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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/09/08(Sun) 16:03
藤山一郎と増永丈夫 投稿者:SPレコード歌謡倶楽部 投稿日:2009年 9月16日(水)01時05分58秒

  日本の近代音楽の歴史において、藤山一郎はユニークな存在である。クラシックとの格調と大衆性をもつ音楽家は非常に少ないからだ。藤山一郎のレコード歴は大正時代から始まっている。慶応幼稚舎時代にニッポノホンに童謡を吹込んだのがそうだ。だが、なんといっても藤山一郎のスタートは、《キャンプ小唄》《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》など日本の流行歌の名作をヒットさせ、古賀政男という作曲家を世に送り出した昭和六年、と見るのが妥当であろう。世の中にはっきりと大衆音楽家としての存在が認められたという点で。それにしても、それから六十年以上にわたって張りのある美声と豊かな歌唱芸術で歌い続けたきたのだから、極めて、日本の音楽史においては充実した年輪を刻んだことは確かである。
 昭和四年春、我が国唯一官立音楽学校である東京音楽学校(現・芸大)には、逸材が大挙入学した。その中でも慶応普通部から進学してきた増永丈夫という青年の才能は光っていた。この増永青年こそ、後の藤山一郎であるが、そもそも、なぜ、藤山一郎として歌謡界に登場したのか、それには深い事情があった。昭和恐慌で生家のモスリン問屋「近江屋」が莫大な借金を抱えてしまい、借金返済に追われる両親を見かねて少しでも借財返済にと思い、レコード吹込みのアルバイトをコロムビアで仕事をしたのが藤山一郎誕生のきっかけだった。前年のコロムビアで吹込んだ《慶応普通部の歌》《慶応幼稚舎の歌》は私家盤であり、オデオンから発売された《美しきスパニュール》《日本アルプスの唄》は藤村二郎で吹込まれており、まだ、藤山一郎の存在はなかった。
 昭和6年、本来デビュー曲になるはずだった《北大平洋横断飛行行進曲(マーチ)》を吹込むことになった。ところが、当時官立音楽学校の学生は、無断で学校の外で演奏してはいけないという校則があった。そこで、世を忍ぶ仮の名前が必要となった。親友永藤秀雄(上野のパン屋『永藤』の息子)の「藤」をとって、「藤村操」を思いついた。当然、加藤ディレクターがクレームをつけた。「厳頭の感」を残して、日光の華厳の滝に身投げした一高生と名前が同じでゲンが悪いということだった。そこで、「村」を「山」に直し、フジヤマなら日本一でいこうと「一郎」と続けた。藤山一郎の誕生だった。だが、レコードの主題であった北太平洋横断の飛行機が行方不明となり、レコードはお蔵入りとなり、藤山一郎のデビューとはならなかった。
 昭和六年七月新譜で、《キャンプ小唄》で藤山一郎はデビューした。そして、《酒は涙か溜息か》が爆発的にヒットし、全国に藤山一郎の歌声が流れた。続いて《丘を越えて》も大ヒット。新人歌手・藤山一郎の絢爛たるスタートだった。しかし、これがいけなかった。学校当局に、声楽本科に在籍する学生であることが知られてしまった。停学処分の断が下った。「藤山一郎音楽学校停学事件」は大きな話題であった。停学後は校則に忠誠を誓い、学業専一に励んだ。だが、昭和七年に発売された《影を慕いて》がまたしてもヒットし、「藤山一郎」は将来をバリトンの声楽家として嘱望されていた「増永丈夫」を置き去りにし、人気流行歌手になってしまったのである。
 

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