、海沼は、曲をつけられる童謡作家の詩を探していた。そこで見つけたのが細川の、<泣く子はだあれ>という詩だった。時節柄ということもあるし、曲も明るいものの方が良いだろうというディレクターの提言や、海沼の、<だあれ>は音が汚いし、音楽に乗りにくい部分を修正したほうがいいとしたアドバイスでできたのが「あの子はたあれ」という歌だった。同年、「ちんから峠」とともにヒットし世に歌い継がれる童謡となっている。海沼実は終戦前後の童謡・流行歌不毛の時期に、日本人に癒しと希望の歌を送った作曲家であった。



236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:41
海沼實は、 昭和戦後期の童謡作曲家としては最も多く愛唱された作品を持つことから「最後の童謡作曲家」と呼ばれ、川田三姉妹の発掘や、結成した音羽ゆりかご会を通して、戦後童謡黄金期を形成した作曲家としての功績は日本童謡界において屈指のものと評価されている。
現在でもYou Tubey等で聞くことができる。

『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實
『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實



237 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:48
1943年(昭和18年)、当時の日本放送協会(NHK)が放送合唱団を公募し、スタジオでの厳正なる審査の結果、「音羽ゆりかご会」を「東京放送児童合唱団」として任命。
同合唱団は戦中戦後のラジオ放送に大きく貢献した。

1951年(昭和26年)には、NHK独自の児童合唱団として再編成された、昭和27年3月に「NHK東京放送児童合唱団](現在の東京児童合唱団)を編成した。

NHK東京放送児童合唱団は、『みんなのうた』『歌のメリーゴーラウンド』など、同局の音楽番組、教育番組に出演、現在に至る。

「東京放送児童合唱団」が戦中・戦後にかけて多くのNHKラジオ番組に貢献した。「前線へ送夕べ」「農村へ送る夕べ」・・
. まだテレビもない時代、戦中戦後はひたすらラジオ放送がすべてでした。

「農村へ送る夕べ」の主題歌・農家のみなさんこんばんは・・♪農家の 皆さん今晩は一日お仕事ご苦労さんお疲れ直しのこの時間ラジオのおそばにさあどうぞ ♪ ...

農村へ送る夕べ

♪農家の皆さん今晩は
一日お仕事ご苦労さん
お疲れ直しのこの時間
ラジオのおそばにさあどうぞ♪
 
まだまだ雑音が多く聴きづらいものだったが、夕食後の大きな楽しみが増えた。「戦地へ送る夕べ」、「農家へ送る夕べ」には、多数の有名歌手がでていた。
なかでも「童謡歌手川田正子」が歌うテーマソング「戦地(農家)の皆さん今晩は、今日も一日ごくろうさん、お疲れ直しのこの時間、ラジオのおそばにサァーどうぞ」のメロデーが鮮明に残っている。

敗戦直後のNHKのラジオ番組「農家に送る夕べ」のテーマソング(作詞:山上武夫 作曲:海沼実)でした。
当時は食糧難で、NHKも農家に気をつかって特別番組を用意していたようです。

戦後の食糧難の時代、ラジオで流れてくる ♪農家の皆さん今晩は 一日お仕事ご苦労さん・・の唄声に農家のみなさんは仕事に励めたそうだ。






238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 20:51
敗戦後の童謡の盛衰

敗戦直後には、海沼實を中心としたレコードとラジオ放送とが連携したいわゆる「レコード童謡」が復興し、第二の童謡黄金時代、戦後童謡黄金時代と言われた。
「レコード童謡」という言葉には、すでに軽蔑の響きがあるが、1955(昭和30)年、それまで童謡界をリードしてきた海沼實、中山晋平、河村光陽、山口保治らの作品に対し、童謡等の実績を持たなくNHKラジオ子供の歌番組に拠る若手音楽家グループたちが、「童謡」に対し「幼稚な歌詞」を持つ「子どもの歌謡曲」「営利目的の「レコード童謡」」として厳しく批判し排斥運動(童謡排斥運動)を起こしたのだ、その中心になったのが中田喜直ら「ロバの会」だった。彼らは、「童謡」という用語そのものも過去の遺物として、これを否定して幼児を対象とした「新しい子どもの歌」をつくろうとした。まあ、実績の無い自分たちのためのめだったのだ。

「ろばの会」に結集した若手の二世作曲家たちであった。ろばの会では、「童謡」という言葉を嫌って、もっぱら「(新しい)こどものうた」としたが、それは従来の「(レコード)童謡」に対決する姿勢を強く打ち出そうとしたからである。また、「ろばの会」の会員ではなかったが、「うたのおばさん」を通して童謡の作曲に深く関わった團伊玖麿、次のように述べている。「戦後、私たちがNHK「うたのおばさん」を舞台に新しい子どもの歌を作り始めたとき、あえて童謡という言葉を使わなかったのは、戦前のレコード童謡への反発があったからでした」。しかし、このレコード童謡への反発と否定は、正当な部分はあったがにいても、このあとその排斥した「童謡」の名をかたって「童謡協会」を作って会長に収まったという、辿った歴史を見ると、行き過ぎのところ、自分たちのためという動機不純なところがあったと言わざるを得ない。

昭和44年(1969年)に童謡の再興を期して「日本童謡協会」が設立され海沼は常任理事に、加藤は事務局長に就任した。
しかし、役員の人選をめぐってもめた。初代会長サトウハチロー、二代目中田喜直)

2年後の総会の翌日、海沼は過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。「憤死」に近い。
加藤は代表作「みかんの花咲く丘」が酷評されたことに、生涯を通じて心を痛めた。死の1ヵ月前、美知子さんの運転で故郷の富士市に行く途中、助手席でふと「あのとき、あの歌を作って良かったんだよな」とつぶやいた。「自分に問いかけ、自分を納得させるような口ぶりでした」と美知子さんは思い起こす。「父も海沼さんも川田さんも、みんな純粋で一途でした」と続けた。

彼らは、「あたらしいこどもの歌」を排斥した「童謡」といいかえた。

「童謡」が「童謡」を排斥した「ロバの会」の延長メンバーによる「童謡協会」に乗っ取られたのだ!・

ここに童謡運動は終焉を迎えた。

しかし、その「あたらしいこどもの歌」も今歌われていない。知る人もいない。

真に心がこもったものでない限り、時代を超え、世代を越えて受け容れられることは無い。
このことを、これはものがたっている。




239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 21:05
「童謡」は人の心を豊かにします。しかし、『童謡』と彼らが自分たちの領分を勝ち取ろうとした「あたらしいこどもの歌」とは似て非なる別物だった。

寺山修司は、その編著「日本童謡集」〈光文社カッパブックス1972〉と言う本の最初で、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。

「童謡協会」と言うのは、『童謡』には関心が無いらしく、「童謡200選」の中で、童謡は「里の秋」あたりまで60曲弱。全体のわずか30%弱と、申し訳程度の扱いで、戦後の「童謡」、戦後の「童謡黄金時代」と言われた『童謡』がごっそり抜け落ちてカバーされて無いのです。

『童謡』は日本の文化です。童謡は主に大正時代に大方作られた、名曲童謡と言っているおののはかに、実際は昭和に入ってからも昭和10年代以降も、たくさん作られ歌われたのでした。より生活に密着してきて、特に戦後、昭和20年代、30年代、「童謡黄金時代」と言われ「童謡」が花開いた時代と言えるでしょう。まだ日本がまだ貧しかった時代、草深く、食糧難の時代、多くの童謡歌手の歌声に、人々はどんなに心慰められたことでしょう。

昔は「りんごのひとりごと」〈河村光陽〉「やさしいお母さま」(海沼實)「ないしょ話」)結城よしを作詞・山口保治作曲)「あの子はだあれ」「母さんたずねて」・・「船頭さん」「仲良し小道」「夕日」、『かわいい魚屋さん』(加藤省吾・作詞)などが盛んに歌われたものです。

童謡・・そこには「人」(人と人との情愛)が醸し出されてくるのです。「りんごのひとりごと」昭和20年代、30年代にかけてよく歌われたものでした。
今でこそリンゴなど誰も見向きもしないが、昔日本がまだ貧かった時代,流通も今ほどでなく貧しい家庭が多かったでしょうから高価で貴重品だったろう。リンゴは、子供が風邪をひいた時に、お母さんが枕元に出してくれたものだったようで、特別な思いもあったとう。

さっちゃんだとか、ぞうさんとか、他愛もない小さなこどもの歌とは歌の思いが違うのです。

「あたらしいこどもの歌」は、学齢前の幼児を対象としたものです。「童謡」は子供であっても、ある程度年齢がいったものでないといけないもの。





240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 21:12
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。

しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

いまどんな活動をしてるのかどうかしらない。
しかし新しい子供の歌というのが歌われているのはきたことがない。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。





24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 14:46
日本童謡協会は、昭和44年(1969年)4月に設立された。会長任期は二年で、初代会長はサトウハチロー、そして第2代会長は中田喜直、第3代会長は湯山昭。「童謡」を排斥した中田喜直、湯山昭ら『童謡』を排斥の中心にいた者が会長となり、日本の文化である「童謡」を乗っ取ったのだ。日本の童謡史に残る、許されざる恥ずべきこと、童謡の歴史を汚す童謡史に記録されるべき汚点である。
会の目的としては、童謡の振興発展を図ること、童謡著作者の生活権および著作権を擁護すること、音楽文化の向上に寄与することなどが謳われ、平成元年(1989年)から社団法人日本童謡協会となり今日に至る。




25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/29(Tue) 14:48
しかし、[童謡]はかっての[童謡] ではなく、幼児対象の「あたらしいこどもの歌」を,そのまま「童謡」と言いかえただけのものだった。

会員数は詩人、作曲家合わせて400名を超えているが、「日本童謡協会」は、批評家や研究者を入会させず、作品の鋭い批評にも踏み込まず、「職能擁護的な会」と言われているようだ。
この第二代会長・中田喜直を選んだ総会の翌日、「最後の童謡作曲家」と言われ、戦後の童謡黄金時代を築いた作曲家・海沼實は、過労から心筋梗塞で倒れ、そのまま息を引き取った。そして次も同じ童謡を排斥した湯山昭が選ばれた・・・・。

大正時代に始まった幾多の先人が取り組んだ、日本の文化でもある童謡運動は、ここに終焉を迎えることになったのだ。




241 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/10/30(Wed) 22:04
童謡、童謡協会とサトウハチローについては

>>161 ☆サトウハチローと「童謡」  参照


242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/05(Tue) 14:08
サトウハチローは「童謡協会」に利用されたのでしょう。

初代会長にはサトウハチローを、二代目は中田喜直。以後、湯山昭、「童謡協会」は「童謡」を完全にのっとった。
その代わり、童謡協会もいまや完全に過去のものとなり顧みる人もいない。

何であっても、真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

この「ロバの会→童謡協会」の「童謡のっとり」は、自らのためであり、こどものためでなかった。

そのことを教えている。

「童謡」に限らない、「歌謡」の世界でも同じ。

真に心からのものでなければ、聞く人の心を捉え続けることはできない。

それはいまや顧みる人もいない職能擁護的団体と化した、今の「童謡協会」の現状を目のあたりにすれば、よくわかる。


You Tubeには過去の本物の童謡があふれている。

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:20
・CD[西條八十全集  生誕百年](CD16枚)(1992/10/1) ・発売元:日本コロムビア(株)
 童謡から新民謡,歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十生誕100年記念の全集です。日本コロムビア,ビクター,キング,ポリドールなどのオリジナル音源を収録し,八十自身による詩の朗読や古賀政男,古関裕而との対談まで収録した文字通りの全集です。昭和の歌謡曲を作った中山晋平,古賀政男,古関裕而,服部良一らとのコンビによる作品集も編まれている。昭和の戦前・戦中・戦後を色どった歌の多くが西條八十の詞であった。時代の気分を反映した歌謡曲の詞を書いただけに批判される面もあるが,昭和の唄そのものであることは間違いない。付録のブックレットは八十資料としても貴重な内容。昭和を生きた日本人の心を洗う唄ばかりです。

・CD[古賀政男大全集〜20世紀の遺産]日本コロムビア
 発売日:1998年7月18日  CD16枚、
 昭和の大衆歌謡を象徴する作曲家・古賀政男の作品を,彼が活躍したビクター,コロムビア,テイチクから集めた文字通りの大全集。戦前の彼の曲は実にモダンなサウンドで,ギターやマンドリンなどを使い,当時としては新鮮で心地好い都会的なサウンドによる歌謡曲を作り出している。



244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:22
日本コロムビア創立100周年記念 藤山一郎生誕100年記念 (決定盤)国民的歌手 藤山一郎全集(上/下)~栄光の軌跡~
上 CD6枚
下 CD3枚


245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/10(Sun) 18:35
生誕100年国民的作曲家 古関裕而全集(CD)
 CD139曲CD6枚DVD1枚 コロムビア 2009年8月5日発売

決定盤 服部良一 〜僕の音楽人生〜(CD)
アーティスト名:服部良一
CD 3枚組 63曲 D3937 COCA-71103 コロムビア2006年9月27日発売


246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/12(Tue) 09:24
(参考)

古茂田信男「日本流行歌史・戦前編」(社会思想社1981)

数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられている。

247 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/12(Tue) 18:42
(参考)

時雨音羽編『日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌』(現代教養文庫)(社会思想社1963)

ASIN: B000JAHOT6
書誌ID 000001285505 

454ぺージの文庫本、数多くの戦前の歌が歌詞とともにまとめられていて貴重。
国立国会図書館ディジタル化資料。




248 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/13(Wed) 00:11

 主な索引 >>211

249 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/13(Wed) 00:34
索引

主な索引 >>211

>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)


250 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/15(Fri) 17:12
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
     日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌

251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:17
(参考)

テイチク50年史・・

テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)
142ページ

昭和9年(1934)2月設立したテイチクレコード50年史

コロムビア社を退社し、同社に重役待遇で招聘された古賀政男は同9年5月テイチク東京文芸部(古賀文芸部)発足させ、
いわゆる「テイチク黄金時代」を築いた、

252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/17(Sun) 22:29
南口重太郎が奈良で蓄音機、レコード事業に進出したのは昭和六年である。三年間、浪花節で事業基盤を作ってきた。古賀政男を迎えて東京に進出し、正式に帝国蓄音器株式会社を創立したのは昭和9年2月11日である。
帝蓄は創立間もないころ日活と映画主題歌獲得のためのタイアップをまとめていた。音楽制作費を帝蓄が負担する条件で提携したのである。

古賀政男は帝蓄に入ってから藤山一郎のビクターの契約切れを待っていた。古賀は茂木了次を説得にあたらせた。古賀は一作家ではなく、帝蓄専務の立場だったから、条件交渉もその場で決着をつけられたから話は早かった。
古賀、藤山の第一作「東京ラプソディー」(門田ゆたか作詞)は、コロムビア文芸部首脳が青ざめるほどの大ヒットになった。創業まもない小さなレコード会社だった帝蓄は、古賀のお陰でレコードメーカーとしての基盤を築き、驚くほど短期間に黄金時代を築いてしまった。


253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/18(Mon) 21:52
・1931年2月、吉川島次と、南口重太郎が合資会社帝国蓄音器商会を設立した。
・1934年5月、日本コロムビアから作曲家の古賀政男を引き抜き重役(専務取締役)とし、録音技師と社員も呼び寄せた。
・東京進出に際して文芸部を銀座に、録音スタジオを杉並堀之内に置く。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、年末にはディック・ミネも専属とした。
・1934年(昭和9年)7月、古賀政男テイチク専属第1回発売新譜4曲のひとつ佐藤惣之助作詞、楠木繁夫『国境を越えて』。
・1936年、藤山一郎、美ち奴が入社。本店を奈良市肘塚町へ移転し、工場も設備拡大を行う。
・1938年、古賀政男退職。
・ 1944年5月25日 帝蓄工業株式会社と改称。
・1953年4月1日 社名をテイチク株式会社に変更


254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/20(Wed) 23:50
コロムビア専属だった古賀政男がテイチクレコードへ重役として迎えられたのは病気療養後の昭和9年のことだった。翌十年からの作曲活動はまことに目覚ましく、最初の仕事の「白い椿の唄」(楠木繁夫)につづき、「ふたりは若い」(ディックミネ・星玲子)「緑の地平線」(楠木繁夫)「東京ラプソディー」(藤山一郎)「ああそれなのに」(美ち奴)「うちの女房にゃ髭がある」(美ち奴・杉狂児)「男の純情」(藤山一郎)「人生の並木路」(ディックミネ)「人生劇場」(楠繁夫)…と、退社する13年までテイチクの黄金時代を築いた。
昭和12年に作曲した「青い背広で」も藤山一郎の歌で、若いファンを魅了したが、 この歌を作詞した佐藤惣之助は神奈川県川崎生まれ。大正末期、新感覚派運動の最先端を行って注目された詩人。昭和に入ってからフリーの流行歌作詞家として活躍した。

255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/22(Fri) 15:15
古賀メロディー乗せて JR桜井線 京終駅

朝日新聞デジタル
2009年1月10日


JR京終駅の構内には、かつて貨物列車を引き込んだレールが残る。隣の本線を電車が通り過ぎていった。

京終駅の乗降客は少ない。鉄道好きの親子が訪れ、ホームで電車を眺めていた=いずれも奈良市南京終町

夕日を浴びながら京終駅近くを走る電車=奈良市北永井町

奈良町には昔ながらの路地が残る。観光客が着物姿で散策していた=奈良市餅飯殿町

京終駅にある路線案内板。読みにくい駅名が並ぶ

   
フォトギャラリー
 平城京の中心部から南東へ約4キロ。京終(きょうばて)という地名がついたのは、奈良の都の果てに位置したからだ。
 
 昭和の初め、ここから多くの歌声が全国に発信され始めた。

 レコード化されるのはジャズやシャンソンが中心だった当時、奈良で蚊帳を製造していた南口重太郎(なんこう・じゅうたろう)は歌謡曲を広めたいと考え、1934(昭和9)年に帝国蓄音器(現テイチクエンタテインメント)を創立。2年後に本社を京終駅の近くに置いた。

 南口は会社創立のころ、偶然を装い、大手レコード会社の人気作曲家だった古賀政男に伊東温泉の湯で声を掛けた。「奈良でオモチャみたいなレコード会社をやっております。先生に来ていただいたら『掃きだめに鶴』や思いまんねんけどいかがでしやろか」。この引き抜き話に応じた古賀は後年、「裸の時は素直に心が和む」と南口の作戦を回想したという。

 藤山一郎が歌った「東京ラプソディ」、美(み)ち奴(やっこ)の「ああそれなのに」、ディック・ミネの「人生の並木路(なみきみち)」……。古賀作品を得たテイチクはヒット曲を連発した。

 録音スタジオは東京の他に京終の本社にもあった。「線路が近いため蒸気機関車の音が入り、やり直しがよくあったらしい」と工場長などを務めた岡田守隆さん(71)。資料は残っていないが、できあがったレコードは京終駅から貨物列車に積み込まれ、各地に発送されたのだろう。



256 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 10:24
索 引 (主なもの)

>>2  影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149 関 種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193? [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名 『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
     日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・

この他もあります。

257 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 10:28
参考

★検索法

検索:Ctrl + F
   
1)検索は《スレッド一覧》のページ。このスレの頭で行ってください。

    カーソルは上記の左上に
  

2)Ctrl + F   (同時に押す)

     左上に検索窓が出ます。
 
3)>>209 他の必要単語の名称をコピーして、上の検索窓に貼りつけます。

4) RETURN を押す。

すると、該当スレ名の色が黄色に変わります。
クリックしてください。






258 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/23(Sat) 21:19
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)


259 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 11:04
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。


260 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 12:13
懐メロには小節(しょうせつ・。ぶしともいうことがある)が多く使われています。特に古賀政男は、5連符6連符といった小節を多く用いました。デッィク・ミネが古賀政男に流行歌を進められた時、「私はジャズ歌手なので小節(こぶし)が苦手でして」と躊躇したと伝え聞いています。

小節が廻るとは4部音符2部音符のように長い音符の小節(しょうせつ)に比べて16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげることだと思います。

5連符6連符といった小節を多く用い、16部音符32部音符のような短い音符の上げ下げの連続小節(しょうせつ)をうまく歌いあげ、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲に値するような、あの独特の哀調を帯びたメロディ、人はそれを「古賀メロディ」と呼んで支持したのです。

ジャズなど洋楽には日本の流行歌のような小節(こぶし)の小節(しょうせおれをつ)はないですね。演奏するにも歌うにも、「古賀メロディ」は難しいと思います。
初期の頃、古賀政男は自らのギターなど伴奏で多数録音しています。ほかに、自らの明大マンドリンクラブを引きつれ、あるいは名前を変えて録音しています。

古賀政男はギターやマンドリンの名手でもあり、演奏家でもありました。こうした難しい歌は、藤山一郎とか席種子をはじめ、淡谷のり子、楠木繁夫、霧島昇など音楽学校出身歌手によって支えられていたのです。


261 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 12:18
訂正
×席種子 ○関種子

262 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/24(Sun) 21:45
日本の「流行歌」(歌謡歌曲)独特のもので、ジャズやポピュラーは、もちろんクラッシックを含め外国系にはありません。
参考までに、よくクラッシックの香りとか格調と言われるのも、こうした意味合いではないでしょうか。

263 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/25(Mon) 00:21
日本以外、世界のどこを探しても無い、日本の文化ですね。

264 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/25(Mon) 13:48

昭和の流行歌(レコード歌謡)というのは、クラッシックを基調とした洋楽。
しかし、「歌詞」(詩)を持つ「歌謡」であると言う点で、クラッシックそのものとは根本的に大きく異なるもの。



265 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 20:33
☆中山晋平と「ゴンドラの唄」


中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原生活秋 作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

昭和27年12月2日、ある恩人の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
1942年(昭和17年)、日本音楽文化協会理事長に就任。同年、日本音楽著作権協会理事長、1948年(昭和23年)同会長となる。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。


266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 20:39
訂正

「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晋平作曲)



267 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/11/26(Tue) 21:22
訂正
昭和23年「日本音楽著作権協会会長」等の要職を歴任します

268 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/03(Tue) 10:58
>>259,>>265

古賀メロディが、[古賀メロディ] という愛称で呼ばれ、広く一般化するきっかけとなるのが、

『中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ』との新聞報道とすれば、昭和7,8年。

今から80年くらい前となる。


これに対し、その他に対して何でも後ろに「メロディ」をつけるのは、「懐メロブーム」が起こる戦後も昭和40年代以降の話し。


269 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 09:13
☆昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中) 1,

「昭和」と言う、まだ日本がまだ草深かった時代、日本がまだ貧しかった時代、レコード歌謡が花開き、人々に迎えられたのです。SPレコードの時代です。
その歌手の多くは音楽学校出身者でした。以下にその主な歌手と主な歌を。

佐藤千代子(1897-1968)(東京音楽学校)波浮の港、東京行進曲、当世銀座節、
レコード歌手第一号、大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手です。古賀政男の才能を発見したことで、日本の大衆音楽史の中で忘れてはならない歌手です。
童謡、新民謡、歌曲、歌謡曲、新日本音楽など100曲を超えるレコードを残しいている。


藤原義江(1898−1976)     出船の港、 波浮の港、鉾をおさめて、出船,特幹の歌
二村定一(1900-1948)   私の青空、アラビアの唄、君恋し、神田小唄
内海一郎(宇津美清)(1898―1972)(東京音楽学校)道頓堀行進曲、銀座行進曲
天野喜久代(1897-1945)(帝劇歌劇部)私の青空、アラビアの歌、チャッカリしてるわね
曽我直子(1905−1995)  (東洋音楽学校)蒲田行進曲、沓掛小唄、明眸花の唄、
藤本二三吉(1897-1976)     祇園小唄、唐人お吉小唄(明烏篇)
河原喜久恵(1902-1997) (東京音楽学校)麗人の唄、月の浜辺、無憂華の唄
四家文子(1906−1981) (東京音楽学校)銀座の柳、踊り子の唄、不壊の白珠
徳山l(たまき)(1903−1942)(東京音楽学校)侍ニッポン、天国に結ぶ恋、隣組
関 種子(1907-1990)  (東京音楽学校)窓に凭れて、嘆きの夜曲、あけみの唄、
藤山一郎(1911-1993)  (東京音楽学校)酒は涙か溜息か、丘を越えて、影を慕いて
松平晃(1911-1961)   (東京音楽学校)サーカスの唄,望郷の唄、人妻椿
淡谷のり子(1907-1997) (東洋音楽学校)私この頃憂鬱よ、佳人よ何処へ
羽衣歌子(1902−1979) (東洋音楽学校)女給の唄、
中野忠晴(1909-1970)(武蔵野音楽学校)山の人気者、高原の唄、歓喜(よろこび)の歌
ミス・コロムビア(松原操) (1911−1984)(東京音楽学校) 十九の春、旅の夜風、目ン無い千鳥
楠木繁夫(1904-1956)  (東京音楽学校)緑の地平線、女の階級、人生劇場
新橋喜代三(1903-1963)    明治一代女、 酋長の娘
和田春子(渡辺光子)(1906−2003)幌馬車の唄、強くなってね、
二葉あき子(1915-2011) (東京音楽学校)あの花この花、新妻鏡、春よいづこ
小唄勝太郎(1904-1974) 島の娘
東海林太郎(1898-1972) 赤城の子守唄,国境の町、すみだ川,旅笠道中、野崎小唄
上原  敏(1908-1944)  妻恋道中、裏町人生、流転
児玉好雄(1909-1986)  無情の夢 
林伊佐緒(1912-1995)  出征兵士を送る歌
美ち奴 (1918〜1996)  ああそれなのに、うちの女房にゃ髭がある
杉狂児(1903−1975)  (東京音楽学校)うちの女房にゃ髭がある
由利あけみ(1913-)(東京音楽学校)黒いパイプ、愛国六人娘、茶坊の花、長崎物語、
ディック・ミネ(1908−1991)二人は若い、愛の小窓、人生の並木路、ゆかりの唄
霧島昇(1914-1984)   (東洋音楽学校)誰か故郷を想わざる,新妻鏡、旅の夜風
李香蘭(1920−)  迎春花、紅い睡蓮、夜霧の馬車、サヨンの歌、蘇州夜曲
奥田瑛子(1907- ) 緑の月、別れの歌、南国の乙女、浜辺の哀唱
奥山彩子(1916-)    (東洋音楽学校) 蛇姫絵巻,母立つ丘、興亜三人娘
菊池章子(1924--2002)  (東洋音楽学校)相呼ぶ歌、愛馬花嫁、馬、湖畔の乙女
渡辺はま子(1910-1999) (武蔵野音楽学校)サヨンの鐘,蘇州夜曲、夏子の歌
三原純子(1920−1959)  南から南から、固い約束
市  丸(1906−1997)   天竜下れば、濡れつばめ
松島詩子/千早淑子(1905-1996)  マロニエの木陰、夕べ仄かに 
伊藤久男(1933-1983)(帝国音楽学校)暁に祈る、白蘭の歌、熱砂の誓い(建設の歌), 馬


270 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 09:14
2、
志村道夫(1914-)     (東京高等音楽学院) 蛇姫絵巻
有島通男(1911-)    (東洋音楽学校)春まだ浅く
小林千代子(1910−1976) (東洋音楽学校)涙の渡り鳥、 旅のつばくろ
小夜福子(1909-1989)    (宝塚音楽歌劇学校)小雨の雨
高峰三枝子(1918-1990)  純情二重奏、南の花嫁さん、湖畔の宿
能勢妙子(1915-1999)   あなたなしでは
伏見信子(1915−)    あの夢この夢、花言葉の唄、初恋日記
北廉太郎(1920-1940)   潮来夜船,青春の丘
奈良光枝(1923-1977)   青い牧場、祖国の花、勝利の日まで
井口小夜子(1914-2003) (武蔵野音楽学校) 乙女十八,ねんねのお里、
轟由紀子(1917−1967) (宝塚音楽歌劇学校) お使いは自転車に乗って、 祖国の花
波平暁男(1915−1983) (東京音楽学校)    月夜船、勝利の日まで
近江俊郎(1918−1992) (武蔵野音楽学校)   明日もまた、勝利の日まで
灰田勝彦(1911−1982)  煌く星座、鈴懸の径
高田浩吉(1911−1998)  大江戸出世小唄、故郷の唄
田端義夫(1919−2013)  大利根月夜、シンガポールだより  
小畑 実(1923−1979)  勘太郎月夜唄,湯島の白梅
岡晴夫 (1916-1970)   上海の花売り娘、港シャンソン


(参考)
東京音楽学校  (現 東京藝術大学音楽学部)
東洋音楽学校 (現 東京音楽大学)
武蔵野音楽学校(現 武蔵野音楽大学)


271 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 22:37
3、追加
内田栄一(1901−1985) (東京音楽学校) 起てよ一億
中村淑子(1911− ) (東京音楽学校) 愛国行進曲、日の丸行進曲
伊藤武雄(1905-1987) ) (東京音楽学校) 愛馬進軍歌
酒井 弘(1914-1996)   (東京音楽学校) ああ紅の血は燃ゆる、働く力
波岡惣一郎(1910−1951) (東洋音楽学校)かちどきの歌、興亜行進曲、日の丸行進曲
永田絃次郎(1909−1985)  出征兵士を送る歌
大谷冽子(1919−2012)   (武蔵野音楽学校)ジャワのマンゴ売り
結城道子(1908−?)    (東京高等音楽学院)裏町人生
三島一声(1889-1974)  東京音頭
小笠原美都子(1920-)  十三夜
青葉笙子(1918-2012)    鴛鴦道中
川端文子(1916−2007) 上海リル、青空
三門順子(1915−1954)   愛国千人針
服部富子(1917−1981)   満州娘
江戸川蘭子(1913-1990) (日劇音楽舞踊学校)上海リル
小野 巡(1910−2009)    祖国の護り
塩まさる(1908-2003)    九段の母、
樋口静雄(1911−1973)  チンライぶし、緑の幌馬車、田園交響楽
赤坂小梅(1906−1992)   ほんとにそうなら、
豆千代(1912−2004)   夕日は落ちて
市丸(1906−1997)     天龍下れば、ちゃっきり節
音丸(1906―1976)     船頭可愛や、下田夜曲





272 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 22:50
>>269-271 昭和SP歌謡  主な歌手(戦前・戦中)

273 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/11(Wed) 23:07
古賀政男総合スレ 
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/

274 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:43
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268「中山晋平と「ゴンドラの唄」



275 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 16:58

《索 引》 

    (主なもの)>>256,
>>258,>>272,>>274

(その他もあり)

 検索法   >>257



276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
《索  引》 (参考・主なもの)>>275

>>2  影を慕いて
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>31 西條八十は
>>37 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>95 古賀政男アメリカへ
>>101 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147 古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149 関 種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216

続く・・

277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/12(Thu) 20:32
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
      日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268 中山晋平と「ゴンドラの唄」
>>269-271 昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中)

この他にもあります。



278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/13(Fri) 00:21
>>113(参考) 島田芳文詩集
>>115 民謡詩集


279 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 11:46
>>119 李香蘭の歌う古賀メロディ
>>140 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>149-151 関種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手


280 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/19(Thu) 12:00
>>144 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)



281 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/20(Fri) 10:18
昭和も遠くなりにけり、来年(2014年)は昭和89年にあたる。
こうした中、今テレビの若者歌番組などで頻繁に飛び交う言葉、それは、『名曲』と言う言葉です。その重い言葉が鴻毛のごとく、いとも軽々しく飛び交っている若者文化には違和感を覚えると供に困ったことではないでしょうか。
しかも、「昭和」といっても、60年以上ある。 60年以上ある「昭和」の末期、豊かな時代の真っ盛り、50年代以降になってしまったようだ。言葉は重要です、『昭和』ではなく、あきらかに『昭和末期の』と言い換えるべきだろう。

今から81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは昭和歌謡史に残る記念すべきビッグな企画を発表。ライバル・ビクター専属の看板作詞家・西条八十と、コロムビアの看板作曲家である古賀政男に、専属を超えて1年間コンビを組ませるというもの。この専属を超えた企画によって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。戦後に至るまで数多くの「名曲」を世に送り出すことになる黄金コンビは、ここにスタートする。


282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/22(Sun) 23:30
斎藤 憐 「ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西条八十」] 岩波書店 (2004/10/28)
唄を忘れたカナリアが、歌い続けて二千曲―「東京行進曲」「東京音頭」「サーカスの唄」「同期の桜」「青い山脈」「トンコ節」「王将」…純粋詩と流行歌、フランス文学科教授と株屋。天才か凡俗の巨人か、大きな振幅を描いた西条八十の生涯にからむ五人の男たち―野口雨情、中山晋平、サトウ・ハチロー、古賀政男、服部良一。名もなき人びとの哀感を歌い、時代と共に泣いた、「唄の伝記」―昭和への鎮魂歌。

西條/八十
明治25年(1892)年、東京・牛込生まれ。詩人・作詞家・フランス文学者。早大在学中から「早稲田文学」などに作品を発表、「未来」同人となる。大正7(1918)年、鈴木三重吉の「赤い鳥」創刊に参加、童謡「かなりあ」を発表。以後、北原白秋、野口雨情とならぶ大正期の代表的童謡詩人として、多くの童謡を発表した。翌年第一詩集「砂金」を刊行、大正9年、訳詩集「白孔雀」を刊行。大正10年、早大英文科講師となり、大正13年、ソルボンヌ大学に留学、帰国後早大仏文科助教授、昭和6(1931)年、教授に就任。また、流行歌から軍歌まで幅広い分野で作詞家としても活躍し、「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭」「サーカスの唄」(昭和8年)などがヒットした。戦後は早大を辞し、ランボーの研究に打ち込んだ。日本詩人クラブ初代理事長、日本音楽著作権協会会長など歴任。昭和45(1970)年没。


283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/23(Mon) 00:05
筒井 清忠「西條八十」 (中公文庫) 中央公論新社 (2008/12)

戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、第29回日本児童文学学会特別賞受賞。

西條八十の初めての本格的な評伝が本書だと言うのには驚いた。フランス文学の教授、詩人として出発し、作詞家として童謡「かなりあ」から「東京行進曲」、「東京音頭」、「愛染かつら」、「青い山脈」、「王将」等、戦前、戦後の多くのヒット曲を作った。その作詞のエピソードによると、いつも苦もなく言葉が浮かんでくるようで、まさに天性の詩人である。しかし、学界、詩壇は、、ランボー研究、詩人としての多大な業績を無視してきた。著者は、庶民の心情を詩として定着させた西條を「大衆化されたロマン主義」の中心人物としている。日本人が西條八十から受けた多大な恩をおもい出させてくれる優れた伝記である。
西條八十作詞、古賀政男作曲の数え切れないほどの歌謡曲、「東京音頭」をはじめとする日本各地のご当地民謡の数々は戦前、戦中育ちの我われの郷愁をそそる。
その一面、早稲田大学の文学部教授としてフランス文学を教えていたことは、余り知られていない。
フランス文学における学問的業績も、ただ大衆受けする歌の作詞者であるという一点においてのみ、学会からは無視された。しかし、西條は歌は一般大衆と共にありとの態度を貫いた。
沢山の歌謡曲、民謡、童謡の引用は懐かしくもあり、現代の散文的へたくそな作詞家と較べて、西條八十の作詞がいかに優れていたか、あらためて認識させられた。
しかし、詩壇における派閥の流れの詳細なる説明は、学問的には価値があるものなのだろうが、人間西條八十をしりたい読者にとっては、いささか退屈な側面である。


西條 八束 (著), 西條 八峯 (編集)「父・西條八十の横顔」風媒社 (2011/07)

西条 八十, 上田 信道 「名作童謡 西条八十100選」 春陽堂書店 (2005/09)




284 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/12/23(Mon) 07:11
「お蝶夫人」の唄
(昭和8年=1933、西条八十作詞、古賀政男作曲、ミス・コロムビア・歌)

おもうお方は 帰らぬ人か
旅のつばめは また来たに
恋の長崎 港の雨は
お蝶夫人の 涙雨

わたしゃ初恋心(おぼこ)の 日本娘
港育ちの 女郎花(おみなえし)
恋は気まぐれ 降るアメリカの
露に濡れたか 恥ずかしや

ねんねおころり 坊やの父(てて)は
青い目の人 ふねのひと
ねんねおころり 謳(うた)うたとても
声もとどかぬ 波の上

来るか来るかの 便りは来ずに
春の丸山 花が咲く
情け知らずの 入船出船
きょうも散る花 のせてゆく


戦後にいたるまで20曲以上ある「お蝶夫人」の歌のはじめとなる名曲。
同時に、東京音楽学校(研究科)をでたばかりのミス・コロムビア最初の古賀メロディでもある。
ミス・コロムビアの初々しい歌である。


285 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/03(Fri) 22:17
佐藤惣之助 かわさき区の宝物シート
ttp://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26355/31-4.pdf#search='%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%83%A3%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%93%E3%82%A2%E5%B0%82%E5%B1%9E'


286 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/09(Thu) 22:22
「サヨンの鐘」によせて―「サヨンの鐘」資料一斑―(十訂稿)
―日本統治下台湾警察史の一齣―
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/tatyoshi/sayun001.pdf#search='%E3%80%8C%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%90%98%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%9B%E3%81%A6'


287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/09(Thu) 23:03
4.歌でつづる大正・昭和日本の流行歌 上
上山敬三著 <767.8-Ka298n>  東京 早川書房 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和7年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

ttp://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/tmp/79.pdf#search='%E8%A5%BF%E6%A2%9D%E5%85%AB%E5%8D%81%E4%BD%9C%E8%A9%9E%2C%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7%E4%BD%9C%E6%9B%B2%2C%E6%98%AD%E5%92%8C1%EF%BC%99%E5%B9%B4'

国会図書館 第79回 常設展示
流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで―
平成9年3月25日〜4月25日


288 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/11(Sat) 14:35
なんだただの自慰スレか

289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 10:10
商業レコードの黎明期、その最初は新民謡『波浮の港』(昭和3年)であったように、歌謡曲(流行歌=レコード歌謡)は、「新民謡」から発展した。
そこに若き古賀政男が現れ、晋平の時代に新風を吹き込むこととなった。

これからは、何々「節」の時代ではなく「メロディー」の時代だと言っていた。
80年以上前から、古賀政男は歌謡において、これまで以上に「メロディー」の重要さを強調していた。

実際に,晋平(節)の時代から「古賀メロディ」の時代へ、ビクター時代からコロムビア時代へと流れが大きく変わってゆく。
そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。




290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:31
作曲家・古賀政男は、レコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで誕生した、26歳だった。

古賀政男のコロムビア専属第一作は1931年5月『乙女心』(関種子)♪朧月夜のその頃に・・ である。 今有る歌の殆どはまだ存在しなかった。

『乙女心』『窓に凭れて『日本橋から』『あけみの唄』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『青春図絵の唄』『朝顔の唄』『笛は冴ゆれど』『愛は紅い』『秘めたる恋』(関種子)、『キャンプ小唄』『スキーの唄』、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』(藤山一郎) 、『月の浜辺』(河原喜久恵)、『私此頃憂鬱よ』『アリランの唄』『春の唄』(淡谷のり子)・・

古賀政男は、デビューした最初の1年で記録的なヒットを飛ばし続け、歌謡界の寵児、コロムビアの顔となる。

支える歌手は、関種子、藤山一郎、河原喜久恵(以上、東京音楽学校)、淡谷のり子(東洋音楽学校)など音楽学校出身者。このうち関種子、藤山一郎は主席。そしてコロムビアで地歩を固めた古賀政男は、明大マンドリンクラブの同輩後輩などをコロムビアに呼び寄せます。

古賀政男の音楽は、洋楽を基本に、仏教音楽以来の日本の伝統音楽を含めて、ジプシーの音楽など世界のさまざまな音楽を学んで取り入れたもので、その後の歌にも影響を与えているといえます。

『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号。ハバネラタンゴのリズムが使われている。
『月の浜辺』・・・ セレナーデ風の佳曲。ジプシー音楽(ジプシー短音階)。


291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:42
タンゴと歌謡曲は戦前から密接な関係があったようで、歌謡曲の創世記に、ハバネラタンゴのリズムが使われた。古賀政男(「正男」)作曲、佐藤千夜子がビクターで吹込んだ《日本橋から》のリズムがそうである。
その後、関種子によって再録音(コロムビア)された。邦人歌曲においてタンゴのリズムが使われた最初の例であろう。

「日本橋から」以来、戦後にいたるまで歌謡曲では旋律に変化をあたえるリズムとして多用されるようになり、流行歌の発展には欠かせなくなりました。 
「赤い花」「銀座セレナーデ」「黒いパイプ」「夢去りぬ」「落葉しぐれ」・・、昭和22年東宝 『音楽五人男』挿入歌「バラ咲く小径」などがあげられる。

ジプシー音楽とハバネラが古賀メロディーの原点だった!ともいわれる所以だろう。



292 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:44
(参考)

「赤い花」    1934、飯田信夫作詞 松平 信博作曲   藤山一郎 
「夢去りぬ」   1939 奥山 靉作詞、服部良一作曲.   霧島昇
「銀座セレナーデ」1946 村雨まさを作詞、服部良一作曲  藤山一郎
「黒いパイプ」  1946 サトウ ハチロー作詞、服部良一作曲 二葉あき子
「バラ咲く小径」 1947 野村 俊夫作詞、古関裕而作曲  藤山一郎
「落葉しぐれ」  1953 吉川 静夫作詞、吉田正作曲   三浦洸一




293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 19:58
今から83年前、昭和6年(1931)が明けてまもなく、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から古賀政男に面会の申し入れがあった。

コロムビアの専属作曲家となって、『影を慕いて』のような作曲をしてほしいとのことであった。このとき古賀に破格な『印税』が支払われると言う条件でである。しかもまだ印税制度が一般的でなかった時代である。

昭和4年から昭和5年末にかけて、佐藤千夜子によって『文のかをり』(1930年3月発売)をはじめとして、『影を慕いて』(1931年1月発売)など7曲が吹き込まれた。

栄えあるレコード歌手第一号で、晋平の歌を世に広めた歌手、佐藤千夜子(ビクター)の力添えで、作曲家・古賀政男は誕生したといえる。この辺りのことは、NHK朝の連続テレビ小説、「いちばん星」(1977年(昭和52年)4月4日から10月1日)に描かれている。
ttp://www.youtube.com/watch?v=Vz_pa0HGiwU

古賀政男は、自伝【我が心の歌】で、佐藤千夜子について、私に作曲家の道を開いてくださった【終生の恩人】と書いている。



294 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/12(Sun) 20:33
81年前の、昭和8年(1933)1月早々、コロムビアは、ライバルであるビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表した。

これによって、関種子「去り行く影」を初めとして、松平晃「サーカスの唄」、ミス・コロムビア「『お蝶夫人』の唄」、淡谷のり子「来る来るサーカス」など多くの作品が生まれた。

昭和14年から、二人はコロムビア専属となり黄金コンビが復活、「誰か故郷を想わざる」「あの花この花」「春よいづこ」「熱砂の誓い」「紅い睡蓮」「サヨンの鐘」「麗人の歌」「三百六十五夜」・・
など戦後に至るまで、数え切れないほど沢山の「西條八十作詞・古賀政男作曲」の名曲を世に送り出すのです。



295 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/13(Mon) 22:53
今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989〉と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

今や、ラジオはテレビに変わり、歌番組なしにテレビはない状態だが、それは大正14年(1925)7月12日、現在NHK放送博物館のある東京港区・愛宕山の放送所で本放送が開始された。この時、海軍軍楽隊の演奏の後、中山晋平のピアノでうたった佐藤千夜子の歌(童謡5曲)がラジオ本放送の始まりだそうだ。佐藤千夜子はレコードだけでなくラジオで歌うようになる。

参考までに、佐藤千夜子の最初のレコードは、大正14年(1925) 内外蓄音器、「青い芒(すすき)」(野口雨情作詩、中山晋平作曲)、これは全国歌の旅の途中で録音したもので、ビクターで再録音されている。
なお、そのNHK本放送直後の7月28日に、長田幹彦原作のラジオドラマ「悲しき遍路」が放送された。佐藤千夜子出演で、NHKアーカイブスで聴くことが出来、現存する最古の公開ライブラリーとなってる。まさに「佐藤千夜子」は新しい時代のスターだったのだ。
佐藤はその中で、「悲しき遍路」(長田幹彦作詞、中山 晋平作曲)を歌っている。
「作曲家・古賀政男」は、この栄えあるレコード歌手第一号「佐藤千夜子」の力添えで誕生し、メジャーデビューしたといえる。



296 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/14(Tue) 14:51
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2

297 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/15(Wed) 12:22
佐藤千夜子は、日本初のレコード歌手で、NHK 朝の連続テレビ小説「いちばん星」のヒロインになった人です。

1920年(大正9年)、東京音楽学校(現 東京藝大)に入学し、若き作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀正男、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に、激動の時代を駆け抜けてゆきます。

菊池寛 原作の映画「東京行進曲」の主題歌(作詞 西条八十、作曲 中山晋平 ♪ 昔恋しい 銀座の柳…)や「波浮の港」の空前の大ヒットなど、かれらの活躍はめざましいものでした。


298 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/15(Wed) 12:50
天童公園愛宕沼の近くに顕彰碑があり、中2丁目の生家が復元され、民芸館として公開されている。(1 9 7 7 年佐藤千夜子顕彰碑建設会が記念碑を建立、)
ttp://tohoku-monogatari.org/spot/?lid=11102
ttp://www.geocities.jp/seppa06/0901/siryo.html


佐藤千夜子顕彰碑 天童市 舞鶴山公園
ひとは うれしいにつけ 悲しいにつけ歌を口ずさむ うたは 思い出とともに人の心に刻みこまれる 日本の大衆文化の黎明期を築き 歌謡歌手の嚆矢となった佐藤千夜子を われわれは忘れてはならないだろう 千夜子よ永遠なれ   「あゝ東京行進曲」著者 結城亮一

 1 9 7 7 年佐藤千夜子顕彰碑建設会建立 



299 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/20(Mon) 22:47
昭和3年、昭和の初め、人生の苦悩からはじまった「古賀メロディ」の歴史、若き古賀政男の人生の苦悩から生れた昭和流行歌(レコード歌謡)の最高傑作とされる「影を慕いて」。

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの叫びが込められているといわれる、時代を超えた日本の名曲である。この歌が作られるのは『波浮の港』と同じ昭和3年の夏といわれる。現在ある殆どすべての日本の歌謡はまだ存在していなかった時代。
そして、菊池寛原作、日本最初の映画主題歌である「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)が流行した昭和4年、6月22日、 佐藤千夜子を招いての明治大學マンドリン倶楽部定期演奏會初演(ギター合奏)。
昭和5年10月20日、佐藤千夜子は、ビクタースタジオで吹込み。大衆音楽の黎明期、まだ一学生演奏家に過ぎなかった無名の作家の作品。ビクター内では反対もあっただろう、しかし佐藤千夜子のすごいところは、反対を押し切る形での録音だったことだ。


この録音の8日後には佐藤千夜子は日本を離れるのだ。ちなみに『影を慕いて』は『日本橋から』のB面だった。この『影を慕いて』のレコードがビクターから発売されたのは、まだ古賀政男は作曲家になる前の昭和6年1月早々である。コロムビアは、放っておかなかった。

このレコードを浅草・鳥越の斉藤楽器店で発見した人物が、コロムビアの営業マンだった伊藤正憲だった。当然コロムビアはレコードの発売を待っていたはずで、偶然ではないだろう。

影を慕いて  古賀正男作詞  佐藤千夜子 1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介作詞  同     1931年1月 ビクター 51519

昭和6年(1931)が明けてまもなく、古賀政男(正男)は、明大マンドリン倶楽部を通じて、コロムビアの文芸部長米山正から面会の申し入れを受ける。>>170

そして古賀政男(正男)26歳は、昭和6年(1931)3月20日付けで、日本コロムビアの専属作曲家として迎えられる。



伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971




300 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/22(Wed) 15:30
☆古賀政男(正男)初期の作品(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)
 
初期古賀作品ビクター録音は,歌わせてほしいとの千夜子の熱望で実現、以下の7曲が昭和4年から翌5年10月にかけて吹き込まれた。

参考までに、最初に専属制度をはじめたのはビクターで、最初の専属は、西條八十、中山晋平、藤江義江、佐藤千夜子、藤本 二三吉、佐々紅華、時雨音羽、平井英子の8人だった。

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688  
以上は,作曲家になる前の作品  年月は発売年
*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作編曲・佐藤千夜子歌唱)  とカップリング

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作編
 曲・淡谷のり子歌)
・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作編曲・丸山和
 歌子歌)
・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作編曲・
 関種子歌)。

なお、『影を慕いて』『日本橋から』(井田一郎編曲)は、昭和7年3月、藤山一郎、関種子により再吹き込み。『片想い』は、昭和7年6月、『かた思い』として関種子 再吹き込み。

・コロムビア専属作曲家・古賀政男   専属最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村作詞 関種子 1931年6月 COL26275〈関種子専属第一作〉
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年6月 26275
キャンプ小唄  島田芳文  藤山一郎  1931年7月 26325 (藤山一郎第一作)
月の浜辺    島田芳文  河原喜久恵 1931年7月 26325

関種子、藤山一郎、河原喜久恵は東京音楽学校、関種子、藤山一郎は主席卒業(藤山一郎はまだ本科二年生でアルバイトだった。)天野喜久代は、日本橋高等女学校卒業、大正2年 帝劇歌劇部を経て、声楽は東京音楽学校で教えていたハンカ・ペツォールドにも師事しており、この時期に培った基礎が長い音楽生活を可能とした。二村定一とジャズ・ソングの名曲・『青空』など歌う。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼死したと伝えられている。


301 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 14:00
>>76
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html





302 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 19:21
【究極の】日本の歌こころの歌【癒し】

ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/healing/1113312511/


303 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 19:36
>>301
関種子

藤山一郎の影で、彼ほど知られていないが、藤山一郎とともに、忘れてはならない歌手に、東京音楽学校本科を首席で卒業し、ドイツリートの傍ら、初期の「古賀メロディ」を支えたクラッシックのソプラノ歌手・関種子がいる。
『乙女心』『窓に凭れて』『日本橋から』『青春図絵の唄(貞子の唄)』『博多小夜曲』『かた思い』『あけみの唄』『金色夜叉(お宮の唄)』『笛は冴ゆれど』『朝顔の唄』『秘めたる恋』『美わしの宵』『嘆きの夜曲』『去りゆく影』
『初恋の唄』『愛は紅い』『さらば上海』・・など多くの「古賀メロディ」を歌っている。

古賀政男がテイチクに移った後、1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍。


2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html



304 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/26(Sun) 20:32
古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。
藤山一郎・『影を慕いて』と同じ、昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲、關(関)種子さん歌唱です。

丁度、東北・東日本大震災(2012)の80年前に作られたものです。
このYou Tubeには、「東日本大震災から1年になり、心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。」とあります。

震災復興支援ソング『花は咲く』と言うのがあります。花を持った若手が大勢歌う。でも、あれっ!?て思うのは、「追悼」であるのに、そこに最初にあるべき《哀しみ》というのが無いこと、いかにも残念なことだと思います。

今や「童謡」選の中に「影を慕いて」など「古賀メロディ」が入っている。癒しという点でも日本の共有財産、「日本の歌」になっている。

80年も前に作られたこの「古賀メロディ」、その簡潔な短い詞の中に、「普遍性」をもって、この大災禍の嘆き・哀しみさえをも予言したかのように包含したかのように、時代を超えて、
80年も後に起こった災禍に追悼の気持ちをぴったり共有しているというのは驚きとしかいえません。

「古賀メロディ」ほど無駄の無い音楽も無いだろう。
また「哀しみ」を歌ったら右に出るものもない「古賀メロディ」。


時代を超えた普遍性を持つ、ここに「古賀メロディ」の「古賀メロディ」たる所以がある。



嘆きの夜曲 関種子.wmv
公開日: 2012/03/05
昭和7年(1932年)。西岡水朗作詞、古賀政男作曲。關(関)種子さん歌唱です。東日本大震災から1年になり心からの哀悼の気持ちをこめてアップさせていただきました。
なお背景の画像は津波被害のものが多いですので、衝撃を受けやすい方々はご遠慮ください。
背景の画像と曲は直接は関係がありません。古いレコードですので雑音が多いのかもしれません。画像はおもにグーグルの検索画像から引用させていただきました。
ttp://www.youtube.com/watch?v=giaWCvjmsoY&feature=endscreen&NR=1




305 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/30(Thu) 21:19
他スレですがこのスレの皆様の意見を。

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=sportcombative&key=391028124

306 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/01/31(Fri) 08:58
日本のタンゴ名唱集〜(戰前・戰後編)

ttp://saasuraai.at.webry.info/201210/article_19.html


307 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/04(Tue) 23:19
寺山修司の編著作の名著に「日本童謡集―青い目の人形から唐獅子牡丹まで」〈光文社カッパブックス1972、1995年復刻版〉と言う本がある。童謡の概念は子供の歌に限らない、その中には「影を慕いて」など沢山の古賀メロディの名曲が入っている。

寺山修司は、この本のまえがきで、「優れた「童謡」というものは、長い人生に二度現れる。一度目は子供時代歌として、二度目は大人になってからの歌としてである。」「人は子供時代を歌うことに依って、自らの現在地を確かめる。
「童謡」は大人の中によみがえることによって、はじめて人生の唄としての値打ちを獲得するのだ。」と。

また、童謡の価値は、子供時代に歌われた頻度によって決まるのではなく、大人時代の思い出された頻度によって決まるとも言っている。

80年を超える「童謡」も歌謡曲も、やはりすぐれた歌、年月に耐えた歌というものは、長い人生の中で繰り返し現れる。年を重ねるうちに、その短い詞の中にああこういうことなのかと、解釈や感じ方にも深みを増す。
映画に「主題歌」があるように、人生にも主題歌があるはずだという。

昭和が終わって平成の時代がはじまった平成元年(1989)に、忘れ去られつつある日本の
「うた」を日本全国の人々とともに掘り起こし、つぎの世代に伝える「文化遺産」として集大成して、記録にとどめようという趣旨のもとにNHKは、「日本の歌・ふるさとの歌 ベスト100曲」を選定、11月4日に放送。

唱歌・童謡が殆どである中に、「荒城の月」、「城ケ島の雨」、「波浮の港」、それに「影を慕いて」、時を越えた日本のスタンダ-ド、日本の歌・ふるさとの歌として、数多有る中で特にこの日本の名曲4曲だけがジャンルを超えて選ばれているのが印象的である。
ttp://www.geocities.jp/fujiskre/ka94.html

温かい家庭の和と憩いを夢見た古賀政男、養女に「おとうちゃん」と呼ばれて嬉しくて涙を流した。「明日に残す心に残るうた」・・、「赤い靴」など唱歌童謡の中に「影を慕いて」が含まれる。
HP・童謡新聞 「心の故郷」はこう報じている。




308 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 10:47
>>285

佐藤惣之助

かわさき区の宝物シート 31−4 NPO法人かわさき歴史ガイド協会
044-221-9117
■昭和51年(1976)、古江氏の提唱によって「川崎今昔会」が設立された。同会の主催で
毎年2回、5月の命日の「酔花忌」と12月の誕生日の「闇汁会」という惣之助を偲ぶ会合
が現在も開催されている。
■平成22年(2010)に、佐藤惣之助の生誕120周年を記念して、川崎今昔会と川崎区役所の
主催による「佐藤惣之助生誕120年記念展『華やかな散歩』」が開催された。
■郷土川崎をこよなく愛した詩人。大正から昭和初期にかけて活躍した佐藤惣之助は、代々川崎宿砂子の本陣職を務め、明治維新後は雑貨商「藤屋」に転じていた佐藤家の次男として明治23年(1890)12月3日に生まれる。東京麻布の商家に丁稚奉公に出ていた12歳の頃から俳句を始め、劇作を経て、詩作へと活動の中心が移った。大正5年(1916)、25歳で処女詩集『正義の兜』翌年には『狂へる歌』を出版、以後生涯にわたり22冊の詩集を刊行した。さらに随筆、句集、小説、釣書、戯曲など多才で自由闊達な創作活動にも身を投じた。川崎市からの委託による『川崎小唄』『川崎音頭』の作詞(昭和5年(1930))や高津区溝ノ口の国木田独歩の記念碑建立の発案(昭和9年(1934))など、川崎における文化活動へも大きく貢献している。
■昭和8年(1933)に初めて歌謡曲の作詞を手掛けると、翌年に『赤城の子守歌』が大ヒット。歌謡曲作家としても不動の地位を築き、『緑の地平線』『男の純情』『青い背広で』『人生劇場』などが次々とヒットした。      
有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。
■昭和15年(1940)、日本コロムビアの専属作詞家となって『湖畔の宿』『燃ゆる大空』などを手掛けたものの、2年後の昭和17年(1942)5月15日、過労から倒れ帰らぬ人となった。享年51歳。惣之助が作詞した歌謡曲の数は660編をこえるといわれている。
■惣之助は酒と釣りと旅もまたこよなく愛したと伝えられる。大正11年(1922)、31歳での初の沖縄・台湾旅行から、昭和10年(1935)頃までの間に満州・北支、朝鮮、上海・香港、広州、マカオなど旺盛にアジアへの巡遊の旅を楽しんだ。特に初めての沖縄への旅は、惣之助の人生にとって大きな意味をもった。沖縄本島を馬車で巡り、慶良間諸島では巫女の家に滞在し大いに学ぶべきものを得たという。
旅の成果は、詩集『琉球諸島風物詩集』『颶風の眼』や紀行文『蠅と蛍』などに結実し、伊波南哲など沖縄出身詩人が惣之助主宰の「詩の家」に出入りし親交を深めた。そして昭和元年(1926)、富士瓦斯紡績工場で働く女子工員など沖縄出身者が中心となって芸能大会が開かれた際に、惣之助が激励に駆けつけ、主催者一同大いに感激したという。
■この沖縄芸能は第二次大戦後「川崎沖縄芸能研究会」の結成へと発展し、昭和29年(1954)には神奈川県の無形文化財に指定されたのであるが、他県由来の伝統芸能の指定に尽力したのが、当時川崎市教育委員会に在職していた古江亮仁氏(故人)であった。翌昭和30年、惣之助の詩碑の建立の話が進められた時に、古江氏は偶然にも故郷の先人・佐藤惣之助の沖縄への深い関心と愛情をはじめて知ることとなり、驚きとともに深い感銘を受けたという。そしてすぐに、川崎市民の名で惣之助の詩碑を沖縄に贈呈建立することを発案した。現在、惣之助がかつて漁船で巡った島々を遙かに望む那覇市首里城の景勝地には、琉球諸島風物詩集の中の一編『宵夏』の詩碑が建っている。
■現在、区内には佐藤惣之助の詩碑が3箇所に置かれている。川崎市体育館前の碑は、昭和30年(1955)武者小路実篤に『華やかな散歩』の一節を揮毫してもらい建立したもの。佐藤本陣跡の向かい・川崎信用金庫前には昭和54年(1979)に生誕の地記念碑が建てられ円鍔勝三氏による彫像と嗣子・佐藤沙羅夫氏による揮毫の『青い背広で』の詩が刻まれる。また、惣之助が幼い頃、山王祭りの日に横浜から遊びにくる親類の女の児への想いを綴った『祭りの日』の碑は稲毛神社境内に建つ。幼い客こそは後の花枝夫人であり、惣之助夫妻生誕100年を記念して昭和62年(1987)に建立されたものである。
■市立川崎小学校の校門脇に同校の出身である佐藤惣之助、坂本九の功績を記した看板が設置され、平成17年(2005)3月8日に除幕式が行われた。__


309 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 14:13
>>308

有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。


310 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/05(Wed) 14:15
■昭和15年(1940)、日本コロムビアの専属作詞家となって『湖畔の宿』『燃ゆる大空』などを手掛けたものの、2年後の昭和17年(1942)5月15日、過労から倒れ帰らぬ人となった。享年51歳。惣之助が作詞した歌謡曲の数は660編をこえるといわれている。

311 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/06(Thu) 10:52
>>309

参考
>有名な阪神球団歌『六甲颪』は、昭和11年(1936)に『大阪タイガースの歌』としてつくられたが、広く愛唱されるようになったのは昭和40年代半ば以降のことである。


『六甲颪』(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。

1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』朝日放送アナウンサー



312 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/06(Thu) 10:57
>>308
佐藤惣之助

かわさき区の宝物シート 31−4 NPO法人かわさき歴史ガイド協会
ttp://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26355/31-4.pdf#search='%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%83%A3%E4%B9%8B%E5%8A%A9%E3%80%8166%EF%BC%90%E6%9B%B2

313 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/09(Sun) 22:19
古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜 [16CD]
ttp://artist.cdjournal.com/d/-/3198052509
規格品番: COCA-15216〜31
発売日: 1998/07/18


314 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/13(Thu) 15:45
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
もーだめだー
http://www.10ch.tv/bbs/occult/

315 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/13(Thu) 19:31
占い・心理テストBBSの荒らし報告スレ消えろ
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=occult&key=392251418

27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/13(Thu) 18:42
このスレ面白いな、馬鹿を証明していて。
スレを立てて、1分刻みのような立て続けの時間で書き込みをしている。
それもわざわざ複数の人物が書き込んでるいるかの自演で。
馬鹿の象徴だな。

316 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/13(Thu) 20:25
西條八十全集 生誕100年 [16CD]
ttp://artist.cdjournal.com/d/-/1193010669

·レーベル: CO
·規格品番: COCA-10026〜41
·価格: 48,544 円 (+税)
·発売日: 1992/10/01

童謡から新民謡、歌謡曲までを手がけた詩人・西條八十生誕100年記念の全集です。日本コロムビア、ビクター、キング、ポリドールなどのオリジナル音源を収録し、ハナ自身による詩の朗読や古賀政男、古関裕而との対談まで収録した文字通りの全集です。昭和の歌謡曲を作った中山晋平、古賀政男、古関裕而、服部良一らとのコンビによる作品集も編まれている。昭和の戦前・戦中・戦後を色どった歌の多くが西條八十の詞であった。時代の気分を反映した歌謡曲の詞を書いただけに批判される面もあるが、昭和の唄そのものであることは間違いない。付録のブックレットは八十資料としても貴重な内容。昭和を生きた日本人の心を洗う唄ばかりです。


[Disc 1]〈童謡編〉
[Disc 2]〈歌曲編〉
[Disc 3]〈外国曲編〉
[Disc 4]〈新民謡編〜中山晋平作品集〉
[Disc 5]〈歌謡曲編(1)〜中山晋平作品集〉
[Disc 6]〈歌謡曲編(2)〉
[Disc 7]〈歌謡曲編(3)〉
[Disc 8]〈歌謡曲編(4)〉
[Disc 9] (歌謡曲編(5)〜古賀政男作品集1〉
[Disc 10]〈歌謡曲編(6)〜古賀政男作品集2〉
[Disc 11]〈歌謡曲編(7)〜古賀政男作品集3〉
[Disc 12]〈歌謡曲編(8)〜古関裕而作品集〉
[Disc 13]〈歌謡曲編(9)〜服部良一作品集〉
[Disc 14]〈歌謡曲編(10)〉
[Disc 15]〈歌謡曲編(11)〉
[Disc 16]〈詩人の声〉〈朗読〉



317 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/13(Thu) 21:00
>>316

[Disc 16]〈詩人の声〉〈朗読〉
01はじめの詩
02奈良の一夜
03母の部屋
04哀唱 (歌:奈良光枝)
05関東大震災の一夜
06汽車の窓にて
07終戦の詩:ねずみとり〜秋風
08おわりの詩
〈回想〉
09「かなりや」について
〈対談〉
10サーカスの唄 (対談:古賀政男)
11ゲイシャ・ワルツ (対談:古賀政男)
12誰か故郷を想わざる(対談:古賀政男)
13旅役者の唄 (対談:古賀政男)
14伊豆の佐太郎 (対談:古賀政男)
15若鷲の歌 (対談:古関裕而)
〈お話〉
16ベルリン・オリンピックみやげ話



318 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/17(Mon) 09:31
西條八十は、わが国最初の芸術童謡「かなりあ」にはじまる数多くの童謡、「東京行進曲」「同期の桜」「青い山脈」「王将」ほか歌い継がれる流行歌など、生涯の作詞数は数知れない。研究者によると、童謡八五四篇(うち訳詞六十三篇)流行歌三千二百曲、校歌・社歌七百以上、計一万五千曲にのぼる。

歌謡分野では、特に長い歴史をもつ古賀政男とのコンビは黄金コンビと言われ、多くの作品を放つことで知られる。


319 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/17(Mon) 16:58
ttp://www.geocities.jp/jose_yacopi1977/2007_12_07malgorzata.htm

320 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/18(Tue) 12:59
佐藤惣之助    〜歌謡曲普及の功労者〜 >>312

古賀メロディーの作詞家を調べてみて驚くのは、名曲と言われる歌に「佐藤惣之助・作詞」というのがなんと多かったことか。古賀メロディーのヒットは、西條八十とともに、佐藤惣之助の日本人の心に訴える名詞があったことを否定できません。
昭和の日本人の古き良き哀歓を謳いあげ、今も延延と根強く愛唱されています。
一般庶民の生活を題材とした詞によって、歌謡曲を身近な音楽として大衆に普及させた功績は大きいです。

   藤山一郎・・・・「男の純情」 「青春日記」 「青い背広で」      
   ディックミネ・・・「人生の並木路」          
   霧島 昇・・・・ 「新妻鏡」
   楠木繁夫・・・・ 「緑の地平線」      
   村田英雄・・・・「人生劇場」                

72年前、太平洋戦争が始まって5ヶ月ほどした昭和17年5月15日(1942)、 佐藤惣之助(51歳)が、外出先の東京都大田区雪谷で、脳溢血のため亡くなりました。 2日前に義兄の萩原朔太郎の告別式があり、 佐藤はそこで葬儀委員長をやったというので、その時はまだ元気だったはずです。
佐藤惣之助 (1890〜1942) 詩人。神奈川県生まれ。民衆詩派系の人道主義詩人として出発
大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる

ttp://designroomrune.com/magome/daypage/05/0515.html
ttp://touyoko-ensen.com/syasen/tudukiku/ht-txt/tudukiku21.html




321 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/18(Tue) 20:42
                        巛 ヽ.
                         + 〒ー| イャッホォォォオゥ!!
                            |  |
   ■■■        ■■■       +/ /   ■■■■■■■■
    ■■       /⌒ヽ     ∧_∧/ /     _  ∩        ■■
    ■■⊂二二二( ^ω^)二⊃.(´∀`_/ /.     ( ゚∀゚)彡       ■■
     ■■      |   ./..   ,-r、,r/」  f  |||.  (  ⊂彡        ■■
     ■■      ■■   /_ュヘ〈|7  | .*     |   |        ■■
      ■■     ■■   〈_}ノ :   |..  .+   し ⌒J ■■■■■
      ■■    ■■     く/ ヽ__,」 +      ■■
       ■■   ■■     /  ,ヘ   |        ■■  
       ■■  ■■      /  / |. .|        ■■  
        ■■ ■■     (   〈  |  .|.       ■■
        ■■■■      \ \.|  .|         ■■
         .■■■         \ノ |_,,|      ■■■■
                   +   |__ノ|  ) 
                    |i |   |__,/ |||

322 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/18(Tue) 23:21
>>320

藤山一郎・・・・「男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」「青春の謝肉祭」「さらば青春」「青春旅情」「大洋の寵児」「旅の鴎」「聖処女(きよおとめ)の唄」「働こうぜ友よ」   
井上静雄(藤山一郎)・・「鳩笛を吹く女の唄」
関種子・・・・・「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
淡谷のり子・・・「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
長谷川一郎・・・「放浪の唄」              
楠木繁夫・・・・「国境を越えて」「白い椿の唄」「緑の地平線」「人生劇場」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」「男のまごころ」「護れ国境」「丹下左膳の唄」「明けゆく蒙古」「カボチャの歌」       
ディックミネ・・「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」 「波止場がらす」、   
丸山和歌子・・・「月夜の恋」
松島詩子・・・・ 「思い出の雪」
中野忠晴・・・・「武雄の唄」
音丸・・・・・・「会津磐梯山」(日本民謡)
奥田瑛子・・・・「緑の月」「浜辺の哀唱」
霧島 昇・・・・「新妻鏡」  
伊藤久男・・・・「海の豪族」「馬」
酒井弘・・・・・「働く力」(国民皆労の歌)



323 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/18(Tue) 23:25
☆八十と惣之助
  
大正期の詩人として、西条八十(1892 - 1968)と佐藤惣之助(1890 -1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。
ひとつは、詩のうまさ。
もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあ らず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家とし て名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。

上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)


324 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/20(Thu) 13:39
☆日本の代表的な作詞家・

故人では、日本の代表的な作詞家で、生前、優れた作品を残した作詞家をご紹介してまいります。
 
  ttp://www.sakushi.com/n_sakka/

 野口雨情、北原白秋、長田幹彦、佐藤惣之助、西条八十・・(年齢順)


325 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/20(Thu) 20:25
>>276-280 《索  引》 (参考・主なもの)>>275

>>281 昭和も遠くなりにけり、来年(2014年)は昭和89年にあたる。
>>282-286西條/八十
>>287 歌でつづる大正・昭和日本の流行歌 上
>>289 そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
>>290-292 『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号
>>294 ビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表した。
>>295-299 佐藤千夜子
>>300 古賀政男(正男)初期の作品(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)
>>303 関種子
>>304 古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。
>>307「日本童謡集―青い目  [16CD]
>>320 佐藤惣之助 〜歌謡曲普及の功労者〜 >>312
>>322 佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲の曲 
>>323 八十と惣之助
>>324 日本の代表的な作詞家・


326 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/24(Mon) 10:53
☆コロムビア創立百周年記念 古賀政男名曲大全集 

CD D6160 GES31911-20
CD10枚組・全200曲収録・別冊歌詞集付

●制作:コロムビアミュージックエンタテインメント(株)
●音源協力:(株)テイチクエンタテインメント
 (株)徳間ジャパンコミュニケーションズ
●制作協力:(財)古賀政男音楽文化振興財団
●発売 2009年11月17日
ttp://shop.columbia.jp/pickup/kogamasao.html

2010年、コロムビアミュージックエンタテインメントは創立100周年を迎えますその記念企画の一つとして今回ご案内いたしますのが、コロムビアの“顔”であり、昭和歌謡史上最大の巨人、古賀政男の作品全集です。

5000曲ともいわれる“古賀メロディー”の膨大な作品の中から、コロムビア音源を中心に選びに選び抜かれた究極の名曲・全200曲。




327 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/24(Mon) 14:34
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
《索  引》 (参考・主なもの)>>275>>325

>>2-3  影を慕いて
>>4 丘を越えて他
>>5-10 昭和7年から8年にかけて
>>11 昭和7年から8年にかけて
>>13-16 「人生の並木路」
>>18-19 愛染かつら メロドラマ他
>>20 乙女心 (鹿山鴬村作詞、古賀政男作曲 関種子)
月の浜辺(島田芳文作詞、古賀政男作曲、河原喜久恵)
>>21 「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>22 人生の並木路
>>23 古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
>>24-26 昭和14年(1939)、内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。
>>27 目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
>>29-30 誰か故郷を想わざる
>>31-34 西條八十は
>>32 戦後創早期の歌から・・
>>35 西條八十という人は単に詩人にとどまらず
>>36 白 い 椿 の 唄 (作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 )(昭和10年)
>>37-45 詩人・佐藤惣之助は
>>46 「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
>>47 最近、歌番組で「名曲」という言葉が頻繁に飛ぶ。「昭和の名曲」というのは、
>>48-54 以前NHK育テレビで『大希林』というのがあって、「人生の並木路」
>>55-59 藤山一郎他
>>60-62 故郷の白百合他 サトウハチロー作詞
>>63-65 霧島昇他
>>66 あけみの唄 昭和7年(1932年)
>>67 西條八十 参考書
>>68-79 昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、
>>80 松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)
>>81-94 HKまたたび日記 〜☆きよ友何人できるかな☆ 『人生の並木路』。その他。
>>95 古賀政男アメリカへ
>>99-100 毎日新聞社「写真 昭和30年史」には


328 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/24(Mon) 14:36
その2
>>101-103 日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
>>106-111 古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。
>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>113(参考) 島田芳文詩集
>>114 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>115 民謡詩集
>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>118 李香蘭と古賀メロディ
>>119 李香蘭の歌う古賀メロディ
>>120 古賀メロディと霧島昇
>>121 古賀政男と「荒城の月」
>>122-123 「荒城の月」について
>>124 三浦環と古賀政男
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>133-148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>134 昭和戦前の作曲家
>>135 昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
>>136 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>138 「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>140 古賀メロディと藤山一郎
>>140 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>143 テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
>>144 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>145 テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147 古賀メロディと霧島昇
>>148 古賀政男 二つの「思い出の記」
>>149-151 関種子と「古賀メロディ」2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
>>152 「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
>>153 佐藤千夜子と古賀政男
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>158 詩人・サトウハチローと古賀メロディ
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>161 サトウハチローと「童謡」
>>164 佐藤惣之助没後70年
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>166 「古賀政男音楽博物館」
>>167 古賀メロディの戦後
>>168-169 戦後の主な古賀メロディ・・
>>170 萩原朔太郎と古賀メロディ
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>173 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
>>174 詩人・佐藤惣之助
>>175 古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
>>176 古賀政男編曲作品
>>177 二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
>>178 古賀メロディを支えた主な名歌手たち
>>179 「古賀政男」のドラマ
>>180 「古賀メロディ」と、その秘密
>>181 古賀メロデー)とは
>>183 藤山一郎と増永丈夫
>>185 「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
>>186 詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
>>188 古賀政男生誕100年記念CD
>>190 嘆きの夜曲 関種子.wmv
>>191 SPレコード歌謡とSPレコード
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
>>196 古賀メロディとその時代
>>198-201 新妻鏡


329 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/24(Mon) 14:36
その3
>>202 松平晃 サーカスの唄
>>205 ビクター専属藤山一郎への対抗
>>106-111 古関祐而と古賀政男
>>215-216
>>219-220 古賀政男と女流歌人・原阿佐緒 ー「あけみの唄」(新興キネマ『佳人よ何処へ』)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>227-232 昭和のSPレコード歌謡、それは「三分間の芸術」ともいわれる。
>>233 書籍名『東アジア流行歌アワー――越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)
>>234 日本の歌謡界に偉大な足跡を残した国民的大作曲家古賀政男
>>235-242 戦中戦後における童謡について(童謡排斥運動と童謡協会の発足)
>>243-245 CD全集 西條八十、古賀政男、藤山一郎等
>>246-247 日本流行歌史・戦前編
      日本歌謡集−明治・大正・昭和の流行歌
>>251-255 テイチク50年史・・
>>259-264「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」
>>265-268 中山晋平と「ゴンドラの唄」
>>269-271 昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中)
>>281 昭和も遠くなりにけり、来年(2014年)は昭和89年にあたる。
>>282-286西條/八十
>>287 歌でつづる大正・昭和日本の流行歌 上
>>289 そして、古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
>>290-292 『日本橋から』・・ 和製タンゴ第1号
>>294 ビクター専属の看板作詞家・西條八十と、コロムビアの看板作曲家・古賀政男に、1    年間、専属を超えてコンビを組ませるという、昭和歌謡史に残る企画を発表した。
>>295-299 佐藤千夜子
>>300 古賀政男(正男)初期の作品(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)
>>303 関種子
>>304 古賀メロディの佳曲・『嘆きの夜曲』がある。
>>306 日本のタンゴ名唱集〜(戰前・戰後編)
>>307「日本童謡集―青い目の人形
>>308-312 佐藤惣之助
>>313 古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜 [16CD] ※
>>316-318 西條八十全集 生誕100年  [16CD] ※
>>320 佐藤惣之助 〜歌謡曲普及の功労者〜 >>312
>>322 佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲の曲 
>>323 八十と惣之助
>>324 日本の代表的な作詞家・
>>326 コロムビア創立百周年記念 古賀政男名曲大全集 (CD10枚) ※



330 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/26(Wed) 23:33
演奏家 古賀政男のすべて(10CD)
ttp://shop.columbia.jp/goods/?page=D4780CD D4780 GES-31701-10
2008年9月8日発売
古賀政男、本人自らが奏で歌う名演の数々!
『元祖 エンターテナー』による初のCD-BOX集!!

「明治大学マンドリン倶楽部大全集」に続く、古賀政男没後30年追悼第2弾!

演奏家としても多彩な才能を発揮し、数多くの録音を残した古賀政男。その古賀氏自らの演奏によるコロムビア音源の中から、選りすぐりの名演を集めた初のCD-BOXです。(通信販売のみの発売となります。一般店での発売はありません。)


331 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/26(Wed) 23:38
☆古賀政男作品主なCD

>>188
『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・下)』(各20曲)
 テイチクTECE 2445925460 (CD2枚)テイチク作品
>>313   『古賀政男大全集〜二十世紀の遺産〜』 [16CD]
>>316-318 『西條八十全集 生誕100年』  [16CD] (内古賀作品3CD)
>>326   『コロムビア創立百周年記念 古賀政男名曲大全集』 (10CD)
>>330  『演奏家 古賀政男のすべて』(10CD)


332 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/27(Thu) 18:26

                          _,,t-‐‐-、,-‐‐-、
                     三'::::::............... .....::::::`y,.
                     ナ::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::ヾ
              | ̄|   V::::::::::::::::_{{ ({∫∬ノノjヾ:::::{
           | ̄| | ̄|   ナ::::::::::::::i`__,,,,,,,ァ_  _,,,,,_ t;;:ヌ
           |  | |  |  イヘ::::::(ヾ~!,ャt、 !'''i ィtン )=f }f
           |  | |  |  i {t)テ" ヘ' '___,イ ヽ_/ 介'
           |  | |  | _,rヘ_,j|!'     /ー--''!     |'   <真のオタクをなめんじゃねぇ!!
           |,.ィ―'''' ̄ /| |       /二ク     !
           /;;:::'';;::''::;;:/ { ! 、     ヾニン   ノ\
            /'''::::;r|''':::;;;|  | ! \       _,,./|::;;'''\
        /:;;/ |;;;''::;;|   丶\  `__>-ー´   !;;;:'''::iヽ、
          i/   |'::;;;;''|      三 ―''"       !''::;;;;| /ヽ
        /⌒ヽ  |;;''':::;|       \            !;;::''|/  i
         /     \{'';;;::''}          ̄二ニ=    !::;;|   |
        /ヘ     |;;:::::;{            ‐-      !/   |
        /  i     |:::;;;''!             ー       !  / |
     /   l     |;;'';イ                   }   {、
     〉、      ∧テ{ ヽ  _   _,,,,;;;;;:::-==ニ;;;_   ノ __,イ´
      / \_    //レ!      ̄           ̄ { ̄  |
    /    `ー::v'´/ | i                     i    |
    i       / ̄   | |                     i、  |
    i       /    ||                         ヽ  |


333 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/28(Fri) 08:12
>>322
他に、
李香蘭(北京の子守唄1941)
由利あけみ(愛国六人娘)
松原操(勤労乙女)
糸井しだれ(おもいでの都)
藤山一郎(勇敢なる航空兵、山内中尉の母)
などがある。


334 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/02/28(Fri) 12:46
>>322
佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品


藤山一郎・・・・「男の純情」「青春日記」「青い背広で」「東京娘」「さらば青春」「白薔薇は咲けど」「青春の謝肉祭」「青春旅情」「大洋の寵児」「旅の鴎」「聖処女(きよおとめ)の唄」「働こうぜ友よ」「勇敢なる航空兵」、「山内中尉の母」    
井上静雄(藤山一郎)・・「鳩笛を吹く女の唄」
関種子・・・・・「笛は冴ゆれど」「朝顔の唄」「金色夜叉(お宮の唄)」「秘めたる恋」「愛は紅い」
淡谷のり子・・・「アリランの唄」「不如帰」「春の唄」
長谷川一郎・・・「放浪の唄」              
楠木繁夫・・・・「国境を越えて」「白い椿の唄」「緑の地平線」「人生劇場」「慈悲心鳥の唄」「真実一路の唄」「男のまごころ」「護れ国境」「丹下左膳の唄」「明けゆく蒙古」「カボチャの歌」       
ディックミネ・・「人生の並木路」「愛の小窓」「ゆかりの唄」「白衣の佳人の唄」「黄河の月」 「波止場がらす」、   
丸山和歌子・・・「月夜の恋」
松島詩子・・・・ 「思い出の雪」
中野忠晴・・・・「武雄の唄」
音丸・・・・・ 「会津磐梯山」(日本民謡)
奥田瑛子・・・・「緑の月」「浜辺の哀唱」
霧島 昇・・・・「新妻鏡」  
松原操・・・・・「勤労乙女」
李香蘭・・・・・「北京の子守唄」
由利あけみ・・・ [愛国六人娘]
伊藤久男・・・・「海の豪族」「馬」
糸井しだれ・・・「おもいでの都」
酒井弘・・・・・「働く力」(国民合唱・国民皆労の歌)



335 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/01(Sat) 14:45
>>334

中野忠晴・・・逢いに来るなら


「白衣(びゃくえ)の佳人の唄」



336 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/01(Sat) 14:46
☆戦前の流行歌

ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



337 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/01(Sat) 17:14
嵐の島(関 種子 西條八十作詞 古賀政男作曲)1933.2

338 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/01(Sat) 17:14
>>138-139

嵐の島(西条八十作詞 古賀政男作曲)1933.2


339 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/10(Mon) 09:47
>>338, >>138-139


関 種子

「曙に唄う」 (太田哲城作詞、 古賀政男作曲) 27121A 昭和7年11月 コロムビア 黒盤
「処女よさらば」 (西条八十作詞 古賀政男作曲)27507B 昭和8年9月 コロムビア 黒盤 松竹『嫁入り前』
「南海小唄」 (島田芳文作詞 古賀政男作曲) 26661B 昭和7年1月 コロムビア 黒盤
[嵐の島] (西条八十作詞 古賀政男作曲)1933.2



340 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/10(Mon) 22:03
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#1


341 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/11(Tue) 21:33
>>138-139
☆関 種子と「古賀メロディ」

初期の「古賀メロディ」を支えた歌手・関 種子、ドイツリートのソプラノ歌手のかたわら「古賀メロディ」を中心に、数多くの名曲を 残している。

乙女心    (鹿山鶯村作詞, 古賀政男作曲) 1931.6
青春図絵の唄(貞子の唄)(菊池寛作詩、古賀政男作曲)1931.11
窓に凭れて  (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931.12
美わしの宵   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1932.1
南海小唄 (島田芳文作詞 古賀政男作曲) 1932.1
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.2
日本橋から  (浜田広介作詩、 古賀政男作曲)  1932.3
秘めたる恋  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.3
さらば上海  (時雨音羽作詞、 古賀政男作曲) 1932.4
あけみの歌   (原阿佐緒作詞、 古賀政男作曲) 1932.5
朝顔の唄    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932.6
笛は冴ゆれど  (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.7
嘆きの夜曲   (西岡水朗作詩、 古賀政男作曲) 1932.7
曙に唄う (太田哲城作詞、 古賀政男作曲) 1932.7
愛は紅い    (佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲) 1932.9
去りゆく影  (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.1
嵐の島 (西條八十作詞, 古賀政男作曲) 1933.2
初恋の唄   (西條八十作詩、 古賀政男作曲) 1933.3
旭川小唄(新民謡)(波多野勝作詞 古賀政男作曲)1933.3
処女よさらば (西條八十作詞, 古賀政男作曲)1933.9


乳姉妹の唄   (佐藤惣之助作詩、佐々江華作曲)1932.6
夢に泣く    (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1934.2
流れの乙女   (佐藤惣之助作詩、竹岡信幸作曲) 1934.12
雨に咲く花   (高橋掬太郎作詩、池田不二男作曲) 1935
野薔薇の歌  (佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲 1936国民歌謡
明日なき恋  (島田芳文作詩、 江口夜詩作曲) 1937
初恋の丘   (藤田まさと作詩、長津義司作曲) 1937.5
千人針 (サトウハチロー作詞、 長津義司作曲) 1938

・関種子
 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%A8%AE%E5%AD%90






342 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/03/12(Wed) 10:09
>>327-329

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>327-329, >>330,>>331



343 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/07(Mon) 07:24
>>327-329

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=35

344 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/07(Mon) 07:47
山田耕筰は、「日本の代表的な歌」として、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し、外国に紹介していた。

345 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/08(Tue) 21:50
☆農村婦人の唄 山田耕筰・古賀政男作曲■コロムビアレコード 昭和7年
ttp://www.garitto.com/product/14389470
山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌。

桑田登志子作詞 山田耕筰作曲 オリオンコール女声合唱団 0709 COL27067
北部善良作詞  古賀政男作曲 淡谷のり子        0710 COL27067
 


346 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/13(Sun) 08:06
ttp://www.jrps.org/chiba/local/kaiho1/chiba53-1.html

2.山本 英子  歌唱
   「千曲川旅情の歌」(広田 龍太郎作曲)
   ピアノ伴奏 宇佐見 幸子
4.宇佐見 幸子  ピアノ演奏
   「春の歌」(メンデルスゾーン作曲)
   「ワルツ 69の1」(ショパン作曲)
5.伊藤 勲  ギター演奏
   「荒城の月変奏曲」(瀧 錬太郎作曲)
   「我が心のアランフェス」(ロドリーゴ作曲)
12.伊藤 和子  琴演奏
   「六段の調べ」(八橋 検校作曲)
   「千鳥の曲」(吉澤 検校作曲)
13.中野 早苗  歌唱
   「影を慕いて」(古賀 政男作曲)
   ギター伴奏 伊藤 勲


347 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/13(Sun) 08:23
>>346
★♪ 第4回ダブルレインボー音楽会 ♪
ttp://www.jrps.org/chiba/local/kaiho1/chiba53-1.html



348 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/21(Mon) 07:53
専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式。28歳の時である。
相手は松竹少女歌劇スター、コロンビア専属歌手だった中村千代子。だが結婚は一年も続かなかった。翌、昭和8年10月離婚。離婚については、古賀は多くを語らない。それから一生古賀が結婚することはなかった。

この一連のごたごたで体調を崩して肺浸透で入院、伊東温泉に別荘を借りて転地療養。古賀政男がスランプで作曲を停滞させたのは長い作曲家人生でただこの期間だけだった。
その間、帝国蓄音機と言う小さなできたばかりの会社の社長南口重太郎氏の見舞いを受ける。この間、コロムビアの冷たい対応で、古賀は昭和8年5月1日、コロムビアを退社。だが、コロムビアは契約をたてに、退社を受け入れなかった。

この争いに救いの手を差し伸べたのが弘田龍太郎だった。
契約条件をはるかに超える作品を作っているという言い分が通って解決。

そして、昭和8年5月15日、古賀政男はテイチク入社、専務取締役としてである。南口社長は、古賀に重役待遇で,レコード企画と吹き込みにつき、一切の権限と責任を持つと言う破格の条件を示して熱心に招請していたのだった。


349 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/21(Mon) 08:00
そして古賀は、銀座にテイチク東京文芸部、通称古賀文芸部を発足させ明大マンドリンクラブの後輩7人を呼び寄せ、11年にはビクターとの3年契約の終えた藤山一郎を呼び寄せる。ここに、世にいう「テイチク黄金時代」(古賀政男第二期黄金時代)が始まる。

山田耕筰は、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し「日本の代表的な歌」として紹介していた。

なお、中村千代子との結婚の前、昭和7年6月には、山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌「農村婦人の唄」である。>>345

その後、昭和13年,古賀政男はテイチクを退社。1年間の「外務省音楽文化親善使節」として、アメリカや南米各地を回り、世界の古賀として凱旋、昭和14年にコロムビアに復帰。

コロムビアに移籍していた西條八十との黄金コンビも復活。古賀政男第三期黄金時代を築く。

弘田龍太郎は、国民合唱・陸海軍礼式歌「いさおを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲。楠木繁夫・松原操歌。1944年10月・日畜=コロムビア)の編曲を行っている。




350 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/21(Mon) 08:04
古賀政男ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない、同時に古賀政男ほど映画主題歌の多い作曲家もいない。

他社をはるかに引き離した数の映画主題歌を出したのが、テイチクレコードだった。

昭和12年の、各社の曲数を並べてみると、テイチクの半端じゃない圧倒的な強さが判ってくる。テイチクの発展ぶりは数ばかりでなく、70年たった今でも、よく知られているヒット主題歌が多いことからも納得できる。

12年に出たテイチクの主題歌90曲のうち、古賀政男の作曲が43曲もあり、約半数を占めていた。 昭和9年に古賀政男がBクラスだったテイチクに招聘され、その後急速に業績が伸ばした救世主の由縁が、この作曲数でもよく判る。

「古賀メロディ」は、映画と言う人々に馴染み深いものを通じて多くの人に愛されたのだ。

各社別 昭和12年 映画主題歌数
テイチク    90曲     
ポリドール  49曲     
コロムビア   44曲        
ビクター   41曲      
キング    21曲
タイヘイ  19曲
その他   27曲
 
昭和12年 テイチク歌手別 映画主題歌数
デックミネ      16曲      
美ち奴     15曲      
藤山一郎    14曲   
楠木繁夫    14曲     
奥田英子    13曲
杉 狂児     8曲
その他     10曲


☆「日活 検事とその妹」  主題歌「人生の並木路・デックミネ」(佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲)
☆「日活 検事とその妹」  挿入歌「聖処女(きよおとめ)の唄・藤山一郎」(佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲)
☆「日活 うちの女房にゃ髭がある」主題歌「左同・美ち奴、杉狂児」(星野貞志作詞・古賀政男作曲)
☆「日活 うちの女房にゃ髭がある」主題歌「ああそれなのに・美ち奴」(詩曲とも同上)
☆「日活 銃後の赤誠」   主題歌「軍国の母・美ち奴」(島田磐也作詞・古賀政男作曲)


351 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/21(Mon) 08:41
昭和4年(1929)に作られた「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子)は、わが国の映画主題歌第1号。それまでも「船頭小唄」や「籠の鳥」など巷で流行した歌が映画になったのもあったが、最初から映画の主題歌として作られたのはこの歌が初めてである。もちろんサイレント映画である。

当時、雑誌「キング」に連載された菊池寛原作の小説を日活が映画化。これに先立ってその頃「かなりや」の歌が流行で、すでに名を知られていた詩人、西条八十に主題歌作詩の白羽の矢が立てられた。八十はヨーロッパから帰ったばかり、留守の間に震災で焼けてしまった銀座の柳を惜しみ、まず、「昔恋しい……」と書いた。

映画音楽には主題歌は勿論、劇中歌や挿入歌にも名曲が多い。歌謡曲の発展に大きく寄与したのが、サイレントからトーキーに移行したばかりの映画だったのです。

当時、昭和6年、日本最初のトーキー映画「マダムと女房」以来トーキーに移行して、音が出るようになった映画に対して、各レコード会社が競って、主題歌を作るようになるのです。いわゆる、映画と歌謡曲のタイアップです。

なかでも、コロムビアからテイチクに移籍した新進気鋭の作曲家、古賀政男の生み出す古賀メロディは、日活映画との提携で普及、流行し、「歌はテイチク、映画は日活」とまで言われたのです。

当時は、ラジオの時代で、まだテレビもない時代、娯楽としても、同時上映のニュースによる情報メディアとしても、映画の影響力が強かったので、歌謡曲の流行にも拍車がかかったのです。この映画をもっとも効果的に使ったのが古賀政男といえる。



352 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/21(Mon) 23:18
>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)


353 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/21(Mon) 23:39
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>327-329 >>275>>325

>>330 演奏家 古賀政男のすべて(10CD)
>>331 古賀政男作品主なCD
>>334-335 佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品
>>341 関 種子と「古賀メロディ」
>>344-345 山田耕筰は
農村婦人の唄 山田耕筰・古賀政男作曲■コロムビアレコード 昭和7年
>>345-347 ♪ 第4回ダブルレインボー音楽会 ♪
>>349-352 古賀政男ほど多くのヒット曲を持つ作曲家はいない、


354 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/24(Thu) 21:22
(参考)

福田俊二、加藤正義編「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編)」つげ書房新社2007
加藤正義編「昭和流行歌総覧(戦後編)」つげ書房新社2007

村越光男、佐藤孝夫編「昭和歌謡全曲名―昭和流行歌総覧索引」(戦前・戦中編、戦後編)つげ書房新社2007


355 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/25(Fri) 14:11
【まだ何一つ解決されてない】久保田武蔵・自称マフィア力自慢大会121冠目【前代未聞のイタい男の哀れな珍事件】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=sportcombative&key=397575984

356 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/27(Sun) 20:47
☆古賀政男に関する文献(参考)
(追加)
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>251-255 テイチク50年史・・テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)

・高橋功著作集・別冊写真文集1988.11. (国会図書館)
 功·高橋「高橋功著作集・別冊写真文集; 古賀政男・古賀政男編, 第 2 巻

・藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」 講談社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863

 岩崎小彌太別邸(静岡県) 、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。

 古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126

・寺山修司編「日本童謡集―青い目の人形から唐獅子牡丹まで」〈光文社カッパブックス1972、1995年復刻版〉
 童謡の概念は子供の歌に限らないとする、童謡の中に「影を慕いて」など沢山の古賀メロディの名曲が入っている。


357 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/28(Mon) 08:07
・伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971



358 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/29(Tue) 22:05
CD紹介

日本フィルとゆく抒情歌紀行 1 心の旅路へ /  CD1(KICC-526 (キング)
南安雄, 小野崎孝輔 指揮 ; 日本フィルハーモニー交響楽団 [演奏].

内容
(1)夢路より(夢見る人)(フォスター)(2)星めぐりの歌(宮澤賢治)(3)愛の挨拶(エルガー)(4)メロディ・イン・F(「2つのメロディ」作品3より第1曲)(ルービンシュタイン)(5)童神-天の子守歌(佐原一哉)(6)ぞうさん(團伊玖磨)(7)砂山(中山晋平)(8)影を慕いて(古賀政男)(9)暗路(W.T.ライトン)(10)私のお父さん-オペラ「ジャンニ・スキッキ」より(プッチーニ)(11)聞かせてよ愛の言葉を(ジャン・ルノワール)(12)涙そうそう(BEGIN)(13)枯葉(ジョセフ・コスマ)(14)愛の讃歌(マルグリット・モノ)(15)亡き母の教え給いし歌-歌曲集「ジプシーの歌」(ドヴォルザーク)(16)トロイメライ-「子供の情景」作品15第7曲(シューマン)


359 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/30(Wed) 10:34
ttp://www.geocities.jp/jose_yacopi1977/2007_12_07malgorzata.htm

PROGRAM

1 「春の海」  作曲:宮城道雄(尺八:森川友博、ピアノ:吉野りん子)
Spring Sea music by MIYAGI Michio
syakuhachi:MORIKAWA Tomohiro,piano:YOSHINO Rinko

2 「アランブラ宮殿の思い出」  作曲:F.タレガ(ギター:中子祐二)
Recuerdos de la Alhambra music by Francisco Tárrega (guitar:NAKAKO Yuji)

3 「バルカローレ」  作曲:A.タンスマン(ギター:中子祐二)
Barcarole music by Alexandre Tansman(guitar:NAKAKO Yuji)

4  「影を慕いて」  作曲:古賀 政男(ギター:中子祐二)
 KAGE WO SHITAI TE music by KOGA Masao(guitar:NAKAKO Yuji)

5  「ダニー・ボーイ」  作曲:アイルランド民謡
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ギター:中子祐二)
Danny Boy Irish traditional (soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko,guitar:NAKAKO Yuji)

6  「エーデルワイス」  作曲:R.ロジャース 作詞:O. ハマースタイン2世
(ソプラノ:伊藤明日奈、アルト:吉野りん子、ウクレレ:中子祐二)
Edelweiss music by Richard Rodgers & words by Oscar Hammerstein II
(soprano:ITOH Asuna,alt:YOSHINO Rinko, ukulele :NAKAKO Yuji)




360 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/30(Wed) 11:20
>>358-359
>>74-75,>>356

昭和3年(1928)、「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、昭和歌謡史の最高傑作と言われる『影を慕いて』

この歌には古賀の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められており、古賀政男の人生の歌ともいわれる。

童謡と同じく、80年を超えるこの歌、かってNHKTV『日本の名曲10』として、時に童謡として、時に叙情歌として、ジャンルを超え、時代を超えた普遍性をもって、今でも根強く歌われ、演奏されていることがわかる。

影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月
影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月



361 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/30(Wed) 14:33
信長貴富:混声合唱とピアノのための 「近代日本名歌抄」(混声4部版)カワイ出版2008



編曲:信長貴富
A4判/48頁
グレード:初級
演奏時間=約22分。
ISBN 978-4-7609-1270-4

西洋音階による日本語の歌が民衆の間に親しまれ始めた大正から昭和初期の作品編曲した「近代日本名歌抄」の混声4部合唱版。これで、混3版、女声版と三種類が揃う。混3版の基本的なコンセプトは踏襲しているが、男声が厚くなった分響きが変わり、より音楽性が際だった編曲になっている。
「あの町この町」「宵待草」「ゴンドラの歌」「青い眼の人形」「影を慕いて」「カチューシャの歌」の6曲。日本の歌謡曲第一号といわれる「カチューシャの歌」はじめ、中山晋平の作品が半数選ばれている。「合唱団葡萄」の委嘱で2009年2月に初演された。

1 あの町この町(1’35”)
2 宵待草(3’40”)
3 ゴンドラの歌(4’00”)
4 青い眼の人形(2’20”)
5 影を慕いて(5’40”)
6 カチューシャの歌(4’35”)

ttp://editionkawai.shop16.makeshop.jp/shopdetail/002001000375/





362 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/30(Wed) 16:13
☆古賀政男に関する文献☆

日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』>>152である。
このあとテイチクを退社した古賀政男は、「外務省音楽文化親善使節」として、1年間アメリカにわたるのである。>>95
・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。その他雑誌には沢山でていたようだ。


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)
古賀政男編著「古賀政男ピアノ伴奏名曲集. no.1」(シンフオニー楽譜出版社(昭和14年1939)「古賀政男ギター新奏法」シンフオニー楽譜出版社(昭和17年1942)
くろがね会「くろがね叢書 1944.10.31」 ・・「勝利の日まで」について
古賀政男編著「古賀政男作曲集. 第4輯」(全音樂譜出版社1948)
古賀政男「私の音楽生活二十年」(全音楽譜出版社1949)
毎日新聞社編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
萩原葉子 『父・萩原朔太郎』(中公文庫 A 109-2、1979) 1959
コロムビア50年史編纂委員会編「コロムビア50年史」(日本コロムビア)(昭和36年1961)古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971
森下 節著 [孤独の宴 : 小説・古賀政男 ]仙石出版1972
寺山修司編著『日本唱歌集』〈光文社カッパブックス30−17, 1972 、1995年復刻版〉〉
日経新聞社編「私の履歴書 第48集」(日経1973)
結城亮一『あゝ東京行進曲』 河出書房新社 (1976,1985/01角川文庫) (小説佐藤千夜子)
古賀政男「歌はわが友わが心 : 古賀政男自伝」潮出版社1977
堀野羽津子編「古賀政男名曲集」(成美堂出版1978)
「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版)・・昭和53年、古賀政男追悼本古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)・「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25
「古賀政男傑作全集 : 昭和歌謡50年史」(東京音楽書院1979)
茂木大輔「誰か故郷を・・素顔の古賀政男」(講談社1979)
毎日新聞社『別冊・一億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社1979)
高橋功著作集・別冊写真文集1988.11. (国会図書館)
 功·高橋「高橋功著作集・別冊写真文集; 古賀政男・古賀政男編, 第 2 巻


363 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/30(Wed) 16:14
テイチク社史編纂委員会編「レコードと共に五十年」(テイチク株式会社1986)
利根川祐「人物昭和史」(ちくま文庫720) (1989)
高平一記「うさぎ―古賀政男十三回忌年出版作品」 (単行本) 日本ブックマネジメント (1990/08)
里村あきら 著「影を慕いて… 「古賀メロディー」知ったかぶり」雄文社出版企画室 1993
沢憲一郎著「二人の千代子 : 古賀政男の結婚」(文園社1994)
福田俊二「昭和流行歌総覧(戦前・戦中編)」(拓殖書房1994)
「日録20世紀1931 昭和6年」(講談社1997)第1巻 第43号通巻43号
下嶋哲朗著「謎の森に棲む古賀政男」(講談社1998)
「人間の記録93 古賀政男」(日本図書センター1999)
藍川由美著「「演歌」のススメ」(文春新書2002)
舘野晰 編著「韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人 : 西郷隆盛、福沢諭吉から現代まで 」 明石書店 2002
読売新聞文化部編『愛唱歌ものがたり』(岩波書店2003)・・ふと口ずさむ愛唱歌66曲
『古賀政男110 名曲集 古賀政男生誕百年記念 ギターでつまびく 我が心の歌』(全音楽譜出版社、平成15 年(2003)11月刊)103 頁
古賀政男音楽文化振興財団編「ギターでつまびく古賀政男110名曲集 我が心の歌」全音楽譜出版社2003
シニアのためのピアノ曲集 (ドレミ楽譜出版社 2003 )
菊池清麿「評伝 古賀政男」(アテネ書房2004)
「夢人生を奏でて」(古賀政男生誕百年記念特別版)古賀政男音楽文化振興財団(小学館スクウェア2004)
「生誕100年記念 古賀政男大正琴名曲集」全音楽譜出版社2004
佐高信『悲歌 古賀政男の人生とメロディ』(毎日新聞社(2005/08))
菊池清麿「永遠の歌姫 佐藤千夜子」(東北出版企画(2008/12)) 
佐高信『酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ』(角川書店 角川文庫)(2008/11/22)
信長貴富編曲「混声3部合唱とピアノのための楽譜 近代日本名歌抄」(河合楽器製作所2008)宵待草、ゴンドラの唄、青い目の人形、影を慕いて他
長田暁二編「楽譜 日本抒情歌全集4」(ドレミ楽譜出版社2008)
「秋の野 - 北原白秋 團伊玖磨」、「川 - 千家元麿 橋本国彦」「鶯の夢 - 野口雨情 中山晋平」「秋の夜 - 長田秀雄 山田耕筰」「働くお山 - 高橋掬太郎 弘田龍太郎」
「酒は涙か溜息か - 高橋掬太郎 古賀政男」他

藤森 照信著、藤森 照信写真「歴史遺産 日本の洋館〈第6巻〉 昭和篇(2)」講談                社 (2003/3/19) ISBN-13: 9784062614863
 岩崎小彌太別邸(静岡県)、三井家別邸(北海道)、徳川義親邸(長野県)、細川            護立邸(東京都)、原邦造邸(東京都)、林芙美子邸(東京都)、古賀政男邸(東京都)など。
    古賀政男邸(東京都) 昭和の大作曲家、これを建つ p.126


364 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/04/30(Wed) 17:24
☆古賀政男に関する文献2  雑誌
 
・田辺 明雄「古賀政男論」
   掲載誌 季刊芸術 / 季刊芸術出版株式会社 [編] 臨時増刊号(1989年秋) 1989-10
・高橋 功「"回想の雅兄・古賀政男"」
  掲載誌 心 31(10) 1978-10 p.p129〜140
・九州の偉人たちを育んだ「おふくろ物語」(2)古賀政男の母「セツ」
  掲載誌 財界九州 46(3) (通号 966) 2005-03 p.159〜162
・大石 さち子 「趣味と私 古賀政男音楽博物館--昭和と共に生きた古賀メロディ」
  掲載誌 共済新報 / 共済組合連盟 [編] 41(8) 2000-08 p.50〜52
・石出 法太 「古賀政男--「古賀メロディー」と民衆 」(20世紀の歴史のなかの人物)
  掲載誌 歴史地理教育 / 歴史教育者協議会 編 (通号 576) 1998-03 p.56〜57
・古賀 政男 「人との出会いにめぐまれて 」(この道ひとすじ五十年) 掲載誌 潮 (通号 214) 1977-03 p.p246〜247
・下嶋 哲朗 「太平洋戦争秘話=「歌謡曲の天皇」渡米の裏に外務省の謀略が--古賀政男に    下った「日米開戦前夜の密命」  掲載誌 「現代」 32(9) 1998-09 p.218〜228
・古賀 政男 「昭和を歌う我が涙の幾千曲 」
  掲載誌 潮 / 潮出版社 [編] (通号 120) 1969-12-00 p.350〜354
・菊池清麿「日本近代と古賀メロディーの心情」(『メディア史研究』第16号、2004)


365 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 09:37
・流行歌曲について  萩原朔太郎 >>170
(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社1997.12:「萩原朔太郎全集」筑摩書房1975)
 
 ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html


366 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 09:55
>>362
古賀政男「我が心の歌」(展望社1965)
古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)・「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 

367 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 12:07
(参考)

Electronic Journal
ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803


368 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 12:34
(参考)

・「サヨンの鐘」によせて―「サヨンの鐘」資料一斑―(十訂稿)
―日本統治下台湾警察史の一齣―
ttp://home.hiroshima-u.ac.jp/tatyoshi/sayun001.pdf#search='%E3%82%B5%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%90%98%E8%B3%87%E6%96%99'


・歌謡曲「サヨンの鐘」の謎(2,000・12・25転記)
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no47.htm


・下村作次郎編「サヨンの鐘」関係資料集(日本統治期台湾文学集, 第2期 ; 28)緑陰書房, 2007.6
・サヨンの鐘 企画展 国立民俗学博物館
ttp://www.minpaku.ac.jp/museum/event/fs/movies0610


・「サヨンの歌」と「サヨンの鐘」
サヨンの歌
作詞:西条八十  作曲:古賀政男  歌唱:李香蘭
花を摘み摘み 山から山を 歌いくらして 夜霧に濡れる わたしゃ気まぐれな 蕃社の娘 親は雲やら 霧じゃやら ハイホー ハイホー

この「サヨンの歌」は、渡邊はま子がレコードの吹き込んだ「サヨンの鐘」とともに今でも台湾の人々に愛唱されている曲である。

李香蘭の出演した映画が凡てそうであったように、映画そのものよりも主題歌の方が生命力を持っているようだ。
サヨンの歌は、映画のことなど知らなくても十分に楽しめるし、その明るい牧歌的なリズムは記憶に残る。
映画そのものは、ビデオ化されているし、フィルムセンターなどでも見ることが出来る。
日本の台湾に於ける皇民化政策がいかなるものであったかを知るための歴史的資料として上映されることもある。



369 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 17:31
>>366
・古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)…… 314pp
「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25



370 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/01(Thu) 22:35
>>290-292,>>306

私の タンゴ年表
ー(古賀政男と日本におけるタンゴの歴史)・・

ttp://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html


371 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/03(Sat) 09:25
☆主な歌手と主な歌

>>117 古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
>>155-157 佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
>>139 関 種子と「古賀メロディ」
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
>>144 ディックミネの代表曲(古賀メロディ)
>>146 楠木繁夫の代表曲
>>147 古賀メロディと霧島昇
>>119 李香蘭の歌う古賀メロディ

>>112 初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
>>127-130 西條八十と古賀政男
>>160 サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
>>165 佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
>>172 西岡水朗と初期古賀メロディ
>>334-335 佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲・編曲作品

>>193-195 [古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)


372 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/03(Sat) 22:41
>>269-271 昭和SP歌謡 主な歌手(戦前・戦中)


373 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/03(Sat) 22:54
>>362-369 ☆古賀政男に関する文献☆


374 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/07(Wed) 08:18
参考)

歌手生活60周年記念島倉千代子全集が発売

歌手生活60周年記念島倉千代子全集 CD38枚+DVD1枚 全600曲
販売元 日本コロムビア2014.4
ttp://www.u-canshop.jp/shimakura/

和製タンゴ第一号『日本橋から』など、古賀メロディを含む島倉千代子全600曲



375 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/08(Thu) 11:55
タンゴと歌謡曲 ttp://voicejapan2.heteml.jp/janjan/column/0701/0701168221/1.php

376 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/11(Sun) 18:16
>>141 藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

昭和の日本歌謡史上に燦然とした足跡を残す名歌手藤山一郎、藤山一郎は「歌謡曲」はもちろん、それ以外でも本名を含めて数え切れないほど沢山歌っている。しかし藤山一郎と言えば古賀メロディ。藤山一郎は、アルバイト時代のコロムビアを皮切りに、ビクター、テイチク、コロムビアと、ビクターを除いて古賀政男に合わせて転籍しています。

「藤山一郎」としての戦前のメジャーな代表曲としては、なんといっても、古賀メロディが圧倒的。それ以外で知られるのは、ビクター時代の「浅草の唄」「赤い花」「僕の青春(はる)」「チェリオ」などしょうか。

浅草の唄(西條八十作詞、中山晋平作曲)1933,4
赤い花 (佐伯孝夫作詞、松平信博作曲)1933
燃える御神火(西條八十作詞、中山晋平作曲 )1933
僕の青春(はる)(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)1933.
チェリオ(佐伯孝夫作詞、橋本国彦作曲)1934(小林千代子)
僕の銀座(佐伯孝夫作詞、加藤しのぶ作曲)(四家文子)



377 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/12(Mon) 08:36
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。


378 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/15(Thu) 23:00
昭和3年、レコード歌謡が始まって以来の名門ビクター。
しかし、彗星のように現れた「古賀メロディー」のコロムビア。
昭和6年以降、「晋平節」から「古賀メロディー」の時代へと大きく変わっていく。

これまで主流だった中山晋平は、「古賀メロディー」の隆盛によって、昭和一桁をもってその作曲活動から遠ざかる。
昭和9年の「皇太子様お生まれなった」や、「さくら音頭」を最後に、以後、戦後、昭和27年に亡くなるまでほぼ空ろな余生を送ることになる。

西條八十は、昭和10年(1935)9月、ビクターに対する著作権上の不満から、ビクター専属をやめ、コロムビア専属となる。

こうして大御所・中山晋平に代わるビクターの主役は佐々木俊一に、詩人・西條八十に代わるのは、その弟子である作詞家の佐伯孝夫に。
以後、戦後に至るまで、ビクターを抑えてコロムビアは最大のレーベルとして君臨することになる。

コロンビアでのアルバイトで「古賀メロディー」の最大の功労者、藤山一郎は、
昭和8年4月、東京音楽学校を主席卒業して、ビクター専属となった。

しかし、古賀政男のいないビクターでは、これといってヒットは無かった。

しかし、専属契約の切れると、昭和11年5月、古賀政男に招かれテイチク専属となる。
そして、7月、「東京ラプソディ」を大ヒットさせる。

藤山一郎を得て、ここに世に言う「テイチク黄金時代」が始まる。


379 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/16(Fri) 07:41
昭和13年〈 1938〉、「人生劇場」(佐藤惣之助作詞、楠木繁夫)(1938.6))を最後にテイチクから コロムビアに移籍復帰した古賀政男は、直後に「外務省音楽文化親善使節」として渡米。

古賀政男33歳は、昭和13年11月8日にテイチクからコロムビアに移籍復帰したのだ。
そのコロムビア復帰直後、「外務省音楽文化親善使節」として、昭和13年11月14日、藤原義江などの見送りを受けて、龍田丸でハワイ(ホノルル)経由でアメリカに向けて横浜湊を出港。
昭和13年11月には、これまでの音楽を集大成する「古賀政男藝術大観」と言う豪華本がでる。

. その後、テイチクとの3年間の契約の切れた藤山一郎も、昭和14年4月、古賀不在中のコロムビアに移籍。そして、10月10日に古賀が帰国する。
昭和10年(1935)年9月、ビクター専属から、 コロムビアへと移籍していた西條八十、ここに西條八十・古賀政男コンビが復活。
昭和13年(1938)にテイチクをはなれて、コロムビア専属となっていたサトウハチロー。

昭和15年(1940)にコロムビア専属となっていた佐藤惣之助、そして古賀政男がコロムビアに揃うこととなったのである。古賀政男第3期黄金時代を迎えた。

そして、楠木繁夫も、昭和17年(1942)に、再び古賀政男の誘いでコロムビアに移籍、大映映画「歌う狸御殿」にも出演。


380 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/16(Fri) 23:17
昭和27年も押し迫った12月2日、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、ある恩人の記念碑の除幕式に出席した帰りに、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。
母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、この28日後、今から62年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

告別式は翌年1月16日築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われ、作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千夜子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

しかし、その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。






381 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/17(Sat) 22:08
中山晋平の記念館は生地である長野県中野市と、熱海の梅園にある。熱海のは、「雨降りお月」「波浮の港」「東京音頭」など数々のヒット曲を作りだした中山晋平が晩年を過ごした別荘を梅園内に移築したもの。 
館内には作曲に使用したピアノや、「シャボン玉」など直筆の譜面などが展示されている。
晋平は、東京中野区に住んでいたのだが、昭和10年2月に、熱海市の西山町に別荘を構える、49歳だった。
記念館には、大正8〜10年頃に購入し際に作曲に使用したピアノがある。東京・中野にて使用していたが、このとき、昭和10年に熱海の別荘に持ってきたものという。

昭和19年(1944)、戦局の悪化に伴い熱海の西山町に疎開し、それ以後、昭和27年に亡くなるまでこちらで過すことになる。ピアノが先に別荘の方に移っているのは象徴的ではあろう。。

実際、晋平は昭和23年に日本音楽著作権協会会長となるも、殆ど曲を作ることはなかった。
そして、同年12月2日に自らが作った『ゴンドラの唄』が使われた『生きる』を映画館で観た、その翌日に倒れ、30日3時30分、入院先の熱海国立病院で死去。死因は膵臓炎だった。65歳没。


(参考)
斉藤武雄他『定本中山晋平 唄とロマンに生きた全生涯』郷土出版社, 1987年
菊池清麿『近代日本流行歌の父 中山晋平伝』郷土出版社, 2007年
和田登 著「唄の旅人 中山晋平」岩波書店  2010年2月

映画「ララ、歌は流れる-中山晋平物語」(長野映研製作)
NHK連続テレビ小説「いちばん星」












382 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/19(Mon) 20:14
日 本 橋 か ら
作詩 浜田広介  作曲 古賀政男
昭和6年

1 お江戸日本橋 師走も暮れる
  橋の上から あちらを見たりゃ
  あちら葭(よし)町 人形町で
  ヤレサ 鳴るのは 三味太鼓

2 お江戸日本橋 今年も暮れる
  橋の上から こちらを見たりゃ
  ならぶ建物 ほこりの雲で
  ヤレサ 悲しい 入日空(いりひぞら)

3 お江戸日本橋 さいふが空で
  橋の上から 遠くを見ても
  どこえ行こうか ゆく手が見えぬ
  ヤレサ お江戸の 思案橋

テレビで日本橋のことが取り上げられるとき、流される音楽。
それは江戸古謡「お江戸日本橋」に代わって、昭和のはじめ、80年以上前に作られた曲、
浜田広介作詞。古賀政男作曲「日本橋から」。日本におけるタンゴ第一号、タンゴの名曲でもある。
 
昭和6年1月 佐藤千夜子(ビクター)
昭和7年3月 関 種子 (コロムビア)

(参考)お江戸日本橋
お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ こちゃ高輪(たかなわ)・・


383 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/23(Fri) 08:27
「(ダンス音楽)日本橋から」

浜田 広介[作詞]
古賀 政男[作曲]
バクナデル[編曲]
巴里・ムーランルージュ楽員
製作者(レーベル) コロムビア(戦前)
発売年月日 1932-08


384 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/25(Sun) 19:22
昭和53年に出た古賀政男追悼本、「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))(220ページ)には、古賀政男と親交の深かった歌手や作曲家、文化人、芸能人、スポーツ選手、政治家等の追悼とか思い出、
『代々木上原三丁目 古賀政男邸』と題し、昭和13年に建てられた三千坪の古賀邸の庭や豪華な内部の写真と、古賀邸における古賀政男や愛用品,年譜など貴重な写真などがある。

また、昭和13年11月、外務省音楽文化親善使節として渡米するときの、藤原義江に見送られて東京駅を発つところ、同14年に帰朝し、松坂屋での歓迎会における三浦環との握手風景など。

また、その半分のページを割いて、『古賀政男傑作曲68選』と題して、「影を慕いて」「酒は涙か溜息か」から、「ひろしまの母」「浜昼顔」まで主な古賀メロディーの名曲68曲の楽譜と歌詞がまとめられていて圧巻。

「古賀政男・昭和の日本の心・・わが歌は永遠に」(平凡出版1978))


385 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/05/27(Tue) 08:47
>>383

「巴里ムーランルージュ楽員」とは、戦前、日本サロン音楽ファンに有名だった、東京フロリダ・ダンスホールのタンゴバンド、「巴里ムーランルージュ楽団」。
他に、「丘を越えて」などの録音がある。



386 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/03(Tue) 12:18
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>353
>>327-329 >>275>>325



387 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/10(Tue) 10:13
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>353
>>327-329 >>275>>325




388 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/18(Wed) 09:06
トニムノメ

389 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/06/19(Thu) 19:37
「日本橋から」ってハバネラじゃないの?


390 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/02(Wed) 16:06

☆ 戦前の流行歌 ☆
 
ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt


今に残る多くの珠玉の名曲、それは主にレコード歌謡(歌謡曲)が誕生してからの10数年間に生まれたものでした。


391 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/03(Thu) 12:31
以上、キクチでした。

392 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/04(Fri) 08:13
2014年02月05日00:29
佐藤千夜子の『影を慕いて』―にいちゃんの「ナツメロダイアリー」
ttp://blog.livedoor.jp/melody1964/archives/51571665.html


393 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/05(Sat) 23:26
>>387
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>353
>>327-329 >>275>>325



394 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/27(Sun) 11:45
☆《丘を越えて》と山田耕筰

古賀は無性に楽しかった。将来の不安などを忘れ最後の青春を謳歌した。こうしてあの名曲《丘を越えて》が誕生したのだ。限りない青春賛美の曲である。四十六小節からなる前奏の軽快さは、明るさは青春の特権である若さと希望の表現である。
楽壇の雄山田耕筰が日本人の作曲家を外国で誇る時にこの《丘を越えて》のレコードを聴かせたそうである。山田自身も明朗性を表現する日本人の音楽作品として高い評価を与えていたのだ。
(引用)流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽(菊池清麿)    
h ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html



395 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/27(Sun) 11:50
>>394
「一見明るい、しかしいらだたしいリズム感をもって洋楽的行進をかなで当時の蓄音機の台数が、樺太、台湾を含めて約二十万台といわれた時代に五十万から六十万枚レコードが売れたのだから、たとえ、「不均整なリズムにやすらぎのない焦躁が感じられる」(堀内敬三『音楽だす」(園部三郎『演歌からジャズへの日本史』)と、
クラシックの人たちからは酷評されたが、大衆の心に讚えるべき「青春」を刻み込んだことは間違いがない。
だから、山田耕筰が古賀政男の《丘を越えて》のレコードをヨーロッパに赴いたさいに持って行き、誇らしげに聴かせたそうである。
歌曲王山田耕筰は古賀メロディーの最大の理解者の一人であったのだ。

396 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/28(Mon) 21:26
(参 考)萩原朔太郎「流行歌曲について」

教科書で誰でも知っている詩人、萩原朔太郎も「流行歌曲について」で、次のように述べている。

「この十年来、日本の社会が日々に益々憂鬱になり、人心が絶望的に呻吟して、文化がその目的性と希望とを失ひ、年々歳々益々低落の度を深めて来て居るといふ事実である。
例へば少し昔には、古賀政男の名曲「酒は涙か溜息か」や「幻の影をしたひて」等が流行した。
これらの歌曲は、そのもつと前、欧洲大戦前後の好況時代に流行した、外国オペラの明朗な翻訳曲に比すれば、遥かに憂鬱で哀傷的のものであつたが、音楽として尚甚だ上品のものであり、
その精神には健全で浪漫的な青春のリリシズムが情操して居た。」と述べている。

一方、その後の「酒は涙か」から、勝太郎の「ハア小唄」」や,所謂「股旅小唄」等への流行的推移について、
「流行歌曲の種属は二つに別れる。
即ちセンチメンタルのものと、ナンセンス的のものとである。然るに此等の唄には、ナンセンスとしての“明朗性”もなく、センチメンタルとしての“抒情性”もない。」
「これもまた前時代の歌曲に比すれば、その品位のないことに於て、野趣的に卑俗化したことに於て、時代の文化的低落を語る一実証と見るべきだつた。」と。

萩原朔太郎「流行歌曲について」(「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社1997)




397 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/28(Mon) 22:26
>>393
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>353

>>390 戦前の流行歌 
>>392 佐藤千夜子の『影を慕いて』―にいちゃんの「ナツメロダイアリー」
>>394-395 《丘を越えて》と山田耕筰
>>396 (参考)萩原朔太郎「流行歌曲について」



398 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/30(Wed) 22:17
☆インテリ層と古賀メロディー(昭和30年史)

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして9月18日未明、満州事変勃発。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、80年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。

(参考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真も。




399 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/30(Wed) 23:16
>>398

(参考)
日本の歴史は飢饉の歴史とも言われる。「古賀メロディ」の登場した83年前、日本はだ草深く、そしてまだ貧しかった時代であったろう。

昭和6年(1931)、日本は、今のモノのありあまる飽食の時代には考えることも出来ない、日本における最後の飢饉、昭和恐慌の下、太平洋戦争に至る遠因ともいわれる、昭和東北大凶作に苦しんでいた。
宮沢賢治の『雨にも負けず』は、このときのメモで手帳からみつかったもの。

(なお、日本で『米が余る』などといわれるのは、戦後も20年以上たった昭和40年代後半、昭和46年のことだった。
昭和6年の冷害飢饉で、大きな飢饉に見舞われた、青森十和田の三本木にできた農業試験場で何千種もの品種を交配し作った「藤坂五号」という
冷害に強い品種が出来たからだと言われる。)

そして、多くの貧しい東北の貧農出身の兵隊が満州事変に、日本の農村は疲弊してゆく。

「古賀メロディ」は、いいかげんなものではなく、「昭和」前半、そこにある多くの『哀しみ』とともに、まじめ受け止め生きた重いものを感じないわけには
いかないだろう。

こうした重苦しい世相の中で人々に圧倒的に迎えられた「古賀メロディ」。


参考に「昭和東北大凶作」とは・・

・山下文男著「昭和東北大凶作」
 ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
 ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
 ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html


400 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 07:18
〜マンドリンのまち前橋〜朔太郎音楽祭HP  h ttp://www.sakutaro-m.jp/

401 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 07:39
中山晋平は、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆性)」と特徴づけた。

クラッシックを含めて、音楽表現するとき、いくつかの具体的で簡潔な表現が用いられる。
それが、“平易性(大衆性)”、“明朗性”、“抒情性”などである。
中山晋平、山田耕筰、萩原朔太郎など素養のある、実績のある音楽家・芸術家の使用する音楽表現のための基本用語である。

もちろん、クラッシックの香りがするなどとは言わない、そうした素人表現を使うことは無い。
具体的な音楽表現用語ではないから。

402 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 08:37
サロンコンサート 歌曲の調べ ttp://www.cf.city.hiroshima.jp/higashi-cs/kakyoku/46/
 ・朗読/日本歌曲を支えた詩人たち?萩原朔太郎(松本憲治/音楽)
  詩集「月に吠える」より、詩集「純情小曲集」より、他

 ・萩原朔太郎の詩による日本芸術歌曲
  「萩原朔太郎による四つの詩」から「笛」、「游泳」/團伊玖磨・作曲
  「こころ」/別宮貞雄・作曲  「ほおずき」/三善晃・作曲



403 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/07/31(Thu) 08:57
男声合唱組曲「朔太郎の四つの詩」
作詩:萩原 朔太郎 作曲:清水脩  1.五月の貴公子 2.孤独 3.陽春 4.緑色の笛              
ttp://nicoviewer.net/sm8104162



404 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:42
明治大学 大学史の散歩道
 明大人の昭和歌謡史群像 ―古賀政男から阿久悠、宇崎竜童に到る系譜―
 ttp://www.meiji.ac.jp/koho/desukara/sanpomichi/2009/31-shouwa.html




405 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 07:55
(参考)代々木上原駅南口通り h ttp://www.uehara-minamiguchi.com/
小田急線代々木上原駅の南口、ホーム沿いの路を『音楽村通り』といいます。
古賀政男音楽博物館は、代々木上原駅(南口1)、『音楽村通り』を右に進み駅前交番前、交差する「井の頭通り」沿いです!。

なお、「井の頭通り」は拡幅され、当時の古賀政男邸のあったころの面影はそこに見当たりません。


406 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/01(Fri) 19:48
(参考)
『青春よ永遠に 明治大学マンドリン倶楽部80年の歩み』(同倶楽部OB会、2002)
『大学史の散歩道』M-style No.027(2009年6月20日発行)



407 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/05(Tue) 12:31
>>401
クラッシックの香りというと・・アロマチャージ ピースフル クラッシック ジャスミンの香りなどの、アロマといわれるものと混同される。


408 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/05(Tue) 18:29

藤山一郎『デッサンの確かな作品群』(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))



409 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 16:34
藤山一郎は、昭和4年(1929)4月、東京音楽学校予科声楽部に入学 。昭和6年(1931)、3年生、20歳の時、アルバイトで「キャンプ小唄」「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」など歌った。
昭和8年(1933)3月に東京音楽学校を主席で卒業、ビクター専属になった。

コロムビアでアルバイト中、アルバイト禁止で困ってる時に、ビクターは前年の春から藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていたのだ。
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。



藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

なお、20代を、若き古賀政男とともにし、溢れるように、「古賀メロディ」を、青春を、高らかに謳いあげていた、全盛期の若き藤山一郎。

一方、抑留復員後に復活した戦後の、すでに30代も後半になっていた藤山はさすがに全盛期の溌剌とした若き藤山一郎ではなかったろう。

そして昭和29年、この「歌う昭和史」藤山一郎はレコード歌手を引退し、NHKの嘱託となった。




410 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 16:39
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でしたと書いている。




411 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/07(Thu) 17:05
古賀政男音楽博物館

「古賀政男音楽博物館」には、平成25年度までに、大衆音楽に貢献した歌手、作曲家、詩人・作詞家、演奏家、編曲家など、山田耕筰、弘田竜太郎など含め、殆どすべて221人が顕彰されています。
地下一階の「音楽情報室」では、顕彰者の作品をパソコンで計7000曲選んで聞くことが出来ます。(入館料500円だけ。)

古賀政男については、別にパソコンで1000曲以上選んで聴くことができます。
新宿駅より小田急線・東京メトロ代々木上原駅前です。行ってみましょう。

大衆音楽の殿堂 顕彰者一覧
h ttp://www.koga.or.jp/information/sanctuary/sanctuary_h25.html
h ttp://www.koga.or.jp/


☆大衆音楽の殿堂 主な顕彰者(参考) (平成25年現在)

△歌手
藤原義江、佐藤千夜子、徳山 l(たまき)、関種子、藤山一郎、松原操、楠木繁夫、淡谷のり子、二葉あき子、東海林(しょうじ)太郎、上原敏、霧島昇、ディックミネ、松平晃、伊藤久男、
渡辺はま子、中野忠晴、榎本健一、菊池章子、灰田勝彦、
安西愛子、松田トシ、近江俊郎、小畑実、岡本敦郎、坂本九、森繁久弥、美空ひばり、ペギ‐葉山、初代コロムビアローズ、三橋美智也、島倉千代子、三波春夫、春日八郎、村田英男、北島三郎、・・・

△詩人・作詞家
野口雨情、西條八十、佐藤惣之助、サトウハチロー、島田芳文、藤浦洸、長田幹彦、高橋掬太郎、島田欣也、佐伯孝夫、野村俊夫、藤田まさと、菊田一男、星野哲郎、なかにし礼・・

△作曲家
滝廉太郎、岡野貞一、本居長世、山田耕筰、中山晋平、弘田竜太郎、梁田貞、杉山長谷夫、堀内敬三、佐々紅華、古賀政男、江口夜詩、佐々木俊一、仁木他喜雄、万城目正、竹岡信行、服部良一、古関祐而、
仲田喜直、米山正夫、長津義司、大村能章、八洲秀章、吉田正、中村八大、宮川泰、船村徹、遠藤実・・・
その他(計221名)



412 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/08(Fri) 16:04
夏目漱石の小説「三四郎」にも登場する、本郷中央教会は日本基督教団に所属する、元日本メソジスト教会の教会で120年以上の歴史を持つ。
日本最初のパイプオルガンが設置され、日曜日にパイプオルガンと尺八や琴の和洋折衷の音楽界が開催されて、一流音楽家が演奏するようになる。
ウェールズ出身の教会音楽家エドワード・ガントレットが聖歌隊を指導した。作曲家岡野貞一は本郷中央教会のオルガニストとして長年仕えた。
ガントレットは、1898年、日本女性山田ツネと結婚、彼女の実弟は山田耕筰であり、長男のJ.O.ガントレットも青山学院大学で英語を教えるかたわら聖歌隊を指導した。.
佐藤千夜子、山田耕作(ガントレットの義弟)、外山国彦、中山晋平なども出入りしていた。東京音楽学校に物足りない佐藤は殆どこちらに通った。

昭和の始めの、佐藤千夜子、山田耕作、中山晋平など大衆音楽を作った音楽家たちのつながりがここに見える。


413 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/08(Fri) 17:04
>>412
オルガンの文化史
h ttp://kawayama2.blog135.fc2.com/blog-entry-30.html

414 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/10(Sun) 21:08
(参考)
流行歌年表・・君が代(明治13年)から、昭和30年まで

h ttp://suwiun.web.fc2.com/newpage77.html


415 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 10:36
>>407
アロマじゃないから「香り」じゃだめなんだね!。

416 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 23:34
明確な特長がないとな!

417 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/15(Fri) 23:38
>>353

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>327-329 >>275>>325



418 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/16(Sat) 09:38
波浮の港 h ttp://homepage2.nifty.com/harlekin/habunominato.htm

419 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/16(Sat) 10:55
>>416

洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの単純で明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちの求めるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。

しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて受け容れられるものとはならないだろう!。

音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。


420 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 10:18
(参考) 横浜情報文化センター放送ライブラリー
横浜情報文化センター放送ライブラリーは、NHK以外の民法の記録されているラジオやTV放送を無料でみることができる施設。
NHKについてはNHKアーカイブスや各放送局、放送博物館。

『知ってるつもり?!』は、1989年10月8日から2002年3月24日まで、日本テレビ」系列にて、毎週日曜日21:00〜21:54に放送された。
1990年の一部/
·7月29日 カーネギー
·8月5日 棟方志功
·8月12日 古賀政男
·8月19日 バロン西(西竹一)
·8月26日 湯川秀樹
横浜情報文化センター放送ライブラリーで視聴可


421 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 13:44
〔渋谷区コミュニティバス〕(ハチ公バス)

【丘を越えてルート】(上原・富ヶ谷ルート)(京王バス 電話:03-5300-6011)
渋谷駅と代々木上原駅を結び、美術館などの区施設を経由します。

渋谷駅から古賀政男音楽博物館と代々木上原駅〜渋谷駅を結ぶ便利なコミュニティバスです!。
h ttp://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/com_bus/


@渋谷駅西口 発
A東急百貨店本店前
B松濤美術館入口
C東大前
D東大裏
E富ヶ谷二丁目
F富ヶ谷交差点
G上原一丁目(富ヶ谷図書館入口)
H上原二丁目(上原出張所入口)
I古賀音楽博物館
J代々木上原駅

S東急百貨店本店前終点

ハチ公バス(丘を越えてルート)は、古賀政男作曲、藤山一郎歌唱の名曲にちなみ、ルート名となった。
h ttp://s-ohtsuki.sakura.ne.jp/privaterailway/odakyu/OdawaraH2403/DaiKukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Shin_Yurigaoka/Kukan01_Shinjuku-Shimo_Kitazawa-Umegaoka/Sub1_Shinjuku-Sanguu_Bashi-Yoyogi_Uehara/newpage06-S.html



422 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 22:11
(参考)
(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館35」(いずみ書房2012.6.)
 与謝野晶子、石川啄木--寺田寅彦・吉田茂・河上肇・滝廉太郎・小山内薫・斎藤茂吉・
高村光太郎・志賀直哉と武者小路実篤・山本五十六と東条英機・北原白秋・谷崎潤一郎・山田耕筰・山本有三・梅原龍三郎

(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館36」(いずみ書房2012.6.)
 宮沢賢治、湯川秀樹- 菊池 寛 芥川龍之介 吉川英治 松下幸之助 宮城道雄 川端康成    
小林多喜二 棟方志功 古賀政男 林芙美子 朝永振一郎 太宰治 黒沢明 三島由紀夫
   


423 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 22:21
>>422

(児童書)有吉忠行他著「せかい伝記図書館」(いずみ書房2012.6.)

h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki.html

424 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/28(Thu) 22:25
>>423

いずれも世界の第一級の人物ですね!。

425 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/29(Fri) 22:58
世界の、歴史の残る偉人!。

426 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/08/29(Fri) 23:00
歴史に残る偉人!。


427 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/10(Wed) 08:59
>>423-426
古賀政男(1904−1978)
巻末小伝?せかい伝記図書館?オンラインブック(36)
h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden36-09.html



428 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/10(Wed) 09:00
>>423-426
古賀政男(1904−1978)
巻末小伝 せかい伝記図書館 オンラインブック(36)
h ttp://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c02_denki/99shoden/shoden36-09.html


429 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/12(Fri) 23:00
(参考)
財団法人古賀政男音楽文化振興財団(監修)/森一也(解説)『オリジナル版古賀政男大全集CD13枚』
古茂田信男・島田芳文・矢沢保・横沢千秋『日本流行歌史』社会思想社(昭和45年9月)




430 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/13(Sat) 09:21
(参考)
全音 出版部 編「全音歌謡曲大全集1」(明治17年−昭和22年)
  前・間・後奏、オブリガート付 全歌詞・唄い込み・完全収録
  出版社:全音楽譜出版社


全音歌謡曲大全集1(明治17年−昭和22年)
全音歌謡曲大全集2(昭和22年−昭和34年
以後もあり。

431 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/13(Sat) 20:22
>>378-381
中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原生活秋 作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

雨情会会長だった中山晋平は、昭和27年12月2日、東京・井の頭公園に野口雨情の記念碑完成、除幕式を挙行する。
除幕式に出席した帰り、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

その後東京で膵臓炎発病。母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平はは国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

告別式は翌年、昭和28年1月16日、築地本願寺にて、日本ビクターの社葬として行われた。
作曲家佐々木俊一の指揮するオーケストラによる「哀悼歌」、四家文子の独唱に続いて、ビクター児童合唱団、音羽ゆりかご会による「てるてる坊主」、最後には「カチューシャの唄」が歌われた。



432 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 10:02
明大マンドリン倶楽部の古賀の愛弟子でテイチクで仕事をしていた宮崎良治氏が、宮本旅人のヒット歌謡『旅姿三人男』の企画を担当していた。
宮本旅人には「ほたる」(作詞 宮本旅人、作曲 本居長世)などの作品がある。

この宮崎氏の葬儀に病をおして出席した古賀政男を、宮本旅人が撮影した写真が、上記の貴重な写真のようです。
この時古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)



433 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 10:04
宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社
1939


434 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 13:01
☆古賀政男に関する文献☆
>>222-226 古賀政男に関する文献
>>362-369 古賀政男に関する文献
>>423,>>429-430,>>432-433


435 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/14(Sun) 13:25
>>417
>>353

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
ttp://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

《索  引》 (参考・主なもの)>>327-329 >>275>>325




436 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/15(Mon) 21:37
佐藤千夜子
「いのち短し 恋せよ“おとみいー”(乙女)」 少しなまった甲高い歌声が部屋じゅうに響く。ここは佐藤千夜子の生家である。
千夜子は本名を千代といい、1897年(明治30)、山形県天童市に生まれた。将棋の駒と温泉で知られる町である。14歳で上京し、普連土女学校から青山女学院へと進んだ。4年間の浪人後、23歳であこがれの東京音楽学校(芸大)に入学したものの授業に満足できず、中央会堂の聖歌隊員となった。賛美歌を独唱して中山晋平に見いだされ、27歳のとき、帝国ホテルでの中山晋平作品発表会で本格的な歌手としてデビューした。「影を慕いて」は彼女の歌で、古賀政男が世に出るきっかけをつくった。
1928年31歳のとき、日本ビクターで「波浮の港」を吹き込み、日本のレコード歌手第1号として脚光を浴びた。翌年に歌った「東京行進曲」は、映画主題歌第1号となった。本格的なオペラを勉強するため33歳でイタリアへ渡り、冒頭の歌詞で始まる「ゴンドラの唄」など4曲を、ミラノ座管弦楽団の伴奏でレコード化したという。
今日、「波浮の港」は藤原義江、「影を慕いて」は藤山一郎を連想しがちだが、ともに佐藤千夜子が“元祖”なのである。

437 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/21(Sun) 11:58
12月30日は作曲家中山晋平の命日です。

今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平はは国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。
晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)
には、古賀政男の序文があります。






438 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/23(Tue) 11:53
『日蓄(コロムビア)三十年史』(日本蓄音器商会、1940)
コロムビア五十年史編集委員会編『コロムビア五十年史』(日本コロムビア、1961)
「素顔の古賀政男」茂木大輔著 講談社刊181pより〜
宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978) 序文 古賀政男


439 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/23(Tue) 11:54
宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社
1939



440 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/09/27(Sat) 17:15
【戦前の流行歌】 (1928〜1943)

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt
1928「波浮の港」から、1943「勘太郎月夜唄」まで


441 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/04(Sat) 15:17
声楽/合唱/歌集「思い出の 昭和歌謡 /歌い出しさくいん付き」成美堂出版(株)

昭和の歌謡曲を170曲余収録する。タイトルがわからなくても、歌い出しから引ける「歌い出しさくいん」と、タイトルで探せる「50音さくいん」が付いている。全曲にメロディ譜を掲載。

「波浮の港」から戦後「乾杯」まで
h ttp://www.musenet.co.jp/search/set_detail2.asp?krno=342630&srno=342630


442 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/06(Mon) 20:18
日本音楽小史
川越守
h ttp://libro.do-bunkyodai.ac.jp/research/pdf/treatises11/009.pdf#search='%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7%E3%80%81%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3'


443 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/10(Fri) 22:10
もりちゃんの昭和歌謡ウンチク(戦前の昭和歌謡編)

h ttp://www.kayou.org/mori1.html


444 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/11(Sat) 21:20
写真Life  h ttp://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/cat11975100/

445 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/18(Sat) 12:42
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』

h ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html




446 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/10/29(Wed) 19:53
昭和の歌手シリーズ『ミス・コロムビア(松原操)』
2011-09-23 02:02:45

h ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11026519314.html


447 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/15(Mon) 18:29
12月30日は作曲家中山晋平の命日です。

今から62年前の昭和27年(1952)12月30日、中山晋平は国立熱海病院で65歳の生涯を閉じます。

 晋平が目指したのは《誰でも歌える歌》でした。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)
 には、古賀政男の序文があります。


448 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/22(Mon) 21:39
中山晋平は昭和一桁時代、「古賀メロディ」の隆盛とともに、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。
以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。

晋平が、昭和27年(1952)の暮、東京の映画館で黒沢監督の名作「生きる」を観ます。主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

昭和27年12月2日、東京雨情会の会長として井之頭公園の野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした28日後、今から62年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは《誰でも歌える歌ずくり》でした。

母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

449 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/26(Fri) 21:24
中山晋平の偉大なところ、彼の目指したものそれは、みずからがクラシック音楽の分野で名をなすことではなくして、
童謡・新民謡・流行歌など誰でも歌える歌、子供でも歌える歌を作って歌ってもらう事にあり、
実際に大正時代から昭和にかけてそうしたことです。


450 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/26(Fri) 22:21
今でこそテレビは歌で溢れているが、まだ民謡くらいしかなかった時代、童謡運動の真っ盛り、大正9年ごろから野口雨情が作曲家の中山晋平らと一緒に行なっていた「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)、まだレコードの普及もラジオもなかった時代、新幹線も飛行機もなかった時代に、
歌手として参加したのが、中山晋平に師事した山形県の天童出身の佐藤千夜子。

この企画の中で生まれた雨情の新民謡「波浮の港」が昭和3年(1928年)ビクターからレコードとして発売され
日本の商業レコードの第1号となり、佐藤千夜子は日本のレコード歌手第1号といわれました。

昭和2年から3年にかけて日本にあいついでレコード会社ができたのだが、このように大衆歌謡の下地があったのはすごいこと。


451 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 12:19
昭和元年は大正15年(1926)12月25日から一週間。翌年は昭和2年。

来る、平成27年(2015)は戦後70年、昭和90年に当たります。

レコード歌謡は昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲」にはじまります。

1月27日は野口雨情の命日です。

今から70年前の、昭和20年1月27日、戦火を避けて疎開先の宇都宮郊外でなくなります、63歳でした。

452 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 17:49
 雨情は「童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩であり、民謡は民族生活の情緒をつたふ唯一の郷土詩であり、土の自然詩である」との信念をもって童謡民謡普及のため全国各地に赴き、その土地の特徴を詠み込んだ民謡を詩作する旅を重ねた。それは国内のみならず当時の台湾、朝鮮、満州,蒙古にまで及んでいた。
雨情については土の詩人ともいわれるが、土の詩人かどうかは別にして、彼ほど日本全国を旅し、地に根差した詩人であることに変わりない。昭和18年(1943年)、雨情は突然軽い脳出血に冒され、それまで全国を駆け歩いていた雨情はそれ以後、山陰と四国への揮毫旅行を最後として、療養に専念することになった。



453 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 18:06
東京、吉祥寺に住んでいた雨情は、昭和19年1月戦火を避けて、栃木県宇都宮郊外(現宇都宮)に疎開。
ここでなくなった。この屋敷は記念館になっていて公開されている。

戦後7年たった昭和27年、東京に「雨情会」が誕生して、中山晋平初代会長になる。

そして、昭和27年12月2日、東京雨情会の会長として井之頭公園の野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

その28日後、12月30日、晋平も65歳の生涯を閉じます。



454 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 20:49
信田の藪(しのだのやぶ)

野口雨情作詞
藤井清水作曲

h ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

「信田の藪」、佐藤千夜子版が絶品!!

455 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/12/29(Mon) 21:15
野口雨情(1882〜1945)は、楠正成の弟・正季(まさすえ)の直系の子孫といわれる名家の生まれで光圀の「観海亭」を譲り受けた地元の人が「磯原御殿」と呼ぶ家に住んだ。
詩人では島崎藤村より一回り下の生まれ、北原白秋、三木露風、石川啄木、西條八十より一回り上だった。 

雨情という人は処世術とは程遠い不器用な人だった。親からの莫大な借財を背負い込んだ雨情の詩人としてのスタートは、不運と失意のくりかえしだった。

広大な山林田地を有し、回船問屋を営んでいたが、雨情9歳のとき、没落し、父量平は少なからぬ負債を抱えることとなった。

雨情は借財整理に負われて、放浪する青春時代を経て世に出、そしてその後も、日本各地や、台湾、蒙古にいたるまで足跡がある。
彼の詩作活動は、土の詩人という表現は別として、深く地に根ざしたものということはできる。
大なり小なり昔の人は旅をしたが、彼ほど日本中をくまなく旅したものはいない。


456 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/01(Thu) 16:15
今年、平成27年<2015>は、昭和90年にあたる。

「明治100年」は過去になり、もうすぐ「昭和100年」となる日もあと10年後。

レコード歌謡は昭和3年(1928)に始まる。

昭和最初を飾る歌声は、翌昭和2(1927)年1月、JOAKから流れた「昭和の子供」、
久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲、ボ−イソプラノの小笠原英夫歌。

昭和6年4月コロムビア発売。

457 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/01(Thu) 16:31
昭和 昭和
昭和の子供よ僕達は
姿もきりり 心もきりり
山 山 山なら富士の山
行かうよ 行かう 足なみそろへて
タラララ タララ タララララ

458 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/09(Fri) 19:43
今年、平成27年(2015)は、作曲家本居長世、没後70年でもあります。

作曲家本居長世(1885?)は、終戦直後の昭和20年10月14日、成城の自宅で亡くなりました。61歳でした。

459 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/09(Fri) 20:05
本居長世は、「童謡の祖」ともいわれるが、「童謡」だけでなく生涯に800曲近い歌曲も作っています。
本居長世は東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業し、日本の音楽と西洋音楽の融合を図り、「新日本音楽」など多数の歌曲を生んでいます。
また、中山晋平、弘田竜太郎などの師でもあります。

本居長世は、文学者から始まった童話・童謡運動を、自ら作曲し、かつ広めることによって、「童謡」という分野を確立し根付かせた人だと言えますが、また同時に中山晋平の師でもあるという点では、単なる「童謡の祖」というだけでなく、「日本の大衆音楽」に大きな影響を与えた人ではないかと思います。
 
古賀政男〈正男)は、昭和3年、学生時代作曲した「影を慕いて」を歌ってもらった人・・中山晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の力添えで作曲家になった人で、長世が出なかったら、多分日本の大衆音楽は違ったものになっていたかもしれません。
 


460 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/09(Fri) 21:25
古賀政男「我が心の唄」(展望社1965)に、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として、古賀政男、中山晋平、弘田竜太郎、本居長世、小松耕輔の写真が載っています。

461 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/11(Sun) 22:30
>>455

昭和6年、「キャンプ小唄」「月の浜辺」「丘を越えて」「窓に凭れて」「スキーの唄」など、初期の古賀メロディ-を支えた詩人、島田芳文は野口雨情門下生です。


462 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/20(Tue) 21:18
>>459
明治41年東京音楽学校本科を全学首席で卒業。同期に山田耕筰がいた。その後も邦楽調査員補助となり母校に残り、25歳で助教授になる。

長世は童謡以外にも、さまざまな活動があり、大正7年には、「如月社」を結成し、邦楽と洋楽の調和を探る。この活動を通してやがて尺八の吉田晴風や箏の宮城道雄と組んでの新日本音楽運動へと発展、民謡興隆の原動力となったといいます。邦楽を好んだ長世の関心は奥浄瑠璃、琉球歌謡、流行歌にまで及び、文字通り今日の日本の大衆音楽に大きな影響を与えてると考えられます。(「江戸祭の唄」,「哀別」「別後」など、民謡に類別される歌も作っている。)
「如月社」は現在でもあって、本居長世の作品の楽譜や、本を扱ってるようです。

これらは教え子の弘田竜太郎や中山晋平に受け継がれた。本居長世は大衆音楽に果たした役割も大きいと言わざるを得ない。



463 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/20(Tue) 21:26
こうした童謡運動と並ぶ新しい文化運動に、昭和の初めの新民謡運動(童謡・新民謡運動)があげられる。新民謡には、[須坂小唄]「中野小唄」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)などのいわゆる民謡の他、「旅人の唄」「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)・・などの歌曲もある。本居長世も「豊作唄」「江戸祭りの唄」など新民謡に類別される曲を作曲している。

 新民謡運動に集まった野口雨情、中山晋平、本居長世、藤井清水、佐藤惣之助、北原白秋、西条八十、・・歌手の佐藤千夜子、藤本二三吉、・・・はその後の昭和の歌謡・歌曲を担う中心人物となっていく。新作地方民謡が沢山作られるとともに、「船頭小唄」「紅屋の娘」( 野口雨情/中山晋平)・・のように、新民謡は歌謡・歌曲として盛んになり、その後の歌の原型がみられる。


464 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/28(Wed) 22:05
童謡運動の真っ盛り、大正9年ごろから長世は目黒不動の隣に居を構えていた。
ここには西條八十はじめ多くの詩人、歌手、文化人などが集まっていた。目黒不動には「本居長世の碑」が建立され「十五夜お月さん」の歌碑がある。

465 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/28(Wed) 22:16
それからかなり遅れて、慶応普通部時代の藤山一郎(増永丈夫)や、歌手の四家文子も
でいりしていた。
藤山は如月社で本居長世の作品を歌っていた。



466 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/29(Thu) 22:08
作曲家弘田竜太郎、童謡「叱られて」、「雨」「あした」、歌曲「千曲川旅情の歌」などで知られる。
その歌には日本の哀愁を込た歌が多い。弘田竜太郎は、詩の心を生かす最適な歌を作るのに長けた作曲家であった。
こうした歌を作らせたら天下一品である。
弘田は昭和3年ドイツ留学の後、昭和4年7月、師本居長世の後、母校東京音楽学校の教授になるが、1月で教授を辞して作曲家に専念。
西洋音楽と日本音楽との融合に力を尽くした。中山晋平に次ぎ千数百曲の作品がある。
昭和に入ってからも、国民歌謡や映画主題歌その他レコード歌謡作品がある。
また弘田は慶応普通部で、まだ慶応普通部時代の藤山一郎にピアノを教えた。
弘田と本居はまだ若き藤山一郎(増永丈夫)の師でもある。


467 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/29(Thu) 22:46
弘田龍太郎のレコード作品に、国民歌謡「野薔薇の歌」(佐藤惣之助作詞、関種子歌)や
大正三美人、九条武子を歌った東亜映画「無憂華」の主題歌「無憂華の唄」(河原喜久恵歌1930)
「今年の燕」(安藤一郎作詞、霧島昇、松原操歌)、国民歌謡「いさおを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田竜太郎編曲、楠木繁夫、松原操歌、1944.11)の
編曲などある。

468 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/29(Thu) 23:11
「野薔薇の歌」(佐藤惣之助作詞、関種子歌)
「無憂華の唄」(河原喜久恵歌1930)東亜キネマ「無憂華」主題歌
「今年の燕」 (安藤一郎作詞、霧島昇、松原操歌)
「いさおを胸に」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲、弘田竜太郎編曲、楠木繁夫、松原操歌、1944.11)
「お国のために」」(サトウハチロー作詞、加賀美一郎歌)

469 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/30(Fri) 08:14
弘田龍太郎は昭和3年ドイツ留学の後、昭和4年7月、師・本居長世の後、母校東京音楽学校の助教授になるも、1月で助教授を辞して作曲家に専念。
新日本音楽など、西洋音楽と日本音楽との融合に力を注いだ。


470 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/30(Fri) 22:24
明治政府は、西洋音楽導入のため「音楽取調掛」を作った。その後の東京音楽学校である。東京音楽学校は戦後の学制改革で東京美術学校と一緒になって新制東京芸術大学となる。
本居長世は東京音楽学校を全科首席で卒業、助教授になるのだが、文部省邦楽調査員に任命され
邦楽の調査と、邦楽と洋楽の調和融合の研究をした。

当時洋楽崇拝の強い中で、本居宣長の末裔による、こうした音楽運動は邦楽に目も向けられることになった。
この運動は、本居の教え子の弘田竜太郎にも引き継がれた。そして、その後の新民謡運動やレコード歌謡など大衆音楽の普及となった。


471 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/31(Sat) 08:10
明治以来、日本が西洋の文明に追いつくことを目標にして西洋一辺倒だった19世紀末においてさえ、たとえば日本の江戸時代の浮世絵が、ゴッホなどに代表される19世紀末の印象派の画家たちに大きな影響を与えたといわれている。当時二束三文でしかない、包み紙にしかならなかった「浮世絵」をみた、ヨーロッパの画家たちは、そこに衝撃を受けたという。
しかし、音楽の分野では、日本の音楽と西洋音楽との調和は、大きな課題ではあったが、絵画と同じで、依然、フランス印象派とか、ドイツロマン派とかいって崇め、「日本語」の語法・アクセントさえも、西洋音楽を至上のお手本とするものだった。したがって、多くの作品の中には、芸術と崇められたものがある反面、日本の感性とはかけ離れたものとなって、ぜんぜん顧みられることのないものも少なくない。
宮城道雄、本居長世、弘田龍太郎らで進められてきた「新日本音楽運動」は、日本語を使う日本人の手で、本居宣長に代表される日本の伝統美学に根ざす伝統音楽と、西洋音楽との融合・・西洋音楽の中に、伝統音楽の美学を取り入れる・・をめざすものであったということができよう。


472 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/31(Sat) 08:30
弘田龍太郎は、明治25年(1892)高知県安芸市生まれだが、幼時に千葉県、三重県津へと引っ越した。三重ということでは、本居宣長ゆかりの地でもある。本居門下の俊才である弘田龍太郎は、本居長世とほぼ同じ経歴をたどった。
大正5年に発刊されていた「少女号」は少年少女雑誌の型を創り、後に続いた多くの子供雑誌に先鞭をつけたものとして評価される。 テレビやラジオのない時代、「少女号」で全国に紹介された「叱られて」や「靴が鳴る」「あした」「雀の学校」などが、やがて演奏会でも演奏され、レコードとなって子供達に愛唱された。清水かつらは中西屋書店という小さな本屋に就職し編集などをする。童謡運動の初めとされる大正7年の「赤い鳥」の2年前で、「赤い鳥」は「少女号」をまねたものという。
そしてすごいことには、そこで「少女号」という少女雑誌を作る。
、かつらの目指したものは、「赤い鳥」のような芸術性の高い高尚な童謡ではなく、子供達の喜びや悲しみを素直に歌った、自然に子供達の心にとけこんだ童謡であったという。


473 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/31(Sat) 08:44
弘田龍太郎は、小松耕輔、梁田貞らと、日本の声楽曲(日本人独自の感性による)における作曲のパイオニアとして活動することで知られている「作曲研究会」のメンバーでもあり、「新日本音楽」活動をしていたが、弘田龍太郎には、「千曲川旅情の歌」(島崎藤村・詩)などの優れた日本歌曲がある。この歌はテナー・奥田良三が好んで歌うすばらしい日本の詩情(日本人独自の感性)にあふれた歌。
同じく弘田龍太郎の「武蔵野」とともに、「千曲川旅情の歌」は弘田の薫陶を受けた藤山一郎(増永丈夫)の持ち歌でもある。

474 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/01(Sun) 22:52
「野薔薇の歌」
佐藤惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子歌


ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア

昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となった。

「国民歌謡」の前身、昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目。



475 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/11(Wed) 18:11
弘田龍太郎は大正10年軽井沢に山荘を建てて、ここでたくさんの曲を作っている。
島崎藤村は、弘田龍太郎を山荘に訪ねて、「千曲川旅情の歌」の作曲を依頼し、大正14年8月に完成した。
JR中軽井沢駅から浅間山、鬼押し出しに向かう国道146号線の途中の千ヶ滝別荘街、星野(塩壺)温泉入口、弘田龍太郎の山荘があったところに、
弘田龍太郎「千曲川旅情の歌」の曲碑が昭和34年に建立された。
近くの野鳥の森には、北原白秋の「落葉松」の詩碑もある。
バス停「野鳥の森」。

476 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/11(Wed) 22:08
作曲家弘田龍太郎の多岐にわたる音楽活動、そのなかにはNHKラジオの子供音楽番組における活動や
晩年の幼時教育活動があげられる。

弘田龍太郎は作曲のかたわら、NHKラジオの「子供の時間」「幼児の時間」の指導や、児童合唱団の指導、指揮にその中心的役割を果たしている。
戦前昭和10年代から、戦後早々まで、音羽ゆりかご会、東京放送児童合唱団(NHK専属 海沼實「音羽ゆりかご会」のNHKラジオ放送における別称)、白菊児童合唱団、みすず児童合唱団、さくら子供会、ミチル児童合唱団、東京子供唱歌隊,すみれ会音楽園など多くの
児童合唱団が出演したNHKラジオ子供番組で指揮や指導を行った。(JOAK子供番組出演表)
また弘田龍太郎は晩年、長女夫妻の起こした幼稚園(ゆかり文化幼稚園)で園長を務め、小松公輔らを招くなど幼時教育に尽くした。

477 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/12(Thu) 21:34
古賀政男、中山晋平、弘田龍太郎、本居長世、小松耕輔。

50年前の昭和40年に出た古賀政男自伝、古賀政男著「我が心の歌」(展望社1965)には、「昭和12年ごろの第一線の作曲家が一堂に会した珍しい写真」として
この日本の大衆歌謡に尽くした錚々たる5人の作曲家たちが一堂に会した貴重な写真が載っている。

478 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/02/12(Thu) 23:02
古賀政男などはもちろん、古賀政男音楽博物館には、中山晋平、弘田龍太郎、本居長世その他大衆音楽の発展に貢献した滝廉太郎を初めとした多くの音楽家、詩人・作詞家、歌手などが顕彰され、地下のパソコンで選んで多数それぞれ多数の作品を鑑賞できる。

479 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/03(Tue) 13:04
昭和の大衆歌謡史音楽としての「昭和歌謡史」の中で、J-POP系に比べ日本的なものがあまり出てこないというか、知られていのか残念なことである。
忘れてはならない作曲家に万城目正がある。

万城目正は昭和10年代、映画音楽から入った人で、古賀政男との類似性が指摘できる。
古賀政男ほどではないが西條八十とのコンビ曲が多い。
その優しい言葉、そのメロディの優しさ。
日本映画黄金時代、「愛染かつら」三部作、旅の夜風、愛染夜曲、愛染草紙や、純情二重奏、純情の丘、乙女七人。
戦後の、リンゴの歌、越後獅子の唄、この世の花、など永く心に記憶されるものが多い。

480 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/03(Tue) 18:28
昔の日本人の心優しさ、節度ある清爽さを表す昔の日本の歌。
古き佳き日本人の歌は癒され心を打たれすばらしい。

万城目正

旅の夜風 西條八十作詞 1938 霧島昇、ミス・コロムビア
愛染夜曲 西條八十作詞 1939 同上
愛染草紙 西條八十作詞 1939 同上

純情二重奏 西條八十作詞 1939 霧島昇、高峰三枝子
純情の丘 西條八十作詞 1939 二葉あき子
乙女七人 西條八十作詞 1939 ミス・コロムビア
愛馬花嫁 西條八十作詞 1940 ミス・コロムビア、菊池章子、渡辺はま子

リンゴの歌 サトウハチロ―作詞 霧島昇、並木路子
越後獅子の唄 西條八十作詞 1950 美空ひばり
哀愁日記  西條八十作詞  1954 初代コロムビアローズ
この世の花 西條八十作詞  1955 島倉千代子


481 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/12(Thu) 22:30
仁木他喜雄 その忘れられない曲

荒野(あれの)の夜風(西條八十作詞)霧島昇、ミス・コロムビア 1939 (「愛染かつら」三部作完結編挿入歌)
高原の月(西條八十作詞)霧島昇、二葉あき子 1939.12 ([高原の月」主題歌)
めんこい仔馬(サトウハチロ―作詞)二葉あき子、高橋祐子、コロムビア児童合唱団 1941

482 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/12(Thu) 23:05
竹岡信幸
古賀政男の弟子です。

人妻椿   (高橋掬太郎作詞)松平晃
赤城の子守歌(佐藤惣之助作詞)東海林太郎 1934
悲しき子守唄(西條八十作詞) 霧島昇、ミス・コロムビア 1938 「愛染かつら」挿入歌
朝月夕月(西條八十作詞) ミス・コロムビア 1939 「続・愛染かつら」挿入歌
支那の夜(西條八十作詞) 渡辺はま子    1938 「支那の夜」主題歌
白蘭の歌(久米正夫作詞) 伊藤久男、二葉あき子1939 「白蘭の歌」主題歌

483 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/13(Fri) 23:30
江口夜詩
  古賀政男、同時代唯一ライバル

忘られぬ花 (西岡水朗作詞) 1932
浮草の唄  (久保田宵二作詞)1933.3 ミス・コロムビア、デビュー曲
十九の春  (西條八十作詞) 1933  ミス・コロムビア(松竹「十九の春」主題歌)
急げ幌馬車 (島田芳文作詞) 1934 松平晃
あの夢この夢(西條八十作詞) 1936  二葉あき子


484 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 00:13
☆戦前の流行歌

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



485 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 18:13
古関裕而

船頭可愛いや (高橋掬太郎作詞)1935 音丸
暁に祈る   (野村敏夫作詞) 1937 中野忠晴、松平晃([聖戦愛馬譜 暁に祈る」主題歌)
露営の歌   (薮内喜一郎作詞)1937 伊藤久男
若鷲の歌(予科練の歌)(西條八十作詞)1944霧島昇、波平暁生
ラバウル海軍航空隊(佐伯孝夫作詞)  1944灰田勝彦
比島決戦の歌 (西條八十作詞)    1944 酒井弘

486 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 18:21
服部良一
 和声ポップス界の先駆者 1936年コロムビア専属

別れのブルース (藤浦洸作詞)1937 淡谷のり子
蘇州夜曲    (西條八十作詞)1940 渡辺はま子、霧島昇〈「支那の夜」挿入歌)
湖畔の宿    (佐藤惣之助作詞)1940高峰三枝子


487 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/14(Sat) 18:57
佐々木俊一
 
 昭和6,7年怒涛のごとき「古賀メロディ」の浸透によって、「晋平・節」の時代から「古賀・メロディ」―の時代へと世の流れが移っていく。
 ビクタ―の顔、中山晋平も熱海に別荘を建てピアノを送ってしまう。以後戦後まで虚ろな余生を送る。
 そんな中で、中山晋平に代わるビクタ―の顔は戦後まで佐々木俊一になる。

 涙の渡り鳥(西條八十作詞)1932 小林千代子
 島の娘  (長田幹彦作詞)1933 小唄勝太郎
 僕の青春 (佐伯孝夫作詞)1933 藤山一郎
 無情の夢 (佐伯孝夫作詞)1935 児玉好雄

488 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/17(Tue) 10:08
昭和10年に建てられた中山晋平の熱海の別荘を移転した中山晋平記念館〔熱海の別荘]その2階に上る階段や手すりに使用されている木材には多くの節(ふし)があります。
中山晋平は自分の音楽の【節】にちなんで、このような木材で建築するよう依頼したのだ。

大正10年(1921)に作曲した「船頭小唄」(野口雨情作詞)。これが大ヒットして日本の歌謡曲の基本的な型となり,
その後の「東京音頭」「東京行進曲」など一連の歌謡曲も含めて,「晋平節」といわれた。

「晋平節」=晋平流の四七抜き五音短音階(ラ・シ・ド・ミ・ファ)の曲

これに対し、セコビアなど、ギター音楽と奏法を徹底的に研究し尽くした古賀政男。

ギターの流暢な音の特徴を活かして、《青春の息吹》をその【メロディー】に載せた。

古賀政男は、もう『○○節』の時代ではなく、「“メロディー”の時代」だと主張。
「“メロディー”の重要性」を訴えたのだ。

新聞は、「『晋平節』の時代から『古賀メロディー』の時代へ」と大きく書いた。


ここに、『古賀メロディー』という言葉が広く決定的となり広く定着してゆくことに。

そして、歌の流れが中山晋平(晋平・節)のビクターから、『古賀・メロディー』のコロムビアへと移ってゆく、戦後に至るまで。

昭和9年『皇太子さまお生まれなった』(北原白秋作詞)を最後に晋平は、戦後に至るまで、ほぼ空ろな悠々自適の生活を送る。

西條八十も、昭和10年9月にビクター専属からコロムビア専属に。

詩人西條八十の代わりにビクタ―の顔となったのは、戦後に至るまで作詞家佐伯孝夫となる  


畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)


489 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/26(Thu) 23:53
名門ビクタ―は、佐藤千夜子が古賀作品7曲を録音して日本を後にしたのが昭和5年10月。

昭和6,7年にかけ「古賀メロディ」の出現によって大きく、その顔を失ってゆく。

のちに戦前、戦後にかけ古賀政男とのコンビで最も多くの作品を世に送り出すことになる詩人・西條八十。待遇改善を求めた彼は、昭和8年の1年間ビクター専属のままコロムビアで活動することを許された。
古賀作品、「サーカスの歌」(松平晃)、「「お蝶夫人」の歌」(ミス・コロムビア)などである。

その後昭和9年の1年間、ビクタ―専属に戻ったのだが、昭和10年9月、コロンビア専属となり、以後戦後まで変わらない。

一方、昭和9年に、専務待遇でテイチクに移った古賀政男は、その後「外務省音楽文化親善使節」として渡米、凱旋帰国。
昭和14年に再びコロムビア専属に戻った。

コロムビアにおける西條・古賀コンビ復活最初の作品が「誰か故郷を想わざる」(霧島昇)である。

以後、古賀政男はコロムビア、テイチクに続き第三期黄金時代、そして戦後の第四期黄金時代をを迎える。

490 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/29(Sun) 19:56
東京大衆歌謡楽団
h ttp://tpmb.jp/
h ttp://chesterfield-records.com/release/ttkg/


今、日本人として唄わなければならない歌がある。

昭和歌謡はメロディにやすらぎがあった。
歌詞に心があった。
昭和の時代には夢があった。
希望があった。

古き良き日本の時代、古賀メロディー等を唄う。



491 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/03/31(Tue) 23:29
影を慕いて
 詩・曲 古賀政男


まぼろしの 影を慕いて
雨に日に
月にやるせぬ 我が想い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦がれつつ しのび泣く

昭和歌謡の最高傑作と言われる。
古賀メロデイの名曲にして「日本の名曲」。

平成の初めごろ、NHKTVでは、「日本の名曲10」として、「荒城の月」など10曲を、番組の終わりの時間に、1年間毎週1曲ずつ流した。その1曲でもある。

作曲者古賀政男の人生の苦悩・絶望からの魂の叫びが込められているといわれる日本の名曲。この歌が作られた昭和3年(1928)、現在あるほとんどすべての歌謡曲はまだ存在していなかった。

昭和4年アンドレ・ゼコビアの来日を経て完成して行く。昭和5年10月ビクタ―の佐藤千夜子によって吹き込まれ、昭和6年〈1931)1月新譜で発売。

翌昭和7年、藤山一郎によってコロムビアで吹き込まれ昭和7年3月新譜。

「波浮の港」「丘を越えて」と共に、80年を超えた今日でも演奏会等で根強く演奏され歌われ続ける文句なしの定番日本の名曲。

492 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/01(Wed) 18:45
丘を越えて


 作詞:島田芳文
 作曲:古賀政男
  歌唱:藤山一郎


丘を越えて行こうよ
 真澄の空は朗らかに
 晴れてたのしいこころ
 鳴るは胸の血潮よ
 讃えよわが青春(はる)を
 いざ行け遥か希望の
 丘を越えて

昭和4年、マンドリン合奏曲「ピクニック」として作られ、新興映画「姉」の主題歌として野口雨情門下の詩人島田芳文の詩になる青春賛歌。元祖「青春歌謡」である。
昭和改元(1926年12月)のちょうど5年目、昭和6年(1931)12月、東京音楽学校の学生だった藤山一郎によってレコード。 藤山一郎とのコンビで9月「酒は涙か溜息か」、昭和7年「影を慕いて」とともに「古賀メロディ−」を確立した。(「写真 昭和30年史」毎日新聞社1956)

戦後70年、昭和90年、「影を慕いて」とともに、童謡と同じく演奏会などで80年を超えて歌われ演奏されている数少ない「日本の名曲」である。
46小節よりなる前奏、歌の部分より前奏・間奏・後奏の方が長い「古賀メロデー」の代表的な曲。
山田耕筰は「明朗性」を表す作品として高く評価、ヨーロッパに行くときはこのレコードを持ち歩いて日本の代表的な作品として自慢していた。

493 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/03(Fri) 18:36
コガ・ミュージアムコンサート
東京大衆歌謡楽団 永遠の古賀メロディー コンサート

良き昭和の時代を今に歌い継ぐ
昭和生まれの平成育ち「東京大衆歌謡楽団」による
古賀メロディーのコンサート

昭和時代の安らぎ、温かさ、夢などを感じながら
古賀メロディーの世界をお楽しみください。

古賀政男音楽博物館けやきホール>>329
東京都渋谷区上原3−6−12
小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅前
 TEl.03-3460-9051

2015年5月30日(土)14:00〜
指定席制 料金 2000円

494 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/15(Wed) 06:56

伝説の歌姫李香蘭の世界

アーティスト名: 李香蘭



「蘇州夜曲」「夜霧の馬車」「紅い睡蓮」「夜来香」「何日君再来」「サヨンの歌」「迎春花」 そして歌謡史上の新発見作品、貴重曲を含む永遠の47曲。

歌謡史上のお宝発見!
ベストともいえる絶唱で録音され、封印された幻の2曲(雲のふるさと、月のしづく)ついに世に。 李香蘭 コロムビア時代以降の代表曲集。 大半を最新の技術で音質改良しました。
販売価格: ¥3,240
予約受付中
CD2枚組 E6378 COCP-39074
2015年04月29日発売

495 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/15(Wed) 07:01
04/12 07:11 NHK総合 【おはよう日本】
“李香蘭”未発表の歌・2曲見つかる

戦時中日本人であることを伏せて李香蘭の名前で女優として活躍し去年亡くなった山口淑子が、戦時中に録音したとみられる未発表の歌2曲(「月のしずく」「雲のふるさと」)があることがわかった。
戦地に赴いた兵士の涙を描いたとみられる歌詞もあり、レコード会社は“戦時中にはそぐわない”として発売を自粛した可能性もあるとしている。
古賀政男音楽文化振興財団に言及。
この歌は今月29日に発売されるCDに収録されるという。
日本コロムビア・男性のコメント。
♪未発表の歌「月のしずく」、「雲のふるさと」/山口淑子(作詞・大木惇夫、作曲・古賀政男)。

496 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 08:16
大衆音楽の歴史を考える上で、レコード歌謡は昭和3年「波浮の港」に始まるとされる。
それ以前は演歌歌手と呼ばれる人のバイオリンによって広められた。
なお、今にいう「演歌」とは、これとは別に日本が戦後復興から豊かになる戦後に出てきたものである。

昭和29年の「お富さん」がそのはじめで、春日八郎が歌った。作曲は渡久地政信である。
演歌歌手の走りとなった「春日八郎」は、演歌として他に

「赤いランプの終列車」(1952 江口夜詩作曲)
「お富さん」     (1954 渡久地政信)
「別れの一本杉」   (1955 船村徹)

などたくさんあって、戦後演歌の原点江口夜詩に始まる、渡久地政信、船村徹は戦後≪演歌≫の
創始者と言えよう。

なお、昭和29年というのは大きな転換点で、古賀政男とともに昭和のレコード歌謡を引っ張ってきた藤山一郎が、レコード会社専属をやめ、
NHKの嘱託となったのだ。

また古賀政男と「演歌」を結び付けるのがあるが、これは間違いであることを付け加えておかねばならない。
演歌の走りは江口夜詩であり、渡久地政信、船村徹あたりだ。


昭和30年代の古賀政男と言えば、誰しも認める「歌謡界の大御所」であるとともに、
押しも押されもせぬ『日本の名士』であった。

そんな本筋から外れたことを推進するまでもない大御所であった。

彼は、著作権で他を圧倒し、指には大きなダイアをつけ、大きな邸宅に住み、リンカーンなど大きな外車を何台も持ち、
草創期のテレビの「ものまね歌合戦」など歌番組の審査員として「よかったね!、よかったね!」と出場者を励ます。

昭和33年には「日本作曲家協会」を作り、自ら会長として作曲界に尽くした。日本レコード大賞を創設したり、古賀政男記念音楽隊賞を作ったことで知られる。


497 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 08:21
訂正 古賀政男記念音楽大賞

498 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/19(Sun) 09:57
戦後の「演歌」の始祖は、古賀政男のライバルだった人、江口夜詩で、その歌手は春日八郎だったんですね。

499 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/04/28(Tue) 07:30
歌謡史上のお宝発見!
ベストともいえる絶唱で録音され、封印された幻の2曲(雲のふるさと、月のしづく)ついに世に。 李香蘭 コロムビア時代以降の代表曲集。 大半を最新の技術で音質改良しました。
販売価格: ¥3,240
予約受付中
CD2枚組 E6378 COCP-39074
2015年04月29日発売


500 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/07(Thu) 19:16
>>496
参考までに、いわゆる戦後演歌は春日八郎、江口夜詩に遡るといわれる。春日八郎は藤山一郎のステージを浅草で見て歌手に憧れる。
エンジニアを志し13歳で上京し、苦学の末に早稲田大学高等学院理科に入学するが、時が過ぎても憧れが薄れるどころか増すばかり、やがて東洋音楽学校へ進む。
音楽学校を卒業し、ムーランルージュ新宿座に入団、歌手を目指し活動を開始する。
キングレコードのコンクールに合格し準専属歌手となっても無給、先輩歌手の前座を務めるも、進駐軍の払い下げ品を闇市で売って生活をするほど赤貧の状態が続く。
その後、作曲家/江口夜詩の家に毎日のように通い、掃除から肩揉みまで行ないながら最後のチャンスと考え、曲を作ってもらえるよう願いながら、歌の研鑚に努めた。
そして、運命の「赤いランプの終列車」を作曲してもらう。
引き続き「お富さん」(渡久地政信作曲)の爆発的な大ヒット、「別れの一本杉」とヒットしを続け、当時の「流行歌」に取って代わり「演歌」の分野を拓いた人物といわれる。「故郷歌謡」という新天地を築いた点には、異論はあるまい。
その後、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、島倉千代子らが演歌に登場し、美空ひばりがデビューする。
そして、北島三郎、都はるみらが出て演歌の全盛期を迎えるが、春日八郎は演歌歌手の第一人者であり続け、生涯、歌唱力が衰えることはなかった。
生涯に吹き込んだ楽曲はいいかげんあものではなくて、通算1千6百曲を超え、レコード総売上は7千万枚を超した。戦後演歌の魁と言われる所以である。

501 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 14:38
昭和16年、福島から上京した春日八郎は初めて訪れた浅草で藤山一郎のステージに魅了される。強い憧れを抱いた春日は、音楽学校に進む。24歳になった春日はキングレコードの新人歌手オーディションに合格し、専属となる。しかし、なかなかレコードが出ない。なぜなら、キングレコードには当時人気歌手の岡晴夫がいたので、春日は注目されなかったからである。
その頃将来妻となる恵子さんと出会い同棲をはじめる。間もなく恵子は妊娠し、子供のためにも歌手を諦め普通の仕事をしようと考えるが、恵子は夫の才能を信じ、自分の師匠でもある作曲家・江口夜詩に春日の曲を書いてもえるように頭を下げ続けた。

4年後、江口夜詩作曲の「赤いランプの終列車」が発売される。この曲がみごとヒット。それからわずか2年後、「お富さん」という名曲と出会う。「お富さん」は日本歌謡界初のミリオンセラーとなる。一躍大スターになった春日だが、自分の本当に歌いたい曲にはまだ出会ってなかった。
そんな時春日は、キングレコードの廊下で、まだ駆け出しの作曲家だった、のちに「王将」などたくさんの歌で知られることになる船村徹に自分の作った歌を歌ってほしいと懇願され、1曲の歌を提供される。それが「別れの一本杉」である。これこそが春日の求めていた歌であり、望郷演歌の原点となった曲である。
三橋美智也、村田英雄と共に「演歌」というジャンルを確立したいく。そのため春日は演歌歌手第1号と呼ばれた。その後30年以上「演歌」を唄い続けた春日は1989年に紫綬褒章を受章する。


502 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 14:47
江口夜詩は、明治36年に上石津町時地区(当時の時村)の農家の次男として生まれた。(中略)大正8年、16歳で海軍軍楽隊に志願し、横須賀海兵団に入団した。ここで第1期軍楽補習生として1年間学び、首席で卒業、軍楽隊のトロンボーン奏者としてスタートした。(中略)太平洋戦争中のヒット曲には「月月火水木金金」「轟沈」「海底万里」等がある。戦後は、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」「東京の空青い空」、小畑実の「長崎のザボン売り」、津村謙の「緑の牧場」「天草のバテレン祭り」「赤いマフラー」、近江俊郎の「湯の町月夜」、春日八郎のデビュー曲「赤いランプの終列車」等、軽快でリズミックな歌の作曲で、一世を風靡した。また、昭和29年には、岐阜県養老町の依頼で春日八郎の「瓢箪ブギ」を作曲した。〉
(江口夜詩記念館 展示パネルより)


江口夜詩は生涯で4000曲も作曲したといいます。古賀政男唯一のライバルと言われ、その他戦前のヒット曲に、亡妻に捧げた「忘れられぬ花」、「急げ幌馬車」、
「十九の春」(沖縄で有名な方とは違いますよ)などがあります。

503 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/14(Thu) 20:13
(参考)戦後演歌の系譜 【春日八郎と江口夜詩】

赤いランプの終列車 大倉芳郎作詞 江口夜詩作曲     白い夜霧の灯りに濡れて
雨降る街角     東条寿三郎作詞 吉田矢健治作曲       
お富さん      山崎正作詞 渡久地政信作曲     粋な黒塀見越しの松にあだな姿の洗い髪死んだ筈
瓢箪ブギ      高橋掬太郎作詞 江口夜詩作曲    飲めや歌えや世の中は酒だ酒だよ瓢箪ブギどうせ
山の吊橋      横井  弘作詞 吉田矢健治作曲   山の吊橋ァどなたが通るせがれなくした鉄砲撃が
別れの一本杉    高野公男作詞 船村  徹作曲    泣けた泣けたこらえ切れずに泣けたっけあの娘と


504 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 14:47
戦前に双璧を築いた二人の作曲家、古賀政男と江口夜詩のメロディを歌った歌手に松平晃がいる。古賀のテイチク移籍後のコロムビアの顔は、江口―松平コンビであった。一方、古賀メロディーの浸透によって、中山晋平、西條八十のかけることとなった名門ビクタ―の顔は、戦後に到るまで佐伯孝夫・佐々木俊一コンビになっていく。
松平は、藤山一郎がコロムビアに穴を開けていた、ビクター、テイチク時代の昭和8年から約6年間、ヒットを連発したが、昭和14年4月、藤山がコロムビアに戻ってからは低調で、後にコロムビアを離れテイチクに移籍している。
1936?年(昭和11?年)にかけて、東海林太郎・上原敏のポリドールの道中物、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う古賀メロディーのテイチク、江口夜詩―松平晃のコロムビア、佐々木俊一が台頭するビクターと激しいヒット競争が展開した。昭和13年霧島昇・ミス・コロムビアが歌う「旅の夜風」が大ヒットし、コロムビアは映画主題歌で全盛期を迎える。1940年(昭和15年)からは古賀メロディーの第三期黄金時代を迎え、松平晃の人気も翳りが見えてきた。
昭和13年から14年にかけての映画「愛染かつら」三部作のコロムビアにおける「万城目正」の活躍などで翳りを見せていた江口夜詩は、昭和14年の古賀政男のコロムビア復帰、西條八十―古賀政男黄金コンビの復活、藤山一郎とのコンビ復活による「古賀政男第三期黄金時代」の復活によって、江口―松平コンビも見る影もなくなった。この時代、江口夜詩は海軍軍楽隊の経験もあり「月月火水木金金」「轟沈」など主に軍歌を作ることになる。
そして、江口夜詩は昭和24年にキングに移籍することになる。江口夜詩と古賀政男の唯一ライバル関係は実は初期コロムビアの一時期だけだったのだ。このことが古賀政男の第二期黄金時代、いわゆる「テイチク黄金時代」への架け橋となったのだ。外人重役の推し進めた二人を競わせるという政策で、そのため離婚問題と重なり古賀は体調を崩し入院することとなった。
そこに目を付けた出来たばかりの「帝国蓄音機」(本社奈良)の南口社長から強い招聘を受けることとなった。重役待遇で全権を任せるというものだった。ここに世にいう「テイチク黄金時代」が始まる。そして、コロムビア復帰の頃はもう外人重役時代は終わっていた。テイチクを辞めて
外務省音楽親善使節として、アメリカ、南米を回り凱旋帰国した古賀政男は昭和14年コロンビアに復帰、その最初が西條八十作詞、霧島昇『誰か故郷を想わざる』だった。







505 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 15:37
古賀政男のもっとも脂の乗り切った時期、それは昭和12年ごろ、テイチク黄金時代、
「人生の並木道」「青い背広で」(いずれも佐藤惣之助作詞)のころとされる。

古賀作品には映画主題歌がとりわけ多い。

古賀はとくに映画会社とタイアップして映画音楽、主題歌に力を入れ、たくさんの今に残る映画主題歌がたくさんある。

昭和12年当時の各社の映画主題歌のなかでもテイチクの多さがひときわ際立つ。
テイチク  90曲
コロムビア 49曲
ビクター  41曲

テイチクの90曲のうち古賀政男作曲が43曲

506 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 16:04
昭和9年〈1934)5月15日、専務取締役兼文芸部長兼・・兼作曲家として、古賀政男は
東京銀座にテイチク東京文芸部(通称古賀文芸部)を発足され、ここに
テイイクが発足。

ここに「七人の侍」と言われる旧来の「明大マンドリクラブ」の仲間を呼び寄せた。
彼らは時に秘書であり、懐刀であ、パッカードやリンカーンの運転手である。

また「明大マンドリクラブ」も名前を変えて参加している。

テイチクにはテイチクオーケストラのほかにも、古賀政男サロンオーケストラ、古賀政男オーケストラなどが
そうである。

古賀政男サロンオーケストラ
男の純情
愛の小窓
緑の月
真実一路の唄
白衣(びゃくえ)の佳人

明大マンドリンクラブ
青い背広で
荒城の月
宵待草


テイチクオーケストラ

古賀政男オーケストラ
女の階級
回想譜
青春の謝肉祭
南国の乙女
ああそれなのに
人生の並木路
黒いパイプ
人生劇場




507 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/17(Sun) 16:39
いつの間にか人が言うようになる
  古賀政男邸の玄関で 毎朝、お金の音がする。

これは昭和の大作曲家、古賀政男氏の自宅に、郵便局から毎朝、現金入りの書留が送られてくる、という業界人が作った話が一人歩きして、そう伝えられた伝説。
これは想像に難くない。

いつの時代も、古賀氏のメロディーがありとあらゆる場所で流れている様は、まさに「印税長者」というにふさわしいだろう。

明大卒業と同時に代々木上原に移った古賀政男は、代々木上原に古賀村を作り同志を呼び集めたいと思っていた古賀政男は、
代々木上原駅前の松林が気に入って、地主と掛け合い、昭和12年に、駅前の松林一山三千坪を手に入れた。

これが旧古賀邸、現在の「古賀政男音楽博物館」と、一体のJASRACのビル。

当時、私鉄が沿線の現在高級住宅地と呼ばれる駅前を分譲していたころだ。

そこが100坪からせいぜい200坪であったのに比べ、桁違いの大きさ。(ちなみに「目白御殿」が2750坪)

その辺りで2000円で家が建つと言われたころに、20万円をかけて清水建設に建てさせ昭和13年に完成した。

その豪華な和様折衷の洋館は、講談社「日本の洋館」に残っている。

508 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/18(Mon) 20:01
江口夜詩の戦後は、昭和24年にコロムビアからキングに移籍。
「憧れのハワイ航路」「赤いランプの終列車」「長崎のザボン売り」「ひょうたんブギ」など数多い。また門下には若者たちがよく集まり、小畑実、岡晴夫、春日八郎らが巣立った。「春日八郎」は戦後の「演歌」の魁であり、江口夜詩とともに、当時の「流行歌」に取って代わり「演歌」の分野を拓いた人物といわれる。

一方、戦後の古賀政男は、「麗人の歌」「旅役者の唄」「三百六十五夜」「赤い靴のタンゴ」・・美しい日本語と、詩に心がある心に残るやさしい歌、西條八十との黄金コンビから多くの殊玉の名曲が生まれ、第四期黄金時代を迎えた。
昭和30年代の古賀政男は、押しも押されもせぬ歌謡界の「大御所」であるというだけでなく「日本の名士」であった。昭和33年には「日本作曲家協会」を作り、自ら初代会長となり作曲家の地位の向上、「レコード大賞」など後進の発展に尽くしたことで知られる。




509 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/19(Tue) 21:38
代々木上原駅と交差する井之頭通りも拡幅され当時のお面影はそこにない。

古賀政男の屋敷のあたりはうっそうとした森で、井之頭通りから屋敷は見えなかった。
かって萩原朔太郎や佐藤惣之助が、詩や歌の談義にはずんだり、西條八十、李香蘭と三人が「夜霧の馬車」の曲を作った古賀邸の応接間。

戦後は、「りんどう峠」の島倉千代子が、「ハイのハイノハイ」ができなくて何度も通い、
あの門から玄関までの長かったこと!と言わせた、石畳のなだらかな坂道。

これらは「古賀政男音楽博物館」の中に移設再現されている。

ここはかって、萩原朔太郎、佐藤惣之助、サトウハチローなど詩人や作曲家や、多くの歌手などが通い、あの多くの名曲の生まれたところ。

また半世紀にわたる古賀政男は著作権でも他の分野を含めて圧倒的であった。

また日本音楽著作権協会の設立に関わったり、自ら「日本音楽著作権協会会長」や、「日本作曲家協会」初代会長を務めるなど、誰もが認める「大御所」だった。

西新橋にあった「日本音楽著作権協会」(JASRAC)は、「古賀政男音楽博物館」新設に合わせて、古賀財団(古賀政男音楽文化振興財団)のこの一体のビルにテナントとしてそびえたつ威容はそれをものがったっている。


510 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/21(Thu) 20:22
>>159-161
古賀政男さんがつくった軍歌・軍国歌謡 その五「勝利の日まで」。−ブログ高知
コメント
「勝利の日まで」これ古賀メロデーの隠れた名曲だと思います。
これは、勝利の日までというより、敗戦の坂を転がり落ちていく中で、その心情を歌ったもので、実は、昭和19年から始まった学童疎開の学童によって歌われたそうです。以下にある雑誌からの投稿を紹介します。(コメント

h ttp://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2008/04/post_6c1b.html


511 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 19:09
いわゆる「流行歌」といったレコードに対し、ラジオ(NHK)では「歌謡曲」といった。
歌謡曲と言った場合はクラッシックを意味した。

流行歌または歌謡曲の黄金時代はSP時代と重なる。
日本で最後のSPレコードは昭和37年(1962)であった。

その後日本が豊かになるとともに大きく変質していくことにある。

NHK「あなたのメロディ」(1963)では、素人作曲が始まる。
また昭和40年代にはいるとテレビのナツメロブームが起こる。

懐かしの歌を振り返るのはよかったのだが、何でも作曲家の後ろに「メロディ」の名をつけてしまったのはまちがい。

SP時代に、実際に広く使われ愛されたのは戦後まで『古賀メロディ』ただひとつだけだった。

『古賀・メロディ』とは、昭和初期に主流だった「晋平節」に対するもので、「晋平・節」に変わりメロディで主流となった古賀作品に対する敬愛を込めた称号のようなもの。

512 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 22:55
☆インテリ層と古賀メロディー

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発。」

そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう。

「酒は涙か溜息か」(1931.9)に続く、藤山一郎の「丘を越えて」(1931.12),「影を慕いて」〈1932.3)、

 人は敬意を表して「古賀メロディ」と呼んだ。


(参 考)
毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は泪か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たちの写真も。

513 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 23:07
酒は涙か溜息か

作詞 高橋掬太郎 作曲 古賀政男
昭和6年9月

1 酒は涙か溜息か
  心のうさの捨てどころ

2 遠いえにしのかの人に
  夜毎の夢の切なさよ

3 酒は涙か溜息か
  かなしい恋の捨てどころ

4 忘れた筈のかの人に
  のこる心をなんとしょう

この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた。

また、これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。


同時に「歌う昭和史」の昭和史たる、歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。


514 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/25(Mon) 23:24
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。

古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。



515 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/26(Tue) 21:05
昭和6,7年に、主流だった「晋平節」の時代から、
「メロディー」の重要性を主張し実践した古賀政男。

今や『古賀メロディー』に似せた作曲家の後ろに「メロディ」をつけた、意味の違う軽い表現で、たくさん使われているのは残念なことである。

しかしそれは戦後、ものが有り余る飽食の時代の真っ盛り、昭和40年代以降のナツメロブームの産物で、戦後に到るまでそういうものが実在したわけではない。

516 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 06:32
ネット上などには、もっともらしく作曲家の後ろに「メロディ」をつけた物があふれているが、たとえば「服部メロディ」・・とかの類、
誤解を招く。

517 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 07:02
戦後20年代までのSP時代に、実際には使われていないVirtualなものの代表的なものとして

「服部メロディ」などのほかにも、「古関メロディ、」、「江口メロディ」、「吉田メロディ」・・などがあげられるだろう。

518 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/05/27(Wed) 20:03
昭和は明治、大正を合わせたより長く、60年を超えている。
戦前、戦後を通じて、たえまなく、切れ目なく、メジャーなヒット曲をこれほど多く持つのは、「古賀メロディー」をおいてない。

519 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/02(Tue) 07:06
主に戦前の一時期の江口夜詩、逆に主に戦後の一時期の古関祐而、主にリズム系、J−POP系とされる服部良一。
それぞれいろいろだが、戦前戦後を通じて誰もが知っているようなメジャーな「ヒット曲」となると非常に少なく、10曲程度。

520 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/10(Wed) 18:31
日本の歌謡曲の歴史をつくった作曲家・古賀政男、歌謡曲の歴史そのものであるだけに、古賀政男に関する文献は圧倒的に多い。

まずその最初は、テイチク黄金時代、昭和13年(1938)11月、作品104編と半生物語、作品研究を収録し、B5判393頁と浩瀚な宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』>>152である。

・・豪華な大型本で、序文や推薦文には、萩原朔太郎、中山晋平、三浦環、佐藤惣之助、小松耕輔、サトウハチローなど、錚々たるメンバーが寄稿している。(なお、この新聞広告には「古賀メロディ」という言葉が使われている。)


宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻昭和53年10月)

詩人の萩原朔太郎は、「古賀政男と石川啄木」と題する序文を寄せ、二人に共通する情想について、次のように記した。
 「現代日本の社会が実想しているところの、民衆の真の悩み、真の情緒、真の生活を、その生きた現実の吐息に於て、正しくレアールに体感しているロマンチシズムである。それ故にこそ彼等の藝術は、共に大衆によって広く愛好され、最もポピュラアの普遍性を有するのである 」。
 そして、古賀を「西洋音楽の形式を日本音楽のモチーフによってアレンジし、現代日本人の血肉に同質血液化させた。」と評した。

大正から昭和の初めにかけて、「『誰でも歌える歌』ずくり」を目指した中山晋平(晋平節)、これに対し古賀政男は、昭和の初め、大衆性をもった「古賀メロディー」という新しい潮流を創出し、歌謡曲・流行歌を、「昭和」という時代を象徴する「文化」に発展させた。



521 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/11(Thu) 12:29
古賀政男と石川啄木(『古賀政男芸術大観』)・「萩原朔太郎全集 第14巻 雑纂」筑摩書房 1978.2.25

522 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/14(Sun) 20:08
古賀政男のこのテイチク時代は飛ぶ鳥を落とす勢いで年齢的にも、もっとも脂ののった時期と言われる。

昭和12年には、代々木上原駅前の松林三千坪を手に入れ、清水組(清水建設)に頼んで邸宅を建てる。
この邸宅が完成したのが昭和13年4月のことだった。

この後古賀政男はまことに忙しい。

昭和13年6月「人生劇場」を最後にテイチクをやめ、昭和13年11月8日にはコロムビアに移籍復帰するのだが、その前に「外務省音楽文化親善使節」としてアメリカや南米に立つ。

11月14日には、藤原義江らの見送りを受けて横浜港からハワイ経由で龍田丸でアメリカに向けて出港。

同じく13年11月には、上記「古賀政男藝術大観」がでる。

1年後の昭和14年10月10日帰国。三浦環の歓迎会を受ける。

523 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/15(Mon) 19:47

戦前の流行歌〈1928?〉

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



524 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/15(Mon) 19:49

戦前の流行歌〈1928−1943)

h ttp://kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt



525 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/25(Thu) 07:59
「昭和」という激動の時代、レコード歌謡は生まれ激動の時代を生きてきた。

レコード歌謡の黎明期から、戦前・戦後までたくさんの「作曲家」が生まれた。そして多くの曲が世に出た。>>524

でも、この激動の時代を通して一貫してヒット曲を生み出し得たのは、古賀政男の「古賀メロディー」しかない。

昭和の初めから「古賀メロディー」と呼ばれ愛された理由もここにある。



「古賀メロディー」とは昭和の歴史とともにあった「時代性」の重みと「普遍性」を持つ。

526 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/28(Sun) 23:30
>>256-258 索 引 (主なもの)

>>269-270 昭和SP歌謡 主要歌手(戦前・戦中)


527 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/06/29(Mon) 17:04
>>434 ☆古賀政男に関する文献☆


528 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/08/20(Thu) 09:47
古賀政男総合スレ  2Ch BBS(懐メロ邦楽)

 h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/

529 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/06(Tue) 08:34

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=35

530 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/30(Fri) 21:43

・新東宝映画 1949「影を慕いて」(古賀政男作曲生活20周年記念制作映画)
 主題歌 希望に燃えて(サトウハチロ―作詞、古賀政男作曲)


★「希望に燃えて」(伊藤久男・霧島昇・近江俊郎・高倉敏・二葉あき子・奈良光枝)ー新東宝が古賀政男作曲生活二十年を記念して上原謙・山根寿子主演、野村浩
 将監督で制作した「影を慕ひて」のラストシーンを飾る主題歌となったが、もともとこれは映画のためではなく、NHKの視聴者リクエストによる「希望音楽会」のテーマーソングとして制作されたもの。


★ 希望音楽会(1945年、NHK)
 主題歌:「希望に燃えて」
  音源:「思い出のラジオ・テレビ主題歌集」(GES-31299)より
  敗戦後初の歌謡曲番組。

  1945年8月15日、昭和天皇が「終戦の大詔」を放送、日本は事実上敗戦し、無条件降伏した。
  そんな時世の中、国民に希望を与えるため、10月3日に本番組は開始された。
  リスナーからのリクエスト曲を出演歌手が生で歌うといった内容のもので、資料によれば戦後初の
  大ヒット曲「リンゴの唄」も、この番組で初めて電波に乗ったそうである。

  番組最後に出演者全員によって歌われるのが「希望に燃えて」であり、サトウハチロー作詞、古賀政男
  作曲によるこの曲は、後半のメジャーに転調する展開と一気に希望を歌う歌詞と一体になって、当時の
  国民に大きな希望を与えたであろう名曲である。
  (但しレコード化されたのは昭和24年〈1949〉のこと。)

東日本大震災の被害に遭われた方々にぜひ聞かせてあげたい曲です。




531 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/10/31(Sat) 13:05
>>530

希望音楽会(昭和20年10月?)

NHKラジオ放送 戦後最初の歌番組
「リンゴの唄」もこの番組から世に出た。

主題歌 希望に燃えて(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)
  
   ♪ あなたも私も いつも心は春よ・・

532 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/16(Sat) 18:42
【美輪明宏】冬に聴きたい昭和の名曲「人生の並木路」古賀政男の曲は歌手が苦労していた
.

Himatsubushi Channel

2015/01/10 に公開 You Tube


美輪明宏さんが、冬にぴったりな昭和の名曲「人生の並木路」について話し、昭和期に活­躍された作曲家の古賀政男(こがまさお)さんや、作詞家の佐藤惣之助(さとうそうのす­け)さん、歌手のディック・ミネさんなどを紹介し、懐かしの昭和流行歌について語られ­ています。古賀政男さんの曲は歌い手が困っていたという裏話が面白かったです。

※曲は省略していますm(__)m

美輪明宏 薔薇色の日曜日 2015年1月11日放送分より


533 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/17(Sun) 21:33
【美輪明宏】作曲家・古賀政男について
Thepleiadian2012

2014/06/01 に公開 You Tube
(上の表題で検索のこと)


美輪明宏さんが昭和の国民的な作曲家・古賀政男さんについて語っています。
(TBSラジオ『岡村仁美 プレシャスサンデー』 薔薇色の日曜日2014,6.1より。)



534 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/19(Tue) 10:56
古賀政男総合スレ  2Ch BBS(懐メロ邦楽)


h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

535 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/19(Tue) 22:47
作曲家・古賀政男 You Tube

・・これで検索(コピーして)してください。




536 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/23(Sat) 11:50
古賀政男との思い出〜りんどう峠(島倉千代子)
.

2015/09/25 に公開 You Tube

(この表題で検索のこと)



537 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/25(Mon) 11:28
>>536

昭和54年 古賀政男追悼3時間ドラマ >>179

 渥美清『幾山河は超えたけど 昭和のこころ古賀政男』 (全編・後編)

      (1979年4月14日、NHK総合TV)

でのインタビューです。

538 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/27(Wed) 22:10

作曲家古賀政男〈1904−1978〉がその73歳の生涯を閉じ昭和53年〈1978〉7月25日の夜、

訃報を伝えるNHKは、すべてのラジオ放送を停止し、一斉に古賀メロデフィーを

長し続けた。



539 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/01/27(Wed) 22:27
なお、同年8月4日、古賀政男に「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めたもの。なお、古賀政男音楽博物館に展示されている。

540 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:23
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


541 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/15(Mon) 08:38
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50



542 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/02/25(Thu) 23:54


543 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/01(Tue) 15:01
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50



544 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 20:51
歌謡曲の歴史

日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲を指していた。藤山一郎、淡谷のり子らの本職ともいえるジャンルの音楽である。歌謡曲の基礎とされる古賀メロディーも、その初期はマンドリン・ギター音楽の研鑽から作られたものが多く、洋楽調の曲であった。


〜NHKラジオ放送『国民歌謡』〜


 「歌謡曲」という用語を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはNHKのラジオ放送とされる。戦前のNHK放送の番組である『国民歌謡』は、レコード販売によって流行を生み出す当時風紀上問題があるとも言われた「流行歌」に対し、ラジオ放送によって公共的に大衆に広めるべき音楽の追求という目的があった。


 読売新聞昭和8年7月7日記事には「『歌謡曲』というから、シューベルトやブラームスのリード(リート、歌曲)を放送するのかと早合点すると、そうではない。渋谷の姐さんが歌う流行歌であり、AK(現在のNHK東京)の当事者に理由を聞くと、何故か放送ではなるべく流行歌なる語を使いたくないそうだ」と書かれており、当時、「歌謡曲」がクラシック音楽の歌曲を意味していたこと、そしてNHK側も「流行歌」という言葉を使用しなかった事情の一端が伺える。

 

 その後、日本が戦争に邁進し軍国主義が台頭するようになると、国民歌謡は当初の目的から外れ軍事利用されだし、戦時中の音楽は戦時歌謡や軍国歌謡と呼ばれた。これらの戦中時代の歴史については一部では現在の「歌謡曲」と繋がりがありながらタブー視される傾向が強い。




545 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/03(Thu) 21:42
>>544

殆どの洋楽はクラッシックを基本としてる。日本では元々「歌謡曲」とは、いわゆるクラシック音楽の歌曲(リート)を指していた 。
したがって、[クラシック]そのものが、なんらの特長になるものではないことを心に留めなければならない。


いい音楽・曲は短かくも適切かつ十分な賞賛の言葉がでてくるはず。
ただ漠然と「クラッシックの香りがする」とかは、テクニック的で、あまり特徴のもないものでしょう。


たいせつなことは、歌は心(詩)であり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないということ。
曲は詩を越えることはできない。・・詩を大切にした古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」と繰り返しのべている。


「クラシック」は音楽の「必要条件」ではるが、「十分条件」にはなりえない。

歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。(必要十分条件)

参考までに「クラッシックの香り」とは、消臭剤の香り(クラシックジャスミンなど)のことであることを付け加えておきたい。





546 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/07(Mon) 22:36
歌は「詩」を心で歌うものであり、クラッシック云々などを含めて、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たもの(詩情)でなければ、けっして聴く人の心を感動させるこはできない 。

歌はテクニックでなく、本当の作曲家は「詩人」でなければならない。

「文のかをり」「影を慕いて」・・【詩はお姉さん、曲は弟】と言って古賀は「詩」を大切にした人。

古賀自身「生来の詩人」であった。

佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー・・、詩を大切にし多くの詩人とまみえた半世紀にわたる古賀の作曲生活。

「古賀メロディー」の魅力、それは曲はもちろん、その優れた第一級の詩人。その今に生きる優れた「青春」を、「青春の苦悩」を謳った第一級の詩、その簡潔な詩の中に「優しさと憂い」・・、

時代を超えた真実が端端に秘められている。他の作曲家には真似のできないことであろう。


547 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/08(Tue) 22:32

「西條八十作詞、古賀政男作曲」「佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲」「サトウハチロー作詞、古賀政男作曲」・・といえば、それだけで歌謡の歴史の中でも最高・至高のネームバリュウを与える。

「サーカスの唄」「誰か故郷を想はざる」「青い背広で」「人生の並木路」「目ン無い千鳥」・・歴史上にも、第一級の詩人と深く結びついた作曲家古賀政男の数限りない名曲、

その半世紀にわたる昭和の歌謡史、昭和の世相史、社会史に燦然と輝くその重みは偉大です。



548 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/10(Thu) 20:09

コガミュージアムコンサート ご案内
東京大衆歌謡楽団
永遠の古賀メロディーコンサート

良き昭和の時代を今に歌い継ぐ
戦後生まれの平成育ち「東京大衆歌謡楽団」による
古賀メロディーのコンサート

昭和時代の安らぎ、温かさ、夢などを感じながら古賀メロディーの世界をお楽しみください。


2016年5月28日(土)14:00−16:00

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)ケヤキホール
指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051

小田急線代々木上原駅
南口 井之頭通り 駅前交番前



☆5月18日 国際博物館の日 は 無料開館となります。



549 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/12(Sat) 20:53

生誕110年・・・古賀政男

(これで検索)You Tube

2014/11/07 に公開


550 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/03/23(Wed) 21:47
古賀政男は長引く日中戦争によって悪化する日米関係を改善するため、外務省の依頼で昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけて、音楽親善使節としてアメリカへ向けて旅立つ。
ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。


NBC放送から「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」など5曲が世界に向けて15分間にわたって放送される。

差所に到着したロサンゼルスでの歓迎会で披露した演奏は、招待された文化人やマスコミから大きな喝采を受けました。


「古賀メロディーはコスモポリタンである。つぎのような世界のリズムを取り入れている。ルンバ、タンゴ、ワルツ、速度のあるマーチ、スクウェアーダンスなど。だが、その一方ではまちがいなく東洋歌曲の軽快さも持ち合わせている。言い換えれば、彼は、伝統的な日本人の心情を近代音楽で粉飾している」
(1938年12月6日・ロサンゼルス・タイムズ紙)



551 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/05/28(Sat) 11:37
飽食の時代と言われ久しくなったこのかたテレビで日本の詩情的な歌はほとんど耳にしなくなり、殺伐とした時代になり身内の殺傷が眼に余るのは物欲の成れの果てなり、食べる事が喜びの頃は皆助け合って生きていた。情けもやさしさもあった。昭和は遠くなりにけり。

552 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/17(Wed) 21:17
歌手・藤山一郎は、『青い牧場』『決戦の大空へ』を最後に、昭和18年〈1943〉2月、ボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発、日本を離れた。その後抑留され、寄港したのは、昭和21年(1946)7月15日のことだった。

つまり、藤山一郎には、戦争を隔ててこの約3年余りの空白がある。このあたりのことは、戦後の藤山一郎のことを読み解くうえで重要なことだが、あまり明らかにされていない。

1946年7月15日、藤山一郎は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。いち早くこのニュースをかぎつけたのはNHKだった。藤山は早速8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演をした。

これを皮切りに、日本での歌手活動を再開させることとなったのだが、彼の戦後の歌手活動の出発点が「ラジオ」であったことは戦後の活動を大きく制約されてしまうという点でたいへん残念なことではある。
活動範囲が、詩人などで、主にかっての西條八十など第一級の優れたレコード人脈から、少数のラジオ(番組)人脈に移ってしまったのはたいへん残念なことである。曲は詩を越えることはできないのだ。



もちろん年齢的にも、すでに30代後半になっていた。あの20歳、東京音楽学校生徒で歌手デビューし、「古賀メロディ」の青春を高らかに歌い上げていたあの頃の若き20代のあの溌剌さも年とともに失われてゆくのはやむを得ないこと。

レコード界も大きく様変わりして行く、昭和28年には春日八郎に始まる演歌歌手が登場していく。

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている。もちろんそれ以外にも当然レコード歌手としての年齢的なこともあるだろう。

いずれにしても、昭和18年、突然に始まる3年間にわたる慰問抑留生活が、戦前から戦後へ、「歌う昭和史」ともいわれるこうした歌手・藤山一郎の抜きんでた才能や活動を大きく変えた!。


553 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2016/08/27(Sat) 18:39
歌というものは聞く人の心に安らぎを与え、心に響くもの、感動を与えるものでなければならない。
クラッシクの香りだとかは歌に求められるものとは違うもの。

554 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 12:25
新年があけました、今年、平成29年〈2017〉は「昭和」で数えると92年目。

「昭和」は、1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで62年と14日となる。

「昭和」は、日本の歴史、いや世界の歴史の上で最も長く続いた元号であり、元年と64年は共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。
なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。

元号の【昭和】は『書経』堯典の「百姓昭明、万邦協和」によるもので、すべての国民の安寧のもとに国際社会の平和の実現を目指すものだった。
実際は、「昭和」の時代は、30年代半ば、高度成長時代くらいまで、今では考えられないほど貧しい時代、食料難の時代で、しかも戦争に明け暮れたのでした。

最近テレビで「昭和歌謡」とか言って若い下手な歌手しか出てこないが、その歌は昭和最末期、昭和50年代、飽食の時代。
明治と大正を合わせた60年より長い。60年をはるかに越える「昭和」。

その昭和の「名」だけいいとこどりした、退屈なモノトーンの歌、下手を競い合うような歌ばかり!。
「レコード歌謡」が始まった「昭和」、昭和改元して実2年後の「昭和3年〈1928〉」にそれは始まった。

レコード歌手第一号はビクターの「佐藤千夜子」。第一号は「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)である。

佐藤千夜子は、昭和4年〈1929〉から昭和5年〈1930〉にかけて、まだ一学生にすぎなかった古賀正男の作曲した「影を慕いて」など7曲をビクタ―に吹き込み、
直後イタリアに渡った。

翌、昭和6年〈1931〉3月彗星のごとく登場したのが「古賀政男」だった。

世は「大学はでたけれど」、世界恐慌の真っただ中だった。今から86年前のことだった。

まだ日本が草深く、農村主体のまだ貧しかった時代、貧しくも心豊かな時代だったことでしょう。

最近の歌はギスギスして何を言ってるのかわからない。このころの歌には心を打たれるものがある。

そっと寄り添う優しい歌、やさしいメロディ、優しい詩。

第一級の詩人、第一級の作曲家、第一級の歌手が心を込めて作り上げ歌い上げた名曲である。


555 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 13:06
古賀政男(1904−78)作曲家、福岡県生まれ。明治大学卒業。ギターの伴奏で七五調二句からなる『酒は涙か溜息か』(歌:藤山一郎、詞:高橋掬太郎、1931年コロムビア)ほか、哀愁漂う旋律は"古賀メロディー"と呼ばれ、日本人の心をとらえた。『誰か故郷を想はざる』(歌:霧島昇、詞:西条八十、40年コロムビア)や『悲しい酒』(歌:美空ひばり、詞:石本美由起、66年コロムビア)は大ヒット。国民栄誉賞。

代々木上原一、二丁目,小田急線代々木上原駅前、井の頭通りに面して建つ、三千坪の広大な古賀邸、今、音楽博物館になったその屋敷の中に、七ヶ所観音像をおき、毎日読経を欠かさなかった。
古賀政男の音楽の源となって一貫して流れているのは、この「寂しさ」だという。
古賀政男は大きな邸宅に住み、数十億といわれる群を抜いた著作権料。外車を何台も持ち、指には大きなダイヤを付け、最高の名誉も得たが、寂しさ・侘しさから逃れられなかった。

「古賀メロディ」と言うのは、青春時代から家族の中で居場所を見つけられず葛藤した歴史、その中で「母(の愛)」ということがキーワードになる。
「影を慕いて」にもあるように、それが詩となり曲となったものと言われます。時代を越え、世代を越えて愛される理由もここにあると考えられる。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

そして翌年、昭和54年(1979年)4月14日、NHK「特集 幾山河は越えたれど 昭和のこころ・古賀政男(前編・後編)」が放送された。
その後も何回か再放送されている他、古賀政男音楽博物館で定期的に鑑賞会が開催されている。

このとき、後編の最後で藤山一郎、霧島昇、ディック・ミネ、近江俊郎、村田英雄、美空ひばり、島倉千代子など縁の深い歌手が古賀政男との想い出を語っている。
他に、当時の古賀政男の広大な屋敷の中や、お手伝いさんによる証言も加え、このような邸宅での日常が貴重な映像で紹介されている。

なお、同年8月4日、「国民栄誉賞」が贈られた。前年にプロ野球の王貞治選手に贈られるために制定され、生存者に贈ることを目的にされたもので没後に贈ることには異論もあった。
しかし、福田内閣は『古賀政男氏に贈らない理由は無い。』として贈ることを決めた。古賀政男音楽博物館に展示されている。


556 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/02(Mon) 13:14
「古賀メロディ」の歴史は、日本に「歌謡曲」という「 大衆歌曲」が生まれ、それが大衆の中に根付くいていった歴史そのものといえる。作曲家はこれまでたくさん出たが、「古賀政男」ほど多くの
ヒット曲を持つ作曲家はいない。

日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
昭和一桁代、その哀調を帯びた新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。

戦後10年、昭和31年春に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。

そして「9月18日未明、満州事変勃発」。そして次のように記されている・・


「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・


この若き「藤山一郎」の歌う「古賀メロディ」の青春の息吹。
怒涛の如くに登場しただろう、それがインテリ層にであったことは、これを愛した若き山田耕筰や、萩原朔太郎などからも窺い知ることができるのだが、特質に値するだろう。

昔の時代の人は貧しくも幸せだったろうと思うと同時に、86年を経た今日に至るも、ジャンルを越えていろいろな場面で、繰り返し、繰り返し根強く歌われ続け
演奏され続けていることはすごいことではないでしょうか。


『古賀政男と島倉千代子』・・
NHKアーカイブス『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』
h ttp://www.youtube.com/watch?v=DaF2dUW88NY




557 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/01/03(Tue) 22:50
NHKアーカイブス・スペシャル

大衆文化に歌謡曲という分野を築きあげ、日本の音楽界に大きな足跡を残した作曲家・古賀政男。
昭和53年(1978)に亡くなった古賀政男を追悼し、その翌年に放送されたのが、この番組です。
彼の生涯をたどり、昭和史を生きた人々の思いにかさね合わせて描くドキュメンタリーと、渥美清主演のドラマで構成されています。
かつての古賀邸の部屋を再現した東京・代々木上原の古賀政男音楽博物館に、親交の深かったゲストをお迎えして古賀政男の残したものを改めて問いなおします。

■「幾山河は越えたれど 〜昭和のこころ 古賀政男〜」
 1979年(昭和54年)4月14日放送
 90分×2本(二部構成)

前編では古賀政男の生い立ちから朝鮮半島への移住までの幼少年期。そして音楽に目覚め苦学をしながら人生の辛酸を味わった学生時代と「影を慕いて」の誕生秘話。やがてレコード会社の専属作曲家となって成功し、結婚するまでの青年期を描きます。また、「誰か故郷を思わざる」にまつわる視聴者の忘れられないエピソードや「酒は涙か溜息か」が生まれた裏話など、古賀メロディーの背景が浮き彫りにされます。ゲストは、昭和30年のデビュー当時から深く影響を受けた歌手の島倉千代子さんです。
後編は成功して以後を描きます。結婚生活の破綻や母との別れ、太平洋戦争にからむ波乱の後半生です。そして、放送当時は現役だった今は亡き往年の歌手たちの証言と歌声で、代表的な古賀メロディーの数々が蘇ります。さらに、台頭著しかったニュー・ミュージックの旗手たちにとって古賀政男はどのように位置付けされているのかを探ります。 ゲストは、少年時代、大陸からの引き揚げ列車で古賀メロディーとの強烈な出会いを体験し、後に作詞家となって古賀政男と親しく交流した、なかにし礼さんです。

【出演】
渥美 清
柳生 博
水谷良重
ハナ 肇
山内 賢
森 光子
 ・・・ほか


【番組のなかで聴くことのできる主な古賀メロディー】
・影を慕いて
・キャンプ小唄
・酒は涙か溜息か
・東京ラプソディー
・丘を越えて
・人生の並木路
・湯の町エレジー
・誰か故郷を想わざる
・りんどう峠
・無法松の一生
・悲しい酒

【一口メモ】
*古賀政男は、作曲だけでなく「日本レコード大賞」の制定や「日本音楽著作権協会」の設立などの音楽文化と音楽産業の発展のほか、後進の育成などにも尽くしました。

*古賀政男音楽博物館には、再現された部屋のほか故人ゆかりの品々などが展示されています。また、資料や書籍、音源などが揃っていて閲覧や試聴が出来るようになっています。

古賀政男音楽博物館
 〒151-0064 東京都渋谷区上原3-6-12

*福岡県大川市には、復元された生家と古賀政男記念館などがあります。

古賀政男記念館
 福岡県大川市大字三丸兼木844

558 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/13(Mon) 00:15
古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽

h ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

559 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/02/14(Tue) 22:20
【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50

560 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/07(Fri) 01:00
>>222,>>356-357
>>362-366,>>369

郷土の先達G古賀政男―大川の人、歌謡界の巨人(福岡県人会会報「東京と福岡」2005年05月号)
h ttp://net.a.la9.jp/fu/fu-kaiho/fu-2005/2005-05/p-15.html
佐高 信「酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ 」(角川文庫)
伊藤正憲「レコードと共に四十五年―私のアルバム」日本クラウン, 1971


561 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/08(Sat) 23:12
昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。


562 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/09(Sun) 21:30
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。


563 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/13(Thu) 11:51
第79回 常設展示 流行歌に見る世相と大衆のこころ ―昭和のはじめから東京オリンピックまで― 平成9年3月25日〜4月25日 国立国会図書館

歌は世につれ、世は歌につれ…。 流行歌には、それぞれの時代の息吹が背景に見え、私たちは流行歌の中に、それぞれの 時代の世相やそこに生きる人々のこころをかいま見ることができるのです。 今回の展示は、日本が敗戦を経て復興し、空前の経済成長をとげるまでの激動の時代、
昭和のはじめから復興の象徴である東京オリンピックまで、昭和の激動の時代に流行った 歌に的を絞りました。 この展示を通して、過ぎ去った時代の息吹、そして誰でも知っている、誰もが思わず口 ずさんでしまう歌と共に生きた人々のこころを感じて頂けたら幸いです。

展示資料一覧 < >内は請求記号

4.上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

5.別冊 1億人の昭和史 昭和流行歌史 ’85 新増補版 永井康雄ほか編 <KD841-311> 東京
毎日新聞社 昭和59年〈1984〉



564 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/14(Fri) 20:35
「昭和歌謡」成立の系譜と黎明期の展開 -日本橋と『昭和歌謡』の関係についての一考察-
The Birth and Early Development of Showa Kayoh (popular hit songs in the Showa era) : A Consideration of its Beginnings in Nihonbashi

この論文にアクセスする

CiNii 論文PDF オープンアクセス
著者 森田 哲至
Noriyuki MORITA
三井住友海上火災保険株式会社
Mitsui Sumitomo Insurance Co.,Ltd.

抄録
第一部では、「昭和歌謡」が誕生するまでの系譜を論じた。明治・大正時代から「西洋音楽の普及」「演歌の誕生」「口語自由詩の発展」の三つの文化的流れがあり、この流れに詩人野口雨情と作曲家中山晋平が深く関わったことにより、口語詩と曲が融合した「童謡」「新民謡」が数多く創作され、「昭和歌謡」第一号の『波浮の港』が誕生した。「昭和歌謡」は偶然の産物ではなく、明治維新以降の日本近代文学の成立過程とほぼ同じ文化的営みがあり、早稲田文学の文人たちの関わりを考えると、「昭和歌謡」は日本近代文学の側面とも言える。第二部では、昭和の時代と共に六十年近く続いた「昭和歌謡」の黎明期の経緯と発展の理由を論じた。『波浮の港』の歌手佐藤千夜子は、古賀政男が率いる明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演し、彼をレコード会社に紹介した。古賀は幼い頃から貧しく、兄たちを頼って十代後半まで朝鮮で慎ましく過ごし、朝鮮民謡や朝鮮にいた宮城道雄による筝曲ブームの影響を受けて独学で音楽を学んだ。彼が作曲した『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』等は、日本橋の商家育ちで東京音楽学校出身の歌手藤山一郎と組んだことによって超メガヒットを放った。これらの作品は、二人に境遇の違いによる精神的緊張関係があったからこそ、俗っぽさを排して気品ある楽曲に仕上がり、都会と地方の断層を超越した真に民衆の心を捉える名曲となって「昭和歌謡」発展の文化的基礎を築いた。
The first part describes how Showa kayoh was born in Japan. During the Meiji and Taisho eras before the Showa era, western music spread among people, the so-called enka (Japanese ballad) sprang up and free verses in colloquial style developed. Reflecting these trends, poet Ujoh NOGUCHI and composer Shinpei NAKAYAMA wrote a lot of new songs using colloquial verses. Their work Habu no Minato is generally regarded as the first of the Showa kayoh. Showa kayoh thus evolved along with the development of modern Japanese literature from the Meiji Restoration in 1868.The second part covers the subsequent early days of these songs and describes how they gained popularity. Chiyako SATOH, the singer of Habu no Minato , once appeared in a regular concert of the Meiji University Mandolin Club and introduced its leader MasaoKOGA to a recording company. KOGA was from an underprivileged family and spent his young days in Korea under the wing of his brothers. He acquired knowledge of music through self-education and was influenced by Korean music in the middle of Japanese music boom there. The musician later met singer Ichiroh FUJIYAMA, who was raised in a well-off merchant family in Nihonbashi and graduated from a famous music school. Suchcontrasting backgrounds caused tensions between the two of them but contributed to the birth of Sake wa Namida ka Tameiki ka and Kage wo Shitaite. These very popular songs built the foundation for Showa kayoh, which were to entertain people for many yearsafterwards.

収録刊行物
日本橋学研究   [巻号一覧]
日本橋学研究 3(1), 5-24, 2010-03-31  [この号の目次]
日本橋学館大学

565 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/19(Wed) 23:57
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2



【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50


566 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/20(Thu) 09:38
古賀政男総合スレ 2Ch,懐メロ・邦楽

ttp://ai.2ch.sc/test/read.cgi/natsumeloj/1320231349/l50

567 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/20(Thu) 09:45
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50


☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50


☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50





568 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/04/29(Sat) 23:11

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27


569 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/03(Wed) 10:41
>>560-564

>4.上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 <767.8-Ka298n> 東京 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は、音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-。

「古賀メロディ」とは中山晋平の「晋平節」に代わる「昭和歌謡史」に永く記憶されるべき「記念碑」でもある。

「古賀メロディ」とは歌謡界の歴史的視点からは、ビッグエポックであって、その後に出てくる作曲家などの時代と単に一緒にせべきものでなく、それまでの主流であった中山晋平時代に始まる初期の、
「晋平節」の時代に変革をもたらし、その後の人の心を癒す歌謡曲の源流となった記念すべき「文化財」としてこれからも永く生き続けるものであろう。


570 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/05/08(Mon) 11:36

(参考)流行歌懐古館 (昭和3年(1928) ー平成5年(1993))

 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



571 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/22(Thu) 09:35
「東京行進曲」を作ったときは、八十はまだ契約もしていないし、社員でもなかったからとはいえ、この差別はあまりに大きすぎるのではないか。まもなくビクターと契約して正式社員となったものの、その印税は中山晋平が五銭だったのに対し、西條八十は二銭五厘と晋平の半額だった。散々ごねたけれど会社は首を縦に振らなかった。しだいに西條の人気があがり、ヒットを次々と飛ばすようになっても、次の契約更改で三銭にするのがやっとだった。
その次の契約更改のとき西條は粘りに粘って交渉を重ねたが、印税の値上げは認められず、その代わりとして会社側が出してきた条件が妙なものだった。ビクター以外の会社からも、作詞依頼を受けてよいというものである。その結果コロムビアにいた古賀政男と組んで出来たのが「サーカスの唄」であった。そのコロムビアから印税六銭にするからという好条件で、入社の誘いを受けた。これを親友であった中山晋平に相談し、ビクターとも話し合ったが、さらにコロムビアから十万円のプレミアムを付けるという条件が追加されて、結局コロムビアへ移ることになった。戦時下に作った「旅の夜風」は百三十万枚を売り上げているので、八万円あまりの印税収入になっている。
この辺ではとりあえず八十も納得できただろう。ところが敗戦となって、収入の道が一時期絶たれ、妻が洋服を売り歩くということになったとき、巷では八十の唄の大洪水だった。なのに八十のところには一銭も入ってこない。唄の使用料を支払うように働きかけることを、音楽著作権協会はしていない、これでは意味がないと脱退を決意して、その話をしに行った。すると逆に説得されて、協会の会長を引き受けてくれないかということになって、ついにそれを引き受けてしまった。


572 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/06/22(Thu) 09:38
西條八十は流行歌があまりに有名なので、それが本命と思われがちだが、それは全くの誤解である。彼の作品の中では、流行歌はその一部に過ぎない。図書館でその全集を手に取って、見ているうちに寒気がしてきた。その作のあまりの多さに、ただ驚くばかりだった。ずっしりと重い分厚い七百ページもある本が、なんと十七巻もあるのだ。ほかに別冊が一巻ある。そのなかで詩集が四巻、童謡が二巻、訳詩が一巻、歌謡・民謡・社歌・校歌が三巻、童話、少女小説、ランボウ研究が各一巻、小説・随筆が二巻その他となっている。つまり歌謡・民謡・社歌・校歌は全体の一七分の三に過ぎないのである。

573 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/07/11(Tue) 19:46
☆古賀政男とその主な人脈

歌手  佐藤千夜子、藤山一郎、関種子、奥田良三、藤原義江、三浦環
淡谷のり子、楠木繁夫、霧島昇、ミス・コロムビア、二葉あき子、ディックミネ・・
詩人  萩原朔太郎、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー 、島田芳文
作曲家 中山晋平、弘田竜太郎、小松耕輔、山田耕筰、海沼 實
その他 棟方志功、藤陰(藤間)静枝,原阿佐緒、渡辺邦男、長谷川一夫、山口淑子(李香  蘭)、徳川無声、森繁久弥、美空ひばり、村田英雄・・


574 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/08/21(Mon) 13:41
(参考)流行歌懐古館 (昭和3年ー平成5年)

昭和の流行歌(レコード歌謡)



 h ttp://infoseek_rip.g.ribbon.to/members.at.infoseek.co.jp/TAT__TAT/TATMDfx03_64.pdf#search=%27%E6%9C%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%81%8F++%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E6%83%87%E5%A4%AB%E4%BD%9C%E8%A9%9E%27



昭和歌謡大全目次
戦前戦中編 (目録)

h ttp://music.geocities.jp/hanatori1119/kayoudaizenn/kayoudaizenn.html


575 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/02(Sat) 13:11
日本の豪邸
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=nandemo&key=500628695&ls=50


576 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/09(Sat) 11:34
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/history/index2.html#2

577 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/10(Sun) 21:39
訂正

日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

578 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/13(Wed) 12:53
昭和歌謡が好きな人集まれ!

579 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/09/27(Wed) 13:13

昭和歌謡が好きな人集まれ! 音楽BBS

580 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/10/13(Fri) 18:25
>>579

昭和歌謡が好きな人集まれ

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

581 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/10(Fri) 11:08

 <<11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日>>




史上二人目、音楽界では初の国民栄誉賞を受賞した古賀政男は、昭和の初めから作曲活動に従事し、生涯でおよそ5000曲もの作品を遺したと云われる。古賀の才能を開花させるきっかけになったともいえる歌手・藤山一郎が歌った「丘を越えて」「影を慕いて」をはじめ、戦後もレコード大賞を受賞した美空ひばりの代表作「柔」など、国民的な作曲家として数多のヒット曲を生んだ。流行歌の歴史に燦然と輝き続けている“古賀メロディ”から、戦後のエポックとなった東京オリンピックを象徴する国民歌「東京五輪音頭」周辺のエピソードを紹介したい。11月18日は偉大なる作曲家・古賀政男の誕生日。1904年生まれであることから、生誕から実に112年を迎える。
東京・代々木上原の駅からほど近く、古賀が1932年から住居を置いた場所は、現在“古賀政男音楽博物館”として、JASRAC(=日本音楽著作権協会)が本部を構え、音楽会やシンポジウムが開催される“けやきホール”を擁する瀟洒な建物が聳えている。ここには財団法人・古賀政男音楽文化振興財団が存在するほか、誕生の地である福岡県大川市には“古賀政男記念館”もあり、我が国を代表する作曲家であることが窺われる。戦前から連なる作品群には、「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「人生の並木路」「湯の町エレジー」「悲しい酒」といった哀愁溢れるメロディから、「丘を越えて」「緑の地平線」「東京ラプソディ」などの明朗な旋律、さらには「ああそれなのに」「うちの女房にゃ髭がある」などリズミカルでユニークなものまで、バラエティに富んだヒット曲が数え切れない程に存在するのだ。
流行歌のヒット作家として最も脂の乗っていたのは1930~50年代であろうが、その後も大作曲家としての健在ぶりを証明したのが、歌謡界の女王・美空ひばりがようやく栄冠を手にした1965年の日本レコード大賞受賞曲「柔」と、元々は北見沢惇という歌手に提供された曲の再生としてひばりが大ヒットさせた「悲しい酒」だった。ちょうどその頃から巻き起こった懐メロブームも手伝って、古賀政男の名は再び盛んに巷を賑わすこととなるのだが、その前に古賀を国民的作曲家という位置づけに押し上げた大きな波がある。それがアジア初の開催となった1964年のオリンピック東京大会を記念して作られた「東京五輪音頭」である。東京オリンピックの音楽では、開会式の選手団入場の際に演奏された「オリンピック・マーチ」(作曲: 古関裕而 )をはじめ、歌ものでは組織大会が選定した「この日のために」(作曲:福井文彦)、NHK制作による「海をこえて友よきたれ」(作曲:飯田三郎)などもあるが、やはりなんといっても「東京五輪音頭」がダントツの知名度を誇る。
レコード会社各社の競作となった「東京五輪音頭」はオリンピック開催前年の1963年の6月23日(オリンピックデー=IOCの創設記念日)に発表され、各社から一斉にシングル盤が発売された。会社の歴史順に並べると、コロムビアは北島三郎・畠山みどりの共唱、ビクターはつくば兄弟・神楽坂浮子盤と、橋幸夫盤の2種、キングは三橋美智也、テイチクは三波春夫、ポリドールは大木伸夫・司富子、最も新興の東芝が坂本九という布陣。面白いのは橋幸夫盤と坂本九盤を除くすべてのシングル盤が、同じNHK制定による「海をこえて友よ来たれ」などをA面とし、「東京五輪音頭」はB面扱いが多かった点である。もっともキングとテイチクに関しては、「東京五輪音頭」をA面とした後刷りのジャケットが存在するのであるが。ちなみにフォノシートでは、古賀と縁の深い藤山一郎が歌ったソノレコード盤、菅原洋一の歌による朝日ソノラマ盤(ただし非売品のプロモシート)も出された。その中でダントツの売り上げを示したテイチクの三波春夫がいつしかオリジナル歌手の様な形になってゆくも、楽曲発表の際の歌唱者は三橋美智也であり、古賀も三橋の歌唱を想定して作曲したのだという。しかし、イベントの成功を願い、日本の戦後の復興をアピールしながら宣伝活動にも余念がなかった三波の努力が報われる結果となった。


582 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 23:01
 以前NHKラジオで、西條八十生誕100年記念ドラマ「西條八十の愛と歌」があった。
詩人・西條八十(1892〜1970)は、「やさしさ」ということで定評があり、昭和45年亡くなる直前まで息長く活動をしていた。童謡その他を含め、広く日本の大衆歌を考える上で忘れてはならない人の一人。もし彼が出なかったら、日本の大衆歌ももっとさびしいものだったことでしょう。

   一口に詩人と呼んでいるが、彼ほど多彩な顔を持つ詩人はいない。『かなりや』などの童謡詩人。『砂金』『巴里小曲集』など、フランス象徴詩の影響が濃い純粋詩人。そして『東京行進曲』に始まる流行歌の作詞家。歌謡を含めて、作った歌も他を圧して巨大で、中山晋平に続き、JASRAC日本音楽著作権協会会長や、日本詩人連盟会長・・などを務めてもいる。又、童謡協会の童謡作詞賞にも今でも彼の名を冠した賞がある。

   さらに、八十は、詩人・歌謡曲作詞家という顔と、もうひとつ忘れてならないのが、仏文学者・芸術院会員・早稲田大学教授としての顔。大正13年、ソルボンヌ大学留学帰国後、早大仏文科教授になった。アルチュール・ランボーの研究でも有名。「西條八十全集」(国書刊行会刊1991)という本は、16巻まである大作である。

   明治25年に東京牛込(新宿)に生まれた八十の生家は石鹸製造業を営んで隆盛であったが、中学3年生の時に父が亡くなり、一家は没落してしまう。八十は早稲田中学校卒業後、同大学英文科を主席で卒業した。鈴木三重吉の主唱する童謡運動に参加し、大正7年27歳で「赤い鳥」に「カナリヤ」を発表して一躍有名になった。翌大正8年処女詩集「砂金」を発表して、たちまち象徴派詩人としての名声を高めたとされる。こうして、丁度「金の船」(大正8年)で野口雨情の才能が一気に花を開くように、「唄をわすれたカナリヤ・・八十」は、一気に花開く。(ついでに、日本でも30数万人が死んだという「スペイン風邪」のウイルスは、鳥のウイルス由来だったことが米ハーバード大などの研究で分かったそうですが、丁度この頃大流行したという。)



583 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/25(Sat) 23:05
   西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四谷文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

   「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいずこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

   当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

   古賀政男音楽博物館地下1階「音楽情報室」のコンピュータで「西條八十」で検索すると、600曲くらい出てきて、一部の音源の準備の無いものを除き選んで試聴できる。

   なお、映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。また、キンダーブックのフレーベル館のHPによると、過去75年の歴史の中では、北原白秋、西條八十など一流の画家や作家、童謡詩人らを相談役に迎えてきました。・・とある。

<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
・八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      

584 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/11/30(Thu) 20:46
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 上 1868~1937』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 中 1938~1959』社会思想社1966年。
古茂田信夫、島田芳文、矢Bェ、B千秋編『日本流行歌史 下 1960~1994』社会思想社1966年。


585 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/09(Sat) 18:26
明治大正時代、このころは文部省唱歌や民謡などを除き大衆が歌える歌がなかった。
大正に入って童謡が生まれ、対大正末期から昭和にかけて新民謡運動がおこる。
こんな中で、誰でも歌える歌作りを目指した作曲家がいた、それが中山晋平。東京音楽学校を卒業すると、
音楽教師をしながら劇中歌や童謡運動に加わった。大正半ばごろから詩人野口雨情、歌手の佐藤千夜子とともに
全国に飛びして民謡の採譜や新民謡の普及活動をしていた。
この運動の中で生まれた新民謡『波浮の港』(昭和3年、野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が、日本における最初の
日本で最初のレコード歌謡と言われ、これを歌った佐藤千夜子が日本で最初のレコード歌手とされる。

昭和3年、無名の学生に過ぎなかった古賀政男(正男)作曲の「影を慕いて」をビクタ―で吹き込んだのが佐藤。
昭和6年1月にビクター、昭和7年3月に藤山一郎でコロムビア。

古賀政男の「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」の一連の歌は「古賀メロディ」と言われた。

古賀政男はいまや「○〇節」の時代ではなく「メロディ」の時代だと語っていた。





これを新聞が大きく書いた。
  
  【晋平節から古賀メロディの時代へ】 と

古賀の自伝によると、これを見た古賀は驚いて大先輩「中山晋平先生」のところに
謝りに行った。

ところが中山晋平先生は、いいですよ、あなたは私にないいいところを持っています、頑張ってくださいと逆に励まされた。

「古賀メロディ」が大きく認知された歴史的瞬間である。

同時に昭和8年の「東京音頭」を最後に晋平の「晋平節」は影を潜め、

以後、新聞が書いたようにこれまでの主流とされた「晋平<節>」に代わって「古賀<メロディ>」が主流になっていった。

晋平のビクタ―黄金時代は「古賀<メロディ>」のコロムビアにとってかわられた。

なお、何とかメロディとか,リズム系を含めて作曲家すべてに、「古賀メロディ」のようにいきなり「メロディ」をつけてしまうのは、
昭和40年代の懐メロブーム時代からで、
「古賀メロディ」は世に出た昭和の初めから、それを称える唯一許された歴史的価値を持つものとして、
たくさんの作曲家の中で戦後に至るまで特別なハイランクのものだった。

すでに押しも押されもせぬ「日本の名士」でもあった大御所・古賀政男は、昭和33年に「日本作曲家協会」を設立、自ら会長となる。
レコード大賞など知られている。

また戦後、中山晋平、西條八十、堀内敬三、サトウーハチローに次ぎ、JASRAC「日本音楽著作権協会会長」。
その著作権における偉大な功績と実績を讃えるように、JASRAC設立にも関わったJASRACは古賀財団のビルに本拠を構える威容。
またその死後、野球に王貞治選手に次ぎ二番目の国民栄誉賞。

586 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/23(Sat) 12:33
古賀政男(古賀正男)がメジャーデビューがを果たしたのはコロムビアで,昭和6年のことだった。
時は昭和大恐慌の真っただ中、満州事変、東北大凶作の最中だった。

藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」、関種子の「窓に凭れて」、河原喜久恵河の
「月の浜辺」、いずれも東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)。

東京音楽学校主席卒業、クラッシックソプラノ歌手関種子、東京音楽学校主席卒業する藤山一郎、そのレコードデビューは「古賀メロディ」のレコードデビューだった。

古賀政男が現れるまでの主流だったのは「先端的だわね」など晋平節と言われたもの、それに奥山貞吉、佐々紅華‥、浅草オペラノオペラ歌手川崎豊などが声を張り上げてオペラ調に唄う、
「沓掛小唄」「蒲田行進曲」・・に代表されるような激しいもの。

古賀政男の登場は、これまでの大声を張り上げるだけの雑なオペラ調の歌と大きく違った。

ギタ―を駆使した「ギタ―歌曲」、哀調を帯びたの人の心をとらえてやまないそのメロディ。

東京音楽学校出身クラッシック歌手、関種子,河原喜久枝、藤山一郎・・

その・・やさしく素晴らしい歌声は、中から生きる力が沸き上がる新鮮なものだったろう。

優しい、新鮮なメロディ、その言葉を大切に心を込めて丁寧に歌う素晴らしい名歌手のすばらしい歌声、

昭和の初め、当時の主流だった中山晋平の【晋平<節>】に対し、人はそれを【古賀<メロディ>】と讃え愛してやまなかったのだった。

昭和3年(1928)から、半世紀にわたる多難な歴史を生きてきた【古賀メロディ】の歴史!!。




587 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/26(Tue) 11:07
コガミュージアムコンサート 

三代目 海沼実の唱歌・童謡にんげん史
第22回 童謡誕生100年記念 西條八十


2018年は児童雑誌「赤い鳥」創刊100年の年で、童謡誕生100年記念の年とされます。
第22回は「赤い鳥」にも多数の作品を発表した、詩人西條八十さんを取り上げます。
懐かしのレコードと、ゲストの音羽ゆりかご会の歌唱で「カナリヤ」や「肩たたき」などの作品を
お楽しみいただきながら、人物像と魅力に迫ります。


2018年2月18日(日)

開演 14:00  (13:30開場)

古賀政男音楽博物館(コガミュージアム)けやきホール
入場料 指定席制 2000円 (要予約)
東京都渋谷区上原3−6−12
TEL.03−3460−9051
主催 一般財団法人 古賀政男音楽文化振興財団

小田急線、東京メトロ代々木上原駅
南口1 井之頭通り 駅前交番前



588 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2017/12/29(Fri) 14:30
にゃむ

589 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/02(Tue) 22:35
日本作曲家協会歴代会長

初代 古賀政男 1958 - 1978
2  服部良一 1978 - 1993
3  吉田正  1993 - 1997
4  船村徹  1997 - 2005
5 .遠藤実  2005 - 2008
6  服部克久 2008 - 2013
7  叶弦大  2013 - 2017
8  弦哲也  2017 -

590 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/04(Thu) 21:26
今年、平成30年(2018)は、昭和3年(1928)に日本最初の商業レコード歌謡
『波浮の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が発売されて90年に当たります。

それまでは、民謡や演歌手の演歌や、「アラビアの唄」「青空」など外国曲などのほか大衆の歌える歌がありませんでした。

大正から昭和にかけて、「新民謡運動」が起こり、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子が行っていた「全国歌の旅」で全国行脚していました、

その中から生まれた『波浮の港』が日本最初の商業レコードとなった。

同時に、元号が変わった大正15年(昭和元年、1週間)の翌年昭和2年から3年にかけ、ビクター、コロムビアなどレコード会社が勃興します。

大正14年にはラジオ放送が始まり、昭和2,3年にかけ相次いでレコード会社ができた。

昭和3年にはまた、古賀政男の「影を慕いて」が作られます。

そして3年後、東北大凶作、昭和大恐慌の中、昭和6年(1931)には古賀政男がコロムビアに入社、藤山一郎の「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
など『古賀メロディ』が大衆の中に圧倒的に浸透してゆくのです。


591 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/05(Fri) 10:24
戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。

ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と世相、それに「古賀メロデー」登場のことが。 ・・



「9月18日未明、満州事変勃発。」

「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)



昭和になっても、日本では東北地方は冷害凶作に見舞われ飢饉が続いた。そして、娘の身売りが行われた。
・山下文男著「昭和東北大凶作」
 h ttp://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/febe175a3b63de2e0f8365fbfc9bc6bb
 h ttp://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html

・娘ことごとく売られし村
 h ttp://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ab0d.html


直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。

 

592 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:39
坪井栄の小説「二十四の瞳」は、昭和27年〈1952)に発表、29年に映画化された。
1928年(昭和3年)から1946年(昭和21年)まで、すなわち、昭和の戦前期、終戦、その翌年まで、18年間が描かれている。
日本がまだ貧しかった時代である。またそれはレコード歌謡の黄金時代、日本の映画黄金時代ともかさなる。
当時の時代背景を知るうえで非常に貴重で参考となる。

昭和3年〈1928)には。日本におけるレコード歌謡の初めたる「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌)が生まれた。
また「影を慕いて」はこの昭和3年に作られたものである。

593 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:42
昔は人の人生はわずか12歳で決まってしまった。

「教育の機会均等」が保障が曲がりなりにも保証されるのは新憲法下の、昭和24年の「学制改革」を待たねばならなかった。

昔はどんなに優秀でも、勉強したくても貧しさゆえに「奉公」に出されたりした。

大学につながる中学校に行かせてもらえるものはごくごく一部の恵まれた家庭の子弟に過ぎなかったのだ。

昔、日本は農業国だった。

そして「小作制度」というのがあって、「農地改革」まで農地をかりる小作は地主の農地を耕すのだが、
多くは貧しく、農家なのに学校に弁当も持っていけない貧農の子はたくさんいたことだろう。

坪井栄の【二十四の瞳】には、小学校卒業を待たずに「奉公」に出される子供たちが描かれている。

高等小学校(二年制)に進むのがせいぜいだったことだろう。


594 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/01/08(Mon) 21:22
>>590-593

「古賀メロディ」の時代はどんな時代だったか,
90年近く前の昭和の初め、日本がまだ貧しかった時代、昭和6年の世相を表す小さな記事が
あるので参考にしめす。
農家なのに学校に弁当を持っていけなくていじめられる子供たち・・・



昭和6年(1931).1.13〔高等小学校2年生がイジメ復讐殺人〕

熊本県上益城郡の路上で、高等小学校2年生(15)が同級生(16)の顔や頭を肥後守でめった刺しにして殺害、もう1人の同級生(15)の脇腹を刺して重傷を負わせた。貧しい農家のため弁当を持ってこれないことをからかわれ、呼び出して謝るように迫ったがまたからかわれたためカッとしたもの。幼い兄弟5人の世話や畑仕事もやって両親を助けていた。

注)年齢は数え、15歳とは満13歳何か月。昔は人の人生は12歳で決まってしまった、くいっぷちを稼ぐため貧しさ故に、小学校を出ると奉公に出されたりした。高等小学校に行かせてもらえるものさえわずかだった。
  坪井栄の小説「二十四の瞳」は昭和3年から戦後早々までが描かれているが、小学校卒業を待たずに奉公に出される子供たちが出が描かれている。
  昔はどんなに優秀でも勉強したくても中学に進めるのはごく一部に過ぎなかった。
  教育の機会均等が図られるのは戦後の学制改革を待たねばならなかった。


595 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/02/14(Wed) 10:19
『名曲』って!?・・消えてほしい最近の歌 (音楽BBS)
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=347425366&ls=50


懐かしの銀座を歌った歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

名前を名にした歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50

596 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/09(Fri) 18:20
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


597 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/10(Sat) 09:57

  ■■NHKTV 「日本の名曲10曲」■■ 


「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925



598 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/10(Sat) 10:22
>>597

NHK「日本の名曲10曲」


かって平成の初め頃、NHKTVで、「日本の名曲10曲」(歌謡曲の名曲で無く)の一つとして、「影を慕いて」(古賀政男作詞・作曲)が1年間ずっと流されていました。

「荒城の月」「波浮の港」「影を慕いて」・・など日本の名曲10曲が「日本の名曲10」として、毎夜8時の番組の後の時間を使って1週間ずつ、交代で1年間ずっと流され続けました。

毎週、夜8時の大河ドラマのあとの空き時間を使って、1年間順番に流し続けたものですが、平成何年だったか記録が分かりません。

ご存知の方いらしたら教えてください。


599 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/12(Mon) 08:43
今何でもかんでも「名曲」になっている。まあほとんど最近の歌だが、糞曲も含めてなんでもかんでもだ、なんでも名曲とは、なんでも名曲でないということでもあるのだが、違和感を覚える。

また、「日本の名曲」と言ったら明治以降、戦後ではない。
「日本の名曲100」とか、色々出ているが、投票によるものだから、
名曲というより参加した人の自分の知ってる歌の投票にならざるを得ない。

名作童謡なども入ってはいるが、「上を向いて歩こう」だとか「いつでも夢を」とか戦後の歌、最近の歌が中心、
石も大部分の玉石混交は否めない。 このあたりからおかしくなってきている。

600 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/24(Sat) 08:27
> 日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
> @10cH 歴史BBS
> http://www.10ch.tv/
>
> 主なスレ
>
> ☆影を慕いて
> ☆古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)
> ☆日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長
> ☆西條八十は
> ☆詩人・佐藤惣之助は
> ☆「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)
> ☆古賀政男アメリカへ
> ☆古関祐而と古賀政男
> ☆初期の「古賀メロディ」と詩人・島田芳文
> ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
> 《SP歌謡・回顧と展望》古賀メロディを支えた名歌手たち・・その古賀メロディ第一作
> 李香蘭と古賀メロディ
> ☆古賀メロディと霧島昇
> ☆古賀政男と「荒城の月」
> ☆「荒城の月」について
> ☆三浦環と古賀政男
> ☆西條八十と古賀政男
> ☆古賀政男 二つの「思い出の記」
> ☆昭和戦前の作曲家
> ☆昭和の主な詩人・作詞家 (昭和・戦前)
> ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
> ☆「佐藤惣之助作詞/古賀政男作曲」の最初期(1932)の歌・・
> ☆関 種子と「古賀メロディ」
> ☆古賀メロディと藤山一郎
> ☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)
> ☆テイチク黄金時代・・・「人生の並木路」とディックミネ
> ☆テイチク黄金時代・・・古賀政男と楠木繁夫
> ☆楠木繁夫の代表曲
> ☆古賀メロディと霧島昇
> ☆関 種子と「古賀メロディ」 2・初期の「古賀メロディ」を支えた名ソプラノ歌手
> ☆「古賀メロデー」とは ― 2「古賀政男藝術大観」
> ☆佐藤千夜子と古賀政男
> ☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
> ☆詩人・サトウハチローと古賀メロディ
> ☆サトウハチロー作品 (主な古賀政男作曲作品)
> ☆サトウハチローと「童謡」
> ☆佐藤惣之助没後70年
> ☆佐藤惣之助(作詞)の主な歌と歌手
> ☆「古賀政男音楽博物館」
> ☆古賀メロディの戦後
> ◇戦後の主な古賀メロディ・・
> ☆萩原朔太郎と古賀メロディ
> ☆西岡水朗と初期古賀メロディ
> ☆ 名曲「荒城の月」の作詞家土井晩翠の忌日
> ☆詩人・佐藤惣之助
> ☆古賀メロディ、その隠れた名曲!・・沖縄民謡となった《二見情話》など
> ☆古賀政男編曲作品
> ☆二見情話(HUTAMI JOOWA) 沖縄民謡
> ☆古賀メロディを支えた主な名歌手たち
> ☆ <「古賀政男」のドラマ>
> ☆「古賀メロディ」と、その秘密
> ☆古賀メロデー」とは
> ☆ 藤山一郎と増永丈夫
> ☆「古賀政男と「荒城の月」 2  ・・・李香蘭と[荒城の月]
> ☆詩人・佐藤惣之助と「古賀メロディ」・・
> ☆古賀政男生誕100年記念CD
> ☆ 嘆きの夜曲 関種子.wmv
> ☆SPレコード歌謡とSPレコード
> ☆[古賀メロディ−] と 映画主題歌(まとめ)
> ☆古賀メロディとその時代
> ☆新妻鏡
> ☆ 松平晃 サーカスの唄
> ☆ ビクター専属藤山一郎への対抗

601 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/03/27(Tue) 07:43
山田耕作と古賀政男 −  農村婦人の唄 昭和7年コロムビア

農村婦人の唄 ポスター 
☆山田耕筰・古賀政男作曲■コロムビアレコード  山田耕筰と古賀政男が作曲。富民協会当選歌とある。


山田耕筰は、外国に行くときは、古賀メロディ『丘を越えて』のレコードを持参し「日本の代表的な歌」として紹介していた。


専属1年、ヒットに続くヒットで、コロムビアの顔となった古賀政男は、 昭和7年12月6日,コロムビア文芸部長和田龍雄の仲立ち、おなじくコロムビアの山田耕筰夫妻の陪酌で丸の内の東京會舘で挙式、28歳の時である。
昭和7年6月には、山田耕筰と古賀政男が作曲の富民協会当選歌「農村婦人の唄」がある。

農村婦人の唄 オリオンコール女声合唱団 桑田登志子 山田耕筰 0709 COL27067 黒盤2833
農村婦人の唄 淡谷のり子 北部善良 古賀政男 0710 COL27067 黒盤2834


? 農村婦人の唄(淡谷のり子)
昭和07年(1932年) COLUMBIA 富民協会当選歌
作詞:北郷善良
作曲:古賀政男
編曲:奥山貞吉
歌唱:淡谷のり子
伴奏:コロムビア オーケストラ
27067-B(36656)

農村婦人の唄(オリオンコール女聲合唱団)
昭和07年(1932年) COLUMBIA 富民協会当選歌
作詞:桑田登志子
作曲:山田耕筰
編曲:二木他喜雄
合唱:オリオンコール女聲合唱団
伴奏:コロムビア オーケストラ
27067-A(36655)



■農村婦人の唄 ポスター■

《コロムビアレコード 農村婦人の歌ポスター》には次のように紹介している。

農村婦人の唄 (富民協会当選歌)
山田耕作 曲 (歌唱オリオンコール) ー 古賀政男 曲 (歌唱淡谷のり子)

歌詞の一節・・

光は農村婦人より
信念高くかざすとき
昇る朝日のあかあかと
意気に燃え立つわれらかな
(レコード番号 二七〇六七)



602 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/01(Sun) 21:26
古賀政男音楽博物館 企画展示情報 

古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

平成30年4月1日(日)〜7月31日(火)


古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

「歌は世につれ、世は歌につれ」とはよくいわれる言葉です。歌は世相を映す鏡といえるのではないでしょうか。遠く明治・大正・昭和の時代から現在に至るまで、多くの流行歌や歌謡曲などが時代とともに生まれ、そして時代の移り変わりとともに消えて行きました。心に残るあの歌やこの歌が流行した当時、日本はどのような時代だったのでしょうか。
今回は、平成30年に没後40年を迎える作曲家 古賀政男の作品と生涯を、日本の昭和史とともに追って行きたいと思います。



「影を慕いて」

「湯の町エレジー」

古賀政男没後40年 日本大衆音楽史【特別編】古賀政男の昭和史

603 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/09(Mon) 22:20
昭和の流行歌掲示板
h ttp://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=haidakatsuhiko&dd=37&re=231&qu=1

604 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/18(Wed) 22:28
昭和の世相史

昭和5 1930 金本位制復帰するも、昭和恐慌。輸出激減、金の海外流出。大豊作で米価暴落。電気洗濯機登場。         九鬼周造「“いき”の構造」。ダイハツ三輪自動車発売。歌「祇園小唄」「すみれの花咲く頃」。         DHローレンス・金子みすゞ・内村鑑三・田山花袋・豊田佐吉・浅野総一郎・秋山好古没。         ロンドン海軍軍縮会議。 満州事変と政党政治への軍部テロ

昭和6 1931 金輸出再禁止。失業者300万人。羽田飛行場設置。東北・北海道大凶作、娘身売り。         満州事変−柳条湖事件、満鉄爆破。錦州爆撃。溥儀擁立。         ブリジストン創業。三菱石油株式会社設立。「のらくろ」「黄金バット」 。歌「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」。         JHミード・浜口雄幸・Tエジソン没。

昭和7 1932 上海事変。長春にて満州国建国。五・一五事件、犬養首相射殺。桜田門事件。白木屋火事。         東京宝塚劇場設立。チャップリン来日。玉錦横綱に。         雑誌「唯物論研究」創刊。歌「影を慕いて」「銀座の柳」「天国に結ぶ恋」「涙の渡り鳥」 。         梶井基次郎没。  ドイツ、ナチス第一党に。

昭和8 1933 対日満州撤退勧告で国際連盟脱退。思想統制強化−滝川事件。三陸大地震。         阪神マート(阪神百貨店)開業。自動車製造(日産自動車)創業。         歌「サーカスの歌」「東京音頭」「影を慕いて」 。         堺利彦・宮沢賢治・新渡戸稲造・片山潜没。         ヒトラー首相就任。Fルーズベルト大統領に。ニューディール政策。         政府保護下に急発展する産業界−日鉄誕生と伸びる繊維輸出

605 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 15:54

酒は涙か溜息か(高橋掬太郎作詞 古賀政男作曲)

昭和6年9月、満州事変の勃発と東北大凶作、不安な歴史の背景の中で生まれた昭和の歴史に残る出来事である。
これが洋楽の形式をもった、「晋平節」中山晋平の時代から「古賀政男」の時代へ、これをもって本格的昭和SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。
この型破りの二行詩の「酒は涙か溜息か」の発表で、
「古賀メロディー」の時代を決定ずけた、同時に歌手「藤山一郎」を誕生させた記念碑となる曲である。
人々は、主流だった【晋平“節”】に対し、【古賀“メロディ”】と呼んだ、ここにメロディを大切にした「古賀メロディ」が確立した。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・こうした優しい、あの前奏・間奏?後奏がそれぞえ独立した一曲にも値するような、音のキャンバスいっぱいにつかったような、これまでにない新鮮でしかも哀調を帯びた「古賀メロディ」の登場、「酒は涙か溜息か」と「古賀メロディ」の登場・・それは昭和の歴史上で、社会的、歴史的にも大きな出来事だった。

(最近、なんでも作曲家の後ろにメロディ−をつけてしまうが、「古賀メロディ」とは、主流だった【晋平“節”】に対する、戦後に至る唯一のトップブランドとしての「称号」。後ろにそれ、「メロディ−」をつけるのは、「古賀メロディー」一つのみ。)

戦後10年、昭和31年(1961)3月に出た、毎日新聞社「写真 昭和30年史」がある。
ここには、多くの貴重な写真が。昭和6年の扉は、有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』(昭和6年9月新譜)の楽譜の絵と東北大凶作での娘身売り相談所の写真、世相、それに「古賀メロデー」登場を、こう伝えている ・・
「9月18日未明、満州事変勃発。」・・
「東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。
 岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、 都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」
 など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」が氾乱していった。」・・
 毎日新聞社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社 1956.3)
なお、宮沢賢治の「雨にも負けず・・」、あれは昭和6年の冷害を歌ったもの。亡くなってから手帳の中に発見されたもの、星野さんのCMでは最初の部分だけで、詩には先がある。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。
これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット


606 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 15:56
(参考)

・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)
・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
  人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
  銀座で東北の惨状を訴える学生たち


607 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:07
日本のもっとも大きく伸びんとするとき、日本人の心を支えた音楽があります。
古賀政男は、日本に歌謡曲という新しい音楽の分野を根ずかせることを心に、メロディーの重要性を訴え、かつ広く世界の色々な分野の音楽を取り入れました。
また、佐藤惣之助、西條八十など詩人と詩を大切にし、多くの名歌手を傍に育て、映画ともタイアップしたことで知られます。

昭和一桁代、その新鮮な新しい音楽を、人は主流だった『晋平“節”』に対し、『古賀“メロディー”』と呼んだのでした。優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽でもある。
人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。
『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。


『古賀メロディー』、『男の純情』『東京ラプソディ』『人生の並木路』『春よいずこ』『サヨンの鐘』・・など、その数え切れないほど沢山あるヒット曲の殆どを占める多くの映画音楽。

そのそれぞれに、当代随一の詩人の、心を込めた短い詞(詩)の一つ一つを大切に、曲が出来るまでの、半端じゃない思い入れ・格闘の跡が伺える楽譜である。





608 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:18
信州、中野出身の中山晋平は、東京中野に居を構えていた。(現在、熱海梅園にある中山晋平記念館はこれをそのまま移築したもの。
昭和10年に建てられた中山晋平の熱海、西山町の別荘を移転した中山晋平記念館〔熱海〕、その2階に上る階段や手すりに使用されている木材には多くの節(ふし)があります。
中山晋平は自分の音楽の「節」(「晋平節」)にちなんで、このような木材で建築するよう依頼したのだ。

大正から昭和の初めにかけて活躍した晋平の目指したもの、晋平のすごいところ、偉大なところ、それは自らがクラッシックの作曲家として栄誉を勝ち取ることではなく、【誰でも歌える歌ずくり】だった。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。

当時、まだラジオもレコード歌謡もなく、誰でも歌える歌がなかったのだ。

大正10年(1921)に作曲した「船頭小唄」(野口雨情作詞)。これが大ヒットして日本の歌謡曲の基本的な型となり,
その後の「東京音頭」「東京行進曲」など一連の歌謡曲も含めて,「晋平節」といわれ自らそう評していた。

この時、別荘を建てた時、作曲に使うピアノも一緒に送ってしまったのだ。

「古賀メロディ」が怒涛の如く大衆の中に受け入れられていく中で、昭和8年の「東京音頭」、9年の童謡「皇太子様お生まれなった」(北原白秋作詞)を最後に、晋平は戦後までほぼ虚ろな毎日を送る。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

その後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、ビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

以後は、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会理事長」等の要職を歴任します。


昭和27年12月2日、野口雨情の記念碑の除幕式に出席した帰りに、「ゴンドラの唄」の作曲者・中山晋平は、暖房のきかない恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。

主人公が公園のブランコに乗って唄っていたのが晋平作曲の「ゴンドラの唄」でした。「いのち短し恋せよ少女・・・」。

母危篤の知らせを受け、故郷に駆けつける列車の中でつくった「ゴンドラの唄」を耳にした、その28日後、今から61年前の昭和27年12月30日、晋平は65歳の生涯を閉じます。

晋平が目指したのは一貫して《誰でも歌える歌ずくり》でした。

信州中野に一度帰った時、母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。



609 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:34
中山晋平は、「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13年11月/復刻 昭和53年10月)」に、
萩原朔太郎などとともに序文を寄せて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆性)」と特徴づけ高く評価。



610 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/22(Sun) 16:47
訂正
(現在、熱海梅園にある中山晋平記念館は、昭和10年、西山町に建築した別荘をそのまま移築したもの。)

611 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/23(Mon) 15:48
☆「酒は涙か溜息か」・・「古賀メロディ」の確立

この「酒は涙か溜息か」で、「古賀メロディー」の時代を決定ずけ、SPレコード歌謡の幕開け、昭和流行歌、歌謡曲の誕生の記念すべき曲である。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

なお、晋平は後年「宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』(昭和13年11月)」に萩原朔太郎などとともに序文を寄せていて、古賀政男の芸術を「感傷性と平易(大衆)」と特徴づけ高く評価。

中山晋平は島村抱月・須磨子の死のあと藝術座を離れ、野口雨情、西條八十らと大正デモクラシーの中ではじまり、発展した童謡運動に加わりました。晋平の童謡は子どもたちに歓迎され、その歌は今でも歌い継がれています。

その他、大正から昭和のはじめに掛け、佐藤千代子などと新民謡(中野小唄、船頭小唄、波浮の港など)や歌曲など幅広い作曲活動を続けてきた。昭和に入ってからは『東京行進曲』「銀座の柳」など作曲しました。

しかしその後、流行歌(レコード歌謡)の世界は、古賀政男の登場でビクターから『古賀メロディ』のコロムビアに移っていきます。

大正期には、唱歌調、新民謡調を脱しきれなかった日本の大衆歌謡が、[古賀メロディ]の時代を迎えて初めて歌謡曲(歌謡歌曲)として確立されたと言える。

中山晋平は昭和一桁時代、昭和9年1月の童謡「皇太子さまお生れなつた」(北原白秋作詞 中山晉平作曲)を最後に、ほぼ空ろな悠々自適生活を送っています。

上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 東京 早川書房  昭40 (1965)
「影を慕いて」 昭 7 作詞・作曲古賀政男 歌手藤山一郎
昭和 7 年は、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲のこの曲が流行した。
古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。
(注)上山 敬三(1911-1976)は音楽評論家、ビクター文芸部長、ディレクタ-を歴任。

昭和10年には熱海、西山町に別荘を建て、ピアノ も送ってしまいます。晋平の後のビクタ―の顔は佐々木俊一に、以後はほとんど作曲はしていない。

西條八十はビクタ―に談判、昭和8年の1年間、社を越えてコロムビアの古賀政男との提携を勝ち取った、「サーカスの歌」など、その後もたくさんの名曲を送り出すことになる「西條八十・古賀政男」黄金コンビがこの時確立。

昭和14年にはその西條八十もビクターからコロムビアへ。西條八十の代わりは、弟子の佐伯孝夫。
[西條八十・古賀政男] 、コロムビアにおけるこの昭和歌謡史に燦然と輝く偉大なトップブランド、黄金コンビは戦後に至るまで、昭和45年、八十が亡くなるまで続いた。

晋平は大御所としての役割に移り、昭和17年「日本音楽文化協会理事長」、そして戦後昭和23年「日本音楽著作権協会長」等の要職を歴任します。

(参考)
・毎日新聞社社会部編「写真 昭和30年史」(毎日新聞社1956.3)

・「週刊日録20世紀1931(昭和6年)―「満州事変」勃発!」」講談社1997
人物クローズアップ 古賀政男、「酒は涙か溜息か」大ヒット
銀座で東北の惨状を訴える学生たち

・畑守人編著『晋平節考 うるわしき調べ』(北信ローカル社 1987)

・上山敬三著「歌でつづる大正・昭和 日本の流行歌 上」 早川書房 ハヤカワライブラリー 昭40 (1965)  




612 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/29(Sun) 19:57
□詩人・佐藤惣之助 没後76年□


太平洋戦争開戦から5ヶ月ほどたった76年前の昭和17年(1942)の5月15日、西條八十と並ぶ、古賀メロディを支えたもうひとりの詩人佐藤惣之助(51歳)が外出先の馬込(東京大田区 馬込文士村)で脳溢血を起こして倒れ亡くなりました。

佐藤惣之助は昭和12年に現在の大田区馬込にある「文士村」から雪谷に引っ越していたのだが、2日前、義兄の萩原朔太郎の告別式の葬儀委員長をやったばかりでした。

義兄・萩原朔太郎(1886〜1942)は昭和17年5月11日肺炎で死去55歳、13日に自宅で告別式。その4日後、惣之助は過労から脳溢血で倒れ、51歳の若さであっけなくこの世を去った。 相次いでこの二人の詩人はこの世を去った。

惣之助最後の作品は、昭和17年4月のNHK国民合唱「働く力」(国民皆労の歌)(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、酒井弘歌)です。

没後76年、もうすぐ命日ですが、惜しまれてならない詩人です。




613 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/29(Sun) 20:01
小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。 この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)に亡くなるまで住んでいた。ここ代田1丁目42に、
「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑) が立っている。

現在、井之頭通りに面したその一帯はJASRACの建物を含め、「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理にある「古賀政男音楽博物館」になっている、井之頭通りも拡幅され当時のうっそうとした面影はない。代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。馬込の文士村に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助の主宰する「詩の家」の同人でもある。この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。
もともと「純粋詩」というジャンルにいた詩人・佐藤惣之助がいわゆる歌謡曲を手がけたのは、なお、昭和5年、コロムビアから「吉見紫香」の名前で、「ふるさと」(松村まこと作曲)がある。
昭和7年の、映画「金色夜叉」で関種子が歌った「金色夜叉(お宮の唄) 」(古賀政男作曲)、「鳩笛を吹く女の唄」1932.2 井上静雄(藤山一郎)、「アリランの唄」(朝鮮民謡) 1932. (淡谷のり子、長谷川一郎)、「朝顔の唄」1932.6(関種子)、「笛は冴ゆれど」1932.7(関種子)、「秘めたる恋」        1932.3 (関種子)、「愛は紅い」1932.9(関種子) などが初期の本格古賀政男との本格的作品。・・

その後も古賀政男とコンビで、「人生の並木路」「青い背広で」「青春日記」「男の純情」「緑の地平線」「白い椿の唄」「青い背広で」「白衣の佳人」「東京娘」「慈悲心鳥」「愛の小窓」「人生劇場」その他沢山の名曲を送り出した事で知られる、佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。     

これまでの流行歌が、どちらかというと抑揚の少ない平板に感じられるようなこれまでの歌が、「古賀メロディ」の出現によって、表情豊かで心の襞に滲みわたるあたらしい歌の形ができていくのだが、それを決定的にしたのが古賀政男とのコンビで数多くの名曲を世に送り出した事で知られる詩人・佐藤惣之助だろう。

古賀政男の自伝には、私が本格的に作曲に全身全霊を傾けるようになったのは惣之助さんと出会ってからだったということが書かれている。 惜しまれてならない詩人である。

川崎出身の詩人・佐藤惣之助は、大正14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
惣之助は大正、昭和初期の詩壇に雄飛して数多くの珠玉の名篇を世に出した。また「詩の家」を主宰して詩友と交わるとともに多くの後進の指導養成にあたった事で知られる。

詩人・佐藤惣之助は1916年、最初の詩集である『正義の兜』を出版。翌年には、第2詩集である『狂へる歌』を出版している。
「詩魔に憑かれた魔性の人」(朔太郎)と評された。

惣之助は、1911年川田花枝と結婚。 その後、昭和8年(1933)1月に夫人花枝と死別、同年8月萩原朔太郎の妹周子と再婚。

さらに俳句や歌謡、小説、随筆にもすぐれた業績を残したほか、釣や義太夫、演劇、民謡研究、郷土研究、沖縄風物の紹介など多方面で活躍した。釣りに関する書物も多数残している。
大正の末から昭和の初めにかけての佐藤惣之助の主な活動は、八木重吉など70余名の同人・門下生を抱える、「詩の家」を主宰することだった。そして天真闊達な、くったくのない人柄で世話役をつとめていた。

・上村直己「西条八十・佐藤惣之助における詩から歌謡への移行について」( 日本歌謡学会. 日本歌謡研究(通号 18) 1979.04))(ISSN―0387-3218)
・萩原葉子 『父・萩原朔太郎』 (中公文庫 A 109-2、1979) 1959年筑摩書房、1961
川文庫
・流行歌曲について  萩原朔太郎
 (「日本の名随筆 別巻82 演歌」作品社。:「萩原朔太郎全集」筑摩書房 1975)
・「大手拓次/佐藤惣之助」新学社2006
・「佐藤惣之助全集. 第1巻(詩集 上)〜第3巻」日本図書センター2006
・「日本の詩歌13」中央公論社1975(中公文庫)
・藤田三郎著「佐藤惣之助 詩とその展開」木菟書館1983
(佐藤惣之助研究・主要参考文献,年譜:p408〜438)




614 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/04/29(Sun) 20:07
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


615 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/05/01(Tue) 12:41
参考

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50
☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50
☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50




616 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/05/23(Wed) 22:46
昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」、そこには佐藤千夜子が、作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、小説家の吉屋信子、鈴木三重吉、画家の竹久夢二らと出逢い、青春を共に激動の時代を駆け抜けてゆく姿が描かれている。


子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、英語の勉強をするため、キルバンに連れられて上京。 ミッション系である普連土女学校(現:普連土学園、フレンド学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受けたことで音楽を志す。

大正9年(1920)、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に入学。ここで、作曲家の山田耕筰、中山晋平らと運命の出会いを果たす。

日本最初のパイプオルガンを備え東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の社交場になっていた「本郷中央会堂」(本郷中央教会)。

ここに、オルガニスト、聖歌隊長としてエドワード・ガントレット(Edward. Gauntlett)が迎えられます。後に、山田耕筰の義兄となる人です。

クリスチャン同士である佐藤千夜子と山田耕作。中山晋平を伴って山田耕筰は「本郷中央会堂」で、讃美歌を歌う佐藤に中山晋平を紹介します。

大正から昭和の初めにかけて、中山晋平の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子と中山晋平の出会いです。
「全国歌の旅」と言って全国行脚しています、まだラジオも新幹線も無かった時代です。


作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情、西条八十、演奏家の古賀政男(正夫)、藤原義江、・・
こうした芸術家たちは、その音楽にかけた熱き想いでつながっているのです。

レコード歌手の先駆け、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の最大の功績は「古賀政男」という新しい才能を発見し,「古賀メロディ」という新しい「大衆歌謡」に繋げたことでしょう。









617 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/02(Sat) 07:51
☆「幻の古賀作品」・[二世行進曲] (有松由子・板野雪人 メルカ管弦楽団)  (参考)
「二世行進曲」は、戦前に「外務省音楽文化親善使節」として渡米した古賀政男が日系市民協会からの依頼で作曲したもの。

歌詞は一般公募されたが、適当なものがなく、古賀自身が書いた。

曲の一部には「大洋の寵児」(1936佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲 藤山一郎歌)が使われている。

[古賀メロディ誕生70周年記念 古賀政男大全集〜20世紀の遺産〜] 16CD (1998/7/18コロムビア)にのっている。

メルカ・レコードは当時にLAに存在した日系のレコード会社、古賀が渡米したのは1938年。レコード発売は翌年の1939年である。
真珠湾攻撃の二年前に録音販売されたにもかかわらず、現地では広く歌われた。
「二世行進曲」は米国でのみ販売された「幻の古賀作品」。


『二世行進曲』(古賀政男作詞/作編曲 1939) 伴奏:メルカ管弦楽団、独唱:有松由子、板野雪人

歌詞:祖国を沓か(はるか) 海濤(うみ)越えて
こゝアメリカの 大陸に
正義と愛国に奮い起つ



618 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/13(Wed) 22:59
人生劇場・・ 馬込文士村
『人生劇場』は、早稲田大学出身の尾崎士郎の自伝的大河小説。愛知県吉良町(現・西尾市)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。

佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の「人生劇場」は、楠木繁夫の歌として昭和13年(1938)年に発表された。もともとは尾崎士郎の大河小説「人生劇場」(残侠編)が原作で、戦前戦後合わせて十数本も映画化されていて、この歌も1938年の「人生劇場 残侠篇」の主題歌でもった。

この歌は戦後、村田英雄がリバイバルでヒット。楠木繁夫がこの歌をスマートに歌っていますが、後に
作曲者古賀政男は、自叙伝に、

『「人生劇場」は、戦前、楠木繁夫君が歌ってヒットしたが、やはり”背広を着た吉良常”だった。村田君の「人生劇場」は妙に大衆におもねたりせずに、村田君の個性とオリジナリティを前面に出したことが成功したと思う。・・・”古賀メロディ”の硬派の部分を支えてくれたわけだ。』
と書いています。

「人生劇場」は早稲田大学が舞台になっていて、早稲田第二校歌となっている。また、角さんこと田中角栄総理大臣がこよなく愛した歌。。。
 
愛知県の三州吉良港の落ちぶれた旧家に生まれた主人公、青成瓢吉は政治家になる夢を抱いて早稲田大学に入学し、学生運動に参加したり恋愛をしたりするが、それらに挫折する。父・瓢太郎の自殺による苦しみを乗り越えた瓢吉は作家を目指し、文壇デビューを果たす。やがて日本が戦争時代に突入すると従軍作家となる…。

 小説「人生劇場」は尾崎士郎の中学生時代から始まる自伝的小説で、年代でいえば大正から昭和の戦争直後まで、延々と書き続けられた作品です。その中で「青春篇」と「残侠編」が映画化され、そのなかでも圧倒的な人気となったのが「残侠編」で、この部分は尾崎士郎の創作だということです。

「馬込文士村」の中心人物とされる尾ア士郎、尾崎士郎は明治三十一年(一八九八年)生まれ。荒畑寒村や大杉栄らの影響を受け、早稲田大学政治経済科に学ぶが、学長問題と学制改革に端を発した学内騒動のリーダー格と目されて中退する。

「馬込文士村の住人」・・尾先士郎と佐藤惣之助
 JR「大森駅」前の高台に位置する山王・馬込の地に、大正末から昭和初期を中心とした時期、多くの文士や芸術家たちが住み、いつしか『馬込文士村』と呼ばれるようになった。

現在ここに『馬込文士村』が残っている、いる人だけでも43人。 ・石坂洋次郎 宇野千代 尾崎士郎 川端康成、川端龍子 北原白秋 小島政二郎 佐藤惣之助、萩原朔太郎 室生犀星 ---まだまだおります 

太平洋戦争開戦5ケ月後の昭和17年5月、ここの住人、二人の詩人萩原朔太郎、佐藤惣之助は相次いで病死、あっけくこの世を去った。

ここに尾崎士郎が住んでいて、その住居後が「尾崎士郎記念館」でその庭に「人生劇場」文学碑がある。。

 昭和8年新聞に連載始め、
尾崎士郎の自伝的大河小説といわれている歌、映画にもなり広く知れわたる。
 ☆歌(昭和13年)
    作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男
        (佐藤惣之助は文士村の住人)
     この歌は戦後、村田英雄がリバイバルでヒット。 



619 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/13(Wed) 23:01
古賀政男は、自伝「古賀政男「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。
佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡がみられる。その中には、「新作おわら」、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア 」ななどがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 ttp://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html
・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料




☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110
☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50
☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50



620 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/06/26(Tue) 18:53
万城目正

万城目正は北海道出身。武蔵野音校でバイオリンを専攻。浅草松竹座を経て、松竹蒲田撮影所に入り映画音楽を担当。昭和11年コロムビアから「片羽鳥」でデビュー。

昭和13年日本コロムビアに入社、同年の松竹映画「愛染かつら」の音楽監督として主題歌「旅の夜風」を作曲し、空前のブームを巻き起こす。

 続編の主題歌「愛染夜曲」「愛染草紙」を始め、「純情二重奏」「愛の紅椿」「大空に祈る」など戦前から戦後にかけてヒット曲も多い。

戦後は21年の映画「そよかぜ」の挿入歌「リンゴの唄」が大ヒット、混乱期に明るい歌声を送り込んだ功績は大きかった。昭和43年4月25日死去。63歳。 

「純情二重奏」など 一貫して流れる旋律は, 叙情的なムードと, しっとりとしたロマンの曲が多い、古賀メロディのように西條八十など詩人の作詞が多いからでしょう。
日本の歌謡史の中で忘れてはならない作曲家と言えるでしょう。


 
万城目正の主な代表曲
「旅の夜風」(西條八十作詞; 1938年):映画『愛染かつら』の主題歌
「愛染夜曲」(西條八十作詞; 1939年)
「愛染草紙」(西條八十作詞; 1940年)
「純情二重奏」(西條八十作詞; 1939年)
「純情の丘」(西條八十作詞; 1939年)(松竹大船映畫「新女性問答」主題歌)
「別れ路の歌」(高橋菊太郎作詞、1939年)(松竹大船映画「母の歌」主題歌)
「愛の紅椿」 (西條八十作詞; 1940年) 松竹「愛染椿」主題歌
[愛馬花嫁] (西條八十 作詞 1940年)征戦愛馬譜 暁に祈る(佐々木康監督)
「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞) 1946年 映画「そよかぜ」主題歌
「浅草の唄」 (サトウハチロー作詞) 1947年
「涙の駒鳥」 (西條八十作詞、1948年)「松竹映画 駒鳥婦人」主題歌
「悲しき口笛」(藤浦洸作詞; 1949年)
「別れのタンゴ」(藤浦洸作詞、高峰三枝子歌、1949年) 
「東京キッド」(藤浦洸作詞; 1950年)
「越後獅子の唄」(西條八十作詞; 1951年)
「情熱のルンバ」(藤浦洸作詞; 1951年)
「あの丘越えて」(菊田一夫作詞; 1951年)
「哀愁日記」 (西條八十作詞; 1954年)
「この世の花」 (西條八十作詞; 1955年):
「しあわせはどこに」(西條八十作詞; 1956年)






621 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/05(Thu) 21:38
「青い背広で」と朔太郎『純情小曲集』

「青い背広で」作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男。テイチク1280-A「青い背広で」 -B「青春日記」藤山一郎

昭和12年3月、青春の哀歓を歌って若い人たちに愛唱され後、日活によって同名の映画が作られた。
『青い背広で』 : 清瀬英次郎監督、日活多摩川、1937年4月8日公開

ビクターからテイチク専属となった昭和11年、5月新譜「東京ラプソディー」が大ヒットする。翌年には「青い背広で」「青春日記」などがヒットし古賀政男と共にテイチクを大手に押し上げた。しかし昭和14年後期には先にテイチクを退社した古賀政男の後を追ってコロムビアへ移籍してしまう。 

藤山一郎の「青い背広で」という歌。♪青い背広で心も軽く、街へあの娘と行こうじゃないか・・
その歌で歌われているのは、それはまさしく当時からの銀座の一流企業、数寄屋橋にビルを建てているT社に勤務するサラリーマンそのものだというのが社内の一応の定説になっているそうだ。

藤山一郎が歌ってヒットした「青い背広で」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。「青い背広で 心も軽く まちへあの娘と 行こうじゃないか」という歌詞、青い背広に心も軽くと流行歌のモデルになったような企業。当時から憧れの一流企業の青春を謳歌する若きサラリーマンが、憧れの銀座の街を心も軽く、まだ自由を謳歌し、
さっそうと歩く姿が簡潔な言葉の中に見事にイメージされるような素晴らしさ。

藤山一郎が歌唱する「東京ラプソディー」「青い背広で」、昭和モダンを高らかに歌いあげます。戦前の都市文化の象徴する流行歌としてヒット。「東京ラプソディー」は原曲が「スペインの花」。ビクターから藤山一郎を迎えるために古賀政男が作曲し門田ゆたかが作詞。「青い背広」は佐藤惣之助がダーググリーンの背広を見て「青い背広」を思いつく。

失業者が巷に溢れた昭和初期の時代から、ようやく景気も回復しサラリーマンの時代になった「ああそれなのに」(星野貞志=サトウハチロー 作詞、 古賀政男作曲 1937年1月発売)うちの女房にゃひげがある・・空にゃ今日も アドバルーンさぞかし会社で 今頃はおいそがしいと 思うたに)

大正期は、モダニズム・リベラリズムの勃興期であり、都市労働者の増大とともに、
この「青い背広で」が出来た。その直後,盧溝橋事件(昭和12年7月7日)で中国との全面戦争(支那事変)、太平洋戦争へと日本は暗い時代へ坂道を転げおちていく。

これは、なぜ背広なのか、それには朔太郎の詩を読むと浮かんでくる。
 朔太郎の「旅上」(『純情小曲集』)が出来た大正14年から、惣之助の「青い背広で」が歌われた昭和12年頃は

丁度、大正期勃興したモダニズム、リベラリズムが線香花火のごとく最後の輝きを放つよう

な時期でもある。


ようやくサラリーマンの時代が始まったばかりの昭和12年、背広を着るサラリーマン姿は、まだ珍しく憧れがあったでしょう。
地方では、勤め人自体がまだ多くなかったと思います。背広を着る職業、新しい背広を着て外に出たい憧れ(旅情)があったとしてもおかしくない。

そんなあこがれで見られる新しき「背広」を着て・・・は文人ならずとも,あこがれの背広がまだ一般的でなかった時代、特別な思いもあったとしてもおかしくないようなのだ。



622 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/07/05(Thu) 21:41
石川啄木 → 萩原朔太郎 → 佐藤惣之助

詩人であり、作詞家である佐藤惣之助は長年住み慣れた川崎から雪ヶ谷〈馬込文士村〉
に越してきた。これは昭和十二年五月のことだ。場所は呑川左岸崖線の背尾根筋であった。この年、彼が作詞してヒットした曲が「青い背広で」作曲は古賀政男。「青い背広で 心も軽く 街へあの娘と 行こうじゃないか」で始まる。
 
佐藤惣之助は、「馬込文士村の住人」の一人としてレリーフに刻まれている。大正15年頃、南馬込の広津和カ邸に居候をしていた。雪ヶ谷には昭和12年から亡くなる17年まで居住した。解説などでは「自宅がある馬込文学圏(雪谷)で、脳溢血を起こして急逝」したと説明している。雪谷は馬込文学圏に入るらしい。

参考までに、古賀政男の自伝「歌はわが友わが心」(日本図書センター)には、詩人の萩原朔太郎が古賀政男の家によく遊びに来たそうです。

小田急線の代々木上原駅から3つ目「世田谷代田駅」を出て、 南へすこし歩いたところにある、一本の鉄塔。 この鉄塔の下には、詩人の萩原朔太郎が、1933年(昭和8 年)から、 1942年(昭和17年)
に亡くなるまで住んでいた。
大正14年8月詩集『純情小曲』刊行集 (新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を佐藤惣之助と担当。
ここ代田1丁目42に、「代田の丘61号鉄塔由来碑」(萩原朔太郎文学顕彰碑)が立っている。

代々木上原駅前の3000坪の古賀政男邸、古賀政男自伝「我が心の歌」には、この古賀邸に萩原朔太郎、惣之助さんが集まって三人でよく詩の談義をしたとあり、朔太郎の娘・萩原葉子の「父・萩原朔太郎」にも同じ記述がある。

馬込の文士村・雪が谷に住んでいた詩人・佐藤惣之助、佐藤惣之助の義兄が萩原朔太郎、二人は惣之助
の主宰する「詩の家」の同人でもある。

大正14年(1925)8月詩集『純情小曲集』刊行(新潮社)。11月号から「日本詩人」の編集を朔太郎と佐藤惣之助で担当。佐藤惣之助はしょっちゅう代田の朔太郎宅を訪問していた。
この三人は詩を通して日常的に親密な関係を持っていた。


詩のモチーフの基底に朔太郎の『純情小曲集』にある「旅上ーの背広」が沈殿していたかなり奥深いものがあるのではないか?と考えてもおかしくない。



623 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:12
昭和3年、人生の苦悩から始まった「古賀メロディ」、「古賀メロディ」には人生・青春を歌ったものが多い。特に、「影を慕いて」「人生の並木路」など人生の、青春の苦悩をテーマとしたものが多い。

人生を真面目に生き、作曲にも真面目に取り組んだ、それが「人生の並木路」などにもみられる。

それが同時代の、聞く人の日本人の「心の琴線」に触れ共感を与えた。

何と言っても昭和の歌謡史に今も残る三人の詩人をはじめとした多くの詩人・作詞家との交流。

東京音楽学校首席卒業の藤山一郎、関種子(昭和6年〜)をはじめとして、淡谷のり子、霧島昇、楠木繁夫、松平晃、ミス・コロムビア、ディックミネなど沢山の歌手とその育成・・

人生の苦悩から始まった古賀メロディ、一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指した古関・・。

そして何と言っても、残念なのは断片的で、一貫したテーマというのがまたらないことだ



古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。


本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。

今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。





624 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:16
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。確かに古賀政男との対比でみるとそれはよくわかるのだ。

古関がヒット曲が出ないで悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。

コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。

苦しい立場に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。

古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。

古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。
それは、クラシック音楽を基調にした古賀自身のことでもあったのだが、コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。

もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。

古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。

作曲数は決して少なくないのだが、軍歌(軍国歌謡)以外で、残念ながら多くの大衆に絶大な支持を受けたメジャ−な曲(ヒット曲)というのは見当たらないのが実態だろう。戦後はおいとくとして、10曲あげるのはたいへんなことだろう。

コロムビアの中でずっとヒット曲がでず、他社にも移れず悶もんとしてきた彼が居場所を得て活躍するには、戦後の新しい空気をまたなければなかった。


昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞した古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、ドイツ留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。

留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。



ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803



625 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/18(Sat) 20:29
古関は流行歌には関心がなかったのか。彼にとっての音楽はクラシックだったようだ。しかしそれは専属作曲家として許されないことだったろう。

かれは、ヒット作が出ないことに専属作曲家として悩み、そして専属契約解除の危機を迎えることになる。

昭和五年の秋9月、古関裕而は山田耕筰の推薦により日本コロムビア専属作曲家となり、妻金子と共に上京する。でも出社通知と辞令はまだ手にしていなく、コロムビアからは一行に音沙汰がない。

山田は中山晋平のように面倒みはよくない。古関は優鬱な日々を送る。

古関裕而が正式に日本コロムビア専属作曲家になったのは、1年後の昭和6年10月という。

だから、コロムビア専属作曲家になったのは、古賀政男(昭和6年3月)と殆ど同じなのだ。

古関は長い空白のため、専属契約を解除されそうになるのだが、それを救って作曲活動を続けさせたのが古賀政男。

古賀の自伝でも触れているが、このあたりの事について以下のサイトに詳しい。

・近代日本洋楽史/近代日本音楽史の一断面
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html

古賀政男は。昭和5年吹きこみで、中山晋平の弟子で中山の歌を世に広めた歌手・佐藤千夜子の歌で「影を慕ひて」「日本橋から」「文のかをり」など7曲をビクターレコードから出している。

昭和6年にコロムビア専属作曲家となった古関裕而と古賀政男は対照的なデビューを果たすことになる。

古関が悶々とした日々を送って頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、古賀メロディーが大衆の間に浸透していった。(毎日新聞社『写真昭和30年史』参照)

古賀メロディーが一世を風靡する中で、作曲家江口夜詩の入社をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
「それは突然、コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。コロムビアは江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。古関にとってこれは寝耳に水であった。専属契約打ち切り理由が分からなかった。このとき、古関はようやく自分の立場が理解できたのである。専属になって、二年目、ヒットが出ないようではもはや存在する意味がないのである。古関は自分に求められているのは、クラシックの作曲家ではなく、あくまでの流行歌の作曲家であることがようやく理解できたのである。古関は愕然とした。」

「苦しい立場に立たされた古関を救ったのは古賀政男だった。古賀は文芸部長の和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは古賀自身のことでもあった。もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに入れなかったであろう。コロムビアは、同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。」

古関は、専属契約打ち切りという最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになるのだが、結果的にはよかったといえるでしょう。



626 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 10:04
訂正

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したという古関裕而は、コロムビア社の顧問だった山田耕筰に、英国留学を相談する。ところが、日本音楽界の情況からして、あなたがオーケストラ作曲家として歩むことは困難であると山田耕筰に諭される。

ここまでは、いろいろな古関関係の資料にはみなパスされている。



留学を断念させられた代わりに、山田耕筰に推挙される形で、昭和5年に日本コロムビアと専属契約を結ぶ。だが契約を結んだと思っていたが、実際は契約はずっと放置される。いろいろあって、実際に古関がようやく、正式に辞令をもらうのは昭和6年10月のことだった。昭和6年3月には古賀政男がコロムビア専属になっていた。

この時、古関がコロムビア社に求められていたのは、クラッシックのオーケストラ作曲家としてではなく、流行歌(レコード歌謡をこう呼んだ。)の作曲家だった。

つまり、ヒットを生んで社に貢献する。

つまり多くの人に共感を与えなければならないのだ。

単にクラッシックどうこうとかではないのだ。

どんなに優れていたとしても、多くの人に共感・共鳴を与えられるものでなければならないのだ。

でも、そのことがわからなかったところに彼の悲劇がある。

彼はその要求を理解できず、専属契約破棄の瀬戸際をむかえる。ヒットと呼ぶメジャ−な曲がでていないのだ。


歌は心で歌うものであり、テクニックがどんなに優れていても、真に心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く人の心を感動させることはできないのだ。



ttp://electronic-journal.seesaa.net/pages/user/m/comments/regist/input?article_id=23976803


627 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 10:09
古関の場合、いい作品もたくさんあるはずだが、どれをみてもパターンが決まってしまっていて、マイナ−な作品が「クラッシック」という一点でのみ語られているのはたいへん残念なことです。

主なものとしては殆どが戦後の作品が中心となるようで、戦中・戦前は、申し訳程度にいくつかの軍歌(軍国歌謡)と、実質デビューとなる「船頭可愛や」など、決まった2,3の作品プラスアルファ、あわせても10程度というのが定番。

そのアポロガイズのためなのか、そのかわり「クラッシック」というフレーズがことさらでてくるのだ。

昭和4年の英国国際作曲コンクールでオーケストラ曲が第二位入賞したというのも、実は楽譜も何も、証するものが何一つ残っているわけではないのだ。自伝にも載っていない事なのです。考えられないことのはずなのだが。

後年NHKがその楽譜の所在を確認するため、イギリスの出版会社を尋ねたが、その会社は既になくなっており、楽譜の存在も不明となっている。このあたり、確認された話ではなく、本当の処、本当かどうかさえよくわからないと言うのが実態のようなのです。

楽譜は音楽を目指すものの命であり、なくすというのがどういうことかわからないのだ。本当だとしたら棄てたのかもしれないのだ。

なお、古関が留学したかったのはドイツでなく、この英国です。ドイツ留学したのは山田耕筰です。


本人及び周辺の解説であるが、この舞踊組曲は日比谷公園音楽堂において海軍音楽隊による演奏が公開される予定でもあった。しかし、古関は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」(宮尾利雄談)、「家庭の経済的理由と、内山金子との出会いと結婚によって」(古関裕而の令息正裕氏談)留学を断念した。・・とされる。

しかし、英国留学断念は「山田耕筰の強いすすめがあったにもかかわらず」ではなく、山田耕筰に止められた。

今風に言えば[駄目だしされた]。つまり、目指した「オーケストラ作曲家」として歩むことは(その程度では)困難であると、日本におけるクラシック楽団の権威によって、ダメ宣告されてしまったのです。

 また自伝の中でこの入選に触れていないのは、本当かどうかも疑わしいのだが、「イギリス留学」を断念したからではなかったか。渡英断念によってレコード吹き込みは中止され全てくるってしまう。そして、「竹取物語」フィーバーも一気に沈静化するのである。

[燃え尽き症候群]になってしまったのか、「イギリス留学」断念となった若き古関祐而はレコード歌謡作曲家として山田の推薦という形で昭和5年にコロムビア専属になる、はずだったが、放っておかれ夫婦で悶悶とした日々を送る。

こうして、昭和6年(1931)10月にコロムビア専属になるも、ヒット曲が出ず悶悶とした日々を送ることになるのです。





628 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/20(Mon) 19:36
一般に歌謡曲・流行歌というとクラッシックと比べて一段低い音楽という捉え方をしがちです。
「歌謡曲」とは歌詞をもつ歌(歌曲)の意味です。「国民歌謡」の歌謡などと繋がります。
萩原朔太郎は所謂流行歌について「流行歌曲」という言葉を使っています。
昭和の作曲家は古賀政男、江口夜詩など、クラッシックから出発しています。

■流行歌・歌謡曲の意味について
大正から昭和にかけて、「新作小唄」「流行小唄」「新作歌謡」「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、言葉としては演歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。
「歌謡曲」という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。
たとえば、藤山一郎(1911-1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で「歌謡曲」という言葉が使われています。
歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。
NHKラジオ放送では、昭和10年代に入ると「国民歌謡」が始まり、「歌謡曲」という名称は一般的になっていきました。

流行歌曲について 萩原朔太郎
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/47046_30961.html



なお、以下参考になります。

・流行歌の世紀-近代日本の大衆音楽《近代日本流行歌の成立-昭和歌謡の源流》
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub7.html
ttp://www5e.biglobe.ne.jp/~spkmas/sub9.html




629 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 07:51
人生の苦悩から始まった古賀メロディ。一方、コンクールに入賞?して、英国留学を目指したものの、なぜ英国なのか知らないが、山田耕筰にダメ出しされ挫折。

挫折に始まった古関・・最初から燃え尽きてしまった古関。

何と言っても、古関作品の残念なのは、断片的中途半端で一貫した「テーマ」というのがみあたらないということだろう。

古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実のに基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。


(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。)



やはり歌謡曲(レコード歌謡)というのは「詩」があって、詩で決まってしまうものだろう。「曲」は「詩」を超えることができないのだ。





630 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 08:14
洋楽の殆どはクラッシック音楽を基本としてるのは常識。したがって、クラッシック音楽そのものが、なんらの特長、利点になるためには、何らかの明確な特長を兼ね備えなければならないだろう。

世の中には、「クラッシック音楽」そのものでもなく、かといって格段何らかの単純で明快な特長を持つわけでもないものも少なくない(クラシック紛い)。

音楽家たちの求めるものは、そうした一般的・表面的なものではなく、心に染み入る一歩突き進んだものではないだろうか。

一般的に「クラッシックの香り漂う」とか、「格調高い」とかだけのものもある。


しかし、表面的で心に残るものがなければ、決して長く世代を超えて普遍性をもって受け容れられるものとはならないだろう!。

音楽には何より心に染み入る一歩突き進んだもの・・「詩」の心が何にも増して大切なことを改めて気ずかざるを得ない。

631 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/21(Tue) 08:31


『六甲颪』(佐藤惣之助作詞、古関祐而作曲)は、昭和11年(1936)に、『大阪タイガースの歌』としてつくられ,中野忠晴の歌でレコード化されるも、殆ど知られなかった。

一般に歌われるようになったのは戦後、昭和40年代後半で、昭和47年(1972年)に、朝日放送ラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で、中村が歌ったことによる。

1970年代の多くのファンに広めら、昭和60年(1985年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。
『六甲颪』改題は中村の案と言われる。

·中野忠晴 - 1936年(昭和11年)『大阪タイガースの歌』殆ど歌われなかった。
·若山彰  - 1961年(昭和36年)『阪神タイガースの歌』改題後初録音
·中村鋭一 - 1972年(昭和47年)『六甲颪』 朝日放送アナウンサー




632 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/25(Sat) 22:35
昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。
それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。


宮本 旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)

宮本旅人 著「レコード芸術入門 : 作詞家・作曲家・流行歌手 」シンフオニー楽譜出版社1939

この序文に、この若き日の古賀政男と「中山晋平先生」、両巨匠の最初の歴史的出会いのことが触れられていればと思うのです。



633 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/08/30(Thu) 10:26
☆古賀政男とタンゴ

古賀政男は、クラッシック音楽を土台に世界の音楽を広く取り入れた作曲家で知られる。

特にタンゴで古賀政男の世界における存在は大きなものが有る。
佐藤千夜子が歌った「日本橋から」(昭和6年1月 ビクタ―)は日本最初の和声タンゴとして知られる。

昭和14年秋、古賀政男は,外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。
1939年(昭和14年)秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、15分間放送された。
古賀政男アルゼンチンを訪問。Mariano Moresと親交を結び、Moresの楽団演奏で古賀の
「青い背広で」「東京ラプソディ」「望郷の歌」を録音。

古賀の提供した「荒城の月」の楽譜を元に、Tangueraを作曲。 古賀は、アルゼンチンのタンゴのテンポの速さに驚く。

タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
タンゲーラは、「タンゴ的なもの」という意味である。タンゲーラ(Tanguera)とは、マリアーノ・モーレスが作曲したタンゴである。
「荒城の月」と似たようなメロディーが出てくることでも知られているが、このとき古賀政男の提供したもの。
古賀政男には「荒城の月」の編曲もある。

タンゴダンスにもよく用いられ、よく聴かれる曲である。
マリアーノ・モーレス楽団の演奏が最もよく聞かれるが、他の楽団の演奏もある。

(参考)私のタンゴ年表(保坂)
ttp://members.optusnet.com.au/~yhosaka/mytangohistory.html







634 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/02(Sun) 11:37
>>633

(参考)古賀政男と日本タンゴの歴史

(保坂「私のタンゴ年表」 から参考抜粋)


明治20年 1888
Tangoをタイトルにした楽譜・span class=SpellE>Baltoro・/span>が出版され、これをタンゴ発祥の起源とする。
明治22年  1890
日本最初の音楽学校として1890年5月12日に開校された。


ヤマハオルガン製作所が学校向けオルガンの大量生産を行う。

1904
古賀 政男(こが まさお、1904年11月18日 - 1978年7月25日)
大正14年 1925
日本初のラジオ放送は1925年3月22日午前9時30分、社団法人東京放送局(JOAK)より発信。
昭和2年 1926
目賀田綱美男爵、6年に及ぶパリ遊学より帰国。アルゼンチン・タンゴを日本に伝える。


Bianco/Bachicha, Manuel Pizaro、O.T.Victorなどのレコード。


Caminito・・・Fuan De Dios Filiberto 作曲
昭和4年  1929
影を慕いて・・・古賀政男作曲


和製タンゴ「君恋し」大ヒット。作曲・佐々紅華 /作詞・時雨音羽 ,


戦後フランク永井がリバイバル。
昭和5 1930
「アルゼンチンタンゴの踊り方」森潤三郎著発行。上流階級にダンス流行。

タンゴも踊られる。
昭和6年 1931
チェロ奏者の松原興輔、日本初のタンゴ楽団を結成、京橋の日米ダンスホールで出演。

昭和7年 1932
東京音楽学校に作曲科が開設。
昭和8年
1933.5.19 保坂佳秀誕生
伴薫(ピアニスト)正統派のタンゴ楽団として結成。NHKラジオ、国華ダンスホールで活躍。


早川真平、池田光夫、見砂直照を輩出。


桜井潔(バイオリン)タンゴ楽団結成。赤坂フロリダで活躍。
昭和11年 1936
東京ラプソディ・・・古賀政男作曲
昭和12年 1937
高橋忠雄、アルゼンチン訪問。
昭和13年 1938
淡谷のり子Poemaを録音。藤原義江Alma de Bandoneon を録音。藤山一郎、ディックミネ

昭和14年  1939
秋、古賀政男,外務省の音楽文化親善使節として渡米。ハワイ、アメリカ、アルゼンチンを訪問。

昭和14年秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられ、15分間放送された。


古賀政男アルゼンチンを訪問。Mariano Moresと親交を結び、Moresの楽団演奏で古賀の


「青い背広で」「東京ラプソディ」「望郷の歌」を録音。古賀の提供した「荒城の月」の楽譜


を元に、Tangueraを作曲。 古賀は、アルゼンチンのタンゴのテンポの速さに驚く。


1935年から、アルゼンチンではテンポの早いD'Arienzo楽団が人気を博していた。
14
1939
江戸川らん子La Cumparsitaを録音。


日本ビクターよりタンゴアルバム発売。高橋忠雄の選曲と解説。「Argentine Album」141ページ
昭和15年 1940
皇紀2600年
保坂佳秀青柳尋常小学校い入学。担任三原先生
昭和16年 1941
Malena ・・・Lucio Demare(9 August 1906 - 6 March 1974)作曲。
昭和16−20年
1941-1945
12月8日太平洋戦争

635 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/02(Sun) 22:51
参考

>>623-629



>>629
>古関の場合、戦後間もないころのラジオドラマ作品やテーマ音楽などに注目すると、いい作品がたくさんある。

しかし、ネットなどに、戦前を含めて、元の間違った評伝などがそのままコピーされたかのように、史実のに基本的間違いも同じでいるのは大変残念なことではないだろうか。
間違いから出たものが正しいものにはなりえないのだ。

たとえば「高原列車は行く」その他、戦後を含めマイナ−なごくありきたりの普通の歌謡曲などに「クラッシック」(クラッシックの香り)とかいう一語をつけて格上げされるべきでない。

「クラッシック」とは基本的意味において、そんないいかげんなものではないはずなのだが。

「クラッシックの香り」だとか、「クラッシック紛い」はいらない!。


(参考までにトイレの芳香剤に「クラッシックの香り」(クラッシックフローラ)というのがある。)



>>401
クラッシックを含めて、音楽表現するとき、いくつかの具体的で簡潔な音楽美学表現が用いられる。
それが、“平易性(大衆性)”、“明朗性”、“抒情性”などである。
中山晋平、山田耕筰、萩原朔太郎など素養のある、実績のある音楽家・芸術家の使用する音楽表現のための基本用語である。

もちろん、クラッシックの香りがするなどとは言わない、そうした素人表現を使うことは無い。
具体的な音楽表現用語ではないから。


636 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 09:41
☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50

☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50




637 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 09:43

☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110

☆日本の名曲 【日本の優れた文化遺産!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=521471093&ls=50

☆【日本の音楽文化遺産】日本の名歌・名唱を語ろう!!
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=466329511&ls=50

☆昭和SP歌謡  歌謡史を支えた主な名歌手(戦前・戦中) 1,
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=455286679&ls=50

☆昭和「日本映画黄金時代」と映画主題歌
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=443967449&ls=50

☆【昭和最大著作権王】昭和歌謡史と作曲家古賀政男【古賀メロディー!!】
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&ls=50




638 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/10(Mon) 10:51
☆懐かしの銀座を歌った歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=510311914&ls=50

☆名前を名にした歌
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=513078845&ls=50



639 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/11(Tue) 10:42
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50


☆日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史
 http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110


640 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:29
「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」・・・『古賀メロディ』の由来


昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。

古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。

そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」

と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平(晋平節)の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。

昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が亡くなった。

その夜、訃報を伝えるNHKラジオはすべての番組を停止して古賀メロディを流し続けた。

古賀メロディの原点であり、不朽の名曲『影を慕いて』は、美しき日本の歌で、『波浮の港』とともにクラッシックの演奏会のプログラムにもよく見受けられるスタンダード。

今や「古賀メロディ」を超えて『日本の名曲』になっている。

優しい詩、優しく哀調を帯びた、誰にも真似できない独特のメロディー、その多くは映画音楽(映画主題歌)でもある。

人生の、青春の苦悩や喜びという時代を越え、世代を越えた永遠の、青春のテーマを秘めているので、80年を超えた今でも古さを感じさせない。

多くの歌い手を悩ませた譜面に並ぶとりわけ多くの音符、音域も広い、あるいは怒涛のような、あるいは流れるような、音のキャンバスいっぱいに使ったような、「三分間の芸術」の極致を行くような新鮮な作品。

歌詞はもちろんとして、前奏・間奏・後奏など歌詞がないところにも、並々ならぬ想いが込められていて、それぞれが一曲にも値するような曲。

詞の語句と語句の間にもいくつもの音符。これらが一つになり、一つのメロディーとなって聴く人の心を捉えて離さない。


人々は、それを中山晋平の【晋平・節】に対し、【古賀・メロディ】と呼んだ。

   “メロディーこそは音楽の本質”(モーツァルト)

その誰にも真似のできないメロディ・・その哀調を帯びた、青春の息吹を感じさせる日本人の琴線に触れるメロディ。

【古賀メロディ】とは、当時の主流だった中山晋平の【晋平節】に対するもの(称号)であり、「メロディ」をつけるのはただ一つ【古賀メロディ】だけ。


(作曲家の後ろに何でも、JPOP、リズム系までなんでもメロディをつけて呼ぶのは、違和感を覚える。これは戦後昭和40年代以降のナツメロ番組ブームの中でのことで、実際にそう呼ばれていたわけではないことに注意。



古賀政男は「詩はお姉さん、曲は弟」といって、詩を大切にした人。

曲作りに人並み外れて熱い想いをかけていた。古賀政男が作曲の醍醐味を知るのは、詩人・佐藤惣之助との出会いであったと自伝にある。

古賀政男ほど多くの詩人との結びつきの深い者も知らない。

『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『なつかしの歌声』等々・・・、古賀メロディーは、佐藤惣之助〈1932〜〉、西條八十(1933〜)、サトウハチロー〈1935〜〉など、詩人との出会いの歴史によってそれは生れたといえるでしょう。

佐藤千夜子の歌で世にでた二つの名曲、《波浮の港》と《影を慕いて》・・、

いずれも、今でも根強く愛され歌われ、演奏されている《日本の名曲》。

そして両方とも、NHKテレビで「日本の名曲10曲」として放送された押しも押されもしない「日本の名曲」である。

古賀メロディーというのは、その殆どが青春を謳った青春歌謡です。

古賀政男は、宮本旅人が「中山晋平」の伝記を近く出版するという話を聞いて、序文を書いてあげようと言って数日後には送ってくれたそうです。

それから二ヶ月たたずに、古賀政男は亡くなりました。

宮本旅人「歌謡山脈 : 中山晋平伝記小説 」信濃毎日新聞社 (昭和53年 1978)





641 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/09/21(Fri) 19:57
樹木希林さんを悼む

樹木希林さんが亡くなった、かってテレビの番組で「人生の並木路」について語った・・


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があった、内容は『神田川』などだった。

いかに昭和元禄、物の有り余る飽食の時代、親の作った弁当を食べずコンビニ弁当を食べる飽食の時代といえど、もはや“四畳半フォーク” が゛ “人生の苦悩”じゃ、世も末だなと思いました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月8日、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」(1935))の主題歌。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、昭和30年代初めまで長く貧しい時代が続きました。戦前となれば信じられない貧しい時代もはやだったでしょう。

昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、「二十四の瞳」に描かれてるように、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだされる、そんな時代であったことでしょう。

このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。
日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、大切なものがだんだん失われてゆくのは大変残念なことです。

家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。
支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。

どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。
この歌は、日本人が忘れかけていたこと大切なことを思い出させてくれます。

「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない詩です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。
心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)

以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。


古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。




642 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/10/07(Sun) 12:36
日本の歌こころの歌

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=508252044&ls=50


ラジオ番組について

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=351156284&ls=50



643 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/11/19(Mon) 22:04
☆タンゴ100年、日本におけるアルゼンチンタンゴの歴史と古賀政男

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=542627758&ls=50

644 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/08(Sat) 20:51
藤山一郎は、古賀政男没直後に出た、追悼本である(「昭和の日本のこころ 古賀政男・・わが歌は永遠に」 昭和53年12月(平凡出版))で、『デッサンの確かな作品群』と題し、古賀政男との歴史的初対面と、歌手・藤山一郎の誕生などについて次のように寄稿している。

古賀政男との対面は昭和6年春、神田に共益商社という楽器店(後の日本楽器)があり、よく楽器をみていた、そこに慶応の先輩で加藤武二という支店長がいた。当時、共益商社の二階を借りて、「明大マンドリンクラブ」が練習していた。
そこで加藤支店長から見て行かないかと誘ってくれた、それが古賀政男との初対面。

加藤武二氏は,同時にコロムビアレコードのディレクターを兼務していて、それからまもなく、藤山(増永丈夫)は、加藤ディレクターから、古賀の専属第一作である『キャンプ小唄』の吹き込みについて、
『お前が歌ってみろ、アルバイトにはいいぞ』と誘われ引き受けることにした。
そして、市政会館にあったコロムビアで引き受けることを正式に伝え、芸名を考えた。
「藤山一郎」でどうでしょうかと言うと、「それでよかろう」となり、歌手・藤山一郎が誕生した。

なお、古賀政男の作品について、[全てゼニ儲けの作品であってもデッサンの確かな作品でした]と書いている。

645 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:12
藤山一郎(1911.4.8-1993.8.21)が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。昭和6年(1931)、まだ20歳になったかならないかの若さである。古賀政男27歳。まだ東京音楽学校本科2年生のアルバイト吹き込みで30曲あまりを吹き込んだのだった。

「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」・・これら藤山一郎の歌で世に出た曲は金融恐慌、満州事変の勃発、東北大凶作、日本が貧しく、苦難の時代の中で世に出た。同時に、「古賀政男」「藤山一郎」二人の原点でもある。

戦前の藤山一郎の、「丘を越えて」「青い背広で」「東京ラプソディ」「春よいづこ」など「古賀メロディー」の青春を高らかに歌いあげている。青春を謳歌する若く溌剌とした張りのある美声は古賀政男の数々の青春歌謡に相応しい。藤山一郎なくして古賀メロディの青春はなかった。しかし、藤山一郎は昭和18年以降、南方慰問に駆り出され、外地での抑留生活の空白の後日本に帰った浦島太郎、藤山の復員を待ち構えていたNHK。復員を初めて伝えたNHKの番組がきっかけで、以後、藤山はラジオ放送との係わりを深めてゆく。

「青い山脈」(1949)など藤山一郎の戦後の歌は、こうしてかっての若々しい頃から30代後半を過ぎ40代近くなって、あの若く溌剌さは消え去り、その5年後、昭和29年(1954)には、レコード歌手を引退、NHK嘱託となった。

最近の歌番組では、「昭和」というのはたくさん出てくるのだが、昭和にまだ足のつま先が残っただけの昭和末期、昭和50,60年代。


昭和は大正15年・昭和元年(1926)12月25日から、昭和64年(1989)1月7日まで62年14日、明治大正を合わせた60年より長い、世界的にも一番長い。

昭和元年は1週間しかなく、昭和は実質昭和2年から。レコード歌謡は昭和2年から3年にかけて始まった。「昭和」の由来は、書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」・・国民の安寧のもとに国際平和の実現を目指す・・ものだったが、実際は戦乱に明け暮れ貧しい民だった。そんな昭和の幕開け、まだ「青空」とか「アラビアの唄」などまだあちらの歌くらいしかなかった時代だ。

「歌う昭和史!」と言われる「藤山一郎」でさえ、「青い山脈」とか、戦後の歌しか知らない人、この「歌う昭和史」藤山一郎も戦後の歌手だと思っている人が多いのは残念な事。

「昭和」とは60年を超える明治大正を合わせたより長いのだ。




646 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/10(Mon) 10:18
☆藤山一郎代表曲(古賀メロディ)

キャンプ小唄   (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1931年 7月
酒は涙か溜息か (高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲)  1931年10月
丘を越えて     (島田芳文作詞、 古賀政男作曲)  1931年12月
スキーの唄    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1932年1月
鳩笛を吹く女の唄 (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1932年2月 井上静雄名
影を慕いて    (古賀政男作詞、 古賀政男作曲)  1932年3月
東京ラプソディ (門田ゆたか作詞、古賀政男作曲)  1936年7月
東京娘      (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
さらば青春    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年7月
男の純情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年8月
大洋の寵児   (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
旅の鴎(かもめ) (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1936年10月
回想譜 (今城靖児作詞、古賀政男作曲) 映画「女の階級」挿入歌1936.12
青春の謝肉祭  (島田欣也作詞、古賀政男作曲)   1936年12月
聖処女(きよおとめ)の唄(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)1937.1.8 (日活「検事とその妹」挿入歌)
青い背広で    (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
青春日記     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年2月
白薔薇は咲けど (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1937年5月
青春旅情     (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲) 1938年3月
歓喜の丘    (島田芳文作詞、 古賀政男作曲) 1938年3月
白虎隊     (鈴木吟亮 詩吟)(島田磐也作詞、古賀政男作曲) 1937.11
なつかしの歌声 (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
春よいづこ    (西條八十作詞、古賀政男作曲)(二葉あき子) 1940.5
働こうぜ友よ  (佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)       1941.3
歌えば天国   (西條八十作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、二葉あき子)1941,7
崑崙(こんろん)越えて(大木惇夫作詞、古賀政男作曲)     1941,7
リンゴが紅い  (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(古川ロッパ、松原 操)1941.8
青い牧場    (サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)(奈良光枝) 1943.2
(これ以降、藤山一郎は南方慰問に駆り出され、終戦を迎え抑留となる。)

嘆きの小鳩   (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1947
友情の歌     (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲 1948
愛のカレンダー (西條八十作詞、古賀政男作曲) 1951
夜の湖      (藤浦洸作詞、 古賀政男作曲) 1952


647 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:44
ビクター時代の藤山は『燃える御神火』、『僕の青春』などがヒットした。
だが、音楽学校在校中に吹込んだ「古賀メロディー」ほどの圧倒的大ヒット曲には恵まれなかった。
主に佐伯孝夫、佐々木俊一コンビで、10分の1以下だった。

ビクタ―には、藤山一郎の才能を引き出す足るに足る才能がいなかった。



藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

648 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2018/12/12(Wed) 00:58
歌手・藤山一郎は、『青い牧場』『決戦の大空へ』を最後に、昭和18年〈1943〉2月、ボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発、
日本を離れた。その後抑留され、寄港したのは、昭和21年(1946)7月15日のことだった。

つまり、藤山一郎には、戦争を隔ててこの約3年余りの空白がある。
このあたりのことは、戦後の藤山一郎のことを読み解くうえで重要なことだが、あまり明らかにされていない。

1946年7月15日、藤山一郎は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた。いち早くこのニュースをかぎつけたのはNHKだった。
藤山は早速8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演をした。

これを皮切りに、日本での歌手活動を再開させることとなったのだが、彼の戦後の歌手活動の出発点が「ラジオ」であったことは戦後の活動を大きく制約されてしまうという点でたいへん残念なことではある。
活動範囲が、詩人などで、主にかっての西條八十など第一級の優れたレコード人脈から、少数のラジオ(番組)人脈に移ってしまったのはたいへん残念なことである。曲は詩を越えることはできないのだ。

もちろん年齢的にも、すでに30代後半になっていた。
あの20歳、東京音楽学校生徒で歌手デビューし、「古賀メロディ」の青春を高らかに歌い上げていたあの頃の若き20代のあの溌剌さも年とともに失われてゆくのはやむを得ないこと。

レコード界も大きく様変わりして行く、昭和28年には春日八郎に始まる演歌歌手が登場していく。

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べている。

もちろんそれ以外にも当然レコード歌手としての年齢的なこともあるだろう。

いずれにしても、昭和18年、突然に始まる3年間にわたる慰問抑留生活が、戦前から戦後へ、「歌う昭和史」ともいわれるこうした歌手・藤山一郎の抜きんでた才能や活動を大きく変えてしまった!。

649 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:32
昨年2018年12月30日、TPPがアメリカを除外で発行、著作権は死後50年だったものが、70年になった。
これに合わせ、著作権法が改正され著作権保護期間が50年から70年になった。

古賀 政男(1904年11月18日 - 1978年7月25日)は、昭和53年7月25日亡くなり、昨年(昭和93年)7月で残り40年であと10年だったが、
この改正で2048年12月まであと30年ということになる。


650 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/02/28(Thu) 16:56
流行歌懐古館 別館・愛聴譜   TATMDfx03_64.pdf

昭和3年(1928)2月―昭和64年(1979) 180p.

651 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/03(Sun) 23:16
昭和6年、「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」、昭和7年「影を慕いて」 の連続ヒットで一躍スターダムに登り詰めた古賀政男作曲の曲が流行した。古賀の曲はそれまで主流であった中山晋平の「晋平節」に対し、「古賀メロディー」と呼ばれた。

昭和一桁、初期の頃、彗星のように現れたまだ作曲家になったばかりの駆け出しの頃、古賀政男について、新聞に「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」という意味の記事が大きく載った。
古賀は、大慌てで大先輩の「中山晋平先生」のところに謝りに出向いた。
そしたら「中山晋平先生」から、「いいですよ、あなたは私には無いいいところを持っています。頑張ってください。」と逆に励まされたという。

これが、「中山晋平の時代から古賀メロディの時代へ」を決定ずけ、かつ『古賀メロディ』の名を普遍的なものとした。
http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=487062431&to=50


652 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/03/16(Sat) 22:14

大正から昭和の初めにかけて、大衆が誰でも歌える歌といえるものが
民謡など除いて存在しなかった。

誰でもが歌える歌ずくり、それを一貫して目指した作曲家、それが中山晋平。

晋平の歌は【晋平節】と言われた。

劇中歌から、童謡、新民謡、歌謡歌曲。

中山晋平は詩人の野口雨情、歌手の佐藤千夜子と組んで、大正から昭和の初めにかけて「新民謡・新童謡コンサート」(全国歌の旅)を行っていた。

まだ新幹線も飛行機もない時代に全国行脚を行い民謡採譜や新民謡など普及運動を行っていた。

この中から生まれたのが新民謡「波浮の港」、が昭和3年、ビクタ―発足に伴いレコード第一号となり、レコード歌謡(流行歌といった)第一号となった。

これを歌った佐藤千夜子は『レコード歌手第一号』と言われ、昭和53年、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」で取り上げられた。

「晋平節」の中山晋平の時代と「古賀メロディ」の時代をつなぐ歌手それがレコード歌手第一号佐藤千夜子である。

古賀政男は、このレコード歌手第一号佐藤千夜子の力添えで誕生するのである。 古賀政男は自伝「我が心の歌」で『終生の恩人』と書いている。

昭和の初め、まだ日本が貧しかったころ、満州事変の勃発と東北大凶作、宮沢賢治が「雨にも負けず風にも負けず‥」と歌った、日本の歴史に残る最後の飢饉とされた。

昭和東北大凶作の中、昭和6年(1931)1月、佐藤千夜子の歌で、7年3月藤山一郎の歌で「影を慕いて」などが世に出た。

そして、【古賀メロディ】は、晋平の【晋平節】の次に世の流れになっていく。

「古賀メロディ」の「メロディ」とは、「晋平・節」の「節」のに対するもので、古賀政男が「メロディ」を大切にその重要性を主張していたそのことによる。

今年、昭和を継ぐ平成最後の平成31年(2019)は『古賀メロディ誕生88年』。

もうすぐ90年!


影を慕いて、丘を越えて、酒は涙か溜息か、窓に凭れて、月の浜辺・・ これら「古賀メロディ」は今もなお延々と歌い継がれているが、誕生したころ、今ある歌のほとんどすべてはまだ存在しなかった。

殆どの「古賀メロディ」の名曲がもうすぐ、一つの区切りとなる「80年」を超える。

「古賀メロディ」は、聴いていてすぐ場面が想い浮かぶ。

それは古き良き日本人の、心優しき、節度ある、清爽な気持ちを表す名曲です。

露骨な自己主張が氾濫する現今のとはちがう、素晴らしい歌曲です。


いつ聞いても懐かしさで涙があふれてくる、80年前の歌が、昨日のことのように。そして、生きる喜びを与えてくれる、それが名曲の名曲たるところ。


80年の歴史をもつ多くの「古賀メロディ」、それは今や「古賀メロディ」を越えて、【日本の名曲・日本のクラッシック・日本のスタンダード】になっているのではないでしょうか。





653 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:50
>>155-156
>>652

☆佐藤千夜子歌唱の主なレコード作品
童謡、新民謡、歌謡歌曲、新日本音楽を含めて、100曲を超えるレコード歌手第一号・佐藤千夜子歌唱のレコード作品,その代表的なもの。

青い芒(すすき)1924(野口雨情作詩・中山晋平作曲)   大正13年(内外蓄音機)
紅薔薇   (林愛雄作詞、宮城道雄作曲)ビクター50698 新日本音楽
こすもす     (与謝野晶子作詞、宮城道雄作曲)  同
ひばり  1929.4 (西條八十作詞、 宮城道雄作曲)   同
鶯の夢 1928.5 (野口雨情作詞、 中山晋平作曲)  ビクター50313
波浮の港 1928.5  (野口雨情作詞、 中山晋平作曲) ビクター50313
マノン・レスコオの唄1928 .5  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50321
旅人の歌 1928.12 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50502
信田の藪 1936吹込(野口雨情作詞、藤井清水作曲1922) ビクター53876
当世銀座節1928.7 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター-50371
須坂小唄 1928.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクター50385
出船の港 1928.12 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲) ビクター50502
毬と殿様   1929 ,2 (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50624
東京行進曲  1929.6  (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター50755
君恋し    1929.10 (時雨音羽作詞 佐々紅華作曲) ビクター50881
青い芒    1929.9 (野口雨情作詩, 中山晋平作曲) (再吹込)ビクター50901
鎮西小唄 1929 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
上州小唄 1929 .5 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
鉾をおさめて 1929.7 (時雨音羽作詞、中山晋平作曲)   ビクター50776
港おどり  1929.8 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
愛して頂戴  1929.8 (西條八十作詞、松竹蒲田音楽部(中山晋平)作曲)50901
黒百合の花  1929.10 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50881
紅屋の娘   1929,6 (野口雨情作詞、中山晋平作曲)   ビクタ‐50755
摩天楼 1929.9 (時雨音羽作詞、 佐々紅華作曲)   ビクタ‐50936
文のかをり  1929 (古賀正男作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
娘心も     1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51091 (1930.3発売)
青い小鳥   1929 (不詳 、   古賀正男編曲)ビクター51464 (1930.12 発売) *
風の鈴蘭   1929 (浜田広介作詞  古賀正男作曲)ビクター51698B(1931.6発売)
片想い    1929 (浜田広介作詞、 古賀正男作曲)ビクター51688A (1931.6発売)
母の歌    1930.1(鶴見祐輔作詞 中山晋平作曲) ビクター51027@
唐人お吉の唄(黒船篇)1930.2(西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター51093
この太陽   1930.6   (西條八十作詞、中山晋平作曲) ビクター51240
琵琶湖シャンソン1930 (西条八十作詩・中山晋平作曲)
影を慕いて  1930 (古賀正男作詞、古賀正男作曲)ビクター51519B(1931.1発売)
日本橋から  1930 (浜田広介作詞、古賀正男作曲)ビクター51519A(1931.1発売)

*『青い小鳥』は、『星の飛ぶ夜』(堀正明作詩、小松平五郎作曲編曲・佐藤千夜子歌唱)とカップリング





654 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/06(Sat) 22:53

※1932録音
カチューシャの唄 1932.6(島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター52393
船頭小唄 1932.6(野口雨情作詞、中山晋平作曲)  ビクター52393


※古賀政男(正男)初期のレコード(プレクトラム音楽家・「古賀正男」作品)上記

文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464 (*)
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51688
以上は,作曲家になる前の作品

※古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
・『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編
曲・淡谷のり子歌)

・『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和
  歌子歌)

・『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・
  関種子歌)。

1934年(昭和9年)、イタリア留学中だった佐藤千夜子が、帰国を前にイタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座での録音が実現。上記に加えて佐藤千夜子の名唱が聴けます。ゴンドラの唄、さすらいの唄など、
レコード歌手第一号・佐藤千夜子の本格的な歌唱(1934,2)が絶品です。
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏)。佐藤さんのイタリア録音曲ビクター VDR-5171


☆イタリア・グラモホン本社スタジオ=ミラノ・スカラ座録音6曲  昭和9年2月☆
(ミラノ・スカラ座管絃楽団伴奏・ミラノグラモフォレ管絃楽団)

カチューシャの唄 (島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)
船頭小唄    (野口雨情作詞、中山晋平作曲)
さすらいの唄 (北原白秋作詞、中山晋平作曲)ビクター52972
ゴンドラの唄 (吉井勇 作詞、中山晋平作曲〉ビクター52972
酒場の唄    (北原白秋作詞、中山晋平作曲) ビクター53100
春の雨     (相馬御風作詞、中山晋平作曲)ビクター53100

※信田の藪(しのだのやぶ) 1936吹込 (1922野口雨情作詞、藤井清水作曲)
この歌は大阪府泉大津市と和泉市のあいだの「信太山(信田)」に古くから伝わる有名な白狐の話を元に野口雨情が「十五夜お月さん」中のこの詩に、日本的で美しいメロディの歌曲を多数作られた宮崎県出身の作曲家藤井清水(ふじいきよみ)が曲をつけたもの。

1922年(大正11年)に作られたこの名曲の初録音は1928年の藤原義江、それに1936年の佐藤千夜子が有ります。他に童謡で羽崎共子盤がある以外ない。

佐藤千夜子の叙情豊かで、一語一語大切に心をこめて歌う歌唱は、豊かな日本の叙情を歌ったこの歌曲の良さを最大限に引き出す、すばらしい歌唱でまさに絶品中の絶品といえます。これを超える歌は聞いたことが無い、ぜひ聴いてみましょう。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-shinodanoyabu.html

※青い芒(すすき)(1924 野口雨情作詩・中山晋平作曲)
1924年(大正13年)、歌手・佐藤千夜子の初レコーディング曲と言われています。佐藤は大正時代、野口&中山コンビ主宰「新民謡童謡普及運動」である「新民謡・新童謡コンサート」(「全国歌の旅」)に歌手兼講師で参加。当時「新民謡童謡普及運動」のメンバーは台湾まで出掛けています。巡演先のレコード会社「内外蓄音機」で1924年レコーディング。1929年(昭和4年)にもビクターで再録音されてます。
♪青い芒(すすき)に蛍の虫は・・・。


CD紹介 ・・これを聴くと佐藤千夜子の偉大さがわかってくる。

・CD「昭和を飾った名歌手たち 1/佐藤千夜子」VICL 60326
  ttp://www.tsutaya.co.jp/works/20058945.html
・ CD「七つの子~野口雨情作品集 」ビクターエンターテインメントVICG-60536
 ttp://www.neowing.co.jp/detailview.html?KEY=VICG-60536


655 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/04/15(Mon) 00:43
DSi

656 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:49
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


657 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/06/03(Mon) 23:51
【日本のクラッシック】 古賀メロディの歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=558914195&ls=50


658 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/16(Tue) 22:31
メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997


659 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/07/22(Mon) 09:10
>>658

抄録
古賀政男音楽作品は"古賀メロディ"として多くの人々に親しまれてきた。本論文では, 古賀メロディに共通する旋律の特徴を述べている。特徴抽出にはメロディパタンのスペクトル表現に階層的ファジィクラスタ分析を適用した。クラスタ分析において古賀メロディが集群する階層が存在した。この集群したクラスタから得られる類似関係は, 旋律輪郭の滑らかさにあることが分かった。実験結果から, 古賀メロディの特徴の一つとして, 旋律全体の滑らかさと部分旋律における滑らかさに相似関係が存在することが明らかになった。このことは, 16小節程度の旋律進行は4小節程度の部分旋律における旋律進行から予測できることを意味している。



660 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/10(Sat) 13:15
>>658-659

メロディパタンのクラスタ分析 : 古賀メロディパタンの特徴
Cluster analysis of melody pattern : A characteristics of KOGA melody style
秋山、松田、日本音響学会誌 53(12), 915-921, 1997

各種コード
NII論文ID(NAID) 110003106845
NII書誌ID(NCID) AN00186234
本文言語コード JPN
資料種別 ART
ISSN 0369-4232
NDL 記事登録ID 4352162
NDL 雑誌分類 ZM35(科学技術--物理学)
NDL 請求記号 Z15-15
DOI 10.20697/jasj.53.12_915

661 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/08/18(Sun) 16:18


662 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/10(Tue) 22:51
日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=history&key=354361110&ls=50

663 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2019/12/11(Wed) 14:48
☆昭和歌謡が好きな人集まれ!

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=music&key=494943486&ls=50

664 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/12(Sun) 23:35
昭和SPレコード歌謡番組を待望する。 (ラジオBBS)

http://www.10ch.tv/bbs/test/read.cgi?bbs=radio&key=578828634&ls=50

665 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2020/01/19(Sun) 19:59
>>597-598

■■NHKTV「日本の名曲10曲」■■ 
1990 NHK TV (1年間毎週放送)

「荒城の月」   土井晩翠作詞、  滝廉太郎作曲    1901
「波浮の港」   野口雨情作詞、  中山晋平作曲    1928
「叱られて」   清水かつら作詞、 弘田竜太郎作曲   1920
「この道」    北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1927
「浜千鳥」    鹿島鳴秋作詞、  弘田竜太郎作曲   1919
「影を慕いて」  古賀政男作詞、  古賀政男作曲    1931.1932
「出船」     勝田香月作詞,   杉山長谷夫作曲   1928
「宵待草」    竹久夢二作詞、  多 忠亮作曲    1918
「花」      武島羽衣作詞、  滝廉太郎作曲    1900
「からたちの花」 北原白秋作詞、  山田耕作作曲    1925

日本がまだ貧しかった80年以上前から、第一級の詩人が、第一級の作曲家がその抒情を、心を込めて、歌いこみ、そして藤原義江、三浦環、関屋敏子・・、日本を愛する知る人ぞ知る歴史に残る、第一級大歌手・声楽家が好んで
歌った歌、世に広めた名歌、それが今に歌い継ぐ日本の名曲でした。





掲示板に戻る 全部 前 50 次 50 1 - 50 最新 50 スレ一覧
名前: E-mail(省略可)

read.cgi ver.4.21.10c (2006/07/10)