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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/12(Wed) 19:10
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)
「白い椿の唄」 (佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、楠木繁夫)
「男の純情」  (佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、藤山一郎))
「緑の地平線」 (佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、楠木繁夫)
「女の階級」  (村瀬まゆみ作詞 古賀政男作曲、楠木繁夫)

当時はSPレコードといって、今では見かけることは殆ど無いが「蓄音機」で聴くための、昭和30年代に全盛を迎えたLPレコードが出現する以前の78回転レコードです。因みにその後LPレコード(33、3回転)、EPレコード(ドーナツ盤、45回転)があった。

日本における電気吹き込みによるSPレコード産業は「昭和」の歴史とともに勃興したが、マイナーなレコードには前から主に浪花節や一部の童謡、民謡、演歌などがあった。

SP盤レコードの録音時間には現在のCD或いはLPレコードと違い、3分と言う時間制約が有った。3分と言う時間内に、すべてをどうやって収めるかと言う「三分間の芸術」であった。

「歌謡曲」とはまさに「三分間の芸術」そのものだったのです。そして歌詞は簡潔で適切であった。曲のテンポはゆったりして、短い時間の中に、歌詞の行間に秘められた作者の想いを自ら想起しつつ聞けるのです。

「古賀メロディー」の「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩)や、「白い椿の唄」(佐藤惣之助作詩)や、「勝利の日まで」(サトウハチロー作詞)、3分間という短い時間の中で、前奏・間奏・後奏それぞれが独立した一曲にも値し、人を曲の世界に引きずり込む溢れるような名曲といえましょう。

短い歌詞で思わず涙が溢れる、1時間も聞いたような、そのような曲は今あるだろうか。



13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 12:08
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詩,古賀政男作曲、ディックミネ)


もはや昭和は遠くなりにけり。昭和が平成に変わった頃、『人生の苦悩』を歌った歌の特集があったが、内容は『神田川』などだった。“四畳半フォーク”が゛“人生の苦悩”じゃ、世も末だなと寂しくなりました。

『人生の並木路』は、昭和12年(1937)1月、日活映画.渡辺邦男監督「検事とその妹」(竹田敏彦原作 「検事の妹」)の主題歌です。

日本はいつの間にか豊かになりましたが、長く貧しい時代が続きました。昭和戦前、日本がまだ草深い貧しかった時代、幼くして両親を失った兄と妹が支え合って生きていく兄弟の絆を歌った名曲です。

まだ20代の若きディック・ミネが歌う原曲(テイチク1200)。この歌を聴くと詩の世界に引き込まれそしてなぜか自然に涙が溢れ出てしまう。

昭和の歴史が生んだ歴史に残る究極の名曲といえるでしょう。是非歌い継いでいってほしいです。

今は昔の人から言えばハッピーな時代ではないでしょうか。

昔は昭和戦前まで、貧しさゆえに子供を小学校卒業を待たず奉公にだす、そんな時代であったことでしょう。このころの歌には、優しさと温かさがあると思います。

日本が豊かになるにつれ、こうした優しさ、温かさが、だんだん失われてゆくのは大変残念なことです。
家族の絆や心の豊かさは、今の日本よりも至る所にあふれていたでしょう。

支え合って真面目に生きてゆく真摯な兄と妹の姿。

そこに嘘・偽りが無い、だから聴いていて思わず涙が溢れるのでしょう。
どんなに苦しくとも貧しくとも、まじめに生きていればきっといいことがある。

この歌は、日本人が忘れかけていたことを思い出させてくれます。



14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 12:52
「人生の並木路」は、味わえば味わうほど、聴けば聴くほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。まだテレビも無かった昭和戦前から戦後にかけて、「日本映画黄金時代」で、どんな小さな街にも、小さな映画館があって、こうした映画に浸れた、貧しくとも心豊かな時代だったでしょう。

映画「検事とその妹」は、その昔、公の支援も無かった貧しい時代、・・幼くして自ら人生を切拓くべく世に出ていく、兄と妹の青春の葛藤の姿と言えるでしょう。その詩は「簡潔にして適切」、もう今ではけっしてできない誌です。

「佐藤惣之助」という稀有な詩人であり、作詞家によって、そして自らも故郷喪失体験を持つ古賀政男という第一級の作曲家が、楽譜を大粒の涙で濡らしながら生れた究極の名曲と言えます。

心をこめて一所懸命に歌う、若きディック・ミネの『人生の並木路』、その3分には、そっと寄り添い包みこむ温かさと優しさが溢れている。

・詩人・佐藤惣之助と四季の卓子(たくし=テーブル)
ttp://blogs.yahoo.co.jp/hanakoamemiya/37942741.html


15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 21:28
昔、日本が農村主体のまだ貧しかった時代、たいてい貧乏人の子だくさんでした。兄は弟や妹を一身に面倒見る、それが当たり前だったそうです。

「飽食の時代」といわれる今の世では、絶対に書けない。

詩人・佐藤惣之助は、「兄弟の絆」というものを短い言葉で簡潔に歌い上げています。現代にはありえないすばらしい歌詞だと思います。

「人生の並木路」はなんといっても昭和12年「オリジナル原盤」で聞かなければ味わえない。若きディックミネが歌うオリジナル版は、まさに悲壮感漂う名曲です。

なお、もうひとつ『聖処女(きよおとめ)の唄』(佐藤惣之助作詩、古賀政男作曲、藤山一郎歌)は同挿入歌です。
以前、NHK教育テレビの『大希林』という番組で、「樹木希林」さんが、なんか「作詞」の講義をしていて、何回試みてもどうしても長くなってしまって、何言ってるんだか良くわからないと。

そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、樹木希林さんが出した「最高の詩」それが何と『人生の並木路』でした。

別に歌番組でも、まして「古賀メロディー」番組でもなかったのですが、・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩とともにこの曲が流れた。

古賀政男自らも、7歳にして一家で貧しい故郷を捨てて朝鮮に渡り、17歳まで朝鮮で過ごした。

古賀政男は、『詩はお姉さん、曲は弟』と詩を大切にした人で、この佐藤惣之助の詩に触れ「大粒の涙で五線紙を濡らしながら」作曲したといわれます。


16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/13(Thu) 21:35
「人生の並木路」

佐藤惣之助作詞・古賀政男作曲

ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/jinseinonamikimichi.html

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/15(Sat) 00:09
古賀政男は、映画会社と提携し多くの映画主題歌を世に送り出した。
特にテイチクでは日活と提携し、緑の地平線や人生の並木路など多くの名曲を送り出した。
初期の、「酒は涙か溜息か」「鳩笛を吹く女の唄」などはまだ無声映画だった。

18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/15(Sat) 12:48
?愛染かつら メロドラマ
1938年(昭和13)作品、松竹大船三部作。 ...-
『婦人倶楽部』に連載された川口松太郎原作の同名小説の映画化、♪花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道♪、歌う「旅の夜風」が有名な戦前の松竹メロドラマの傑作。子持ちの未亡人看護婦・高石かつ枝と、院長の息子で青年医師の津村が恋に落ち、身分の違いや子供の病気など様々なすれちがいを経てついに結ばれる・・・。同時に霧島昇とミス・コロムビアの二人も、この三部作の最後の「愛染夜曲」の最後で、歌詞そのままに結ばれる。

はろばろと はろばろと
愛の山河 今日旅終えて
結ぶ縁(えにし)の 愛染かつら
花よ降れ降れ より添う肩に

愛染かつら完結篇の主題歌「愛染夜曲」の最後四番目にこうある。
「愛染かつら」と共に結ばれる霧島昇とミス・コロムビアに対するはなむけの言葉であると、西條八十は自伝『唄の自叙伝』にかいている。
ttp://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-aizenzoshi.html

・愛染かつら 1938年(昭和13年)9月10日       
  主題歌 旅の夜風(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア
  挿入歌 悲しき子守唄(西條八十作詞、竹岡信行作曲)ミス・コロムビア
・続・愛染かつら 1939.5.5
  主題歌 愛染夜曲(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア
  挿入歌 朝月夕月(西條八十作詞、竹岡信行作曲) ミス・コロムビア
・愛染かつら・完結編 1939.11.16
  主題歌 愛染草紙(西條八十作詞、万城目正作曲) 霧島昇 ミス・コロムビア 
  挿入歌 荒野(あれの)の夜風(西條八十作詞、早乙女光作曲)ミス・コロムビア、二葉あき子


19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/16(Sun) 20:47
「十九の春」(西條八十作詞、江口夜詩作曲)

「十九の春」という歌があります。沖縄民謡にも同じ名前のがあるが、もっと名曲があります。
それは、映画主題歌「十九の春」(西條八十作詞、江口夜詩作詞)

ながす涙も 輝きみちし
あわれ十九の 春よ春
すみれつみつつ 散る白露に
泣きし十九の 春よ春

この歌にぴったりな、やさしい歌声のミス・コロムビアがすばらしい歌唱をきかせてくれます。

「SP盤復刻による懐かしのメロデイ ミス・コロムビア(松原操)」コロムビアCOCA−10761


20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/17(Mon) 22:37
乙女心 (鹿山鴬村作詞、古賀政男作曲 関種子)
月の浜辺(島田芳文作詞、古賀政男作曲、河原喜久恵)


82年前、昭和六年(1931)7月発売。「月の浜辺」(島田芳文/作詞 古賀政男/作曲、河原喜久恵)とともに、
昭和6年3月、コロムビア専属作曲家となった若き古賀政男栄えの第一作「乙女心」。
ドイツリートの若きクラッシックソプラノ歌手、関種子の歌謡録音第一作でもある。関種子は藤山一郎とともに、
この後、「窓に凭れて」「朝顔の唄」「嘆きの夜曲」「美わしの宵」「去りゆく影」「あけみの唄」など多くの古賀メロディを支えた。


乙女心

朧月夜の その頃に
トンと踏まれた道の芝
燃ゆる想いに泣きぬれて
露の情の玉襷(たすき)
泣き泣き結ぶ玉襷
乙女心を知ろかいな


関種子出演オペラ
「カルメン」ミカエラ
「ファウスト」マルグリート
「ラ・ボエーム」ミミ
「椿姫」ヴィオレッタ
「ドン・ジョヴァンニ」ツェルリーナ
「トゥーランドット」トゥーランドット
「フィガロの結婚」スザンナ



21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/04(Fri) 20:21
「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)

「新妻鏡」・・昭和15年、東宝映画『新妻鏡』(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)は、目の見えない新妻が苦労の果てに結ばれると言う話で、霧島昇、二葉あき子(戦後島倉千代子)歌。
「目ン無い千鳥」(サトウハチロー作詞,古賀政男作曲)も挿入歌。

 佐藤惣之助の歌には人生の苦悩を歌った歌が多いですが、人生を歌った詩としては、『人生の並木道』にも匹敵したすばらしい応援歌ではないかと思います。

僕がこころの良人(おっと)なら
君はこころの 花の妻
遠くさびしく 離れても
啼くな相模の 鴎(かもめ)どり

たとえこの眼は 見えずとも
聖いあなたの 面影は
きっと見えます 見えました
愛のこころの 青空に

強くなろうよ強くなれ
母となる身は幼児(おさなご)の
愛の揺籠花の籠
なんで嵐にあてらりょう

むかし乙女の 初島田
泣いて踊るも 生計(いのち)なら
清いふたりの人生を
熱い涙で 謳うおうよ

「遠くさびしく離れても」・・と言うと結婚式には不向きかもしれぬが、一語一語味わいに満ちた詩で、「強くなろうよ 強くなれ母となる身は幼児(おさなご)の」
・・今の歌とは決定的に違います。まだ日本が貧しかった時代が生んだ、すごい、人生・青春の応援歌ではないでしょうか!。
この歌は、すごい重みのある歌といえ、男女・年齢を問わず勇気ずける人生の応援歌として、時代を超えて、味わいのある歌だと思います。

三番は歌にはない
強くなろうよ強くなれ ・・
こうした重い歌詞が
簡潔な言葉が
さりげなくちりばめられている
名曲である

戦後、島倉千代子によって歌われた。


22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/05(Sat) 22:12
言葉というものは、長くなればなるほど、言ってることは狭くなるもの。
逆に簡潔であればあるほど、自分で思い描ける部分が広く、共通部分が広くなり、味わい深くなるもの。

年末の特集番組でもやっていたが、最近の歌はみな歌詞が長く、テンポが早く、しゃべってしまっている。
ほとんどその中に重ね合わさることはすくない。



「泣くな妹よ妹よ泣くな・・・生きて行こうよ、希望にもえて・・」(人生の並木路)
 ・・まずしくとも、まじめにいきていればきっといいことがある・・

豊かさとともに失ってはいけない大切なものがある。
日本がまだ貧しかった時代、「兄弟の絆・兄弟愛」を適切に歌いあげている。

「人生の並木路」、それは味わえば味わうほど深みのある、それぞれの人生に重ね合わさるすばらしい歌です。

今の豊かな世ではありえない詩人・佐藤惣之助の傑作だと思います。




人生の並木路

(佐藤惣之助 作詞、古賀政男 作曲 )

1.泣くな妹よ 妹よ泣くな
  泣けば幼い二人して
  故郷を捨てた甲斐がない
 
2.遠いさびしい日暮れの路で
  泣いて叱った兄さんの
  涙の声を忘れたか
 
3.雪も降れ触れ 夜路のはても
  やがて輝くあけぼのに
  わが世の春はきっと来る
 
4.生きて行こうよ 希望に燃えて
  愛の口笛高らかに
  この人生の並木路

CD『古賀政男生誕100年記念 SP原盤による古賀政男名曲集(上・ 
下)』    テイチクTECE 24459,25460

この歌はデイックミネが歌ったものだが、普通戦後30〜40年代ごろに歌っているのは
オリジナルのものとはだいぶ違っている。
昭和12年オリジナル(テイチク1200)は悲壮感漂うものでいい!!。





23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/05(Sat) 22:25
古賀メロデーを支えた主な歌手と最初のレコード(戦前)

1930
 佐藤千夜子  「文のかをり」・・・「影を慕いて」など
1931
 関種子    「乙女心」・・・「窓に凭れて」など 
 天野喜久代  「チャッカリしてるわね」
 河原喜久恵  「月の濱邊(月の浜辺)」・・([キャムプ小唄]のB面)・・「町子姉妹の唄」
 藤山一郎   「キャムプ小唄」・・「影を慕いて」など
 淡谷のり子  「私此頃憂鬱よ」(「酒は泪か溜息か」のB面)・・「佳人よ何処へ」など
1932
 中野忠晴   「夜霧の港」・・・「高原の唄」など
1933
 ミス・コロムビア(松原操)・・・「「お蝶夫人」の唄」・・・「目ン無い千鳥」など
 松平晃   「サーカスの唄」・・「母立つ丘」など
1934
 楠木繁夫  「国境を越えて」・・「白い椿の唄」など
1935 
 ディックミネ 「二人は若い」・・「人生の並木路」など
1936
 奥田瑛子  「別れの歌」・・・・「緑の月」など
1937
 由利あけみ 「黒いパイプ」・・・「愛国六人娘」など
1939
 李香蘭   「さらば上海」・・ 「迎春花」など
 霧島昇   「新妻模様」・・・・「誰か故郷を想わざる」など
 伊藤久男  「波を越えて」・・・「熱砂の誓い」など
1940
 二葉あき子 「あの花この花」・・「新妻鏡」など
 奥山彩子  「蛇姫絵巻」-・・・「母立つ丘」など
 渡辺はま子 「りぼんむすめ」・・「サヨンの鐘」など
 菊池章子  「相呼ぶ歌」・・・・「なつかしの蕃社」など
1943
 近江俊郎   「明日もまた」・・・「勝利の日まで」など    



24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/11(Fri) 12:38
昭和14年(1939)、内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十、サトウハチロー、古賀政男など錚々たる詩人や作曲家などが会長となっている。

ただ、明治時代に作られた「著作権法」は戦後現在の姿に改正されるまで一度も見直しされず、パクリはけっこうあったようだ。

参考までに、西新橋から移転した現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。

「古賀政男音楽博物館」とともに、その建物は昭和の歌謡に絶大な寄与を果たし著作権も圧倒的とされる古賀政男の遺志を継ぐ「古賀政男音楽文化振興財団」の所有管理に属するというのは象徴的であろう。


・日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986) 旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 作詞・訳詞家、作曲家、音楽評論家
昭和46〜48   サトウ・ハチロー(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
昭和55〜    服部良一(1907〜1993)  作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜    黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜2010) 作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜 都倉俊一(1948〜)   作曲家


25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/14(Mon) 10:59
訂正

・日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986) 旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者、早大教授
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 作詞・訳詞家、作曲家、音楽評論家
昭和46〜48   サトウ・ハチロー(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜    黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜2010) 作詞家
平成16年〜 船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜 都倉俊一(1948〜)   作曲家




26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/20(Sun) 17:02
[国民栄誉賞]が以下に贈られた。

・古賀正男(古賀政男)(第2回)
昭和53年8月4日(昭和53年7月25日死去)
「古賀メロディー」作曲による業績
・増永丈夫(藤山一郎)(第9回)
平成4年5月28日(平成5年8月21日死去)
「歌謡曲を通じ民に希望と励ましを与えた功
美しい日本語の普及に貢献」
・服部良一(第11回)
平成5年2月26日(平成5年1月30日死去)
「数多くの歌謡曲を作り国民に希望と潤いを与えた功」
・吉田 正(第13回)
平成10年7月7日(平成10年6月10日死去)
「吉田メロディー」の作曲により国民に夢と希望と潤いを与えた功」
・遠藤 実(第16回)
平成21年1月23日
「世代を超えて長く愛唱される、情感に満ちあふれた名曲を数多く世に送り出し、
国民に夢と希望と潤いを与えた」(河村建夫官房長官の会見における説明)




27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/22(Tue) 11:11
目ン無い千鳥(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)

「目ン無い千鳥」は、昭和15年(1940))4月10日にコロムビアレコードから発売された東宝映画「新妻鏡」の主題歌「新妻鏡」(佐藤惣之助作詞)の裏面で、霧島昇、ミス・コロムビア夫妻が歌っている。

今は使えないと思うが、古賀政男が感動で打ち震えたという「新妻鏡」の佐藤惣之助の名詞とともに、それを一言も使わずに、目の見えない新妻の心情を、哀しくも美しい物語を歌い上げているところはこの詩人ならではの事。

いろいろな人が歌っているが、やはりオリジナルの霧島昇、ミス・コロムビア夫妻のデュエットだからこそ引き立つ素晴らしい青春歌謡といえる。


目 ン 無 い 千 鳥

 サトウハチロー作詩   古賀政男作曲
昭和15年

1 目ン無い千鳥の 高島田
  見えぬ鏡に いたわしや
  曇る今宵の 金屏風
  誰の科(とが)やら 罪じゃやら

2 千々(ちぢ)に乱れる 思い出は
  過ぎし月日の 糸車
  まわす心の 杯に
  紅はさしても 晴れぬ胸

3 雨の夜更けに 弾く琴が
  白い小指に 沁みてゆく
  花が散る散る 春が逝く
  胸の扉が また濡れる

4 目ン無い千鳥の 寂しさは
  切れてはかない 琴の糸
  青春(はる)の盛りの 若い葉に
  咽(むせ)び泣くよな 小糠(こぬか)雨



28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/25(Fri) 18:25
目ン無い千鳥とは「目隠し鬼ごっこ」の意。
「目ン無い千鳥の 高島田」とは、目の見えない薄幸の花嫁の晴れ姿、

目が見えないということを一言も使わずに、それを短い言葉で表現している。





29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/25(Fri) 18:53
古賀政男氏が、生前あるテレビ番組で、この曲について語っていたことが印象に残っています。佐藤惣之助氏から歌詞をはじめて見せられたとき、古賀氏は感動で打ち震えたと言って「僕が心の夫なら 君は心の・・・」とつぶやいたあと、感極まってしばし絶句。そして口をついて出たのが、次の言葉でした。
  「私はね、歌謡曲というものはね、『詩』がお姉さんで、『曲』は妹だと思います。」
後日、この発言に対し、某作曲家が「古賀さんはああ言われたけれども、私は詩と曲とは『双子の姉妹』だと思います。」と異を唱えていました。
歌謡曲にとって詩と曲とは、お互いに、言わば、車の両輪という関係ですから、論理的には某氏の説のほうが正しいように思われます。しかし、古賀氏の言う「姉」と「妹」とは、ひとつのの作品が誕生するまでに至る順序を指しているのであって、「上下」や「優劣」とはまた別の話だと思います。時には愚姉賢妹という例だってありますから。
 「詩はお姉さん」という言葉が「作曲家」、しかも古賀政男という大家から発せられたところに、却って氏の誠実で謙虚な人柄が偲ばれるように思います。



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:44
誰か故郷を想わざる
  (西條八十作詞 古賀政男作曲)

花摘む野辺に 日は落ちて
みんなで肩を 組みながら
唄をうたった 帰りみち
幼馴染(おさななじみ)の あの友この友
ああ誰(たれ)か故郷を 想わざる


ttp://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tareka.html


31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:46
西條八十は明治25年1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で、父十兵衛、母徳子の三男として生まれました。母徳子は、藤沢小町と言われた美人でした。
父十兵衛は、旧家で質商をしていた西條家の番頭となりまして、後に後継者として夫婦養子になりました。・・
西條八十の歌謡詞作品は約三千数百篇あり、この中から社歌、校歌を除く二千七百余篇がいわゆる歌謡詞で、半分以上が作曲されています。・・
明治13年、日本で初めてといわれる石鹸(青い棒状の洗濯石鹸)を作りまして、石鹸工場で30人位、店では数人が働く店を開きました。
八十は昭和45年8月12日、78歳で永眠いたしました。
喉頭ガンをわずらっていました。8月15日の朝日、毎日、読売の各新聞に次のような死亡広告が出されました。

「私は今朝、永眠いたしました。長い間の皆様のご好誼に対し厚く御礼申し上げます。 西條八十」

詩人・芸術院会員 西條八十はこのようなご挨拶を遺して8月12日午前4時30分自宅にて急性心不全のため逝去いたしました。
謹んで辱知の皆様に御通知申し上げます。




32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:49
戦後創早期の歌から・・

*麗人の歌 ( 西条八十 作詞 古賀政男 作曲)   霧島昇

夢はやぶれて花嫁人形
 はでなたもとが恥かしい
覚めて浮世の窓見れば
  みんな泣いてる ああ 人ばかり
 
*旅役者の唄 (西条八十 作詞  古賀政男 作曲) 霧島昇

秋の七草色増す頃よ 
 役者なりゃこそ旅から旅へ
  雲が流れる今年も暮れる
   風にさやさや花すすき

*三百六十五夜 (西条八十 作詞 古賀政男 作曲) 霧島昇、松原操
ttp://www.hiroi.isics.u-tokyo.ac.jp/index-ikinuki-mysong-365ya.htm
 緑の風におくれ毛が 
 やさしく揺れた恋の夜
  初めて逢うたあの夜の君が
   今は命を賭ける君









33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:51
詩人・西條八十・・「かなりや」「お山の大将」「肩たたき」などの童謡、「銀座の柳」「お菓子と娘」「愛染かつら」「誰か故郷を想わざる」「春よいずこ」「サヨンの鐘」「青い山脈」「三百六十五夜」「王将」などの歌謡、
「同期の桜」「若鷲の歌」などの軍歌・・、日本人なら誰でも一度は聞いたことがある、そのやさしい歌は、日本人の心の中に深く根ざすもので、これからも歌い継がれるにちがいありません。
詩人・早大教授・フランス文学者・西條八十が、大衆音楽に深く入ったのは、昭和に入ってすぐだった。関東大震災の時、上野の山(上野公園)で憔悴しきった避難民のなかで、少年の吹いたハーモニカがきっ
かけだったと自伝・「唄の自叙伝」にあります。

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:54
日本がまだ貧しかった時代の暖かさ、人の絆を大切にする、佐藤惣之助(1942)、西條八十(1970〕、
(八十の弟子でもある)サトウハチロー(1973)などの亡き後、日本の歌の日本らしさが失われてしまった。



35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 19:57
西條八十という人は単に詩人にとどまらず、早稲田大学の仏文科の教授であり、ランボー研究の第一人者であった。
さらに童謡や校歌、社歌の作詞者でもあった。特に我々には『青い山脈』『東京行進曲』『王将』などの歌謡曲の作詞者として広く知られているところである。生涯に書いた純粋詩、訳詩および歌謡曲、童謡、民謡、校歌、社歌などの作詞は15,000を数えるという。
この超人的な仕事は如何にして可能だったのだろうか。
 本作は、だが、そのことよりも早稲田大学の教師であり、詩人であった西條八十が当時、一段低いものと見なされていた流行歌の作詞をなぜ長い間行ってきたのか。そして、そのことの持つ意味は何であったか、がテーマというべきであろう。
  ttp://www.maboroshi-ch.com/edu/ext_37.htm

西條八十自伝「唄の自叙伝」
 日本図書センター刊 「人間の記録」 29巻として出ている。
 ttp://www.nihontosho.co.jp/ningen/n_21_30.html
 ttps://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%90%BC%8F%F0%94%AA%8F%5C/list.html

  



36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:01
白 い 椿 の 唄
(作詩 佐藤惣之助 作曲 古賀政男 )  (昭和10年) 
1 雪もかがやけ 青春の
  花は涙の おくりもの
  風にきびしく 泣きぬれし
  あわれ乙女の 白つばき


2 宵の酒場に 咲く花は
  燃えてほのぼの 誰を待つ
  ながきまつ毛の 横顔も
  夢にやつれし 白つばき


3 呼べど返らぬ 面影は
  きえてはるかな 山の上
  月にささげて ひとり泣く
  あわれ涙の 白つばき

呼べど返らぬ 面影は・・これは、古賀政男が母を亡くしたその思いと重なる。
この歌は菊池寛原作「貞操問答」主題歌、前奏・間奏・後奏がそれぞれ独立した一曲にあたるようなうた。



37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:02
詩人・佐藤惣之助は1916年、最初の詩集である『正義の兜』を出版。翌年には、第2詩集である『狂へる歌』を出版している。
「詩魔に憑かれた魔性の人」(朔太郎)と評された。
惣之助は、1911年川田花枝と結婚。 その後、昭和8年(1933)1月に夫人花枝と死別、同年8月萩原朔太郎の妹周子と再婚。

朔太郎は、昭和17年(1942)5月11日肺炎のため東京の自宅で死去、享年55歳。義兄・朔太郎が死亡した4日後、5月15日に
惣之助は後を追うようにして死去。(外出中、腦溢血のため。)

ttp://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/06/0606j0526-00002.htm
ttp://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/poem/satosonosuke.html
ttp://www.townnews.co.jp/020area_page/02_fri/11_kawa/2005_4/12_16/kawa_top1.html





38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:03
佐藤惣之助

明治23年、神奈川県川崎町生れ。詩人。
37年頃より句作を開始。
39年佐藤紅緑の秋聲会の同人となる。
43年小山内薫、吉井勇などと劇作を試みる。
44年川田花枝と結婚。
45年12月福士幸次郎、千家元麿、高村光太郎、木村荘八と雜誌「テラコツタ」を創刊。
大正3年元麿らと雜誌「エゴ」創刊。「白樺」の衞星雜誌として武者小路實篤も寄稿。
4年處女詩集『正義の兜』出版。
8年雜誌「大洋の岸邊」創刊(光太郎、元麿、白鳥省吾、中西悟堂らが寄稿)。
11年5〜7月琉球、臺灣を旅行。
14年7月詩人のクラブ「詩之家」設立、機關誌「詩之家」創刊、10月萩原朔太郎らと詩話會の機關誌「日本詩人」の編輯に携はる。
昭和3年5月滿洲、蒙古、朝鮮各地を1箇月に亙り旅行す。
8年1月夫人花枝と死別、同年8月朔太郎の妹周子と再婚。
9年年末上海、香港、廣東、マニラを旅行。
13年9月久米正雄、林房雄、川口松太郎らと武漢作戰に從軍記者として參加。
17年5月15日、外出中、腦溢血のため死去。
大の釣好きで、釣に關する著書が數册ある。日本磯釣倶樂部常務理事を歴任。

歌謠曲の作詞者としても知られる。




39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:05
佐藤惣之助の戦後の作品が是非見たかった。聞けば、同じ詩人で親類の萩原朔太朗の葬儀の際葬儀委員長務め、多忙を極めた挙げ句倒れ、萩原死去からわずか数日後に逝去されたとのこと。萩原に連れて行かれたのだろうか。
死後60年以上経つが、彼を偲べば偲ぶほどに惜しまれてならない。


40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:15
もともと「純粋詩」というジャンルにいた詩人・佐藤惣之助がいわゆる歌謡曲をてがけたのは、
昭和7年の、映画「金色夜叉」で関種子が歌った「金色夜叉(お宮の唄) 」(古賀政男作曲) と、
同じく藤山一郎が歌った「金色夜叉(貫一の唄) 」(佐々紅華作曲) あたりのようだ。その後も古賀政男とコンビで、「人生の並木路」「男の純情」「緑の地平線」「白い椿の唄」「青い背広で」その他沢山の名曲を
世に送り出した事で知られるが、昭和17年5月に亡くなったのが惜しまれる。     

初期の作品
金色夜叉(お宮の唄) (佐藤惣之助)       1932.1 関種子
鳩笛を吹く女の唄 (佐藤惣之助)       1932.2 井上静雄
金色夜叉(貫一の唄) (佐藤惣之助)佐々紅華作曲 1932.2 藤山一郎
秘めたる恋 (佐藤惣之助)          1932.3 関種子
アリランの唄(朝鮮民謡)  (佐藤惣之助)    1932. 淡谷のり子、長谷川一郎
朝顔の唄 1932.6 (佐藤惣之助) 関種子
笛は冴ゆれど(佐藤惣之助)  1932.7 関種子
不如帰 (佐藤惣之助) 1932.8 淡谷
愛は紅い(佐藤惣之助)  1932.9 関種子
春の唄(佐藤惣之助)  1932.6 淡谷
月夜の恋(佐藤惣之助)  1932.5 丸山和歌子
武雄の唄(佐藤惣之助)  1932.5 中野忠晴

関種子が歌った、これも映画主題化「乳姉妹の唄」もいいです。


41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:17
東京娘 (佐藤惣之助)1936年6月 (映画「東京ラプソデー」挿入歌)
 ♪東京娘の 東京娘の初恋は・・
さらば青春(佐藤惣之助)1936年7月 (日活「慈悲心鳥」挿入歌)
 ♪愛と希望に身はきずつきて・・
男の純情(佐藤惣之助)(映画「魂」主題歌)1936年8月
 ♪男いのちの純情は 燃えて輝く金の星・・
愛の小窓(佐藤惣之助)(映画「魂」挿入歌)1936年8月 (デイックミネ)
♪花の都に身をすねて 若きいのちを散らすやら・・
青春日記(佐藤惣之助)1937年2月
♪初恋の涙にひそむ花びらを 水に流して泣きくらす あわれ一九の春の夢・
白薔薇は咲けど(佐藤惣之助)1937年5月(西條八十原作、東宝映画「白薔薇は咲けど」主題歌)
 ♪若き日に 溢るる胸の せつなさは 夢の空の 紅の色 野薔薇に虹は 消ゆるとも
  涙は消えぬ スーベニル
青い背広で(佐藤惣之助)1937年2月
♪青い背広で心も軽く・・
青春旅情 (佐藤惣之助)1938年3月
 ♪たそがれの波止場に一人泣きに行く ああ青春の・・




42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:22
佐藤惣之助は昭和17年5月に急死した。
大正5年「正義の兜」 をはじめ「狂へる歌」「滿月の川 」「深紅の人」「荒野の娘」
「華やかな散歩 」「季節の馬車 」などの詩集、「蠅と螢 」「青神」 などの随筆、「波止場むすめ」
など民謡集 、「凄氣の圖 」(昭和6年)など小説集をあらわしている。

ttp://www.geocities.jp/rojin1937/_satousounosuke.htm
ttp://www.d-score.com/ar/A05020805.html

歌謡曲の作詞をし始めた昭和一桁時代も以降も、「處女線を截る」「花心」などの詩集、随筆「釣心魚心 」
「怒れる神 」(昭和14年)、「わたつみの歌」 「青年詩集」(昭和16年)、「春すぎし」(昭和17年) などの詩集を亡くなる直前まであらわしている。

最後の仕事は、昭和17年9月20日初版發行の釣の入門書だったようです。(創元社・創元選書94 )

歌謡作品としては、昭和16年の「馬」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲〕・・「めんこい仔馬」と同じ映画、
や昭和17年4月の国民歌謡「働く力」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。

詩人・佐藤惣之助はものすごく広い作品を残していて、戦後に活躍できなかったのは大きな損失。

ttp://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/dokuhon/t0109.htm



43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:23
(参考)
佐藤惣之助資料

「大手拓次/佐藤惣之助」新学社2006
「佐藤惣之助全集. 第1巻(詩集 上)〜第3巻」日本図書センター2006
渡辺明 「湖畔の宿 絢爛の詩人佐藤惣之助」上毛新聞社1990
「日本の詩歌13」中央公論社1975(中公文庫)
藤田三郎著「佐藤惣之助 詩とその展開」木菟書館1983
(佐藤惣之助研究・主要参考文献,年譜:p408〜438)
伊藤桂一「集成日本の釣り文学. 第1巻」作品社1995
詩の家編「佐藤惣之助詩華集」詩の家1991

昭和女子大学近代文学研究室著「近代文学研究叢書49」昭和女子大学近代文化研究所1979
「日本詩人全集12」新潮社1979
「近代文学研究叢書89 現代詩集」筑摩書房1967
「日本現代文学全集 54」講談社1980
「現代日本文学大系41 」筑摩書房1979
伊藤信吉等編「現代詩鑑賞講座. 第6巻」角川書店1969
潮田武雄編「佐藤惣之助覚え帖」桜井書店(昭和18年)
吉行淳之介〔ほか〕編集「現代日本のユーモア文学. 3」立風書房1980
佐藤惣之助「華やかな散歩 : 佐藤惣之助詩集 その6」新潮社(大正11)
「春すぎし : 佐藤惣之助詩文集」鶴書房(昭和17年)



44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:26
アリランの唄(朝鮮民謡)  (佐藤惣之助)   (1932.2. 淡谷のり子、長谷川一郎 )

日本でアリランが歌になったのは、1932年に佐藤惣之助作詞・古賀政男編曲による『アリランの唄』が最初だったという。「アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えゆく」と始まる。
長谷川一郎と淡谷のり子がデュエットで唄った。
長谷川一郎は蔡奎耀の日本名である。
が、これが日本版アリランかというと、そうでもない。4年後に西条八十作詞の『アリラン夜曲』、鈴木かほる作詞と高橋掬太郎作詞の別々の『アリラン小唄』、さらには高峰三枝子が唄った
『アリラン・ブルース』まであった。
 ttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0876.html



45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:30
萩原朔太郎は、佐藤惣之助の義弟で、マンドリンをやっていた。萩原朔太郎は、古賀政男のファンであるとともに、古賀メロデーを高く評価していたことで知られている。


46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:33
「人生の並木路」(佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)

「人生の並木路」は、―日活映画「検事とその妹」(1937)・・竹田敏彦原作の『検事の妹』の映画化・の主題歌で、戦前、戦後2回にわたって映画化されている。
  1937.1.14 日活多摩川 渡辺邦男監督 岡譲二、原節子
  1956.5 新東宝 古賀聖人監督 丹波哲郎,日比野恵子
映画は知らなくとも、「人生の並木路」は、映画を離れて広く時代を超えて愛されています。
日本はいつの間にか豊かになりましたが、昔日本がまだ農村主体の貧しかった時代、
貧乏人の子沢山・・長男とか兄は、弟・妹の面倒を一身にみる、それがあたりまえだったそうです。

「検事とその妹」(昭和12年)という映画は、昭和12年1月、もうすぐ70年ですが、「法の裁きのなかにも人間の情がある」こと
をテーマとしたもので、両親を早々と失い,唯一の妹と貧しい生活を支え合う
という経験をしてきた、被告を裁く検事は、そのため同じような立場にある被告に対して同情の念を禁じ得なかった・・のです。
最近はこのような「人間の情」が余り語られることが無く、こうした人間の情をテーマとしたドラマや映画も、昭和30年代以降、
日本が豊かになるにつれて、めっきりなくなってきたのは残念なことです。
この歌は日本にもそういう時代があったことを教えてくれます。

  
『泣くな妹よ 妹よ泣くな・・』(佐藤惣之助)・・この歌は聴けば聴くほどに味のあるメロディーのすばらしさが存分に味わえる名曲です。
戦時中には「誰か故郷を想わざる」とともに兵士たちの間で最もよく歌われたといわれ,「この歌のおかげで,ぜひ妹の顔をもう一度見ようと
思って,つらい間も生き抜くことができた.」という便りも作曲者のもとに寄せられたそうです。最後に『生きてゆこうよ 希望に燃えて・・』
で結ばれる、簡潔な中に今失われつつある「兄弟の絆」を歌った説得力のあるすばらしい歌だと思います。
ttp://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch13.htm
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-senzenkayou/jinseinonamikimichi.htm





47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:34
最近、歌番組で「名曲」という言葉が頻繁に飛ぶ。「昭和の名曲」というのは、今や昭和50年代頃のをさすらしい。 テレビ「思い出のメロデー」は、今や昭和30年頃のロカビリーあたりから始る。日本が貧しくとも心豊かだったころ/昭和前半の歌はやはりいい。



48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:39
以前NHK育テレビで『大希林』というのがあって、「樹木希林」(きききりん、字不明)さんが、なんか作詞の講義をしていて、何回作ってもどうしても長くなってしまう。
・・そして何言ってるんだかなんか良くわからない。・・そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、きりんさんが出した最高の『詩』が何と『人生の並木路』でした。
別に歌番組でも、まして古賀メロデー番組でもなかったのですが、「人生の並木路」・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩が披露されました。「佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、昭和12年、デイックミネ』とのナレーションの後、若きディックミネの歌う昭和12年オリジナルレコードがかかります。

あの時代が生んだ、たぶん今後出ることはないでしょうだろう詩人ではないでしょうか。



49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:43
昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。

ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア


50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 20:29
古賀政男は、自伝「古賀政男「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。

佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡がみられる。その中には、「新作おわら」、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア 」ななどがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 ttp://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html

・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料




51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 20:30
八十と惣之助
  大正期の詩人として、西条八十(1892 ? 1968)と佐藤惣之助(1890 ? 1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあ らず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家とし て名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/02(Sat) 09:42
日本の代表的な作詞家・

故人では、日本の代表的な作詞家で、生前、優れた作品を残した作詞家をご紹介してまいります。
 
  ttp://www.sakushi.com/n_sakka/

 野口雨情、北原白秋、長田幹彦、佐藤惣之助、西条八十・・(年齢順)



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/02(Sat) 12:06
西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四家文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいづこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

また、少女雑誌などに多くの著作を寄せるなど文筆活動も多い。映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。



54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:40
1934(昭和9)年、5月15日に古賀文芸部ともいうべきテイチクの東京文芸部が発足した。古賀は、まず歌手の発掘に力を注いだ。古賀がやはり最初に目をつけたのは藤山一郎に似せた芸名の藤村一郎という歌手だった。藤村一郎とは、3年前の1931(昭和6)年、《キャムプ小唄》を誰に歌わせるか、「上野」の期待の逸材・増永丈夫(藤山一郎)と最後まで人選に残った大阪コロムビアの黒田進である。
1935(昭和10)年2月15日、古賀・楠木コンビの最初の大ヒット曲《白い椿の唄》が発売された。楠木繁夫は<雪もかがやけ 青春の 花は涙のおくりもの>と感傷的な哀愁を切実に歌っている。菊池寛の小説『貞操問答』が入江プロ、新興キネマによって映画化され、その主題歌が古賀に依頼されたのだった。 

ミスターテイチク・楠木繁夫の名前を決定的にしたのが、日活映画『緑の地平線』の主題歌《緑の地平線》のヒットである。1935(昭和10)年10月新譜。まるで、テイチクのこの世の春を呼ぶかのように絹のような肌ざわりのある楠木繁夫の美声がこの曲にのった。《緑の地平線》は、楠木繁夫の生涯最大のヒット曲であった。


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:45
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。本名は、1939年の歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)との結婚後に坂本操になっている。

1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽市生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業後、1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。

松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が、ポリドールからコロムビアが引き抜いてきた江口夜詩の作曲により、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒット。その後は、『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』などのヒットを連打し、美貌と美声を兼ね備えた流行歌手として人気を博すが、1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため、1年間の療養を余儀なくされる。
1937年(昭和12年)には復帰を果たし、同年7月、NHKの特別番組として、当時の女性歌手が総出演の音楽放送『鶯の競演』に出演。松原操の出演中に番組を中断し、盧溝橋事件の臨時ニュースが流れたのである。デビュー当時から、『流浪の民』などの声楽曲は、本名の松原操でレコードが発売されていたが、日中戦争勃発後、彼女がレコーディングした戦時歌謡も殆どが松原操の名前で発売されている。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:48
藤山 一郎、1911年4月8日 - 1993年8月21日)は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシックの声楽家。バリトン歌手として活躍。東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。慶應義塾幼稚舎卒業、慶應義塾普通部卒業。東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『青い山脈』『長崎の鐘』など多数のヒット曲を歌った。理論・楽典に忠実に歌うということから正格歌手と評され、日本語の明瞭度の高さは楷書の歌と評された。その一方で作曲家・指揮者としても活躍した。1992年、スポーツ選手以外では初めて存命中に国民栄誉賞を受賞した。



57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:53
二葉 あき子 広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)を経て、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
 レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
 昭和11年(1936年)、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。

58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 11:49
四家 文子(よつや ふみこ)、1906年 - 1981年7月16日)は昭和期の歌手、声楽家。
東京都出身。東京府立第三高女を経て、東京音楽学校を首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名もしていた。しかし、佐藤が周囲の反対を押し切り、渡欧してしまうと、佐藤の吹き込みが予定されていた曲が四家に回ってくることになった。そして、この「銀座の柳」は大ヒットとなった。この曲は関東大震災で焼失した銀座の柳が、佐藤の歌った「東京行進曲」で復活したのを記念する歌だった。歌詞に「昭和」と出てくることから、昭和7年当時はまだ「昭和」の元号が新鮮だったことが伺える。その後も次々とヒット曲を連発、太平洋戦争勃発後は軍歌、戦時歌謡を多く歌ったほか、昭和18年には日本人最初のベートーヴェン「第九」の録音(第4楽章のみ。尾崎喜八訳。橋本國彦指揮・東京交響楽団)にも参加している。
戦後は流行歌手として生きることに区切りをさし、声楽家として活躍した。昭和41年には淡谷のり子、金田一春彦、古関裕而らと「美しい日本語と香り高い歌」をモットーとした「波の会」を結成した。昭和40年代の懐メロブーム当時は、既に歌手というよりも声楽家として知られ、評価も高かった。そのためか、テレビで自身のヒット曲を披露する機会は少なかったが、乞われれば声楽家の活動に差し障りが無い限り歌っており、また舞台ではヒット曲を積極的に歌っていた。昭和50年に乳癌を患うが、闘病の末、克服する。昭和56年7月16日に胃癌のため死去。新聞の訃報欄には「歌手 四家文子」ではなく「声楽家 四家文子」と書かれた。

59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 12:00
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:20
故郷の白百合

作詞 サトウハチロー
作曲 古賀政男



香りも高き 故郷の

丘のこかげの 白百合よ

あの日の姿は そのままに

いまでも心に 咲いている

霧島昇、松原操の歌った爽やかな歌です。・・


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:26
青い牧場
 
  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲


  誰(タレ)の涙か 朝露か
  仔山羊の角が 光ってる
  どこだよそこだよ あの丘だ
  どこだよそこだよ あの蔭(カゲ)だ
  売られた仔山羊は 仔山羊は
  メエ メエ 帰ってくる

この歌は童謡風なさわやかな歌です。
昭和15年、藤山一郎、奈良三枝が歌いました。


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