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日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史

1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/12/01(Sat) 20:25
最近の歌謡番組で「昭和」というのは、昭和末期、飽食の時代の昭和50年代のことらしいですが、昭和の名曲、どのくらい知ってますか?、何が好きですか?

今でこそテレビは色々な歌で溢れていますが、昔は民謡や唱歌・童謡、軍歌、演歌など以外にみんなが、大衆が口ずさむ、歌える歌というものがなかった。
昭和〈1926〜1989)と共に、SPレコードとともに始まった大衆歌曲としての、日本の文化としての「歌謡曲」の歴史、SPレコードの歴史、それは歌ずくりにかけた多くの先人のたゆまぬ熱き思いの歴史であった。

昭和の歌謡曲の歴史を歌で辿ってみましょう。

レコード歌謡は、今から84年前の昭和3年〈1928)「波浮の港」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)に始まったとされます。まだ日本が草深く貧しかった時代です。




61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:26
青い牧場
 
  サトウハチロー作詞、古賀政男作曲


  誰(タレ)の涙か 朝露か
  仔山羊の角が 光ってる
  どこだよそこだよ あの丘だ
  どこだよそこだよ あの蔭(カゲ)だ
  売られた仔山羊は 仔山羊は
  メエ メエ 帰ってくる

この歌は童謡風なさわやかな歌です。
昭和15年、藤山一郎、奈良三枝が歌いました。


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:31
[のぞかれた花嫁]  

作詞:玉川映二(サトウハチロー) 編曲:古賀政男 (原曲:アメリカ民謡)
歌:杉狂児 昭和10年 
日活多摩川1935「のぞかれた花嫁」主題歌 (もう一つが『二人は若い』)




♪〜誰も見てない部屋なら アノ甘い接吻しない
  ネエお前 貴方とふたり ああより添うて交わす
  嬉しいくちづけ 扉の外から
  誰かが覗いてる
  アラまあ 二人を見てる〜♪

♪〜空は青空 窓から アノ夢の浮き雲見つつ
  ネェ交わす 笑顔も二人 ああ若いもの同士
  高鳴るよろこび あふれる胸だよ 
  小鳥も共に歌ってる
  アラまあ 嬉しい僕ら〜♪




63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:40
島昇
霧島 昇(大正3年(1914年)6月27日 - 昭和59年(1984年)4月24日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本栄吾。福島県双葉郡大久村出身。
大正3年(1914年)に福島県双葉郡大久村(現:いわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノールの藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。
浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長松村重武(俳優・松村達雄の実父)の目にとまり、昭和11年(1936年)にコロムビアに入社。当時のコロムビアは松平晃が看板スターだった。霧島は松平を目標に歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い音色と邦楽的技巧表現を生かした。
翌昭和12年(1937年)に『赤城しぐれ』でデビュー。昭和13年(1938年)に松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)と共に吹き込み大ヒット。昭和14年(1939年)にミス・コロムビアと結婚。前年に吹き込んだ「旅の夜風」が縁結びとなった。その後も『一杯のコーヒーから』、『誰か故郷を想わざる』などの大ヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれる。
太平洋戦争中は海軍に所属し、赤紙が届いた際に『若鷲の歌』の大合唱で送られたというエピソードも残っている。戦後は並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに『三百六十五夜』、『胸の振り子』などのヒットを放った。生涯に吹き込んだ数は3千曲を超える。


64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/03(Sun) 15:44
淡谷のり子
淡谷 のり子(1907年8月12日 - 1999年9月22日)は、青森県青森市出身。


1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。1910年の青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立第一高等女学校を中退し母と妹と共に上京。東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学する。後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入。オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学んだ。
柴田稲子の指導を受け首席で卒業した。春に開催されたオール日本新人演奏会(読売新聞主宰)では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い「十年に一人のソプラノ」と絶賛される。

世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。母校の研究科に籍を置く。母校主宰の演奏会でクラシックの歌手として活動する。クラシックでは生計が立たず、家を支えるために流行歌を歌う。1930年1月、新譜でポリドールからデビュー盤「久慈浜音頭」が発売。キングでも吹込みをはじめる。当時、佐藤千夜子の活躍以来、奥田良三、川崎豊、内田栄一、四家文子ら声楽家の流行歌への進出が目立っていた。
1930年6月、浅草の電気館のステージに立つ。映画館の専属となりアトラクション等で歌う。当時、東洋音楽学校からは青木晴子、羽衣歌子らが流行歌手として活躍していたが、東京音楽学校出身の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られていた。淡谷は流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された(後年復籍)が、1963年に起きた母校の内紛(東洋音楽大学事件:創業者一族の鈴木理事と経営側理事が対立し、双方が暴力団を「警備員」として大学に呼び込んだスキャンダル)に際しては、淡谷を中心に卒業生たちが東京声専音楽学校(現・昭和音楽芸術学院)に集まり、理事たちの異常な行為を糾弾した。
1931年コロムビアへ移籍。古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。A面は「酒は涙か溜息か」。歌唱者の藤山一郎は、当時東京音楽学校の学生で、将来を嘱望されていた。卒業後、ビクター専属藤山一郎(声楽家・増永丈夫)となる。後にテイチク−コロムビアを経て数々のヒットを飛ばし、淡谷のり子とは音楽上の盟友である。
淡谷はコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込む。これらの楽曲は、昭和モダンの香りを漂わせていた。1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となる。


65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/04(Mon) 15:58
関種子さんは、1931年にコロムビア専属。古賀政男氏コロムビア専属第1回作品『乙女心(鹿山鶯村作詩)』から次々に古賀メロディのヒット曲をレコーディング。1932年の『朝顔の唄(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌唱)』は、古賀氏が「ヒットにならないかもしれないが、良い歌を作ってみたい」と佐藤氏に伝え発表された曲。1934年に古賀氏がコロムビアからテイチクへ移籍。1935年『雨に咲く花(高橋掬太郎作詩・池田不二男作曲編曲)』ヒット直後、歌詩内容が「感傷的すぎる」とプレス中止。関さんはコロムビアでの歌手活動に消極的となったようです。当時、東京音
楽学校出身の方々が歌謡曲を歌うことにはかなりの批判があったようで、例えば伊庭孝氏は「四家文子も関種子も、アルトでもなければソプラノでもない」。伊庭氏は音楽評論家でもあり、幅広い分野のエンターテイメント・アーティストを応援なさった方。伊庭氏のコメント内容は、かつて「浅草オペラ」に音楽学校関係者の大きな批判があったことも元となってるんではないでしょうか。また、四家さんは西条八十氏の作品をビクターで多数レコーディング。伊庭氏「『東京行進曲』のような唄が流行るから、大衆の音楽が荒れる」。西条氏「はやりうたは、大衆が支持するから流行る。私の作品を批判するなら、大衆を批判するべきだ」。伊庭氏と西条氏は仲が良くなかった。関種子さんは、東洋音楽学校声楽科教授だった1937年に日本ポリドール専属。『じゃがたら文(大木惇夫作詩・阿部武雄作詩作曲・関種子歌唱)』は独特な雰囲気です。また、クラシック曲カヴァーも意欲的にレコーディング。



66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/04(Mon) 19:09
あけみの唄 昭和7年(1932年)

作詞:原阿佐緒
作曲:古賀政男
歌唱:関  種子

(一)
あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
酒場の花と ひとはいうが
酔うては醒める 酒のよな
恋はすまいぞ ひとが泣くもの

(二)
あけみ悲しや 何処へ往く
いまさらさらに 思う我が子
ゆりかごゆりて 笑みし日を
恋ては泣くよ 母なればこそ

(三)
あけみ悲しや 何処へ往く
恋にも世にも 敗れ果てて
せめて子のため 永らえよ
あああ あけみ 何処へ往くよ




67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/05(Tue) 09:40
<参考書>
西條嫩子編「西條八十童謡集」彌生書房
 八十の長女西條(三井)嫩子(ふたばこ)がまとめた、お山の大将・かくれんぼ・風・  
 肩たたき・かなりやなど51篇の童謡集。
西條嫩子『父西條八十』(中央公論社,昭50) (中公文庫1978)
『西條八十全集』(1〜16巻、別巻)国書刊行会1991
西條八十『あの夢この歌』(イウ゛ニングスタ−社,昭和23)
新庄嘉章編 「西條八十詩集」彌生書房
人間の記録 第29巻 「西條八十  唄の自叙伝」日本図書センタ− 1997
西條八十著「アルチュール・ランボー研究」中央公論社 昭和43年
西條八束・西条八十著作目録刊行委員会編『西条八十著作目録・年譜』中央公論出版
西条八十著「民謡の旅」朝日新聞社 昭和5      


68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 11:00
昔、昭和戦前の流行歌の歌手は、殆ど東京音楽学校〈現在の東京芸術大学(音楽学部)の前進)その他の音楽学校出身者が多かった。

河原喜久恵、四家文子、徳山l(たまき)、関種子、藤山一郎(増永丈夫)、楠木繁夫、松原操(ミス・コロムビア)、二葉あき子などのように官製の東京音楽学校出身で、しかも四家文子、関種子、藤山一郎(増永丈夫)は首席卒業だった。

その歌声を聴けばすぐわかる。


69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 21:47
昭和3年「人生の苦悩」から生まれた「古賀メロディ」、彗星のように大衆の中に浸透していった「古賀メロディ」が、やがて晋平の時代を引き継いで、さらに大衆の中に新しい時代を作り上げていくことになるのである。
そして、晋平の時代と「古賀メロディ」の時代を繋ぐ歌手がレコード歌手第一号・佐藤千夜子といえるだろう。
・古賀政男(正男)初期のレコード 
文のかをり  古賀正男  佐藤千夜子 1930年3月 ビクター 51091
娘心も    浜田広介  同     1930年3月 ビクター 51091
青い小鳥   不詳    同     1930年12月 ビクター 51464
影を慕いて  古賀正男  同     1931年1月 ビクター 51519
日本橋から  浜田広介  同     1931年1月 ビクター 51519
片想い    浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
風の鈴蘭   浜田広介  同     1931年6月 ビクター 51689
以上は,作曲家になる前の作品

古賀作品レコーディング曲のうち以下3曲は後にコロムビアで歌詩変更。・・
『文のかをり』→1933年9月『来る来るサーカス』(西条八十作詩・古賀政男作曲編曲・淡谷のり子歌)
『娘心も』 →1932年6月『月夜の恋』(西岡水朗作詩・古賀政男作曲編曲・丸山和歌子歌)
『青い小鳥』 →1932年9月『笛は冴ゆれど』(佐藤惣之助作詩・古賀政男作曲編曲・関種子歌)。


70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:21
[影を慕いて][日本橋から][片想い]については、コロムビアで藤山一郎、関種子によって歌い継がれた。

「影を慕いて」(昭和7年)藤山一郎
「日本橋から」(昭和7年)関種子
「かた思い」(片想い)(昭和7年)関種子
  

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 22:54
『文のかおり(古賀正男作詩作曲編曲)』、『娘心も(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『青い小鳥(作詩者不詳・古賀正男編曲)』、『風の鈴蘭(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』、『片思い(浜田広介作詩・古賀正男作曲編曲)』ら5曲がビクターレコードで佐藤千夜子によって吹込まれたのは昭和4年(1929)12月23日。
続いて、昭和5年(1930)10月20日、『日本橋から(浜田広介作詩)』、『影を慕いて (古賀正男作詩作曲編曲) 』2曲が、佐藤千夜子の歌唱でビクターレコードで吹込まれた。
佐藤はこの8日後、昭和5年10月28日、横浜港からアメリカ経由で、オペラの本場イタリアを目指し たのだ。昭和9年に再び日本に。


72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/07(Thu) 23:00
・コロムビア専属作曲家・古賀政男   最初期の作品
乙女心    鹿山鶯村 関種子   1931年5月 コロムビア 26275
チャッカリしてるわネ 西岡水朗 天野喜久代 1931年5月 コロムビア 26275
月の浜辺   島田芳文 河原喜久恵 1931年6月 コロムビア 26325
キャンプ小唄  島田芳文 藤山一郎  1931年6月 コロムビア 26325


73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:08
>>70

日本橋から(濱田広介作詞・古賀政男作曲・井田一郎編曲) 関 種子 コロムビア゙黒番26748-A 昭和7年3月

かた思い (浜田広介作詞 古賀政男作曲) 関 種子 コロムビア 黒盤 26897B 昭和7年6月



74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 09:22
影を慕いて(古賀正男作詞、古賀正男作曲)佐藤千夜子 ビクタ― 黒盤 51519@  昭和6年1月


影を慕いて(古賀政男作詞、古賀政男作曲)藤山一郎  コロムビア黒盤 26748@  昭和7年3月



75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/12(Tue) 10:29
色々な歌手がカバーしている「影を慕いて」、絶望の中から生まれたとされる「影を慕いて」は、今から80年以上前の昭和3年(1928)、まだ学生時代の古賀政男(正男)によって、昭和3年(1928)の秋、秋雨そぼ降る下宿で作曲されたという。

そして「明治大学マンドリン倶楽部」のるギター合奏による《影を慕いて》の初演は、昭和4年6月22日の第14回定期演奏会(赤坂溜池三會堂)だそうです。

これを最初にレコードにしたのは、ビクターのスタ−歌手で、日本における「レコード歌手第一号」とされる佐藤千夜子。昭和5年10月20日だそうです。(発売は昭和6年1月)

佐藤千夜子は、この8日後にイタリアに渡って、昭和9年に帰国するのですが、当然行われるべき宣伝・バックアップもできずこれが広く歌われるまでには至らなかったようですが、このレコードに依って、一苦学生・古賀正男は「コロムビア」の専属作曲家として迎えられることになるのです。
なお、古賀政男は後に自伝『我が心の唄』〈展望社)で、佐藤につい『[私に作曲家としての道を与えてくださった終生の恩人』とかいている。


これを歌ったのは、同じく古賀政男作曲の「キャンプ小唄」を歌った増永丈夫(藤山一郎)でこれが「流行歌手」としての初デビューでした。
これ以後、古賀政男、藤山一郎のコンビはレコード会社が何度か変わるも、今に残る数々のの殊玉の名曲を世に送り出すことになる。

後に『古賀メロディ』と呼ばれる一連の今に残る多くの殊玉の名曲は、藤山一郎や関種子など音楽学校出身の優れた歌手によって支えられたのです。(藤山一郎や関種子の流行歌デビューは、古賀政男のコロムビア専属作曲家としてのデビューで、昭和6年。)

今の東京芸術大学音楽学部の前進『東京音楽学校』首席卒業である藤山一郎は、本名・増永丈夫(たけお)の名では、主にクラッシックを歌っていた。




76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/13(Wed) 18:51
2011-09-21 03:15:06
昭和の歌手シリーズ『関種子』
ttp://ameblo.jp/kazuhirowatabe/entry-11024417858.html


77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 13:37
中途半端な声楽の技術を持った人間が、クラシック系の歌手が歌った曲を歌ってるのを聴くと耳を覆いたくなる。
講演なんかで歌うやつがいるが馬鹿かと。
あほかと。



78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/15(Fri) 15:43
戦前の歌手がステレオで再吹込みした録音盤があるけど、
やはり最初の録音がいちばんいい、声も若々しくきちんと歌っている。
再録音は声も衰え、編曲もヘンな風にアレンジしてあり違和感を覚える。


編曲…確かにオリジナルの前奏や間奏が変にアレンジされてて違和感ありますね。




79 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:12
(参 考)
筒井 清忠「西條八十と昭和の時代」           ウェッジ選書 2005
吉川潮 「流行歌 西條八十物語」           新潮社、ちくま文庫
佐高信 [悲歌 古賀政男の人生とメロディ]      毎日新聞社)
松井義弘「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」 石風社2007)
宮本旅人『半生物語・作品研究 古賀政男藝術大観(作品集)』シンフオニー楽譜出版社(昭和13 年/復刻 昭和53年10月)
寺山修司 [日本唱歌集]〈カッパブックス30−17〉  光文社1972

菊池清麿「評伝・古賀政男―青春よ永遠に」 アテネ書房 (2004/07)
菊池清麿「藤山一郎 歌唱の精神」 春秋社 (1996/06)
菊池清麿「永遠の歌姫 佐藤千夜子」 東北出版企画 (2008/12)
菊池清麿「中山晋平伝―近代日本流行歌の父」 郷土出版社(松本) (2007/06)
菊池清麿「さすらいのメロディー鳥取春陽伝―日本流行歌史の一断面・演歌とジャズを駆け抜けた
男」                  郁朋社 (1998/12)
菊池清麿「国境の町―東海林太郎とその時代」 北方新社 (2006/12)
菊池清麿「日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ」論創社 (2008/04)
菊池清麿「私の青空 二村定一  ジャズ・ソングと軽喜劇黄金時代」論創社(2012/01)
菊池清麿「評伝古関裕而 国民音楽樹立の途」 彩流社 (2012/8/23


80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/16(Sat) 21:19
松井義弘著「青春の丘を越えてー詩人島田芳文とその時代」(石風社・2007)
 主な曲・・

『キャンプ小唄』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『月の浜辺』(昭和6年6月)[古賀政男作曲、歌:河原喜久恵]
『丘を越えて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『窓に凭れて』(昭和6年11月)[古賀政男作曲、歌:関種子]
『スキーの唄』(昭和6年12月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『山は招く』(昭和7年5月)[佐藤吉五郎作曲、歌:中野忠晴]
『恋の大島』(昭和8年7月)[佐々紅華作曲、歌:藤本二三吉]
『急げ幌馬車』(昭和9年1月)[江口夜詩作曲、歌:松平晃]
『ハイキングの唄』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:楠木繁夫]
『夕べ仄かに』(昭和10年5月)[古賀政男作曲、歌:松島詩子]
『歓喜の丘』(昭和13年5月)[古賀政男作曲、歌:藤山一郎]
『青春の丘』(昭和14年5月)[陸奥明作曲、歌:北廉太郎]
『雪の満州里』(昭和16年11月)[陸奥明作曲、歌:ディック・ミネ]

その他



81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:16
HKまたたび日記 〜☆きよ友何人できるかな☆ 『人生の並木路』。

ttp://blogs.yahoo.co.jp/horse_shoejp/4914483.html


82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 16:58
氷川きよし節(木曜日・演歌名曲)人生の並木道

ttp://blogs.yahoo.co.jp/hkpure1218/30084096.html



83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:07
日本歌謡曲を支えた名作曲家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/sakkyokuka.html


84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/19(Tue) 17:16
日本歌謡曲を支えた名作詞家10人

ttp://www.lares.dti.ne.jp/~hiroya/index.html


85 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 11:13
昭和初期〜20年代の歌謡曲の良さは異常。

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:27
改めて藤山さんの歌を色々歌ってみると、素人には簡単に歌えない歌だと痛感します。
歌詞も一流の詩人・文学者とも言うべき人が作詞してたりしましたね。
そう考えると、最近はチンピラ作曲家にチンピラ作詞家にチンピラ歌手、
レコード会社も芸能事務所もヤクザな稼業…。

87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:32
昭和前半の歌は現在のプロでも簡単に歌えない歌が
たくさんあります。カバーして歌ってるのを聴くと
よく分かります。

88 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/01(Fri) 21:50
ステレオ再録音は編曲も悪いし旧録音には到底及ばない

89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:11
NHK様、どうかド演歌歌手に懐メロを歌わさないでください。イメージがまるつぶれになります。


90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/05(Tue) 13:44
やはり、懐メロはSPオリジナル原盤で聴かないとないと絶対ダメ!!


91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/22(Fri) 16:40
昭和前半のの歌謡は、第一級の詩人・作詞家が心をこめて作った詩に、当代随一の第一級作曲家が心をこめて曲を付け、第一級の歌手が心をこめて録音したもので、
貴重な文化遺産と言えます。

大切に歌い継ぎ、大切に残して行かねばなりません。

92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/25(Thu) 09:36
昔は作詞にしても、作曲にしても、演奏にしても、歌うにしても、それぞれそれに人生を掛けた、勉強したそれぞれプロのやることだった。
そしてレコード会社がプロデュースするものだった。

その後、素人作詞・作曲の歌を競う番組ができたりして、素人音楽がもてはやされていく。

「シンガーソングライター」と言って、何でも一人の、ド素人が作って演奏して歌うというとんでもない悪夢のようなことが
当たり前になっていく・・・

歌の文句さえ、『ボク・・』だとか、詩にもならないような他愛も無い、わけもわからないものがほとんど。
歌うというかわけもわからない文句を喚き立て、がなりたて、一人で悦にはいってるかのようなものがなんと多い事か!。


[飽食の時代]といわれて久しい、物があり余る時代、半世紀以上前、まだ日本が貧しかった時代・その時代の主流だったSPレコード、レコードやCDさえほとんどみうけられないが、幸い、You Tubeがあり、名歌手が歌うSPオリジナルが聞けるので、これをぜひ聞いてみよう。

その素晴らしい詞、すばらしいメロディ、すばらしい歌声・・これを聴いたことが無い今の若者は不幸です・。

日本のこの文化遺産を聴いてみれば、心が癒され人はいつでも原点に帰ることができるでしょう。



93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:06
今、レコード店では最近の若者ののばかりで、昔のレコードはもちろん、CDは非常に少なくなっているようです。
一方、You tube ではSPオリジナルが聴けることがあり注目です。



94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/27(Sat) 08:08
なお、SPを含むレコードの蒐集・保存・公開については、小田急線代々木上原駅前にある日本唯一の音楽博物館「古賀政男音楽博物館」や、九段下、靖国神社前の「昭和館」、「国会図書館」(国立国会図書館デジタル化資料(館内限定閲覧 録音映像資料/歴史的音源(1900〜1949))で聴ける他、各図書館にもCDがあります。



95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:40
古賀政男アメリカへ
昭和13年〜14年の訪米記録
古賀政男音楽博物館 2013年4月2日(火)〜2013年7月31日(水)

古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、外務省音楽親善使節としてアメリカを訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。今回の企画展では、この訪米についてその道のりをたどりながらご紹介します。
ttp://www.koga.or.jp/plan/plan_19.html

古賀政男音楽博物館
東京都渋谷区上原三丁目6−12
Tel:03-3460-9051 / Fax:03-3460-9052

?新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
?京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/28(Sun) 08:43
新宿駅より小田急線、地下鉄千代田線 代々木上原駅下車 徒歩3分
京王バス 笹塚循環(渋谷〜笹塚) 古賀音楽博物館下車 徒歩1分
ttp://www.koga.or.jp/access/index.html

小田急線代々木上原駅ホームすぐ前です。



97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/12(Wed) 00:48
1938年の藤原義江・世界歌の旅

1938年(昭和13年)の藤原義江氏・世界歌の旅。前年(1937年)7月から南米各地での演奏会回数が合計48回。アルゼンチン・ビクターでタンゴ曲レコーディング(同年7月、日本発売)。4月ローマでは政治犯と間違えられ、ベルリンで独唱会。トルコ首都アンカラやルーマニアのブカレストで歌い、ロンドンに直行。8月帰国、10月「Das Land des Lachelns 微笑の国」を有楽座で日本初演。この主題歌は翌1939年2月発売の『Dein ist Mein Ganzes Herz わが光の君(ルートヴィッヒ・ヘルツァー&フリッツ・レーナー作詩、柳園子訳詩、フランツ・レハール作曲)』。



古賀政男は、テイチク退社後、古賀政男は昭和13年11月から昭和14年10月までという長期に渡って、「外務省音楽親善使節」としてアメリカ各地を訪問しています。この間、NBCでの古賀メロディーの放送やアルゼンチンの作曲家たちとの交流など、古賀政男の音楽人生の中でも大きなトピックとなる出来事が起きています。

南米・アルゼンチンにも回っています。これには、自らの意志と、直前に南米各地、アルゼンチンなど48カ所を南米演奏旅行で回った藤原義江の強い勧めもあったと自伝『わが心の唄』にあります。

そして、古賀政男は藤原義江に見送られて横浜港を出港します。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/22(Sat) 19:06
日本のタンゴ界でも、1937年に声楽家の藤原義江がアルゼンチンで、タンゴを録音し、1940年に作曲家古賀政男も『東京ラプソデイ―』等をタンゴのレコードとして出しています。そして往年のファンにはとても懐かしい早川真平率いる“オルケスタ・ティピカ東京”や歌手藤沢嵐子等が日本のタンゴ黄金時代の荷い手でした。



99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 22:33
毎日新聞社「写真 昭和30年史」には、昭和6年の扉に世相と「古賀メロデー」のことが有名な古賀春江の『酒は涙か溜息か』の楽譜の絵と共に出ている。満州事変(9月18日)が起こった昭和六年は、歴史に残る「東北大凶作」だった。なお、日本の歴史は「凶作」の歴史でもあり、コメが余るなどと言われるのは戦後も40年代後半のことだったのだ。)

「・・東北出身の兵隊が満蒙の戦野で戦っているとき、その留守の東北は冷害が田や畑を、村を荒廃させてしまった。稲作は平年作の三分の一と言われ、人々は蕨の根を掘り、松の甘皮を剥いて飢えをしのぐ惨状だった。岩手の詩人・宮沢賢治は『雨にも負けず、風にも負けず、・・寒さの夏はおろおろ歩き・・』とうたったが、都市の学生たちがその惨状を訴えているとき、巷では「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など青白きインテリ層の中に「古賀メロディ」がはんらんしていった。」・・と。

東北大凶作やそれに伴う娘や身売りなど農村の疲弊は、その後の太平洋戦争に至る遠因のひとつとも言われる。「古賀メロデー」の時代、昭和前半の時代は、まだ日本が豊かになる前の苦難の歴史でもあった。その中でも、「古賀メロデー」が彗星のように登場し、多くの大衆に迎え入れられ、やがて「古賀メロデー」として称えられるようになった「古賀メロデー」の歴史的重みがひしと伝わってくる。


100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/07/08(Mon) 23:16
「飽食の時代」と言われ久しくなった今、物が在り余る時代、日本の大衆音楽も様変わりしてしまったのは残念なことです。作曲家の名前の後ろにただ「メロディ」を付けただけのたくさんのナントカメロディが氾濫し、そして、重い言葉であるべき『名曲』というものさえ大量生産され、軽い意味で頻繁に使われるようになったのには違和感を感ずるものも少なくないことでしょう。
最初に「メロディ」を付けて呼ばれるようになったのが「古賀メロディ」だが、まず最初にあげられるべきは何と言っても、昭和歌謡の歴史に燦然と輝く「古賀メロディ」です。以下「古賀メロディ」とその歴史についてです。

昭和の歴史の中で彗星のように出現した作曲家・古賀政男(1904〜1978)は、昭和レコード歌謡の黎明期、レコード歌手第一号・佐藤千夜子の力添えによって誕生したといえる。
佐藤千夜子は、中山晋平(1887〜1952)の弟子で、まだレコードの普及も、ラジオもない頃から、東京音楽学校を中退して、詩人野口雨情や作曲家中山晋平とともに「全国歌の旅」に参加、晋平の歌を世に広めた歌手である


この運動の中で作られた新民謡『波浮の港』は日本における最初の商業レコードとされる。レコード歌手第一号と言われる「佐藤千夜子」のことについては、昭和53年NHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』でも取り上げられた。『いちばん星』では、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子、西条八十、古賀正夫(政男)などまさに昭和レコード歌謡を築き上げた人物が登場する
レコード音楽は昭和と共に始まった。日本ビクター、日本ポリドール、日本コロムビアなど、日本に本格的なレコード会社ができたのは、昭和2年(1927)から3年にかけてである。そして古賀政男が『影を慕いて』を作曲したのがまだ明治大学学生だった昭和3年(1928)秋とされる。

作曲家・古賀政男が誕生したのは、3年後の昭和6年3月だった。レコード作曲家とその歌としては中山晋平の「波浮の港」などの他、「君恋し」の佐々紅華(1907〜1961)、「道頓堀行進曲」、「女給の唄」の塩尻精八、「沓掛小唄」の奥山貞吉(1887〜1956)などまさにレコード歌謡の黎明期といえるだろう。



101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:49
日本音楽著作権協会(JASRAC)歴代会長

社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)とは、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、すべての音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む社団法人である。
1939年 JASRACの前身である大日本音楽著作権協会が設立された。(初代会長水野錬太郎)

歴代会長
昭和14〜20   水野錬太郎(1868〜1949) 内務省・文部省
昭和21〜23   国塩耕一郎(1905〜1986)旧内務省
昭和23〜27   中山晋平(1887〜1952) 作曲家
昭和28〜40   西條八十(1892〜1970) 詩人・芸術院会員、仏文学者
昭和40〜46   堀内敬三(1897〜1983) 音楽評論家、作詞・訳詞家、作曲家
昭和46〜48   サロウハチロ―(1903〜1973) 詩人、作家
昭和49〜52   古賀政男(1904〜1978) 作曲家、演奏家
昭和52〜55   勝 承夫(1902〜1981) 詩人
昭和55〜    服部良一(1907〜1993) 作曲家
平成1年〜   吉田 正(1921〜1998) 作曲家
平成6年〜   黛 敏郎(1929〜1997) 作曲家
平成7年〜   遠藤 実(1932〜2008) 作曲家
平成13年〜   星野哲郎(1925〜)   作詞家
平成16年〜   船村 徹(1932〜)   作曲家
平成22年〜   戸倉俊一(1948〜)   作曲家




102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/11(Sun) 09:53
昭和14年(1939)、著作権に悩まされていた日本は、「仲介業務法」施行に伴い内務省管轄の「大日本音楽著作権協会」ができた。その後「日本音楽著作権協会」(JASRAC)となった。最初に著作権を預ける契約を結んだのは島崎藤村である。

会長は戦前戦中は政治家で、戦後昭和23年から作曲家中山晋平が会長となり、その後西條八十など詩人や作曲家など作家が会長となっている。知る人ぞ知る、錚々たる昭和時代の歴代会長。

参考までに、現在のJASRACの本部ビルは、小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」と隣接し、旧古賀邸の正門があったあたりに建つ。「古賀政男音楽博物館」とともに、「古賀政男音楽文化振興財団」が所有管理する。

多くの歌手たちが通った広大な旧古賀政男邸の面影は今は無い。島倉千代子が玄関までの路の長かったことといった門からの石畳の坂道が音楽博物館の2F通路に再現されている。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/12(Mon) 11:12
小田急線代々木上原駅前の「古賀政男音楽博物館」は、昭和53年(1978)7月25日、古賀政男没後、古賀政男の意志を引き継いだ「古賀政男音楽文化振興財団」(昭和54年1月18日設立)が設立され、旧古賀邸跡は「古賀政男記念博物館」として公開されていた。

しかし、老朽化のため平成4年旧邸宅を取り壊し、その一部を移築再現することを含め、平成9年5月に新しい博物館としてオープンしたものである。

古賀政男がコロムビアレコードの専属作曲家になったのは、今から82年前の昭和6年(1931)3月。

専属第一作は、「日本橋から」「窓に凭れて」「嘆きの夜曲」「あけみの唄」「朝顔の唄」「さらば上海」「去りゆく影」など、藤山一郎とともに、初期の古賀メロディを支えた歌手、関 種子の「乙女心」」(鹿山鴬村作詩、6年6月)♪朧月夜のその頃に・・だった。

古賀政男が住んでいたのは同じ代々木上原でした。やがて売れっ子となった古賀政男は、その後数年を世田谷区で過ごしますが、音楽の創造に取り組む同志を集めて、音楽村を作りたいという夢を持っていた古賀政男が、ふたたび代々木上原を選んだ、これが旧古賀邸。

この地から「古賀メロディ」と呼ばれる日本人の心の琴線に触れる数多くの歌と、多くの歌手が送り出された。まさに大衆音楽の聖地といってもいいだろう。

音楽博物館としては日本唯一の博物館で講演や演奏もある。なお、この時一部が売却された。右隣の7階建てマンションになっている部分です。

旧古賀邸は昭和13年につくられた和洋折衷様式の建物で、広大な庭園や大きな車庫がいくつもあった。かって中二だった滝沢秀明と今井翼 出演のフジTV「木曜の怪談・怪奇倶楽部―小学生編」(DVDあり)のロケはここで行なわれた。この中に古賀邸の内部映像が残っている他、博物館に移設展示されている。

現在の「古賀政男音楽博物館」と、「日本音楽著作権協会」(JASRAC)が入るビルは一体で、旧古賀邸は、これと右隣のマンションが建っている敷地を含む小田急線代々木上原駅前の、井の頭通りに面するブロックすべてです。

駅から旧古賀邸に至る路が「音楽村通り」で、看板が出ているが駅舎に面した通りだけで、2,3分歩いて井の頭通りに面した駅前交番のすぐ目の前に音楽博物館がある。井の頭通りは拡幅され、残念ながら古賀邸が有った頃の、多くの著名な歌手や音楽関係者が通ったという昭和の趣は今そこに無い。

日本の音楽著作権を管轄する団体として長い歴史を持つJASRAC本部は,1994年に港区西新橋から、ここ代々木上原の地に移転。
「古賀政男音楽博物館」に隣接し、それと繋がった「古賀政男音楽振興財団」(古賀財団)のビルに本居を構え現在にいたる。

古賀政男は、昭和30年代に於いて、既に『歌謡界の大御所』というだけでなく、『日本の名士』だった。

昭和33年には自ら日本作曲家協会を設立、会長となった。そして日本レコード大賞など創設、音楽界全体の発展に尽力したことでも知られます。

著作権料は他を圧倒していたことはよく知られたことだった。成りあがりの若い作曲家の遠く及ばないことなのだ、。

この日本の著作を含む音楽分野で、大衆音楽という深く著作権と関係する分野で、自らの歴史が歌謡曲の歴史、昭和の歴史とともに巨大な足跡を築いた古賀政男、その遺志と著作権を引き継ぐ古賀財団。

JASRACを飲み込むかのように、代々木上原の地にそびえ立つ二つの威容は、その音楽遺産の偉大さを象徴しているかのよう。


古賀政男没後すでに35年、新しい大衆音楽が次々に出現している。「飽食の時代」と言う言葉さえ過去のものとなってしまった。この豊かで平和な日本にも、かっては貧しい時代が有ったのだ。その歴史の上に今日があるのだ。音楽についても同じことが言える。

日本人は豊かさとともに大切なものを失おうとしてしまっているのではないか。そうした今、まだテレビもなかった時代、古賀メロディ等に限らず、その時代とその歌の背景等に想いを致し、歌い継いでいくことは、日本人の心の原点を取り戻すことで意義ある事だと思われます。

何でも「名曲!?」の今、その優れた詩人や作曲家たちの心をこめて作った詩や曲のさりげないはしはしに、日本人が忘れかけていた大切なものが隠れている本当の名曲、正に癒しの宝庫というにふさわしいといえるでしょう。






104 名前:¢ 投稿日:2013/08/18(Sun) 23:13
(°д° )
(|y |)

105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/30(Fri) 21:17
SP歌謡・回顧と展望

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:08
古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される。いずれも標榜する作曲数(5000曲)や、作曲家となった年(昭和6年)も同じ。だが実際は対極にあるのだ。古関の場合、言われていることと実際には大きな乖離があるようだ。作曲家になる当たりの昭和の4、5年頃のことも楽譜など何一つ残っておらず不明な点が多く見られるのだ。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:40
歌詞をもった歌謡作品というものはクラシック作品とは違って、テクニックではないのだ。
どんなに優れていたとしても、詩と一体となって、真に心のつぶやきや、心の叫びから出たものでなければ、けっして多くの人に共感・共鳴を与えることはできないのだ。

古関の作品は決して少ないというわけでもないのだが、いいのものもあるにしてもが残念ながら全体的に、メジャ−な作品(ヒット作品)が見あたらないのだ。


108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:42
言われていることと違って、古関はヒット曲が出ないで悶々とした日々を送っていた。その頃、昭和一桁時代に《丘を越えて》、《酒は涙か溜息か》、《影を慕いて》など、「古賀メロディー」が大衆の間に圧倒的に浸透していった。 (毎日新聞社『写真 昭和30年史』参照)

「古賀メロディー」が一世を風靡する中で、昭和8年作曲家江口夜詩の専属をきっかけに、古関への風当たりもますます強くなっていたようだ。
コロムビアが古関と契約をしないということを通告してきたのである。江口夜詩の入社によって、もはや古関裕而は必要ないと判断したのである。 古関は他社に移ることもできず、招聘する社もない。



109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:48
苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。
古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。
古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。
もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったであろう。


110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/08/31(Sat) 08:51
古賀政男によって助けられた古関祐而は、専属契約打ち切り(解雇)という作曲家として最悪の危機は脱していが、ご当地ソングの行進曲、市民歌など、いわゆる、ヒット競争とは無縁の仕事すらも無くなっていた。

彼が流れに乗るまでいろいろな分野を手掛けることになる。それでも最初のヒット曲は昭和10年、音丸が歌った「船頭可愛や」位だった。だから、古関の実際のデビューは、この昭和10年と言える。だがそれ以降も苦しい立場は変わらなかった。


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