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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:39
以前NHK育テレビで『大希林』というのがあって、「樹木希林」(きききりん、字不明)さんが、なんか作詞の講義をしていて、何回作ってもどうしても長くなってしまう。
・・そして何言ってるんだかなんか良くわからない。・・そして『簡潔で、適切で、これを超えるものはない』として、きりんさんが出した最高の『詩』が何と『人生の並木路』でした。
別に歌番組でも、まして古賀メロデー番組でもなかったのですが、「人生の並木路」・・泣くな妹よ 妹よ泣くな・・という詩が披露されました。「佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、昭和12年、デイックミネ』とのナレーションの後、若きディックミネの歌う昭和12年オリジナルレコードがかかります。

あの時代が生んだ、たぶん今後出ることはないでしょうだろう詩人ではないでしょうか。



49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/28(Mon) 20:43
昭和12年からNHK「国民歌謡」ができ、名前を変えて戦後の「ラジオ歌謡」まで、たくさんの名曲の
宝庫となったのですが、「国民歌謡」の前身は昭和11年4月からのNHK「新歌謡曲」で、その第一曲目が佐藤
惣之助作詞、弘田竜太郎作曲、関種子が歌った「野薔薇の歌」があります。

ほのぼのと夜明けの野ばら
ほろぼろと幼き野ばら
七つの妹がいたならば
水のにおいの野の頬に
花より薄き紅染めて
今朝もなかずに遊ぼうものを

CD「20世紀の奇跡 ラジオの時代1」コロムビア


50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 20:29
古賀政男は、自伝「古賀政男「歌はわが友、わが心」(人間の記録93 日本図書センター)で、「私が作曲の醍醐味を知ったのは、やはり惣之助さんと出会ってからだ」と回顧している。

佐藤惣之助の名詞は古賀政男の曲と出あうことによって、いつの時代にも、それぞれの聴く人の人生に重ねあわせることができる、時代を超えるすばらしい名曲となったということでしょう。

佐藤惣之助は当時盛んであった民謡詩も多く書いていて、昭和4,5年頃の作品に新民謡がみられる。その中には、「新作おわら」、「下婢」(昭和4年)、「大分おどり「川崎小唄」(町田嘉章曲、川崎 豊、コロムビア 」ななどがある。(昭和五年発行『世界音楽全集13日本民謡曲集』)。

また、昭和5年には、「吉見紫香」の名前で「ふるさと」(松村まこと作曲、コロムビア)がある。


新民謡集
◇大正15年|佐藤惣之助『浮れ鴛鴦 民謠集』東京:紅玉堂書店。
◇昭和4年|佐藤惣之助『波止場のむすめ 新民謡集』東京:泰文館書店。


参考までに、詩人・佐藤惣之助の著作等の資料が以下の図書館で見れます。

・大田区立馬込図書館 馬込文士村コレクション資料
 ttp://www.lib.city.ota.tokyo.jp/o_magome_sa.html

・川崎市立中原図書館 佐藤惣之助資料




51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/01/29(Tue) 20:30
八十と惣之助
  大正期の詩人として、西条八十(1892 ? 1968)と佐藤惣之助(1890 ? 1942)のふたりが、 なぜか気になる。八十は芸術派、惣之助は人道派とタイプは違うが、似ているところもあ る。ひとつは、詩のうまさ。もとより、その質は異なるし、そのうまさに余剰(余情にあ らず)がないところがものたりないと云えるが。もうひとつは、後に歌謡曲の作詞家とし て名をなしたところ。・・


なお、惣之助の義兄であり「日本詩人」同人でもある萩原朔太郎も古賀政男とは関係が深い詩人で、「古賀メロディ」を高く評価していました。

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/02(Sat) 09:42
日本の代表的な作詞家・

故人では、日本の代表的な作詞家で、生前、優れた作品を残した作詞家をご紹介してまいります。
 
  ttp://www.sakushi.com/n_sakka/

 野口雨情、北原白秋、長田幹彦、佐藤惣之助、西条八十・・(年齢順)



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/02(Sat) 12:06
西條八十の詩には、成田為三、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、中山晋平、草川 信、近衛秀麿、小松耕輔、橋本国彦、佐々木すぐる、平井康三郎、中田喜直・・から、古賀政男、松平信博、万城目正、服部良一、古関裕而・・など多くの著名な作曲家が曲をつけている。特に初期の頃、山田耕筰、本居長世に多く、その後歌謡の分野では、中山晋平、古賀政男、万城目正などに多い。 
大正9年からは本居長世は目黒不動尊のそばに居を構え、宮城道雄、吉田晴風、中山晋平、弘田龍太郎、野口雨情、西條八十、後には歌手の四家文子、藤山一郎らが集まってきたといいます。

「カナリヤ」「肩たたき」「鞠と殿様」「お山の大将」「村の英雄」「おみやげ三つ」「宵待草」(二番補作)・・「東京行進曲」「東京音頭」「銀座の柳」「唐人お吉の歌」「この太陽」「不懐の白珠」「お菓子と娘」「愛して頂戴」「侍ニッポン」「夜の酒場に」「踊り子の歌」「旅の夜風」「サーカスの歌」「誰か故郷を想はざる」「花言葉の唄」「春よいづこ」「蘇州夜曲」、「燃える御神火」「同期の桜」「若鷲の歌(予科練の歌)」「麗人の歌」「旅役者の歌」「赤い靴のタンゴ」「悲しき竹笛」「青い山脈」「赤いかんなの花咲けば」「越後獅子の歌」「この世の花」「りんどう峠」「王将」・・「二つの言葉」「花咲く乙女たち」「絶唱」「夕笛」・・かぞえあげたらきりがない。新民謡については、「東京音頭」「別府音頭」「浅間の煙」などがある。なお、全国をまわり、昭和5年「民謡の旅」(朝日新聞社)という本も出している。

当初、[赤い鳥]で童謡を手がけるが、この頃は歌われることを意識して書いたわけでは無いという。自伝『唄の自叙伝』によると、歌われることを意識してというか、大衆のために詩を書こうと決意したのは、関東大震災の夜、上野の山(上野公園)でのできごと・・憔悴しきった、避難民の中で、突然少年の吹いたハーモニカで、群集が勇気ずけられたのを目の前にして、『こんな安っぽいメロデーで、これだけの人に慰楽と高揚を与えている。私は大衆のための仕事の価値を始めてしみじみと感じた。大正8年には、「砂金」を自費出版して、芸術至上主義の高塔に立て篭っていたわけでした。その日まで、大衆歌に手を染めようなどという気はほとんどしなかった。自分の作品の作曲などという野望も、もちろん寸鴻もなかった・・・。』このとき。自分も役立つことができたらとおもった・・が、きっかけだったといい、この世の出来事についても、ドラマで再現していた。

また、少女雑誌などに多くの著作を寄せるなど文筆活動も多い。映画『あの夢この歌』(渡辺邦男監督1948)は、西條八十の「歌の自序傳」を映画化したもの。



54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:40
1934(昭和9)年、5月15日に古賀文芸部ともいうべきテイチクの東京文芸部が発足した。古賀は、まず歌手の発掘に力を注いだ。古賀がやはり最初に目をつけたのは藤山一郎に似せた芸名の藤村一郎という歌手だった。藤村一郎とは、3年前の1931(昭和6)年、《キャムプ小唄》を誰に歌わせるか、「上野」の期待の逸材・増永丈夫(藤山一郎)と最後まで人選に残った大阪コロムビアの黒田進である。
1935(昭和10)年2月15日、古賀・楠木コンビの最初の大ヒット曲《白い椿の唄》が発売された。楠木繁夫は<雪もかがやけ 青春の 花は涙のおくりもの>と感傷的な哀愁を切実に歌っている。菊池寛の小説『貞操問答』が入江プロ、新興キネマによって映画化され、その主題歌が古賀に依頼されたのだった。 

ミスターテイチク・楠木繁夫の名前を決定的にしたのが、日活映画『緑の地平線』の主題歌《緑の地平線》のヒットである。1935(昭和10)年10月新譜。まるで、テイチクのこの世の春を呼ぶかのように絹のような肌ざわりのある楠木繁夫の美声がこの曲にのった。《緑の地平線》は、楠木繁夫の生涯最大のヒット曲であった。


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:45
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。本名は、1939年の歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)との結婚後に坂本操になっている。

1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽市生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業後、1933年(昭和8年)、コロムビアのテストに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。

松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が、ポリドールからコロムビアが引き抜いてきた江口夜詩の作曲により、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒット。その後は、『並木の雨』『秋の銀座』『月のキャムプ』『あの日あの時』などのヒットを連打し、美貌と美声を兼ね備えた流行歌手として人気を博すが、1936年(昭和11年)、予定されていた新興映画『初恋日記』の主題歌『花嫁行進曲』のレコーディングを控えながら、病気のため、1年間の療養を余儀なくされる。
1937年(昭和12年)には復帰を果たし、同年7月、NHKの特別番組として、当時の女性歌手が総出演の音楽放送『鶯の競演』に出演。松原操の出演中に番組を中断し、盧溝橋事件の臨時ニュースが流れたのである。デビュー当時から、『流浪の民』などの声楽曲は、本名の松原操でレコードが発売されていたが、日中戦争勃発後、彼女がレコーディングした戦時歌謡も殆どが松原操の名前で発売されている。

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:48
藤山 一郎、1911年4月8日 - 1993年8月21日)は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシックの声楽家。バリトン歌手として活躍。東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。慶應義塾幼稚舎卒業、慶應義塾普通部卒業。東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『青い山脈』『長崎の鐘』など多数のヒット曲を歌った。理論・楽典に忠実に歌うということから正格歌手と評され、日本語の明瞭度の高さは楷書の歌と評された。その一方で作曲家・指揮者としても活躍した。1992年、スポーツ選手以外では初めて存命中に国民栄誉賞を受賞した。



57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 10:53
二葉 あき子 広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)を経て、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
 レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
 昭和11年(1936年)、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。

58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 11:49
四家 文子(よつや ふみこ)、1906年 - 1981年7月16日)は昭和期の歌手、声楽家。
東京都出身。東京府立第三高女を経て、東京音楽学校を首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名もしていた。しかし、佐藤が周囲の反対を押し切り、渡欧してしまうと、佐藤の吹き込みが予定されていた曲が四家に回ってくることになった。そして、この「銀座の柳」は大ヒットとなった。この曲は関東大震災で焼失した銀座の柳が、佐藤の歌った「東京行進曲」で復活したのを記念する歌だった。歌詞に「昭和」と出てくることから、昭和7年当時はまだ「昭和」の元号が新鮮だったことが伺える。その後も次々とヒット曲を連発、太平洋戦争勃発後は軍歌、戦時歌謡を多く歌ったほか、昭和18年には日本人最初のベートーヴェン「第九」の録音(第4楽章のみ。尾崎喜八訳。橋本國彦指揮・東京交響楽団)にも参加している。
戦後は流行歌手として生きることに区切りをさし、声楽家として活躍した。昭和41年には淡谷のり子、金田一春彦、古関裕而らと「美しい日本語と香り高い歌」をモットーとした「波の会」を結成した。昭和40年代の懐メロブーム当時は、既に歌手というよりも声楽家として知られ、評価も高かった。そのためか、テレビで自身のヒット曲を披露する機会は少なかったが、乞われれば声楽家の活動に差し障りが無い限り歌っており、また舞台ではヒット曲を積極的に歌っていた。昭和50年に乳癌を患うが、闘病の末、克服する。昭和56年7月16日に胃癌のため死去。新聞の訃報欄には「歌手 四家文子」ではなく「声楽家 四家文子」と書かれた。

59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 12:00
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は昭和期のソプラノ歌手。本名秋山種子。

岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、府立第二高女から東京音楽学校に進学。ドイツリートをレーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。
「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。また、1935年(昭和10年)には新興映画「突破無電」の主題歌「雨に咲く花」がヒット。
1936年(昭和11年)、国民歌謡が始まると奥田良三らと共に、しばしば歌唱指導に起用された。1937年(昭和12年)、ポリドールに移籍し、「じゃがたら文」「初恋の丘」「明日なき恋」「千人針」「戦陣訓の歌」などをレコーディングしている。一方、武蔵野音楽学校や東洋音楽学校で講師を務め、戦時中は軍需工場への慰問にも参加した。
戦後は、藤原歌劇団、東京オペラ協会などの公演に出演。グルリット・オペラ協会にも参加し、1956年(昭和31年)には、長門美保、佐藤美子、四家文子らとコンセールFを結成した。また、国立音楽大学、名古屋音楽大学の教授、東京藝術大学講師などを務め、門下生も多数輩出している。


60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:20
故郷の白百合

作詞 サトウハチロー
作曲 古賀政男



香りも高き 故郷の

丘のこかげの 白百合よ

あの日の姿は そのままに

いまでも心に 咲いている

霧島昇、松原操の歌った爽やかな歌です。・・


61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:26
青い牧場
 
  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲


  誰(タレ)の涙か 朝露か
  仔山羊の角が 光ってる
  どこだよそこだよ あの丘だ
  どこだよそこだよ あの蔭(カゲ)だ
  売られた仔山羊は 仔山羊は
  メエ メエ 帰ってくる

この歌は童謡風なさわやかな歌です。
昭和15年、藤山一郎、奈良三枝が歌いました。


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:31
[のぞかれた花嫁]  

作詞:玉川映二(サトウハチロー) 編曲:古賀政男 (原曲:アメリカ民謡)
歌:杉狂児 昭和10年 
日活多摩川1935「のぞかれた花嫁」主題歌 (もう一つが『二人は若い』)




♪〜誰も見てない部屋なら アノ甘い接吻しない
  ネエお前 貴方とふたり ああより添うて交わす
  嬉しいくちづけ 扉の外から
  誰かが覗いてる
  アラまあ 二人を見てる〜♪

♪〜空は青空 窓から アノ夢の浮き雲見つつ
  ネェ交わす 笑顔も二人 ああ若いもの同士
  高鳴るよろこび あふれる胸だよ 
  小鳥も共に歌ってる
  アラまあ 嬉しい僕ら〜♪




63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:40
島昇
霧島 昇(大正3年(1914年)6月27日 - 昭和59年(1984年)4月24日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本栄吾。福島県双葉郡大久村出身。
大正3年(1914年)に福島県双葉郡大久村(現:いわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。
浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長松村重武(俳優・松村達雄の実父)の目にとまり、昭和11年(1936年)にコロムビアに入社。当時のコロムビアは松平晃が看板スターだった。霧島は松平を目標に歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い音色と邦楽的技巧表現を生かした。
翌昭和12年(1937年)に『赤城しぐれ』でデビュー。昭和13年(1938年)に松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)と共に吹き込み大ヒット。昭和14年(1939年)にミス・コロムビアと結婚。前年に吹き込んだ「旅の夜風」が縁結びとなった。その後も『一杯のコーヒーから』、『誰か故郷を想わざる』などの大ヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれる。
太平洋戦争中は海軍に所属し、赤紙が届いた際に『若鷲の歌』の大合唱で送られたというエピソードも残っている。戦後は並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに『三百六十五夜』、『胸の振り子』などのヒットを放った。生涯に吹き込んだ数は3千曲を超える。


64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:44
淡谷のり子
淡谷 のり子(1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身。


1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立第一高等女学校を中退し母と妹と共に上京。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。
柴田稲子の指導を受け首席で卒業した。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い「十年に一人のソプラノ」と絶賛される。

世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置く。母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。キングでも吹込みをはじめる。当時、佐藤千夜子の活躍以来、奥田良三、川崎豊、内田栄一、四家文子ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた。
1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。映画館の専属となりアトラクション等で歌う。当時、東洋音楽学校からは青木晴子、羽衣歌子らが流行歌手として活躍していたが、東京音楽学校出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていた。淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された(後年復籍)が、1963年に起きた母校の内紛(東洋音楽大学事件:創業者一族の鈴木理事と経営側理事が対立し、双方が暴力団を「警備員」として大学に呼び込んだスキャンダル)に際しては、淡谷を中心に卒業生たちが東京声専音楽学校(現・昭和音楽芸術学院)に集まり、理事たちの異常な行為を糾弾した。
1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。A面は「酒は涙か溜息か」。歌唱者の藤山一郎は、当時東京音楽学校の学生で、将来を嘱望されていた。卒業後、ビクター専属藤山一郎(声楽家・増永丈夫)となる。後にテイチク−コロムビアを経て数々のヒットを飛ばし、淡谷のり子とは音楽上の盟友である。
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。


65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/04(Mon) 15:58
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。



66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/04(Mon) 19:09
あけみの唄 昭和7年(1932年)

作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ




67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/05(Tue) 09:40
<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
 八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・  
 肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50) (中公文庫1978)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      


68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 11:00
昔、昭和戦前の流行歌の歌手は、殆ど東京音楽学校〈現在の東京芸術大学(音楽学部)の前進)その他の音楽学校出身者が多かった。

河原喜久恵、四家文子、徳山l(たまき)、関種子、藤山一郎(増永丈夫)、楠木繁夫、松原操(ミス・コロムビア)、二葉あき子などのように官製の東京音楽学校出身で、しかも四家文子、関種子、藤山一郎(増永丈夫)は首席卒業だった。

その歌声を聴けばすぐわかる。


69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 21:47
昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。
そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。
・古賀政男(正男)初期のレコード 
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の作品

古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌)。


70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:21
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子
  

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:54
『文のかおり(古賀正男作詩作曲編曲)』、『娘心も(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『青い小鳥(作詩者不詳・古賀正男編曲)』、『風の鈴蘭(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『片思い(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』ら5曲がビクターレコードで佐藤千夜子によって吹込まれたのは昭和4年(1929)12月23日。
続いて、昭和5年(1930)10月20日、『日本橋から(浜田広介作詩)』、『影を慕いて (古賀正男作詩作曲編曲) 』2曲が、佐藤千夜子の歌唱でビクターレコードで吹込まれた。
佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し たのだ。昭和9年に再び日本に。


72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 23:00
・コロムビア専属作曲家・古賀政男   最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村 関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺   島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄  島田芳文 藤山一郎  1931年6月 コロムビア 26325


73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:08
>>70

日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月

かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月



74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:22
影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月


影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月



75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 10:29
色々な歌手がカバーしている「影を慕いて」、絶望の中から生まれたとされる「影を慕いて」は、今から80年以上前の昭和3年(1928)、まだ学生時代の古賀政男(正男)によって、昭和3年(1928)の秋、秋雨そぼ降る下宿で作曲されたという。

そして「明治大学マンドリン倶楽部」のるギター合奏による《影を慕いて》の初演は、昭和4年6月22日の第14回定期演奏会(赤坂溜池三會堂)だそうです。

これを最初にレコードにしたのは、ビクターのスタ−歌手で、日本における「レコード歌手第一号」とされる佐藤千夜子。昭和5年10月20日だそうです。(発売は昭和6年1月)

佐藤千夜子は、この8日後にイタリアに渡って、昭和9年に帰国するのですが、当然行われるべき宣伝・バックアップもできずこれが広く歌われるまでには至らなかったようですが、このレコードに依って、一苦学生・古賀正男は「コロムビア」の専属作曲家として迎えられることになるのです。
なお、古賀政男は後に自伝『我が心の唄』〈展望社)で、佐藤につい『[私に作曲家としての道を与えてくださった終生の恩人』とかいている。


これを歌ったのは、同じく古賀政男作曲の「キャンプ小唄」を歌った増永丈夫(藤山一郎)でこれが「流行歌手」としての初デビューでした。
これ以後、古賀政男、藤山一郎のコンビはレコード会社が何度か変わるも、今に残る数々のの殊玉の名曲を世に送り出すことになる。

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手によって支えられたのです。(藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビューで、昭和6年。)

今の東京芸術大学音楽学部の前進『東京音楽学校』首席卒業である藤山一郎は、本名・増永丈夫(たけお)の名では、主にクラッシックを歌っていた。




76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/13(Wed) 18:51
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html


77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 13:37
中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。
あほかと。



78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 15:43
戦前の歌手がステレオで再吹込みした録音盤があるけど、
やはり最初の録音がいちばんいい、声も若々しくきちんと歌っている。
再録音は声も衰え、編曲もヘンな風にアレンジしてあり違和感を覚える。


編曲…確かにオリジナルの前奏や間奏が変にアレンジされてて違和感ありますね。




79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:12
(参 考)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」           ウェッジ選書 2005
吉川潮 「流行歌 西條八十物語」           新潮社、ちくま文庫
佐高信 [悲歌 古賀政男の人生とメロディ]      毎日新聞社)
松井義弘「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」 石風社2007)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13 年/復刻 昭和53年10月)
寺山修司 [日本唱歌集]〈カッパブックス30−17〉  光文社1972

菊池清麿「評伝・古賀政男―青春よ永遠に」 アテネ書房 (2004/07)
菊池清麿「藤山一郎 歌唱の精神」 春秋社 (1996/06)
菊池清麿「永遠の歌姫 佐藤千夜子」 東北出版企画 (2008/12)
菊池清麿「中山晋平伝―近代日本流行歌の父」 郷土出版社(松本) (2007/06)
菊池清麿「さすらいのメロディー鳥取春陽伝―日本流行歌史の一断面・演歌とジャズを駆け抜けた
男」                  郁朋社 (1998/12)
菊池清麿「国境の町―東海林太郎とその時代」 北方新社 (2006/12)
菊池清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」論創社 (2008/04)
菊池清麿「私の青空 二村定一  ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代」論創社(2012/01)
菊池清麿「評伝古関裕而 国民音楽樹立の途」 彩流社 (2012/8/23


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:19
松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)
 主な曲・・

『キャンプ小唄』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『月の浜辺』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:河原喜久恵]
『丘を越えて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『窓に凭れて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:関種子]
『スキーの唄』(昭和6年12月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『山は招く』(昭和7年5月)[佐藤吉五郎作曲、歌:中野忠晴]
『恋の大島』(昭和8年7月)[佐々紅華作曲、歌:藤本二三吉]
『急げ幌馬車』(昭和9年1月)[江口夜詩作曲、歌:松平晃]
『ハイキングの唄』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫]
『夕べ仄かに』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:松島詩子]
『歓喜の丘』(昭和13年5月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『青春の丘』(昭和14年5月)[陸奥明作曲、歌:北廉太郎]
『雪の満州里』(昭和16年11月)[陸奥明作曲、歌:ディック・ミネ]

その他



81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:16
HKまたたび日記 〜☆きよ友何人できるかな☆ 『人生の並木路』。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/horse_shoejp/4914483.html


82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:58
氷川きよし節(木曜日・演歌名曲)人生の並木道

ttp://blogs.yahoo.co.jp/hkpure1218/30084096.html



83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:07
日本歌謡曲を支えた名作曲家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/sakkyokuka.html


84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:16
日本歌謡曲を支えた名作詞家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/index.html


85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 11:13
昭和初期〜20年代の歌謡曲の良さは異常。

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:27
改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。

87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:32
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。

88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:50
ステレオ再録音は編曲も悪いし旧録音には到底及ばない

89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:11
NHK様、どうかド演歌歌手に懐メロを歌わさないでください。イメージがまるつぶれになります。


90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:44
やはり、懐メロはSPオリジナル原盤で聴かないとないと絶対ダメ!!


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/22(Fri) 16:40
昭和前半のの歌謡は、第一級の詩人・作詞家が心をこめて作った詩に、当代随一の第一級作曲家が心をこめて曲を付け、第一級の歌手が心をこめて録音したもので、
貴重な文化遺産と言えます。

大切に歌い継ぎ、大切に残して行かねばなりません。

92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/25(Thu) 09:36
昔は作詞にしても、作曲にしても、演奏にしても、歌うにしても、それぞれそれに人生を掛けた、勉強したそれぞれプロのやることだった。
そしてレコード会社がプロデュースするものだった。

その後、素人作詞・作曲の歌を競う番組ができたりして、素人音楽がもてはやされていく。

「シンガーソングライター」と言って、何でも一人の、ド素人が作って演奏して歌うというとんでもない悪夢のようなことが
当たり前になっていく・・・

歌の文句さえ、『ボク・・』だとか、詩にもならないような他愛も無い、わけもわからないものがほとんど。
歌うというかわけもわからない文句を喚き立て、がなりたて、一人で悦にはいってるかのようなものがなんと多い事か!。


[飽食の時代]といわれて久しい、物があり余る時代、半世紀以上前、まだ日本が貧しかった時代・その時代の主流だったSPレコード、レコードやCDさえほとんどみうけられないが、幸い、You Tubeがあり、名歌手が歌うSPオリジナルが聞けるので、これをぜひ聞いてみよう。

その素晴らしい詞、すばらしいメロディ、すばらしい歌声・・これを聴いたことが無い今の若者は不幸です・。

日本のこの文化遺産を聴いてみれば、心が癒され人はいつでも原点に帰ることができるでしょう。



93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:06
今、レコード店では最近の若者ののばかりで、昔のレコードはもちろん、CDは非常に少なくなっているようです。
一方、You tube ではSPオリジナルが聴けることがあり注目です。



94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:08
なお、SPを含むレコードの蒐集・保存・公開については、小田急線代々木上原駅前にある日本唯一の音楽博物館「古賀政男音楽博物館」や、九段下、靖国神社前の「昭和館」、「国会図書館」(国立国会図書館デジタル化資料(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源(1900〜1949))で聴ける他、各図書館にもCDがあります。



95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:40
古賀政男アメリカへ
昭和13年〜14年の訪米記録
古賀政男音楽博物館 2013年4月2日(火)〜2013年7月31日(水)

古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、外務省音楽親善使節としてアメリカを訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。今回の企画展では、この訪米についてその道のりをたどりながらご紹介します。
ttp://www.koga.or.jp/plan/plan_19.html

古賀政男音楽博物館
東京都渋谷区上原三丁目6−12
Tel:03-3460-9051 / Fax:03-3460-9052

?新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
?京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:43
新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

小田急線代々木上原駅ホームすぐ前です。



97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/12(Wed) 00:48
1938年の藤原義江・世界歌の旅

1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。



古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。

南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。

そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。


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